短編文画 6 妻殺しのパラドックス
1
ある日、家に帰ると妻が死んでいた。
私が殺したのではない。
居間の白いソファの上で仰向けになっていて、胸のちょうど心臓のあるあたりに包丁が突き刺さっていた。傷口から滲み出た血で、着ていた黄緑色のパーカーが赤黒く濡れている。その範囲はかなり広がっていて、肩からへその下らへんまでしっかりと変色していた。
見覚えのある包丁で、それは普段台所の流しの下、包丁入れのところに収まっているものだった。刃渡りは二十センチ程で、余計な装飾もデザイン性もなく、まっすぐな背に黒いプラスチックの柄が付いているだけのものだ。切れ味は良くも悪くもない。
近づいて顔を見てみると、そこにすでに血の気はなく目はきちんと閉じていた。口はやや半開きで、手をかざしてみたが呼気は感じられなかった。念のため手首の動脈らへんに二本指を当ててみたが脈はないようだ。
死んでいる。
服も部屋の中も特に乱れてはいなかったから、ここで眠っていたところをぐさりとやられたのだろう。包丁は柄の三分の一程まで埋まっているから、刃先は心臓を貫き、おそらく背中側にまで達している。心臓は直ちにその機能を停止し、妻の意識はそこで途絶えたものと思われる。
どうせ死ぬのならば、一瞬がいい。──それは誰しもが思う事だろう。苦痛にのたうち回りながら死にたくはない。
妻とも前にそんな話をした記憶がある。
拳銃自殺が一番良いのではないかと私は言った。
「だってそうだろ。こめかみに当てるか口にくわえてズドンと撃ったら、一瞬で脳が破壊されるだろうから痛みなんて感じる暇はないよ」
「でも、自分で撃つっていうか引き金を引かなくちゃいけないじゃない」
「そりゃそうだろ。でも、死ぬ気になってたらイケるだろ」
すると、妻は鼻で笑って首を横に振った。
「そんなね、簡単にはいかないわよ。人間も動物だし生存本能ってものがあるから、ぎりぎりそういう状況っていうか、いざってなったら案外できないもんなのよ」
映画やドラマではよく見る場面ではある。でも、あれはあくまでお芝居なわけだから本当のところはどうだか分からない。私はそういう状況に立ち会ったり、目撃したことはない。たいていの人がそうだろう。だから、役者たちは懸命に想像を膨らませて演技をしている。だがベテランの相当腕のある役者でも、そうしたシチュエーションにしっかりとしたリアルさを出せずにいる。画面越しというのもあるのだろうが、ある種の陳腐さが漂ってしまっている。なぜならそれは人間の想像の枠外のことで、おそらくその瞬間人は人ではなくなるのではないだろうか。
*
私が殺したのではない。
となると、別に妻を殺した奴がいるということだ。
男か女かも定かではない。女でも体格が良かったり勢いをつけてやればこれくらい出来なくもないだろう。
警察に通報はしない。なぜなら、玄関には鍵がかかっていたからだ。窓も見て回ったが、どこも割れていないし、きちんと施錠されている。つまり、この部屋は密室だったということだ。通報すれば、私は逮捕されるだろう。
鍵を持っていれば玄関のドアを開けられるし、閉められる。当たり前だが、この事実が意味することは鍵を持っていた人間の中に妻を殺した奴がいるということだ。
この家の鍵は合いカギの作れない複雑な形をした特殊な鍵で、全部で三つある。
まず、私の鍵。
次に、妻自身の鍵。
最後に、妻の実家に預けてある鍵。
私のものは今ポケットの中にある。そして妻のものはさっき見た時、玄関の靴棚の上にあった。そこに陶製の小物入れがあって、妻はいつもそこに自分の鍵を入れていた。
鍵はかかっていなかったと嘘を吐けばいいのかもしれないが、そんなことをすれば余計疑われてしまう気がする。何度も何度も訊かれるうちにボロが出て、嘘を見抜かれ、それこそ犯人だという証拠を与えてしまう。
こう考え合わせていくと、妻の実家にある鍵が、文字通りカギになってくる。
妻には母と姉がいる。父、つまり私にとっての義父は三年前に心不全で他界していて、軽い痴ほう症の腰も曲がり身体の弱った義母は、残された家で近所に住む義姉の介護を受けながら一人で暮らしている。
私の両親はすでに他界していて実家はなく、鍵は三つあったから妻は一本は自分の実家に預けておくと言っていた。しかし、具体的にどこにあるのかまでは知らない。だが、家のどこかにあることは間違いないようだ。
