長編小説2 夢落ち 16
蕎麦が運ばれてくると、僕たちはそれをしばらく無言で啜った。麺にこしがあり、山菜もみずみずしくて美味しかった。学生時代にもこうして二人で蕎麦屋によく行った。関西人にとって、関東の蕎麦は夢中になれるだけの魅力を備えていた。向こうはうどん文化で、蕎麦屋の数自体非常に少ない。
「美味いな。長野、信州が近いからやろうな」
「信州蕎麦言いますもんね。でも、そんな近くもないんじゃないですか」
「なに言うとんねん。軽井沢とかこっからすぐそこやで」
地理関係がパッと頭に浮かんでこない。高崎に住んでいるのに、妙なことだ。
蕎麦屋を出ると、駅の通りの角にあったレンタカー屋で、石沢は黒い小型車を借りてきた。
「あった方がええやろ。お前の脚もそんなんやし」
脚もそうだったが、僕としては顔を見られて通報されることの方が怖かった。僕がそう伝えると、石沢はまた笑った。
「そんなんな、ニュースの映像なんて誰も覚えてないって。三分もせえへんうちに、頭ん中からきれいさっぱり消えとるわ」
そうだろうか。
「わたしの顔知ってる人はどうですかね」
石沢はうぅんと軽く唸る。「そりゃ、知っとる奴は覚えてるやろうけど、そんなんこんなとこで会わへんやろ。そんなん気にしとったら頭おかしくなるで」
石沢の言う通りかもしれない。それに、おどおどしていたりしたら余計疑われそうな気もする。堂々としていた方が、たとえ記憶の中にあって覚えていたとしても、勘違いかもしれないと思ってくれる可能性は高まるだろう。
車に乗り込み、石沢に松葉杖を後部座席に放り込んでもらうと、僕らはとりあえず車を発進させた。
「どっかアテはあるんですか?」
僕がそう訊くと、意外な答えが返ってきた。
「ないこともないねん」
はぁ、と僕は相槌を打った。「っていうと?」
「親父がな、むかし別荘で使ってた隠れ家みたいなとこがあんねん」
「隠れ家ですか?」
石沢は小さく頷く。「たしかこの近くやったと思うんやけどな。軽井沢の近辺やったから、近くまで行けば道分かると思うわ」
石沢の家は裕福な家庭で、かなりの資産家だと聞いている。軽井沢に別荘など夢のような話だが、実際にそういう人もいるのだ。
「すんません。何から何まで」
「何言うとんねん。お前と俺との仲やろ。当たり前や。ほとぼりが冷めるまで、お前そこで大人しくしとけ。食べもんとかは俺がまとめて運んできたるから」
上手く想像がつかなかったが、悪くはない提案のように思えた。
「ほんますんません。でも、ほとぼりが冷めるまでってどれくらいですかね?」
「冷めるまで言うたら冷めるまでや。警察の捜査が進んで真犯人が捕まるかもしれへんし、時間が経てばお前の容疑が晴れる可能性も出てくるやろ」
楽観的すぎるような気もしたが、たしかに可能性としてはゼロではない。
「んなもん、捕まったら終わりやで。死ぬ気で吐かんかったとしても、裁判で状況証拠とかで有罪にされて終わりや。あいつら、平気でそういう仕事しよんねん」
一度逮捕されたら、きっとそういうことになるだろう。警察にも意地やらプライドというのものがあるだろうから、自分たちの間違いを認めるようなことをしないのは確実だ。
「画像を公開したってことは、まあ、そういうことなんでしょうね。こいつが犯人やって決めつけて、こいつ以外に犯人はおらへんって言うてるようなもんですもんね」
「そういうことや。でも、あれほんまにお前やないねんな?」
「違いますよ。あの殺された人も知りませんし。とんだ災難ですわ」
僕は息をふぅと吐きながら、かぶりを振った。
「でも、よう似とったぞ。俺も『あっ、これお前や!』って思ったしな」
道路が空き始め、石沢はアクセルペダルを踏んでスピードを上げる。
「でも似た顔の人なんて、いっぱいおるもんでしょ。こういうのある度に、似た顔の人って間違って捕まったりしてるんじゃないですかね」
大きなカーブに差し掛かったが、石沢はスピードを緩めようとしない。
「聴取くらいはするやろうけど、逮捕まではせえへんやろ。そういう時、あのアリバイっちゅうのが出てくるんちゃうか?」
心臓が高鳴ってくるのを感じた。
「変なこと訊くけど、お前、アリバイってどないなっとんねん」
右手の甲で口元を拭い、髪の毛に指を突っ込んで頭皮を掻いた。
「そんなん、ちゃんとしてますよ。家で寝てましたわ」
車はタイヤを軋ませつつ、カーブの中程に差し掛かる。身体が遠心力で運転席側に引っ張られ、僕は腕を突っ張ってそれに耐えた。
「奥さんと一緒か?」
