長編小説2 夢落ち20
「うちに融資を依頼してきた会社なんやけどな、ちょっとおもろい研究しとんねん」
「夢の研究ですか?」
石沢はハンドルを強く叩いた。
「そう! さっすが頭ええのぉ」
パンフレット見たまんまだ。
「なんか夢を実用化するとかなんとか言っとった」
「実用化? なんとなく胡散臭いですね」
中を開けてみると、よくある酸素カプセルのような装置と、そこに白い病院着のようなものを着て横たわっている女性の写真があった。そして、『夢は万能です』というキャッチコピー。
「せやろ。都内でセミナーとかも開いとるらしいんやけど、おそらくどっかの新興宗教が絡んでそうなんや」
次のページには代表取締役と称する男の顔写真と、仰々しいプロフィールが載っている。
「菅井正行。まだ若そうですね」
僕は、その名前を読み上げた。
「そいつや、そいつ。うちの会社こないだ来とったやつ。四十くらいやな。デメキンかトカゲみたいな顔やろ。背だけはデカかったけどな。こんどお時間あるときにでも、施設を見に来てくれ言うとった」
僕はパンフレットをぱらぱらと捲りながら、拾い読みしていった。アメリカやヨーロッパの学術論文をところどころ引用しつつ、夢についての研究成果のようなものが披瀝されていた。図や暗喩的な絵なども要所要所で使われている。たしかに興味を持つ人は少なくないだろう。
「もともと製薬会社の社員やったらしいんやけどな。三十五で脱サラして夢の研究に特化した会社を立ち上げた言うとったわ」
「ベンチャーっちゅうやつですか。そんで、結局なにしとる会社なんですか?」
すると、石沢はハンドルを握り締め、唸った。
「あー、こないだ言うてたのはな、そいつが、ようSFとかで冷凍催眠とかあるやろ。不治の病で、特効薬が開発されるまで冷凍されてますとかそういうやつ。そういうのの夢版やな。ものすごい嚙み砕いて言えば。あいつもっと難しい言葉使っとったけどな」
僕は石沢の言った言葉を、しばらく頭の中で反芻した。
「夢見とるうちに、未来へ行くっちゅうことですか」
「まあ、ざっくり言えば」
「死ぬほど胡散臭いですね。それ、絶対詐欺でしょ」
「知らんわ。そいつがそう言うとっただけや」
間もなく車は高速を降り、山と畑しか見えない田舎道に出た。そして、道沿いにあったコンビニの駐車場に車を停め、僕らは順番に用を足し、外で煙草を吸った。
「融資なんかしたら、絶対焦げつきますよ。こんなとこ」
石沢は、パンフレットを見ながらカーナビに住所を入力している。
「分かっとるわ。でも、夢がある話やろ」
そう言って、石沢は自分で笑った。
「だじゃれですか。それに僕のこと先方にどう言うんですか」
目的地を確認しました、とカーナビが言った。
「部下とか何とか言うわ。よろしゅう」
そう言って、石沢は車を発進させた。
そこから一時間ほど走り、車はどんどん山深い道へと入っていった。そして、カーナビが目的地周辺ですと言う中、舗装もされていない剥き出しの脇道を入っていった先にその目指す建物はあった。
ところどころに雑草の生い茂った広い駐車場に、ぼろぼろに古びた白い大きな建物。そこは、明らかに閉鎖された病院だった。
「うわっ、ここですか」
僕は外観を見た瞬間、怯んだ。廃墟か心霊スポットのようにしか見えなかった。しかも駐車場の入り口は太い縄のようなもので封鎖されていて入ることができない。
「あぁー、思った通りやー!」
石沢は拳でハンドルを叩き、何度かクラクションを鳴らした。
僕にもようやく事態が呑み込めてきた。会社の所在地をちょっとやそっとでは行けないようなところに設定した、架空の会社だったのだ。うその投資話を石沢の会社に持ちかけ、金が融資され次第、音信不通になり行方を眩ませるつもりだったのだろう。
僕らはとりあえず車を降り、呆然とその遺棄された病院を見上げた。
「これがほんまの夢オチやな」石沢がポツリと呟いた。
車に凭れかかって煙草を吸っていると、近くの山の稜線にログハウスのような建物が見えた。
「あそこまで山登りでもします? 記念に」
指をさしながらそう言うと、石沢は顔の前で手を振った。
「アホか。何時間かかると思ってんねん。遭難するわ」
煙草を吸い終わると、僕らは車内に戻り、車をUターンさせて元来た道を戻った。
「なんかすまんかったな。アホなことに付き合わせて」
車のデジタル時計を見ると、時刻は三時半だった。
「ええ思い出になりましたよ。それに、融資焦げつかんでよかったじゃないですか」
「まあな。今度あいつ来おったら警察に突き出したるわ」
高速に乗り、石沢は追い越し車線を百二十キロで飛ばし始める。
「詫びになんかおごったるわ。腹減ってきたしの。なんか食いたいもんないか?」
重量のある高級車だけあって、それだけ出しても騒音も車体のブレもほとんどない。