義姉は妻とはひどく仲が悪い。昔からそうだったらしい。若い頃は取っ組み合いの喧嘩をしたり、書道の文鎮や扇風機を投げ合ったことがあると聞いたことがある。
人間の種類が違うからだろう。妻はどちらかというとお喋り好きで気の置けないタイプで一緒にいても疲れない。義姉は美人でおっとりしているのだがどことなく品があって、男にある種の緊張感を強いるタイプだ。五年くらい前に商社マンと結婚して実家の近くに建てた家に住んでいる。人としても女としても生き方自体が大きく異なる。水と油。およそ真逆の性格をしている。
その義姉が鍵を持っていた可能性は否定できない。義母の介護を任せ切りにして手伝いに来ようともしない妻を恨んでいたのも事実だ。だが、彼女も妻を殺してはいない。なぜなら、私はついさっきまで彼女と一緒にいたからだ。
妻の実家は割と大きな屋敷で、中に庭を挟んで母屋と小さな離れに分かれている。義母が主に居住しているのが母屋で、妻と義姉のいた子ども部屋は離れにあった。その部屋の中で私は彼女といつも仲良くしていた。
この関係は一年程前から始まったもので、義母が腰を痛めて立てなくなったと言われ、その介護の手伝いに来たことがきっかけだった。義姉いわく妻は義母に何かの理由で深い恨みを抱いているらしく、言うだけ無駄だから私に声を掛けたのだということだった。商社マンの夫の帰りはいつも終電で、朝も早くから出掛けていってしまうから手伝いは難しいらしい。
妻の実家は私の職場からは近かったから、仕事帰りや早く上がれた時に立ち寄り、義姉を手伝うということを続けているうちに親しくなっていった。脚も悪く、痴ほう症の義母が庭を横切って離れまで来る心配はなく、我々は次第にほぼ毎回その密室での秘事に耽るようになっていった。
帰りが遅くなると、義姉は車で私を自宅近くまで送ってくれた。たいてい停めるのは家から歩いて五分ほどのところにあるコンビニの駐車場で、私はそこでビールとつまみを買って帰る。その日もそんなよくあるパターンの日だった。
だが、帰ってきて家の玄関の鍵を開けてリビングに入ると、妻が死んでいた。
私が殺したのではない。
2
私でもない。義姉でもない。痴ほう症の脚の悪い義母でもない。
だとすると、この家の鍵を持っていたのは妻自身だけだ。
自殺?
いやいや、そういうタイプじゃない。十年も一緒に暮らしていれば分かる。義姉とのことを嗅ぎつけたのだとすれば、妻は容赦なく私と義姉を殺すだろう。もしくはそこまでいかなかったとしても、蹴ったり踏んだり顔の形が変わるまでボコボコに殴ったりして復讐を決行しているはずだ。間違いなくそうせずにはいられないだろう。ひっそりと人知れず自殺するような性格ではない。
それに、状況的にも自殺ではない。妻の左手は身体の横からだらりと垂れて血に塗れているが、右手の方はソファの背に乗っていて白いままだ。つまり、自殺したのだとすれば、利き手でもない左手一本でここまで深く刺したことになる。そんなことは小柄で華奢な妻には不可能だろう。刺した瞬間に血は溢れ出て、包丁を持った手にもべっとりと付着するだろうから、右手を使っていたとしたらこんなきれいなままなわけはない。それに包丁の柄にもさほどではないが血が付いている。包丁を握っていたのだとすれば、それが掌や指にも付くはずだ。
そもそも、妻には死ぬ動機がない。
生前義父に買ってもらったものだが、大きな駅からもほど近いこんな便利な場所で庭付きの家に住み、父親からの遺産も私の稼ぎもあって何不自由ない生活をしている。子供は体質のせいで出来なかったが、趣味のドールハウス教室やらテニスクラブやらで毎日忙しくしていたはずだ。お喋り好きで社交的な性格のおかげで友達も大勢いる。昼間は家にいるより友達の家やどこかに出かけていることの方が多い。
夫婦関係も良好で、ここ一、二年くらいのあいだ喧嘩をした記憶はない。よく話もしていたし、セックスも二週に一回くらいはしていた。だいたい私が休みの日の午前中。時間もそれなりにかけてする。たまに二人で出かけたりもしていたし、何も不満は感じていないはずだった
