長編小説2 夢落ち 3



 きっと動顛し、混乱しているのだろうと思った。僕は首を曲げてゆっくりと二人のほうを振り返る。
「いったい……」
 すると、医師が腕組みをして小さく頷いた。
「ご主人。落ち着いて聞いて下さい。奥さんは首を絞められて殺されていました。死亡推定時刻は昨晩の十一時前後。……で、ですね。隠してもどうせ後で分かるでしょうから今から申し上げておきますが、奥さんはその際に、いわゆる陵辱されておったようなんですよ」
 僕は医師の顔を呆然と見つめた。
「……陵辱?」
 老人は顔を顰めてまた頷く。
「ええ。検死の結果、体内から体液が検出されました。つまり、……ええ、そういうことですよ」
 言葉を濁し、医師はコホンと渇いた咳払いをした。
「…容疑者は?」
「わたしは医者ですので、そういうことは……」
 僕は視線を移し、義母の顔を見た。だが彼女はじっと下を向き、唇を嚙み締めていた。
 暴力的に犯され、殺された。レイプされて、絞殺された。佳奈子が。
 そこで、激しいノックの音と共にドアが開き、紺色の安物のスーツを着た小太りの男が部屋に入ってきた。背が低く、くしゃくしゃに縮れた僅かな髪が海藻のように頭にへばりついている。
「赤羽署の大杉です」
 背広の内ポケットから取り出した警察章を開き、力強くそう宣言した。赤羽署?
「この度はご愁傷さまです。この度、この事件を担当するなりました。一日も早い事件解決、犯人逮捕へのご協力よろしくお願いします」
 ほとんど直角に腰を曲げ、深々と頭を下げる。
 僕と義母は思わず顔を見合わせ、横目で大杉のその禿げ上がった頭頂部を目にした。病院の霊安室にまで、刑事が踏み込んでくるとは正直思っていなかった。普通はもっとデリカシーというか、最低限のマナーのようなものはわきまえているものだろう。きっと何か明確な意図があるに違いない。
「お母様ですよね。こちらはご主人ですか?」
「いえ、元夫です。四年前に離婚しています」
 義母より先に自分でそう答えた。誤解のないようにしておきたかった。少なくとも刑事に対しては。
「ほぉ、元旦那さん。被害者の迫田さんとはいまも交流といいますか、ご関係といったものはお持ちだったんですか?」
 僕は即座にかぶりを振った。
「いえ、ありませんね。特には」
 協議離婚で、慰謝料も財産分与も何もなかった。つまり、その時点で彼女との接点は切れていたはずだった。
「じゃあ、なんで──」
「私が呼んだんです。佳奈子がこの人を呼んでいるような気がして」
 僕は元義母の顔を振り返った。初耳だった。
「その、具体的な根拠みたいなものは?」
「いえ……、ただ何となくそう思っただけで」
 すると、大杉は僕の顔をまともに見上げた。
「はぁ、第六感ってやつですか。いや、でも女性の勘は実際バカになりませんからね」
 僕の顔をじっと見ながらそう言った。だが、その返答は僕に対するものではないはずだった。──見れば見るほど不気味な顔だった。眉毛が濃く、眉間のところでもう少しで繋がりそうなのに対して、目の間がひどく離れすぎている。鼻は典型的な団子っ鼻で、下唇が分厚く、全体の印象としてはまるで深海魚のアンコウのようだった。
「ここじゃなんですから、ちょいと署までご同行いただいてお話伺えませんかね」
 その視線はずっと僕に向いたままだった。頭の髪の毛といい、そのご面相といい、なんだか可哀相に思えてきた。きっと散々苦労してきたに違いない。これだけ悪条件が重なると、ろくな人生は送れていないはずだった。
「ちょっと外で待ってて。私もまだここに着いたばっかりなんだ」
 ぞんざいな言い方をし、そう聞こえるよう声色にも気を遣った。
「あっ、そりゃ悪いことしました。じゃあ廊下出たとこで待ってますから」
 踵を返し、背中を丸めてアンコウはそそくさと部屋から出て行った。義母の顔を見ると、そこにははっきりとした戸惑いと困惑の色が浮かんでいた。無理もない。娘の遺体の傍らで、こんな会話が取り交わされるとは思ってもみなかったことだろう。
 僕は佳奈子に二、三歩近づき、右手を伸ばしてその栗色の美しい髪を撫でた。医師から何か言われるかとは思ったが、老人は押し黙ったままだった。
「佳奈子……」
 僕はベッドサイドに跪き、もっとよく見えるよう顔を寄せた。
 目を閉じた美しい穏やかな顔だった。まるで死んでいるようには見えない。心地よく眠っているようにさえ見える。顎ぎりぎりのところまで布が掛けられているのは、きっと首の扼殺痕を隠すためだろう。きっと絞められた部分が赤黒く変色しているのだ。そんなもの確かに見たくはない。
 四年前の記憶のままだった。少しも歳を取っているようには見えない。佳奈子は相変わらず佳奈子のままで、透き通るような白い肌とまるで少女のような整った幼い顔立ちが、僕の心を容赦なく締めつけた。

