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長編小説2 夢落ち 1



          1

 僕らが初めて出会ったのは、大学生の頃のことだった。もう果てしなく遠い昔のことのように思える。
 当時住んでいた下宿先のアパートの近くで、ビデオ屋があった。ある日、その店先にアルバイト募集の張り紙を見つけた僕は、レジにいた店員に声を掛けた。
「じゃあ、エントリーされますか?」
 その時レジに立っていたのが石沢で、僕はその場で紙に名前と住所、連絡先を書かされた。そして、後日履歴書を持って本社で面接とテストを受け、一週間後くらいには働き始めていた。
 石沢は歳も学年も二つ上だったが、出身がお互い関西ということもあってすぐに仲良くなり、そのうちプライベートでも遊びに出かけたりするようになった。
「お前は、ほんま頭ええのう」
 事あるたびごとに、石沢は僕をそう言って褒めた。
「そんなんちゃいますよ。石沢さんに比べたら僕なんてカスみたいなもんですやん」
 実際、こんなに頭が切れる人に僕は会ったことがなかった。それまでもそうだったし、社会人になってからもそうだ。特に喋るのがずば抜けて上手く、テレビにでも出れば人気が出るのではないかといつも思っていた。こんな才能を埋もらせておくのはもったいない、と。だが、石沢はそういった考えは持ち合わせてはいないようだった。つまり、彼の志向は常に経済と金儲けに向かっていた。日経の朝刊と夕刊を取っていて、経済誌をいくつも隅々まで熱心に読んでいた。医療機関向けの金融会社に就職した後も、夜間の大学院に通って経済の勉強をし続けていた。僕はといえば、卒業してから一年ほどアルバイトで生計を立て、その後大手の書店チェーンに就職した。石沢とは比べようもないが、本に囲まれて仕事をするというささやかな希望は一応叶ったことになる。
 誰もがそうであるとは思うが、社会人になって朝から晩まで働き始めると、僕らは自然と疎遠になった。会うのが半年から一年置きになり、電話やメールの回数も減った。そんな関係を僕らは細々と十年ほど続け、その間に僕は結婚して三年後に離婚し、彼は取引先の産婦人科の女医と交際を始めた。石沢よりも七つ年上で、群馬の高崎で開業医をしているということだった。
「へぇ、美人ですか?」
 僕がそう訊くと、石沢はこう答えた。
「ああ、とびきりな」
 石沢の交際相手とは、それまでにもたびたび会ったことがあった。学生時代には厚木の看護士。社会人一年目には、ホテルに勤める品の良い女性。皆、美人で石沢の個性的な性格や能力に強く惹かれているようだった。
 厚木の看護士の時には、彼女のアパートへ遊びに行ったこともある。
「早く別れたほうがいいですね。まともな男じゃない」
 石沢がトイレに立った際、僕は彼女にそう言った。
 彼女は笑ってこう答えた。
「分かってる。そんなの、分かってる」
 少なくとも、女性を大切にするとか、そういった趣向は持ち合わせていない人だった。大した興味は持っていない。極端な言い方をすれば、余興のようなもの。この人に振り回されても不幸になるだけだろう、と。
 彼女が僕の忠告を受け入れてくれたのかどうかは知らないが、石沢はその彼女といつの間にか別れていた。ある日、ホテルでマナー講師を勤める別の彼女の話を始めていたから。家に呼ばれていったら、ものすごい豪邸で吃驚したとかいう話をぺらぺらと捲し立てていた。厚木の彼女はどうなったのか非常に気になったが、敢えて訊かないでおいた。つまり、別れたのだろうと僕は勝手に理解した。

「なぁ、木崎、俺、結婚するかもしれへんわ」
「はい?」
 半年振りくらいにかかってきた電話で、いきなりそう言われた。僕ははじめ、冗談だと思った。
「せやから、結婚したくなったっちゅうこっちゃ」
「誰とですか?」
「取引先の女医や。自分でもよう分からんくらい惹かれとる」
 そんなセリフを石沢の口から聞くとは、夢想だにしていなかった。
「はい? なんて?」
 驚き過ぎたせいで、多少ぞんざいな言い方になってしまったかもしれない。
「アホ。何度も言わすな。好きになってしまったって言うてるやろ」
 僕は携帯を持ったまま、腹を抱えて笑った。
「ハッハッハ……! ウケますね! それ、ハッハッハ…!」
 しばらく笑い続けると、電話口で石沢が黙りこんでいるのに気づいた。この人が黙りこんだのは、四年前、離婚届の立会い人の欄に署名をお願いした時以来だった。
「すんません。気悪くしたのなら謝ります」
 僕がそう言っても、石沢は口を噤んだままだった。
「いま、その女医とはどうなんですか。付き合ってはいるんですかね?」
 鼻息が洩れ、ゴクリと唾を呑み込む音が聞こえてきた。
「……ああ。一ヶ月くらい前からや。仕事先の人間やし、俺もアホな真似したくなかったんやけど、それでもあかんかった」
 僕は思わず喉の奥で唸った。
「自分から言うたってことですよね?」
「せやな。そういうこっちゃ」
 頭の中を一度整理する必要があった。つまり、今まさにこの男は恋に落ちた状態にある。三十を過ぎたいい年の男がそんな正気ではない状況下にあるわけだから、まともな判断が下せるわけがない。だから、こうして僕に電話もかけてきているのだ。
「待ったほうがええんとちゃいますか?」
「なにをや?」
「だから、その結婚とかそんなこと考えるのですよ。少なくとも、一年くらい経ってから考えるのがええと思いますよ」
「そんなん一緒やで。一年でも二年でも一緒や」
 ああ、やはりそうきたか。
「一年後でも石沢さんの考えとか想いは変わらへんと」
「いや、ちゃうな。もっと好きになってるやろな。今よりもっとや。実は不安で夜もよう寝られへんねん。あいつがどっかで他の男と会っとるんちゃうやろかとか、もう考え出したらあかんな。まあ、要するに狂ってんねんな。せやから、はよ結婚して安心したいねん。結婚して一緒に住み始めたらいくらかは安心できるやろ」
 そういうことか。もうそこまでいってるのなら、止めようがない。僕が何を言ったところで無駄だろう。つまり、石沢は同意を求めるためにこんな電話をしてきているのだ。
「どんな人なんですか、いったい」
 逆に、純粋に興味がもたげてきていた。この女性を真剣に愛したことのなかった男を、ここまで恋い焦がれさせるとはいったいどんな女なのか。
「プロフィールとかはホームページに載っとるよ。群馬の高崎に矢島レディースクリニックっちゅう産婦人科開いとる」
「高崎ですか。えらい遠いですね」
 石沢さんの自宅と会社は東京の五反田にある。普通に電車か車で行けば、二時間ちょっとといったところだろうか。
「そこらくらいまでなら、余裕で行っとるわ。首都圏全域一人でカバーしとるからな」
 いったいどんな会社だろう。石沢さん以外に営業マンはいないのか。
「じゃあ、もう、プロポーズでもなんでもすりゃあええやないですか。俺に相談も何もないでしょう」
「するよ。それに誰が相談なんて言うた?」
 口から思わず溜め息が洩れた。
「はいはい。じゃあ、なんでそんなこと俺に言うてきたんですか」
 答えはすぐに返ってきた。
「親友としてや。当然やろ。俺がお前に何も言わずに結婚すると思うか」
 初耳だった。親友。そんな風に思ってくれていたのか。
「へぇ。はあ」
 咄嗟に上手く言葉が出てこなかった。
「次の土曜や。新橋で会うことになっとる。指輪ももう買ってあるしな。目ン玉飛び出るくらい高いやつや」
「うまくいくといいですね」
「ああ、すまんな。ありがとう。事後報告みたいになってまうのが嫌やったからな」
 この男の口から感謝の言葉を聞いたのも、この時が初めてだった。
「結果教えてくださいね。楽しみに待ってますんで」
「ああ、せやな」
 だが、一週間待っても二週間待っても石沢からの連絡はなかった。僕はそのことから、プロポーズは失敗に終わったのだと結論づけた。やはり、急ぎすぎたのだ。石沢の気持ちは盛り上がっていたが、彼女のほうはそうでもなかったのだろう。
 こっちから確認のための連絡をして傷口をえぐるような真似はしたくはなかったから、そのまま放っておいた。すると、二ヶ月くらい後にこんなメールが届いた。
 ──今週末から、一週間結婚式でグアムに行ってくる。お互いの家族とかだけでやるから、お前は無理して来んでもええわ。一応、報告や。
 題名は結婚式となっていた。相変わらず、ずいぶん勝手な人だと思った。おそらく舞い上がってしまって、僕に連絡するどころじゃなかったのだろう。こんなメールを送って寄越したのも、ようやく思い出したといったところではないだろうか。
 夜中の十ニ時過ぎだったが、僕は一応電話をかけた。だが、呼び出し音が鳴り続けるだけで、石沢は電話に出なかった。僕は仕方なくメールを打った。
 ──おめでとうございます。良かったですね。連絡ないから、てっきり振られたんやと思ってました。グアムやとさすがに行けないので、今度会ったときにでも何かお祝いさせてください。
 返事はなかった。きっと忙しいのだ。結婚式の準備やら何やらで。無理もない。週末まであと三日しかないのだ。一週間休みを取るというのも、石沢にとってはかなり大変なことだっただろう。なにせ、首都圏を一人で飛び回っている男だ。係長という肩書きが与えられ、組織の中心的な歯車となっている人間にとって、お盆や年末年始でもないのに一週間の休みを取るというのはかなりの無理難題に違いない。仕事を前倒しにしたり、取引先や会社の人間に頭を下げて回って、ようやく勝ち取ったものだろう。そんな中、僕にメールで報告をしてくれたことだけでも喜ばなければいけない。
 そして、関連性はないとは思うが、石沢がグアムに行っている間に辞令が出て僕は店長代理に昇進した。全く予想もしていなかったことで、僕はただただ驚いた。どうやら店長が推薦してくれていたらしい。管理職になり、残業代が出ないかわりに役職手当がつくということだった。収支としてはトントンくらいかもしれない。
 翌日から数日間、辞令のファックスを見た社内の先輩や後輩から一斉に電話やメールが舞い込んできた。自分がこんなに人気があるとは知らなかった。ずっと連絡を取っていなかった人たちから電話がかかってきたりもした。昇進するということは、こういうことなのかということを身をもって実感した。
 一緒に祝ってくれる人もいないから、僕は一人で祝杯をあげた。夜、一人暮らしをしている自宅アパートの部屋で、コピーした辞令のファックスを眺めながら缶ビールを飲んだ。もし佳奈子もいれば、一緒に喜んでくれていたことだろう。だが、彼女と僕は四年前に離婚していた。彼女がどんなことを言ってどんなことをするか想像しながら、缶を傾け、ビールを喉の奥に流し込んだ。電話でもしてみようかとも思ったが、止めておいた。どうせろくなことにはならない。そんなことは分かり切っている。
 肩書きが変わったからといって、仕事内容が劇的に変化するわけでもなかった。アルバイトさんたちや店の棚を管理し、少しでも多く利益が出るように店を運営する。仕入れたり返品したり、フェアを組んだり。基本に忠実にいつも通りのことを着実にこなしていくだけだ。浮き足立ったり空威張りしてみても意味はない。そんなことは一銭の足しにもならない。コントロールするのではなく、マネジメントすること。その二つの間には大きな違いがある。そのことをよく意識しておかなければいけない。

          *
 
「あの、すみません……」
 売り場で品出しをしていると、白いワンピースを着た女性から声をかけられた。
「はい、何かお探しですか?」
 真っ白な肌に、くっきりとした目鼻立ち。胸のあたりまで伸びた黒髪が美しい。
「いえ、探しているのは本じゃなくて……」
 そう言って、彼女は恥ずかしがるような憂いを帯びた表情を見せた。歳は三十半ばといったところだろうか。
「雑誌ですか。パソコンで検索しますよ」
「うん、いえ、あの……、このお店に木崎さんって方いらっしゃいますか?」
 上目遣いに下から顔を覗き込まれる。
「木崎は私ですが、何か?」
 唾を呑み下しながら、僕は彼女にそう訊き返した。
「あっ! そうなんだ。うん、えっと……」
 焦った声を出しながらもぎこちない笑みを浮かべ、むりやり僕に微笑みかける。僕は緊張にやや顔を強張らせつつ、じっと彼女と目を合わせていた。
「……私、石沢の妻のれいです」
「あぁ、えっ、高崎の?」
 彼女の大きな目がやや潤みを帯び、首を曲げてコクリと頷いた。
「お話があるんです。いいですか?」
 強い決意のこもった言い方だった。何かあったのかもしれない。右手で頭を掻き、喉の奥で小さく唸る。
「ここらへんで少し待っててください。声かけてこなくちゃいけないんで。向かいの喫茶店でいいですよね?」
 下唇を嚙み、れいは無言で小さく頷く。
 近くの平台にあったハタキを作業台に戻し、僕は事務所のパソコンで発注をしていた平畑に、ちょっと外出すると伝えた。
「そんなに長くはならないと思うけど。たぶん三十分くらい」
「ええ、分かりました。版元さんですか?」
 僕らは出版社のことを、習慣的に版元と呼んでいる。
「うん、まあ」
 咄嗟にいい言い訳も思いつかず、曖昧に濁した。そしてエプロンを脱ぎ、それを畳んで事務所の机の上に置くと、僕はれいの元へと引き返した。
「すみません。お待たせしました」
 彼女は近くにあった本を手に取り、パラパラと捲っていた。
「あぁ、それですか。よく売れてますよ」
 それは「笑う魔人」というタイトルの本で、書店が舞台になっている小説らしい。最近のベストセラーランキングでずっと上位に入っていて、うちの店でもかなり売れていた。



 2へ続く
2023年01月05日

長編小説2 夢落ち 16



 蕎麦が運ばれてくると、僕たちはそれをしばらく無言で啜った。麺にこしがあり、山菜もみずみずしくて美味しかった。学生時代にもこうして二人で蕎麦屋によく行った。関西人にとって、関東の蕎麦は夢中になれるだけの魅力を備えていた。向こうはうどん文化で、蕎麦屋の数自体非常に少ない。
「美味いな。長野、信州が近いからやろうな」
「信州蕎麦言いますもんね。でも、そんな近くもないんじゃないですか」
「なに言うとんねん。軽井沢とかこっからすぐそこやで」
 地理関係がパッと頭に浮かんでこない。高崎に住んでいるのに、妙なことだ。
 蕎麦屋を出ると、駅の通りの角にあったレンタカー屋で、石沢は黒い小型車を借りてきた。
「あった方がええやろ。お前の脚もそんなんやし」
 脚もそうだったが、僕としては顔を見られて通報されることの方が怖かった。僕がそう伝えると、石沢はまた笑った。
「そんなんな、ニュースの映像なんて誰も覚えてないって。三分もせえへんうちに、頭ん中からきれいさっぱり消えとるわ」
 そうだろうか。
「わたしの顔知ってる人はどうですかね」
 石沢はうぅんと軽く唸る。「そりゃ、知っとる奴は覚えてるやろうけど、そんなんこんなとこで会わへんやろ。そんなん気にしとったら頭おかしくなるで」
 石沢の言う通りかもしれない。それに、おどおどしていたりしたら余計疑われそうな気もする。堂々としていた方が、たとえ記憶の中にあって覚えていたとしても、勘違いかもしれないと思ってくれる可能性は高まるだろう。
 車に乗り込み、石沢に松葉杖を後部座席に放り込んでもらうと、僕らはとりあえず車を発進させた。
「どっかアテはあるんですか?」
 僕がそう訊くと、意外な答えが返ってきた。
「ないこともないねん」
 はぁ、と僕は相槌を打った。「っていうと?」
「親父がな、むかし別荘で使ってた隠れ家みたいなとこがあんねん」
「隠れ家ですか?」
 石沢は小さく頷く。「たしかこの近くやったと思うんやけどな。軽井沢の近辺やったから、近くまで行けば道分かると思うわ」
 石沢の家は裕福な家庭で、かなりの資産家だと聞いている。軽井沢に別荘など夢のような話だが、実際にそういう人もいるのだ。
「すんません。何から何まで」
「何言うとんねん。お前と俺との仲やろ。当たり前や。ほとぼりが冷めるまで、お前そこで大人しくしとけ。食べもんとかは俺がまとめて運んできたるから」
 上手く想像がつかなかったが、悪くはない提案のように思えた。
「ほんますんません。でも、ほとぼりが冷めるまでってどれくらいですかね?」
「冷めるまで言うたら冷めるまでや。警察の捜査が進んで真犯人が捕まるかもしれへんし、時間が経てばお前の容疑が晴れる可能性も出てくるやろ」
 楽観的すぎるような気もしたが、たしかに可能性としてはゼロではない。
「んなもん、捕まったら終わりやで。死ぬ気で吐かんかったとしても、裁判で状況証拠とかで有罪にされて終わりや。あいつら、平気でそういう仕事しよんねん」
 一度逮捕されたら、きっとそういうことになるだろう。警察にも意地やらプライドというのものがあるだろうから、自分たちの間違いを認めるようなことをしないのは確実だ。
「画像を公開したってことは、まあ、そういうことなんでしょうね。こいつが犯人やって決めつけて、こいつ以外に犯人はおらへんって言うてるようなもんですもんね」
「そういうことや。でも、あれほんまにお前やないねんな?」
「違いますよ。あの殺された人も知りませんし。とんだ災難ですわ」
 僕は息をふぅと吐きながら、かぶりを振った。
「でも、よう似とったぞ。俺も『あっ、これお前や!』って思ったしな」
 道路が空き始め、石沢はアクセルペダルを踏んでスピードを上げる。
「でも似た顔の人なんて、いっぱいおるもんでしょ。こういうのある度に、似た顔の人って間違って捕まったりしてるんじゃないですかね」
 大きなカーブに差し掛かったが、石沢はスピードを緩めようとしない。
「聴取くらいはするやろうけど、逮捕まではせえへんやろ。そういう時、あのアリバイっちゅうのが出てくるんちゃうか?」
 心臓が高鳴ってくるのを感じた。
「変なこと訊くけど、お前、アリバイってどないなっとんねん」
 右手の甲で口元を拭い、髪の毛に指を突っ込んで頭皮を掻いた。
「そんなん、ちゃんとしてますよ。家で寝てましたわ」
 車はタイヤを軋ませつつ、カーブの中程に差し掛かる。身体が遠心力で運転席側に引っ張られ、僕は腕を突っ張ってそれに耐えた。
「奥さんと一緒か?」
「ええ。寝室は別ですけど家に一緒におったと思います」
 前後に車はいない。だが、見通しは悪く、カーブを曲がった先はどうか分からない。
「そりゃあかんな。たしか身内はあかんかったと思うわ。身内やと、かばうために嘘言いおるかもしれへんっちゅう話になんねん」
 カーブを曲がり切り、前方にトラックの荷台が見えてきて、ようやく石沢は車を減速させた。
「それに高崎やろ。赤羽やったらJRで一本やから、一時間半くらいとちゃうか」
 大宮まで新幹線を使えば、もっと時間は短縮できる。乗換えが上手く行けば、おそらく一時間弱といったところだろう。
「でも、とにかくやってないんやろ。お前があのホテルにも行ってないっちゅうんやったら、行ってないねん。嘘言うてるんとちゃうんやろ?」
 石沢が、ちらっとこちらに視線を向ける。
「ええ、そうです」僕は頷いた。
「変なこと訊いて悪かったな」
 いえ、大丈夫です、と僕は小声で答える。
 だんだん自信が持てなくなってきていた。実際、考えれば考えるほど曖昧になってきている。まるでそこだけ抜き取られたかのように、記憶が欠落しているのだ。思い出そうと必死に努力はしていたが、どこを探してもないのだ。そこには、本当に何もない。僕は、何か大事なことを忘れているのかもしれない。