義姉とのこともバレてはいない。少なくとも私は尻尾を出してはいない。義姉が喋っていればその限りではないが、彼女がそんなことをするわけがない。
時計を見ると、まだ夜の十時前だった。
私は義姉に電話をかけた。
「もしもし」
彼女はそう言って電話に出た。
「ちょっと困ったことになったんだ」
「え? なに?」
義姉は不満げな声でそう訊き返してきた。
「妻が死んでる」
息を呑む音が聞こえた。
「家のソファの上で、包丁で胸を刺されて死んでる」
「は? へ?」
苛立ちのような感情が湧き上がってきた。
「だから、包丁で刺されて死んでるんだよ!」
私がそう怒鳴ると、義姉は黙り込んだ。
「何か知らないか? どうなってるのか」
「知るわけないでしょ。…ちょっと警察には?」
「まだ言ってない。だって鍵がかかってたんだよ」
「だったらなんなの?」
「疑われるだろ。間違いなく。だって、そいつは鍵を持ってなくちゃ閉められないわけだから」
「そいつって?」
血の巡りの悪い女だ。
「殺した奴だよ! 殺して鍵閉めて出てったんだろ」
「え、でも鍵って……」
「ああ」と、私は頷いた。「三つしかない。ここに俺が持ってるのと、玄関の鍵入れの中にあった妻の。それから、お義母さんの家にあるのの三つ」
「ちょっと待って。でも、じゃあ二つはそこにあるわけでしょ」
「そう。だからあと一つ。実家にある鍵を持っている奴が妻を殺したことになる」
話しているうちに私の頭の中も整理できていった。そう、要するにそういうことだ。
「いやいや、待って待って。鍵どこにあるか私知ってるけど、私じゃないよ」
「知ってる?」
「うん」と、義姉は素直に白状した。「だってそうでしょ。何かあったときのためにって、お母さんと私にだけ教えてくれたから」
「どこ?」
「妹の机の一番大きい引き出しの中。左の奥」
離れということか。つい数時間前まで私と義姉がいた部屋の中だ。
「ちょっと見てきてくれないか。お義兄さんはまだ大丈夫だろ」
「分かった。大丈夫。早い時でも十二時過ぎだから」
「すまん。お義母さんはもう寝てるだろ。起こさないようにな」
うん、と言い残して義姉は電話を切った。
電話を待つ間、リビングをうろうろと歩き回りながら私は可能性についてさらに考察を進めた。
義兄ということはないだろうか。
何かのきっかけで私と義姉の関係を疑い始め、残業をしているふりをして我々のあとをつけ、何らかの方法で証拠をつかみ、話し合いを持つためにここに乗り込んできた。いや、違う。それだと妻を殺すことにはならない。
激昂したのだ。義姉との不貞を知って怒りに駆られ、私を殺そうとした。鍵の場所は何か芝居を打って義母から聞き出したのだ。そして、鍵を開けてそっと家の中に忍び込み、台所にあった包丁を取ってソファで寝ていた妻をザクリと刺す。
おかしい。どう考えてもおかしい。電気は点いていたし、私と妻を見間違えるはずもない。浮気相手の妻を殺すというのは、意味が通らない。恨みを抱く相手ではない。
つまり、義兄は犯人ではないということだ。
そう結論づけたところで、義姉から電話がかかってきた。
「もしもし」
「どう?」
すると、彼女はこう答えた。
「ない。鍵がない」
あぁ、やはりそうか。犯人が持っているからだ。
「どうしよう。警察に言う?」
「鍵がなくなっているとなると、そうだな。そいつが犯人だろうからな」
私は少し安心して、そんなことを口にしていた。
「でも、ちょっと待って。ここに鍵あるの知ってたの、私とお母さんだけだよ」
「誰かに喋ってないのか?」
「喋るわけないじゃない。そんなこと訊かれたこともないし」
「じゃあ、お義母さんが誰かに喋ったんだろ。それしかない」
すると、義姉は黙り込んだ。
「待って待って。でも、おかしい。そもそもこの家にその家の鍵があって、しかもその隠し場所をお母さんが知ってるって知ってた人なんている?」
ああ、そうか。誰かが訊き出そうとすればそうなる。そうした条件をクリアした上で、しかも妻を殺す動機も持っていなくてはならない。
「それに、お母さん覚えてるわけないよ。さっき晩御飯何食べたかとか今日の天気すら怪しい人だよ。お医者さんにも説明されたんだけど、前向性健忘っていって新しいことを全然覚えられない病気なんだって。だから、お母さんもあの時鍵の場所聞いてたけど、絶対覚えてないと思う」
