短編小説4 宗教施設潜入記(実話)
これからお話しするのは、わたしが学生時代に実際に体験した出来事です。
その頃わたしは都内の郊外にあるTという町で一人暮らしをしていて、大学が近くにあってバイト先もすぐ近くで、気ままで典型的な学生生活を送っていました。
その日も、夜からバイトが入っていたのかいなかったのかはよく覚えていませんが、とにかく午後一人で家にいてカップラーメンか何かを食べていた気がします。
ピンポーン! と部屋のインターホンが鳴り、出ると若い女性の声がこう言いました。
「総務省の方から来ました。世帯動向調査を行っております。簡単なアンケートにご協力いただきたいのですが……」
断る理由もないので、わたしは玄関に行って鍵を開けました。
ドアを開けると、若い二十代半ばくらいの女性と、四十前後くらいのおばさんがこちらに向かって満面の笑みを向けていました。
「お忙しいところご協力ありがとうございます。いえ、こういうのはどうかなと思われる方もいらっしゃるので、実はわたくしどもは聖書の教えを広めているんですよ」
「ああ、じゃあ、さっきの嘘なんですね」
わたしは割とはっきりと物を言う性格なので、若干イラつきながらそう答えました。
「ええ、申し訳ございません」
そう言って、二人揃って深々と頭を下げる。
まるで不祥事を起こした会社の記者会見のようでした。わたしはちょっと気の毒になってしまいました。
「いいです。そんなに謝らなくても。ああでもしないとみんなドア開けてくれないんでしょ?」
すると、後ろの女性が大袈裟に反応した。
「ええ、そうなんですよ。よくご存じでいらっしゃいます」
「じゃあ、立ち話もなんですから、ちょっと汚くて狭いところですが、中どうぞ」
手前側の若い女性がモロにタイプの顔だったので、わたしは部屋の中で話を聞くことにしました。宗教とか聖書に興味がなくもありませんでしたし、どういう話をして勧誘するのか、好奇心を抑えることができませんでした。
「いいんですか?」
おばさんがそう言うと、わたしは「どうぞどうぞ」と身振り手振りで中へ促した。
「じゃあ、すみません。お邪魔します」
幸い部屋の中はそうじと片付けをしたばかりで、あまりひどいことにはなっていませんでした。
ワンルームで、部屋の奥の窓際にベッド。手前右に勉強用のデスク。左側の真ん中に低い正方形のテーブルといった配置になっています。それで、そのテーブルのところに座ってもらいました。
「素敵なお部屋ですね。お一人暮らしですか?」
おばさんの方しか喋らない。
「ええ、上京して二年目になります」
「どちらから出て来られたんですか?」
「大阪です。東京に憧れがあって」
「すごいですねー。勇気があるというか、希望と夢を抱いてという感じなんですね」
おばさんは私の顔を目をうるませながら熟視し、熱を帯びた声を出す。
「いや、大学に受かって出てきただけですよ」
「それもすごい! なかなかできることじゃないですよ」
ほめられていい気分のしない人はいません。わたしの鼻の穴もつい広がってしまっていました。
「ご決断というか、一生懸命勉強して、見事難関大学に合格して、故郷から遠く離れてお一人で自立して立派に生活されている。これはお母さま、お父様もさぞお喜びになっていらっしゃるんじゃないですか」
「いや、自立なんて。バイトもしてますけど、仕送りでほとんどやってますから」
それは紛れもない事実でした。家賃光熱費に大学の学費、それに生活費もすべて親からの仕送りだけが頼りです。バイトで稼いでいるお金なんてせいぜい五、六万程度でしたから飲み会や遊ぶ金に消えていってしまっていました。
「へぇ、そうなんですねー」
と、おばさんは返答に困ったのか話を流し、膝の上に置いていた黒い鞄の中からパンフレットのようなものを取り出しました。
「こちらが我々のことを紹介した冊子になるのですが、ご覧いただけますか」
そう言ってA4七枚つづりくらいのパンフレットをわたしに差し出します。。
「キリスト教の主にローマカトリックですね。その教えをベースにしております。ですが、あれはヨーロッパ発祥のものですから、日本のこの土地に合うように修正したものがわたくしどもの団体ということになります」
たしかにハルマゲドンのことを「最終地獄」と呼び変えていたり、ノアの箱舟のことを「純血船」と書いたりしています。全体として絵が多く、字が少ない印象でした。絵は昔の劇画チックというか、ご年配の方が描いていらっしゃるんだろうなという感じでした。
「そちらの方は?」
わたしは最も興味のあった、うしろでニコニコしてしきりに頷いていた若い女性のことを訊きました。
「高橋と申します。まだまだ若輩者ですが、セイサンイのシンニョでございます」
目をみてはきはきと答え、そして土下座のような感じで頭を下げた。
「ああ、すみません。こちらこそ。Yです。C大学文学部の二年です」
そう言ってわたしも頭を下げたところで一気に空気が緩み、バイトはどこで何をしているんだとか、彼女はいるのかとかそういった話になり、わたしはどうせ知られても害のないものばかりだと思ったのですべて正直に答えました。