              *
 
「ここや、ここ」
 ウィンカーを切り、石沢は左の脇道へと入っていった。ずいぶん長く走っていたような気がする。昼間飲んだ薬のせいもあってか、僕は助手席でいつしか眠り込んでいた。
 あたりには夕闇が迫っていて、山の稜線に沈みつつある太陽が赤く綺麗だった。
「えっ、もうこんな時間ですか」
 車のデジタル時計は六時五十五分を示している。
「人が一生懸命運転しとるのを尻目に、よぉ寝とったなあ。鼾も掻いとったぞ」
 ちらっと見えた青い道路標示には、鹿沼という聞き慣れない地名が書かれていた。
「鹿沼ですか」
「あぁ、もうすぐや。ちょっと道に迷ってしまって、遠回りしてしまった。まあ最後に行ったのが十年くらい前やし、記憶だけが頼りやからあかんな」
 窓を開け、石沢は煙草を吸い始めた。道がひどく蛇行していたから気が気ではなかったが、煙を窓から吐き出しながら、石沢は片手で器用にハンドルを回していた。
「わたしも替われればよかったんですけどね。これが右脚じゃなくて、左脚やったらいけてたと思うんですけど」
「ええよ。そんなこと気にせんで」
 石沢は吸い終わった煙草の吸殻を、外に投げ捨てた。
「黙って俺について来たらええねん。お前は何も考えんでもええわ」
 僕は首を曲げ、石沢の横顔をじっと見た。もう辺りは暗くなっていて、表情まではっきりとは読み取れなかった。だが、よく見えていたとしても、何を考えているのかまでは分からなかっただろう。昔からそういう男だった。
 細い道を二十分ばかし走ると、前方に病院のような大きな建物が見えてきた。白塗りの横長の建物で、所々の窓から白い蛍光灯の光が洩れている。
「ここに車停めとくぞ」
 三、四十台は停められそうな広い駐車場に石沢はスピードを緩めつつ入っていった。
「はい? ここなんですか?」
「ちゃうわ。こっから歩きや。車入られへんねん」
 僕はいささか面喰った。
「歩きですか? わたし、こんな脚ですよ」
 建物に近い隅の方に車を停め、石沢はかぶりを振った。
「そんなに歩かへんから。ちょっとや。ちょっと」
 自分だけ先に降り、後部座席から石沢は松葉杖を出してくれた。それに摑まりつつゆっくりと助手席から立ち上がり、車の外に出た。
 駐車場と建物を取り囲むようにして、黒い鬱蒼とした森が広がっている。この中に石沢の別荘はあるのだろうか。それから、この建物はいったい何なのだろう。
「ここいったい何なんすか?」
 率直に訊いてみた。すると、車の鍵を閉めながら石沢はこう答えた。
「なんや難しいよう分からん研究しとる施設らしいわ。誰も何も言うてこおへんし、親父もいつもここに停めとったからええねん」
 たしかに駐車場はガラガラだし、迷惑はかかっていないだろう。全部で二、三台しか停まっていない。だが、ここまで少ないとかえって目立って危ないと思うが、石沢はそんなことは気にならないらしい。
「えっ、ここ入ってくんですか?」
 建物脇の潅木の隙間に、石沢は足を踏み入れようとしていた。僕は松葉杖を使って必死に後を追っていたのだが、どこからどう見てもそこから先には森しかなかった。
「せやで。ちょこっとハイキングや」
 こちらに振り向くこともなく、石沢はそう答える。もちろん松葉杖をついてハイキングなどできはしない。
「マジですか。この脚ですよ」
 すると、石沢は足を止め、こちらにくるりと向き直った。
「おまえなぁ、俺がこんなに苦労してここまで連れてきたったのに、それ何やねん。お前のためやぞ。分かっとんのか?」
 眉間と、髪を中分けにした額に深い皺が寄っている。湿布や薬が効いたのか事故直後に比べれば痛みはだいぶマシになってはいたが、暗闇の中、山道を歩くことなどこんな脚でなくても難しいだろう。
「ほい、これや」
 肩から提げていた革鞄の中から、石沢は懐中電灯を取り出して点滅させた。
「足元照らしたるから頑張れや。お前のためやねん」
 そう言われたら他に選択肢はなかった。僕は黙って頷き、左足に重心をかけて松葉杖を潅木の隙間へと踏み込ませた。

 すぐ後ろから石沢が足元を照らしてくれてはいたが、やはり木々の間を縫って山道を歩くことは悪戦苦闘以外の何物でもなかった。きっと患部もひどく痛めてしまっているに違いない。もう、一生右脚は使えなくなっていたとしてもおかしくはない。松葉杖を振り出すたびに右腰に痛みが走り、それに耐えながら腕を突っ張って前へ身体を進める。
 何故よりにもよってこんな時に事故に遭わなくてはいけないのか。あるいは、こんな事故に遭った後に、何故わざわざ警察から追われなければいけないのか。もしくは、こんな怪我をしている時に、何故わざわざ夜の山道を歩かなければいけないのか。三つの事柄が尻尾を食い合う蛇の輪のように、お互いにお互いの理由になっているような気がした。
「大丈夫か。おぶったろか?」
 石沢は僕の遅々とした歩調に合わせて歩いてくれてはいたが、ついに痺れを切らしたのかそんなことを言い出した。
「そんなん、ええですわ。それよりまだですか?」
「ほんまか? 遠慮すんなよ」
 立ち止まり、石沢は僕の胸のあたりを照らし出す。
「ちょっとや言うたやないですか。…あとどれくらいかって聞いとるんですわ」
 全身汗塗れで、息が切れ始めていた。
「あと、たぶん五、六分や。我慢できるか?」
 あと五、六分なら我慢できる。たしかに五、六分なら。
「ほんまですか? ほんまに五、六分ですか?」
 すると、石沢は溜め息を吐いてまた歩き始めた。
「十分くらいかもしれへんな。お前、人の好意を無視すんなよ」
 僕はいくらか憮然として、松葉杖で石沢の後を追った。木の根っこに左脚を引っ掛けて転びそうになったが、何とか体勢を立て直した。もう何もかもがどうでもよくなってきていた。脚が壊れるなら壊れればいい。早くこのハイキングが終わることだけを僕は願っていた。
 結局、それから二十五分ほどかかって、僕らは一軒のログハウスのような小屋に辿り着いた。石沢は見せびらかすように、懐中電灯で小屋の隅々を照らし出した。何年も使われていなかったという割には、綺麗に手入れされているように見えた。
「ええやろ。これぞ山小屋っちゅう感じで」
「電気は来てるんですか?」
 すると、石沢は鼻で笑った。「アホか。こんな山奥に来てるわけないやろ」
 雨風がしのげて、廃屋や洞窟でないだけ感謝しなければいけない。トイレや洗面所や風呂も当然ないだろう。もちろんそんなものなくても、人間は生きていける。
 ギィィという不気味な音を立てるドアを開けて、石沢が中に入っていく。そして、僕が遅れまじと松葉杖を前に進めると、小屋の中にパッと明かりが灯った。
「ランタンや。ランタン」
 ライターをポケットに仕舞い、石沢はその明るいランプのようなものを天井から伸びた金具に引っ掛けていた。
「骨董品やで。でも、これよう持つねん」
 赤い光に照らし出された顔が、僅かに微笑んだ。僕も開いたドアを通って中に入り、部屋をぐるっと見渡した。
 広さとしては、七畳か七畳半くらいで、床も壁も剥き出しの木の合板のようなもので覆われていた。天井は三角形の屋根の裏側になっていて、丸太のようなものを組んで出来ている。雨が降り込まないか心配になったが、中のものが濡れていないということはおそらく大丈夫なのだろう。そして、部屋の左奥の隅には、黄色いチェック柄の布が被せられた何かこんもりとしたものがあった。
 僕はとりあえず松葉杖を壁に立て掛け、痛みに声を洩らしつつ、ゆっくりと床の上へ腰を下ろした。
「あれ、何ですかね?」
 壁に背中を凭せ掛けると、いくらか楽になった。
「あれって何や?」
「あれですよ。そこの布かかってる」
 石沢もその場に腰を下ろし、胡坐を掻く。そして、チェックの布の方をちらっと振り返った。
「知らんわ。死体でも入っとるんとちゃうか」
 僕は軽く笑った。よくこんな時に冗談が言えるものだ。



17へ続く

2023年04月16日

長編小説2 夢落ち 15



「これ、食べて早く薬飲んで」
 バターを塗ったパンと水の入ったコップを、れいがお盆に載せて運んできてくれた。
「ああ、すまん」
 僕は手を伸ばして皿からパンを取り、ゆっくり食べた。そして、もらってきたビニール袋の中から三種類の薬を取り出し、コップの水で飲み下した。そして、一緒に入っていた湿布を痛みの強い部分に貼る。
「湿布なんかでほんとに治るの?」
 僕は首を横に振った。
「いや、知らない。入院も必要ないって言うし」
 現時点で立ったり歩いたりできないことだけは確かだ。だが、それも徐々にできるようになっていくのだろうか。
「今日たまたま休診日でよかった。あなたがこんな状態だったら、仕事なんて行けないでしょ」
 確かに。一人ではトイレにすらろくに行けないだろう。
「まあ、ちょっと休んでて。して欲しいことあったら言ってね。それとも蒲団に横になった方がいい?」
 僕は、いや、このままでいい、と答えた。妙な言い方だが、決して体調が悪いわけではないのだ。ただ、立ったり歩いたりできないだけで。
「あ、そう。じゃあ洗濯機回したいから、何かあったら大きめの声で呼んでね」
 そう言って、れいは洗面所の方へと行ってしまった。
 僕はコップの水をもう一口だけ飲み、テーブルの上に置いてあったリモコンを取ってテレビを点けた。まったく現実感が湧かなかった。今頃、仕事で最も忙しい時間のはずだった。
 平日の昼間ということもあって、旅番組や料理番組、ワイドショーなどがのんびりとした調子で放送されている。他にやれることもなく観るとはなしに観ていたら、十一時になっていた。NHKにチャンネルを回すと、ニュースが始まり今朝やっていた事件の続報が流れていた。
「昨日東京都北区のホテルで書店勤務、迫田佳奈子さんの変死体が見つかった事件で、警視庁は殺人事件と断定。死亡推定時刻にこの女性の部屋に出入りしていた男の映像を報道各局に公開しました」
 画面が切り替わり、ホテルの廊下を奥から歩いてきた男がドアに手を伸ばすところまでの映像が、二回繰り返された。そして、男の顔を引き伸ばした画像が画面の中央に映る。
「警視庁はこの男が何らかの事情を知っているものと見て、情報提供を呼びかけています。警視庁赤羽警察署、東京〇三‐三九××‐五七××。東京〇三‐三九××‐五七××」
 男の顔の画像が大写しになったまま、画面下にテロップで情報提供の連絡先が表示されていた。きっと、この電話回線はしばらく鳴りっ放しになるだろう。なぜならそこに映っていたのは、紛れもなく僕の顔だったからだ。
 痛みに耐えながら、近くに立てかけてあった松葉杖を使って立ち上がり、時間をかけてリビングを横切った。そして、廊下に出てトイレに入ると、痛みに悶えながら苦労して便座に座り用を足した。
「大丈夫だった? 言ってくれれば手伝うのに」
 トイレを出た廊下のところでれいと鉢合わせ、そう声をかけられた。
「一人で何とか行けた。それより、ちょっと行かなきゃいけないとこがあるんだ」
「は? あなた、何言ってんの。行くって、どこ? 職場?」
「ああ、…うん。まあ、そう、どうしてもやっておかなくちゃいけないことがあって」
 れいは右手で頭を掻き、激しく首を振った。
「さっき、電話してたでしょ。電話じゃダメなの? 他の人にやっといてもらえばいいじゃないの!」
 怒り心頭といった表情だった。顔が紅潮し、口の端が曲がっている。
「いや…、電話じゃちょっと無理なんだ。タクシーで行ってすぐ帰ってくるからさ」
 すると、れいは眉根を寄せ、目を丸くした。
「タクシー? なんでタクシーなの? どうしてもって言うなら私が車で送ってくわよ」
 埒が明かない。このままだと平行線だ。
「あっ……ちょっと、とりあえずソファーに座る。立ってると痛くて」
 右足を浮かせるようにして松葉杖に寄りかかっていたのだが、確かに痛み出していたのは事実だ。
「大丈夫? こっち持ってよっか」
 れいが背中と肩を支えてくれた。僕は松葉杖を何とか前へ繰り出し、五分ほどかかってリビングを横切った。
「洗濯とか家事とかあるでしょ。いやほんと悪いから、待っててもらってすぐ帰ってくるから」
 そう早口で言って、電話機に登録してあったタクシー会社に迎車の電話をかけた。自宅の住所を告げると、十五分ほどで着けるということだった。
「あー、もう、わけ分かんない!」
 れいはそう言って、リビングのドアを勢いよく閉めて出て行ってしまった。
 もう時間がなかった。警察がいつここに踏み込んできてもおかしくはないだろう。
 ソファーから降り、松葉杖を引き摺りながら窓のところまで這って行って、庭の方に降りた。置きっ放しになっていた靴を履き、松葉杖をついて立ち上がり、車の脇を通って家の前まで出る。そこまでで、だいたい十分くらいかかった。
 しばらく待っていると、左側の道から黒塗りのタクシーが走ってきた。僕は松葉杖に腋を載せ、軽く右手を挙げた。
 ひどく手間取りながらタクシーに乗り込むと、行く先を訊かれた。
「草津まで」
 僕は適当に思いついた地名を言った。
 運転手はハザードランプを消し、車を発車させた。
「お客さん、それ交通事故?」
 三分ほど走って大通りに出たところで、唐突に訊かれた。
「ええ、…車にはねられちゃいまして」
「大変だね。じゃあ、お盆も松葉杖だ」
「それまでには治したいんですけどね」
 バックミラー越しに目が合う。その表情からすると、幸いこの運転手はまだあのニュースを見ていないようだった。
 いったい、どういうことだろうか。僕はあの東京のホテルには行っていないし、殺された女性も全く知らない。昨日の昼に発見されたということは、おそらく殺されたのは一昨日の晩から昨日の朝にかけて。その時間、僕はもちろん自宅で寝ていたはずだ。だったら、れいにそう証言してもらえばいい。なにも逃げるなどない。──だが、どれだけ思い出そうとしても、はっきりとした記憶が蘇ってこなかった。一昨日の晩に、自分がどこで何をしていたのか。きっと家で寝ていたはずだ。僕にはそう主張することしかできない。
 僕によく似ている人がいて、その人がその迫田なんとかさんを殺したに違いない。しかし、テレビに映っていた顔は僕にあまりにも酷似していた。僕を知っている人たちはきっと、テレビの前で驚いてアッと叫んだことだろう。そして、それほど親しくない何人かの人たちは、テロップに出ていた番号に慌てて電話をかけたとみて間違いない。
「あー、ちょっと混んじゃってるね。お急ぎ?」
 僕はかぶりを振った。
「いや、ゆっくりでいいです。夕方くらいまでに着けば」
 口から出任せだった。当ても予定も計画もない。
「じゃあ、このまま行っちゃうね。脇道とか探してもいいんだけど、かえって遠回りになっちゃうかもしれないんだよね」
 確かに。交通量は多いが、渋滞というほどでもない。走っていれば、そのうち空いてくるだろう。
「この道さぁ、草津街道っていってずっと走ってりゃ一本で行けちゃうんだよね」
 適当に相槌を打ち、窓の外をじっと見つめる。その時、背広のポケットに入れていた携帯が鳴り始めた。
 画面を開くと公衆電話からだった。僕はとりあえず電話に出た。
「木崎、お前何してんのや?」
 声ですぐに分かった。
 石沢からだった。


