長編小説2 夢落ち 5




「フィリップ・K・ディックっていうアメリカの作家が書いた『火星のタイムスリップ』っていう小説です。その中に出てくるブリークマンと呼ばれている火星の原住民の名前ですね。それがたしかヘリオガバラスでした。若いブリークマンの青年だったと思いますけど」
 この話をどう処理していいものか、二人の刑事は判断に迷ったようだった。それが、いくばくかの失望と共に如実に表情に現われていた。
「ブ、ブ……、ブリークマン」
 坊主頭がひどくつっかえながらそう言うと、もはや滑稽にしか聞こえなかった。
「たしか棚にありますよ。持ってきましょうか」
 最近になって新装版が出ていて、棚に一冊差さっていたはずだ。
「ええ」
 アンコウが曖昧に頷いた。
 立ち上がり、僕は二人に背を向けて事務所を出た。そして、壁際の早川文庫の棚前に行き、黒い背表紙の「火星のタイムスリップ」を抜き出した。僕が自宅に持っているのは、水色の背表紙の白っぽい旧版だった。最近ディックの文庫をこの黒いカバーに替えて、売れ行きが良くなっているそうだ。前に早川の営業さんが来てそんなことを言っていた。個人的には前のカバーの方が好きだが、一般的にはこの黒いカバーの方が受けそうな気はする。シャープなイメージになったから、特に若年層には見栄えがいいのかもしれない。
 事務所に戻ると、二人は顔を突き合わせて小声で何か話し合っていた。
「これです。どうぞ」
 僕は椅子を引いて腰を下ろしながら、アンコウにその文庫本を差し出した。
「ほぅ」
 片手で本を受け取ると、アンコウはおもて表紙をじっと見つめた後、裏返して内容紹介の文を目を細めて読んだ。
「ディックは読んだことありませんか?」
「ええ、無学なもので本はほとんど読まないんですよ」
 坊主頭とまた目が合う。相変わらず無遠慮な視線だった。
「捜査にも役立つかもしれませんし、一度ダマされたと思って読んでみてください。ちょっと変わってますが、面白いと思いますよ」
 何の話をしているのか、自分でもよく分からなくなってきていた。相手が刑事だということを忘れ、本を売りつけようとしているかのようだった。
「へぇ、はあ。本屋さんがそう言うんだから、本当に面白いんでしょうね。じゃあ、買って帰って読んでみますよ」
「ちょっと待った。この本と事件がどう関係があるのか、あんたは知ってるんじゃないのか?」
 坊主頭が椅子から腰を浮かせ、僕に顔を近づけてきていた。
「いえ、どうしてそう思うんですか? そんなこと知ってたら真っ先に言ってますよ」
 アンコウが左手で坊主の腰の辺りを叩いた。坊主が振り返ると、アンコウは黙って小さく首を振った。
「そうですよね。コイツが失礼なこと言って申し訳ありません」
 芝居じみた声でそう言ってから、わざとらしく片手を持ち上げ腕時計を見た。
「ああ、もうこんな時間だ。そろそろおいとましなくちゃいけない」
 壁の時計を見ると、確かに彼らが来てから三十分以上が経過していた。
「お役に立てず、すみませんね」
 僕は事務所のドアを開けながら、早口にそう言った。
「いえいえ、この小説だけでも収穫ですよ。レジでお会計していきますから」
「ええ、お願いします」
 刑事たちが開いたドアから売り場へと出て行くと、後からレジまでついていった。
「それ、お会計」
 レジに立っていたアルバイトの葉山に声をかける。
「カバーかけますか?」と、横から訊く。
「いや、結構です。領収書だけ切ってもらえれば」
 どうやら、経費で落とすつもりらしい。捜査資料ということだ。そして、お金の遣り取りを済ませると、ひどく長ったらしい宛名を葉山に伝え、資料代という但し書きで領収書を受け取っていた。
「じゃあ、すみませんね。また何かあったらご連絡します」
 本の入った水色の袋を軽く掲げ、刑事たちは店を出て行く。