「じゃあ、焼肉でええですかね。しばらく食ってないんですわ」
「よっしゃ、じゃあ焼肉や。昼飯食いはぐってしまったしの」
道は空いていて、浦和インターまではさほど時間はかからなかった。降りたところで石沢は車にガソリンを入れ、近くの行きつけにしているという焼肉店へと向かった。
店に入り、席に着くと好きなものを食べていいと石沢に言われた。だが、普段ほとんど行かないために何を頼んでいいか分からず、結局注文は石沢に任せることにした。そして僕らは顔を付き合わせ、狐目の店員が持ってきたタンやらロースやらカルビを焼いて食べた。
石沢は仕事や金融関係や国際情勢などの話をし続け、僕は適当に相槌を打ちながら肉を食べていた。飲みたかったのだが、僕は石沢に気を遣ってビールを頼まなかった。一時間余りが経過し、腹がいっぱいになってきたところで僕はそろそろ出ようと石沢に言った。もう外は夕闇が迫っていたし、そろそろ帰りたかった。
「いや、じゃあ、ちょっとその前にええかな」
口調が鋭く、いかにも思い切って言い出したといった感じがした。僕は腋の下に冷たい汗が伝うのを感じた。
煙草に火を点け、石沢はそれを短くなるまでゆっくり時間をかけて吸った。
僕は、自分の手が微かに震えているのに気がついた。
石沢はしばらく下を向いて黙り込んだ後、こう言った。
「なあ、木崎、取り返しがつかへんことってあるよな?」
僕はテーブルの上のお絞りを手に取り、口元を拭った。
「……何のことですか?」
鼓動が激しく乱れ、心臓が大きな手で摑まれたように痛み始めていた。
石沢は僕の目を真っ直ぐに見ている。その目は赤く充血し、強い感情が宿っているように見えた。
「…俺もな、知りたくなかったんや。そんなこと」
搾り出すような震える声だった。もはや、疑いようもなかった。そして、僕の頭の中には、首から血を流して死んでいるれいの顔が浮かんでいた。
「すんません」
そう言うことしかできなかった。そして、僕は頭を垂れた。もはや、石沢の目をまともに見ることはできなかった。
「……俺にバレへんと思ったのか?」
僕は黙って頷いた。
石沢はひょっとして、ずっと知っていたのかもしれない。知っていて、ただ言いだせずにいたのかもしれない。
「お前、結婚しとって子供もおるやろ」
「ええ」
「それに、なんであいつやねん。他にも女はおるやろうが!」
石沢は拳でテーブルを強く叩いた。
「すみません」
僕はぎゅっと目を閉じた。そうすれば、現実から逃れられるかのように。しかも、僕は彼女を殺したのだ。石沢はいずれそのことを知り、誰か殺したのか真っ先に気づくだろう。
僕らはずっと長い時間黙り込んでいた。
やがて、石沢は席から立ち上がった。
「あいつとは別れろ」
そう言い捨て、伝票を持ってレジの方へ歩き始めた。
「はい」と僕は答え、その後をゆっくり追った。
家まで送るという石沢の申し出を断り、僕は駅まで歩いて電車で帰った。
遅くなるから夕飯はいらない、と佳奈子にメールを送り、駅前の居酒屋に入って一人で酒を飲み始めた。何度もトイレで吐きながら日付が変わるまで飲み続け、閉店時間だと店員に告げられると店を出た。
家に帰ると、佳奈子と拓真はすでに寝ていた。僕は酔い覚ましにシャワーを浴び、胃薬を飲んだ。そして枕元に携帯を投げ出し、そのまま蒲団に入った。
朝まで夢も見なかった。あるいは、見ていたとしても全く覚えていなかった。
*
駅と自宅とのちょうど中間あたりにある狭い路を僕は歩いていた。
遅れを取り戻そうと早歩きで、前方のY字路の一本に合流するあたりに差し掛かっていた。こちらが右側の優先道路で、左側のさらに細い道の方には一時停止の標識と停止線があった。間の三角形に区切られた箇所は近所の人たちの駐車場になっていて、まだ早い時間のせいか車はほぼ満車の状態で停められていた。
僕はエンジン音から、左側の道路から車が来ていることは分かっていた。だが急いでいたということもあって一時停止で停まるだろうと考え、そのまま道路に描かれている点線部分に沿ってY字路の合流地点を通過しようとした。
背後に車の気配を感じた瞬間、腰のあたりに衝撃を感じ、車のボンネットの上に撥ね上げられていた。そしてフロントガラス越しに目が合い、そこにはスーツを着た四十くらいの男がハンドルを握っていた。その顔にほとんど表情はなく、まだ人に当たったことに気づいていない様子だった。
フロントガラスが割れ、僕の身体はさらに撥ね上げられた。そして、後頭部を強く打ちつけながら地面に転がった。
「死んだか?」
やがて、そんな声が頭上から聞こえてきた。
「ああ、ようやく……」
意識がふと途切れ、最後まで聞き取ることができなかった。
「……こいつは、……やり直したかったんだろうな」
目蓋を開いた瞬間、空が勢いよく落ちてきた。
〔了〕