長篇小説3 エクスフロート 1
[1,500文字]
龍人はお腹が痛いという沙希を置いて一人家を出た。駅までの道を歩き、ロータリーでバスに乗り、指定された市民医療センターで降りる。
七階の七〇九号室がその男がいるという病室で、龍人は受付で面会の手続きを済ませ、外来の廊下の突き当りのエレベーターから七階に上がった。
エレベーターの扉が開いた正面にフロアの見取り図があり、七〇九号室は中央部にあるナースステーションのすぐ隣だった。
病室の前に着くと、龍人は二回ドアをノックした。
返事はなく、中からは物音ひとつしない。
龍人はもう一度、今度はもっと強くドアを叩いた。
十秒ほど待ってみたが、やはり結果は同じだった。
諦めて立ち去ろうとしたその時、ガチャッとドアが内側から開き、秘書の松田伊理香が顔を覗かせた。
「佐藤さん、お待ちしておりました」
高く澄んだ声は病院の廊下によく響いた。
龍人は軽く頭を下げ、伊理香の眼鏡越しに目が合った。
「容体はどうなの?」
伊理香は何も答えず、視線を逸らした。
中に入ると、ベッドには死にかけの男が布団に包まっていた。頬がこけ、脂の抜け切ったシミだらけの皮膚が骨のまわりに張りつき、ホコリのような白髪が数本頭にしがみついている。
これは時間の問題だな、と龍人は覚悟した。
この男は死につつある。いまこうしている間にも。生と死の境を彷徨っていて、いまは体の半分以上が向こう側にいる。
眼は閉じられ、鼻から微かな寝息がもれている。少なくとも死んではいない。この男には生きていてもらわないと困る。非常に面倒なことになる。
龍人は伊理香に、絶対にここを離れてはいけないと言い含めた。誰が殺しに来るか分かったものではない。この病院のセキュリティはお世辞にも万全とは言い難い。
侵入者がこの病室に辿り着いた時点で、男の命運は決している。
いまはただ彼らが、この男がここにいることを知らない、という事実だけで守られているようなものだった。だがそれもいつかは崩れる。隠していることはすべて明るみになる。聖書にも書いてある通りだった。
そして伊理香は龍人に妙な話をした。
「十日前に目を覚まされたとき、先生はわたしにこう仰られました」
龍人は近くにあったパイプ椅子を二つ引き寄せ、二人はそこに斜めに向かい合うように腰を下ろした。
「へぇ、どんな?」
恐ろしく美しい女だった。近くに寄ると柑橘系の色気を蒸したような香水の匂いが鼻を突き、まず感覚器官がやられる。
鼻筋の通った小鹿のような顔の下は、身体のラインがくっきりと見えるベージュ色のニットに太腿を半分以上露出した黒のタイトスカート。そこから伸びるどこまでも白く長い脚はいま龍人の目の前で剥き出しに組まれている。
「絶対に最後まで見られない夢があるそうです」
夢の話か。龍人は興味を削がれ、口の中であくびを嚙み殺した。
「先生が以前に行商をされていたことがあるのはご存じですか?」
鈴木善市は立志伝中の人物で、その話は有名だった。
「ああ、電車で魚と盗んだ野菜を売って回ったって話だろ」
伊理香は小さく頷き、眼鏡のブリッジを持ち上げて位置を直した。
「車掌や憲兵に見つからないかいつもびくびくしていた、と。見つかれば売り物をすべて没収されたうえで、牢屋に何日もぶち込まれるそうです」
龍人も足を組み、身体の前で腕組みをした。
「当時の牢屋は土と漆喰と鉄格子でできていて、狭くて寒く、あんなところに何日もいるくらいなら死んだ方がマシだったと先生はよく口にされていました」
何度逮捕されたか数えてはいないが、百は優に超えると聞いたことがある。
「その行商中にある男に会って、一冊の本を渡されたそうです」
龍人はお腹が痛いという沙希を置いて一人家を出た。駅までの道を歩き、ロータリーでバスに乗り、指定された市民医療センターで降りる。
七階の七〇九号室がその男がいるという病室で、龍人は受付で面会の手続きを済ませ、外来の廊下の突き当りのエレベーターから七階に上がった。
エレベーターの扉が開いた正面にフロアの見取り図があり、七〇九号室は中央部にあるナースステーションのすぐ隣だった。
病室の前に着くと、龍人は二回ドアをノックした。
返事はなく、中からは物音ひとつしない。
龍人はもう一度、今度はもっと強くドアを叩いた。
十秒ほど待ってみたが、やはり結果は同じだった。
諦めて立ち去ろうとしたその時、ガチャッとドアが内側から開き、秘書の松田伊理香が顔を覗かせた。
「佐藤さん、お待ちしておりました」
高く澄んだ声は病院の廊下によく響いた。
龍人は軽く頭を下げ、伊理香の眼鏡越しに目が合った。
「容体はどうなの?」
伊理香は何も答えず、視線を逸らした。
中に入ると、ベッドには死にかけの男が布団に包まっていた。頬がこけ、脂の抜け切ったシミだらけの皮膚が骨のまわりに張りつき、ホコリのような白髪が数本頭にしがみついている。
これは時間の問題だな、と龍人は覚悟した。
この男は死につつある。いまこうしている間にも。生と死の境を彷徨っていて、いまは体の半分以上が向こう側にいる。
眼は閉じられ、鼻から微かな寝息がもれている。少なくとも死んではいない。この男には生きていてもらわないと困る。非常に面倒なことになる。
龍人は伊理香に、絶対にここを離れてはいけないと言い含めた。誰が殺しに来るか分かったものではない。この病院のセキュリティはお世辞にも万全とは言い難い。
侵入者がこの病室に辿り着いた時点で、男の命運は決している。
いまはただ彼らが、この男がここにいることを知らない、という事実だけで守られているようなものだった。だがそれもいつかは崩れる。隠していることはすべて明るみになる。聖書にも書いてある通りだった。
そして伊理香は龍人に妙な話をした。
「十日前に目を覚まされたとき、先生はわたしにこう仰られました」
龍人は近くにあったパイプ椅子を二つ引き寄せ、二人はそこに斜めに向かい合うように腰を下ろした。
「へぇ、どんな?」
恐ろしく美しい女だった。近くに寄ると柑橘系の色気を蒸したような香水の匂いが鼻を突き、まず感覚器官がやられる。
鼻筋の通った小鹿のような顔の下は、身体のラインがくっきりと見えるベージュ色のニットに太腿を半分以上露出した黒のタイトスカート。そこから伸びるどこまでも白く長い脚はいま龍人の目の前で剥き出しに組まれている。
「絶対に最後まで見られない夢があるそうです」
夢の話か。龍人は興味を削がれ、口の中であくびを嚙み殺した。
「先生が以前に行商をされていたことがあるのはご存じですか?」
鈴木善市は立志伝中の人物で、その話は有名だった。
「ああ、電車で魚と盗んだ野菜を売って回ったって話だろ」
伊理香は小さく頷き、眼鏡のブリッジを持ち上げて位置を直した。
「車掌や憲兵に見つからないかいつもびくびくしていた、と。見つかれば売り物をすべて没収されたうえで、牢屋に何日もぶち込まれるそうです」
龍人も足を組み、身体の前で腕組みをした。
「当時の牢屋は土と漆喰と鉄格子でできていて、狭くて寒く、あんなところに何日もいるくらいなら死んだ方がマシだったと先生はよく口にされていました」
何度逮捕されたか数えてはいないが、百は優に超えると聞いたことがある。
「その行商中にある男に会って、一冊の本を渡されたそうです」