短編文画(ぶんが)1 公然と異をとなえる



        1

 私が振り向いた時には、すでにその男はそこに立っていた。目が合うと、男は不服そうにこちらをにらみ付けた。私は慌てて目を逸らし、ポケットからスマホを取り出して画面ロックを解除した。
 ちょうどその時娘からラインが来て、パソコンでひらがなが打てなくなったから助けてということだった。娘はコロナによる学級閉鎖で、先週からオンライン授業を自宅の二階で受けている。

 

「もしもし、あーうーんとさ、スペースキーのとなりのとなり。カナとか書いてあるキーを押してみて」
「スペースキー?」
「真ん中の一番下にある何にも書いてない長いキー。その右の右」
「あー、これね。……押した」
「どう?」
「……ダメ。『き』って打ってみたけど、英語しか出ない」
「じゃあ、左の上の方にある全角半角とか書いてあるボタン」
「……押した」
「どう?」
「ダメだー。英語しか出ない」
「じゃあさ、いったん右上の×ボタンで消して、もう一回立ち上げ直してみて」
 オンライン授業に参加するための接続方法は前に教えてある。というか、ネットを立ち上げてホームボタンを押せば自動的につながるように設定しておいた。
「………あ、うーん、……あっ、できた! オッケー!」
「あー、よかった」
「じゃあね」
 電話は向こうから切られた。スマホをポケットにしまい、顔を上げると男はいなくなっていた。写真か動画でも撮っておけばよかった。


 自転車を駐輪場に停めてルジャースに入り、買い物リストのメモを見ながらカートのかごの中にゼリーやらみかん缶やワッフルをぼんぼん入れていく。
 牛乳の棚の前に立った時、後ろからの視線を感じて振り返ったが後ろには痩せた小柄な老人とでっぷりと太った若い女がいただけだった。
 通路の左右を見渡し、あの男の姿がないかチェックする。
 買い物リストはまだ半分も済んでいない。金は一万円しか持ってきていないが、足りるか不安になってきた。
 あの男の目が合ったときの顔が頭から離れなかった。黒い大きな不織布マスクに、深く落ち窪んだ眼。その上の漢字の一を墨で書いたような太いい眉。髪はきっちりと中分けにされていて、生え際は額の領地を押し広げるようにかなり後退している。
 ここ二週間ばかしでやたら見るようになった。ふと顔を上げたり振り返ったりすると、あの男が視界の中にいる。はじめは気のせいだと思っていたが、三回目くらいからそうは思えなくなった。
 ホイップクリームは白いのとチョコの二種類を一個ずつ欲しかったのだが、白いノーマルなものしか棚には置いていなかった。チョコホイップクリームが他にどこか別の棚に置いてあるとは考えられなかったから、私は仕方なく白いのを二つかごの中に入れた。
 ルジャースなのになんで置いてないんだよ。近くのスーパーじゃ置いてないと思ってせっかくわざわざ買いに来たのに、これじゃあ意味がない。
 ツイッターに書き込んでやろう。子供たちはチョコが好きで生クリームよりもチョコホイップの方が人気があるのに、ここの仕入れ担当者はいったい何を考えてるんだ。怠慢にもほどがある。おそらく子供のことなんて何も知らないのだろう。
 クラッカーを四箱とさくらんぼの袋とフレークときのこの山とたけのこの里をそれぞれ五つずつ、パックになったジュースを三種類六つずつかごに入れレジに行く。
 列に並び、レジに着くとレジ打ちをしていた二十代後半くらいのポニーテールの女性はかごの中身と僕の顔を見比べ、一瞬ギョッとした顔をした。どこからどう見ても中年のおじさんが、お菓子やゼリーや果物缶を大量に買い込んでいる、と。
 レジ打ちが三分ほど続き、出てきた金額は八千九百五十六円だった。一万円で足りはしたが、随分使ってしまった。あと今月の残っている現金は五千円にも満たない。月末にまとめて落ちる固定費分を除けば、もう郵貯から下ろせる余地もほぼない。
 上着のポケットの中にいっぱい詰め込んできたレジ袋を取り出し、重くて大きなものから順に入れていった。あぁ、すごい量と重さだ。これを運ばなきゃいけないと考えると、もう脚が疲れてきた。
 ルジャースを出て、両手いっぱいの荷物を自転車の前と後ろのかごになんとか詰め込んだ。鍵を開けて自転車に乗ると、荷物の重さでハンドルが取られ、ペダルはひどく重たかった。だが子供たちのためなら、こんなもの屁でもない。
 私の職業観念は常にそこにある。子供たちのためなら、どんなことでも厭わない。
 子供たちは正直で残酷だ。オブラートに包まれていない、なまのままの人。人間そのものの状態がそこにあり、彼らは賢明で非常に頭がいい。大人は知識と腕力で彼らの上に立った気でいるが、子供たちを観察していると人間の脳は年とともにどんどん退化していくということが如実に見て取れる。

