長編小説2 夢落ち 18



「とまあ、ここまでがいわゆる現代科学の成果です。世界中に夢の研究をしている学者たちは数多くいて、明晰夢研究所なんていうものまであるんですよ。で、ここからが我々の本題なわけですが、ところで木崎さん、あなた、いま自分が現実のリアルな世界にいると思いますか?」
 僕は小さく溜め息を吐いて、菅野に問い掛けられた言葉を頭の中で反芻してみた。ここが現実のリアルな世界かどうか。たしかさっきもそんなことを言っていた。常にチェックせよ、と。その習慣を夢の中でも実行できれば、現在自分が夢を見ていることに気づくことができる。
「信じたくないけど、現実だろう。夢じゃない」
 菅野はパンと小気味良い音を立てて掌を合わせる。
「正解です。これは夢じゃありません。現実です。少なくとも今のあなたにとっては」
 含みのある、腑に落ちない言い草だった。今のあなたにとっては?
「これをご覧下さい」
 菅野はそう言って、背広の内ポケットから折り畳んだ紙を取り出した。
「これは契約書です。あなたのサインと拇印がここにある」
 紙を広げ、僕の目の前に突きつけた。
 ひどく細かい字で埋め尽くされた、A4サイズの薄い紙だった。そして、一番下の欄には確かに僕の筆跡のサインがあり、その隣に赤い拇印が押されていた。
「記憶にありませんね。そんな契約書見たこともない」
 何かの詐欺にでも巻き込まれたのかもしれない。契約書を捏造され、これからその金を払えとでも脅されるのだろうか。
 菅野は疲れてきたのか脚を崩し、胡坐を掻いた。
「無理もありません。選択的に脳が働いていますから」
 何の答えにもなっていないし、全く意味が分からなかった。
「お代は既に頂いています。あなたは土地や家屋も売って、それこそ全財産を我々に譲ってくださった」
 背中を丸め、菅野は前のめりに大きな顔を突き出す。
「私はさきほど夢の話をしました。ですが、おそらく何千回とあなたに同じ話をしているはずです」
 冗談を言っているようには見えなかった。目は充血して濁り、腕組みをした肩には力が籠もっていた。
「我々はもともと製薬会社でした。おそらくあなたもご存知の、世界的に有名な製薬会社の開発部門です」
 腕組みを解き、菅野は右手の人差し指を立てる。
「それは心臓病の薬の開発をしている時に、重大な副作用として報告されました。臨床でその薬を多量に飲んだ患者が、眠りから目覚めないという極めて致命的な副作用です。そして脳波にはさきほど私が申し上げたような、明晰夢を見ている時に特徴的な位相が現われていました。つまり、その患者はずっと明晰夢を見続けているということです」
 嫌な予感がした。この男のこれから言わんとしていることが見えてきていた。
「すでにお気づきかもしれませんが、あなたは我々の施設で眠り続けておられます。そして、あなたが眠られてから約七十年が経過しました。正確には六十八年と五ヶ月と二日。いま現在、我々は夢をコントロールする技術を、限定的にではありますが獲得しています。IEと直結させ、こうやって侵入することもできる」
 僕は渇いた喉に、むりやり唾を呑み込んだ。
「残念ながら、あなたの夢には異常が見つかりました。ヘリオガバラスというあなたの時代で言うコンピュータのバグのような存在が見つかり、あなたの夢は無限循環に陥ってしまいました。このヘリオガバラスというのが厄介で、ネットワークを介して他の被験者の夢にも出てくるようになっています。いわばウィルスのようなもので、あなたがその感染源です」
 菅野は長い溜め息を吐き、首を回した。
「我々のビジネスはいまや危機に瀕しています。ヘリオガバラスのことが空き待ちのお客様方に知れ渡り、辞退を申し出られるという事態が相次いでいます。回復不能なご病気に罹られたという理由で、感染源であるあなたを安楽死させられれば事態は収拾できるのですが、現在の法律ではそれは認められていませんし、契約上もそうなっています」
 僕は目の前に手を広げ、掌をじっと見つめてみた。壁の黒い影が僕の動きに合わせて揺らぎ、顔を上げて見るとランタンの火は今にも消えかかっているように見えた。
「ヘリオガバラスの言うことに耳を貸さないで下さい。あれは危険な存在です。あなたの夢を脅かすきわめて危険な存在なのです」
