長編小説2 夢落ち 17
ポケットから煙草を取り出し、くわえて火を点けると、石沢はいかにも上手そうに目を細めて煙を吐きだした。そして鞄の中から水のペットボトルを取り出す。
「のど渇いたやろ。これ、やるわ」
ペットボトルをこちらに放り投げてくる。僕は慌ててそれを両手でキャッチした。
「すんません」
僕は礼を言ったつもりだった。
「何がや?」
「いや、だから水いただいて」
すると、石沢は舌打ちをして濃い煙の塊を吐き出した。
「お前はいつもそうやってすぐ謝る」
「はい?」
「心にもないのに、謝ればすべて赦されると思ってんねやろ」
僕はとりあえずペットボトルの蓋を開け、中の水を一口飲んだ。ここは落ち着く必要がある。
「そんなこと思ってませんよ。何言うてるんですか」
水の効果もなく、つい言い返すような口調になってしまった。
「お前なあ、自分が何したか分かってんのか?」
いったい何の話だ。この男は何を言い出したのだろう。
「何もしてませんよ。だから、何のこと言うてるんですか」
石沢は俯き、溜め息交じりに口と鼻から煙を吐き出す。そして、僕がその様子をじっと見ていると顔を上げて目が合った。
「あれなあ、あのホテルで殺された女、あれ俺の前の嫁はんやねん」
えっ? と言った切り、僕は二の句が継げなかった。襲ってきた狼狽を隠すことはできなかった。そして、石沢の目にははっきりとした憎しみの感情が籠もっていた。
「お前、さっきから嘘言うてるやろ。お前、佳奈子と関係しとって、嫁さんと別れるとか別れへんとかそういう話がこじれて殺したんやろ」
僕はあまりにも驚きすぎて、何も言葉が出てこなかった。
「カメラにも映っとったしな。あれ、お前や。誰がどう見てもお前や」
煙草の先を床に擦り付け、石沢は立ち上がった。
「しっ……、し、知りませんよ。ほ、ほんまですって」
「嘘言うなや。あぁ?」
こちらに急に近づいてくる。僕は咄嗟に松葉杖を持って立ち上がろうとした。だが、松葉杖は飛んできた石沢の足に蹴り飛ばされ、部屋の隅に転がった。
「けっ、警察に引き渡せばよかったじゃないですか。そんな、思ってるんなら」
膝を曲げて前にしゃがみ込み、僕の顔を睨みつける。
「は? 警察なんて、んなもんあかんよ。有罪は確定やろうけど、そんな長くて五年もお勤めしたら終わりや。そんなもんで俺の腹は収まらへんねん」
「だから、やって──」
最後まで言うことはできなかった。頬に強烈なストレートを叩きこまれたからだ。
口の中を切って、血反吐交じりの涎を垂らしながら僕は床に転がった。すると、今度は背中に蹴りが飛んできた。
暫時、息が止まり、ゴホッゴホッと咳き込みながら僕は喘ぎ声を洩らした。
「ここか! 痛いのここか!」
右脚を足の甲で蹴り始めた。幸い患部からは外れていたが、蹴られるたびに衝撃で腰の部分にも強い痛みが走った。
ハァハァと荒い息を洩らしながら、石沢はしばらくの間思い切り僕の身体を蹴り続けた。
「死ね! 死ねや、こらぁー!」
最後に僕の後頭部を蹴り上げると、石沢は倒れ込むように床に転がった。途中から痛みの感覚が麻痺してきて、自分がどうなっているのかよく分からなくなってきていた。失神しかけていたのだろう。
石沢はやがてよろよろと立ち上がり、床に置いてあった鞄の方へと近づいていく。そして、屈み込み、鞄の中から何かを取り出しているようだった。壁に映った黒い影から、僕にはそう見えた。
足首が摑まれ、皮膚に硬いロープの縄が喰い込んでくる。
「命だけは助けたるわ。あとはお前次第や」
肩を持って後ろ手に回され、手首にも強くロープが巻きつく。
「好きにせぇ、ボケ!」
そう吐き捨てるように言うと、ベッ! と床に唾を散らした。
芋虫のように転がっている僕を尻目に、石沢は鞄を摑んで小屋を出て行った。ギィィという音を立ててドアが閉まると、後は何も聞こえなくなった。
暫くすると、全身に痛みがじわじわと襲ってきた。特に痛いのは右腰の部分だったが、蹴られた箇所全てが脳に異常を訴えるかのように劇烈に痛みだし、身体がバラバラになりそうだった。
縛られた腕を背に仰向けに横たわっていると、天井からぶら下がったランプが微かに揺れているのに気づいた。隙間風でも入ってきているのかもしれない。
もう右脚は使い物にならないだろう。一生松葉杖か車椅子になったとしても不思議はない。あれだけ痛んだ脚を酷使し、石沢には狙って蹴り続けられた。本来、寝ているかじっとしてなければいけないところを、長時間山歩きをしてリンチに遭ったのだ。車にはねられた人間のすることではない。でも、蹴り続けられたおかげで、もはや身体のどこが痛いのかよく分からなくなってきていた。どこも痛いから、相対的に右脚の痛みに関しては後退したように感じなくもない。
