長編小説2 夢落ち 10
無為に時間だけが過ぎて行き、その間、僕は喉の渇きと空腹感が募ってくるのを感じ続けていた。飲まず食わずでいたせいで幸い尿意やら便意からは免れていたが、それは時間の経過と共に次第に苛烈なものへと変化していった。兵糧攻めというやつだろうか。僕がここにいることは彼らには分かっているはずで、飢え渇いていることは考えるまでもなく想像がつくだろう。思考力を奪い、生殺与奪の力をしっかりと意識させることで、ストックホルム・シンドロームのような効果を狙っているのかもしれない。
窓の外を眺めたり、床に寝転んだり、椅子に座って考え事をしたりしているうちに、日が落ちて夜になった。天井の間引きされた蛍光灯はずっと点いたままで、そのスイッチも部屋中探してみたが見つからなかった。きっとドアの外側にあるのだろう。
佳奈子はあの時、どこからどう入ってきてどうやって出て行ったのだろうか。足音やドアを開け閉めする音は聞こえなかった。見た限りでは、どこか隠れられるような場所もない。音もなくやってきて僕を射精に導き、そして石沢から逃れるように姿を掻き消した。
──あぁ、だめ。あの人が来る。
僕は死んだはずの幽霊と会ったのだろうか。石沢と佳奈子との間に、何か決定的なことがあったことだけは確かだ。それは性交や殺人ですらない。それらを超えた何かとてつもなく異常なことがあったのだ。そもそも佳奈子は生きているのだろうか。それとも死んでいるのか。僕も彼女と同じく死んだことになっているらしいが、それは彼らが細工をして人々を騙しているだけのことだ。菅野もそうはっきりと認めていた。きっと、僕は死んでいない。
夢落ち。菅野と石沢がそう言っていた。確か、赤羽の本屋にある「世界残酷物語」という本を買って読めば、その夢の中にずっといられるという話だった。この夢の家とかいう教団だか団体は、その夢落ちしてきたある一人の人物によって設立された。そして現在死に瀕しているその人に代わり、後継と目されているのが石沢ということだった。教祖に祭り上げられているといった感じだろうか。
俄かには信じ難い。そんなものを一度頭から信じてしまえば、現実など一気に吹き飛んでしまう。菅野が長々と喋り続けた夢についての講釈のようなものは、おそらく科学的根拠に基づいた事実だろう。しかし、それと夢落ちを直線で結ぶのはいかにも乱暴だ。事実と嘘を絶妙に取り合わせるというのは腕のいい詐欺師がよくやる手法で、善良な人を騙すのには欠かせない手口だ。何か裏がある。きっと、裏がある。そういった大胆な嘘の陰に真実が巧妙に隠蔽されているのだ。石沢もこいつらに騙されている。本当にその夢落ちとやらを成功させたと思っていて、強姦殺人の罪をなすりつけられているだけとはまったく気づいていないのだ。
突然、ガチャっという音と共にドアが開き、狐目の女が入ってきた。
僕の股間を玄関先で蹴り上げたあの女だった。今度はパンツスーツではなく、タイトスカートだったが。
「吉澤っていいます。先生からあなたの様子を見に行くようにって言われたから」
日没から四時間余りが経過していた。そのとき床に寝転がっていた僕の前に立ち、傲然と見下ろしながら彼女はそう言った。投げ遣りでぶっきらぼうな口調だった。少なくとも、僕にはそう聞こえた。
「……腹が減ってるんだ。それに喉も渇いてる。何かくれないか」
僕は女のスッと伸びたしなやかな脚を目で捉えつつ、そう訴えた。それは薄いストッキングに包まれ、タイトスカートの裾、膝の上辺りから始まっていた。
「あら、そう。早く言えばいいのに。すぐ持ってくるわね」
