短編小説10 オルタナティブ開発
試しに応募してみただけだった。ほんの軽い気持ち。
前の会社を辞めて二ヶ月ほどが経過していて、失業保険も来月支給分で打ち止めで、そこから先はもうどうなるか分からなかった。
心を病んで精神科へ通っている同い年の妻と、小学一年生の娘と、一匹の雄猫。彼らを養っていく必要があったが、自己都合で数ヶ月という短い期間に仕事を二度も辞めた四十の男を雇ってくれる会社などどこにもなかった。
職種はマーケッターとあり、身体が丈夫な方、衣食住・性に関する調査を行い、クライアントに提供するお仕事です、とある。固定給は二十二万。そこから仕事の成果に応じて歩合給がある。収入例としては入社五年目三十六歳のマーケッターの年収五百二十五万が挙げられていて、この人は歩合で相当稼ぎまくっているようだった。
うさん臭さが半端ないなと思って昼間に見た時にはスルーしていたのだが、夜ビールを飲みながらスマホでサイトを見返しているともう興味が抑えきれず、ポチっとこの企業への応募ボタンを押していた。
どうもブラックっぽいなと感じながら、衣食住・性に関する調査という文言の魅力に抗えなかった。衣食住は分かるのだが、性というのがわざわざ最後に付け加えられているということはつまり「性」が主な調査テーマなのだろう。
性に関する調査。
コンドームやおとなのおもちゃの製造・販売会社、ラブホテル業界、あるいは性風俗業界からのそういった需要があるのだろう。いまどういう雰囲気のホテルが求められているのか、コンドームの薄さや材質にはこだわるか、おとなのおもちゃは普段使うか、どういったものがほしいかなど調べてみなければ分からないことはいくらでもある。おそらくそうしたデータをクライアントに提供する仕事だ。特に性風俗産業は流行り廃りが激しそうだから、時代に乗り遅れると商売にならない。──これまで携わったことは一度もないから、すべて想像に過ぎないのだが。
いずれにしても性には興味がある。おそらく人より性欲は強い方だ。中学二年生くらいから今まで、オナニーは一日も欠かしたことはない。休みの日は二度、三度とすることもある。一日に五回した時には、自分はオナニーをするために生きているのではないだろうかと疑ったくらいだ。
ポチっとしたちょうど十分後に電話が来て、面接をしたいのだが、いつが都合がいいか訊かれた。無職なのでいつでもいいと答えると、じゃあ明日の二時でと言われた。今晩はよく寝て、朝食や昼食はしっかり食べてきてくださいと最後に言われた。
若い女性の声だった。話しているうちに柑橘系の香水の匂いをふと感じた。女性にしてはやや低めのしっかりとした口調で、おそらく彼女の前にはモニターとキーボードが別になったパソコンがある。髪はショートボブの栗色。唇はやや厚ぼったくて目は黒目がちのリスか鹿のようなアーモンド型。黒のやや小さめのスーツに肉感的な身体をむりやりねじ込んでいて、ストッキングを履いた脚を組み、タイトスカートの裾がスリットと共に太腿の真ん中あたりまでずり上がっている。
妄想が止まらなくなってきたところで、OLものの動画を検索してオナニーをした。実物が明日見られると思うと、ワクワクが止まらなかった。別に落とされてもいいから、しっかりと目に焼き付けておこう。でもあくまで想像に過ぎないわけだから、あまり期待はしない方がいいが。
自室を出ると、リビングのソファにごろんと横になった。リビングと一続きになったダイニングには妻と娘がいて、それぞれスマホを見ている。
わたしは床に落ちていたリモコンに手を伸ばして拾い、テレビのチャンネルをしばらくザッピングしたあと、ネットに切り替えた。ちょっと前から話題になっていて観たかった映画が、サブスク入りしていて観られるようになっていた。
「あー、そうだ。明日の二時から面接入った」
「へー、どこ場所?」
「たぶん上野。たしか台東区って書いてあった」
「何時くらいに家出んの?」
「十二時か十二時半くらいかな」
「へー、何系?」
「あー、うーんと、マーケティングって書いてあった」
「マーケティング? なにそれ?」
「市場調査」
「調査? 探偵みたいなこと?」