 見ると菅野の背後には、真っ黒な人影が立っていた。傍らには黄色いチェック柄の布がくしゃくしゃっと丸められている。きっと、ずっとあそこに隠れていたのだ。
 僕の視線を追い、菅野は首を曲げて後ろを振り向いた。だが、その瞬間、黒い人影は菅野を頭から丸呑みにした。影の口のあたりに、顔から首、グレーのスーツから黒い革靴まで一気に吸い込まれていった。
「心配することはありません」
 黒い影はそう言った。
 目も鼻も口もなかった。ただ顔の真ん中より少し下あたりに、小さな穴が二つ横に並んで空いていた。
「わたしは味方です。信じてください」
 信じるも何もなかった。
「ここは危険な場所です。あなたがいてはいけない」
 黒い影はゆっくりとこちらへ足を踏み出し、僕の前に片膝を立ててしゃがみ込んだ。
「欲望とは肯定されるべきものであり、結果、否定されるべきものでもあります」
 僕は金縛りにあったかように、指先一つ動かせずにいた。何の話を始めたのかも全く理解できない。
「ミスタ、あなたは『はらぺこあおむし』という話をご存知ですか?」
 はらぺこあおむし?
「その話の主人公はちっぽけなあおむしで、あるあたたかい日曜日の朝にたまごから生まれます。あおむしはお腹がぺっこぺこで、食べるものを探しはじめました」
 まるで子供に読み聞かせるように、黒い影は妙な節をつけて話し始めた。
「そして、月曜日、りんごを一つみつけて食べました。まだお腹は減ったままです。火曜日、なしをふたつ見つけて食べます。水曜日にはすももを三つ食べ、木曜日にはいちごを四つ食べます。まだまだお腹はぺっこぺこで、金曜日にはオレンジを五つ、土曜日にはチョコレートケーキとアイスクリームとピクルスとチーズとサラミとぺろぺろキャンディーとさくらんぼパイとソーセージとカップケーキと、それからすいかを食べました」
 朗々とした声が、狭い木の小屋の中に響き渡っていた。少なくとも、僕の耳にはそう聞こえた。
「その晩、あおむしはお腹が痛くて泣きました。次の日は、また日曜日。あおむしはみどりの葉っぱを食べ、それはとてもおいしくてお腹の具合もすっかり良くなりました。その後、あおむしははらぺこではなくなり、さなぎになり、そしてきれいな蝶になって羽ばたいていきます。そういった話です」
 詳しい筋は忘れていたが、たしか子供の頃に読んだことがあったような気がした。
「エリック・カールという人が書いた子供向けの寓話ですが、よく出来ています。実によく出来ている。欲望とはいかにあるべきかを端的に表しています」
 その黒い影は立ち上がり、ゆっくり僕の方へと歩いて近づいてきた。
「あなたがあおむし。そして、わたしがみどりの葉っぱです」
 黒い影はすっと手を出してきた。起き上がって逃れようとしたが、全身の筋肉が痺れ、弛緩し、悲鳴を上げることすらままならなかった。
「ミスタ、あなたにはこれから様々なことが起こります。この水神の護符をあげましょう。唾か小便をかければ蘇ります。あなたには護符のご加護があるでしょう」
 目の前に差し出された手の中には、小さなトカゲかヤモリを日干しにしたような赤茶けた物体が乗っかっていた。僕がそれをじっと見ていると、ヘリオガバラスは黒い掌を傾けてその得体の知れない物体を僕の腹の上に落とした。そして立ち上がり、振り返ってランタンに手をかけて中の火を吹き消した。
 すべてのものが闇に落ち、小屋の中はもちろん自分の手や足も完全に見えなくなった。あの黒い影も闇に溶け込んでいったような感じがした。だが、やがてギィという音がしてドアが開き、仄かな月明かりがその隙間から差し込んだ。
「私はあなたの味方です。それだけは忘れないでください」
 ドアが閉まり、周囲は再び闇に覆われた。
 あれが菅野の言っていたヘリオガバラスというやつだろうか。
 僕はゆっくりと右手を腰から腹に向かって這わせ、黒い影の置いていったものを探した。そして、ちょうどみぞおちのあたりにその乾いた小さな物体を見つけた。
 水神の護符。
 あなたにはこれから様々なことが起こります。あなたには護符のご加護があるでしょう。
 渇いた物体をそっと指先で摑み、口の前に持っていった。
 ペッと唾を吐きかける。すると、その物体は溶けてぐちゃぐちゃになり、指の間から零れ落ちた。
 なんのことはない。ただの乾いた虫の死骸のようなものだったのだ。