狐目の女は、ヒールの音を響かせつつ、ドアを開けて出て行った。そして、十分後くらいに戻ってきた。吉澤はお盆を持っていて、その上にはサンドイッチと大きめのグラスに入った水が載っていた。
僕はとりあえず床から起き上がって、椅子に腰掛けた。すると、女は僕の脇に膝を合わせてしゃがみ込んだ。
「はい、あーん」
後ろ手に縛られている以上、そうするしかなかった。彼女は手を伸ばし、トマトとマヨネーズとハムの挟まったサンドイッチを僕の口元へと運んだ。
嚙んで口に含んだ瞬間、脳の中がとろけそうになった。マヨネーズのまろやかさとトマトの酸味、それにハムの塩気が舌と口全体を通して脳へダイレクトに刺激を伝えた。
僕は夢中で咀嚼し、またたく間に一つ平らげた。
「アッハハ。そんなに焦んないで」
吉澤はグラスを持ち、僕に水を飲ませた。なぜこんな介護のようなことをさせられているのか不満に思わないでもなかったが、彼女の飲ませ方はいかにも上手かった。こういうことを日常的にしているような馴れた感じもした。
「はい、また行くわよ。あーん」
今度はレタスと卵の挟まったものを口に近づけてきた。僕は大きく口を開け、夢中でパクついた。さっきほどではなかったが、充分に美味しかった。この調子だとサンドイッチならいくらでも食べられそうだった。
女はしゃがみ込んでこちらを見上げ、細い目をさらに細めて終始微笑んでいた。まるで赤ちゃんに離乳食を与えている母親のような表情をしている。
「あたし、そうやって男の人がガツガツ食べてるとこ見るの、すっごい好きなの」
一皿まるごと食べ終え、水を飲ませてもらっていると、彼女はそう洩らした。「なんか生きてるって感じがして、こっちまで元気がもらえる」
こういう状況で言うセリフでもない。恋人同士が最初のデートででも交わす言葉だ。監禁され、縄で縛られ、餌でも与えるかのように食物を口まで持ってきてもらっている状況で、当然そんな気分にはなれない。
「いい? もうちょっといる?」
僕は軽く頷いた。
「もうちょっと欲しいかな」
なにしろ腹が減っていた。五切れほどのサンドイッチでは、到底満たすことのできないくらい。
「分かった。すぐ持ってくるから」
女は飛び跳ねるように立ち上がり、パタパタとヒールの音を響かせながらまた部屋を出て行った。どうやら、そんなに悪い女ではないらしい。
女が再び戻ってくるのを待っている間、僕はあの時の状況をもう一度思い返していた。石沢の妻のれいと三時に待ち合わせをして、駅前で僕は彼女が来るのを待っていた。だが、三十分か四十分ほど待っても彼女は現われず、代わりに携帯に電話がかかってきた。遅くなりそうだから、自宅で待っていてくれというれいからの連絡。僕は自宅の住所を彼女に教え、何か食べる物を用意して彼女が来るのを待っていた。そして、インターホンが鳴り、僕がドアを開けると先程の狐目の女、吉澤が立っていた。彼女は僕の氏名を確認した後、股間を思い切り蹴り上げた。そして、倒れ込んだ僕の側頭部にとどめの一発を蹴り込んだ。正確で迷いのない一発だった。躊躇も無駄な動きも一切ない。職業軍人か殺し屋ような完璧で見事なプロの手際。身長や体格に勝る相手に対して、どう戦うべきかの模範例。
「おまたせー」
狐目の女は明るい屈託のない声でそう言いながら、ドアを開けた。おにぎりの載ったお皿を手に持っている。
「ごめんねー、こんなのしかなくて」
石沢はれいの携帯に、盗聴器を仕掛けていたと言っていた。それで僕の住所を突き止め、急襲させた。僕はれいに、石沢の消息を伝えようとしていた。佳奈子が殺されたホテルの防犯カメラに、石沢の姿が映っていた、と。
「あんたらはいったい何なんだ?」