「ええ。寝室は別ですけど家に一緒におったと思います」
前後に車はいない。だが、見通しは悪く、カーブを曲がった先はどうか分からない。
「そりゃあかんな。たしか身内はあかんかったと思うわ。身内やと、かばうために嘘言いおるかもしれへんっちゅう話になんねん」
カーブを曲がり切り、前方にトラックの荷台が見えてきて、ようやく石沢は車を減速させた。
「それに高崎やろ。赤羽やったらJRで一本やから、一時間半くらいとちゃうか」
大宮まで新幹線を使えば、もっと時間は短縮できる。乗換えが上手く行けば、おそらく一時間弱といったところだろう。
「でも、とにかくやってないんやろ。お前があのホテルにも行ってないっちゅうんやったら、行ってないねん。嘘言うてるんとちゃうんやろ?」
石沢が、ちらっとこちらに視線を向ける。
「ええ、そうです」僕は頷いた。
「変なこと訊いて悪かったな」
いえ、大丈夫です、と僕は小声で答える。
だんだん自信が持てなくなってきていた。実際、考えれば考えるほど曖昧になってきている。まるでそこだけ抜き取られたかのように、記憶が欠落しているのだ。思い出そうと必死に努力はしていたが、どこを探してもないのだ。そこには、本当に何もない。僕は、何か大事なことを忘れているのかもしれない。
*
「ここや、ここ」
ウィンカーを切り、石沢は左の脇道へと入っていった。ずいぶん長く走っていたような気がする。昼間飲んだ薬のせいもあってか、僕は助手席でいつしか眠り込んでいた。
あたりには夕闇が迫っていて、山の稜線に沈みつつある太陽が赤く綺麗だった。
「えっ、もうこんな時間ですか」
車のデジタル時計は六時五十五分を示している。
「人が一生懸命運転しとるのを尻目に、よぉ寝とったなあ。鼾も掻いとったぞ」
ちらっと見えた青い道路標示には、鹿沼という聞き慣れない地名が書かれていた。
「鹿沼ですか」
「あぁ、もうすぐや。ちょっと道に迷ってしまって、遠回りしてしまった。まあ最後に行ったのが十年くらい前やし、記憶だけが頼りやからあかんな」
窓を開け、石沢は煙草を吸い始めた。道がひどく蛇行していたから気が気ではなかったが、煙を窓から吐き出しながら、石沢は片手で器用にハンドルを回していた。
「わたしも替われればよかったんですけどね。これが右脚じゃなくて、左脚やったらいけてたと思うんですけど」
「ええよ。そんなこと気にせんで」
石沢は吸い終わった煙草の吸殻を、外に投げ捨てた。
「黙って俺について来たらええねん。お前は何も考えんでもええわ」
僕は首を曲げ、石沢の横顔をじっと見た。もう辺りは暗くなっていて、表情まではっきりとは読み取れなかった。だが、よく見えていたとしても、何を考えているのかまでは分からなかっただろう。昔からそういう男だった。
細い道を二十分ばかし走ると、前方に病院のような大きな建物が見えてきた。白塗りの横長の建物で、所々の窓から白い蛍光灯の光が洩れている。
「ここに車停めとくぞ」
三、四十台は停められそうな広い駐車場に石沢はスピードを緩めつつ入っていった。
「はい? ここなんですか?」
「ちゃうわ。こっから歩きや。車入られへんねん」
僕はいささか面喰った。
「歩きですか? わたし、こんな脚ですよ」
建物に近い隅の方に車を停め、石沢はかぶりを振った。
「そんなに歩かへんから。ちょっとや。ちょっと」
自分だけ先に降り、後部座席から石沢は松葉杖を出してくれた。それに摑まりつつゆっくりと助手席から立ち上がり、車の外に出た。
駐車場と建物を取り囲むようにして、黒い鬱蒼とした森が広がっている。この中に石沢の別荘はあるのだろうか。それから、この建物はいったい何なのだろう。
「ここいったい何なんすか?」
率直に訊いてみた。すると、車の鍵を閉めながら石沢はこう答えた。
「なんや難しいよう分からん研究しとる施設らしいわ。誰も何も言うてこおへんし、親父もいつもここに停めとったからええねん」
たしかに駐車場はガラガラだし、迷惑はかかっていないだろう。全部で二、三台しか停まっていない。だが、ここまで少ないとかえって目立って危ないと思うが、石沢はそんなことは気にならないらしい。
「えっ、ここ入ってくんですか?」
建物脇の潅木の隙間に、石沢は足を踏み入れようとしていた。僕は松葉杖を使って必死に後を追っていたのだが、どこからどう見てもそこから先には森しかなかった。
「せやで。ちょこっとハイキングや」
こちらに振り向くこともなく、石沢はそう答える。もちろん松葉杖をついてハイキングなどできはしない。
「マジですか。この脚ですよ」