「なにかお悩みはありますか?」
「う~ん、どうですかね。ときどきふさぎ込むことはありますけど。なんか自分が必要とされていないんじゃないかって」
二人の女性は口元に笑みをたたえ、何度もゆっくりしっかりと頷く。
「もしよろしければなんですが、われわれの談話ルームがHにありまして、ここからだとそんなに遠くないところなのですが、いらっしゃいませんか?」
「談話ルーム?」
「ええ、談話ルームって言ってもオフィスみたいなものでして、そこに『先生』がいらっしゃるんですよ。その『先生』ならYさまのお悩みを解決していただけると思うんです」
おっと来たな、とわたしは身構えました。
「『先生』は長く厳しい修行を積まれた大変徳の高い方でして、わたしたちの些細な悩みごとなんてすぐに解決してくれるんです」
「へー、それすごいですね」
「いちどお話だけでもされていきませんか。電車に乗れば本当に近いところなので。H駅から歩いて五分もかからないです」
ついて行ったら絶対にマズいということは分かっていました。ですが、おばさんのほうはどうでもいいのですが、高橋さんが長澤まさみ似のどストライクの美人で、だからおばさんが一緒に連れて歩いているのだろうということは想像に難くないのですが、でもやはりその魅力にはかなわないというか仲良くなれたり、それ以上の関係になれたりしたらという期待を抱かずにはいられませんでした。
「あ、はい。じゃあ」
「あ、いらっしゃいますか。ありがとうございます」
おばさんが明るい声でそう言うや否や、二人は同時に立ち上がった。
「善は急げです。さっそく行きましょう」
わたしと女性二人組はわたしの自宅を出て、変な距離感のまま近くの駅まで歩き、券売機で切符を買ってH行きの電車に乗りました。
「この電車、通学で乗られてるんですか?」
高橋さんがそう訊いてきて、わたしは食い気味にこう答えた。
「いえ、普段はモノレールです。一年生の時はなかったんですけど、二年生の時にできてっていうか開通して便利だから引っ越してきたんです」
「へぇ、そうなんですね」
「高橋さんはどちらか学校とか大学通われているんですか?」
すると、高橋さんの眉間に皴が寄り、目が怖くなった。
「……いえ、大学とかは。そんな頭良くないので」
へぇ、ああ、そういうタイプか、とわたしは優越感を覚え、心の中で鼻で笑いました。
まもなく電車は終点のH駅に着き、線路沿いにしばらく歩いた先の雑居ビルの三階に案内されました。一階にはフィリピンパブが入っていて二階は小汚い不動産屋、もちろんエレベーターなんてものはありません。狭くて急なコンクリートむき出し階段を三人縦一列に並んで上がりました。おばさん、わたし、高橋さんという順番です。
パンフレットと同じ法人名が書かれたプレハブ製のドアを開け、おばさんは入っていきました。そして、パーテーションで廊下的な部分と小部屋に細かく仕切られた左奥の部屋に入るように言われました。恐る恐る中へ入ると、刑事ドラマの取調室のような感じで装飾も何も一切なく、真ん中に事務机とその手前側と後ろ側に黄緑色のパイプ椅子が二脚置かれています。
身振りで促され、わたしは手前側の椅子に座りました。
「先生がいらっしゃいますので、こちらでしばらくお待ちください」
おばさんは部屋を出て、ドアがばたんと閉まりました。
ああ、あの例の〝先生〟か。たいへん徳の高い悩み事をすぐに解決するとかいう。悩み事なんてそれこそいくらでもあるから、パッとその場で解決してもらおうじゃねえか。
たっぷり三十分以上待たされた挙句、ドアを開けて入ってきたのは三十そこそこくらいの安っぽい紺色のスーツを着た若い男でした。
「いやいやお待たせしてしまいましたね。ちょっと立て込んでまして」
バナナマンの設楽のようなさっぱりとした顔ですらっと痩せていて、白いシャツにオレンジ色のネクタイをしています。
「ええ、もう来ないかと思いました」
わたしが皮肉を口にするとハッハと口で笑い、男は手を組み合わせて机の上に置きました。
「こちらで導師をしております、二階堂ほういんと申します。セイハチイのゴイです」
「あ、はいYです。T大の経済学部二年です」
このときわたしは近くにある嘘の大学の名前と学部を名乗りました。案の定男はそれを手帳にメモっていました。髙橋さんたちには本当の大学と学部を言ってしまっていましたが、彼女たちの記憶よりこの男のメモの方が信用されるでしょう。
「T大! すごいですね。あそこは経済界でも政界でも芸能界でも有名な人がいっぱい出てる超有名大学じゃないですか」
「ええ、まあ」
実際のT大は自分の名前が漢字で書けて、繰り上がりの足し算引き算が出来れば合格できるようなところでした。ある意味、有名ではありましたが。
「さぞかし一生懸命勉強されたんでしょうね。それとももともと頭がいい──」
「すみません。悩みがあるのできいてもらえますか?」
わたしは男の話を遮って、わりと大き目な声でそう言った。