吉澤が僕におにぎりを食べさせようとしゃがみ込むと、僕はまっすぐ顔を見下ろしながら問い質した。
「何ってなに?」
吉澤は僕の口におにぎりを近づけてくる。
「はづきね、そういうのよく分かんないんだけど」
はづきというのは、おそらくこの女の下の名前だろう。
「分かんないじゃない。さっきの菅野とかいう男は、夢の家とか何とか言ってた」
僕はそう言い終わると、口を開け唇に押し当てられていたおにぎりにかぶりついた。
「じゃあ、そうよ。分かってんじゃない」
咀嚼すると、中から梅干しが出てきた。種ごと入っている。
「あいつがそう言ってるんだから──」
突然、窓ガラスが割れる大きな音が部屋の中に鳴り響いた。
割れたガラスの破片が床に降り注ぎ、髪の長い女が部屋の中へと滑り込んできた。
床に膝を着き、髪を掻きあげながら女はこちらの方を見る。
れいだった。白いワンピースの裾が、太腿のあたりまで捲れ上っている。
僕らは一瞬目が合う。そして、僕の足は思い切り吉澤はづきの腹を蹴り上げていた。
「ぐっ!」
持っていた皿を取り落とし、はづきはそう低く呻いて蹲った。僕はそこへもう一発、顔のあたりへ向けて蹴りを放った。
爪先が彼女の顎へヒットし、上半身が後方へ仰け反った。そして、後頭部を打ちつけながらそのまま床へと倒れ込んだ。
れいはよろよろと立ち上がり、ふらつきつつこちらへ近づいてきた。
「…ねぇ、ちょっと……」
顔面は蒼白で、喫茶店で見たあの美しい黒髪はひどく乱れていた。
「…すみません。来てくれたんですね」
彼女は僕の前に立ち、荒い息を吐いていた。上半身をやや前屈みに傾け、焦点の合わない目でこちらをぼんやりと見ている。
「ねぇ、ちょっと……」
れいはさっきと同じ言葉を繰り返した。今にも倒れそうだった。
「すみません。これだけ取ってください」
僕は椅子から立ち上がり、ロープできつく縛られた手首をれいの方へ向けた。振り返って見ると、彼女は相変わらず荒い息を吐いたままその結び目をじっと見つめていた。
「切るかほどくかしてください!」
大声を出してみた。れいは完全に放心状態にあるように見えた。
「あっ…ああ」
曖昧に頷き、僕と一瞬目が合った。そして、慌てて気づいたように手首のロープへと手を伸ばした。
れいはしばらくの間、ロープをいじくっていた。だが、結び目が固く手に力が入らないようで、まったく歯が立たない様子だった。
僕は焦った。菅野だか他の連中だかが、ガラスの割れた音を聞きつけて今にも駆けつけてくるだろう。
「じゃあいいから! この女のポケットから鍵を!」
顎をはづきの倒れている方へしゃくる。さっきこの部屋に入ってきた時に、ポケットの中に入れているのを見ていた。
「え? へっ?」
虚ろな目でそう訊き返された。
「だから! その倒れてる女のポケットにここの鍵が入ってますから!」
ほとんど怒鳴りつけていた。でも、そうでもしないことには、彼女の頭には届かない様子だった。
「あ、ぅん」
相変わらずぞくっとするような声だったが、いかんせんこの場では頼りなかった。だが、れいは僕の手首から手を離し、ふらふらと倒れているはづきの元へと近づいていった。
「確か右です。スカートの右側のポケット」
「右ってどっちよ!」
そう訊き返してきた。ようやく声に張りが出てきている。
「そっち。手前側です」
れいはタイトスカートの腰のあたりに手を突っ込み、黄色いタグのついた鍵を引っ張り出した。
「あった! これ?」
「ええ、たぶん」
僕はすぐにドアの方へと駆け寄った。そんな僕の様子を、れいは鍵を持ったままじっと見ている。
「早く! ここ!」
僕は地団駄を踏みながら、彼女に向かって叫んだ。
「あ、うん」