             6

 石沢は僕の古くからの親友で、学生時代はアルバイト先の先輩だった。大学を卒業してから石沢は一年余りフリーターで生活した後、医療機関向けの金融会社に就職した。二つ年上で、僕と同じ関西出身だった。
「何もしてませんよ」
「テレビ見たで。お前、やったんか?」
 僕は鼻から溜め息を吐いた。
「やってませんよ。人違いですって」
「でも、映っとったぞ。思いっ切り」
 どう説明すればいいのか、よく分からなかった。
「お前、いまどこや?」
「高崎の家出て、タクシーで草津方面へ向かってます」
 三秒ばかし間が空いた。理由を考えていたのだろう。
「草津か。潜伏先としちゃ悪くないな」
「だから、やってませんって」
「んなもん、やっとるかやっとらんかは関係ないねん。とにかくお前、警察から追われとるぞ」
「どないしたらええんですかね?」
 今度はしばらく間が空いた。
「よっしゃ。分かった。何とか線で草津口駅ちゅうとこがあるから、お前、そこの改札の前で待っとけ。上野から確か特急が出とるから、二時間ちょっとくらいで行けたはずや」
「そこで合流ってことですね?」
「せやな。それからな、お前、電話切ったらその携帯どっかで捨てろよ。電源切っとっても電波出てんねん。んなもん持っとったら、警察に筒抜けや」
 その話はどこかで聞いたことがあった。だが、石沢に言われるまですっかり忘れていた。
「分かりました。どっかに捨てときます」
「じゃあ、改札の前やぞ」
 そう言い捨てて、石沢は電話を唐突に切った。
 携帯をポケットにしまうと、運転手に行く先を変更したいと告げた。
「えっ? どこ?」
「草津口駅」
 すると運転手は、あぁと気の抜けた声を出した。
「吾妻線のなんとか草津口駅でしょ。じゃあ、どうせ途中だから。そこで誰かと待ち合わせ?」
 勘のいい運転手だった。僕は、ええ、まあと曖昧に返事をした。
 道沿いにぽつんと一軒だけあったコンビニに、トイレに行きたいと言って寄ってもらった。そして、駐車場の端に停まっていた大型トラックの荷台の上に、ポケットから取り出した携帯電話を放り投げた。松本ナンバーで長野に向かう長距離トラックだろうから、警察の捜査を大いに撹乱してくれることだろう。
 道がさほど空いていなかったこともあって、長野原草津口という駅の前に着いた時には時刻は午後三時を回っていた。ひょっとしたら、石沢が先に着いて待っているかもしれないと思ったが、改札の前に姿はなかった。
 駅の売店で新聞を買い、待合室のベンチに座って時間を潰すことにした。
 トラックの荷台の上の携帯には、れいや警察からの電話が何度もかかってきていることだろう。電源を切っていたから実際に鳴ることはないが、れいのことだから留守番電話にメッセージを吹き込んでいるに違いない。それとも、もう東京から捜査員たちが来ているかもしれない。そして、今頃自宅でれいから事情聴取をしていたとしてもおかしくはない。
 僕は人待ち顔に何度も改札の上にかかった丸い時計を眺め、傍の壁に松葉杖を立てかけて新聞を読み続けた。だが、四時半を回っても、石沢は一向に現われなかった。一面から社会面まで隅々まで読み尽くし、週刊誌でも買って来ようかと松葉杖に手を伸ばしたとき、改札の方から石沢の声が聞こえてきた。
「すまん、すまん。待たせたな。特急がなかなか来おへんかったんや」
 灰色の長袖に、ベージュのチノパン。焦げ茶色のローファー。肩から斜めに小豆色の革鞄をぶら提げている。いつも通りの格好だった。学生時代からほとんど変わっていない。
「あれ、お前どないしたんや? それ」
 石沢は僕が手を掛けていた松葉杖を指した。
「どうもこうもないですよ。車にはねられたんですわ。バーンと」
 僕は右腰のあたりに手を当てた。
「はぁ? はねられた?」
「そんなにスピード出てなかったからよかったですけど、右脚いってしまいましたわ。あれ、スピード出とったら完全に死んでたと思います」
 すると、石沢は口を開けて笑った。そういう男だった。
「ハハハッ! 警察から追われたり、車にはねられたり、ほんま大変やな」
 笑いごとではない。どちらも僕にしてみれば死活問題だ。
「んで、んなことよりな、昼飯食いはぐってしまったから腹減っとんねん。どっかで飯食おうや。お前、どうや?」
 ええ、まあ、と頷く。
「よっしゃ、じゃあ、そこの蕎麦屋でええか。俺な、地方行ったら蕎麦屋行って、どこが一番美味いか食べ比べとんねん」
 わざわざ今そんなことをしなくてもとは思ったが、石沢は先に歩き始めてしまった。松葉杖を使って立ち上がり、痛みに耐えつつ何とか左脚と松葉杖だけで後を追った。だんだんと松葉杖の使い方にも慣れてきていて、コツのようなものが摑めつつあった。
 蕎麦屋に入ると、石沢と僕は中程のテーブル席に座り、天ぷら蕎麦と山菜蕎麦をそれぞれ注文した。
「石沢さん、仕事のほうはええんですか?」
 お絞りで顔と首元の汗を拭き、水に手を伸ばす。
「んなもん、お前が心配せんでもええねん。ばあさん危篤や言うて抜け出してきたわ。すぐ新幹線乗らなあかんって」
「ようやりますわ。後でバレません?」
 水をゴクゴクと半分ほど飲み干す。
「持ち直した言うたらええねん。死にかけとったけど元気になりましたわって」
 言われた側としては、ああ、そう、としか言いようがないだろう。疑ったり責めたりすることはできない。



16へ続く


2023年04月13日

長編小説2 夢落ち 14



 ヘリオガバラスは、膝を着いてれいの身体の傍らにしゃがみ込む。
「ミスタ、あなたは『はらぺこあおむし』という話をご存知ですか?」
 持っていたナイフを振りかぶり、れいの背中の中心部に思い切り突き立てた。
「その話の主人公はちっぽけなあおむしで、あるあたたかい日曜日の朝にたまごから生まれます。あおむしはお腹がぺっこぺこで、食べるものを探しはじめます」
 突き立てたナイフをそのまま手前に引き、腋の下から抜いた。そこから赤黒い血がドロッと溢れ出て、腋から臓器のような固形物がこぼれ落ちる。
「そして、月曜日、りんごを一つ見つけて食べました。まだお腹は減ったままです。火曜日、なしをふたつ見つけて食べます」
 ヘリオガバラスはまたナイフを同じ箇所に突き立て、今度はそこから尻に向けて切り裂いた。そして、僕はその時、その黒い人間に影がないことに気がついた。
「水曜日にはすももを三つ食べ、木曜日にはいちごを四つ食べます。まだまだお腹はぺっこぺこで、金曜日にはオレンジを五つ、土曜日にはチョコレートケーキとアイスクリームとピクルスとチーズとサラミとぺろぺろキャンディーとさくらんぼパイとソーセージとカップケーキと、それからすいかを食べました」
 ちょうど尻の割れ目のあたりから、ヘリオガバラスはナイフを引き抜いた。
「その晩、あおむしはお腹が痛くて泣きました。次の日は、また日曜日。あおむしはみどりの葉っぱを食べ、それはとてもおいしくてお腹の具合もすっかり良くなりました」
 ヘリオガバラスは血の滴ったナイフを、近くに放り投げた。青色のスーパーカーのボディーに当たり、ガコッというくぐもった音がした。
「その後、あおむしははらぺこではなくなり、さなぎになり、そしてきれいな蝶になって羽ばたいていきます。そういった話です」
 詳しい筋は忘れていたが、たしか子供の頃に読んだことがあったような気がする。だが、それは、人の身体を切り裂いている場所で聞くような話ではない。
「エリック・カールという人が書いた子供向けの寓話ですが、よく出来ています。実によく出来ている。欲望とはいかにあるべきかを端的に表しています」
 その黒い人間は立ち上がり、ゆっくり僕の方へと歩いて近づいてきた。
「あなたはこの女と交わるべきではなかった。だが、不幸にも交わってしまった」
 起き上がって逃れようとしたが、全身の筋肉が痺れ、弛緩し、悲鳴を上げることすらままならなかった。
「ミスタ、あなたにはこれから様々なことが起こります。この水神の護符をあげましょう。唾か小便をかければ蘇ります。あなたには護符のご加護があるでしょう」
 ヘリオガバラスが目の前に差し出した手の中には、小さなトカゲかヤモリを日干しにしたような赤茶けた物体が乗っかっていた。僕がそれをじっと見ていると、ヘリオガバラスは黒い掌を傾けてその得体の知れない物体を僕の臍の上あたりに落とした。そして振り返ってランタンに手をかけ、中の火を吹き消した。
 すべてのものが闇に落ち、小屋の中はもちろん自分の手や足も完全に見えなくなった。あの黒い人間も闇に溶け込んでいったような感じがした。だが、やがてギィという音がしてドアが開き、月明かりがその隙間から差し込んだ。
「私はあなたの味方です。それだけは忘れないでください」
 ドアが閉まり、周囲は再び闇に覆われた。
 僕はしばらくそのままじっとしていた。正確には、動くことができなかった。すぐそばには切り裂かれたれいの遺体があり、生温かい血や臓器の臭いが漂ってきていた。いったい何が起こったのか分からなかった。理解の範疇を遥かに超えていた。
 夢の中で僕は、あの赤羽のホテルにいて佳奈子の部屋を訪れていた。そして、佳奈子と性交をしている最中に目覚め、現実にはれいと交わっていた。射精する寸前にあの黒い男が僕の身体を引っ張り、れいの顔と身体を切り刻んで殺した。どこからが現実でどこまでが夢なのか判然としない。僕は夢の中で自分が夢の中にいると気づいていた。菅野の言う明晰夢というやつだろう。じゃあ、これはいったい、今のここはいったい、夢の中なのかそれとも現実かどちらなのだろう。
 あの黒い身体は、フィリップ・K・ディックが小説の中で描いていたブリークマンという火星の原住民の描写によく似ている。ヘリオガバラスという名前もそうだ。水利労組組合長アーニイ・コットに雇われていた、若いブリークマンの名前。
 僕はゆっくりと右手を腰から腹に向かって這わせ、ブリークマンの置いていったものを探した。そして、ちょうどみぞおちのあたりにその乾いた小さな物体を見つけた。
 水神の護符。
 あなたにはこれから様々なことが起こります。あなたには護符のご加護があるでしょう。
 渇いた物体をそっと指先で摑み、口の前に持っていった。
 ペッと唾を吐きかける。すると、その物体は溶けてぐちゃぐちゃになり、指の間から零れ落ちた。
 なんのことはない。ただの乾いた虫の死骸のようなものだったのだろう。
 僕は溜め息を吐き、手を伸ばして枕の位置を少し下へずらした。
 閉じたカーテンの隙間から、部屋の中に朝日が差し込んできている。欠伸をして枕の左側に置いてある携帯を手に取ると、そこには六時五分と表示されていた。
 鼻から息を吐き、僕はもう一度欠伸をしてからベッドから起き出した。
 洗面所で顔を洗い、歯を磨いて髭を剃る。そして、顔全体に保湿用のローションを擦り込み、指先で眉毛の形を整えてから洗面所を出た。
 テレビを点け、トースターで冷凍庫で凍らせておいたパンを焼く。カップにインスタントコーヒーの粉を入れ、ポットからお湯を注ぐ。
 テレビでは朝のニュースがやっていて、トヨタがここのところの円安の影響で、過去最高の営業利益を更新したと報道されていた。本屋にはまったく関係のない話だった。円安で景気が回復して人々の消費意欲が向上すれば、少しは影響は出てくるかもしれない。だが、そういった円安差益とか国際経済などはほぼ縁のない閉じた業界なので、直接的な影響は皆無だった。世界経済やグローバル化を気にしなくてもいい分、気は楽なのかもしれないが。
 僕は焼きあがったパンにいちごジャムを塗り、コーヒーをすすった。
「さて、次のニュースです」男性アナウンサーは軽く咳払いをした後、そう続けた。「昨日正午過ぎ、東京都北区のビジネスホテルで若い女性の遺体が発見され、遺体の状況などから警察は殺人事件と断定し、捜査を開始しています」
 そこで画面はVTRに切り替わり、ホテルの外観を見上げる映像が映し出された。
「事件のあったのは北区赤羽の赤羽プラダホテルの五階で、持っていた免許証などから殺されたのは書店従業員の迫田佳奈子さん(三二)と見られ、関係者などから身元の確認を急いでいます。遺体には背中や胸などに刃物で切りつけられたとみられる複数の傷があり、死因は失血死と見られています。警察はホテルの防犯カメラの映像や周辺の目撃情報などから、慎重に捜査を進めています」
 画面は再びスタジオに切り替わる。
「さて、次はお天気です。中村さぁん」
 僕は最後のパンの切れ端を口の中に放り込み、二、三回咀嚼した後コーヒーで喉の奥に流し込んだ。壁にかかった時計は六時五十二分を指している。いつもの十二分の電車に乗るためには、かなりぎりぎりの時間だった。
 テレビを消して大急ぎで着替えを済ませ、鍵と財布を引っ摑んで自宅を出た時には、七時を回っていた。携帯のアラームは、なぜいつも通り六時に鳴らなかったのだろうか。設定をいじくった記憶はないのだが、不審に思って確認したら過ぎていた。その五分の遅れが響いてこんなぎりぎりの時間になってしまったのだ。のんびりテレビのニュースを見ていたからというのもある。つい何となく見入ってしまったのだ。
 そしてその時、駅と自宅とのちょうど中間地点あたりにある狭い路を僕は歩いていた。
 早歩きで、前方のY字路の一本に合流するあたりに差し掛かっていた。こちらが右側の優先道路で、左側のさらに細い道の方には一時停止の標識と停止線があった。間の三角形に区切られた箇所は近所の人たちの駐車場になっていて、まだ早い時間のせいか車はほぼ満車の状態で停められていた。
 僕はエンジン音から、左側の道路から車が来ていることは分かっていた。だが急いでいたということもあって一時停止で停まるだろうと考え、そのまま道路に描かれている点線部分に沿ってY字路の合流地点を通過しようとした。
 背後に車の気配を感じて振りかえった瞬間、僕の身体に衝撃が走り、車のボンネットの上に撥ね上げられていた。そしてフロントガラス越しに目が合い、そこには作業着のような服を着た四十くらいの男がハンドルを握っていた。その顔は驚き、唖然としているようで、自分でも何が起きているのか分からないといった表情だった。
 気がつくと、地面に転がっていた。そして、右脚の付け根と腰に強烈な痛みが襲ってきた。舌が痺れ、僕は口を開けたまま、まともに息をすることすらできなかった。
 人が集まってきているような気配がした。そして、口々に救急車だとか警察だとか停止表示をどうたらだとか声高に話し合っている。僕は何台かの車が頭のすぐ上を通過していっているのを感じ、その激しい痛みに耐えつつ目を閉じて道路に仰向けに横たわっていた。
 やがて、十分くらい後に救急車のサイレンの音が近づいてきて、すぐ近くに停まった。顔を覗き込んできた救急隊員によって意識の確認が行われ、僕が途切れ途切れの声でそれに何とか答えると、身体を前後から抱え上げられた。
 キャスターのついた担架にのせられ、そのまま救急車の中に運び込まれる。そして、痛む箇所を訊かれ、患部を固定するためかなにか知らないが、卒塔婆のような硬い木の板を身体の下に滑り込まされた。
「お名前とご住所教えてください」
 抑揚のない大きな声で、救急隊員がそう呼びかけてきた。僕は自分の名前と住所を小さな擦れた声で答えた。
「ご自宅は一軒家ですかぁ」
 僕は、唾を呑み込みながら頷く。
「どなたか連絡のとれるご家族の方はいらっしゃいますか」
 僕は再び頭を縦に振った。
「ご自宅の電話番号教えてくださぁい」
 僕は02から始まる自宅の電話番号を、吐き出すように口にした。痛みで頭が痺れたような状態になっていて、ほとんど何も考えることができなかった。
「ご家族の方と連絡とりますからねぇ」
 次に警察官らしき人が近づいてきて、先程とほぼ同じ事を訊かれた。そして、最後に名刺サイズの紙を目の前にかざされ、病院での処置が済んだらここに連絡をくれ、と下の方に書いてあった番号を指し示した。
「とりあえず、ここ入れときますからね」
 警察官は、僕の着ていた背広の内ポケットにその紙をねじ込んだ。
「痛いのは右脚だけですか?」
「……右脚の…つけね……腰のとこ」
 そして、ようやく救急車が動き出すのを感じた。おそらく警察が引き留めていたのだろう。事情聴取ができる状態ではないと判断したようだ。
「木崎さん、これから高崎市民病院へ行きますからね」
 搬送先がやっと決まったのかもしれない。受け入れ先が決まらないことには、走り出すことができなかったのだろう。
「奥さんも直接、病院へ向かわれるってことでしたから」
 寝ていたところを起こしてしまい、申し訳なく思った。たしか昨日も遅くまで仕事をしていたはずだ。家に帰ってきたのは、日付けが変わってからだった。
「お仕事は何されてますかぁ?」
 僕は会社員と答えた。
「勤務先にはご連絡されましたか?」
 僕は小さくかぶりを振った。できるわけがないだろう。それにまだ誰も来ていないはずだ。
「大丈夫ですか。あ、でも奥さんが連絡してるか」
 そんな不毛なやりとりが、十分か十五分ばかし続いた。何か声を掛け続けていなければならないというようなルールがあるのかもしれない。
 病院に着き、再び担ぎ上げられて可動式のキャスターのついた簡易ベッドに移動させられると、すぐさまレントゲン室へと運び込まれた。そこで右脚と腰の部分のレントゲンを撮り、次に通されたのはMRI室だった。また寝台を移動し、耳栓を耳に押し込まれて機械の中に入っていった。耳栓をつけていてもカンカンカンカンという機械音が聞こえてきて、二十分から三十分余り高さの違う同じような音が断続的に続いた。
 MRI室から出てくると、無人の診察室でしばらく待たされた。じっと横になっていると痛みは和らぎつつあり、無理に動かしたりしなければ強く痛むこともなくなってきていた。
 やがてやってきた女性の看護士によって、僕は車椅子へと移動させられ、整形外科の診察室へと押されていった。
「あー、結論から言うとね、骨とかは大丈夫そう。でもね、この、骨と繋がってる部分のここのとこの筋肉、これが白くなっちゃってるのよ。だから、こっちからガーンと当たって骨がここのとこをバーンって傷つけちゃったんじゃないかなって思うのよ」
 その小太りの柔道家のような感じの医者は、レントゲン写真とMRIで撮った写真をゆびで指しながら、手振りを交えて説明した。そして、病院の判が押された診断書を手渡された。そこには右股関節挫傷という病名と、三週間の加療を要するという診断が書かれていた。
「身長何センチ?」
「一七二です」
「ああ、じゃあ、奥田さん松葉杖あげて」
 僕の後ろに立っていた看護士に向かって、そう指示を出す。
「薬とか出しとくから、これで自宅療養ってことでお大事にしてください」
 僕は医師に礼を言い、車椅子を押され待合室へと出た。待合室の隅に車椅子を置くと、その奥田という看護士はどこからか松葉杖を持ってきた。そして僕に使い方を説明している時、横からその声は聞こえてきた。
「ちょっと、どうしたの!」
 左側の病院の入り口から、れいが駆けてきていた。
「すまん、車にはねられちゃって」
 息を切らし、僕の肩のあたりに手を乗せる。
「もう心臓停まるかと思ったわよ。ご主人が交通事故に遭われましたって電話かかってきて」
 あぁ、そういう伝え方をするのか。
「もう、それで大丈夫なの?」
 僕は、先程医師からもらった診断書を見せた。
「右脚だけだし、骨は折れてなかったみたい。だから、手術とか入院とかはしなくていいって」
 れいは大きく溜め息を吐いた。
「あぁ、よかった、とりあえず。死んじゃったかと思ったわよ」
「相手の車のスピードがあんまり出てなかったんだろうね。あと、二、三十キロ出てたらきっと頭打って死んでたと思う」
 すると、れいは僕の胸のあたりを拳で軽く殴った。そして、涙ぐみ、鼻を啜った。
「すまん、心配かけて」
 僕は、立ち上がることもできず、そう小声で伝えた。

