長編小説2 夢落ち 15
「これ、食べて早く薬飲んで」
バターを塗ったパンと水の入ったコップを、れいがお盆に載せて運んできてくれた。
「ああ、すまん」
僕は手を伸ばして皿からパンを取り、ゆっくり食べた。そして、もらってきたビニール袋の中から三種類の薬を取り出し、コップの水で飲み下した。そして、一緒に入っていた湿布を痛みの強い部分に貼る。
「湿布なんかでほんとに治るの?」
僕は首を横に振った。
「いや、知らない。入院も必要ないって言うし」
現時点で立ったり歩いたりできないことだけは確かだ。だが、それも徐々にできるようになっていくのだろうか。
「今日たまたま休診日でよかった。あなたがこんな状態だったら、仕事なんて行けないでしょ」
確かに。一人ではトイレにすらろくに行けないだろう。
「まあ、ちょっと休んでて。して欲しいことあったら言ってね。それとも蒲団に横になった方がいい?」
僕は、いや、このままでいい、と答えた。妙な言い方だが、決して体調が悪いわけではないのだ。ただ、立ったり歩いたりできないだけで。
「あ、そう。じゃあ洗濯機回したいから、何かあったら大きめの声で呼んでね」
そう言って、れいは洗面所の方へと行ってしまった。
僕はコップの水をもう一口だけ飲み、テーブルの上に置いてあったリモコンを取ってテレビを点けた。まったく現実感が湧かなかった。今頃、仕事で最も忙しい時間のはずだった。
平日の昼間ということもあって、旅番組や料理番組、ワイドショーなどがのんびりとした調子で放送されている。他にやれることもなく観るとはなしに観ていたら、十一時になっていた。NHKにチャンネルを回すと、ニュースが始まり今朝やっていた事件の続報が流れていた。
「昨日東京都北区のホテルで書店勤務、迫田佳奈子さんの変死体が見つかった事件で、警視庁は殺人事件と断定。死亡推定時刻にこの女性の部屋に出入りしていた男の映像を報道各局に公開しました」
画面が切り替わり、ホテルの廊下を奥から歩いてきた男がドアに手を伸ばすところまでの映像が、二回繰り返された。そして、男の顔を引き伸ばした画像が画面の中央に映る。
「警視庁はこの男が何らかの事情を知っているものと見て、情報提供を呼びかけています。警視庁赤羽警察署、東京〇三‐三九××‐五七××。東京〇三‐三九××‐五七××」
男の顔の画像が大写しになったまま、画面下にテロップで情報提供の連絡先が表示されていた。きっと、この電話回線はしばらく鳴りっ放しになるだろう。なぜならそこに映っていたのは、紛れもなく僕の顔だったからだ。
痛みに耐えながら、近くに立てかけてあった松葉杖を使って立ち上がり、時間をかけてリビングを横切った。そして、廊下に出てトイレに入ると、痛みに悶えながら苦労して便座に座り用を足した。
「大丈夫だった? 言ってくれれば手伝うのに」
トイレを出た廊下のところでれいと鉢合わせ、そう声をかけられた。
「一人で何とか行けた。それより、ちょっと行かなきゃいけないとこがあるんだ」
「は? あなた、何言ってんの。行くって、どこ? 職場?」
「ああ、…うん。まあ、そう、どうしてもやっておかなくちゃいけないことがあって」
れいは右手で頭を掻き、激しく首を振った。
「さっき、電話してたでしょ。電話じゃダメなの? 他の人にやっといてもらえばいいじゃないの!」
怒り心頭といった表情だった。顔が紅潮し、口の端が曲がっている。
「いや…、電話じゃちょっと無理なんだ。タクシーで行ってすぐ帰ってくるからさ」
すると、れいは眉根を寄せ、目を丸くした。
「タクシー? なんでタクシーなの? どうしてもって言うなら私が車で送ってくわよ」
埒が明かない。このままだと平行線だ。
「あっ……ちょっと、とりあえずソファーに座る。立ってると痛くて」
右足を浮かせるようにして松葉杖に寄りかかっていたのだが、確かに痛み出していたのは事実だ。
「大丈夫? こっち持ってよっか」
れいが背中と肩を支えてくれた。僕は松葉杖を何とか前へ繰り出し、五分ほどかかってリビングを横切った。
「洗濯とか家事とかあるでしょ。いやほんと悪いから、待っててもらってすぐ帰ってくるから」
