長編小説2 夢落ち 1
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僕らが初めて出会ったのは、大学生の頃のことだった。もう果てしなく遠い昔のことのように思える。
当時住んでいた下宿先のアパートの近くで、ビデオ屋があった。ある日、その店先にアルバイト募集の張り紙を見つけた僕は、レジにいた店員に声を掛けた。
「じゃあ、エントリーされますか?」
その時レジに立っていたのが石沢で、僕はその場で紙に名前と住所、連絡先を書かされた。そして、後日履歴書を持って本社で面接とテストを受け、一週間後くらいには働き始めていた。
石沢は歳も学年も二つ上だったが、出身がお互い関西ということもあってすぐに仲良くなり、そのうちプライベートでも遊びに出かけたりするようになった。
「お前は、ほんま頭ええのう」
事あるたびごとに、石沢は僕をそう言って褒めた。
「そんなんちゃいますよ。石沢さんに比べたら僕なんてカスみたいなもんですやん」
実際、こんなに頭が切れる人に僕は会ったことがなかった。それまでもそうだったし、社会人になってからもそうだ。特に喋るのがずば抜けて上手く、テレビにでも出れば人気が出るのではないかといつも思っていた。こんな才能を埋もらせておくのはもったいない、と。だが、石沢はそういった考えは持ち合わせてはいないようだった。つまり、彼の志向は常に経済と金儲けに向かっていた。日経の朝刊と夕刊を取っていて、経済誌をいくつも隅々まで熱心に読んでいた。医療機関向けの金融会社に就職した後も、夜間の大学院に通って経済の勉強をし続けていた。僕はといえば、卒業してから一年ほどアルバイトで生計を立て、その後大手の書店チェーンに就職した。石沢とは比べようもないが、本に囲まれて仕事をするというささやかな希望は一応叶ったことになる。
誰もがそうであるとは思うが、社会人になって朝から晩まで働き始めると、僕らは自然と疎遠になった。会うのが半年から一年置きになり、電話やメールの回数も減った。そんな関係を僕らは細々と十年ほど続け、その間に僕は結婚して三年後に離婚し、彼は取引先の産婦人科の女医と交際を始めた。石沢よりも七つ年上で、群馬の高崎で開業医をしているということだった。
「へぇ、美人ですか?」
僕がそう訊くと、石沢はこう答えた。
「ああ、とびきりな」
石沢の交際相手とは、それまでにもたびたび会ったことがあった。学生時代には厚木の看護士。社会人一年目には、ホテルに勤める品の良い女性。皆、美人で石沢の個性的な性格や能力に強く惹かれているようだった。
厚木の看護士の時には、彼女のアパートへ遊びに行ったこともある。
「早く別れたほうがいいですね。まともな男じゃない」
石沢がトイレに立った際、僕は彼女にそう言った。
彼女は笑ってこう答えた。
「分かってる。そんなの、分かってる」
少なくとも、女性を大切にするとか、そういった趣向は持ち合わせていない人だった。大した興味は持っていない。極端な言い方をすれば、余興のようなもの。この人に振り回されても不幸になるだけだろう、と。
彼女が僕の忠告を受け入れてくれたのかどうかは知らないが、石沢はその彼女といつの間にか別れていた。ある日、ホテルでマナー講師を勤める別の彼女の話を始めていたから。家に呼ばれていったら、ものすごい豪邸で吃驚したとかいう話をぺらぺらと捲し立てていた。厚木の彼女はどうなったのか非常に気になったが、敢えて訊かないでおいた。つまり、別れたのだろうと僕は勝手に理解した。
「なぁ、木崎、俺、結婚するかもしれへんわ」
「はい?」
半年振りくらいにかかってきた電話で、いきなりそう言われた。僕ははじめ、冗談だと思った。
「せやから、結婚したくなったっちゅうこっちゃ」
「誰とですか?」
「取引先の女医や。自分でもよう分からんくらい惹かれとる」
そんなセリフを石沢の口から聞くとは、夢想だにしていなかった。
「はい? なんて?」
驚き過ぎたせいで、多少ぞんざいな言い方になってしまったかもしれない。
「アホ。何度も言わすな。好きになってしまったって言うてるやろ」
僕は携帯を持ったまま、腹を抱えて笑った。
「ハッハッハ……! ウケますね! それ、ハッハッハ…!」
しばらく笑い続けると、電話口で石沢が黙りこんでいるのに気づいた。この人が黙りこんだのは、四年前、離婚届の立会い人の欄に署名をお願いした時以来だった。
「すんません。気悪くしたのなら謝ります」
