長編小説2 夢落ち 6




 ヘリオガバルス(エラガバルス)
 マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥスは、ローマ帝国第二十三代皇帝で、セウェルス朝の第三代当主。ヘリオガバルス、またはエラガバルスという渾名・通称で呼ばれることが多く、これはオリエントにおけるヘーリオス信仰より派生した太陽神エル・ガバル(「山の神」の意)を信仰したことに由来する。

 ヘリオガバルスであって、ヘリオガバラスではない。だが、放縦と奢侈に興じ、きわめて退廃的な性生活に耽溺したこのローマ史上最悪の君主が、ディックの元ネタになっていることはおそらく間違いないだろう。何故ディックがわざわざそんな人物の名前を使ったのかは不明だが、刑事がラとルを言い間違えたのかもしれないし、佳奈子がこの人物の名前を意図して書き記した可能性もある。
 だが、とにかくこの人物の行状は、ここに書かれた記述を読む限り凄まじいものがあった。
 自制心をもって慎重に生きるようにと諭した家庭教師を不愉快に思って殺害し、取り巻きたちを要職につけ、男性の愛人の奴隷を共同皇帝にしようとし、別の愛人の戦車競技の選手を執事長に任命している。最初の妻パウラと離婚すると、巫女のアクウィリア・セウェラを手篭めにして再婚して半年後に離婚し、アンニア・ファウスティナの夫を処刑して彼女と三度目の結婚をする。だが、この結婚もうまくはいかず、ほどなく離婚し、結局アクウィリアとよりを戻して四度目の結婚をしている。だがその年の内にまたも離婚し、今度は小アジア出身のカリア人奴隷で男性のヒエロクレスの妻となることを宣言。「ローマ皇帝群像」によれば、さらに同じく男性の愛人の戦車選手ゾティクスと結婚したとも伝えられている。
 元老院議員として宮廷に出入りしていたカッシウス・ディオは、「皇帝は、いつしか男を漁るために酒場に入り浸る習慣を持つようになり、化粧と金髪の鬘をつけて売春に耽溺した」と記している。
「……遂に皇帝は権威ある宮殿までも自らの退廃の現場とした。宮殿の一室に売春用の場所を用意して、そこを訪れる客に男妾として体を売ったのだ。ヘリオガバルスは売春婦がそうするように裸で部屋の前に立ち、カーテンをつかんで客を待った。そして男が通りかかると哀れを誘うような柔らかい声で甘えるのだった」
 そして即位から五年後の二二二年三月十一日、近衛兵の反乱によってヘリオガバルスは母ソエミアスとともに捕らえられ、二人は揃って処刑され、遺体は激昂した市民たちによって切り刻まれたうえテヴェレ川に捨てられたという。
 トランスジェンダー。ヘリオガバルスは、太陽神信仰の一つであるエル・ガバルを奉じる神官でもあった。そして、エル・ガバルは両性具有の神性を有していた。彼は故郷のエメサから持ち込んだ巨大な黒い隕石を神具として崇拝させ、毎朝、牛や羊が生け贄として捧げられたという。
 呼び鈴が鳴り、僕は紙の束を置いて立ち上がった。机の上の置き時計を見ると、五時五十分を指していた。確かに約束は守られたようだった。
 玄関まで小走りで行き、靴を軽く履いた。そして、一度大きく深呼吸をしてから鍵を回し、ドアを開けた。
 そこには、見知らぬ女が立っていた。
「あ、あれ?」
 てっきり、れいだとばかり思い込んでいた僕は、拍子抜けしてそんな声を発した。
 細い両目の端が吊り上がった、いわゆる狐目の女。肌が白く、真っ直ぐな黒い髪が肩の上辺りまで伸びている。ぴったりとした皺一つない薄いグレーのパンツスーツに身を包み、いずれの手にも鞄や荷物といったものは見当たらない。
「きざき・まもる?」
 抑揚を欠いた声で、女は僕の名前を問い質した。
「……ええ」
 僕は小さく頷いた。
 何の前置きもなしに、女の右脚が勢いよく振り上げられ、その黒いパンプスのつま先が僕の股間に思い切り当たった。
「うっ……」