 慣れない松葉杖で車に乗り込み、自宅に戻ってくると十時を回っていた。
 激痛に悶えながら駐車場側から庭の方に回り込み、リビングの窓を開けてもらってそこから部屋の中に這い上がった。玄関側は階段と段差があるので論外だった。
 松葉杖を使ってもまともに歩くことは困難だった。ちょっとでも動かすと患部に強い痛みが走り、れいに支えてもらいながら喘ぎつつ少しずつ前へ進むといった感じだった。
 れいに苦労して引っ張り上げてもらい、ソファーに何とか腰掛けると、僕は自宅の電話から職場と警察に連絡を入れた。職場の方は事前にれいが事故に遭ったことだけは伝えておいてくれたようで、こちらの状況を伝えると上司は安堵の溜め息を洩らした。
「おい、もう死んだかと思ったよ。ったく、もう。こっちは本部と相談して何とかするから、しっかり治してくれよ」
 僕は何度も詫びと礼を言って、電話を切った。そして、警察の方は怪我もあることだし、後日改めて調書を取るということになった。三日後にまた連絡をくれるということだった。



15へ続く


2023年04月06日

長編小説2 夢落ち 13



 さて、どうしたものか。
 びたっとシーツの張られたベッドの端に腰を掛け、僕は腕組みをしてとりあえず深呼吸をした。首を曲げて天井を見上げると、蚊が一匹火災報知器の傍らに留まっているのを発見した。わりと大きなやつで、ぴくぴくと触角だか脚だかをひくつかせながら、逆さまになって天井にへばり付いている。
 ベッド脇にあったティッシュを一枚取り、二つに折り畳んで鼻をかむ。そして、それをゴミ箱の中に放り投げると、近くにあったデジタル表示の時計の数字をじっと見つめた。
 十九時十七分。
 ホテルのフロント係は夜景がきれいだと言っていた。だが、僕は閉じられたカーテンを開ける気にはならなかった。もちろん、そういう気分ではないからだ。
 ここは、本当に夢の中なのだろうか。
 僕はもう一度、同じ質問を自分自身へ向けた。
 こんなに明瞭な夢など見たことはない。荒唐無稽でもなければ、ふわふわした感覚や記憶の欠如もない。飛んだり跳ねたりもしない。空気の匂いや皮膚の感覚、それに人との遣り取りもリアルで、何一つ欠けることもない。──だが僕は、自分がれいとあの森の中の小屋に横たわっているのを知っている。石沢さんを探して、彼女と僕は一緒にあそこまで来たのだ。そして道に迷い、小屋を見つけ、暖を取るために抱き合って静かに眠っている。
 どこかで読んだことがある。夢は抑圧された欲望の現われなのだと。誰かに聞いたのかもしれない。たしかフロイトの言葉だった。つまり、僕はまだ佳奈子が殺されていないという仮定を勝手に脳内で作り上げ、その世界を夢の中で実現させよう試みている。そんな単純な図式が浮かび上がってくる。もしそれが本当なら、ここでどんな行動を取ったところで、何の意味も持たないことになる。要するに、儚い願望を空想の世界で作り上げているだけなのだから。夢から覚めれば全てが胡散霧消する。どんなに必死になって佳奈子を守ったところで、目覚めれば佳奈子が死んでいるという事実に変わりはない。
 洗面所で冷たい水で顔を洗い、そのまま手で水を掬っていくらか飲んだ。そして、傍に置いてあったタオルで顔を拭いていると、リンローン! と部屋の呼び鈴が鳴った。
 リンリンリン、ローン! リリリンローン!
 呼び鈴は執拗に連打されていた。最初、ホテルの人かとも思ったが、従業員がそういう押し方をするとも思えない。
 僕はタオルを洗面台の隅に置き、ゆっくりと玄関の方へ向かった。
 魚眼レンズからドアの外を覗くと、ソバージュヘアで化粧の濃い目付きの悪い女の顔が見えた。見覚えはなかったが、女はずっと呼び鈴を鳴らし続けていた。
「はい?」
 ドアを開け、僕は女に問い掛けた。
「クサカさん? 呼んだよね?」
 僕は面喰った。そして、顔を顰めてかぶりを振った。
「クサカじゃありませんし、呼んでもいません」
 女は昔バブル時代に流行ったような、ものすごい格好をしていた。たぶんボンテージとかいうキラキラするラメの入ったピンク色の服に、屈んだら下着が見えそうなくらい短いタイトスカート。
「ここ、四〇七号室?」
「ええ、そうです」
 女はほとんど睨みつけるような目付きで、僕の顔をまっすぐ見ている。
「あたし、四〇七号室に呼ばれたんだけど」
「でも、呼んでないし、僕はクサカさんじゃない」
 女は露骨に舌打ちをし、腕に掛けたハンドバックを揺らしながら腕を組んだ。
「ここプラダホテルよね。赤羽の」
「ええ」
 僕は鼻から溜め息を吐きつつ、頷く。
「赤羽の、プラダホテルの、四〇七号室に行けってあたしは言われたの!」
 そんなことを喚き立てられたところで、どうしろと言うのだ。
「きっと、その人が部屋番号を言い間違えたんじゃないですか。フロントで訊いてみればいいんではないですかね?」
 バカ丁寧な口調で、僕は女に言葉を浴びせかけた。
「きくって何を?」
 顎を突き上げながら、女は挑みかかるような口調でそう訊き返してくる。
「クサカさんって人が泊まってるかどうかですよ」
 すると、女は虚を突かれたように口を窄め、表情を緩めた。そして、掌を打ち、僕の顔を指差した。
「それ名案! そっか、そうすりゃいいわ」
 そしてそのまま詫びも礼も言わず、さっさとエレベーターの方へ向かって歩いていってしまった。僕は呆気に取られたままその後ろ姿を見送り、廊下の角を曲がって女が見えなくなるとドアを閉めて部屋の中に戻った。
 まあ、昔で言うところの娼婦。デリバリーヘルスとかいうやつだろう。ホテルや自宅に来てもらい、代金を支払って各種性的サービスを受ける。いったいいくらくらいするのだろうか。相場がよく分からない。出張費とかもおそらく取られるだろうから、そういう風俗店に行くよりもいくらか割高なのではないだろうか。それでも、業態として成立しているということは確かな需要があるということであって、様々な事情を抱えた男性のニーズを摑んでいるのだろう。
 洗面所に戻り、コップに入った歯磨きセットのビニールを破る。
 僕はこんなところで、夢の中で、いったい何を考えているのだろうか。性産業の需給バランスのことを真剣に考えたところで得るものなど何もないし、今考えるべきことはもっと他にある気がする。
 歯を磨きながら、鏡に映った自分の顔をじっと見た。そして、ふと、なぜ自分が歯など磨き始めたのか不審に思った。──何か意図があったのかもしれないが、もうよく思い出せない。気がついたら磨き始めていた。セックスを意識したからかもしれない。考え事をしていたから、そんな連想によって無意識に体が動いていたのだろう。
 いい加減に歯を磨き終えて口をゆすぐと、僕はこの部屋から出ることにした。上の佳奈子の部屋に行き、彼女をここに連れてこなければいけない。つまり、匿うのだ。ここが夢の中だかなんだかよく知らないが、佳奈子がすぐ近くにいてこれから殺されることが分かっている以上、僕は彼女を命がけで救わなければいけない。何としてでも殺すわけにはいかない。それが何の意味もない行為であったとしても、僕に選択の余地などないのだ。
 鍵をジーンズのポケットに突っ込み、部屋を出て、毛足の長い絨毯を踏みしめつつ長い廊下を歩く。
 刑事たちは、防犯カメラに映り込んでいた男が限りなく怪しいと言っていた。その男とはすなわち石沢のことで、独特の濃い顔立ちからして見間違いようもなかった。ただ石沢が佳奈子を犯して殺した犯人ではないことは、僕が知っている。長年の付き合いと直感から、そういう男ではないことはよく分かっているのだ。その防犯カメラの映像にしたって、所詮は状況証拠に過ぎない。犯行現場が実際に映っていたわけではない。
 ピーンという電子音と共に、狭いエレベーターの扉が開いた。僕は階上行きになっていることを確認してから乗り込み、五階のボタンを押した。
 じっと階数表示のランプを眺めながら、僕はそれがゆっくりと四階から五階へと切り替わる様子を見ていた。そしてピーンと再び同じ音がして、扉が開く。
 同じ色の絨毯が、同じような感じで廊下を埋め尽くしている。これくらい毛足が長いと、歩く時にほとんど足音がしない。おそらく夜や早朝、階下に響かないよう敷かれているのだろう。そして僕はその時、強烈な既視感に襲われた。この赤い絨毯と左右に部屋のドアが並ぶ廊下の光景は、ひどく見慣れているような気がした。
 僕はここへ来たことがあるのではないだろうか。──記憶にはない。だが、ホテルの廊下なんてどこも似たようなものだし、ホテルに泊まるという体験自体は、それこそ数え切れないくらいある。その中のどれかが、ここの廊下とよく似ていただけなのではないだろうか。
 嚙み切れない肉の塊をむりやり飲み込んだような感じを覚えつつ、僕は廊下の中ほどにある五〇二号室のドアの前に立った。ドアの右脇、ちょうど魚眼レンズの高さあたりにクリーム色の小さなボタンがある。これが部屋の呼び鈴で、さきほどあの女がしつこく押していたのもこのボタンだった。
 ゴクッと唾を一つ呑み下し、僕は右手の人差し指をそっとボタンの上に乗せた。鼻から息が洩れ、僕は目を瞑り、意識して息を整えた。
 リンローン!
 指を押し込むと、必要以上に大きな音が鳴った。的外れで不器用な音がした。さきほど部屋の中で聴いたものより、いくらか音が高いような気がした。
 十秒ほど待ってみたが、中からは何の反応もなかった。
 僕はもう一度押してみた。そして続け様に二、三度連打した。
 やがて、ドアノブが回転し、音もなく内側に開いた。
「やっと来た」
 ドアの隙間から佳奈子が顔を覗かせた。
「ずっと待ってたの」
 ドアがさらに開く。
 僕は大きく息を呑んだ。
 なぜなら、彼女は衣服を一切身につけていなかったからだ。

              *

 僕らは文字通りお互いの身体を貪り合うように、激しく性交した。
 そこには理屈も理由もなく、ただ加奈子の裸体を目にした瞬間に身体を走り抜けた、強烈な性衝動だけがあった。──僕は加奈子の形の良い胸のあたりに抱きつき、ベッドに押しつけて馬乗りになった。そして、自分の着ていたものを震える手で剥ぎ取ると、夢中になって彼女の身体を舐め回した。
 佳奈子は頻りに湿った溜め息を吐き、激しく身体を捩り、僕の背中や肩に両手を這わせて撫で回していた。僕はやがて身体を起こして加奈子の股を押し広げ、ヴァギナの中に硬くなった性器を挿入した。
「あっ…!」と、甲高い声を上げ、佳奈子は一瞬身体を強張らせた。だが、いったんペニスが一番奥まで入ると、僕の背中で強く腰を挟み込むように足を交叉させた。
「あぁ、きっもちいい……」
 その小さな呟きには、聞き覚えがあった。まだ夫婦だった頃、僕らは数え切れないくらいセックスをしていた。彼女の身体の滑らかさや乳房の弾力、ペニスを中に挿れたときの性器の感覚まですべて記憶の中にあった。僕がよく覚えているあの感覚だった。
「…ヘリオガバラス」
 佳奈子の乳房を両手で摑み、無我夢中で腰を動かしている時だった。
「何だって?」
 僕は身体を前に押し倒しながら、訊き返した。
「…ヘリオガバラスに気をつけて」
 彼女の髪を摑み、腰をさらに激しく上下させる。
「えっ?」
「……ヘリオガバラス」
 たしか刑事たちから聞いていた。だが、その時はそんなことを考えられる状態ではなかった。
「ああ、いくっ……」
 腰の奥の方に熱い疼きが滾ってきていた。
「あっ、いくいくいくぅ…」
 佳奈子も呼応するように、そう喘いだ。そして、身体が弓なりに反り、痙攣のように全身を小刻みに震わせ始めた。
 僕は手をついて、一旦上半身を起こした。そして、腋に彼女の太腿を抱え込んだところで、異変に気づいた。
「ねえ、もっと……!」
 僕は一瞬呼吸を止め、今自分が性器を挿入している女の顔をまじまじと見つめた。
 れいだった。石沢れい。
 彼女は下から僕の腰のあたりを摑み、股間を動かして性器の中を掻き回していた。よって、僕の意識とは無関係に彼女はピークを迎えつつあり、僕のペニスは今にも射精しそうになっていた。
 そして、そこはホテルの部屋ではなく、あのおもちゃの散らばった避難小屋の床の上だった。
 天井からぶら下がったランタンが揺れ、僕の頭の影がれいの白い乳房の上で踊る。
「ダメだ。ヤバい、いくっ…!」
 限界に達し、僕がそう叫んだ瞬間、肩と背中を暴力的なひどく強い力で摑まれた。そして、そのまま羽交い絞めにされ、後ろに引っ張られ、硬くなったままのペニスがれいのヴァギナの中からするりと抜け落ちた。
 僕は驚いて首を曲げ、後ろを振り返った。すると、そこには黒い人間がいて僕の両肩を抱え込んでいた。
「心配することはありません」
 黒い人間には目も鼻も口もなかった。ただ顔の真ん中より少し下あたりに、小さな穴が二つ横に並んで空いていた。
「わたしは味方です。信じてください」
 信じるも何もなかった。
「放しなさい」
 見ると、れいが立ち上がって、サバイバルナイフを手にこちらにその切っ先を向けていた。そんなもの、どこにあったのだろう。
「その人を放して。あんたヘリオガバラスでしょ」
「よくご存知で」
 ヘリオガバラスがそう低い声で答えるや否や、れいは足を踏み出し、ナイフをこちらへ突き出してきた。
「あぶないっ!」
 ヘリオガバラスは素早く僕の身体を、壁に向かって突き飛ばした。僕はおもちゃに躓いて床に転がり、見上げるとれいの腕はしっかりと押さえつけられていた。そして次の瞬間には、れいの手からナイフが奪い取られていた。
「この女はよこしまな存在です。あなたの知っている人じゃない」
 そう小声で呟きながら、ヘリオガバラスはれいの顔を切り裂いた。額から左顎にかけて顔がぱっくりと割れ、赤い鮮血が迸り出る。
「ここは危険な場所です。あなたがいてはいけない」
 ナイフを振りかぶり、今度は左の乳房から臍の脇あたりに向けて切りつけた。すると、そこから噴出した血によって、しなやかな黒い身体が赤く染まっていった。
 僕は顎と下唇を戦慄かせつつ、尻餅をついたままその惨劇から目を逸らすこともできなかった。れいは顔を切られた瞬間から意識を失ったようで、為されるがまま身体を切られると床の上に正面から勢いよく倒れた。
「大丈夫です。ミスタ。この女は生まれ変わります」
 歯切れの良い明瞭な声だった。
「わたしも何度も生まれ変わりました。何度でも生まれ変わって、何度も繰り返すのです」
 いったい何のことを言っているのだ。
「欲望とは肯定されるべきものであり、結果、否定されるべきものでもあります」



