長編小説2 夢落ち 8
くぐもった声で石沢が唸るのが聞こえた。
「は? お前まで何言うとんねん。やってない言うてるやろ。それともお前、俺が嘘言うてるとでも思っとんのか?」
「それ、僕の前の嫁なんですよ」
ハッと息を呑み、石沢は沈黙した。
「佳奈子っていうんですけど、お義母さんから連絡もらって、葬儀にも出て刑事たちにも話聞かれました」
「……ほんまか?」
僕は横たわったまま頷いた。
「まあ、別れてからだいぶ経ってますし、石沢さんがそう言うのなら、きっと犯して殺した奴は他にいるんでしょう」
石沢の耳に、この言葉はどう響いているのだろうか。
「それから、この人たちは何なんですか? 僕を襲って拉致したり、電話に盗聴器を仕掛けたり、えらい穏やかじゃありませんよね」
舌打ちが聞こえてきた。
「仕方なかったんや。これしか方法がないねん。お前と接触したかったんや」
「答えになってませんよ。ここの人たちは何者ですか?」
すると、うーんという低い唸り声が聞こえた。おそらく腕組みでもしているのだろう。
「それは、その…、セミナーやっとった奴らや。夢落ちの方法をふれて回っとる」
「なんでそんなことしとるんですかね? 金儲けのためですか? でも実際にできたってことはあながち詐欺でもないですよね。それに、たしかここに僕を運んできた連中は、『先生』言うてましたよ。あれって、石沢さんのことなんじゃないですか?」
頭の中で固まりだしていた考えをぶつけてみた。この男は正直に語っているようでいながら、何か重要なことを隠したり誤魔化したりしている。そんな確信があった。
しかし、返事はなかった。しばらく待ってみたが、それは同じだった。
「あっちでは僕がいなくなったって大騒ぎしてますよ、きっと。尾行まではどうか分かりませんが、事件の関係者としてれいさんも僕もマークされてた可能性はデカいですからね」
また煙草の煙の匂いが鼻を突いた。
三分から五分ほど返事を待った。だが、そこで僕は石沢の気配が消えていることに気づいた。会話の途中だったはずで、去っていくような足音も聞こえなかった。
「石沢さん?」
僕は斜め上空へ向かって呼び掛けてみた。だが、それは誰もいない空間に空しく響いただけだった。
ここはいったいどこなのだろう。急にそんな疑問が頭を過ぎった。
夢落ち。実際にそんなことが起こり得るのだろうか。夢の中に落ちる?
だいたいこれは現実なのだろうか。あるいは、おかしな悪夢を見ているだけではないだろうか。
「佳奈子?」
試しに僕はそう呼び掛けてみた。石沢がいた間、どこかに隠れていた可能性もある。しかし、やはり返事はない。
──あぁ、だめ。あの人が来る。
佳奈子は確かそう言っていた。あの人が来る?
あの人とは石沢のことで、佳奈子と石沢はホテルの部屋で会っている。あくまで石沢の話によれば、だが。佳奈子がそこに呼び出し、その本を読ませて夢落ちさせた。
もし、石沢の話が全て本当なら、佳奈子はいったい何をしていたのだろうか。僕を拉致してきた奴らの仲間で、いわば水先案内人のような役割を担っていたのか。或いは、彼らとは別にたまたまその本と夢落ちの秘密を知り、石沢に取引を持ちかけたのか。そこで交渉が決裂し、石沢は佳奈子を殺して本を奪った。──だが果たして石沢はそんなことをする人間だろうか。いくられいを愛していたとはいえ、人を殺してまで自分の願望を満たそうとするだろうか。となると、佳奈子を殺したのはこの夢落ちの秘密を握っていた組織の連中で、佳奈子の存在が邪魔になり殺したと考えるのが最もシンプルだ。彼らは夢落ちした石沢も拉致し、監視下に置いている。筋書きとしては通っている。だが、すべては憶測の域を出ない。それに死んだはずの佳奈子が、僕を射精へと導いた説明にもなっていない。
そもそも、僕は果たしてここから生きて帰ることができるのだろうか。
*
そのまま十五分ほどが経過した。汗が冷え始めていて、僕は次第に尿意が募ってくるのを感じていた。
このままずっと放っておかれたら、いつかは洩らしてしまうしかない。要はどれだけ我慢するのかという話になってくるのだが、もって二時間、いや一時間といったところだろうか。どうせ洩らさざるを得ないのだったら、こうして我慢しているのはまったくの無駄になる。だが、一度洩らしてしまえば──
足音が聞こえてきた。かたい革靴の立てる硬質な音。
やがて足音が止まり、ドアがノックされる。コンコンと小さく二回。
石沢はノックなどしなかった。それに、彼がこの部屋を出て行った音も聞いていない。
ドアがガチャッと開く音がして、革靴の足音が近づいてくる。
「あぁー、ひどくお待たせしてしまいました。すみません」