 その瞬間、激烈な痛みが走り、僕は股間を押さえて蹲った。
 顔を上げて女を見ると、目が合った。だが、そこには何の表情も浮かんではいなかった。そして、女の足が今度は頭を狙って飛んできた。
 僕はとっさに避けようとしたが間に合わず、左耳のあたりに痺れるような痛みが襲ってきた。そして、僕は眼前に硬いコンクリートの床が迫ってくるのを感じた。鼻の先が潰れたような気がしたが、覚えているのはそこまでだ。そこから先の記憶は閉ざされている。

             3

 僕が生涯で意識を失ったのはこれで三回目だった。初めは小学四年生の頃、休み時間中、階段を駆け上がってきた時に踊り場のところでふらふらした。気づくと仰向きに寝かされていて、先生やらクラスメイトたちが上から僕の顔を覗き込んでいた。
 二回目は大学を卒業した翌年。夜中にビールを飲みながらテレビで映画を観ていると尿意を感じ、トイレに行って用を足そうとした。眠りから目覚めるように意識を取り戻すと、僕は便器を抱え込むように倒れていて、その時ぶつけたのか上唇の真ん中のところが深く切れていた。
 理不尽な体験であることは間違いない。意志とは無関係に眠らされるのだから。死ぬ時もちょうどこんな感じなのだろうか。だが、どうだろう。もっと苦しむかもしれない。意識を失う時、いずれも倒れた瞬間のことは覚えていないのだ。よって、そこに苦痛はない。
 脳を機械に例えるならば、いきなりコンセントを引き抜かれるようなものだ。電気の供給が途絶え、画面が黒く閉ざされる。よって、そこには意志が介在する余裕も隙もない。巨大な隕石が超光速で飛来し、一瞬で地球を粉砕してしまうのならば同じような感覚かもしれない。何も考える間もなく、人類やその他の動植物も絶滅してしまうのだから。人にもよるだろうが、理想的な死に方と言えなくもない。後には、誰も何も残らない。
 狐目の女にはきっと、協力者や仲間がいたのだと思う。僕を油断させるために女一人で来て、完膚なきまでにやっつけたところで仲間を呼び寄せて僕を運ぶ。おそらく、そういう手筈になっていたのだろう。
 意識がゆっくりと浮上してくると、まず自分が不自然な体勢でどこか狭い場所に押し込められているのを感じた。腰の後ろで、両方の手首が太い荒縄のようなものできつく縛り上げられている。脚は小学生の体育座りのように膝を折り曲げられ、手首と同じく足首もくるぶしのあたりでしっかりと結わえ付けられている。
 目と口も布のようなもので覆われ、後頭部でこれ以上ないくらいに頑丈に縛り付けてある。口の中には唾液でぐちょぐちょになったハンカチか布のようなものが入れられていて、猿轡をかまされているのとちょうど同じ状態だった。
 僕がいるこの空間は小刻みに振動していて、時折、停まったり進んだりしているようだった。つまり、車のトランクルームに押し込められているということが分かる。そして、僕の身柄をどこかへ移送している。
 殺されるのかもしれない、と咄嗟に思った。ああ、きっとこのようにして人は殺され、死んでいくのだ、と。すると、恐怖がどっと一気に押し寄せてきた。頭の芯のようなところがつめたく冷え、全身が痺れて瞬間手足の感覚がなくなる。
 確か僕はれいと会って話をする約束をしていて、自宅で彼女が来るのを待っていたはずだった。それで、舞い上がって油断していて、玄関のドアについている魚眼レンズを覗きもせず、不用意にドアを開けた。そして、狐目の女にあっという間に伸されてしまったのだ。きっとあの女は軍だか警察だか、そういう組織でみっちりと訓練された人間なのだと思う。動きに一切無駄も躊躇いもなく、急所を的確に狙ってきていた。石沢ももしかすると、同じようにどこかでこいつらに急襲され、姿を消したのではないだろうか。そして、今頃殺されるか、ひどい状態で監禁されている。
 だが、何故なんだろう。僕を拉致したり殺したりすることに、いったい何の意味がある?  