「じゃあ、誰だよ。鍵持ってったのは」
「私じゃないとしたら、妹じゃない。それしかない」
引っ掛かりのある言い方だった。
「違うんだろ?」
一瞬、間が空いた。
「違う違う。何言ってんの。私が殺すわけないじゃない」
妻が殺された時、義姉は私と一緒にいた。だから、彼女が殺せるはずはないのだ。関係的も状況的にも警察は信用しないだろうが、お互いにアリバイはある。
「あっ、分かった。やっぱ妹だよ。だから、あなたの奥さん。ここから鍵出して持ってったのは」
「え、なんで?」
「必要になったから」
私の頭は混乱した。
「だってそんなもん、自分の鍵があるだろ」
「だから、誰かに渡したんだって。その人が家に入れるように」
「誰か?」
鼻で笑う声が聞こえた。
「人のこと言えないでしょ。妹だって昼間何やってたんだか分かんないでしょ」
ああ、そういうことか。男をこの家に引き入れていて、そいつに鍵を渡していたということか。
「なにか知ってるのか?」
「いや、知らないけど、それしかないじゃない。鍵の場所知ってるの私と妹だけなんだからさ」
なんだ、そういうことか。つまり、何の根拠もない憶測ということだ。
「もういいよ。どうする? 警察には言うか?」
「ちょっと待って。もうちょっと考えよ。とりあえずそっち行くから」
義姉はそう言って、電話を切った。
3
義姉がこちらに着くと、私は彼女を家に招き入れた。
「一応、いつものコンビニに停めてきた。見られるとアレだし」
たしかに路上駐車はマズい。近所の目もある。後で面倒なことにもなりかねない。
「うわっ、スゴいね。めっちゃ刺さってる」
居間に入って妻の死体を目にするなり、義姉はそう言った。
「悲しんだりはしないのか?」
頭に思い浮かんだことをそのまま口にしていた。
「は?」
彼女は振り返り、眉間にしわを寄せた。
「あなただってそうじゃない。自分の奥さんでしょ?」
言われてみればそうだ。驚いたり焦ったりするのに精一杯で、悲しんでいる余裕などなかった。
「この子とは仲悪かったし。ずっと、子供のころから」
「でも、だいたいそういうもんだろ。兄弟とか姉妹って」
「そうかな。え、でも、死んでくれてホッとしてるよ。正直に言うと」
ひどい言い草だったが、これが義姉の本音なのだろう。
「あなただってそうでしょ。普通さ、奥さんの姉と不倫したりしないよ。だから、私とそういうことができるってこと自体がさ、もう奥さん死んでもいいって思ってたってことなんじゃないの?」
私は言葉に詰まり、何も言い返せなくなった。こんな女じゃなかったはずだ。本音をズバズバ遠慮なく言うのは妻の方で、義姉はいつも優しく包み込んでくれるようなそんな感じの女性で、私はそ──。
「殺したんでしょ?」
「え?」
「邪魔になったから、殺した。そうでしょ?」
真顔だった。まっすぐに目を見てくる。私を追い込もうとしている。
「どうすんの、これ? どっか捨ててくるの? どうせわたしも共謀にするつもりなんでしょ」
頭に血が昇り、思わず怒鳴っていた。
「だから、俺じゃないって! 殺してない!」
「でも今さらそんなことどうでもいいでしょ! ぜったい疑われるって、この状況!」
私はさらに絶叫した。
「どうでもよくない! 殺してない! 殺してないから!」
義姉は両手を頭に突っ込んで掻きむしった。
「でも、ぜったいもう即逮捕! 即逮捕で有罪、懲役まちがいなし!」
私以上の大声で義姉は怒鳴っていた。きっとこの声は近所中に響き渡っていることだろう。
「執行猶予なんてつかないから。いい? 自分の妻を身勝手な理由でぶっ殺しといて、抒情酌量とかそんなのあるわけないでしょ」
「身勝手な理由って?」
「いや、だから不倫! わたしとの不倫! 邪魔になったから殺したのー、あーなーたーはー!」
殴りかかりたい衝動に駆られたが、荒い呼吸を繰り返し、なんとか押し留めた。
「鍵がどうとかさ、犯人とかもうホントどうでもいいと思う。警察にバレたら、百パーセントあなたが犯人で逮捕で有罪。真犯人とか冤罪とか、そんなの聞いてくれないから。日本の警察は忙しいし、それっぽかったらもうそれで決まり。ちゃんとした捜査とかそんなの刑事ドラマとか映画の中だけで、次から次にどんどん急いでやってかなきゃいけないから、いちいち細かく調べてらんないの!」