「あ、はい。なんですか?」
「悩みです。悩みを聞いてほしいんです。っていうか、実はわたし好きな女性がいまして、でもその人に振り向いてもらえないっていうか、告白しても付き合ってもらえなくて、っていうか他の女性にも全然モテないんですよ。どうしたらモテるようになりますかね?」
当時の正直な悩みでした。なにをしても、どんなことを言ってもダメで、本当にそれをなんとかできる方法があるのならという偽らざる気持ちでした。
「ああ、そういった悩みですか。いいですよ。うってつけの方法があります」
「えっ、本当ですか?」
「ちょっと待っててくださいね」
そう言って男は席を立ち、部屋を出て行きました。そして、今度は五分もしないうちに戻ってきて、その手の中には宝石箱のようなものがありました。朱色と金色のまだら模様の箱で、男の手の平くらいの大きさがあります。
「こちらをご覧ください」
向かい側の席に腰を下ろすや否や、男は箱の蓋をうやうやしく開けました。
「こちらの小さめのものがゲイオウ彫り、真ん中がキンチョウ彫り、こちらの一番大きいものがショウサンジャクです」
箱の中は金色のシルク地の布で覆われていて、その中に三つの判子が収まっていました。
「ハンコ……ですか?」
「ええ」と男はしたり顔で頷きました。「名は体をあらわすとはよくいったもので、名前にはその人の気力や運勢といったものがすべて盛り込まれています。その名前を形あるものにしたのが印鑑です。社会的に成功された方や著名人有名人なんかは、みなきちんとした立派な印鑑を持っています」
「はぁ」
「きちんとしたエネルギーの込められた自分の印鑑を持つということは、その人の運勢を大きく変えます。弊社の印鑑を作られた方はすぐに会社で成功して出世したり、長年結婚できなかった方も一気に運気が好転して半年もしないうちにご結婚なさった方もいらっしゃいます」
「はぁ。ハンコで」
「ええ、印鑑にはその人の魂が込められているいるんです。実印とかはお持ちですか?」
「いえ、まだ学生なので」
「じゃあ、ちょうどいい。これは銀行の取引や登記簿とかにも使える実印にもなりますので、一石二鳥です」
わたしはうーん、と低く唸り、腕組みをしました。
「いや、実印とかはそのうちいるとは思うんですけど、っていうかこれって三種類あるんですけど、効能とかってやっぱり大きい方があるんですか?」
顔を上げると男と目が合いました。
「いや、決してそういうわけではないんですが、作る職人にもレベルというか階位がありまして、ゲイオウ彫りはサンミの者、キンチョウ彫りはヨンミツ以上の者、ショウサンジャクはこれは日本に一人しかいないのですが、ダイゴジョウという階位にあるものが作ります。実印にするのならキンチョウ以上のものがよいと思います」
「へぇ、ちなみにお値段は?」
すると、男は顔をぴくッとさせ、軽く咳ばらいをしました。
「はい?」
「いや、だから値段ですよ」
「あぁ、…こちらのゲイオウが二十八万円で、キンチョウが五十五万、ショウサンジャクは九十九万です」
「税込みですか?」
「あ、え、いや、……税別で」
男はわたしから目を逸らし、右手でぎゅっとネクタイの結び目をつかみました。
「めっちゃ高いですねー。ハンコが九十九万円! 税込みで百万じゃないですか! この一番小さいのでも二十八万! いやー、それはちょっとー」
男は首を横に振ります。
「値段じゃないんですよ。一生モノの価値があるんです。もちろん大きい額なのは重々承知してますから分割払いっていうのもできます」
「いや、ま、値段とかじゃなくて」
「え、じゃあ何ですか?」
「ハンコで運勢開けるとかって、うさんくさくないですか? これもろテレビとかでやってる悪徳商法じゃないですか。いやいや、ハンコって!」
「いやいや、そんな……」
「なんかもう水晶とかまが玉とかならまだ、なんか見た目的にああ効能ありそうってなりますけど、ハンコって。買う人とかいるんですか?」
「いや、それ──」
「いや、びっくりしましたよ。こういうのには引っかからないようにしましょう的な学校とかで見るVTRそのものだったんで。こんなのやってる人いるんだーって。なんかすっごいある意味感動しましたね」
「知らない方には認知されていないんですが、印鑑には──」
「こういう方法でやられてるってことは、これで『はい、買います』って言う人がいるってことですよね。いや、その人がすごいですよね。心がよっぽどきれいな人なんだろうなーって、もうまったく疑うことを知らないようなまっすぐな心を持ってるピュアな人」
そこまでまくし立てたところで一瞬沈黙が降り、男の顔はもう笑っていませんでした。
「帰ってくれませんかね」
「あ、はい」と、わたしは答え、席を立って部屋を出ました。ドアを閉める時に隙間から男の顔を見ると、明らかにこちらをにらみつけていて、目の中にはわたしを殺しかねないくらいの憎悪の色が浮かんでいました。
階段を駆け下り、わたしは半ば走るようにH駅前の雑踏の中へ逃げ込みました。
[了]