 石沢のことを僕は話すべきだったのだろうか。というより、どうして僕は咄嗟に隠してしまったのだろうか。──それはきっと直感が働いたからだろう。僕が石沢のことを話してしまえば、捜査の焦点は石沢に移り、警察は全力を挙げてその行方を追うだろう。それで、もし発見されて捕まれば、きっと犯人でなかったとしても自白やでっちあげで犯人に仕立て上げられてしまうに違いない。あの防犯カメラの映像があるし、宿泊客ではない石沢があのホテルにいた理由をきちんと説明できなければ、警察は彼を犯人と断定せざるを得ない。物証がなかったとしても、状況証拠を積み重ねて起訴まで持っていくだろう。
 その日は早番で、だいたいの仕事を七時までに終わらせ、店長の長塚に挨拶をしてタイムカードを切った。「あれ、今日は早いんだ。残ってくれてもいいけど」と、冗談とも本気ともつかない言葉をかけられたが、僕はそれを笑って受け流した。
 上着を羽織り、鞄を持って外に出ると、僕は地下鉄に乗って自宅へと帰った。飯田橋乗換えで高田馬場まで十五分くらい。駅から自宅のアパートまで十二、三分ほど歩くから、おおよそ通勤時間としては三十分といったところだった。
 馬場に着くと、駅前のコンビニで夕飯のお弁当とビールを買い、自宅へと歩きながら石沢れいへと電話をかけた。あれからだいぶ時間が経ってしまっていたし、とにかく断片的にでも石沢の消息が摑めたのだから、とりあえず報告しておきたかった。
 呼出音を五回鳴らしたところで、れいの透き通った声が聞こえた。
「木崎です。石沢さんの手掛かりが摑めました」
「手掛かり?」
 僕は携帯電話を持つ手にぐっと力を込めた。
「ええ、ホテルの防犯カメラに映っていたんですよ」
 えっ、と言った切り、れいはしばらく沈黙した。
「もしもし」
 回線が途切れてしまったのかと思い、僕はそう声を掛けた。
「聞こえてる。驚いてて、よく話が呑み込めないだけ」
 囁くような、やや震え気味の声だった。
「長い話になります。どこかでお会いできませんか?」
 そう言った後、僕は唾をゴクリと呑み下した。
「今週末の土曜日とかどうですか? 午後は病院休みですよね。よければそっちまで行きますよ」
「そんなの悪い。こっちから頼んでるんだから、ちゃんと私の方が行くべきでしょ?」
 どう答えていいものか、僕は曖昧に唸った。すると、彼女の乾いた咳払いが聞こえてきた。
「家はどこなの?」
「高田馬場です。山手線の」
「駅前に喫茶店とかある?」
「ええ、たくさんありますね。学生街ですから」
 理由になっているのかどうか定かではなかったが、とりあえずそう答えておいた。
「じゃあ、今週の土曜の三時にそこの駅でどう?」
「分かりました。遠いのになんかすみません。改札の前あたりで待ってます」
「決まり。それじゃあ」
 そう言い残して、れいは電話を切った。
 携帯電話をポケットの中に仕舞うと、僕はすっきりとしない罪悪感のようなものを覚えた。昨日、別れた元妻の葬式があったばかりなのに、自分はいったい何をしているのだろうと思った。ちゃんとした目的はあったのだが、女と逢引きの約束をしているような気分になった。それは、おそらく自分の中にそうした気持ちが幾らかなりともあるからに違いない。電話で済まそうと思えば、済ませられなくもなかったのではないだろうか。
 僕は彼女に惹かれ始めている。それは理性的にどう否定しようとも、もう間違いない事実だった。石沢さんがそうであったように、きっと僕もあの女性の泥沼のような魅力にずぶずぶと引き込まれつつあるのだ。

           *

 よく言う熱に浮かされたような、足の裏が地面から二、三センチ浮遊しているような、いわゆる地に足のついていない精神状態で僕はその週を過ごした。つまり、主に仕事をしていたわけなのだが、漫然と目の前のしなければいけないことをこなしていっている感じだった。頭では何も考えちゃいないし、注意力や集中力はこれ以上ないほど散漫だった。 