僕がそう言っても、石沢は口を噤んだままだった。
「いま、その女医とはどうなんですか。付き合ってはいるんですかね?」
鼻息が洩れ、ゴクリと唾を呑み込む音が聞こえてきた。
「……ああ。一ヶ月くらい前からや。仕事先の人間やし、俺もアホな真似したくなかったんやけど、それでもあかんかった」
僕は思わず喉の奥で唸った。
「自分から言うたってことですよね?」
「せやな。そういうこっちゃ」
頭の中を一度整理する必要があった。つまり、今まさにこの男は恋に落ちた状態にある。三十を過ぎたいい年の男がそんな正気ではない状況下にあるわけだから、まともな判断が下せるわけがない。だから、こうして僕に電話もかけてきているのだ。
「待ったほうがええんとちゃいますか?」
「なにをや?」
「だから、その結婚とかそんなこと考えるのですよ。少なくとも、一年くらい経ってから考えるのがええと思いますよ」
「そんなん一緒やで。一年でも二年でも一緒や」
ああ、やはりそうきたか。
「一年後でも石沢さんの考えとか想いは変わらへんと」
「いや、ちゃうな。もっと好きになってるやろな。今よりもっとや。実は不安で夜もよう寝られへんねん。あいつがどっかで他の男と会っとるんちゃうやろかとか、もう考え出したらあかんな。まあ、要するに狂ってんねんな。せやから、はよ結婚して安心したいねん。結婚して一緒に住み始めたらいくらかは安心できるやろ」
そういうことか。もうそこまでいってるのなら、止めようがない。僕が何を言ったところで無駄だろう。つまり、石沢は同意を求めるためにこんな電話をしてきているのだ。
「どんな人なんですか、いったい」
逆に、純粋に興味がもたげてきていた。この女性を真剣に愛したことのなかった男を、ここまで恋い焦がれさせるとはいったいどんな女なのか。
「プロフィールとかはホームページに載っとるよ。群馬の高崎に矢島レディースクリニックっちゅう産婦人科開いとる」
「高崎ですか。えらい遠いですね」
石沢さんの自宅と会社は東京の五反田にある。普通に電車か車で行けば、二時間ちょっとといったところだろうか。
「そこらくらいまでなら、余裕で行っとるわ。首都圏全域一人でカバーしとるからな」
いったいどんな会社だろう。石沢さん以外に営業マンはいないのか。
「じゃあ、もう、プロポーズでもなんでもすりゃあええやないですか。俺に相談も何もないでしょう」
「するよ。それに誰が相談なんて言うた?」
口から思わず溜め息が洩れた。
「はいはい。じゃあ、なんでそんなこと俺に言うてきたんですか」
答えはすぐに返ってきた。
「親友としてや。当然やろ。俺がお前に何も言わずに結婚すると思うか」
初耳だった。親友。そんな風に思ってくれていたのか。
「へぇ。はあ」
咄嗟に上手く言葉が出てこなかった。
「次の土曜や。新橋で会うことになっとる。指輪ももう買ってあるしな。目ン玉飛び出るくらい高いやつや」
「うまくいくといいですね」
「ああ、すまんな。ありがとう。事後報告みたいになってまうのが嫌やったからな」
この男の口から感謝の言葉を聞いたのも、この時が初めてだった。
「結果教えてくださいね。楽しみに待ってますんで」
「ああ、せやな」
だが、一週間待っても二週間待っても石沢からの連絡はなかった。僕はそのことから、プロポーズは失敗に終わったのだと結論づけた。やはり、急ぎすぎたのだ。石沢の気持ちは盛り上がっていたが、彼女のほうはそうでもなかったのだろう。
こっちから確認のための連絡をして傷口をえぐるような真似はしたくはなかったから、そのまま放っておいた。すると、二ヶ月くらい後にこんなメールが届いた。
──今週末から、一週間結婚式でグアムに行ってくる。お互いの家族とかだけでやるから、お前は無理して来んでもええわ。一応、報告や。
題名は結婚式となっていた。相変わらず、ずいぶん勝手な人だと思った。おそらく舞い上がってしまって、僕に連絡するどころじゃなかったのだろう。こんなメールを送って寄越したのも、ようやく思い出したといったところではないだろうか。
夜中の十ニ時過ぎだったが、僕は一応電話をかけた。だが、呼び出し音が鳴り続けるだけで、石沢は電話に出なかった。僕は仕方なくメールを打った。
──おめでとうございます。良かったですね。連絡ないから、てっきり振られたんやと思ってました。グアムやとさすがに行けないので、今度会ったときにでも何かお祝いさせてください。