何度か小刻みに頷いた後立ち上がり、れいはこちらへ歩いてきた。
「ここです」
僕はドアの下、鍵穴のあるあたりを腰を使って示した。
「あ、うん」
れいは、覚束ない手つきで鍵を何度か鍵穴に挿そうとした。ガチャガチャと音を立ててながら手間取り、五度目のチャレンジでようやく奥まで挿さった。
「右です。たぶん」
れいは僕の指示通り、右へ鍵を捻った。すると、カチャンと小気味いい音がしてドアの鍵が外れた。
「鍵抜いてってください」
ドアノブに手を伸ばし、そのまま出ていこうとしていたれいに僕はそう声を掛けた。「鍵がかかってないと奴らに気づかれるかもしれないし、あの女が意識を取り戻して仲間に伝えるかもしれない」
「そういやそうね」
れいは勢いよく鍵を引き抜くと、ドアを引き開けた。僕らは廊下へと抜け出し、外から鍵をかけて吉澤はづきを部屋の中へ閉じ込めた。
*
廊下はひっそりとしていて人気がなかった。
れいと僕は足音を殺して、左の方向へと進んだ。人気がないといってもこうして天井の蛍光灯は点いているわけだし、少なくとも菅野や石沢はこの建物のどこかにいるはずだった。
リノリウム張りの廊下の左右には、A‐4だとかB‐7だとかいったプレートのついたドアが、五、六メートル置きに並んでいる。最初の印象通り、使われなくなった大学か科学技術の研究センターのような施設に見える。はづきはいったいどこから、あのサンドイッチやらおにぎりを持ってきたのだろう。給湯室か調理場のような部屋があるのだろうか。
「あっ、あれ!」
出し抜けにれいが大きな声を出した。廊下を曲がった前方に、階段が見えたのだ。下に降りれば外に出られるかもしれない。
だが、その直後にその階段の下の方から、大きな足音が聞こえてきた。おそらく階下にいた何者かが、れいの声を聞きつけて階段を駆け上がってきたのだ。
危機を察知した僕は、咄嗟に階段の方へ向かって走り出していた。そして、踊り場を曲がって階段を駆け上がってくる、小太りでスキンヘッドの男を視界に捉えた。
「うっ!」
低い野太い声を発し、スキンヘッドは一瞬足を止めた。そこへ僕は勢いよく肩から突っ込んでいった。
スキンヘッドと僕の身体は折り重なるようにして階段から踊り場へ向かって吹っ飛び、強い衝撃と共に着地した。
僕の方は男の身体がちょうど上手い具合に下敷きになって、大した怪我はなかった。だが、スキンヘッドの男の方は思い切り後頭部を床に打ちつけ、そこから赤黒い血が溢れ出していた。
れいがパタパタというパンプスの音を響かせつつ、階段を駆け下りてくる。
「ちょっと、大丈夫?」
「…こっちはいいけど、こいつはどうかな」
れいは屈み込み、男の禿げ頭に手を遣った。
「ほっとくとマズそうね。すぐに死んだりはしないだろうけど」
だが、僕らは男を放っておくことにした。救急車を呼ぶわけにもいかないし、きっと誰かがそのうち気がつくだろう。
階段を降りて一階に着くと、すぐ脇に建物の非常出口のようなドアがあった。内側に鍵がついていて、れいが横になっていた鍵のツマミを縦に回すと、ドアはあっけなく開いた。
外はかなりひんやりとしていて、やや肌寒かった。風も出ていて、中とは温度が二、三度は違うように感じられる。
「こっち!」
れいは僕の肩を摑み、引っ張った。きっとどこか当てがあるのだろう。
出て左側にはアスファルトで舗装された広い駐車場があり、全部で十台ほどの車がバラバラに駐車してあった。右側には背の高い木々が密集して生い茂る林が、建物を取り囲むようにして視界の果てまで続いていた。れいが僕を引っ張っていったのは、こちらの林側だった。どうやら、駐車場に車を停めているというわけではないらしい。
11へ続く