長編小説2 夢落ち 13



 さて、どうしたものか。
 びたっとシーツの張られたベッドの端に腰を掛け、僕は腕組みをしてとりあえず深呼吸をした。首を曲げて天井を見上げると、蚊が一匹火災報知器の傍らに留まっているのを発見した。わりと大きなやつで、ぴくぴくと触角だか脚だかをひくつかせながら、逆さまになって天井にへばり付いている。
 ベッド脇にあったティッシュを一枚取り、二つに折り畳んで鼻をかむ。そして、それをゴミ箱の中に放り投げると、近くにあったデジタル表示の時計の数字をじっと見つめた。
 十九時十七分。
 ホテルのフロント係は夜景がきれいだと言っていた。だが、僕は閉じられたカーテンを開ける気にはならなかった。もちろん、そういう気分ではないからだ。
 ここは、本当に夢の中なのだろうか。
 僕はもう一度、同じ質問を自分自身へ向けた。
 こんなに明瞭な夢など見たことはない。荒唐無稽でもなければ、ふわふわした感覚や記憶の欠如もない。飛んだり跳ねたりもしない。空気の匂いや皮膚の感覚、それに人との遣り取りもリアルで、何一つ欠けることもない。──だが僕は、自分がれいとあの森の中の小屋に横たわっているのを知っている。石沢さんを探して、彼女と僕は一緒にあそこまで来たのだ。そして道に迷い、小屋を見つけ、暖を取るために抱き合って静かに眠っている。
 どこかで読んだことがある。夢は抑圧された欲望の現われなのだと。誰かに聞いたのかもしれない。たしかフロイトの言葉だった。つまり、僕はまだ佳奈子が殺されていないという仮定を勝手に脳内で作り上げ、その世界を夢の中で実現させよう試みている。そんな単純な図式が浮かび上がってくる。もしそれが本当なら、ここでどんな行動を取ったところで、何の意味も持たないことになる。要するに、儚い願望を空想の世界で作り上げているだけなのだから。夢から覚めれば全てが胡散霧消する。どんなに必死になって佳奈子を守ったところで、目覚めれば佳奈子が死んでいるという事実に変わりはない。
 洗面所で冷たい水で顔を洗い、そのまま手で水を掬っていくらか飲んだ。そして、傍に置いてあったタオルで顔を拭いていると、リンローン! と部屋の呼び鈴が鳴った。
 リンリンリン、ローン! リリリンローン!
 呼び鈴は執拗に連打されていた。最初、ホテルの人かとも思ったが、従業員がそういう押し方をするとも思えない。
 僕はタオルを洗面台の隅に置き、ゆっくりと玄関の方へ向かった。
 魚眼レンズからドアの外を覗くと、ソバージュヘアで化粧の濃い目付きの悪い女の顔が見えた。見覚えはなかったが、女はずっと呼び鈴を鳴らし続けていた。
「はい?」
 ドアを開け、僕は女に問い掛けた。
「クサカさん? 呼んだよね?」
 僕は面喰った。そして、顔を顰めてかぶりを振った。
「クサカじゃありませんし、呼んでもいません」
 女は昔バブル時代に流行ったような、ものすごい格好をしていた。たぶんボンテージとかいうキラキラするラメの入ったピンク色の服に、屈んだら下着が見えそうなくらい短いタイトスカート。
「ここ、四〇七号室?」
「ええ、そうです」
 女はほとんど睨みつけるような目付きで、僕の顔をまっすぐ見ている。
「あたし、四〇七号室に呼ばれたんだけど」
「でも、呼んでないし、僕はクサカさんじゃない」
 女は露骨に舌打ちをし、腕に掛けたハンドバックを揺らしながら腕を組んだ。
「ここプラダホテルよね。赤羽の」
「ええ」
 僕は鼻から溜め息を吐きつつ、頷く。
「赤羽の、プラダホテルの、四〇七号室に行けってあたしは言われたの!」
 そんなことを喚き立てられたところで、どうしろと言うのだ。
「きっと、その人が部屋番号を言い間違えたんじゃないですか。フロントで訊いてみればいいんではないですかね?」
 バカ丁寧な口調で、僕は女に言葉を浴びせかけた。
「きくって何を?」
 顎を突き上げながら、女は挑みかかるような口調でそう訊き返してくる。
「クサカさんって人が泊まってるかどうかですよ」
 すると、女は虚を突かれたように口を窄め、表情を緩めた。そして、掌を打ち、僕の顔を指差した。
「それ名案! そっか、そうすりゃいいわ」
 そしてそのまま詫びも礼も言わず、さっさとエレベーターの方へ向かって歩いていってしまった。僕は呆気に取られたままその後ろ姿を見送り、廊下の角を曲がって女が見えなくなるとドアを閉めて部屋の中に戻った。