 四年前のあの日、僕は仕事が休みで、遅くに起きてきて二人で向かい合って朝食をとっていた。
「別れてほしいの」
 トースターで焼いたパンに、ジャムを塗っている時だったと思う。
「ん?」
 聞こえていたが、聞き間違いかもしれないと思ってそう訊き返した。
「だから、別れましょうって」
 どうやら聞き間違いでもないらしい。
「なんでや? 理由は?」
 間髪を入れず、僕はそう問い返した。
「私はあなたにふさわしい人じゃないと思うの」
 もちろん、咄嗟には意味が分からなかった。彼女の顔を呆然と見つめたまま、僕は必死に頭を回転させた。
「ふさわしいって……」
 そうとしか言い様がなかった。どう訊けばいいのかも分からない。
「わたしはあなたが考えているような人じゃないの」
 僕は手を伸ばし、冷めたコーヒーを一口飲んだ。
「それは……、浮気をしとるっちゅうことなんか?」
 すると佳奈子は静かにかぶりを振った。
「そういうことじゃない」
 僕は口の隙間から息をもらし、呼吸を整えようとした。
「だったら、どういうことや。俺がアホなんかもしれへんけど、理由がちょっと思いつかへんのや」
 テーブルに肘を着き、佳奈子は両手で頭を抱え込んだ。
「……分かってよ。…ねぇ、分かって」
 幽かな声で、そう呟いているのが聞こえた。その時、自分が彼女を失おうとしていることを初めて実感した。ここで誤った対応や返答をすれば、僕は佳奈子を永遠に失ってしまう。
 僕は必死に寝起きの頭を巡らせ、正しい解答を導こうとした。しかし、考えれば考えるほどよけい分からなくなってきただけだった。
「すまん。分からん。悪いけど、何があったんかちゃんと話してくれへんか?」
 佳奈子からの返事はなかった。テーブルの上で頭を抱え込んだまま、顔を上げなかった。
 立ち上がり、サイドボードの上から煙草とライターを取ってきて、佳奈子の前に座り直して火を点けた。呼吸を整えるように煙を吐き出すと、気分がいくらか落ち着いてきた。あまりにも唐突なことだし、きっと佳奈子は生理か何かで一時的にそういう最悪の気分になっているだけなのだろう。時間が経って落ち着けば、自分でも何であんなこと言ってしまったんだろうと後悔するに違いない。
 コーヒーを飲みながら煙草を一本吸い終わると、僕は立ち上がって彼女の肩に手を置きこう言った。
「きっと疲れてるんやろ。今度どっか旅行にでも行こう。休み取るようにするから」
 しばらく連休を取っていなかった。結婚してから旅行に出かける機会も減っていた。彼女のストレスに対して、僕の配慮が足らなかったのかもしれない。
 それでも佳奈子は顔を上げなかった。ずっと文字通り塞ぎ込んだままだった。僕はそんな彼女の背中を見て溜め息を吐き、バスルームへとシャワーを浴びに行った。
 その日はお昼から友人と会う約束をしていて、夜の十時過ぎくらいに帰ってくると、佳奈子がいなくなっていた。
 しばらく実家へ帰ります。
 リビングのテーブルの上にはそんな書き置きが残されていた。
 どうやら、対応を誤ったようだった。
 彼女が家から出て行ってしまった。きっと、僕はとんだ間違いをやらかしたのだ。
 それからずっと、佳奈子は帰ってこなかった。別居が長引くにつれ、彼女が何を考えているのかますます分からなくなっていった。もちろん彼女の実家にも何度も足を運び、義母を交えての話し合いも続けたが、僕らの間に横たわる溝を埋めることはできなかった。
 その間、何度もあの日をシュミレーションし、果たして正解が何だったのか導き出そうとした。つまりもし、あの日出かけていなかったら、もっとちゃんと話し合えていたならこんなことにはならなかったのではないか、と。しかし、今となっては言い訳にはなってしまうのだが、あの日僕が会っていたのは五年ぶりくらいに会う高校時代の友人だった。千葉の松戸に転勤になって、大阪からこっちに引っ越してきたばかりだった。学生時代には僕が夏や春に帰省した際、連絡を取って一緒に飲みに行ったりしていた。最後に会ったのはたしか三年生の九月だった。ニューヨークで世界を震撼させたあの事件のあったときだった。あの日も僕らは京橋で飲んでいて、友人の携帯に入ってきたニュースで飛行機がビルに突っ込んだらしいということを知った。──僕はそれでも、出かけるべきではなかった。前々から約束していた友人には不義理には当たるが、ちゃんと家に残って彼女と向き合っているべきだったのだ。しかし、いくらそう思ってみても時間を巻き戻すことはできない。それに、あのとき佳奈子にどう声を掛けたらよかったのかも、僕は未だに分かっていない。それとも、頭を抱え塞ぎこんでいる彼女の前に座り、顔を上げるまでじっと見守り続けるべきだったのだろうか。
 結局そのまま半年ほどが経過し、僕らは離婚に至った。三年半の短い結婚生活は失意のうちに幕を閉じた。どうしてそうなってしまったのか、本当によく分からない。要するに、きっとそこに最大の原因があるに違いない。