すると、石沢は足を止め、こちらにくるりと向き直った。
「おまえなぁ、俺がこんなに苦労してここまで連れてきたったのに、それ何やねん。お前のためやぞ。分かっとんのか?」
眉間と、髪を中分けにした額に深い皺が寄っている。湿布や薬が効いたのか事故直後に比べれば痛みはだいぶマシになってはいたが、暗闇の中、山道を歩くことなどこんな脚でなくても難しいだろう。
「ほい、これや」
肩から提げていた革鞄の中から、石沢は懐中電灯を取り出して点滅させた。
「足元照らしたるから頑張れや。お前のためやねん」
そう言われたら他に選択肢はなかった。僕は黙って頷き、左足に重心をかけて松葉杖を潅木の隙間へと踏み込ませた。
すぐ後ろから石沢が足元を照らしてくれてはいたが、やはり木々の間を縫って山道を歩くことは悪戦苦闘以外の何物でもなかった。きっと患部もひどく痛めてしまっているに違いない。もう、一生右脚は使えなくなっていたとしてもおかしくはない。松葉杖を振り出すたびに右腰に痛みが走り、それに耐えながら腕を突っ張って前へ身体を進める。
何故よりにもよってこんな時に事故に遭わなくてはいけないのか。あるいは、こんな事故に遭った後に、何故わざわざ警察から追われなければいけないのか。もしくは、こんな怪我をしている時に、何故わざわざ夜の山道を歩かなければいけないのか。三つの事柄が尻尾を食い合う蛇の輪のように、お互いにお互いの理由になっているような気がした。
「大丈夫か。おぶったろか?」
石沢は僕の遅々とした歩調に合わせて歩いてくれてはいたが、ついに痺れを切らしたのかそんなことを言い出した。
「そんなん、ええですわ。それよりまだですか?」
「ほんまか? 遠慮すんなよ」
立ち止まり、石沢は僕の胸のあたりを照らし出す。
「ちょっとや言うたやないですか。…あとどれくらいかって聞いとるんですわ」
全身汗塗れで、息が切れ始めていた。
「あと、たぶん五、六分や。我慢できるか?」
あと五、六分なら我慢できる。たしかに五、六分なら。
「ほんまですか? ほんまに五、六分ですか?」
すると、石沢は溜め息を吐いてまた歩き始めた。
「十分くらいかもしれへんな。お前、人の好意を無視すんなよ」
僕はいくらか憮然として、松葉杖で石沢の後を追った。木の根っこに左脚を引っ掛けて転びそうになったが、何とか体勢を立て直した。もう何もかもがどうでもよくなってきていた。脚が壊れるなら壊れればいい。早くこのハイキングが終わることだけを僕は願っていた。
結局、それから二十五分ほどかかって、僕らは一軒のログハウスのような小屋に辿り着いた。石沢は見せびらかすように、懐中電灯で小屋の隅々を照らし出した。何年も使われていなかったという割には、綺麗に手入れされているように見えた。
「ええやろ。これぞ山小屋っちゅう感じで」
「電気は来てるんですか?」
すると、石沢は鼻で笑った。「アホか。こんな山奥に来てるわけないやろ」
雨風がしのげて、廃屋や洞窟でないだけ感謝しなければいけない。トイレや洗面所や風呂も当然ないだろう。もちろんそんなものなくても、人間は生きていける。
ギィィという不気味な音を立てるドアを開けて、石沢が中に入っていく。そして、僕が遅れまじと松葉杖を前に進めると、小屋の中にパッと明かりが灯った。
「ランタンや。ランタン」
ライターをポケットに仕舞い、石沢はその明るいランプのようなものを天井から伸びた金具に引っ掛けていた。
「骨董品やで。でも、これよう持つねん」
赤い光に照らし出された顔が、僅かに微笑んだ。僕も開いたドアを通って中に入り、部屋をぐるっと見渡した。
広さとしては、七畳か七畳半くらいで、床も壁も剥き出しの木の合板のようなもので覆われていた。天井は三角形の屋根の裏側になっていて、丸太のようなものを組んで出来ている。雨が降り込まないか心配になったが、中のものが濡れていないということはおそらく大丈夫なのだろう。そして、部屋の左奥の隅には、黄色いチェック柄の布が被せられた何かこんもりとしたものがあった。
僕はとりあえず松葉杖を壁に立て掛け、痛みに声を洩らしつつ、ゆっくりと床の上へ腰を下ろした。
「あれ、何ですかね?」
壁に背中を凭せ掛けると、いくらか楽になった。
「あれって何や?」
「あれですよ。そこの布かかってる」
石沢もその場に腰を下ろし、胡坐を掻く。そして、チェックの布の方をちらっと振り返った。
「知らんわ。死体でも入っとるんとちゃうか」
僕は軽く笑った。よくこんな時に冗談が言えるものだ。
17へ続く