 

         2

 
 重い自転車を十分ばかり漕いで職場に戻ると、私は冷蔵庫に買ってきたものをしまい込んだ。スペースが足らない分は、賞味期限切れのものや袋を開けたまま時間が経っているものをゴミ箱に処分して空けた。
 上着を脱いでエプロンを着け、伝票を書く。そして、メールをチェックした。
 あぁ、またこれか。
 中国による台湾侵攻反対デモを日曜の十三時から上野駅前でやるから、組合員は全員参加するようにというお達し。
 この前の日曜日は署名活動で半日潰れた。せっかくの休みの日なのに、なんでそんな活動予定を入れやがるんだ。せめて土曜日にしてくれよ。でも参加しないと何言われるか分かったものじゃないし、来週末のリモート会議で集中砲火を浴びるかもしれない。だったらせめて代休をくれよ、と言いたいところだが、人手が足りていないせいでそんな贅沢は言えないことも分かっている。
 参加フォームから申し込みを済ませ、スマホのスケジューラーに予定を打ち込む。
 あーあ、娘と市民の森へ行く約束をしていたのに。もういっそのこと、デモに娘も連れていくか。社会勉強になるだろうし、いい刺激にもなる。オンライン授業で鬱屈が溜まっているから、プラカードを掲げて「台湾侵攻はんたーい!」と叫び続ければストレス発散になるかもしれない。
 子供を連れてくる人は実際多い。ニュースでも子供が映っていると絵になって拡散されやすいし、悪事を糾弾している感も強まる。飽きてこないかが心配だが、逆に子供連れであることを理由にして中抜けしてくればいい。さらに事前に口裏を合わせておいてお腹が痛くなったとか言わせれば、誰も「おいおい、それはちょっと…」とは言えないだろう。
 あぁ、めんどくさい。デモをやったところで中国が侵攻をやめるとは思えないし、西側メディアの逆プロパガンダに使われるだけだ。中国国営放送も凄まじいプロパガンダを撒き散らしているが、NHKやBBC、CNNとかも人のことを言えたものじゃない。みんながみんな自分たちこそが正しいと可能な限り大きな声で言い合っている。もう何が真実か誰も分からない。おそらくそれは勝者が決めることだ。勝った方だけが真実を手にすることができる。
 お昼を食べた後、本部からメールで来ていたユーチューブのライブ配信を視聴しているバックで事務作業を続けた。金曜締め切りの、市役所に出す面倒くさい書類を日中にできれば作ってしまいたかった。ユーチューブの画面を小さくして、中で若い女性と眼鏡をかけた偉そうなおじさんが何か喋っているのを音量五ぐらいで聞いていた。何を話しているのかよく分からなかったが、とにかくおじさんの方が一方的に身振り手振りを交えながら喋っていた。

 