そう早口で言って、電話機に登録してあったタクシー会社に迎車の電話をかけた。自宅の住所を告げると、十五分ほどで着けるということだった。
「あー、もう、わけ分かんない!」
れいはそう言って、リビングのドアを勢いよく閉めて出て行ってしまった。
もう時間がなかった。警察がいつここに踏み込んできてもおかしくはないだろう。
ソファーから降り、松葉杖を引き摺りながら窓のところまで這って行って、庭の方に降りた。置きっ放しになっていた靴を履き、松葉杖をついて立ち上がり、車の脇を通って家の前まで出る。そこまでで、だいたい十分くらいかかった。
しばらく待っていると、左側の道から黒塗りのタクシーが走ってきた。僕は松葉杖に腋を載せ、軽く右手を挙げた。
ひどく手間取りながらタクシーに乗り込むと、行く先を訊かれた。
「草津まで」
僕は適当に思いついた地名を言った。
運転手はハザードランプを消し、車を発車させた。
「お客さん、それ交通事故?」
三分ほど走って大通りに出たところで、唐突に訊かれた。
「ええ、…車にはねられちゃいまして」
「大変だね。じゃあ、お盆も松葉杖だ」
「それまでには治したいんですけどね」
バックミラー越しに目が合う。その表情からすると、幸いこの運転手はまだあのニュースを見ていないようだった。
いったい、どういうことだろうか。僕はあの東京のホテルには行っていないし、殺された女性も全く知らない。昨日の昼に発見されたということは、おそらく殺されたのは一昨日の晩から昨日の朝にかけて。その時間、僕はもちろん自宅で寝ていたはずだ。だったら、れいにそう証言してもらえばいい。なにも逃げるなどない。──だが、どれだけ思い出そうとしても、はっきりとした記憶が蘇ってこなかった。一昨日の晩に、自分がどこで何をしていたのか。きっと家で寝ていたはずだ。僕にはそう主張することしかできない。
僕によく似ている人がいて、その人がその迫田なんとかさんを殺したに違いない。しかし、テレビに映っていた顔は僕にあまりにも酷似していた。僕を知っている人たちはきっと、テレビの前で驚いてアッと叫んだことだろう。そして、それほど親しくない何人かの人たちは、テロップに出ていた番号に慌てて電話をかけたとみて間違いない。
「あー、ちょっと混んじゃってるね。お急ぎ?」
僕はかぶりを振った。
「いや、ゆっくりでいいです。夕方くらいまでに着けば」
口から出任せだった。当ても予定も計画もない。
「じゃあ、このまま行っちゃうね。脇道とか探してもいいんだけど、かえって遠回りになっちゃうかもしれないんだよね」
確かに。交通量は多いが、渋滞というほどでもない。走っていれば、そのうち空いてくるだろう。
「この道さぁ、草津街道っていってずっと走ってりゃ一本で行けちゃうんだよね」
適当に相槌を打ち、窓の外をじっと見つめる。その時、背広のポケットに入れていた携帯が鳴り始めた。
画面を開くと公衆電話からだった。僕はとりあえず電話に出た。
「木崎、お前何してんのや?」
声ですぐに分かった。
石沢からだった。
6
石沢は僕の古くからの親友で、学生時代はアルバイト先の先輩だった。大学を卒業してから石沢は一年余りフリーターで生活した後、医療機関向けの金融会社に就職した。二つ年上で、僕と同じ関西出身だった。
「何もしてませんよ」
「テレビ見たで。お前、やったんか?」
僕は鼻から溜め息を吐いた。
「やってませんよ。人違いですって」
「でも、映っとったぞ。思いっ切り」
どう説明すればいいのか、よく分からなかった。
「お前、いまどこや?」
「高崎の家出て、タクシーで草津方面へ向かってます」
三秒ばかし間が空いた。理由を考えていたのだろう。
「草津か。潜伏先としちゃ悪くないな」
「だから、やってませんって」
「んなもん、やっとるかやっとらんかは関係ないねん。とにかくお前、警察から追われとるぞ」
「どないしたらええんですかね?」
今度はしばらく間が空いた。
「よっしゃ。分かった。何とか線で草津口駅ちゅうとこがあるから、お前、そこの改札の前で待っとけ。上野から確か特急が出とるから、二時間ちょっとくらいで行けたはずや」
「そこで合流ってことですね?」