そのまま一時間ばかし、じっと床に横たわっていた。このまま餓死するのだろうと思った。身体をエビのように動かせば、何とか床を少しずつ移動できなくもない。石沢がドアに鍵をかけた音もしなかったから、おそらく押せば開くだろう。しかし、辺りは数キロ先まで鬱蒼とした森の中だ。大声を出したところ人なんているわけがない。どこか人気の登山スポットなら通り掛かる人もいるのだろうが、道もろくに出来ていなかったし無意味な期待を抱くのはよくない。
床には先程石沢からもらったペットボトルが転がっていた。キャップが閉まっていなかったために中の水は粗方こぼれ出ていて、底の方にちょこっと残っているだけだった。たまたま顔の近くにあったから、上半身を揺さぶって首を曲げ、白い口の部分をくわえ込んだ。そして身体を仰向けに戻して上を向くと、中の水が口に流れ込んできた。鼻から息を吐き、いくらか噎せながら僕はその水を飲んだ。桃の缶詰のような、ひどく甘い味がした。味覚もやられておかしくなっているのかもしれない。
三時間あまりが経過すると、次第に死を意識するようになってきた。まずはじめに喉が渇き始め、一日も経てば空腹感も募ってくるだろう。夕方に食べた蕎麦が腹に残っていたからまだ実感こそ湧かなかったが、暗い想像が脳の中を侵食し始めていた。
喉が渇き始めたらきっと、水のこと以外に考えることはできなくなるだろう。朝外に出れば、地面の草に付いた朝露でも吸うことができるかもしない。だが、地面との間に段差があったから、おそらく二度と小屋には戻って来られなくなる。外に寝転がっていれば、虫やら蛇やらも寄ってくるし、熊か野犬が襲ってくる可能性もあるだろう。それに雨が降ってきたらアウトだ。ずぶ濡れになるしかない。
そこまで僕が考えた時、唐突に小屋のドアが開いた。
「あなた、大丈夫ですか?」
大柄なグレーのスーツを着た男が、ドアの前に立っていた。僕ははじめ、自分が幻覚を見ているのだと思った。あまりにそんな願望を抱き過ぎたせいで、ありもしない幻を頭が勝手に作り出したのだろうと。
「あの男はわれわれが捕まえて処理しましたから」
白のシャツに黄色のネクタイ。短い毛をムースか何かで逆立てていて、鼻と口が大きい。目と目の間がひどく離れている。
「…処理?」
「ええ、ひどく暴れたので」
ひどく歯切れのいい声だった。あの男とは石沢のことだろうか。
「あぁ、お怪我をなさってるのですね」
見れば分かるだろうと思ったが、男の視線は部屋の隅、松葉杖の方を向いていた。
「……車にはねられたんだ。脚の骨を折った」
僕は多少大袈裟に言った。説明するのが面倒だった。
「それは災難でしたね。あれ、そのロープは?」
さっきから見ていただろうに、今気づいたかのような表情を男は作った。
「縛られてるんだ。解いてくれないか」
僕は素直に頼んでみた。どこかおかしな男だとは思ってはいたが、善意の人である可能性も捨て切れない。
「ええ、もちろん。こいつはひどい。人の尊厳を踏み躙っている」
男はそう言ってスーツの裾を気にしながらしゃがみ込み、手際よく手首と足首の縄を解いてくれた。いやに手馴れているように見えた。きっと気のせいだろう。
「これでよしっと。だいぶ楽になったでしょう」
腋を下から持ち、男はまるで人形を扱うように壁に僕の背中を凭せ掛けた。柑橘系の整髪料の匂いが鼻をつき、全身の痛みも伴って僕は一瞬顔を顰めた。しかし、実に軽々とした動作だった。力が身体中に漲っているといった感じで、この男にかかれば確かに石沢などひとたまりもないかもしれない。
「こちらに来られる前、駐車場付きの白い建物をご覧になったでしょう。あれが我々の施設です」
男は片膝を着き、僕の前にしゃがみ込んだ。
「あぁ、申し遅れました。わたくし菅野と申します」
男は背広の内ポケットから名刺を取り出し、僕の顔の前に差し出した。
そこには 夢の家 主幹 菅野正文 と記されていた。ただそれだけ。住所や連絡先といったものは書かれれていない。
僕は名刺と男の顔を見比べた。すると、男の顔にはニヤニヤとした笑みが浮かんだ。
「説明が必要ですかね。いささか長い話にはなりますが」
僕は床に転がっていた空のペットボトルに手を伸ばし、底にほんの少しだけ残っていた水を飲み干した。座っていると、いくらか楽だった。蹴られた箇所の痛みも少しずつ引いてきている。
「人は人生の三分の一を眠って過ごし、その睡眠時間の三分の一は夢を見ています」
低いよく通る声で、菅野は前置きも何もなしにそう話し始めた。
「夢の訓練法というものがあるということをご存知でしょうか?」
僕はかぶりを振った。「いや、知らない」
すると、菅野は口の端を曲げて小さく微笑んだ。
「ある事柄について意図的に夢を見ようとする行為は、夢見のための籠もり、ドリーム・インキュベーションと呼ばれていて、この行為によって夢でその答えをつかむ可能性を高めることができます。インキュベーションという言葉は、古代ギリシャのアスクレピオス神殿で行われた故事を踏まえています。この神殿で、病人は病を治す方法を教えてくれる夢のお告げを得ようとしていました」