 石沢は仕事柄大きなお金を動かしたりしているから、恨みを買ったりすることもあるかもしれない。人の人生を変えるような額のお金を扱っていれば、そういうことがあってもおかしくはないだろう。どこかで知らないうちに虎の尾を踏み、いつのまにか復讐の標的となっている。
 だが、僕はそんなことはないはずだった。しがないサラリーマン本屋だ。一冊何百円か千円ちょっとの本を多くの人に売り、その僅かな利幅でアルバイトさんたちや自分たちの給料をむりやり捻出している。さらに光熱費や備品代もバカにはならないから、すべて差っ引くと儲けはほぼゼロかマイナスだ。そんな商売をしている人間に、いったい何を求めるというのだ。殺したところで会社と店がいくらか困るくらいで、何の意味もないだろう。
 石沢はそれに、佳奈子が殺された日の晩、同じホテル内で防犯カメラに映り込んでいる。刑事たちに気取られないように一瞬しか見なかったが、どう見ても石沢本人に間違いなかった。ある種濃いめの特徴的な顔立ちをしているからすぐ分かる。れいの言っていた石沢が失踪した日からだいぶ経っているはずだから、殺されたり監禁されたりしているのだという主張は辻褄が合わない。
 れいはいったい今頃どうしているのだろうか。
 まず初めに考えられる可能性が、僕の自宅へは来て、開け放しになっている玄関から不在を見て取り、電話で連絡を試みる。だが、携帯は部屋のどこかに置いてあったから、そこでむなしく呼出音が鳴っているのが聞こえるだけ。コンビニか近所のスーパーにちょっと買い物に行っているだけかもしれないと考え、部屋の前だか中だかでしばらく待ってみるが僕は一向に帰ってこない。そして、警察に通報するかどうか迷う。
 また他の筋書きも考えられる。僕の部屋の呼び鈴を鳴らしたところで、中からは僕ではない人物が顔を出す。そして彼女も僕と同じように縛り上げられ、目隠しをされてどこかへ連れて行かれる。
 そして、最後に頭に思い浮かんだのは、彼女が僕の自宅には来ていないというストーリーだった。そもそも向かってもいなくて、電話で狐目の女らに僕の自宅の住所を教え、急襲させた。石沢の失踪も実は狂言で、れいが殺してどこかの山中へ埋めるか海へ流すかしている。すると、この車に乗っている奴らは、れいが金で雇った殺し屋だかそういう商売の人間たちということになる。石沢の稼ぎも相当なものだろうし、彼女も開業医なのだから金に困ってはいないだろう。
 この偶然にしては出来すぎているタイミングといい、一番最後のストーリーが最もしっくりくるものではあったが、僕はそんなことを信じたくはなかった。頭を振って邪念だと振り払い、考えないようにした。喫茶店で向かい合っていた時のれいの顔を思い起こし、あの人にそんな疑いをかけることなど、邪念がもたらすよこしまな考えだと払拭しようとした。とにかく、彼女はそういうことをするような人じゃない、と。もちろん論理的な根拠はなく、まったくの直感、感覚的なものに過ぎない。だが、僕はそう信じたかった。
 蒸し暑さと不自然な体勢からくる身体の節々の痛みに耐えつつ、二時間あまりが経過した。無論、時計を見られるわけじゃないからあくまで憶測だ。長く感じただけで実は二十分だったかもしれないし、ところどころ意識が飛んでもいたから三時間以上経過していたとしてもおかしくはない。とにかく、ある時点でエンジン音と振動が止まり、車は動かなくなった。
 ザッザッザッという土を踏む足音が聞こえ、続いてトランクルームの蓋が開く音がした。目隠しの布越しに、微かに視界が明るくなるのを感じる。
「先生は?」
 女の声。
「いや、知らない」
 男の声。
「うわっ、けっこう汗かいてるな」
 同じ男の声。