 
 二時になると他の職員たちが出勤してきて、トイレ掃除やら掃除機かけや拭き掃除をしてくれた。私は事務作業を切り上げ、各児童の予定を見ながらホワイトボードに出欠を書き込んでいって、それをもとにお迎え表を作成して担当職員も割り振った。
「トイレットペーパーとトイレクイックル、ストック見つかんないんだけどどっか入ってたっけ?」
 木下さんがそう訊いてくる。
「いや、なかったと思うよ。最近伝票打った記憶ないし、流しの下んとこになければないよ」
「じゃあ、明日来るときマツキヨ寄って買ってくるわ。今月予算大丈夫だっけ?」
「あ、そうだわ。あと五千円くらいしかないけど、千円ちょっとくらいでいけるでしょ?トイレットペーパーなしってわけにもいかないし」
「え、もうそんだけしかないの? こないだ一万円以上あるとか言ってなかったっけ」
 私は鼻から溜め息を洩らしながらこう答えた。
「でも、もうそれがないんだわ。だって、今日お誕生日会の材料ロジャースで買ってきて九千円くらい使っちゃったから、それでなくなっちまったのよ」
「そんなにしたの? あ、また年度末のあれ?」
「そう。それもあるし、ガチでお金がないっていうのもある」
 食費として市から支給される予算を年度内に使い切らなければならないという重圧が、毎年年度末に降りかかってる。四月から計画的に使えばそんなことにはならないのだが、現実はそんな上手くはいかない。だいたい八月か九月くらいまでは順調にいくのだが、そこからだんだんプランは崩れていく。
 来月の予算には八万円の食費を組んである。一ヶ月で八万を使い切らなければならないということは、一日三千円ずつ使っていかなければならないということだ。一日三千円もお菓子を買うのは難しい。駅地下とかに売っている贈答用の高級なのを一気に買い漁る方が現実的だ。去年の年度末は一人二万円ずつ買ってくるというミッションを与えられて、大宮の銀の鈴で一箱四千円くらいするお菓子を四箱買って一気に一万円以上使った。残りは近所のスーパーで爆買いして、きっちり二万円になるように最後はうまい棒とチロルチョコで端数を調整した。使い切らないと来年度の予算が減らされてしまうので、きっちり過不足なく使い切るというのがセオリーになっている。
 二時半になると私は大学生の学生アルバイトの対木さんと二人で学校へお迎えに行った。保育系の大学の四年生で、化粧が濃く、割とはっきりしたもの言いをする子だ。
「田中さん聞いてくださいよ。今日ここに来る途中、駅まで自転車で来るんですけど左折しようとした時に向こうから右折してきた車に当たっちゃって──」
「えっ、大丈夫だったの?」私はびっくりしてそう訊いた。
「ええ」と対木さんはあっけらかんとして頷く。「車も曲がるとこだったんで減速してて、私もケガとか倒れるとかまではいかなくて、当たっちゃったって感じだったんで」
「え、でもどうしたの? 車そのまま行っちゃったの?」
「いや、下りてきて謝られて、怪我とかないかどうか聞かれたんですけど大丈夫って言っちゃって、でも相手が会社の車みたいでドアの横のとこに会社名書いてあったんで、そればっちり覚えて、もし何かあったらそこの会社に電話してやろうと思って」

 

「へぇ、大変だったね。あっ! そこ、うんちある!」
 喋りながら歩いていたから、対木さんはあと二歩くらいのところで道端に落ちているうんちを踏みそうになっていた。
「あっ、ほんとだ!」
 ギリギリで回避して、靴がうんちとは当たらずに済んだ。
「また今日もここか。毎日あるよね」
 公園沿いの道なのだが犬の散歩コースになっていて、うんちがひどいときには十メートルおきくらいに落ちている。一匹の犬がこんなに大量のうんちを出せるはずがないから、おそらく複数の犬だ。他の人もうんち回収せずに行っているんだから、自分のところの犬もまぁいいだろうという感じで路肩がどんどん犬の公衆便所化していっている。しかも毎回違うところに毎回違う形と量のうんちが落ちているから、誰か近所の人か役所の公園管理事務所的な人が回収していて、そこに誰かが犬を連れてきてまたうんちをさせて放置していっているということだ。
「あたまどうかしてますよ。うんちして、そのまま行くって信じられない」
「バレなきゃいいだろって感じなんじゃない?」
 実際に犬を連れて歩いている人はよく見かけて、うんちを放置していっていないか見てはいるが、現場に遭遇したことはない。見たら絶対写真に撮って役所にメールに添付して通報して、ツイッターにもあげてやるのに。
 酒の缶なんかもこの道はよく落ちている。アルコール度数九パーセントくらいのストロング系かハイボールなんかが多い。アル中が歩きながら飲んで、空になったらそこらに放り投げていくのだろう。いろいろどうかしている。公園の周りの道だからかもしれない。犬もその飼い主もアル中も公園に来て、帰り道にうんちや酒の空き缶をぽいと捨てていくのだ。