中年の男の低い声。声に張りがあり、声量もある。人前で喋ることに慣れた人間なのだろう。
「あぁ、こんなことして申し訳ない。まったくあいつら! ここまでやる必要なんてないし、そんな指示も出してないんですけどね」
そう言いながら男は僕の背後に回り込んで頭の後ろの結び目を解き、目隠しに使われていた黒い帯状の布を取った。その瞬間、僕はあまりの眩しさに目に鋭い痛みを感じ、じっと目を閉じたまま首を曲げて顔を俯け、痛みが過ぎ去るのを待った。
「これも取っておきましょう。人の尊厳を踏み躙る間違ったやり方です」
足首を縛っていた紐も、男はほどき始めた。柑橘系のヘア・トニックの匂いが漂ってくる。ひどく大柄な男だった。動作にいちいち重みがある。
「これでよしっと。だいぶ楽になったでしょう」
だが、男は背中の後ろで縛られた手首のロープだけは解いてくれなかった。どうやら解放する気があって来たわけではなさそうだった。
目が慣れてくると、僕は顔を上げて男の顔を見上げた。紺色のスーツを着ていて、ネクタイは艶消しの金色に近い黄色。歳はおそらく四十前後で、背は百八十くらいある。短髪にした髪を整髪料でツンツンと逆立てていて、つるっとした妙に張りのある肌。どろんとした目付きで、目と目の間が離れている。額が広く、顔の面積に比べて鼻と口が大きい。全体的にカエルやトカゲといった爬虫類を連想させる顔立ちだった。
男は目が合うと、横向きに寝転がっている僕の傍に片膝を立ててしゃがみ込んだ。
「あぁ、申し遅れました。こちらで理事を勤めさせてもらっております菅野と申します」
男は背広の内ポケットから名刺を取り出し、僕の顔の前に差し出した。
そこには 夢の家 理事 菅野正文 と記されていた。ただそれだけ。住所や連絡先といったものは書かれれていない。
僕は名刺と男の顔を見比べた。すると、男の顔にはニヤニヤとした笑みが浮かんだ。
「説明が必要ですかね。いささか長い話にはなりますが」
「…トイレに行きたいんだ。小便が洩れそうなんだよ」
僕は擦れた声でそう正直に訴えた。すると、男はパンと掌を打ち、大袈裟に目を丸くした。
「あぁ、すみません。そんなことにも気づかずに。…ええ、いま介助者を呼びますから、もうちょっとだけ我慢してください」
そう言って、男は尻のポケットから携帯を取り出し、どこかに電話を掛け始めた。
介助者?
「隣の九号棟におりましたから、すぐに来るはずです」
何か命令口調で話をした後、菅野はすぐに電話を切ってそう言った。
僕は男が手持ち無沙汰に待っている間、その部屋の中を首を曲げてぐるりと観察した。使われなくなった大学か高校の教室のようで、実際に部屋の奥には黒板と一段高くなった教壇があった。ただ椅子や机といったものが見当たらず、代わりにそのだだっ広い空間の真ん中あたりに僕と菅野がいる。ところどころ間引きされた蛍光灯が天井から白い光を投げ掛けていて、閉められた窓の外では闇の中、木が強い風雨に揺れている。木の枝振りから、おそらく二階。それ以上ではないはずだ。エレベータではもっと上昇していたような気がしたが、目隠しをされていたから長く感じたのかもしれない。
ドアがノックされ、病院の入院患者が着るような白の上下を着た顔色の悪い女性が入ってきた。年齢不詳で顔の三分の一くらいを、胸のあたりまで伸びた真っ直ぐな黒い髪が覆い隠している。どこかそういう場所で遭遇したりしたら、僕はきっと悲鳴をあげていたことだろう。
「名木田という者で、介護福祉士の資格を持っております」
そう紹介されると、その女性はぺこりと小さく頭を下げた。そして、二人は協力して僕をまず寝転んだ状態から立たせた。声を掛け合い、随分苦労して僕の身体を抱き起こす。
「じゃあ、頼むよ」
ようやく二本の足で立った状態になると菅野は手を離し、女性は僕の手を取ってドアの方へと先導していった。ずっと寝転がせられていたので、いささかフラフラした。そして、どうやらこの女性に僕の排尿を手伝わせる気らしい。
「なにかあったら呼んで!」
女性がドアを開けると、後ろから菅野の声が聞こえてきた。きっと僕に対する警告の意味も込めたのだろう。妙な真似はするなよ、と。
よたよたと廊下を端まで進み、男性用のトイレの中に入った。名木田という女性も一緒についてきた。そして、小便用の便器の前まで来ると、名木田はしゃがみ込んで僕のジーンズのボタンを外してチャックを下ろし、そしてそこからおもむろに手を突っ込んだ。
「緊張しないでください。大丈夫です。馴れてますから」