 もちろん、殺された佳奈子のことを考えてはいて、どうやら噂が勝手に回っているようで周りもそういう風に見てくれてはいた。だが、実際に頭の半分以上を占めていたのは石沢とれいのことだった。石沢は犯人でなかったとしても、この件に一枚嚙んでいるのはどうやら間違いない。だから、警察よりも早く見つけ、事の次第を問い質さなければいけない。佳奈子をレイプしたり殺したりはしていないだろうが、何らかの事情を知っている可能性は高い。そして、それはきっと失踪した理由にも絡んでいる。しかし、僕には本屋の仕事があり、会社に雇われて給料をもらって生活している以上、朝から晩まで働く必要があった。よくあるドラマや小説のように、刑事でもない人間が自由に時間を使って独自の捜査をすることは現実的には不可能だった。つまり、仕事にはそれなりに長い拘束時間というものがあり、体力も決して無尽蔵にあるわけではないのだ。
 金曜の晩、僕は仕事から帰ってくると泥のように眠った。そしてお昼前に目が覚めて蒲団から起きると、風呂場でシャワーを浴びた。頭から爪先まで念入りに洗い上げ、首筋に軽く香水をふりかけ、鏡で髪を整えた。冷凍ご飯をレンジで解凍し、冷蔵庫の中にあった残り物をオカズにしてお昼ごはんを食べ、食後にコーヒーを飲んだ。時間をかけてしっかりと歯を磨き、時計を見ると午後二時半を回っていた。
 財布と携帯をポケットに突っ込み、鞄を小脇に抱え、やや早足で駅へと向かった。鞄の中には仕事の合間に調べてプリントアウトしておいた数枚の紙が、クリアファイルに入れて仕舞い込んである。この事件と関係があるのかどうかよく分からないが、一応れいには見せておきたかった。どう判断するのかは、彼女次第ということにはなるのだが。
 改札の前に着くと、駅の時計は四十五分を指していた。周囲をぐるっと見渡してみたが、れいの姿は見えず、どうやらまだ来ていないようだった。
 改札が見渡せる柱のところに背中を凭せ掛け、雑踏を漫然と眺めながら時間が経過するのを待った。そして、三時十分を回ったところで僕はポケットから携帯を取り出し、れいに電話をかけてみることにした。ひょっとしたら彼女は、別の場所で待っているのかもしれない。だが、れいと電話は繋がらなかった。呼出音を二十回数えたところで、僕は諦めて電話を切った。電車に乗ってこっちに向かっている最中で、今は電話に出られないという可能性もある。
 キオスクで新聞を買い、柱に凭れて読みながら時間を潰した。一面からテレビ欄まで読み終えると、三時四十二分になっていた。するとそこでタイミングを見計らったかのように携帯が鳴り始めた。ポケットから取り出すと、石沢れいと画面に表示されていた。
「ごっめんなさぁい! ちょっと遅くなっちゃいそうなのよ」
 珍しく、甲高い慌てた声だった。
「ええ、まあ遠いですからね」
 僕は落ち着いて、適当と思われる答えを口にした。
「ちょっと、住所教えてくれない? あなたの家の。タクシーで行っちゃうから」
「いやいや、駅で待ってますよ。何時くらいになりそうなんですか?」
 電話を持つ手が汗ばみ始めていた。
「遅くなっちゃいそうって言ってるじゃない。だから、家に帰ってテレビでも見ながら待っててくれたらいいから、住所教えてって言ってるの」
 喉が渇き始め、心臓の鼓動が激しくなってきていた。そして、僕はひどくどもりながら自宅の住所とアパートの部屋番号をれいに伝えた。すると、それをどこかにメモしているような間が空き、夜までには着けると思うという曖昧な予測を残して電話は切れた。
 小脇に抱えていた新聞を鞄の中に仕舞い込み、僕は半ば足をふらつかせながら改札の前を離れ、駅を出た。
