短編小説11 悪い子




 わたしには二つ下の妹がいる。というより、いた。
 なぜ過去形なのかというと、もう死んでしまったからだ。
 わたしとわたしの家族が寄ってたかって殺した。
 これはその妹の話になる。どうか警察には言わないでほしい。警察が動いて調べられると、とても困ったことになる。だからそれだけは守ってほしい。

 妹はかおるという名前で、利発でとても頭のいい子だった。近所の公〇式に通って幼稚園の年長さんの時には小学校二年生までの漢字と掛け算割り算までマスターしていて、俗に言う神童、天才少女と呼ばれていた。顔もなかなか整っていて、テレビで子役でもしたら人気が出ていたのでないだろうか。
 口もうまく、わたしなどは口喧嘩でよく言い負かされていた。相手の弱いところを確実に突いてくる。たとえばわたしは箸を使うのが苦手で、よく食べ物を落としていたから、「あなた外人さんですか? 日本のお・は・し・使えますか?」と落すたびに言われた。
 そんなことを言うもんじゃない、と父などはたしなめていたが、本気ではなかった。かわいい顔と声で言われるとつい笑ってしまって、公平ではいられなくなるのだ。
 かおるが小学校へ上がると、たちまち学校中の人気者になった。口がうまく、顔もいい子はどこにでもいるわけではない。勉強の先取り具合はさらにエスカレートしていて、六年生までの漢字や算数にいたっては小学校の学習する分はとっくに終わって方程式の計算まで進んでいた。
 同学年はおろか中学年や高学年の子ですらかおるの頭にはついていけず、「ガキの遊びには付き合い切れない」とかおるは彼らを見放して勉強にいそしみ、休日には公〇式で仲良くなった中学生の友達と渋谷へ遊びにでかけたりしていた。
 妹に一度尋ねてみたことがある。
「なあ、お前さあ、俺のことどう思ってんの?」
「バカ。単なるバカ。二年ばかし先に生まれただけでいばってるかわいそうな男」
 ムカついたわたしは、かおるの肩を殴った。
「いって! 暴力男。あたまが弱いから、そうやって暴力をふるうしかないって、とことんかわいそうな男だねぇ。今のだって暴行罪が成立するから、バレたら少年院行きだよ」
「しょうねんいん?」
 かおるはしきりにわたしに殴られた肩を擦りながらニヤっと笑った。
「少年院っていうのはね、あんたみたいな子どもが行く刑務所のことだよ。そこでは鬼のような大男の教官がまいにち怒鳴って暴力をふるって、あんたみたいな子どもたちをちゃんとした人になおすようにしてるんだよ」
 わたしは恐怖に震えおののいた。妹に殴ったことをバラされれば、その少年院とやらに行かなければいけなくなる。
「ごめんなさい。もうしないのでゆるしてください」
「は? それだけ? 普通さ、もうちょっと謝り方っていうのがあるんじゃないの?」
 言われていることの意味が分からず、わたしはぽかんと口を開けた。
「土下座だよ! ど・げ・ざ!!」
 テレビドラマで見たことがあった。あれをすればゆるしてくれるのかとわたしは気づき、すぐに膝をついて身体を折り曲げて額を床に擦り付け、「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」と三度お祈りのように唱えました。
「いいよ。分かればいい」
 顔を上げると、妹は笑っていて、その時はまるで神様のように見えた。

