長編小説2 夢落ち 14
ヘリオガバラスは、膝を着いてれいの身体の傍らにしゃがみ込む。
「ミスタ、あなたは『はらぺこあおむし』という話をご存知ですか?」
持っていたナイフを振りかぶり、れいの背中の中心部に思い切り突き立てた。
「その話の主人公はちっぽけなあおむしで、あるあたたかい日曜日の朝にたまごから生まれます。あおむしはお腹がぺっこぺこで、食べるものを探しはじめます」
突き立てたナイフをそのまま手前に引き、腋の下から抜いた。そこから赤黒い血がドロッと溢れ出て、腋から臓器のような固形物がこぼれ落ちる。
「そして、月曜日、りんごを一つ見つけて食べました。まだお腹は減ったままです。火曜日、なしをふたつ見つけて食べます」
ヘリオガバラスはまたナイフを同じ箇所に突き立て、今度はそこから尻に向けて切り裂いた。そして、僕はその時、その黒い人間に影がないことに気がついた。
「水曜日にはすももを三つ食べ、木曜日にはいちごを四つ食べます。まだまだお腹はぺっこぺこで、金曜日にはオレンジを五つ、土曜日にはチョコレートケーキとアイスクリームとピクルスとチーズとサラミとぺろぺろキャンディーとさくらんぼパイとソーセージとカップケーキと、それからすいかを食べました」
ちょうど尻の割れ目のあたりから、ヘリオガバラスはナイフを引き抜いた。
「その晩、あおむしはお腹が痛くて泣きました。次の日は、また日曜日。あおむしはみどりの葉っぱを食べ、それはとてもおいしくてお腹の具合もすっかり良くなりました」
ヘリオガバラスは血の滴ったナイフを、近くに放り投げた。青色のスーパーカーのボディーに当たり、ガコッというくぐもった音がした。
「その後、あおむしははらぺこではなくなり、さなぎになり、そしてきれいな蝶になって羽ばたいていきます。そういった話です」
詳しい筋は忘れていたが、たしか子供の頃に読んだことがあったような気がする。だが、それは、人の身体を切り裂いている場所で聞くような話ではない。
「エリック・カールという人が書いた子供向けの寓話ですが、よく出来ています。実によく出来ている。欲望とはいかにあるべきかを端的に表しています」
その黒い人間は立ち上がり、ゆっくり僕の方へと歩いて近づいてきた。
「あなたはこの女と交わるべきではなかった。だが、不幸にも交わってしまった」
起き上がって逃れようとしたが、全身の筋肉が痺れ、弛緩し、悲鳴を上げることすらままならなかった。
「ミスタ、あなたにはこれから様々なことが起こります。この水神の護符をあげましょう。唾か小便をかければ蘇ります。あなたには護符のご加護があるでしょう」
ヘリオガバラスが目の前に差し出した手の中には、小さなトカゲかヤモリを日干しにしたような赤茶けた物体が乗っかっていた。僕がそれをじっと見ていると、ヘリオガバラスは黒い掌を傾けてその得体の知れない物体を僕の臍の上あたりに落とした。そして振り返ってランタンに手をかけ、中の火を吹き消した。
すべてのものが闇に落ち、小屋の中はもちろん自分の手や足も完全に見えなくなった。あの黒い人間も闇に溶け込んでいったような感じがした。だが、やがてギィという音がしてドアが開き、月明かりがその隙間から差し込んだ。
「私はあなたの味方です。それだけは忘れないでください」
ドアが閉まり、周囲は再び闇に覆われた。
僕はしばらくそのままじっとしていた。正確には、動くことができなかった。すぐそばには切り裂かれたれいの遺体があり、生温かい血や臓器の臭いが漂ってきていた。いったい何が起こったのか分からなかった。理解の範疇を遥かに超えていた。
夢の中で僕は、あの赤羽のホテルにいて佳奈子の部屋を訪れていた。そして、佳奈子と性交をしている最中に目覚め、現実にはれいと交わっていた。射精する寸前にあの黒い男が僕の身体を引っ張り、れいの顔と身体を切り刻んで殺した。どこからが現実でどこまでが夢なのか判然としない。僕は夢の中で自分が夢の中にいると気づいていた。菅野の言う明晰夢というやつだろう。じゃあ、これはいったい、今のここはいったい、夢の中なのかそれとも現実かどちらなのだろう。