「せやな。それからな、お前、電話切ったらその携帯どっかで捨てろよ。電源切っとっても電波出てんねん。んなもん持っとったら、警察に筒抜けや」
その話はどこかで聞いたことがあった。だが、石沢に言われるまですっかり忘れていた。
「分かりました。どっかに捨てときます」
「じゃあ、改札の前やぞ」
そう言い捨てて、石沢は電話を唐突に切った。
携帯をポケットにしまうと、運転手に行く先を変更したいと告げた。
「えっ? どこ?」
「草津口駅」
すると運転手は、あぁと気の抜けた声を出した。
「吾妻線のなんとか草津口駅でしょ。じゃあ、どうせ途中だから。そこで誰かと待ち合わせ?」
勘のいい運転手だった。僕は、ええ、まあと曖昧に返事をした。
道沿いにぽつんと一軒だけあったコンビニに、トイレに行きたいと言って寄ってもらった。そして、駐車場の端に停まっていた大型トラックの荷台の上に、ポケットから取り出した携帯電話を放り投げた。松本ナンバーで長野に向かう長距離トラックだろうから、警察の捜査を大いに撹乱してくれることだろう。
道がさほど空いていなかったこともあって、長野原草津口という駅の前に着いた時には時刻は午後三時を回っていた。ひょっとしたら、石沢が先に着いて待っているかもしれないと思ったが、改札の前に姿はなかった。
駅の売店で新聞を買い、待合室のベンチに座って時間を潰すことにした。
トラックの荷台の上の携帯には、れいや警察からの電話が何度もかかってきていることだろう。電源を切っていたから実際に鳴ることはないが、れいのことだから留守番電話にメッセージを吹き込んでいるに違いない。それとも、もう東京から捜査員たちが来ているかもしれない。そして、今頃自宅でれいから事情聴取をしていたとしてもおかしくはない。
僕は人待ち顔に何度も改札の上にかかった丸い時計を眺め、傍の壁に松葉杖を立てかけて新聞を読み続けた。だが、四時半を回っても、石沢は一向に現われなかった。一面から社会面まで隅々まで読み尽くし、週刊誌でも買って来ようかと松葉杖に手を伸ばしたとき、改札の方から石沢の声が聞こえてきた。
「すまん、すまん。待たせたな。特急がなかなか来おへんかったんや」
灰色の長袖に、ベージュのチノパン。焦げ茶色のローファー。肩から斜めに小豆色の革鞄をぶら提げている。いつも通りの格好だった。学生時代からほとんど変わっていない。
「あれ、お前どないしたんや? それ」
石沢は僕が手を掛けていた松葉杖を指した。
「どうもこうもないですよ。車にはねられたんですわ。バーンと」
僕は右腰のあたりに手を当てた。
「はぁ? はねられた?」
「そんなにスピード出てなかったからよかったですけど、右脚いってしまいましたわ。あれ、スピード出とったら完全に死んでたと思います」
すると、石沢は口を開けて笑った。そういう男だった。
「ハハハッ! 警察から追われたり、車にはねられたり、ほんま大変やな」
笑いごとではない。どちらも僕にしてみれば死活問題だ。
「んで、んなことよりな、昼飯食いはぐってしまったから腹減っとんねん。どっかで飯食おうや。お前、どうや?」
ええ、まあ、と頷く。
「よっしゃ、じゃあ、そこの蕎麦屋でええか。俺な、地方行ったら蕎麦屋行って、どこが一番美味いか食べ比べとんねん」
わざわざ今そんなことをしなくてもとは思ったが、石沢は先に歩き始めてしまった。松葉杖を使って立ち上がり、痛みに耐えつつ何とか左脚と松葉杖だけで後を追った。だんだんと松葉杖の使い方にも慣れてきていて、コツのようなものが摑めつつあった。
蕎麦屋に入ると、石沢と僕は中程のテーブル席に座り、天ぷら蕎麦と山菜蕎麦をそれぞれ注文した。
「石沢さん、仕事のほうはええんですか?」
お絞りで顔と首元の汗を拭き、水に手を伸ばす。
「んなもん、お前が心配せんでもええねん。ばあさん危篤や言うて抜け出してきたわ。すぐ新幹線乗らなあかんって」
「ようやりますわ。後でバレません?」
水をゴクゴクと半分ほど飲み干す。
「持ち直した言うたらええねん。死にかけとったけど元気になりましたわって」
言われた側としては、ああ、そう、としか言いようがないだろう。疑ったり責めたりすることはできない。
16へ続く