もしそれが本当だとしたら、もう終わりということじゃないか。一生逃げ続けるか刑務所の中で暮らさなければならない。
「わたしも同じだと思うよ。一緒にいたし。共謀ってことになると思う」
「えっ?」
「だってそうでしょ。一緒にいて利害みたいなのも傍から見れば一致しているわけだから、二人で共謀してって考えるんじゃない。いわゆる立場的には同罪なわけだし」
ああ、私だけじゃ済まないのか。義姉まで巻き込まれ、逮捕される。
「……いや、でも、おかしいだろ。考えてみろよ。そもそも俺も義姉さんも殺してないのに、なんでそんな目に遭わなくちゃいけないんだよ!」
すると、義姉は冷めた目で呆れたようにため息を吐いた。
「またそれ? だから、そんなこと言ったって信じてくれないって。私たちお互い以外証言してくれる人はいないわけだし。そんなの共謀して口裏合わせしてるって判断されるに決まってるでしょ。状況的にわたしとあなたが限りなく怪しくて、動機もあってアリバイもないんだからしょうがないじゃない!」
その瞬間、私は近くにあったテーブルを拳で叩き、こう怒鳴っていた。
「そんなの、犯人の思うツボじゃないか!」
義姉は両手で私の肩を摑み、揺さぶった。
「じゃあ、犯人って誰よ? どこのどいつがわたしの妹とあなたの奥さんを殺したのよ?」
それだ。それさえ分かれば、この窮地を脱出できる。状況は最悪で、警察は私と義姉を犯人と断定する。疑問を差し挟んだりする余地はない。誰の目にも明らかだ。だから、自分で真犯人を見つけなければならない。それしかないのだ。
その時、私は頭の中であることを思い出した。
「そういえばさ、お義母さんと仲悪いって言ってたよね。恨みがあるとか」
「ああ、この子とね」
死体を指差しながら義姉はダイニングの椅子に座った。
「むかし、ちょっとあったんだよね」
「ちょっとって何?」
私もテーブルを挟んで向かい側に腰を下ろした。
「なんか、カクシツ? っていうか、親子だからちょっと虐待みたいな」
これは怪しい。
「虐待? 義姉さんは?」
「わたしはもう中学生だったし、背も伸びてきてたし、どちらかというとお母さんには好かれてたからあんまり……」
なるほど。依怙贔屓をされていたわけか。通りで仲が悪いわけだし、介護をまったく手伝わないわけだ。無理もない。
「合わないんだよね。あの二人。いつもぶつかって喧嘩になっちゃう」
親子でそうだと、もうそれは悲劇でしかない。しかも姉ばかりが気に入られて好かれているとあっては、状況としてはかなり過酷だ。
「でも、それとこれとがどう関係あるの? まさかお母さんが犯人とか言い出す気じゃないよね?」
「違う違う。脚も悪くて頭もボケてるお義母さんが、わざわざここまで来て殺せるわけがない」
「じゃあ、何なのよ?」
「動機だよ。動機を整理しようとしてるだけだ」
「妹を殺す動機?」
名探偵がドラマとか漫画や映画でよくやっているやつだ。殺す理由を持っているやつを絞り込んでいけば、必然的に犯人にたどり着く。
「そんなのわたしとあなたしかいないじゃない」
義姉にそう言われた時、私の頭の中で何かがひらめいた。
「いや、逆に考えてみればどうだろう。妻を殺す動機を持っているのが我々だけだとしたら、逆に殺される理由があるのは?」
「は? ちょっと待って。意味分かんない」
「だから殺される理由があるのは?」
テーブルに身を乗り出し、私は義姉の顔をじっと見た。
「ごめん、ちょっとトイレ」
義姉は席を立ち、廊下のトイレに入っていった。
私はテーブルの上で頭を抱え、思考を進めた。
殺す理由より殺される理由を考えた方が早い。そうだ。殺されるべきなのは妻ではなく、私と義姉の方なのだ。だから、この事件はそもそもがおかしい。死ぬべき人間が死んでいなくて死ななくていい人間が死んでいる。──宮沢賢治の『注文の多い料理店』だ。何かに似ていると思っていたが、この状況は……。
その時、ヒュンと背後で空気を割く音がして脳天に激しい衝撃を感じた。咄嗟に頭に手をやると、頭が血でべったりと濡れていた。
振り返ろうとしたが身体のバランスを失い、椅子から落ちた。
床に転がると、視界が暗く溶けていった。
トイレの水を流す音が聞こえたような、聞こえなかったような──。
〔了〕