              *

 妹は四年生になると、中学二年生の男と付き合い始めた。開〇中学に通っている背の高いハンサムな男で、東〇大学の医学部を目指しているとのことだった。
「あんたたちみたいなバカどもと違って、先の先まで計算してんのよ。人づきあいが苦手だから、臨床医じゃなくて研究医を目指すってさ」
 当時小学校六年生だったわたしは何のことを言っているのか分からず、ただ「へぇ、すごいねー」と返すしかなかった。
「わたしも東〇大学を目指すんだ。まあ、いまのあたしの成績だと余裕だろうけど、まあ日本中から天才たちが集まってて、そこで埋もれちゃうわけにはいかないから、もっともっと勉強してトップで受からないと意味ないってわけ」
「へぇ、そうなんだ」
 わたしにはどうでもいいことばかりだった。いまハマっているゲームと今日の宿題と友達との遊ぶ約束くらいしか頭の中にはなかった。
「ま、あんたに言ってもしょうがないし、まあ時間の無駄ってことは分かってるんだけどね。でも、一応言うだけ言ってみた。なんでか知らないけど、あんたはわたしの兄貴なわけだし」
 こっちが教えてほしいくらいだった。なんでかおるはわたしの妹なのか。どこをどうとっても似ても似つかないじゃないか。
「犯罪とか事件だけは起こさないでよね。あと自殺もね。犯罪者や自殺者の妹って知られたら、結婚とか就職とかに影響してきちゃうから。迷惑だからやめて」
 小学校六年生というのは、そういうことが分かるギリギリの年齢だった。妹がそう考えていると分かって、わたしはショックだった。わたしが犯罪者になったり死んだりしても、妹には〝迷惑〟なだけなのだ。
「お前こそやめろよ。その東大野郎と変なことするなよ」
 わたしは普段はそういうことは言わない大人しい性格なのだが、ショックのあまりそう口走ってしまった。
「変なことってなに?」
 そこまで考えてはいなかった。
「……変なことって、……エロいことだよ。セックス! セックス!」
 セックスというものがどういうことなのか、当時のわたしには具体的には分かっていなかった。だが、言葉だけ聞きかじってはいて、エロいことの頂点みたいなものだというただそれだけの認識だった。
 妹は顔を真っ赤にして絶句し、何か口ごもって言いかけたあと止めて、立ち上がってどこかへ行こうとした。
「赤ちゃんつくるなよ。セックスすると、赤ちゃんできちゃうぞ!」
 セックスという男女がはだかで抱き合ったりキスをしたりすることによって、女の人のお腹の中に赤ちゃんができるということが、当時の保健体育の教科書には載ってた。
 早熟だった妹は、開〇中学の彼とまさにそれをやろうとしていたか、やったあとだったのだろう。肩と上唇を小刻みに震わせ、赤くなった顔が今度は白く青ざめていた。
「ばぶー! ばぶばぶばぶー!」
 あの憎たらしい妹をはじめてやりこめたという快感が、わたしの行動をエスカレートさせた。
「おっぱい出ますかねー? かおるのおっぱい飲めまちゅか?」
 左頬に強烈な平手打ちが飛んできた。耳がキーンとするほどクリーンヒットし、わたしは頬を抑えて妹を睨みつけた。
「てっめぇ! ぶっ殺すぞ」
 怒りに燃えたわたしは、妹の脇腹に渾身のグーパンチを見舞わせた。
「いったぃ! 痛いよぉ!」
 妹はそう絶叫し、耳をつんざくような高い声で泣き始めた。口ではかなわないが、体格では男女差もあって私の方がはるかに勝っていた。
 すぐに泣き声を聞きつけた母親が部屋に飛び込んできた。
「お兄ちゃんに殴られたぁー!!」
「違うわー! お前が先に手出してきたんだろーがー!」
 言い返したわたしが母の顔を見上げると、その両目はこれ以上ないくらい怒りに燃えていた。
「なにやってんのー! このバカがー!」
 母は基本的に妹の言う事を信じる。後頭部を母に叩かれ、わたしはその残酷な現実を思い出した。
「お腹、お腹! 骨折れたー!」
 わたしの左耳もキーンという音が続いていて聞こえないままだったが、苦悶の表情を浮かべ、腹をさする妹の姿を見て、わたしはとんでもないことをしてしまった気になった。
「大丈夫? 救急車呼ぼうか?」
 母はかおるの背中を擦り、屈み込んでそう訊く。
「……もう、ダメかもしれない…」
 消えそうな声でそう呟くと、妹は床へごろんと転がった。
「かおる!」
 母は立ち上がると、居間のドアの下にある電話に飛びついた。
「……もしもし、……救急です。……十歳の子なんですが、兄に腹を強く殴られて……もう死にそうな感じで……ええ、ええ……すぐに、……骨とか内臓まで……おそらく……ええ…」
 続けてうちの住所を母は連呼し、しきりに頭を下げながら電話を切った。
「かおちゃん! 救急車来てくれるって! だから、もう大丈夫! 大丈夫だからね!」
 そして、わたしに憎悪の視線を向け、こう言い放った。
「あんた、こんなことしたら少年院行きだよ!」
 少年院! またしてもあの恐怖の言葉が出てきた。
 救急車が来て、警察も一緒に来て、わたしはそのまま逮捕されて刑事ドラマのように取り調べを受け、少年院へ収容される。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
 涙が出てきて、わたしは母と妹に何度も頭を下げた。
「今さら言っても、もう遅い! あんたはもうおしまいなの!」
 床に転がったままの妹の口から、そんな威勢のいい言葉が飛び出した。
「ゆるしてください! もうしないから!」
 わたしは涙ながらに妹にゆるしを請うた。
「遅いっつーの、バカ!! 死んでからあやまれ!!」
 上半身を起こし、かおるはわたしを罵った。
 これにはさすがに母もギョッとして、視線はかおると私の間を行ったり来たりした。
「……かおちゃん、お腹の、骨は?」
 ハッとして母の顔を見て、「痛い! 折れてる! 折れてる!」と、再び床にころがります。
 程なくして救急車が家に到着し、床に倒れ込んでぐったりとしたかおるが救急隊員に脚と肩を持たれて運ばれていった。母も一緒についていき、そしてわたしは一人家に取り残された。
 ちょっと待てよ。これはいくらなんでもおかしいな。わたしを罵るとき、あいつは腹を押さえていなかったし、普通に起き上がっていた。
 たぶん骨も折れていないし、死にそうでもなかった。
 あいつは嘘を吐いてる。ずっと嘘を吐き続けてみんなを騙している。
 