 まあ、昔で言うところの娼婦。デリバリーヘルスとかいうやつだろう。ホテルや自宅に来てもらい、代金を支払って各種性的サービスを受ける。いったいいくらくらいするのだろうか。相場がよく分からない。出張費とかもおそらく取られるだろうから、そういう風俗店に行くよりもいくらか割高なのではないだろうか。それでも、業態として成立しているということは確かな需要があるということであって、様々な事情を抱えた男性のニーズを摑んでいるのだろう。
 洗面所に戻り、コップに入った歯磨きセットのビニールを破る。
 僕はこんなところで、夢の中で、いったい何を考えているのだろうか。性産業の需給バランスのことを真剣に考えたところで得るものなど何もないし、今考えるべきことはもっと他にある気がする。
 歯を磨きながら、鏡に映った自分の顔をじっと見た。そして、ふと、なぜ自分が歯など磨き始めたのか不審に思った。──何か意図があったのかもしれないが、もうよく思い出せない。気がついたら磨き始めていた。セックスを意識したからかもしれない。考え事をしていたから、そんな連想によって無意識に体が動いていたのだろう。
 いい加減に歯を磨き終えて口をゆすぐと、僕はこの部屋から出ることにした。上の佳奈子の部屋に行き、彼女をここに連れてこなければいけない。つまり、匿うのだ。ここが夢の中だかなんだかよく知らないが、佳奈子がすぐ近くにいてこれから殺されることが分かっている以上、僕は彼女を命がけで救わなければいけない。何としてでも殺すわけにはいかない。それが何の意味もない行為であったとしても、僕に選択の余地などないのだ。
 鍵をジーンズのポケットに突っ込み、部屋を出て、毛足の長い絨毯を踏みしめつつ長い廊下を歩く。
 刑事たちは、防犯カメラに映り込んでいた男が限りなく怪しいと言っていた。その男とはすなわち石沢のことで、独特の濃い顔立ちからして見間違いようもなかった。ただ石沢が佳奈子を犯して殺した犯人ではないことは、僕が知っている。長年の付き合いと直感から、そういう男ではないことはよく分かっているのだ。その防犯カメラの映像にしたって、所詮は状況証拠に過ぎない。犯行現場が実際に映っていたわけではない。
 ピーンという電子音と共に、狭いエレベーターの扉が開いた。僕は階上行きになっていることを確認してから乗り込み、五階のボタンを押した。
 じっと階数表示のランプを眺めながら、僕はそれがゆっくりと四階から五階へと切り替わる様子を見ていた。そしてピーンと再び同じ音がして、扉が開く。
 同じ色の絨毯が、同じような感じで廊下を埋め尽くしている。これくらい毛足が長いと、歩く時にほとんど足音がしない。おそらく夜や早朝、階下に響かないよう敷かれているのだろう。そして僕はその時、強烈な既視感に襲われた。この赤い絨毯と左右に部屋のドアが並ぶ廊下の光景は、ひどく見慣れているような気がした。
 僕はここへ来たことがあるのではないだろうか。──記憶にはない。だが、ホテルの廊下なんてどこも似たようなものだし、ホテルに泊まるという体験自体は、それこそ数え切れないくらいある。その中のどれかが、ここの廊下とよく似ていただけなのではないだろうか。
 嚙み切れない肉の塊をむりやり飲み込んだような感じを覚えつつ、僕は廊下の中ほどにある五〇二号室のドアの前に立った。ドアの右脇、ちょうど魚眼レンズの高さあたりにクリーム色の小さなボタンがある。これが部屋の呼び鈴で、さきほどあの女がしつこく押していたのもこのボタンだった。
 ゴクッと唾を一つ呑み下し、僕は右手の人差し指をそっとボタンの上に乗せた。鼻から息が洩れ、僕は目を瞑り、意識して息を整えた。
 リンローン!
 指を押し込むと、必要以上に大きな音が鳴った。的外れで不器用な音がした。さきほど部屋の中で聴いたものより、いくらか音が高いような気がした。
 十秒ほど待ってみたが、中からは何の反応もなかった。
 僕はもう一度押してみた。そして続け様に二、三度連打した。
 やがて、ドアノブが回転し、音もなく内側に開いた。
「やっと来た」
 ドアの隙間から佳奈子が顔を覗かせた。
「ずっと待ってたの」
 ドアがさらに開く。
 僕は大きく息を呑んだ。
 なぜなら、彼女は衣服を一切身につけていなかったからだ。