返事はなかった。きっと忙しいのだ。結婚式の準備やら何やらで。無理もない。週末まであと三日しかないのだ。一週間休みを取るというのも、石沢にとってはかなり大変なことだっただろう。なにせ、首都圏を一人で飛び回っている男だ。係長という肩書きが与えられ、組織の中心的な歯車となっている人間にとって、お盆や年末年始でもないのに一週間の休みを取るというのはかなりの無理難題に違いない。仕事を前倒しにしたり、取引先や会社の人間に頭を下げて回って、ようやく勝ち取ったものだろう。そんな中、僕にメールで報告をしてくれたことだけでも喜ばなければいけない。
そして、関連性はないとは思うが、石沢がグアムに行っている間に辞令が出て僕は店長代理に昇進した。全く予想もしていなかったことで、僕はただただ驚いた。どうやら店長が推薦してくれていたらしい。管理職になり、残業代が出ないかわりに役職手当がつくということだった。収支としてはトントンくらいかもしれない。
翌日から数日間、辞令のファックスを見た社内の先輩や後輩から一斉に電話やメールが舞い込んできた。自分がこんなに人気があるとは知らなかった。ずっと連絡を取っていなかった人たちから電話がかかってきたりもした。昇進するということは、こういうことなのかということを身をもって実感した。
一緒に祝ってくれる人もいないから、僕は一人で祝杯をあげた。夜、一人暮らしをしている自宅アパートの部屋で、コピーした辞令のファックスを眺めながら缶ビールを飲んだ。もし佳奈子もいれば、一緒に喜んでくれていたことだろう。だが、彼女と僕は四年前に離婚していた。彼女がどんなことを言ってどんなことをするか想像しながら、缶を傾け、ビールを喉の奥に流し込んだ。電話でもしてみようかとも思ったが、止めておいた。どうせろくなことにはならない。そんなことは分かり切っている。
肩書きが変わったからといって、仕事内容が劇的に変化するわけでもなかった。アルバイトさんたちや店の棚を管理し、少しでも多く利益が出るように店を運営する。仕入れたり返品したり、フェアを組んだり。基本に忠実にいつも通りのことを着実にこなしていくだけだ。浮き足立ったり空威張りしてみても意味はない。そんなことは一銭の足しにもならない。コントロールするのではなく、マネジメントすること。その二つの間には大きな違いがある。そのことをよく意識しておかなければいけない。
*
「あの、すみません……」
売り場で品出しをしていると、白いワンピースを着た女性から声をかけられた。
「はい、何かお探しですか?」
真っ白な肌に、くっきりとした目鼻立ち。胸のあたりまで伸びた黒髪が美しい。
「いえ、探しているのは本じゃなくて……」
そう言って、彼女は恥ずかしがるような憂いを帯びた表情を見せた。歳は三十半ばといったところだろうか。
「雑誌ですか。パソコンで検索しますよ」
「うん、いえ、あの……、このお店に木崎さんって方いらっしゃいますか?」
上目遣いに下から顔を覗き込まれる。
「木崎は私ですが、何か?」
唾を呑み下しながら、僕は彼女にそう訊き返した。
「あっ! そうなんだ。うん、えっと……」
焦った声を出しながらもぎこちない笑みを浮かべ、むりやり僕に微笑みかける。僕は緊張にやや顔を強張らせつつ、じっと彼女と目を合わせていた。
「……私、石沢の妻のれいです」
「あぁ、えっ、高崎の?」
彼女の大きな目がやや潤みを帯び、首を曲げてコクリと頷いた。
「お話があるんです。いいですか?」
強い決意のこもった言い方だった。何かあったのかもしれない。右手で頭を掻き、喉の奥で小さく唸る。
「ここらへんで少し待っててください。声かけてこなくちゃいけないんで。向かいの喫茶店でいいですよね?」
下唇を嚙み、れいは無言で小さく頷く。
近くの平台にあったハタキを作業台に戻し、僕は事務所のパソコンで発注をしていた平畑に、ちょっと外出すると伝えた。
「そんなに長くはならないと思うけど。たぶん三十分くらい」
「ええ、分かりました。版元さんですか?」
僕らは出版社のことを、習慣的に版元と呼んでいる。
「うん、まあ」
咄嗟にいい言い訳も思いつかず、曖昧に濁した。そしてエプロンを脱ぎ、それを畳んで事務所の机の上に置くと、僕はれいの元へと引き返した。
「すみません。お待たせしました」
彼女は近くにあった本を手に取り、パラパラと捲っていた。
「あぁ、それですか。よく売れてますよ」
それは「笑う魔人」というタイトルの本で、書店が舞台になっている小説らしい。最近のベストセラーランキングでずっと上位に入っていて、うちの店でもかなり売れていた。
2へ続く