トランクスの下から僕のペニスを取り出すと、彼女は小さな声でそう言った。緊張というよりかは、恥辱感のようなもので僕の頭の中は占められていた。この女性の言っている馴れているというのは、自分ひとりでは排尿できなくなった老人の世話のことを言っているのだろう。僕は老人ではないし、手首の紐さえなければ、或いは後ろ手に回されていなければ充分一人で小便くらいできる。あんたがたが意図的にそういう状況に追い込んでいるのであって、決して親切を受けているのでも何でもないのだと大声で喚きたかった。だが、僕は黙って便器の前に立ち、彼女に取り出してもらったペニスから排尿した。終わって便器の前から離れると、彼女はペニスをトランクスの中に仕舞い込み、手際よくチャックを上げて真ん中のボタンを留めた。その間、女性の顔には何の感情も浮かんでいなかった。そういうトレーニングを受けているのだろうし、きっと僕を腰の立たなくなった老人と同じように見ているのだ。
さきほどの部屋に戻ると、椅子が用意されていた。真ん中のさっきまで転がされていたあたりに向かい合わせに二脚。ウグイス色のパイプ椅子で、店の事務所で使っているものとおそらく同じものだった。
「ちょっと座りづらいかもしれませんが、ご勘弁を」
そう言いつつ、菅野は僕の後ろからついてきていた女性と目配せを交わした。すると、名木田という女性はすぐに踵を返し、部屋から出て行った。
「そちらへどうぞ」
菅野は先に左の椅子に腰を下ろし、僕に反対側の椅子を勧めた。そして、小脇に抱えていた新聞を膝の上に置き直す。
後ろ手に縛られながら座るというのは、随分窮屈なものだった。上半身をかなり反らせた状態で、肩が両脇からぎゅっと押さえつけられたような感じになる。立っているか寝転がっているかしていた方がまだ楽そうだったが、菅野はそう思ってはいないようだった。
「人は人生の三分の一を眠って過ごし、その睡眠時間の三分の一は夢を見ています」
低いよく通る声で、菅野は前置きも何もなしにそう話し始めた。
「夢の訓練法というものがあるということをご存知でしょうか?」
僕はかぶりを振った。「いや、知らない」
すると、菅野は口の端を曲げて小さく微笑んだ。
「ある事柄について意図的に夢を見ようとする行為は、夢見のための籠もり、ドリーム・インキュベーションと呼ばれていて、この行為によって夢でその答えをつかむ可能性を高めることができます。インキュベーションという言葉は、古代ギリシャのアスクレピオス神殿で行われた故事を踏まえています。この神殿で、病人は病を治す方法を教えてくれる夢のお告げを得ようとしていました」
いったい何の話が始まったのだろう。古代ギリシャ?
「まず、問題の内容を簡潔に記したメモをベッドの脇に置いておいてください。それから何か書けるものと紙と懐中電灯もですね。そして、ベッドに入る前にその問題について二、三分おさらいします。ベッドに入ったら、その問題を明確なイメージとして視覚化するよう試みます。それから眠りに落ちる際、その問題に関する夢を見たいのだと自分に言い聞かせます」
そこで、菅野は咳払いをして一呼吸置いた。
「目が覚めたらベッドからすぐには出ず、静かに横になっていてください。何か思い出せる夢がないかチェックし、できるだけ多くを思い出すよう努めます。そしてその内容を書き出してください」
そして、菅野は僕の目を覗き込み、胸の前で両手を広げた。
「たったこれだけです。少し練習すれば小さな問題に関する夢を見て、しばしば解決策を得られるようになります。そして、大きな問題についても、様々な種類の謎が夢の中で解決され得ることが分かっています。なんと言っても、二つのノーベル賞が夢から生まれたことは周知の事実です」
石沢の言っていた夢落ちのセミナーとは、おそらくこういうことを聞かされるものだろう。興味をそそられなくはないが、胡散臭いことこの上ない。
顔に貼りついた作り物の笑みを浮かべながら、菅野は話を続ける。
「じゃあ、夢の中で自分が夢を見ているのだと自覚している、こういう経験はありませんか?」
僕は曖昧に頷いた。
「ええ、そうですよね。だいたい十人中八人くらいはそういう自分で夢であると自覚しながら見る、いわゆる明晰夢の経験があると言われています。覚醒した眠り、とでも言いましょうか。そして、ご存知のように、一般に睡眠には二種類のタイプがあります。レム睡眠とノンレム睡眠です。レム睡眠とはラピッド・アイ・ムーヴメントという英語の頭文字を取ったもので、すなわち脳の活性化に伴う激しい眼球運動がある浅い眠りのことで、ノンレム睡眠とは脳も休んでいるいわゆる深い眠りのことです。人はレム睡眠時に夢を見ます。レムつまり、急速眼球運動が激しい時に人を起こすと、実に九五パーセントの人が夢を見ていたという報告があります」
ここで菅野は、やや身を乗り出し顔の前で手を組み合わせた。
その8へ続く