 
 学校に着くと、子供たちはまだ校舎から出てきていなかった。いつもだったら、高学年の子から先にパラパラと出てきている頃なのだが。
 他の施設の職員が既に来て待っていて、挨拶をするとこんな話をされた。
「明日から学校閉鎖らしいですよ」
「えっ!」と私と対木さんは同時に大きな声をあげた。
「コロナが一気に三十人くらい出たってネットニュースにもなってますよ」
 私は校舎の中を窓から思わず覗き込んだ。職員室の中が見えていて、よくよく見てみるとただならぬ空気に満ちているような気もする。
「えっ、ちょっとヤバいんですけど。わたし帰ってもいいですか?」
 ああ、そうなるか。
「え、マジで」
「あのー、わたし先週から教習所に通ってて、仮免試験休むわけにいかないし、月末の卒業式も出たいんで」
「あー、うん、そっかー」
「ほんとすみません。お疲れ様です」
 対木さんはそう言って頭を下げ、本当に校門から出て行ってしまった。
 おいおいマジかよ。そりゃ子供たち出てきたら鼻出しマスクで喋りまくるし、飛沫もウィルスも飛びまくっているのは分かるが、帰るっていうのはどうかと思う。じゃあ、俺はどうなるんだよ。感染してもやんなきゃならないことはやんなきゃだし、選択の余地ないんだよ。それに若いからどうせ重症化しないだろ。むしろ心配しなきゃいけないのはこっちの方だ。
 そんなことを悶々と考えているうちに、子供たちが校舎の中からわらわら出てきた。
「あ、たないる!」
 二年生のひろくんが私を見つけて手を振った。
「たーなー!」
「ひろくーん、おかえりー!」
 私も手を振り返し、そう呼び掛ける。ひろくんは手提げバッグいっぱいの荷物と書道セットを両手に提げ、こっちに走ってくる。
「明日からオンライン授業だって!」
 ああ、やはりその話で遅くなったのか。ひろくんのクラスにもおそらくコロナの子はいるだろう。もうPCR検査をやるのかやらないのかという話になっている。やったら十人に一人くらいは陽性が出るだろう。子供だからどうせ無症状で、熱もない。コロナだけど元気という状態だ。だったらそれは果たして病気なのかという気もする。台湾では戦争が起こっていてアメリカが参戦するか否かで核戦争の瀬戸際という状態なのに、コロナとか言ってる場合か。戦争に比べたら、もうそんなのどうでもいいだろう。
「へー、前もやってたよね」
「あ、そうそう。すっごいつまんなかった」
 ひろくんのクラスは今月の頭に四日くらい学級閉鎖をしていた。
 他の子たちも一気に出てきて、校舎の前は渋谷の交差点みたいになり、みんなマスクがズレたり外れたりしているのもお構いなしにぎゃあぎゃあわあわあ騒いでいる。
 もうどうでもいいわ、とやけっぱちになりながら、集合場所に集まってきた子供たちの相手をし、全員揃ったのをリストをチェックして確認すると、学校を出発した。みんな夏休み前の終業式後みたいにテンションが上がりまくっていて、重いランドセルや荷物を抱えながらも高レベルの開放感に満ち満ちていた。
 施設に帰ってくると、私は残っていた木下さんに対木さんと学校閉鎖の件を伝えた。
「あ、そうそう。対木さんさっき戻ってきてお疲れ様ですって出てっちゃったから、めっちゃびっくりしたんだけど」
「知らんよ。教習所通ってて仮免試験とか卒業式とかあるからだって」
「そんなの、だったらうちらどうすんのよ」
 もうどこでも一緒だろという気もする。駅でもコンビニでもスーパーでも陽性者はそれこそそこら中にいるだろうし、検査をしなければいけない状況に追い込まれた人だけが検査を受けて、一定の割合で陽性者が出ているという状態だ。私も木下さんもコロナ陽性かもしれないし、もうみんながみんなウィルスをばら撒きまくっているだろう。
「知らんよ。でも、だから明日から岡地小の子来ないよ」
「いつまで?」
「噂だと今週いっぱい」
 たしかそんなことを言っていた気がする。言っていなかったような気もする。
 事務所に入ってパソコンのメールをチェックしたが、役所からはそれらしきメールはまだ来ていない。だが、子供たちがそう言っているのだからそうなのだろう。