「しょうがないでしょ。とにかく広間に運んどきゃいいのよ」
 女の声にはどことは知れないが、僅かに訛りが聞き取れる。
 男は舌打ちをして、鼻から溜め息を吐いた。
 縄で縛られた足首が力強く摑まれる。そして、上半身の方は脇の下から両腕が差し込まれ、僕の頭を分厚い胸板で押すようにしてぐっと上空に引き上げられた。
「そっちだ。そっち!」
 頭の方から男が怒鳴る。女は僕の膝から太腿あたりに手を移動させ、身体を何とかトランクから引き摺り出した。女の荒い息遣いがずっと聞こえている。
「せーの!」
 男が掛け声を発し、そのタイミングで僕の身体は空中に浮いた。そして、ゆっくりとした着実な足取りで頭の方へ向かって移動を始めた。細かい霧のような雨が顔に当たっていた。いくらか風も出てきているようだ。
 広間へ向かうと言っていたから、このまま海か湖に投げ込まれたり崖から放り落とされたりすることはなさそうだった。おそらく、殺す意図はない。だが、そう考えるのはまだ早いかもしれない。女はたしか「先生」と言っていた。つまり、その先生とやらの考え次第で、僕の身はどうなるとも知れないのだ。
 そんなに長い距離ではなかったと思う。肌に感じていた屋外の雨と風が途中でなくなり、どこか建物の中に入ってすぐにエレベーターに乗ったようだった。チンという懐かしい音がして下半身が一時床に投げ出され、上昇するときのあの感じがして、またチンと扉が鳴った。おそらく三階か四階。再び膝を抱え上げられ、廊下のようなところをしばらくまっすぐ進む。
「ふぅ……。おっもい…!」
 やがて半ば放り出されるようにして僕の身体から彼らの手が離れ、リノリウムのような冷たい感触の床の上に横向きに転がされた。
「ちょっと! 誰かついてなくていいの?」
「いい、いい。大丈夫だろ」
 男のほうはどうやらこういうことには慣れているようで、女のほうはそうではないようだった。
 二人の足音が遠ざかっていき、そして、ドアを閉めるバタンといういやに大きな音が聞こえた。
 静寂が訪れる。だが、よく耳を澄ますと、エアコンがたてる微かなモーター音が聞こえてきた。そして熱の籠もった身体に、人工的な冷たい空気の流れを感じる。
 視界を奪われ、手足の自由をなくすと、人はずいぶん感覚が鋭敏になるものだなと思った。状況判断の拠りどころとなるものがそれしかないために、アンテナを広げ、できるだけ多くの情報を集めようと脳が躍起になるのだろう。生き残るための本能のスイッチが入り、どうすれば生き延びることができるのか、その手掛かりを必死になって掻き集めているのだ。──暗い場所ではない。おそらく天井には蛍光灯のようなものが点いていて、それにある程度の広さがある。あくまで感覚でしかないが、自分の周りの空間がひどく開けているような感じがする。匂いは特にはしない。
 そこまで考えた時、床が揺れ始めた。ズズズっという重低音がはじめに聞こえ、初めは小さくゆっくりと、そして次第にだんだん強く大きくなってきた。
「……地震」
 近くで若い女の声が聞こえた。どうやらそこにしばらく立っていたようだった。
 地震は程なく過ぎ去り、また元通りの静寂に戻った。震度三か四といったところだろうか。
「ねぇ、……そこにいるんだろ」
 僕は声の聞こえてきた、右斜め上あたりに向かって呼びかけた。口の中には布状のものが詰め込まれていたから、実際にはそういう風に聞こえるよう唸った。
「静かにして。あいつらにバレちゃう」
 あいつら。僕を縛ってここに連れてきた奴らのことだろうか。
「……助けてくれ。頼む」
 声を低め、僕は女に懇願した。あるいはそんな感じで唸った。すると、女がこちらに近づいてくる引き摺るような足音が聞こえてきた。



7へ続く


2023年02月09日