長篇小説3 エクスフロート2



 伊理香は先生から聞いたその本の内容を龍人に語った。
 まずこれは絶対に最後まで読むことができない本だ、と。            
 読んでいるうちに意識と記憶をなくしてしまう。だから読む場所には気をつけた方がいい。わたしなんぞはうっかり夜、行きつけにしている飲み屋の席で開いてしまったもんだからいけない。ひどい目に遭ったよ。気がついたら路地裏のゴミ置き場で、寝っ転がってたんだ。もう朝になってたよ。寒さで歯がガチガチ震えてて、風邪をひいちまったみたいで三日ばかし寝込んだよ。                       
 内容のことなんか、もちろん覚えちゃいない。どんな出だしだったかも思い出せない。でも、読み始めたら止まらなくなったようなそんな感じでね。あとでその飲み屋に行った時に親父さんに聞いてみたら、取り憑かれたように読んでたらしいよ。酒をちびちびやりながら、ずっと何時間も読み続けてたみたいなんだ。
 閉店時間になって声をかけても返事がなかったから、肩に手をかけたらしいんだ。そしたらごろんと椅子から床に転げ落ちて動かなくなった。親父さんはびっくりして救急車を呼ぼうとしたみたいなんだが、おかみさんの方が気づいて、息もしてるし顔色も悪くない、こりゃ寝てるだけだよってことになった。その後のことは詳しくは教えてくれなかったけど、まあゴミと一緒に外に出したんだろうね。
 あんたは見た感じ、えらく苦労してるみたいだな。でもちっとも生活は良くならない。貧乏からは抜け出せないってところだろ。幸いわたしはもうそういう苦労はしなくなったんだ。この本のおかげだよ。
 なぜかって?
 この本を読んだからだよ。頭がよくなるんだ。ずっとずっとよくなる。
そこらへんの奴らがみんな阿呆か馬鹿にしか見えなくなる。止まって見えるってやつだよ。考えの足らない猿かゴリラかチンパンジーか、まあそんなところだろうね。人との知恵比べじゃ話にならんだろう。騙すのも出し抜くのも訳はない。
 どうだい。読む気になったか?
 もうわたしにはいらないものだから、あんたにやるよ。
え? いやいや、これ以上読む気にはなれないね。これくらいで充分。充分過ぎるくらいだ。これ以上頭が良くなっちまったら、きっと正気ではいられないね。この日本っていう狭っ苦しい国や、国同士がいがみ合って殺し合いをしているこの世界にはいられない。馬鹿が過ぎるとでも言うのかな。今でもそうなんだが。
そうやって、先生は男から本を受け取ったそうです。
 先生は夢の中で再びその男に会われたそうです。でも男の手に本はなく、ひどく落ちぶれた格好をしていたと仰られていました。                   
 男は先生を見つけると駆け寄ってきて、本を返せと言ってくるそうです。先生はその本をいつも肌身離さず持っているそうなのですが、夢の中ではいくら探してもどうしても見つからない。そこで毎回目を覚まされるそうです。
 伊理香は眼鏡のブリッジに手をかけ、そっと位置を直した。
 佐藤さんにお願いしたいのは、その男と本を探し出すこととです。
「本はないんですか?」
 ええ、と伊理香は頷いた。
「半年くらい前になくなったと先生は仰られていました。そこからだんだんとお加減が悪くなっていって床に臥され、いま死を迎えられようとしています」
 伊理香はそこで一呼吸置き、一度伏せた後、龍人の目を直視した。
「あいつが盗んだ、と仰られていました」
「もともとその男のものじゃなかったんですか?」
「もらったものはもらったものです。先生はその本の所有者です」         
 黒いストッキングに包まれた脚を組み替え、伊理香は〝他に質問は?〟といった顔をした。
「どんな男ですか? もう少し情報がほしいですね」
 すると伊理香は、手のひらを上に広げ肩をすくめた。
「ご自分でお調べになることですね。それがあなたの仕事でしょ」
 龍人は立ち上がり、期日をきいた。
「先生が亡くられるまで。明日かもしれないし、一年後かもしれない。でも、もうそんなに遠くはないでしょうね」
 傍らのベッドには骨と皮だけのチューブにつながれた老人が横たわっていた。もう死んでいるようだったが、よくよく見るとわずかに胸のあたりが上下に動いていた。
「調べるのに金がかかる」
「おいくらくらい?」
「とりあえず百万。長引けばもっと」
「それくらいご自分で用立ててください。お金は成功報酬でお支払いします」    
「いくらくらい?」
 伊理香はその金額を口にした。
「男の生死は問いません。とにかくその本を手に入れてください」
 龍人はニヤッと笑った。そして顎に手を当てて小さく頷いた後、病室を後にした。
 廊下にはよく見ると、スーツ姿の男が何人か立っていた。彼らは龍人と目が合いそうになると、視線を逸らした。重装備をした一個師団でも送り込まれない限り、ここは大丈夫そうだった。


2023年12月09日