 コンビニに寄り、二人分のビールと飲み物、それにケーキとコンロにかけて食べる鍋焼きうどんのようなものを買った。果たしてれいがそんなものを口にするのかどうか不明だったが、店内をぐるっと見た限り一番まともそうなものがそれだった。もちろん、家に上がらない可能性もある。僕の自宅はあくまで待ち合わせ場所として設定されただけで、来たところでどこか喫茶店かファミレスのようなところへ行くつもりなのかもしれない。だが、家にそのまま上がってきて話し込むという展開も考えられなくはない。すると、やはり何か用意しておいた方がいい。石沢さんの奥さんなわけだし、家に上げるのはできれば避けるべきだが、きっと長時間の移動で疲れているだろう。むろん彼女の気持ち次第だが、家でゆっくりさせてあげたい気もする。
 自宅に戻ると、僕はさっそく部屋の片付けをし、床に掃除機をかけた。窓を開けて換気をし、部屋の空気を入れ替える。そして時計を見ると、午後四時五十五分になっていた。
 テレビを点けると、夕方のニュースが始まっていた。トップニュースは台風の接近を伝えるニュースだった。新聞にも一面で出ていて、今紀伊半島あたりに上陸しているらしい。まだ関東地方の天候にはこれといった変化は見られなかったが、これから雨風ともに強まるようだ。きのうまでの予報では首都圏に再接近するのは明日の午前中といっていたが、どうやら動きが速まったようで、今夜遅くから明日の朝にかけてに変わっていた。れいが果たしていつ来るのかは不明だが、とにかく早く帰ってもらった方がいい。あまり遅くなると台風の接近によって交通機関がストップし、明日のお昼くらいまで帰れなくなってしまうかもしれない。
 部屋の真ん中に置いてある低いテーブルの上には、ディックの「火星のタイム・スリップ」があった。刑事に話した後、書棚から探し出し、ところどころ拾い読みをしていた。
 ヘリオガバラスは、火星の水利労組組合長アーニイ・コットに雇われている使用人だった。水不足の火星では、水資源の利権を一手に握っているアーニイが絶大な権力を振るっていて、絶滅の危機に瀕したブリークマンと呼ばれる火星の原住民を使役している。アーニイはこの小説の主人公のジャック・ボーレンという電気技師を、ある経緯からひどく憎んでいる。そして、彼の抹殺を企てるのだが、そこでヘリオガバラスがアーニイに言う。
「──あのひとは、弱くて、とても傷つきやすいです。あのひとの息の根をとめることは、ミスタにはなんでもない。でも、あのひとは、護符をもっている。あのひとを愛している者から、あるいはあのひとを愛しているいく人かのものからもらったのです。ブリークマンの水神の護符です。あのひとには、護符のご加護があるでしょう」
 水神の護符というのは、以前ジャック・ボーレンがヘリで飛行中、国連の要請に従って砂漠で遭難しているブリークマン数名を救助したときにもらったものだった。小さな得体の知れない動物をミイラにしたもので、小便か唾をかけると水神が蘇るらしい。その時、アーニイを載せていたヘリも国連の指示で救助に駆けつけていたのだが、ブリークマンたちはアーニイには護符を渡さない。
「──あの頭に毛のない旦那さんはわたしたちを好いていないから。水をくれたけど、お礼の水神はあげなかったのです。あの旦那さんは、わたしたちに水をくれたくなかったから。あのひとの行いには魂が入っていない。手だけで、それをしたのです」
 もう読んだのがかなり前で話の筋はほとんど忘れかけていたが、その二つの場面が非常に印象的で、頭の中に染みのように残っていた。
 ヘリオガバラス。アーニイ・コットの使用人の若いブリークマン。
 テレビを消して床の上に胡坐を組み、鞄の中からクリアファイルに入った紙を取り出した。こちらはネットで調べて印刷したものだ。



6へ続く
2023年02月02日