14へ続く


2023年03月30日

長編小説2 夢落ち20 



「うちに融資を依頼してきた会社なんやけどな、ちょっとおもろい研究しとんねん」
「夢の研究ですか?」
 石沢はハンドルを強く叩いた。
「そう! さっすが頭ええのぉ」
 パンフレット見たまんまだ。
「なんか夢を実用化するとかなんとか言っとった」
「実用化? なんとなく胡散臭いですね」
 中を開けてみると、よくある酸素カプセルのような装置と、そこに白い病院着のようなものを着て横たわっている女性の写真があった。そして、『夢は万能です』というキャッチコピー。
「せやろ。都内でセミナーとかも開いとるらしいんやけど、おそらくどっかの新興宗教が絡んでそうなんや」
 次のページには代表取締役と称する男の顔写真と、仰々しいプロフィールが載っている。
「菅井正行。まだ若そうですね」
 僕は、その名前を読み上げた。
「そいつや、そいつ。うちの会社こないだ来とったやつ。四十くらいやな。デメキンかトカゲみたいな顔やろ。背だけはデカかったけどな。こんどお時間あるときにでも、施設を見に来てくれ言うとった」
 僕はパンフレットをぱらぱらと捲りながら、拾い読みしていった。アメリカやヨーロッパの学術論文をところどころ引用しつつ、夢についての研究成果のようなものが披瀝されていた。図や暗喩的な絵なども要所要所で使われている。たしかに興味を持つ人は少なくないだろう。
「もともと製薬会社の社員やったらしいんやけどな。三十五で脱サラして夢の研究に特化した会社を立ち上げた言うとったわ」
「ベンチャーっちゅうやつですか。そんで、結局なにしとる会社なんですか?」
 すると、石沢はハンドルを握り締め、唸った。
「あー、こないだ言うてたのはな、そいつが、ようSFとかで冷凍催眠とかあるやろ。不治の病で、特効薬が開発されるまで冷凍されてますとかそういうやつ。そういうのの夢版やな。ものすごい嚙み砕いて言えば。あいつもっと難しい言葉使っとったけどな」
 僕は石沢の言った言葉を、しばらく頭の中で反芻した。
「夢見とるうちに、未来へ行くっちゅうことですか」
「まあ、ざっくり言えば」
「死ぬほど胡散臭いですね。それ、絶対詐欺でしょ」
「知らんわ。そいつがそう言うとっただけや」
 間もなく車は高速を降り、山と畑しか見えない田舎道に出た。そして、道沿いにあったコンビニの駐車場に車を停め、僕らは順番に用を足し、外で煙草を吸った。
「融資なんかしたら、絶対焦げつきますよ。こんなとこ」
 石沢は、パンフレットを見ながらカーナビに住所を入力している。
「分かっとるわ。でも、夢がある話やろ」
 そう言って、石沢は自分で笑った。
「だじゃれですか。それに僕のこと先方にどう言うんですか」
 目的地を確認しました、とカーナビが言った。
「部下とか何とか言うわ。よろしゅう」
 そう言って、石沢は車を発進させた。
 そこから一時間ほど走り、車はどんどん山深い道へと入っていった。そして、カーナビが目的地周辺ですと言う中、舗装もされていない剥き出しの脇道を入っていった先にその目指す建物はあった。
 ところどころに雑草の生い茂った広い駐車場に、ぼろぼろに古びた白い大きな建物。そこは、明らかに閉鎖された病院だった。
「うわっ、ここですか」
 僕は外観を見た瞬間、怯んだ。廃墟か心霊スポットのようにしか見えなかった。しかも駐車場の入り口は太い縄のようなもので封鎖されていて入ることができない。
「あぁー、思った通りやー!」
 石沢は拳でハンドルを叩き、何度かクラクションを鳴らした。
 僕にもようやく事態が呑み込めてきた。会社の所在地をちょっとやそっとでは行けないようなところに設定した、架空の会社だったのだ。うその投資話を石沢の会社に持ちかけ、金が融資され次第、音信不通になり行方を眩ませるつもりだったのだろう。
 僕らはとりあえず車を降り、呆然とその遺棄された病院を見上げた。
「これがほんまの夢オチやな」石沢がポツリと呟いた。
 車に凭れかかって煙草を吸っていると、近くの山の稜線にログハウスのような建物が見えた。
「あそこまで山登りでもします? 記念に」
 指をさしながらそう言うと、石沢は顔の前で手を振った。
「アホか。何時間かかると思ってんねん。遭難するわ」
 煙草を吸い終わると、僕らは車内に戻り、車をUターンさせて元来た道を戻った。
「なんかすまんかったな。アホなことに付き合わせて」
 車のデジタル時計を見ると、時刻は三時半だった。
「ええ思い出になりましたよ。それに、融資焦げつかんでよかったじゃないですか」
「まあな。今度あいつ来おったら警察に突き出したるわ」
 高速に乗り、石沢は追い越し車線を百二十キロで飛ばし始める。
「詫びになんかおごったるわ。腹減ってきたしの。なんか食いたいもんないか?」
 重量のある高級車だけあって、それだけ出しても騒音も車体のブレもほとんどない。
「じゃあ、焼肉でええですかね。しばらく食ってないんですわ」
「よっしゃ、じゃあ焼肉や。昼飯食いはぐってしまったしの」
 道は空いていて、浦和インターまではさほど時間はかからなかった。降りたところで石沢は車にガソリンを入れ、近くの行きつけにしているという焼肉店へと向かった。
 店に入り、席に着くと好きなものを食べていいと石沢に言われた。だが、普段ほとんど行かないために何を頼んでいいか分からず、結局注文は石沢に任せることにした。そして僕らは顔を付き合わせ、狐目の店員が持ってきたタンやらロースやらカルビを焼いて食べた。
 石沢は仕事や金融関係や国際情勢などの話をし続け、僕は適当に相槌を打ちながら肉を食べていた。飲みたかったのだが、僕は石沢に気を遣ってビールを頼まなかった。一時間余りが経過し、腹がいっぱいになってきたところで僕はそろそろ出ようと石沢に言った。もう外は夕闇が迫っていたし、そろそろ帰りたかった。
「いや、じゃあ、ちょっとその前にええかな」
 口調が鋭く、いかにも思い切って言い出したといった感じがした。僕は腋の下に冷たい汗が伝うのを感じた。
 煙草に火を点け、石沢はそれを短くなるまでゆっくり時間をかけて吸った。
 僕は、自分の手が微かに震えているのに気がついた。
 石沢はしばらく下を向いて黙り込んだ後、こう言った。
「なあ、木崎、取り返しがつかへんことってあるよな?」
 僕はテーブルの上のお絞りを手に取り、口元を拭った。
「……何のことですか?」
 鼓動が激しく乱れ、心臓が大きな手で摑まれたように痛み始めていた。
 石沢は僕の目を真っ直ぐに見ている。その目は赤く充血し、強い感情が宿っているように見えた。
「…俺もな、知りたくなかったんや。そんなこと」
 搾り出すような震える声だった。もはや、疑いようもなかった。そして、僕の頭の中には、首から血を流して死んでいるれいの顔が浮かんでいた。
「すんません」
 そう言うことしかできなかった。そして、僕は頭を垂れた。もはや、石沢の目をまともに見ることはできなかった。
「……俺にバレへんと思ったのか?」
 僕は黙って頷いた。
 石沢はひょっとして、ずっと知っていたのかもしれない。知っていて、ただ言いだせずにいたのかもしれない。
「お前、結婚しとって子供もおるやろ」
「ええ」
「それに、なんであいつやねん。他にも女はおるやろうが!」
 石沢は拳でテーブルを強く叩いた。
「すみません」
 僕はぎゅっと目を閉じた。そうすれば、現実から逃れられるかのように。しかも、僕は彼女を殺したのだ。石沢はいずれそのことを知り、誰か殺したのか真っ先に気づくだろう。
 僕らはずっと長い時間黙り込んでいた。
 やがて、石沢は席から立ち上がった。
「あいつとは別れろ」
 そう言い捨て、伝票を持ってレジの方へ歩き始めた。
「はい」と僕は答え、その後をゆっくり追った。
 家まで送るという石沢の申し出を断り、僕は駅まで歩いて電車で帰った。
 遅くなるから夕飯はいらない、と佳奈子にメールを送り、駅前の居酒屋に入って一人で酒を飲み始めた。何度もトイレで吐きながら日付が変わるまで飲み続け、閉店時間だと店員に告げられると店を出た。
 家に帰ると、佳奈子と拓真はすでに寝ていた。僕は酔い覚ましにシャワーを浴び、胃薬を飲んだ。そして枕元に携帯を投げ出し、そのまま蒲団に入った。
 朝まで夢も見なかった。あるいは、見ていたとしても全く覚えていなかった。

              *               

 駅と自宅とのちょうど中間あたりにある狭い路を僕は歩いていた。
 遅れを取り戻そうと早歩きで、前方のY字路の一本に合流するあたりに差し掛かっていた。こちらが右側の優先道路で、左側のさらに細い道の方には一時停止の標識と停止線があった。間の三角形に区切られた箇所は近所の人たちの駐車場になっていて、まだ早い時間のせいか車はほぼ満車の状態で停められていた。
 僕はエンジン音から、左側の道路から車が来ていることは分かっていた。だが急いでいたということもあって一時停止で停まるだろうと考え、そのまま道路に描かれている点線部分に沿ってY字路の合流地点を通過しようとした。
 背後に車の気配を感じた瞬間、腰のあたりに衝撃を感じ、車のボンネットの上に撥ね上げられていた。そしてフロントガラス越しに目が合い、そこにはスーツを着た四十くらいの男がハンドルを握っていた。その顔にほとんど表情はなく、まだ人に当たったことに気づいていない様子だった。
 フロントガラスが割れ、僕の身体はさらに撥ね上げられた。そして、後頭部を強く打ちつけながら地面に転がった。
「死んだか?」
 やがて、そんな声が頭上から聞こえてきた。
「ああ、ようやく……」
 意識がふと途切れ、最後まで聞き取ることができなかった。
「……こいつは、……やり直したかったんだろうな」
 目蓋を開いた瞬間、空が勢いよく落ちてきた。
                               


〔了〕
2023年05月25日

長編小説2 夢落ち19




 彼女と僕との出会い、正確には再会は、僕が店にいて朝の雑誌出しの残りを片付けている時のことだった。
「木崎さん」
 僕は売り場に並べ切れなかった雑誌を、ストッカーと呼ばれる下の引き出しに入れようとしていた。
「はい?」
 突然呼ばれて驚いて振り向くと、そこに彼女がいた。
「あれ、お久しぶりです。どうしました?」
 それは石沢の前の奥さん、れいだった。
「暇だから会いに来ました」
 はにかんだ笑顔をれいは見せた。彼女は相変わらず綺麗で、外見上ほとんど変わっていなかった。僕らが最後に会ったのはたしか二年くらい前。その時まだれいは石沢の奥さんだった。
「石沢さんと別れたって?」
 メールで石沢から聞いた。だが、理由までは聞いていない。
「ええ、そう。別れました」
 抑揚を欠いた声で、れいはそう答えた。懐かしい香水の匂いがした。昔も彼女はその香水をつけていた。頭の中を掻き乱すような、ひどく強い香りだった。
「どうしたんですか、急に?」
「いや、何でもないんです。会いたくなったから会いに来ただけで」
 そんなことを言うべきではないと思った。僕は既婚者で子供もいる。それは彼女も分かっているはずなのだ。
「今度、飲みに行きましょうよ。奥さんとかもご一緒に」
 言い方からして、前から用意していた台詞のようだった。
 僕はホッとして笑顔を返した。「そうですね。また連絡しますよ」
 僕はストッカーに雑誌の束を仕舞い、手で強く押して閉じた。
「ねぇ、知ってました? わたし木崎さんのことが好きだったんですよ」
 思わぬ不意打ちだったが、僕はすぐにこう答えた。
「あぁ、そうですか。でも結婚してると知って好きじゃなくなったんですよね?」
 そのようなことは、実は前にも言われたことがあった。それは、まだ彼女が石沢さんと結婚する前のことだった。石沢さんにはもちろんそのことは伝えていない。そんなこともあって、厄介払いするように石沢さんに彼女を紹介したのだ。
「っていうか、子供がいることを知って……」
 何気ないふうを装ってはいたが、頭の中は振り回されたように激しく揺れ動いていた。
「アドレス変わってないですよね?」
 僕は黙って頷いた。
「後でメールしますね」
 れいはそう言い残して、近くの自動ドアの方へと歩いていった。僕はそんな彼女の後ろ姿を見つめながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。
 その晩、約束通りれいからメールが来た。久しぶりに会えてよかったとか、どうしても会いたくて、店の中をずっと探し回ったとか書いてあった。僕の心はどうしようもなく掻き乱され、思い切ってこう返事を送ってしまった。
 僕も会えてうれしかった。今度二人で会いたいですね。
 すると、五分もしないうちに返事がかえってきた。
 私も二人で会いたいです。いま、電話してもいいですか。
 こうして僕らの関係は始まった。そして、それは行き着くあてのない地獄への一本道だった。
 
 ホテルへ行ったのは、別れ話をするためだった。
 れいとの関係が深まれば深まるほど、これが佳奈子と拓真への明確な裏切り以外の何物でもないと意識するようになっていった。そして、勝手な言い分かもしれないが、僕には佳奈子や拓真を傷つけるつもりは全くなかった。二人は僕の人生に舞い降りてきた唯一かけがえのないもので、僕はそれを失うことなど耐えられそうになかった。
 彼女が先に行ってホテルの部屋で待っていた。そして僕も八時くらいには着けるはずだったのだが、夜のアルバイトさんに休みが出た関係で閉店まで上れず、結局ホテルに着いたのは十時半過ぎだった。そしてベッドの上で、僕らはいつものように性交をした。
 僕の頭の中には、おそらくこれが最後のセックスになるだろうという思いがあった。それがひょっとしたら伝わってしまったのかもしれない。事を終えて僕がれいの身体から降りると、彼女は突然泣き出した。
「どうしたの?」
 僕はれいの肩に手を置き、そう言った。だが彼女からの答えはなかった。その白く美しい肢体をさらけだしたまま、両手で顔を覆い、しばらく泣き続けた。
 僕は溜め息を吐いて、煙草に手を伸ばした。ベッドの縁に腰掛けてゆっくりと吸いながら、彼女が泣き止むのを待った。
「……分かってる。…分かってるわよ」
「うん?」僕は訊きかえした。
「そんなの、あなたに言われなくても分かってる」
 顔から手を離し、れいは起き上がった。
「なんのこと?」
「別れてほしいって言うんでしょ」
 見ると、目を真っ赤に泣き腫らし、震える下唇を嚙み締めていた。
 一瞬息が止まり、ひどく噎せながら煙草を灰皿に押しつけて揉み消した。れいが僕の顔を見つめる視線が痛かった。
 彼女に背を向け、目を閉じて浅い呼吸を繰り返した。部屋が僕を中心として、ぐるぐる回っているような気がした。
 口の中に溜まってきた唾を呑み込み、僕は低く唸った。
「……すまない。子供と、嫁さんを…」
 そこまで言うのがやっとだった。そして、頭に右手を遣り、短い髪の毛を何度も掻きあげた。
 れいが背後で短い溜め息を吐き、ベッドから降りる音がした。
 そして、僕が二本目の煙草に手を伸ばそうとしたその時だった。部屋の方を振り返って見ると、包丁を手にれいが立っていた。
 両手で柄を握り締め、先端をこちらに向けている。
「一緒に死んで」
 彼女は僕に突進してきた。
「おいっ!」
 僕はそう叫んで、咄嗟に身体を反転させた。すると、切っ先は僕の背中を掠め、壁に突き刺さった。
「やめろって!」
 僕は立ち上がり、包丁を奪おうとした。だが、れいは壁から包丁を引き抜き、僕の顔を狙って振りかぶる。そして、僕はなんとかその手首を捉えた。
「死ねぇー!」
 大声で喚きながら、彼女は狂ったように暴れまわった。すると、揉み合いになって揺れ動いていた包丁の切っ先が、れいの首筋を切り裂いた。
「ああーっ!」
 れいはその瞬間、絶叫した。
 頚動脈を切ったようで、夥しい量の血が文字通り溢れ出てきた。だが、なおも彼女は暴れるのを止めず、僕らの足元には赤黒い血の溜まりができていった。
 やがて彼女は力尽きたかのように膝から崩れ落ち、部屋の床の上に横たわった。短く荒い呼吸が小さく開いた口から洩れていて、しばらくするとそれも止まった。
 目を覗きこむと、瞳孔が開いていた。そして、念のため手首の脈を取ろうとしたが、それはどこにも見つからなかった。
 あぁ、死んでしまったのだな、と思った。
 まるで実感が湧かなかった。まるで夢の中の出来事のように、僕の意志とは無関係に勝手に推移していったように思えた。気づいたら死んでいた。本当にそんな感じだった。
 僕は風呂場に行って、血塗れになった身体をシャワーと石鹼で洗い流した。そして性交の後でよかったと思った。お互い全裸だったから、血の付いた衣服をどうにかする必要もないし、そのまま着て帰ることもできる。
 きっとれいは最初から分かっていたのだろう。だから、あらかじめ鞄の中に包丁を忍ばせてきた。最初っから無理心中をするつもりで、このホテルへ来ていたのだ。
 風呂場から出ると、僕はテーブルの上に置きっ放しになっていたナイフやら部屋の壁やら、自分の指紋が付いているであろう箇所をハンカチで念入りに拭いて回った。煙草の吸殻も鞄の中にぶち撒け、僕のいた痕跡を残す遺留品が何もないことを確認してから部屋を出た。罪悪感がなかったと言えば嘘になるが、とにかくそれよりなにより必死だった。佳奈子と拓真のことがずっと頭に思い浮かんでいて、二人を守らなければという気持ちが僕を駆り立てていた。
 幸い、フロントには誰もいなかった。来る時もそうだった。カウンターの上に銀色の呼び鈴だけが置かれていて、用のある人はそれを鳴らすシステムになっているようだ。きっと人が足りていないのだろう。
 外に出ると、空気がすがすがしかった。アスファルトと車の排気ガスのせいでムッとする熱気が籠もってはいたが、危険な場所から抜け出すことができたという開放感が、空気の匂いすら変えていた。
 僕は間違ってはいない。いや、間違ってはいたが、それを何とか取り戻した。
 この秘密は墓場まで持っていかなくてはいけない。これからは二人の家族のために生きよう。そのために僕がどれほど苦しむことがあったとしても。
 赤羽駅へ歩いて行く道すがら、僕はそんなことを考えていた。