実に流暢な語り口だったが、ほとんど頭に入ってこなかった。古代ギリシャ? いったいこの男は何の話を始めたのだろう。
「まず、問題の内容を簡潔に記したメモをベッドの脇に置いておいてください。それから何か書けるものと紙と懐中電灯もですね。そして、ベッドに入る前にその問題について二、三分おさらいします。ベッドに入ったら、その問題を明確なイメージとして視覚化するよう試みます。それから眠りに落ちる際、その問題に関する夢を見たいのだと自分に言い聞かせます」
そこで、菅野は咳払いをして一呼吸置いた。
「目が覚めたらベッドからすぐには出ず、静かに横になっていてください。何か思い出せる夢がないかチェックし、できるだけ多くを思い出すよう努めます。そしてその内容を書き出してください」
そして、菅野は僕の目を覗き込み、胸の前で両手を広げた。
「たったこれだけです。少し練習すれば小さな問題に関する夢を見て、しばしば解決策を得られるようになります。そして、大きな問題についても、様々な種類の謎が夢の中で解決され得ることが分かっています。なんと言っても、二つのノーベル賞が夢から生まれたことは周知の事実です」
僕は口の中に溜まってきた唾を、ゴクリと音をたてて呑み込んだ。喉の奥に微かな痛みを感じた。
顔に貼りついた笑みを浮かべつつ、菅野は話を続ける。
「じゃあ、夢の中で自分が夢を見ているのだと自覚している、こういう経験はありませんか?」
僕は曖昧に頷いた。
「ええ、そうですよね。だいたい十人中八人くらいはそういう自分で夢であると自覚しながら見る、いわゆる明晰夢の経験があると言われています。覚醒した眠り、とでも言いましょうか。そして、ご存知のように、一般に睡眠には二種類のタイプがあります。レム睡眠とノンレム睡眠です。レム睡眠とはラピッド・アイ・ムーヴメントという英語の頭文字を取ったもので、すなわち脳の活性化に伴う激しい眼球運動がある浅い眠りのことで、ノンレム睡眠とは脳も休んでいるいわゆる深い眠りのことです。人はレム睡眠時に夢を見ます。レムつまり、急速眼球運動が激しい時に人を起こすと、実に九五パーセントの人が夢を見ていたという報告があります」
ここで菅野は、やや身を乗り出し顔の前で手を組み合わせた。
「脳活動において、脳波の位相が揃うことをコヒーレンスといいます。コヒーレンスはレム睡眠時には一般にやや低下するのに対して、明晰夢の場合はそうならないことが分かっています。例えるならばレム睡眠時の脳活動は、パーティーですべての客がいっせいに話をしているような状況です。それが明晰夢の場合は、パーティーの客同士が話を交わすので背景の雑音は少なくなるというわけです。明晰夢を自分が思うままに見ることはできませんが、その頻度を高めることは可能です。つまり、その方法とは一日に何度も『自分はいま目覚めているのか』と自らに問い掛けることです。この習慣が深くしみ着いてくると、夢の中でもこの問い掛けをしていることに気づきます。その時点で夢を見ていることを自覚する度合いは急速に高まります。それから現実性の確認の手段として、鏡を覗き込んだり、短い文を繰り返し読むといったことを頻繁に行うよう努めてください。夢においては、我々の姿はしばしば変わって、書かれた言葉を読み取ることは極めて困難です。このような習慣を睡眠時に持ち込んでリアリティーをチェックすれば、自分が現在夢を見ていることに気づくことができます」
菅野はここまでを一気に一息に話した。一言一句が頭に刻み込まれているといった感じで、微塵も詰まったり言い淀んだりしなかった。
「そういう夢を見たからといって、どうなるものでもないだろう」
相手の話に呑み込まれないよう、僕はそう言い返した。だが、どうやらそれは想定された質問だったようだ。
「いえいえ、たとえば悪夢障害に悩む人にとって、自分の夢をコントロールすることを学ぶことが唯一の改善方法であることが分かっています。悪夢の最中に自らの認識性を高めることによって、夢の内容から感情的な距離を置けるようになるからです。明晰夢に十分熟達すれば、恐怖のシナリオを避けるよう夢の内容を自分でコントロールすることすらできるようになります。それから、そういったセラピーへの応用だけでなく、複雑な運動の学習を容易にする効果もあります。というのは、夢では通常ありえないどんな行動もとれます。空も飛べるし、壁を抜けたり、ものを消したりもできる。すなわち、運動選手は走り高跳びなどに必要とされる複雑な運動の手順を適切な明晰夢によって練習すると、より素早く習得できるというわけです」
夢の中で走り高跳びの練習?
菅野は顔の前で組んでいた手を解き、掌を僕の方に向けた。
18へ続く