「うん、まあ。それの消費者版。消費者探偵」
「へぇ、大変そう」
「あー、でもたぶん落ちるよ。そういう仕事の経験ないし」
「いや、でもどうかなー。カタカナの職業ってだいたいブラックじゃん。ブラックだと常に超人手不足だから受かっちゃうよ」
「いや、それは知らんけど。でもまあ試しに面接行ってみるだけだから」
受かることはあるまい、ともうほぼ諦めていた。すんなり決まったとしたら、それこそ妻の言う通りブラックなのだろう。入った人がどんどん辞めていくような職場。それはわたしにも無論あてはまって、わたしもすぐに辞めることになって経歴がさらにひどいことになる。
「ちょっとスマホ貸して」
「え、誰に言ってんの?」と、妻が訊いてくる。
「どっちでもいいんだけど」
すると、妻がキッと娘を睨みつけ、スマホから顔を上げた娘がそれに気づいてわたしにスマホを差し出す。
「ごめんね。ありがと」
スマホを失った娘はスイッチで動画を見始めた。
オルタナティブ開発というのが会社名だった。求人サイトにそう出ていた。オルタナティブというのが、たしか二者択一とか取って代わるとかそんな意味だったから、そういうものを開発するのであればそれはそれで立派なことだ。そのためのマーケティングに携われるのであれば、ぜひその仕事をしてみたい。
しかし、驚いたことに「オルタナティブ開発」と検索してヒットした会社はひとつもなかった。自己啓発系のサイトや学者の論文の中に出てきた文言がヒットしただけで、どうやらここはホームページを持っていないようだった。今日日そんな会社があるだろうか。どんな小さな会社でもホームページくらいは持っている。
おかしいなぁ。おかしいぞ。
むしろ、俄然興味がわいてきた。好奇心に火が点いて止められなくなってきた。性に関するマーケティング。これほどうさんくさい仕事があるだろうか。
娘にわたしのスマホを返し、寝っ転がって映画を観た。ホラーパニックものの日本映画でなかなか悪くない出来だったが、明日の面接のことが頭の半分くらいを占めていて全然集中できなかった。観終わった後にわたしはいつも評価とコメントをするようにしているのだが、☆三つつけただけで、コメントは思い浮かばなくて諦めた。上手い文言が思いつかず、それなら書かない方がましだった。
*
お昼を軽く食べた後、駅まで歩いて電車に乗り、上野へ向かった。電車の中は中途半端な時間ということもあって空いていた。本もスマホも持ってきていたが見る気になれず、ぼーっと外を眺めながら時間を潰した。わたしの前の席にはすごく太ったおじさんが口を開けて寝ていて、一人で二人分の場所を取り、盛大ないびきを車両中に響き渡らせていた。
上野駅に着くと、グーグルマップの案内に従って経路を歩き、十五分ほどでオルタナティブ開発の入る日神ビルに着いた。四階建ての二階で一階にはピザの宅配店が入っていて、脇は狭くて急な階段があった。そこをを上ると「オルタナティブ開発」と黄色のテプ〇で貼りつけてあるアルミ製摺りガラスのドアがあり、その脇にむかし団地でよく見た親指大ほどの呼び鈴ボタンがあった。
ボタンを押し、しばらく待っても反応がなかったので、もう一度押してみた。
「は〜い」と、中年女性の声が聞こえ、ややあってからドアがガチャッと開いた。
想像してたのとは違っていた。
まるまると肉まんのように気持ちいいほど太った五十過ぎのおばさんで、たしかに肉感的ではあったが方向性が違ってた。スリットの入ったタイトスカートではなく、お花柄の膝下までのふわふわスカートで、ストッキングではなく、ももひきのようなものを履き足には便所サンダルを突っかけていた。
「脇田です。転職〇ビで応募した」
そのまま帰ろうかとも思ったが、このタイミングではもう難しいし、奥からあの電話の女性が出てくるかもしれない。
「あ、はい。こちらへどうぞ」
右側に事務机が五台並べて置かれていて、それぞれパソコンとキーボードがある。左手前側の席には眼鏡をかけた五十くらいのおじさんが波平型に禿げた頭を蛍光灯で光らせながら、画面とにらみ合っている。
左側にはこげ茶色の年季の入った革張りソファの間に黒いローテーブルが置かれていて、わたしは奥側のソファに案内された。