 石沢から電話があったのは翌日のことだった。
 僕は仕事が休みの日で、ベッドでぐっすりと眠り込んでいた。
「お前、今日暇か?」
 枕元に置いてあった携帯に出ると、石沢はいきなりそう訊いてきた。
「えっ…、ええ、はい」
 昨日の今日ということもあって、僕の心臓はひどく高鳴った。
「ちょっと付き合ってくれへんか。行きたいとこがあんねん」
 石沢の声に緊張感はなかった。それで、僕はいくらか安心した。
「どこですか? それ」
 すると石沢は電話口で軽く咳払いをした。
「ちょっと栃木の方やねんけどな」
「は? 栃木ですか」
 僕は面喰った。そして、額に汗が滲むのを感じた。
「んなもん、高速使えば車で二、三時間の距離や。お前ん家迎えに行けばええか?」
 前に遊んだ時、深夜になり家の近所まで送ってもらっていた。石沢の自宅はたしか武蔵浦和と言っていたから、三十分もあれば来られるだろう。
「ええ、じゃあ、すんません」
「よっしゃ、じゃあ十時くらいでええかな。あの前停めたコンビニんとこで待っとくわ」
 僕は分かりましたと答えて電話を切り、ベッドから出た。
「すまん、今日ちょっと遊びに行くことになった」
 居間で拓真に朝ごはんを食べさせていた佳奈子に、そう伝えた。
「誰と?」
「石沢さん。十時にそこのセブンで待ち合わせ」
「あっ、そう。忙しいわね」
 僕はその皮肉を聞き流し、洗面所に行って顔を洗った。そして冷凍のごはんをチンしてふりかけをかけて食べ、煙草を吸いながらコーヒーを飲んでいると九時五十分になっていた。
「ちょっと行ってくるわ。そんなに遅くならないようにする」
 着替えをして玄関を出るときに、家の中に向かってそう声を張ったが返事はなかった。そして、歩いて三分くらいのところにあるコンビニに行くと、既に石沢のボルボが駐車場に停まっていた。
「おぅ、すまんな。せっかくの休みに」
「いえ、こちらこそすんません。わざわざ迎えに来ていただいて」
 コンビニで缶コーヒーを買い、入り口前の灰皿のあるところで一服すると、僕らは車へと乗り込んだ。
「あれ、こんなん付けてましたっけ?」
 助手席側のサンバイザーのところに、黒い小さな人形がぶら下がっていた。
「ああ、それか」
 サイドブレーキを外しながら、石沢は答える。
「トルコだかどこだかのお土産や。うちの会社の部長がこないだの休みの時に行ってきてもらったんや」
 シフトレバーを引き、車を発進させる。
「名前はなんて言うんですか?」
「あー、なんやったかな。聞いたんやけどな」
 僕は一つ思い出した。
「ボージョボー人形」
「ちゃうちゃう。それ、バリかインドネシアや」
 狭い道を左折し、国道に出る。
「ヘルラダル…いや、ちゃうな。ヘリバジル……」
「ヘリオガバルスじゃないですか」
 そんな名前を、どこかで聞いた覚えがあった。
「いや、そんなヨーロッパ風ちゃうよ。もっと、あの、オリエント風っちゅうんやったっけ……」
 結局、石沢は最後までその名前を思い出すことができなかった。そして、浦和から高速に乗り、物凄いスピードを出しながら石沢のボルボは東北道をひた走った。その間、僕は主に石沢の会社や仕事の話をずっと聞かされていた。上司や部下の悪口やら、取引先で会った変な医者のことやらちょっとした事件の類い。時折相槌を打ちながら、僕はずっと昨日の出来事のことを考え続けていた。僕が悪いのではない。れいが勝手に暴れ出し、自分で自分の首を切って死んだのだと言い聞かせていた。そして、無論、石沢はまだれいが死んだことを知らない。そればかりか、僕らが隠れて会っていたことすら知らない。
「ところで、これどこ向かってるんですかね?」
 佐野藤岡インターを過ぎたあたりで、僕はずっと気になっていたことを口にした。
「あぁ、鹿沼っちゅうとこで降りるよ」
 聞いたことはない。
「そこに何があるんですか?」
「会社や会社。特殊な法人。俺一人で行くのは心配やったから、お前にもついてきてもらったんや」
「意味分からないですよ」
「後ろに鞄あるやろ。そん中にクリーム色のパンフレット入っとる」
 僕はシートベルトを引っ張りながら身体を後ろに捻り、後部座席にあった石沢の茶色い革鞄を取った。前に向き直り、開けて中を見ると白いパンフレットが入っていた。
「ドリーム・インク」
 表に大きく書かれていたアルファベットを、僕は読み上げた。



20へ続く


2023年05月11日

長編小説2 夢落ち 9



「脳活動において、脳波の位相が揃うことをコヒーレンスといいます。コヒーレンスはレム睡眠時には一般にやや低下するのに対して、明晰夢の場合はそうならないことが分かっています。例えるならばレム睡眠時の脳活動は、パーティーですべての客がいっせいに話をしているような状況です。それが明晰夢の場合は、パーティーの客同士が話を交わすので背景の雑音は少なくなるというわけです。明晰夢を自分が思うままに見ることはできませんが、その頻度を高めることは可能です。つまり、その方法とは一日に何度も『自分はいま目覚めているのか』と自らに問い掛けることです。この習慣が深くしみ着いてくると、夢の中でもこの問い掛けをしていることに気づきます。その時点で夢を見ていることを自覚する度合いは急速に高まります。それから現実性の確認の手段として、鏡を覗き込んだり、短い文を繰り返し読むといったことを頻繁に行うよう努めてください。夢においては、我々の姿はしばしば変わって、書かれた言葉を読み取ることは極めて困難です。このような習慣を睡眠時に持ち込んでリアリティーをチェックすれば、自分が現在夢を見ていることに気づくことができます」
 菅野はここまでを一気に一息に話した。一言一句が頭に刻み込まれているといった感じで、微塵も詰まったり言い淀んだりしなかった。
「そういう夢を見たからといって、どうなるものでもないだろう」
 相手の話に呑み込まれないよう、僕はそう言い返した。だが、どうやらそれは想定された質問だったようだ。
「いえいえ、たとえば悪夢障害に悩む人にとって、自分の夢をコントロールすることを学ぶことが唯一の改善方法であることが分かっています。悪夢の最中に自らの認識性を高めることによって、夢の内容から感情的な距離を置けるようになるからです。明晰夢に十分熟達すれば、恐怖のシナリオを避けるよう夢の内容を自分でコントロールすることすらできるようになります。それから、そういったセラピーへの応用だけでなく、複雑な運動の学習を容易にする効果もあります。というのは、夢では通常ありえないどんな行動もとれます。空も飛べるし、壁を抜けたり、ものを消したりもできる。すなわち、運動選手は走り高跳びなどに必要とされる複雑な運動の手順を適切な明晰夢によって練習すると、より素早く習得できるというわけです」
 夢の中で走り高跳びの練習? 
 石沢がさきほど言っていたことを思い出す。たしか夢だと気づいて、電車に乗って赤羽に行ったと言っていた。
 菅野は顔の前で組んでいた手を解き、今度は椅子の背に凭れかかって腕を組んだ。
「とまあ、ここまでがいわゆる現代科学の成果です。世界中に夢の研究をしている学者たちは数多くいて、明晰夢研究所なんていうものまであるんですよ。で、ここからが我々が独自に発展させた理論なわけですが、木崎さん、あなたいま自分が現実のリアルな世界にいると思いますか?」
 僕は小さく溜め息を吐いて、菅野に問い掛けられた言葉を頭の中で反芻してみた。ここが現実のリアルな世界かどうか。たしかさっきもそんなことを言っていた。常にチェックせよ、と。その習慣を夢の中でも実行できれば、現在自分が夢を見ていることに気づくことができる。
「信じたくないけど、現実だろう。夢なんかじゃない」
 腕組みを解き、菅野はパンと小気味良い音を立てて掌を合わせる。
「正解です。これは夢じゃありません。現実です。少なくともあなたにとっては」
 含みのある、腑に落ちない言い草だった。あなたにとっては?
「これをご覧下さい」
 そう言って、菅野は膝の上に置いていた新聞を軽く掲げた。そして、それを広げ、「ああ、ここだ」と呟いて紙をひっくり返し、僕の目の前に突きつけた。
「ここにあなたの死亡記事があります。今朝の朝刊です。昨晩あなたの自宅アパートで火事がありました。火はすぐに消し止められたんですが、火元と見られる二〇二号室からは男性の焼死体が見つかりました。遺体はその部屋の住人の木崎護さんと見られ、警察が身元の確認を急いでいる、とまあそんな記事です」
 僕はその社会面の隅の方に載っていた小さな記事に顔を近づけ、必死に目で追っていた。だいたい今菅野が言った通りのことが書かれていて、上部の欄外を見ると、七月十五日付けの読売新聞だった。
「……あんたらがやったのか?」
「人聞きの悪いこと言っちゃいけません。私らがそんなことをする理由はありません。つまり、あなたはただ自分で灯油をかぶって自殺をした、単にそれだけのことですよ」
 怒りが腹の中で芽生え、すぐにそれは大きく膨らんできた。
「…そんなもの、DNA鑑定でもすりゃすぐにバレる。あんたらの小細工なんか、日本の警察には通用しない」
 すると、菅野は声を立てて笑った。
「…ハッハッハ! ああ、じゃあ、それじゃあ訊きますが、木崎さん、あなた奥さんの遺体ご覧になったでしょう。いや、失礼、前の奥さんでしたっけ? あれ、完全に死んでましたよね。それから奥さんの遺体に間違いありませんでしたよね」
 ハッと僕は息を呑んだ。さきほどの射精のことを思い出したのだ。
「もちろん、DNA鑑定はしますよ。今日日捜査の基本ですからね。でも、焼死体からはあなたのDNAが検出されますよ。だって、死亡したのはあなた自身なんですから」
 言っていることの意味が分からなかった。
 僕は死んでいない。こうしてここにいる。後ろ手に縛られ、安物のパイプ椅子に座らされてどこだか分からないところに監禁されてはいるが、少なくとも死んではいない。つまり、生きているはずだった。
「あんた、なに言ってるんだ……」
 そう言い返したが、声に力は入らなかった。
「天秤が傾いたんです。我々の方に」
 菅野は新聞を床の上に置いた。そして、顔を上げると僕と目を合わせた。
「さっきも言ったでしょう。夢では通常ありえないどんな行動でもとれる、と。空も飛べるし、壁を抜けたり、ものを消したりすることもできる。ですが、それは私ができるわけじゃありません。あなたもそうですし、他の誰にしたってそうです。なぜなら、ここは夢じゃありませんからね。少なくとも我々にとっては」
 ヒントが多分に含まれ過ぎているせいで、石沢の言っていたことも考え合わせると、この男が示唆していることが見えてきた。だが、その答えは到底信じ難いものだった。
「……石沢さんの夢の中だって言うのか?」
 菅野はニヤリと口の端を歪めた。
「そう! すばらしい! さすが、頭がいいです。仰るとおり、ここは先生の夢の中です。言うなれば、彼が神です。この世界で万能の力を持った唯一の人間」
 想像の限界を超えていた。自分が人の夢の登場人物であるなどということは。つまり、石沢が目覚めれば、この僕の存在など胡散霧消してしまうということだろうか。
「我々はそういった人物が現われるのを、ずっと待ち続けていました。各地でセミナーを開き、様々な人に夢落ちの方法を伝え、実際にその壁を越えた人が我々の前に現われるのを待っていた」
 脚を組み、菅野はその膝の上に肘を突く。
「あんたらは、どうやってその夢落ちとかいうのの方法を知ったんだ?」
 すると菅野は、黙って頷いた。
「ある人から聞きました。ただし、その人の名前をお教えすることはできません。ですが、聞けば誰でも知っている人物です。その人が、この夢の家というコミュニティーを設立したんです」
 誰でも知っている人物?
「じゃあ、その人も、いわゆる夢落ちしてきたってことか?」
 眉根をピクリと擡げ、菅野は掌をパンと打った。
「すばらしい! ご明察です。だから、彼は本来万能で、不可能なことなど何もないはずだった。しかし、その男は現在死にかかっています。立って歩いたり、まともに腕を上げることすらままならない。それはつまり、本来の彼が、彼の脳が死に瀕しているからと考えられます。まあ寿命でしょうね。あまりにも長く生き過ぎた」
 僕はゴクリと唾を呑み込み、話の続きを待った。
「本当の彼は、それこそ何十年も前から病室だか息子の自宅だかに寝たきりの状態でいます。呼吸はしているが、意識はない状態。決して目覚めることのない植物人間。安月給の彼の息子や嫁に、意識のないまま介護をされているはずです」
「石沢さんはそいつの後継者ということか?」
 菅野は笑みを洩らし、コクリと頷いた。
「ええ。新しい神を我々は必要としたわけです」
 新しい神。いや、だがそうだとすると、矛盾が出てくる。なぜその神であるはずの石沢が、警察に追われていたりするのだ。この男の言うように万能ならば、そんなものどうにでもなるはずだろう。それに、そもそもここが石沢の夢の中というのもこの男が言っているだけであって、決して頭から信じられるものなどではない。
「ですが、先生はまだご自分の力に、つまり夢の操縦法に充分に熟達されているわけではありません。それはしばしばかなり困難なことでもあるからです。そこで、我々の手助けが必要になってくるとそういうわけです」
 まるで僕の心を読んだかのように、菅野はそう言葉を続けた。
「あなた自身の経験とも照らし合わせてみてください。たとえそれが、自分が夢を見ていると意識している明晰夢であっても、その夢の内容をコントロールすることなんてできやしなかったでしょう」
 確かに。そもそも夢が思い通りになったりした経験自体がない。この男の言う明晰夢はまあ数えるほどだが、何度か見たことはある。それでも大きな波か渦に巻き込まれたように、自分の意思とは無関係に目まぐるしく変わる展開に翻弄され続けただけだ。
「彼には我々の神になっていただきます。しかし、先生は条件を出されました。それが、つまりあなたです」
 そう言って、僕の鼻先に指を突きつける。
「あなたをここに連れてくるようにとのことでした。それも半永久的に。よって、我々はあなたに死んでいただく必要があった。この死亡記事で見たように」
「佳奈子のことはどうなんだ? 本当に死んだのか?」
 すると菅野は前に身を乗り出し、膝の上で手と手を組み合わせた。
「いや、どうなんでしょうね。実はその件に関して、我々は関知していないんですよ。先生の夢落ちに際して、彼女が重要な役割を果たしたことはおそらく間違いありません。しかし、なぜあのような経緯を辿ったのか、我々にも実際分からないんです」
 嘘だ、きっと。さっきは思わせぶりなことを言っておいて、今度は分からないと言う。はぐらかされているのだ。つまり、それは僕が核心を突いたことを意味しているのかもしれない。
 そして、菅野は腕時計に目を遣り、勢いよく立ち上がった。それは銀色に輝くロレックスで、時計の針は五時五分を指していた。おそらく午前五時五分と考えられる。
「ああ、もう行かなくては! すっかり遅くなってしまいました。あ、それから覚えておいてください。これは善意ですよ。私の個人的な善意。あなたに説明する義務などなかったんです。ですが、何も分からずに連れてこられてお困りになっているだろうと思って、勝手に私がお節介を焼いただけです」
 どう答えていいのか分からなかった。そして、顔を見上げたまま黙っていると、菅野は踵を返し部屋から出て行こうとした。
「俺はどうなるんだ! 教えてくれ!」
 後ろ姿に向かって叫んでいた。すると、菅野は首だけ曲げてこちらを振り返り、ニヤリと気味の悪い笑みを洩らした。
「我々が教え、導きます」
 歯切れの良い声でそう言い残し、菅野はドアを開けて部屋から出て行った。そしてその後、鍵をかけるガチャッという音が鳴り響いた。


             4

 あれから丸一日が過ぎ、再び夜が訪れようとしていた。その間、僕は手首を後ろ手で縛られた状態のまま、外に出ようと何度も試みていた。
 まずシンプルにドアから廊下へ出ようとして、後ろ向きになってドアをガチャガチャさせてみたが、無駄だった。やはり外から鍵をかけられているようだった。本来部屋の内側、ドアノブの下についているはずの鍵のツマミも見当たらず、そこには鍵穴が空いているだけ。つまり、内側からも鍵がないと開けられない作りになっているようだった。
 窓の外も見てみたが、そこからは曇った空と鬱蒼と生い茂る広葉樹の木々しか見えなかった。どうやらかなり深い森か山の中のようで、道路も車も人の姿も一切見当たらなかった。赤茶色の地面には枯れ葉がちらほらと落ちていて、木々の間を飛び回る鳥の姿が時折視界に入ってきた。
 見た限りでは、窓は開けようと思えば開けられる。腕を後ろに思い切り引っ張り上げて鍵を開ければ、そのまま開くように見えた。実際に一つ試しに開けてみたが、ギシギシと軋みながらも、普通に窓は開いた。外の空気が清々しく、窓から身を乗り出して下を覗いてみると、やはりこの部屋は二階部分のようだった。そして、左右や上も見渡してみると、この建物が四階建てで、かなり大きな建物であることが分かった。やはり最初思った通り、大学かリハビリ施設のような感じがする。経営難にでも陥って、居抜きで建物ごとこの宗教団体だか結社だかに売り渡したのではないだろうか。
 地面までの距離は、五、六メートルといったところ。飛び降りようと思えばできなくもない。ただし、それは身体が完全に自由ならばという条件でだが。だが、実際には後ろ手に縛られていて、真っ直ぐに飛び降りることすら不可能だった。窓枠に右足を掛けることはギリギリ何とかできたが、そこから片脚だけの力で全身を持ち上げ、窓の外にジャンプすることなど不可能だった。よって、頭からか横向きに胴体から飛び降りるしかない。しかし、そんなことをすれば地面に頭を打って死んでしまう。捻挫か骨折は覚悟で足から着地できれば命は安全なのだが、そのためには空中で体勢を変えなければならない。体操選手でもない僕に、そんなことができるとはまず思えない。おそらくそのままの体勢で地面まで落ち続けるだけだろう。おそらく一秒とかからない。〇・五秒くらいで身体を捻らなければいけないのだ。