あの黒い身体は、フィリップ・K・ディックが小説の中で描いていたブリークマンという火星の原住民の描写によく似ている。ヘリオガバラスという名前もそうだ。水利労組組合長アーニイ・コットに雇われていた、若いブリークマンの名前。
僕はゆっくりと右手を腰から腹に向かって這わせ、ブリークマンの置いていったものを探した。そして、ちょうどみぞおちのあたりにその乾いた小さな物体を見つけた。
水神の護符。
あなたにはこれから様々なことが起こります。あなたには護符のご加護があるでしょう。
渇いた物体をそっと指先で摑み、口の前に持っていった。
ペッと唾を吐きかける。すると、その物体は溶けてぐちゃぐちゃになり、指の間から零れ落ちた。
なんのことはない。ただの乾いた虫の死骸のようなものだったのだろう。
僕は溜め息を吐き、手を伸ばして枕の位置を少し下へずらした。
閉じたカーテンの隙間から、部屋の中に朝日が差し込んできている。欠伸をして枕の左側に置いてある携帯を手に取ると、そこには六時五分と表示されていた。
鼻から息を吐き、僕はもう一度欠伸をしてからベッドから起き出した。
洗面所で顔を洗い、歯を磨いて髭を剃る。そして、顔全体に保湿用のローションを擦り込み、指先で眉毛の形を整えてから洗面所を出た。
テレビを点け、トースターで冷凍庫で凍らせておいたパンを焼く。カップにインスタントコーヒーの粉を入れ、ポットからお湯を注ぐ。
テレビでは朝のニュースがやっていて、トヨタがここのところの円安の影響で、過去最高の営業利益を更新したと報道されていた。本屋にはまったく関係のない話だった。円安で景気が回復して人々の消費意欲が向上すれば、少しは影響は出てくるかもしれない。だが、そういった円安差益とか国際経済などはほぼ縁のない閉じた業界なので、直接的な影響は皆無だった。世界経済やグローバル化を気にしなくてもいい分、気は楽なのかもしれないが。
僕は焼きあがったパンにいちごジャムを塗り、コーヒーをすすった。
「さて、次のニュースです」男性アナウンサーは軽く咳払いをした後、そう続けた。「昨日正午過ぎ、東京都北区のビジネスホテルで若い女性の遺体が発見され、遺体の状況などから警察は殺人事件と断定し、捜査を開始しています」
そこで画面はVTRに切り替わり、ホテルの外観を見上げる映像が映し出された。
「事件のあったのは北区赤羽の赤羽プラダホテルの五階で、持っていた免許証などから殺されたのは書店従業員の迫田佳奈子さん(三二)と見られ、関係者などから身元の確認を急いでいます。遺体には背中や胸などに刃物で切りつけられたとみられる複数の傷があり、死因は失血死と見られています。警察はホテルの防犯カメラの映像や周辺の目撃情報などから、慎重に捜査を進めています」
画面は再びスタジオに切り替わる。
「さて、次はお天気です。中村さぁん」
僕は最後のパンの切れ端を口の中に放り込み、二、三回咀嚼した後コーヒーで喉の奥に流し込んだ。壁にかかった時計は六時五十二分を指している。いつもの十二分の電車に乗るためには、かなりぎりぎりの時間だった。
テレビを消して大急ぎで着替えを済ませ、鍵と財布を引っ摑んで自宅を出た時には、七時を回っていた。携帯のアラームは、なぜいつも通り六時に鳴らなかったのだろうか。設定をいじくった記憶はないのだが、不審に思って確認したら過ぎていた。その五分の遅れが響いてこんなぎりぎりの時間になってしまったのだ。のんびりテレビのニュースを見ていたからというのもある。つい何となく見入ってしまったのだ。
そしてその時、駅と自宅とのちょうど中間地点あたりにある狭い路を僕は歩いていた。