              *

 かおるたちが病院から帰ってくると、案の定包帯もしておらず、聞くと軽い打撲で湿布を貼ってもらっただけとのことだった。
「お前、嘘吐いただろ」
 母がその場からいなくなると、さっそくわたしは妹にそう言った。
「は? なんのこと?」
 ここでひるんだら負けだ。こいつは勢いだけで誤魔化そうとしている。
「いや、骨とか折れてなかっただろ。嘘吐きやがって!」
「開き直ってんじゃないよ! 折れてはいなかったけど、ひび入ってたんだからね!」
 一喝され、わたしはそうだったのかとショックを受けた。たしかにあの時渾身の力を込めていたし、ひびくらい入っていたとしてもおかしくはない。
「まぢか。ごめんなさい」
「あんた、自分のしたこと分かってんの? バカじゃないの?」
「ひびなんてお医者さんから言われなかったけど」
 いつのまにか、わたしと妹の背後に母が立っていた。
「えっ、そうなの?」
「そう。軽い打撲って言ったでしょ。いやね。この子嘘吐いてんのよ」
 母はうすうす感づいていたのだと思う。嘘吐きのかおるに。
「ええーっ! 嘘吐きじゃん! 嘘吐き! きもっ、こいつ嘘吐き!」
 かおるは何か言い返そうと口ごもり、顔が真っ赤になっていた。
「……このアホ親子! あんたらは東大も入れなければ、高卒かどっかの変な大学出て一生貧乏のまま暮らせばいい。社会のゴミどもめ!」
 普段から思っていたことなのだろう。追い込まれて感情的になって、思わず口から飛び出したのだ。
「ちょっとそれは言い過ぎじゃない、かおちゃん」
 母はそう言ってたしなめましたが、聞く耳なんて持っていない。
「言い過ぎどころか、言い足らなさすぎ! お父さんも含めて、あんたがたアホ三人分の何倍も何倍もわたしには価値があるの! アホどもに嘘吐き呼ばわれされたって、痛くもかゆくもないんだけど」
 母の平手打ちが、妹の頬に炸裂しました。
「あんた! わたしとかのことはどうでもいいけど、お父さんのことをそんな風に言うのは絶対にゆるしませんよ!」
 息子のことはいいのかい、と心の中でツッコミを入れた。
「いった! いたいたいった! アホにアホって言っただけじゃない! 暴力振るってんじゃないよ。親子そろって。これ虐待だからね!」
 母はかおるの両わきをつかんで身体を持ち上げ、風呂場へと突進していった。わたしもうしろからついていって、母がかおるを浴槽に投げ入れ、風呂場のドアを閉めるのを見ていた。
「ごめんなさいって言うまで、出さないからね!!」
 そう叫んで、タオルがかかっていた突っ張り棒をもぎ取ると、ジャバラ式になっているドアの持ち手のところに斜めに突っ込み、中から開けられないようにした。
「誰が言うかアホ!」
 くぐもった声が中から聞こえてくる。
「っていうか、お風呂入りたかったところだからちょうどよかったー!」
 お湯張りを開始します、というあの女性の声が聞こえ、かおるはボタンを押したようだった。
「勝手にしなさい! 言うまで絶対出さないからね!!」
 母は洗面所から出て行き、わたしは中にいる妹に話しかけた。
「はやく言っちゃいなよ。お母さん怒ってるよ」
 返事はなかった。

 父が帰ってくると、母は事情と経緯を詳しく説明し、父もそれで納得したようだった。
「それはちょっとひどいな。ま、腹も減ってくるだろうし、そのうち謝るだろ」
 わたしはかおるの性格をよく知っていたから、これは長引くだろうなと思った。〝ごめんなさい〟とか〝ありがとう〟という言葉がこれまで妹の口から出てきたことはなかった。
 父と母は何度も風呂場の前に行き、かおるに話しかけた。
「謝りなさい。いい加減にしなさい!」
「いい加減にするのは、そっちの方でしょ! これもろ虐待っていうか犯罪だから、ここから出たら警察とかマスコミに言ってあんたがた逮捕されるよ!」
「一言謝ってくれればいいのよ!」
「アホをアホって言ってなんで謝んなきゃいけないのか、意味がわかりませーん」
 ずっとこんな調子だった。わたしはバカらしくなって寝た。
 翌朝起きると、父と母の姿はなく、風呂場のドアは開いていて中はからっぽだった。
 土曜日だったし、わたしはテレビをつけ、冷蔵庫から適当なものを出して食べた。
 父と母が帰ってきたのは昼過ぎで、わたしは居間のソファに横になってゲームをしていた。
「あれ、おかえり。どこ行ってたの?」
 二人とも白い顔をしていて、目だけが異様に血走っていた。
「ああ、ちょっとね」
「かおる──」
「親戚のところに預けてきたよ。ちょっとしばらく預かってくれるみたいなんだ」
「親戚?」
「長野に俺の遠縁のおじさんがいて、そこがちょうど子ども欲しがってたところだから」
 そんな親戚の話は聞いたことがなかった。
「かおるは……」
 わたしは言葉を失い、父と母の顔を交互に見て事情を察した。
 沈黙のまま半日が過ぎて夜になった。
 わたしたち家族三人は飯も食わず、風呂も入らず、布団に入ると長く深い眠りに落ちた。



[了]
 
2023年01月29日