10へ続く


2023年03月02日

長編小説2 夢落ち 7



 やがて、女の冷たい指先が僕の頬に触れた。僕はその瞬間ビクッと全身を波打たせ、唾を呑み下した。
 女が斧か鉈のようなものを持っていて、このまま首を切り落とされるのではないかと一瞬思った。なぜそんな想像が働いたのかは不明だが、それにしても女の手はいやに冷たかった。
「何も考えちゃだめ。いい?」
 そう命令口調で言った後、女の手は僕のジーンズのボタンを外した。そしてチャックが開けられ、ジーンズがずり下ろされる。
 僕は大きな唸り声を上げた。だが、女は意に介する様子もなく、続けて履いていたトランクスも膝上あたりまで摺り下ろす。下半身が剥き出しになり、寒気と驚きで僕の頭はこれ以上ないほど混乱する。
 女はそっと僕の性器を握り、舌先を這わせた。
 僕はその感触に思わず手足をバタつかせる。女の舌がその衝動で離れるが、性器はしっかりと手の中に握られたままだった。具合の悪いことに、それは次第に硬く大きくなりつつあった。
「暴れないで。お願いだから」
 そう言うと、彼女は僕の性器をパクッと口にくわえ込んだ。そして、亀頭と側面に舌を這わせた。やがて、頭を上下させて激しく吸い始める。
 女の口の中で、僕の性器ははち切れんばかりに硬く勃起し、腰の奥のあたりにぞくぞくするような感覚が疼き始めた。
 ん?
 僕はその時、奇異に感じた。というのは、その舌遣いにははっきりとした記憶があったからだ。
 佳奈子。それは、先日死んだはずの佳奈子のそれだった。
 交際していた頃や結婚してからも、数限りなく彼女は僕の性器をくわえ込んでくれた。セックスの前戯であったり、あるいは彼女が生理の時にも口と舌で僕を射精へと導いてくれた。たしか交際を始めて一ヶ月くらいの頃、佳奈子が僕の自宅へはじめて来た時にもそうだった。生理中だったから、夜狭いベッドの中で佳奈子はペニスをくわえ込み、僕は彼女の口の中で射精した。
 暴れないで、お願いだから。
 先程の声を思い出してみる。佳奈子の声だろうか。そう聞こえなくもないし、そうかもしれないとは思う。だが、どうもはっきりしない。いや、だが待て。佳奈子は死んでいるだろう。それは歴然たる事実だ。死に顔も見たし、葬儀にも出席した。佳奈子がここにいるわけはないのだ。
 股間の疼きは次第にその強さを増し、間隔も狭まり、やがて僕はウッと呻いて精液を激しく放出した。女の温かい口の中でビクビクと震えながら僕はしばらく射精し続け、そして最後の一滴まで出し切ると女はそっと口を離した。──僕の耳は女が僕の精液を呑み込む、ゴクリという音を捉える。佳奈子もそうだった。僕が射精し終えると、いつも目の前でそれを呑み込んでくれたのだ。
 女の手が僕にトランクスとジーンズを元通り履かせ、最後にチャックを上げ、ボタンを留めた。そこで、僕は自分がどこでどういう状況下にあるのか思い出した。
 そういえば、彼女はどこかに隠れていたのだろうか。僕をここへ運んできた二人組は誰もついていなくていいのかというようなことを言っていた。すると、彼女の存在は彼らに認知されていなかったということだろう。部屋のどこかに隠れていて、あの二人が出ていった後、隠れていた場所から出てきた。ドアを開け閉めする音も聞こえなかったし、そう考えるのが最も筋が通る。そして、僕の性器をくわえ込み、口の中に射精させた。
 その時、遠くの方から聞こえてくるコツコツコツという足音を僕の耳は捉えた。
「あぁ、だめ。あの人が来る」
 今度はよくよく注意しながら聞いていたから、はっきりそれと分かった。やはり佳奈子の声に間違いない。
「待て、待ってくれ!」
 僕はそう聞こえるように唸った。だが、衣擦れの音をさせながら彼女は遠ざかっていった。
 足音は部屋の前で止まり、ノックもなしにドアが勢いよく開けられた。そういう大きな音がした。
「ん? なんか臭うな」
 その男はドアを開け、部屋の中へ足を踏み入れるや否や、そう言い放った。
「ああ、こいつか。お前、人の嫁はんと何しようとしとったんや」
 石沢の声だった。
「悪いな。こんなとこまで来てもらって。あいつの電話にちょっと機械つけさせてもらっとったんや。せやから、まぁ分かるわな」
 石沢は僕の傍らにしゃがみ込み、後頭部の紐の結び目をぶつぶつ文句を言いながら解いた。そして、僕は口の中から唾液でぐちょぐちょになった布の塊を吐き出す。
「ここがどこだとか、頼むから訊かんとってくれ。お前、警察にタレ込むやろ」
 石沢の口調からは、敵意というよりかは焦りや諦めといったような感情が滲み出ていた。かなり疲れているようだった。声に元気がない。石沢らしくなかった。
「…ゲッ、ゲホッ……、どういうことですか?」
 ようやくまともに喋れるようになった僕は、咳き込みながらそう問い質した。
「はじめは七田や。あいつ、知っとるやろ」
 懐かしい名前だった。七田さん。石沢さんの友達で、学生時代によく三人で遊んだ。草津へ旅行に行ったこともある。ただし、旅行といっても夜中に急に石沢さんが行きたいと言い出し、何の用意もせずに車で四、五時間あまりかけて行っただけ。当然ホテルや旅館も取らず、車の中で仮眠を取り、そこらにあった湯治場で一風呂浴びて翌日の昼過ぎあたりに帰ってきた。くたびれただけの散々な思い出。
「あいつがな、この話持ってきよったんや」
 この話?
「どうでもいいですけど、目隠し、取ってもらえませんかね?」
 石沢が立ち上がる気配がした。
「それはできへんな。見んほうがええ。お前のためや」
 ゆっくりとした足音と衣擦れの音。
「セミナー言うとった。ちょっとおもろい話があんねんけど、セミナー参加してみいへんかって」
 話が見えてこない。
「んでな、新宿にあるビルの七階か八階だかでそのセミナーっちゅうのを聞いたんや」
 さっきと声の聞こえてくる方向が違う。石沢は、どうやら僕の周りをぐるっと回っているようだった。
「驚くべき話やった。もし本当ならな。七田が入れ込むのも無理はないっちゅう話や」
 いやにもったいつけている。これも普段の石沢らしくはない。
「ゆめおち」
「はい?」
「お前、夢落ちって聞いたことないか?」
 僕は咄嗟に頭を巡らせ、こう答えた。
「夢オチって、あの、よく映画とか本とかドラマとかである、いろいろあったけど結局全部夢でした。起きたら何にも起こってませんでしたってやつですよね」
「ちゃうちゃう。そういうのやないねん」
「はあ」
「夢落ち。読んで字のごとくや。夢に落ちる。落とし穴みたいに、夢んなかにストンと落ちてくことや」
「それは、眠るっちゅうか、入眠することとは違うんですか」
「ちゃうちゃう。全然ちがう」
 夢に落ちる?
「じゃあお前、落とし穴に落ちたらどないする?」
 小さく溜め息を吐いて、僕は答えた。
「まあ、這い上がって穴から出ようとするでしょうね」
「それが、這い上がれへんような、えらい深い穴やったら」
 いったい何の話をしているんだ。
「助けを呼ぶでしょうね。大声で。誰か助けてくれって」
「誰も助けてくれへんねん、そんなもん。自分から落ちに行っとるからな」
「はい?」
「要するにやな、夢落ちっちゅうのはな、自分から夢の中に落ちてって出られへんようにしてしまうっちゅうこっちゃ。そのセミナーで聞いたんはそういう話やねん」
「でも、夢はいつか覚めますよね?」
 すると、石沢は激しく足で床を踏み鳴らした。
「そ・れ・が……! 覚めへんねん! どうやっても、覚めへんねん!」
 荒い息遣いが聞こえてきた。石沢がここまで取り乱した声を聞くのは、はじめてだった。
「えっ、でも、覚めてますやん」
 なんだか嫌な予感がしてきていた。
「覚めとらんよ。お前、れいに会うたやろ。あいつ、ほんまは俺の嫁さんでも何でもないねん」
「は? いや、でもこないだグアムで結婚式あげ──」
「夢やねん。全部夢や。ほんまはフラれとんねん。分かるか?」
 全身の皮膚が粟立った。悪い想像が頭をもたげる。
「……分かりませんよ。ぜんぜん」
「分かれや! 頼むよ……!」
 石沢の手が肩に強く置かれた。どうやらこちらに屈みこんでいるようだ。
「……そのセミナーでなに聞いたんですか?」
「せやから、夢落ちの方法や。まず、毎朝起きるたんびに、その晩見た夢の記録をつけろって言われたわ。それを続けとったら、だんだん夢が明確になってくるって言うとったな。そんで、夢落ちしたい夢見たら、赤羽駅の東口にあるブックス赤羽っちゅう本屋に行けって」
 ブックス赤羽。たしか刑事から聞いた。佳奈子が勤めていたところだ。
「その本屋で『世界の残酷物語』ってタイトルの本を買えって言われたんや。その本読めば、夢落ちできる言うとった」
「それは、夢の中でってことですか?」
 肩から手が離れる。
「せやな。んで、しばらくしてれいと結婚しとる夢見たから、そん時のこと思い出して電車乗ってその本屋へ行ってみたんや」
 石沢がゴクリと唾を呑み込む音が聞こえた。
「でも、いくら探しても見つからへんかったから、店員に訊いてみたんや。そしたら、その本はもう置いてない言うねん。その店員が自分で買うたって言うとった」
「自分で買った…?」
「きれいな姉ちゃんやったな。三十くらいの」
 石沢は佳奈子と面識がない。もちろん僕が結婚したことや離婚したことは知ってはいたが、彼女と会ったことはなかった。
「んで、どうしてもその本見せてくれ言うたら、今晩プラダホテルの五〇二号室に来てくれって言われたんや。そこで本を用意して待っとるっちゅうことやった」
 話が繋がってきていた。
「夜になってそのホテルの部屋に行くと、女は確かに分厚い本持ってきとって、部屋ん中でその本見せてくれた」
「……ヘリオガバラス」
 僕がそう呟くと、石沢がハッと息を呑むのが聞こえた。
「なんでお前知っとんねん。それ、女が言うとったその本の作者やで」
「刑事から聞いたんですよ。その人、紙に書いてくれたんちゃいますか。石沢さんが訊き返すか何かして」
 パンと手を打つ音。
「あぁ! そう言えばそうやったわ。そこらへんにあるメモに書いて渡してくれた。そのアレか、跡とかが下の紙に残っとったっちゅうやつやな」
 僕は頷いた。相変わらず後ろ手に縛り上げられ、横向きに寝かされたままだったが。
「ほんで、その部屋で椅子に座って女から渡された本読み始めたんや。でも、読んどるうちに死ぬほど眠くなってきて、そのまま寝てもうたんや」
「夢の中でですか?」
「ああ、もともと寝とるんやから、まぁおかしな話やけどな。んで、パッて起きたら自分の部屋のベッドん中や。ああ、嘘やったんやなって思ったわ。うん十万も払って、上手いことつかまされてもうたわって」
「夢落ちできへんかったってことですよね?」
 すると、そこでライターを点けるカチカチっという音が聞こえ、すぐに煙草の煙の匂いが漂ってきた。
「ああ、そう。そう思った。はじめはな。でも、だんだんちょっとおかしいことに気づきだしたんや」
「おかしいこと?」
 僕がそう訊き返すと、石沢は口を窄めて煙を吐き出した。そんな音と匂いがした。
「俺の記憶がや」そこで、いったん一呼吸置く。「ようするに、記憶が塗り変わってんねん。れいとグアムで式挙げた記憶やら、高崎で一緒に住んどった記憶やらが頭ん中にしっかり残っとるんや」
「……現実になったってことですか?」
「まあ、平たく言えばな。ほんで、そん時俺がおった部屋も急に見知らぬ他人の家やっちゅうことに気づいて、慌てて外に出たんやな。携帯はもうどっかいっとって、財布だけはポケットに入っとったからよかったけど、着のみ着のままっちゅうやつやな。で、電信柱の地番表示とかからそこがどうやら赤羽やっちゅうことが分かって、近くのコンビニの兄ちゃんに道聞いて、駅まで歩いて行ったんや。ほんで駅前まで出たらあの本屋があって、ああ、そうやあの女と話してみよって思って寄ったら、なんか店ん中警察がワラワラおって騒然としとったんや」
 石沢はまた煙草の煙を吐き出す。
「まさかって思って、本屋出てあのホテルにも足伸ばしてみたら、そこも案の定や。立入禁止のテープみたいなの張られてて、警察だらけ。何かあったんやなって嫌でも気づくわな。警官に訊くのもアレやから、近くのネットカフェ行ってちょっと調べてみたら、あの事件や。あの女がホテルの部屋で殺されとったっちゅう話やった」
 舌打ちし、石沢の口から溜め息が洩れる。
「まず、疑われるのは間違いないって思ったわな。俺は実際にあのホテルの殺害現場に行っとるわけやし、たぶん防犯カメラか何かにも映ってるやろうって。捕まったら終わりやなって。状況証拠はばっちり残ってるわけやから、後は吐くまで絞り上げられて物証でも何でも捏造しよるぞと」
 警察を端から信用していない。石沢らしい。
「ほんまはれいのおる高崎の家に帰りたいんやけど、そんなもん自宅なんかに行ったら警察が待ち構えとるのは目に見えとるしな。わざわざ捕まりに行くようなもんや。こうなったら、れいとせっかく結婚しとる意味もないわな」
 そこで一旦、石沢は口を噤んだ。僕は大きく息を吐いて、こう訊いた。
「……石沢さん、あなたその本屋の女性を犯して絞め殺してませんか?」