 
 その日は、そんなゴタゴタのうちに過ぎていき、六時になると私は上がり、帰路に就いた。バス停でバスを待ちながらスマホをいじっていると、背後にあの男が立った。
「あっ」と、私は思わず声をあげていた。
 黒いマスクの太眉男。目が合うと、またぐっとこちらを睨みつけてきた。私はとっさに顔を逸らし、前に向き直った。
 逃げるわけにもいかないし、バスに一緒に乗るしかない。
 ルジャースの前で会った時と同様、手には何も持っておらず、太めの大柄な体を小さなグレーのスーツの中に押し込んでいる。ネクタイはしておらず、ベージュ色のシャツを着ている。
 見張られているのだろうか。それともたまたまなのか。睨み返してくるのが意味が分からない。ヤンキー気質というか、なにメンチ切っとんねん! といった感じなのかもしれない。
 しばらくするとバスが来て、私と男は続いて乗り込んだ。
 私は空いていた一番後ろの左端の席に座り、太眉男は右端の席に座った。
 男と私の距離は一・五メートルといったところ。ちらりと視線をやると、やはり男はこちらをぐっと見返してきた。見知らぬ人同士の顔の合わせ方ではない。
 いくつかのバス停に停まり、男と私の間には中年のサラリーマンとジャージ姿の男子高校生が座った。私はその間、ずっとスマホのツイッターのタイムラインを見ていて、台湾侵攻のニュースや著名人の書き込みに対して、返信や引用リツイートをしたりしていた。
 基本的には私はあれは中国包囲網の一環で、アメリカの策略だと思っている。去年の夏くらいからアメリカは中国が台湾を侵攻するぞするぞと言い続けていたし、あれはダチョウ倶楽部の押すなよ押すなよ的な振りだったのだと考えている。──コロナの時にアメリカは学んだのだ。あの時もトランプ政権は中国がウィルス兵器を開発していて、それをアメリカや西側諸国にばら撒こうとしている計画はキャッチしていた。だが、それは機密情報として取り扱われ、表には出なかった。そして、いざ年明けに計画が実行に移されてから情報を表沙汰にしても後の祭りだった。だれもそんな話は信じないし、トランプのキャラとも相まって陰謀論の類いとして扱われた。つまり中国が情報戦を制し、アメリカや西側諸国を出し抜いた。アメリカが今回はやり返し、情報戦を制して中国はロシアと北朝鮮以外の世界中の国を敵に回し、完全に孤立している。沖縄や南西諸島からは米軍の最新鋭戦略兵器が大量に台湾の前線に送り込まれ、人民解放軍は苦戦を強いられている。
 真実なんてどこにもない。日本では中国も習近平も極悪非道の戦争犯罪人だが、それは一方の側からだけ見た偏った真実だ。中国国内ではまったく逆の報道がされていて、アメリカと西側諸国が一方的に悪いとされているだろう。おそらく本当の真実はその中間あたりのどこかにある。アメリカも防ごうと思えば外交的に中国の侵攻を止めることはできただろうし、それをせずに近い将来経済的にも国力軍事力的にも抜かれていたであろう中国を国際的に孤立させ、その既定路線を台無しにしたという大き過ぎるメリットがある。
 終点の駅に着くまで、私は夢中になってツイッターへの書き込みを続けていた。

 

 バスを降りると、私は交差点で信号待ちをしていた。すると、そこに黒いタクシーが停まり、ドアが開いた。
 ん? と私は思い、周囲を振り返ろうとした。だが、そうする間もなく後ろからドンと強い力で押し出され、勢いでうつ伏せにタクシーの中に転がり込んだ。
 続いて乗り込んできた何者かに蹴り込まれ、ドアがバタンと閉まる音がした。
「おい、はやく出せ!」 
 見上げると、あの太眉の男だった。車は急発進して、スピードをぐんぐん上げながら走りだした。
 私は何か言おうとしたが、恐怖で声にならなかった。脚が男の両足で踏みつけられていて自由が利かず、シートの上に這い上がろうとしたができなかった。
「おっ、これこれ」
 そう言いながら男は私の後ろポケットに入っていたスマホを取った。そしてスマホをしばらくいじくっていた。
「あった、あった。やっぱそうだ」
 男は私の顔を睨み、鼻から息を吐く。
「こいつだ。こいつ。ギャラクシースター」
 それは私のツイッターのアカウント名だった。
「売国奴のアカ野郎だよ。間違いない」
 ああ、なるほど。右寄りのイカれた奴らか。ツイッターの書き込みから中国を擁護していると短絡的に判断して、狩りに来たのか。
 そう考えると、一気に恐怖が消えていった。
「ああ、そういうこと。なに、どうすんの? 殺す?」
 単細胞の能無しどもめ。お前らの小さな脳みそじゃ国際政治なんぞ一生分からんだろう。
「は? 急にどうした?」
 黒マスク越しに男は威圧的な声を出す。
「ここんとこずっと見張ってただろ。今朝もルジャースの前で。頭おかしいやつだと思ってたけど、こんなことしたら捕まるぞ」
 すると、男は右足を振り上げ、私の背中を嫌というほど強く蹴った。
「うるせぇ、共産党!」
 痛みで息が詰まり、ゴボゴボと咳き込んだ。
「お前みたいなのがいるから、面倒くせぇことになんだよ!」
 上体を起こそうとしたら、右耳を思い切り殴られた。
 脳の中で火花が散り、身体の芯が一瞬冷たくなった。殺されるかもしれないと悟り、脳が痛覚をシャットダウンさせたのだろう。
「死ねやぁ! この中国野郎!」
 私は共産党も中国も好きではなかったが、この男からするとそう見えたようだった。
 男は絶叫しながらなおも私の背中やら脚や腰を蹴り続け、車は止まることなく走り続けた。


[了]

2022年09月18日