早歩きで、前方のY字路の一本に合流するあたりに差し掛かっていた。こちらが右側の優先道路で、左側のさらに細い道の方には一時停止の標識と停止線があった。間の三角形に区切られた箇所は近所の人たちの駐車場になっていて、まだ早い時間のせいか車はほぼ満車の状態で停められていた。
僕はエンジン音から、左側の道路から車が来ていることは分かっていた。だが急いでいたということもあって一時停止で停まるだろうと考え、そのまま道路に描かれている点線部分に沿ってY字路の合流地点を通過しようとした。
背後に車の気配を感じて振りかえった瞬間、僕の身体に衝撃が走り、車のボンネットの上に撥ね上げられていた。そしてフロントガラス越しに目が合い、そこには作業着のような服を着た四十くらいの男がハンドルを握っていた。その顔は驚き、唖然としているようで、自分でも何が起きているのか分からないといった表情だった。
気がつくと、地面に転がっていた。そして、右脚の付け根と腰に強烈な痛みが襲ってきた。舌が痺れ、僕は口を開けたまま、まともに息をすることすらできなかった。
人が集まってきているような気配がした。そして、口々に救急車だとか警察だとか停止表示をどうたらだとか声高に話し合っている。僕は何台かの車が頭のすぐ上を通過していっているのを感じ、その激しい痛みに耐えつつ目を閉じて道路に仰向けに横たわっていた。
やがて、十分くらい後に救急車のサイレンの音が近づいてきて、すぐ近くに停まった。顔を覗き込んできた救急隊員によって意識の確認が行われ、僕が途切れ途切れの声でそれに何とか答えると、身体を前後から抱え上げられた。
キャスターのついた担架にのせられ、そのまま救急車の中に運び込まれる。そして、痛む箇所を訊かれ、患部を固定するためかなにか知らないが、卒塔婆のような硬い木の板を身体の下に滑り込まされた。
「お名前とご住所教えてください」
抑揚のない大きな声で、救急隊員がそう呼びかけてきた。僕は自分の名前と住所を小さな擦れた声で答えた。
「ご自宅は一軒家ですかぁ」
僕は、唾を呑み込みながら頷く。
「どなたか連絡のとれるご家族の方はいらっしゃいますか」
僕は再び頭を縦に振った。
「ご自宅の電話番号教えてくださぁい」
僕は02から始まる自宅の電話番号を、吐き出すように口にした。痛みで頭が痺れたような状態になっていて、ほとんど何も考えることができなかった。
「ご家族の方と連絡とりますからねぇ」
次に警察官らしき人が近づいてきて、先程とほぼ同じ事を訊かれた。そして、最後に名刺サイズの紙を目の前にかざされ、病院での処置が済んだらここに連絡をくれ、と下の方に書いてあった番号を指し示した。
「とりあえず、ここ入れときますからね」
警察官は、僕の着ていた背広の内ポケットにその紙をねじ込んだ。
「痛いのは右脚だけですか?」
「……右脚の…つけね……腰のとこ」
そして、ようやく救急車が動き出すのを感じた。おそらく警察が引き留めていたのだろう。事情聴取ができる状態ではないと判断したようだ。
「木崎さん、これから高崎市民病院へ行きますからね」
搬送先がやっと決まったのかもしれない。受け入れ先が決まらないことには、走り出すことができなかったのだろう。
「奥さんも直接、病院へ向かわれるってことでしたから」
寝ていたところを起こしてしまい、申し訳なく思った。たしか昨日も遅くまで仕事をしていたはずだ。家に帰ってきたのは、日付けが変わってからだった。
「お仕事は何されてますかぁ?」
僕は会社員と答えた。
「勤務先にはご連絡されましたか?」
僕は小さくかぶりを振った。できるわけがないだろう。それにまだ誰も来ていないはずだ。
「大丈夫ですか。あ、でも奥さんが連絡してるか」
そんな不毛なやりとりが、十分か十五分ばかし続いた。何か声を掛け続けていなければならないというようなルールがあるのかもしれない。