        7

 僕は溜め息を吐き、手を伸ばして枕の位置を下へずらした。二日酔いのせいで頭に鈍痛があり、胸がひどくムカついていた。
 閉じたカーテンの隙間から、部屋の中に朝日が差し込んできている。欠伸をして枕の左側に置いてある携帯を手に取ると、そこには六時五分と表示されていた。
 鼻から息を吐き、僕はもう一度欠伸をしてからベッドから起き出した。
 洗面所で顔を洗い、歯を磨いて髭を剃る。そして、顔全体に保湿用のローションを擦り込み、指先で眉毛の形を整えてから洗面所を出た。
 ダイニングのテーブルには、佳奈子がいた。リビングの床にはおもちゃが散乱していたが、拓真自身の姿はなかった。きっとまだ寝ているのだろう。幼稚園の時間は大丈夫なのだろうか。
 テレビを点け、トースターでカウンターの上にあった食パンを二つ並べて焼いた。そして、カップに佳奈子の分も一緒にインスタントコーヒーの粉を入れ、ポットからお湯を注ぐ。
 テレビでは朝のニュースがやっていて、マツダがここのところの円安の影響で、過去最高の営業利益を更新したと報道されていた。本屋にはまったく関係のない話だった。円安で景気が回復して人々の消費意欲が向上すれば、少しは影響は出てくるかもしれない。だが、そういった円安差益とか国際経済などはほぼ縁のない閉じた業界なので、直接的な影響は皆無だった。世界経済やグローバル化を気にしなくてもいい分、気は楽なのかもしれないが。
 僕は佳奈子の向かい側に座り、焼きあがったパンにいちごジャムを塗り、コーヒーをすすった。
「さて、次のニュースです」男性アナウンサーは軽く咳払いをした後、そう続けた。「昨日正午過ぎ、東京都北区のビジネスホテルで若い女性の遺体が発見され、通報を受けた警察が捜査を開始しています」
 そこで画面はVTRに切り替わり、ホテルの外観を見上げる映像が映し出された。
「事件のあったのは北区赤羽の赤羽プラダホテルの五階で、持っていた免許証などから殺されたのは荒川区の無職、矢島れいさん(三六)と見られ、関係者から身元の確認を急いでいます。遺体には首に刃物で切りつけられた痕があり、死因は失血死と見られています。警察は自殺と他殺、双方の可能性から慎重に捜査を進めています」
 画面は再びスタジオに切り替わる。
「さて、次はお天気です。藤村さぁん」
 心臓が激しく脈打っていた。僕は最後のパンの切れ端を口の中に放り込み、二、三回咀嚼した後、コーヒーで喉の奥に流し込んだ。
「別れてほしいの」
 見ると、佳奈子はパンにジャムを塗っていた。
「ん?」
 聞こえてはいたが、聞き間違いかもしれないと思ってそう訊き返した。
「だから、別れましょうって」
 どうやら聞き間違いでもないらしい。
「なんでや? 理由は?」
 間髪を入れず、僕はそう問い返した。バレたのかもしれない、そう思った。
「私はあなたにふさわしい人じゃないと思うの」
 咄嗟に、意味は分からなかった。彼女の顔を呆然と見つめたまま、僕は必死に頭を回転させた。
「ふさわしいって……」
 そうとしか言い様がなかった。どう訊けばいいのかも分からない。
「わたしはあなたが考えているような人じゃないの」
 僕は手を伸ばし、コーヒーを一口飲んだ。どうやら、バレたのではないらしい。
「それは……、他に男がおるっちゅうことなんか?」
 どうしてそんなことを訊けたのだろう。だが、佳奈子は静かにかぶりを振った。
「そういうことじゃない」
 僕は口の隙間から息をもらし、呼吸を整えようとした。
「だったら、どういうことや。俺がアホなんかもしれへんけど、理由がちょっと思いつかへんのや」
 テーブルに肘を着き、佳奈子は両手で頭を抱え込んだ。
「……分かってよ。…ねぇ、分かって」
 幽かな声で、そう呟いているのが聞こえた。その時、自分が彼女を失おうとしていることに気づいた。ここで誤った対応や返答をすれば、僕は佳奈子を永遠に失ってしまう。
 僕は必死に頭を巡らせ、正しい解答を導こうとした。しかし、考えれば考えるほどよけい分からなくなってきただけだった。
「すまん。分からん。悪いけど、何があったんかちゃんと話してくれへんか?」
 佳奈子からの返事はなかった。テーブルの上で頭を抱え込んだまま、顔を上げなかった。
 立ち上がり、サイドボードの上から煙草とライターを取ってきて、佳奈子の前に座って火を点けた。呼吸を整えるように煙を吐き出すと、気分がいくらか落ち着いてきた。あまりにも唐突なことだし、きっと佳奈子は生理か何かで一時的にそういう最悪の気分になっているだけなのだろう。時間が経って落ち着けば、自分でも何であんなこと言ってしまったんだろうと後悔するに違いない。
 コーヒーを飲みながら煙草を一本吸い終わると、僕は立ち上がって彼女の肩に手を置きこう言った。
「きっと疲れてるんやろ。今度三人でどっか旅行にでも行こう。休み取るようにするから」
 しばらく連休を取っていなかった。子供ができてから旅行に出かける機会も減っていた。彼女のストレスに対して、僕の配慮が足らなかったのかもしれない。
 それでも佳奈子は顔を上げなかった。ずっと文字通り塞ぎ込んだままだった。僕はそんな彼女の背中を見て溜め息を吐き、壁にかかった時計を見た。時計は六時五十六分を指していた。いつもの二十分の電車に乗るためには、かなりぎりぎりの時間だった。
 テレビを消して大急ぎで着替えを済ませ、鍵と財布を摑んで自宅を出た時には、七時を五分ほど回っていた。携帯のアラームは、なぜいつも通り六時に鳴らなかったのだろうか。設定をいじくった記憶はないのだが、不審に思って確認したら過ぎていた。それに、なぜ佳奈子は突然あんなことを言い出したのだろうか。やはりあのことを、佳奈子は知ってしまったのだろうか。



19へ続く

2023年05月04日