「どうぞ、おかけください」
わたしは座る前にカバンから履歴書を取り出し、おばさんに手渡した。
「あの、すみません。電話の女性は?」
「ああ、れいなちゃん。あの子は在宅勤務だから」
くそ。それじゃあ、わざわざ来た意味がないじゃないか。
ソファにどかっと腰を下ろすと、おばさんも向かい側のソファに座った。
「わたし、ここの代表をさせていただいております大河内しずかと申します。よろしくお願いします」
おばさんは頭を下げ、わたしも礼を失しないように同じくらい頭を下げる。
「あのー、求人票でご覧になられたかと思うんですが、あのー、うちはね、マーケティングっていっても特殊なマーケティングリサーチをするところでして、あのー、うん、あのー、人間の三大欲求ってご存知ですか?」
「あ、はい。性欲、食欲、睡眠欲ですよね」
「ええ、あのー、正解です。その、あのー、それでー、食欲と睡眠欲に対しては、いろんなマーケティングがされていて、あのーみんなすごく前向きじゃないですか」
「前向き?」
「ええ」と、おばさんは頷く。「あのー、たとえば食べ物のCMとかレストランとかすごい計算して、研究してやってますよね。でもー、それが性欲になるとみんなとたんにいい加減っていうか闇業者か風俗店とかが適当に当てずっぽうでやってる感じになりますよね。それっておかしくないですか」
まあ、たしかに。
「あのー、性欲も食欲や睡眠欲みたいにきちんと満たしておかないと、犯罪とか変質者とか変態みたいな感じになるんですよ」
「はあ」それは極論だろうと思いつつ、曖昧な返事をした。
「あのー、それで、そのマーケットリサーチをするのを思いついて起業したんです。性欲のマーケティングリサーチ会社」
「でも、性欲は満たされなくても死なないですよね」
「あのー、それはよく言われることなんですけど、死なないですが病んでいきます。心と身体が病んでいくんです。マスターベーション、あのーいわゆるオナニーですね、あれをずっと一日何回もやらなければ気が済まないとか。二十四時間、寝ても覚めてもエッチなことばかり考えているとか、もうこれは病気です。あのー、心と身体が満たされない性欲で病んでいるんですよ」
わたしのことじゃないか。
「あのー、過食症やナルコプレシー、俗に言う居眠り病ですね。あれと一緒です。性欲の調整機能が壊れてしまっていて、あのー車でいうとずっとアクセルを踏みっ放しの状態になっているわけです」
おばさんと目が合い、わたしの目は泳いだ。
「あのー、たとえば週に何回セックスをすれば満たされるのか。それは奥さんがいいのか、それとももっとタイプのきれいな女性がいいのか、とかいろいろあると思うんですよ。あのー、ちなみに脇田さんの場合はどうですか。ここは別にいいですから、きれいごととか抜きにしてぶっちゃけどうですか?」
「きれいごと抜きで?」
「ええ」
「じゃあ、長田まさみと有沢架純と池村エライザを一日ずつローテーションで」
「あのー、一日ずつというと毎日、毎晩ですか?」
「ええ、この三人なら毎晩でも全然。足りないくらいです」
「ご結婚されてますよね?」
「ええ、娘もいます」
「奥さんはそこに入れないんですか?」
「ええ、入れないでしょうね。ぶっちゃけ」
「あのー、それはどうしてですか?」
「あのー、それはですね。長田まさみと有沢架純と池村エライザの方がいいからです。セックスする分には。あくまでそれは、あのー下半身というか、性欲ですから」
「愛情とはべつものということですか?」
「はい。単なる性欲ですから」
おばさんは履歴書に目を落とし、小さく鼻から息を吐いた。
「はい、分かりました。面接は以上になります。採用の場合のみ数日以内にご連絡いたします」
「あ、はい」
これは面接だったのか。
おばさんが立ち上がり、わたしも立ち上がらざるを得なくなる。
「お忙しい中、本日はありがとうございました」
丁寧に腰を折ってそう言われ、わたしも軽く頭を下げた。そしてドアのところまで見送られ、わたしはオフィスを後にした。
一週間経っても、二週間待っても連絡は来なかった。
わたしはその理由がいまだに分からない。
[了]