病院に着き、再び担ぎ上げられて可動式のキャスターのついた簡易ベッドに移動させられると、すぐさまレントゲン室へと運び込まれた。そこで右脚と腰の部分のレントゲンを撮り、次に通されたのはMRI室だった。また寝台を移動し、耳栓を耳に押し込まれて機械の中に入っていった。耳栓をつけていてもカンカンカンカンという機械音が聞こえてきて、二十分から三十分余り高さの違う同じような音が断続的に続いた。
MRI室から出てくると、無人の診察室でしばらく待たされた。じっと横になっていると痛みは和らぎつつあり、無理に動かしたりしなければ強く痛むこともなくなってきていた。
やがてやってきた女性の看護士によって、僕は車椅子へと移動させられ、整形外科の診察室へと押されていった。
「あー、結論から言うとね、骨とかは大丈夫そう。でもね、この、骨と繋がってる部分のここのとこの筋肉、これが白くなっちゃってるのよ。だから、こっちからガーンと当たって骨がここのとこをバーンって傷つけちゃったんじゃないかなって思うのよ」
その小太りの柔道家のような感じの医者は、レントゲン写真とMRIで撮った写真をゆびで指しながら、手振りを交えて説明した。そして、病院の判が押された診断書を手渡された。そこには右股関節挫傷という病名と、三週間の加療を要するという診断が書かれていた。
「身長何センチ?」
「一七二です」
「ああ、じゃあ、奥田さん松葉杖あげて」
僕の後ろに立っていた看護士に向かって、そう指示を出す。
「薬とか出しとくから、これで自宅療養ってことでお大事にしてください」
僕は医師に礼を言い、車椅子を押され待合室へと出た。待合室の隅に車椅子を置くと、その奥田という看護士はどこからか松葉杖を持ってきた。そして僕に使い方を説明している時、横からその声は聞こえてきた。
「ちょっと、どうしたの!」
左側の病院の入り口から、れいが駆けてきていた。
「すまん、車にはねられちゃって」
息を切らし、僕の肩のあたりに手を乗せる。
「もう心臓停まるかと思ったわよ。ご主人が交通事故に遭われましたって電話かかってきて」
あぁ、そういう伝え方をするのか。
「もう、それで大丈夫なの?」
僕は、先程医師からもらった診断書を見せた。
「右脚だけだし、骨は折れてなかったみたい。だから、手術とか入院とかはしなくていいって」
れいは大きく溜め息を吐いた。
「あぁ、よかった、とりあえず。死んじゃったかと思ったわよ」
「相手の車のスピードがあんまり出てなかったんだろうね。あと、二、三十キロ出てたらきっと頭打って死んでたと思う」
すると、れいは僕の胸のあたりを拳で軽く殴った。そして、涙ぐみ、鼻を啜った。
「すまん、心配かけて」
僕は、立ち上がることもできず、そう小声で伝えた。
慣れない松葉杖で車に乗り込み、自宅に戻ってくると十時を回っていた。
激痛に悶えながら駐車場側から庭の方に回り込み、リビングの窓を開けてもらってそこから部屋の中に這い上がった。玄関側は階段と段差があるので論外だった。
松葉杖を使ってもまともに歩くことは困難だった。ちょっとでも動かすと患部に強い痛みが走り、れいに支えてもらいながら喘ぎつつ少しずつ前へ進むといった感じだった。
れいに苦労して引っ張り上げてもらい、ソファーに何とか腰掛けると、僕は自宅の電話から職場と警察に連絡を入れた。職場の方は事前にれいが事故に遭ったことだけは伝えておいてくれたようで、こちらの状況を伝えると上司は安堵の溜め息を洩らした。
「おい、もう死んだかと思ったよ。ったく、もう。こっちは本部と相談して何とかするから、しっかり治してくれよ」
僕は何度も詫びと礼を言って、電話を切った。そして、警察の方は怪我もあることだし、後日改めて調書を取るということになった。三日後にまた連絡をくれるということだった。
15へ続く