 義母に葬儀の日程を確認し、霊安室を出ると、廊下にはアンコウと二十代後半くらいの背の高い若者が待ち構えていた。馬のような面長の顔に、五分刈りの坊主頭。黒いペラペラのスーツに筋肉質の身体を無理やり押し込んでいて、眼光の鋭さからすぐに刑事と分かる。
「いやぁ、待ちましたよ。旦那さん」
 坊主頭とアンコウの顔を代わる代わる見比べる。間違いに気づいてはいたが、わざわざ訂正するのも面倒だった。
「さあ、行きましょう。こんな時に気が乗らないとは思いますが、わたしらもこれが仕事なんでね」
 アンコウの顔をまともに睨みつける。
「それは、疑われてるってことですかね?」
 するとアンコウは、小さく鼻をフンと鳴らした。
「いやいや、まあそういうわけ──」
「私は佳奈子の元夫ですよ。レイプして殺すわけがない」
 すると、坊主頭が割って入ってきた。
「元夫だからこそ疑われるんですよ。分かりますか。なにもやましいことがなければ、素直に聴取に応じればいい」
 威圧するように、上から低い声を浴びせかけられる。すると、アンコウが坊主の脇腹を小突いているのが見えた。
「いやいや、型通りのもんですよ。関係者全員から取るんです。あなただけが特別ってわけじゃない」
 それが口から出任せの嘘だということは分かり切ってはいたが、アンコウはどうやらそれで押し通すつもりらしかった。
「仕事を抜け出してきてるんです。すぐ職場に戻らなくちゃいけない」
「そんなもの、電話で連絡すりゃあ済むでしょう」
 坊主頭がこともなげにそう言い放つ。
「いやいや、あたしらもね、これが日本という法治国家から授けられたしがない役割なんですよ。平穏な日常生活を壊した憎い悪者を捕まえなくちゃ、夜も安心して寝られないでしょう」
 アンコウが割り込む。まるで下手な漫才でも見ているようだった。ノッポとチビの見え透いた掛け合い。オチをどこへ持っていこうとしているかなんて、端から分かり切っている。
「昨日の晩なら寝てたよ。一人で酒飲んで寝てた」
 アンコウは、尻のポケットから慌てて手帳を取り出した。
「…んと、寝始めたのは何時頃だか覚えてます?」
 手帳にペンを走らせつつ、アンコウは僕の顔を覗き込む。どうせ覚えていないと言っても、思い出せと言われるに決まっている。
「確か十時半かそこらだったと思います。休みの日は早く寝るようにしているんです」
「じゃあ、死亡推定時刻の十一時には寝ていた。それで間違いありませんか? それから、誰かそのことを証明なり証言できる人は?」
 僕はわざと大袈裟な溜め息を吐き、かぶりを振った。
「いや、だから一人で寝てたって言ってるでしょ」
 アンコウは振り返り、不満げな顔を隠そうともせず坊主と何か目配せを交わした。
「もういいですか? 本当に戻らなくちゃいけなくて」
「いやいや、こっちも亡くなられた奥さんのこととか交友関係だとか、色々お訊きしなくちゃいけない。こんな立ち話で済むような話じゃないんです」
 僕らはしばらくの間、無言で睨み合った。
「ご主人、ちなみにご職業は? どちらかにお勤めで」
「本屋。文生堂っていう書店チェーン」
 僕は即答した。
「あぁ、文生堂。知ってますよ。王子の駅前にもある。よろしければお名刺か何か頂戴できますか?」
 財布から名刺を取り出し、無造作に差し出した。
「ほぅ、木崎さん。変わった名前ですね」
 そうだろうか。それほど珍しくもないだろう。きっと、とにかく何か言わずにはいられないのだ。
「任意でご同行いただけないのなら、会社にお願いする形になるかもしれませんね」
 何を言っているんだ、こいつは。本部の部長だか専務あたりを呼び出して、僕が事情聴取に応じるよう上から圧力をかけるとでも言うのか。



4へ続く


2023年01月19日