              *

 僕らは文字通りお互いの身体を貪り合うように、激しく性交した。
 そこには理屈も理由もなく、ただ加奈子の裸体を目にした瞬間に身体を走り抜けた、強烈な性衝動だけがあった。──僕は加奈子の形の良い胸のあたりに抱きつき、ベッドに押しつけて馬乗りになった。そして、自分の着ていたものを震える手で剥ぎ取ると、夢中になって彼女の身体を舐め回した。
 佳奈子は頻りに湿った溜め息を吐き、激しく身体を捩り、僕の背中や肩に両手を這わせて撫で回していた。僕はやがて身体を起こして加奈子の股を押し広げ、ヴァギナの中に硬くなった性器を挿入した。
「あっ…!」と、甲高い声を上げ、佳奈子は一瞬身体を強張らせた。だが、いったんペニスが一番奥まで入ると、僕の背中で強く腰を挟み込むように足を交叉させた。
「あぁ、きっもちいい……」
 その小さな呟きには、聞き覚えがあった。まだ夫婦だった頃、僕らは数え切れないくらいセックスをしていた。彼女の身体の滑らかさや乳房の弾力、ペニスを中に挿れたときの性器の感覚まですべて記憶の中にあった。僕がよく覚えているあの感覚だった。
「…ヘリオガバラス」
 佳奈子の乳房を両手で摑み、無我夢中で腰を動かしている時だった。
「何だって?」
 僕は身体を前に押し倒しながら、訊き返した。
「…ヘリオガバラスに気をつけて」
 彼女の髪を摑み、腰をさらに激しく上下させる。
「えっ?」
「……ヘリオガバラス」
 たしか刑事たちから聞いていた。だが、その時はそんなことを考えられる状態ではなかった。
「ああ、いくっ……」
 腰の奥の方に熱い疼きが滾ってきていた。
「あっ、いくいくいくぅ…」
 佳奈子も呼応するように、そう喘いだ。そして、身体が弓なりに反り、痙攣のように全身を小刻みに震わせ始めた。
 僕は手をついて、一旦上半身を起こした。そして、腋に彼女の太腿を抱え込んだところで、異変に気づいた。
「ねえ、もっと……!」
 僕は一瞬呼吸を止め、今自分が性器を挿入している女の顔をまじまじと見つめた。
 れいだった。石沢れい。
 彼女は下から僕の腰のあたりを摑み、股間を動かして性器の中を掻き回していた。よって、僕の意識とは無関係に彼女はピークを迎えつつあり、僕のペニスは今にも射精しそうになっていた。
 そして、そこはホテルの部屋ではなく、あのおもちゃの散らばった避難小屋の床の上だった。
 天井からぶら下がったランタンが揺れ、僕の頭の影がれいの白い乳房の上で踊る。
「ダメだ。ヤバい、いくっ…!」
 限界に達し、僕がそう叫んだ瞬間、肩と背中を暴力的なひどく強い力で摑まれた。そして、そのまま羽交い絞めにされ、後ろに引っ張られ、硬くなったままのペニスがれいのヴァギナの中からするりと抜け落ちた。
 僕は驚いて首を曲げ、後ろを振り返った。すると、そこには黒い人間がいて僕の両肩を抱え込んでいた。
「心配することはありません」
 黒い人間には目も鼻も口もなかった。ただ顔の真ん中より少し下あたりに、小さな穴が二つ横に並んで空いていた。
「わたしは味方です。信じてください」
 信じるも何もなかった。
「放しなさい」
 見ると、れいが立ち上がって、サバイバルナイフを手にこちらにその切っ先を向けていた。そんなもの、どこにあったのだろう。
「その人を放して。あんたヘリオガバラスでしょ」
「よくご存知で」
 ヘリオガバラスがそう低い声で答えるや否や、れいは足を踏み出し、ナイフをこちらへ突き出してきた。
「あぶないっ!」
 ヘリオガバラスは素早く僕の身体を、壁に向かって突き飛ばした。僕はおもちゃに躓いて床に転がり、見上げるとれいの腕はしっかりと押さえつけられていた。そして次の瞬間には、れいの手からナイフが奪い取られていた。
「この女はよこしまな存在です。あなたの知っている人じゃない」
 そう小声で呟きながら、ヘリオガバラスはれいの顔を切り裂いた。額から左顎にかけて顔がぱっくりと割れ、赤い鮮血が迸り出る。
「ここは危険な場所です。あなたがいてはいけない」
 ナイフを振りかぶり、今度は左の乳房から臍の脇あたりに向けて切りつけた。すると、そこから噴出した血によって、しなやかな黒い身体が赤く染まっていった。
 僕は顎と下唇を戦慄かせつつ、尻餅をついたままその惨劇から目を逸らすこともできなかった。れいは顔を切られた瞬間から意識を失ったようで、為されるがまま身体を切られると床の上に正面から勢いよく倒れた。
「大丈夫です。ミスタ。この女は生まれ変わります」
 歯切れの良い明瞭な声だった。
「わたしも何度も生まれ変わりました。何度でも生まれ変わって、何度も繰り返すのです」
 いったい何のことを言っているのだ。
「欲望とは肯定されるべきものであり、結果、否定されるべきものでもあります」



14へ続く


2023年03月30日