8へ続く。


2023年02月16日

長編小説2 夢落ち 5




「フィリップ・K・ディックっていうアメリカの作家が書いた『火星のタイムスリップ』っていう小説です。その中に出てくるブリークマンと呼ばれている火星の原住民の名前ですね。それがたしかヘリオガバラスでした。若いブリークマンの青年だったと思いますけど」
 この話をどう処理していいものか、二人の刑事は判断に迷ったようだった。それが、いくばくかの失望と共に如実に表情に現われていた。
「ブ、ブ……、ブリークマン」
 坊主頭がひどくつっかえながらそう言うと、もはや滑稽にしか聞こえなかった。
「たしか棚にありますよ。持ってきましょうか」
 最近になって新装版が出ていて、棚に一冊差さっていたはずだ。
「ええ」
 アンコウが曖昧に頷いた。
 立ち上がり、僕は二人に背を向けて事務所を出た。そして、壁際の早川文庫の棚前に行き、黒い背表紙の「火星のタイムスリップ」を抜き出した。僕が自宅に持っているのは、水色の背表紙の白っぽい旧版だった。最近ディックの文庫をこの黒いカバーに替えて、売れ行きが良くなっているそうだ。前に早川の営業さんが来てそんなことを言っていた。個人的には前のカバーの方が好きだが、一般的にはこの黒いカバーの方が受けそうな気はする。シャープなイメージになったから、特に若年層には見栄えがいいのかもしれない。
 事務所に戻ると、二人は顔を突き合わせて小声で何か話し合っていた。
「これです。どうぞ」
 僕は椅子を引いて腰を下ろしながら、アンコウにその文庫本を差し出した。
「ほぅ」
 片手で本を受け取ると、アンコウはおもて表紙をじっと見つめた後、裏返して内容紹介の文を目を細めて読んだ。
「ディックは読んだことありませんか?」
「ええ、無学なもので本はほとんど読まないんですよ」
 坊主頭とまた目が合う。相変わらず無遠慮な視線だった。
「捜査にも役立つかもしれませんし、一度ダマされたと思って読んでみてください。ちょっと変わってますが、面白いと思いますよ」
 何の話をしているのか、自分でもよく分からなくなってきていた。相手が刑事だということを忘れ、本を売りつけようとしているかのようだった。
「へぇ、はあ。本屋さんがそう言うんだから、本当に面白いんでしょうね。じゃあ、買って帰って読んでみますよ」
「ちょっと待った。この本と事件がどう関係があるのか、あんたは知ってるんじゃないのか?」
 坊主頭が椅子から腰を浮かせ、僕に顔を近づけてきていた。
「いえ、どうしてそう思うんですか? そんなこと知ってたら真っ先に言ってますよ」
 アンコウが左手で坊主の腰の辺りを叩いた。坊主が振り返ると、アンコウは黙って小さく首を振った。
「そうですよね。コイツが失礼なこと言って申し訳ありません」
 芝居じみた声でそう言ってから、わざとらしく片手を持ち上げ腕時計を見た。
「ああ、もうこんな時間だ。そろそろおいとましなくちゃいけない」
 壁の時計を見ると、確かに彼らが来てから三十分以上が経過していた。
「お役に立てず、すみませんね」
 僕は事務所のドアを開けながら、早口にそう言った。
「いえいえ、この小説だけでも収穫ですよ。レジでお会計していきますから」
「ええ、お願いします」
 刑事たちが開いたドアから売り場へと出て行くと、後からレジまでついていった。
「それ、お会計」
 レジに立っていたアルバイトの葉山に声をかける。
「カバーかけますか?」と、横から訊く。
「いや、結構です。領収書だけ切ってもらえれば」
 どうやら、経費で落とすつもりらしい。捜査資料ということだ。そして、お金の遣り取りを済ませると、ひどく長ったらしい宛名を葉山に伝え、資料代という但し書きで領収書を受け取っていた。
「じゃあ、すみませんね。また何かあったらご連絡します」
 本の入った水色の袋を軽く掲げ、刑事たちは店を出て行く。
 石沢のことを僕は話すべきだったのだろうか。というより、どうして僕は咄嗟に隠してしまったのだろうか。──それはきっと直感が働いたからだろう。僕が石沢のことを話してしまえば、捜査の焦点は石沢に移り、警察は全力を挙げてその行方を追うだろう。それで、もし発見されて捕まれば、きっと犯人でなかったとしても自白やでっちあげで犯人に仕立て上げられてしまうに違いない。あの防犯カメラの映像があるし、宿泊客ではない石沢があのホテルにいた理由をきちんと説明できなければ、警察は彼を犯人と断定せざるを得ない。物証がなかったとしても、状況証拠を積み重ねて起訴まで持っていくだろう。
 その日は早番で、だいたいの仕事を七時までに終わらせ、店長の長塚に挨拶をしてタイムカードを切った。「あれ、今日は早いんだ。残ってくれてもいいけど」と、冗談とも本気ともつかない言葉をかけられたが、僕はそれを笑って受け流した。
 上着を羽織り、鞄を持って外に出ると、僕は地下鉄に乗って自宅へと帰った。飯田橋乗換えで高田馬場まで十五分くらい。駅から自宅のアパートまで十二、三分ほど歩くから、おおよそ通勤時間としては三十分といったところだった。
 馬場に着くと、駅前のコンビニで夕飯のお弁当とビールを買い、自宅へと歩きながら石沢れいへと電話をかけた。あれからだいぶ時間が経ってしまっていたし、とにかく断片的にでも石沢の消息が摑めたのだから、とりあえず報告しておきたかった。
 呼出音を五回鳴らしたところで、れいの透き通った声が聞こえた。
「木崎です。石沢さんの手掛かりが摑めました」
「手掛かり?」
 僕は携帯電話を持つ手にぐっと力を込めた。
「ええ、ホテルの防犯カメラに映っていたんですよ」
 えっ、と言った切り、れいはしばらく沈黙した。
「もしもし」
 回線が途切れてしまったのかと思い、僕はそう声を掛けた。
「聞こえてる。驚いてて、よく話が呑み込めないだけ」
 囁くような、やや震え気味の声だった。
「長い話になります。どこかでお会いできませんか?」
 そう言った後、僕は唾をゴクリと呑み下した。
「今週末の土曜日とかどうですか? 午後は病院休みですよね。よければそっちまで行きますよ」
「そんなの悪い。こっちから頼んでるんだから、ちゃんと私の方が行くべきでしょ?」
 どう答えていいものか、僕は曖昧に唸った。すると、彼女の乾いた咳払いが聞こえてきた。
「家はどこなの?」
「高田馬場です。山手線の」
「駅前に喫茶店とかある?」
「ええ、たくさんありますね。学生街ですから」
 理由になっているのかどうか定かではなかったが、とりあえずそう答えておいた。
「じゃあ、今週の土曜の三時にそこの駅でどう?」
「分かりました。遠いのになんかすみません。改札の前あたりで待ってます」
「決まり。それじゃあ」
 そう言い残して、れいは電話を切った。
 携帯電話をポケットの中に仕舞うと、僕はすっきりとしない罪悪感のようなものを覚えた。昨日、別れた元妻の葬式があったばかりなのに、自分はいったい何をしているのだろうと思った。ちゃんとした目的はあったのだが、女と逢引きの約束をしているような気分になった。それは、おそらく自分の中にそうした気持ちが幾らかなりともあるからに違いない。電話で済まそうと思えば、済ませられなくもなかったのではないだろうか。
 僕は彼女に惹かれ始めている。それは理性的にどう否定しようとも、もう間違いない事実だった。石沢さんがそうであったように、きっと僕もあの女性の泥沼のような魅力にずぶずぶと引き込まれつつあるのだ。

           *

 よく言う熱に浮かされたような、足の裏が地面から二、三センチ浮遊しているような、いわゆる地に足のついていない精神状態で僕はその週を過ごした。つまり、主に仕事をしていたわけなのだが、漫然と目の前のしなければいけないことをこなしていっている感じだった。頭では何も考えちゃいないし、注意力や集中力はこれ以上ないほど散漫だった。 
 もちろん、殺された佳奈子のことを考えてはいて、どうやら噂が勝手に回っているようで周りもそういう風に見てくれてはいた。だが、実際に頭の半分以上を占めていたのは石沢とれいのことだった。石沢は犯人でなかったとしても、この件に一枚嚙んでいるのはどうやら間違いない。だから、警察よりも早く見つけ、事の次第を問い質さなければいけない。佳奈子をレイプしたり殺したりはしていないだろうが、何らかの事情を知っている可能性は高い。そして、それはきっと失踪した理由にも絡んでいる。しかし、僕には本屋の仕事があり、会社に雇われて給料をもらって生活している以上、朝から晩まで働く必要があった。よくあるドラマや小説のように、刑事でもない人間が自由に時間を使って独自の捜査をすることは現実的には不可能だった。つまり、仕事にはそれなりに長い拘束時間というものがあり、体力も決して無尽蔵にあるわけではないのだ。
 金曜の晩、僕は仕事から帰ってくると泥のように眠った。そしてお昼前に目が覚めて蒲団から起きると、風呂場でシャワーを浴びた。頭から爪先まで念入りに洗い上げ、首筋に軽く香水をふりかけ、鏡で髪を整えた。冷凍ご飯をレンジで解凍し、冷蔵庫の中にあった残り物をオカズにしてお昼ごはんを食べ、食後にコーヒーを飲んだ。時間をかけてしっかりと歯を磨き、時計を見ると午後二時半を回っていた。
 財布と携帯をポケットに突っ込み、鞄を小脇に抱え、やや早足で駅へと向かった。鞄の中には仕事の合間に調べてプリントアウトしておいた数枚の紙が、クリアファイルに入れて仕舞い込んである。この事件と関係があるのかどうかよく分からないが、一応れいには見せておきたかった。どう判断するのかは、彼女次第ということにはなるのだが。
 改札の前に着くと、駅の時計は四十五分を指していた。周囲をぐるっと見渡してみたが、れいの姿は見えず、どうやらまだ来ていないようだった。
 改札が見渡せる柱のところに背中を凭せ掛け、雑踏を漫然と眺めながら時間が経過するのを待った。そして、三時十分を回ったところで僕はポケットから携帯を取り出し、れいに電話をかけてみることにした。ひょっとしたら彼女は、別の場所で待っているのかもしれない。だが、れいと電話は繋がらなかった。呼出音を二十回数えたところで、僕は諦めて電話を切った。電車に乗ってこっちに向かっている最中で、今は電話に出られないという可能性もある。
 キオスクで新聞を買い、柱に凭れて読みながら時間を潰した。一面からテレビ欄まで読み終えると、三時四十二分になっていた。するとそこでタイミングを見計らったかのように携帯が鳴り始めた。ポケットから取り出すと、石沢れいと画面に表示されていた。
「ごっめんなさぁい! ちょっと遅くなっちゃいそうなのよ」
 珍しく、甲高い慌てた声だった。
「ええ、まあ遠いですからね」
 僕は落ち着いて、適当と思われる答えを口にした。
「ちょっと、住所教えてくれない? あなたの家の。タクシーで行っちゃうから」
「いやいや、駅で待ってますよ。何時くらいになりそうなんですか?」
 電話を持つ手が汗ばみ始めていた。
「遅くなっちゃいそうって言ってるじゃない。だから、家に帰ってテレビでも見ながら待っててくれたらいいから、住所教えてって言ってるの」
 喉が渇き始め、心臓の鼓動が激しくなってきていた。そして、僕はひどくどもりながら自宅の住所とアパートの部屋番号をれいに伝えた。すると、それをどこかにメモしているような間が空き、夜までには着けると思うという曖昧な予測を残して電話は切れた。
 小脇に抱えていた新聞を鞄の中に仕舞い込み、僕は半ば足をふらつかせながら改札の前を離れ、駅を出た。
 コンビニに寄り、二人分のビールと飲み物、それにケーキとコンロにかけて食べる鍋焼きうどんのようなものを買った。果たしてれいがそんなものを口にするのかどうか不明だったが、店内をぐるっと見た限り一番まともそうなものがそれだった。もちろん、家に上がらない可能性もある。僕の自宅はあくまで待ち合わせ場所として設定されただけで、来たところでどこか喫茶店かファミレスのようなところへ行くつもりなのかもしれない。だが、家にそのまま上がってきて話し込むという展開も考えられなくはない。すると、やはり何か用意しておいた方がいい。石沢さんの奥さんなわけだし、家に上げるのはできれば避けるべきだが、きっと長時間の移動で疲れているだろう。むろん彼女の気持ち次第だが、家でゆっくりさせてあげたい気もする。
 自宅に戻ると、僕はさっそく部屋の片付けをし、床に掃除機をかけた。窓を開けて換気をし、部屋の空気を入れ替える。そして時計を見ると、午後四時五十五分になっていた。
 テレビを点けると、夕方のニュースが始まっていた。トップニュースは台風の接近を伝えるニュースだった。新聞にも一面で出ていて、今紀伊半島あたりに上陸しているらしい。まだ関東地方の天候にはこれといった変化は見られなかったが、これから雨風ともに強まるようだ。きのうまでの予報では首都圏に再接近するのは明日の午前中といっていたが、どうやら動きが速まったようで、今夜遅くから明日の朝にかけてに変わっていた。れいが果たしていつ来るのかは不明だが、とにかく早く帰ってもらった方がいい。あまり遅くなると台風の接近によって交通機関がストップし、明日のお昼くらいまで帰れなくなってしまうかもしれない。
 部屋の真ん中に置いてある低いテーブルの上には、ディックの「火星のタイム・スリップ」があった。刑事に話した後、書棚から探し出し、ところどころ拾い読みをしていた。
 ヘリオガバラスは、火星の水利労組組合長アーニイ・コットに雇われている使用人だった。水不足の火星では、水資源の利権を一手に握っているアーニイが絶大な権力を振るっていて、絶滅の危機に瀕したブリークマンと呼ばれる火星の原住民を使役している。アーニイはこの小説の主人公のジャック・ボーレンという電気技師を、ある経緯からひどく憎んでいる。そして、彼の抹殺を企てるのだが、そこでヘリオガバラスがアーニイに言う。
「──あのひとは、弱くて、とても傷つきやすいです。あのひとの息の根をとめることは、ミスタにはなんでもない。でも、あのひとは、護符をもっている。あのひとを愛している者から、あるいはあのひとを愛しているいく人かのものからもらったのです。ブリークマンの水神の護符です。あのひとには、護符のご加護があるでしょう」
 水神の護符というのは、以前ジャック・ボーレンがヘリで飛行中、国連の要請に従って砂漠で遭難しているブリークマン数名を救助したときにもらったものだった。小さな得体の知れない動物をミイラにしたもので、小便か唾をかけると水神が蘇るらしい。その時、アーニイを載せていたヘリも国連の指示で救助に駆けつけていたのだが、ブリークマンたちはアーニイには護符を渡さない。
「──あの頭に毛のない旦那さんはわたしたちを好いていないから。水をくれたけど、お礼の水神はあげなかったのです。あの旦那さんは、わたしたちに水をくれたくなかったから。あのひとの行いには魂が入っていない。手だけで、それをしたのです」
 もう読んだのがかなり前で話の筋はほとんど忘れかけていたが、その二つの場面が非常に印象的で、頭の中に染みのように残っていた。
 ヘリオガバラス。アーニイ・コットの使用人の若いブリークマン。
 テレビを消して床の上に胡坐を組み、鞄の中からクリアファイルに入った紙を取り出した。こちらはネットで調べて印刷したものだ。



6へ続く
2023年02月02日

長編小説2 夢落ち 4



「ええ、構いませんよ、それで。それに、僕が知っているのは四年前までの佳奈子で、最近は顔を合わせたことも電話で話したこともない」
 すると、アンコウの狭い眉間に一本の深い皺が寄った。
「じゃあ、その間本当に音信不通だったってことですか?」
「ええ、言ってしまえばそうですね。だから、佳奈子のことを訊かれても、昔のことしか知らない」
 その答えで、どうやら二人の刑事は鼻白んだようだった。彼らの表情に、それがはっきりと表れていた。そして、アンコウは坊主とまた目配せを交わし、鼻から大きな溜め息を洩らした。
「分かりました。じゃあ、また何かあったら連絡しますよ」
 そんな捨てゼリフを残して、彼らはまたノックと共に霊安室へと入っていった。佳奈子の母親や医師から話を聞くのだろう。
 僕は廊下をゆっくりと端まで歩き、エレベーターのボタンを押して目を閉じた。頭では意識しているのだが、自分がどこにいて何をしているのか、ふっと分からなくなりそうだった。地面がグラグラと揺れている感じがして、チンという音とともに目蓋を開けると、それはピタリと止まった。
 エレベーターに乗り込み、一階のボタンを押す。そして、壁に背中を凭せかけた。
 佳奈子が死んだのだ。誰かにレイプされ、首を絞められて殺された。
 僕は必死に、さっき見た佳奈子のツルリとした美しい死に顔を思い出そうとした。だが、脳裡に執拗に浮かんでくるのは、先程の刑事の顔だった。丸々とした団子鼻に、分厚い下唇。濃く太い眉に、左右に不気味に離れた目。そして、藻のように頭に僅かにしがみついている縮れた髪。一度会ったら決して忘れられない顔だった。夢の中にも出てきそうだ。この男の存在が、事件全体を見事に戯画化してしまっていた。──まるで現実のことのように思えないし、涙が溢れ出てくることもない。きっと随分薄情な人間に見えたことだろう。だが、どうしても信じられなかった。遺体も目にしたし、医者から死因の説明も受けた。だが、頭の中でその事実と実際の感覚とが結びつかないのだ。
 病院を出ると、僕は通りを流していたタクシーを捉まえ、市ヶ谷のお店まで戻った。
「あれ? 早かったですね。今日はてっきり……」
 レジにいた下山に声を掛けると、そんな返事が返ってきた。
「いや、まあ、向こうのお義母さんが付き添ってたし」
 まるで答えになっていなかったが、下山はそれを別の意味に取ったようだった。
「ああ、まあじゃあしょうがないですね。大丈夫ですか?」
 僕はコクリと頷き、エプロンに着替えるため事務所へと入っていった。
 結局、前妻を亡くしたという感覚のないまま閉店時間までいつも通り業務をこなし、高田馬場にある自宅に帰り着いたのは午後十一時を回った頃だった。冷凍ご飯をチンして、インスタントの味噌汁を啜りながら食べた。これ以上ないほど粗末な夕食だったが、大してお腹も空いていなかったし、それで充分だった。
 歯を磨いて蒲団に入り、電気を消してじっと天井を見上げる。
 体内から体液が検出されました。
 あの医師は、たしかそう言っていた。それは、佳奈子が交際していた男性のものということは考えられないのだろうか。だが、医師は陵辱されたと断言していた。すると、佳奈子の身体にそのような傷なり痕があったということだろう。
 それから、あのアンコウのような顔をした刑事は赤羽から来たと言っていた。たしか赤羽署の大杉と。それはつまり、佳奈子の殺害された場所がその管内にあるということだ。彼女の実家があるのが荒川区の尾久だから、北区の赤羽とは比較的近いといえば近い。電車に乗れば十分ちょっとくらいの距離。職場でもあるのだろうか。そういえば、殺されたときの状況を聞いてくるのを忘れていた。アンコウや医師、それにお義母さんも知っていたはずだ。いったい佳奈子はどこでどう殺されたのだろう。
 そんなことを堂々巡りに考え続けているうちに、僕は眠りに落ちていた。ひどく浅い眠りだった。まどろんでいる状態に近く、覚醒と昏睡の間を行ったり来たりしていると枕元の目覚ましが鳴った。六時だった。僕は蒲団から起き出してシャワーを浴び、着替えて仕事に出掛けた。

 時間が経つごとに、佳奈子が死んだという事実が意識されるようになり、やり場のない悲しみがじわじわと僕の心を侵食し始めるようになっていった。仕事中やレジに立っている時などにハッと彼女との記憶が鮮やかに蘇る瞬間があり、病院で見たあの美しい死に顔と重なって心臓が強く絞り上げられる。すると、自分がいまどこで何をしているのか分からなくなるのだが、否応なしにお客さんなり仕事が目の前に押し寄せてくる。頭を振って意識を呼び戻し、僕はかろうじてそれをやり過ごす。そんなことを何度か繰り返した。
 葬儀は二日後に実家近くの斎場で行われた。祭壇には僕の知らない写真が飾られていた。それはどうやら最近撮られたもののようだった。はにかむような笑みを浮かべたもので、優しくこちら側に微笑みかけていた。あんな顔の写真があったら覚えているはずだ。あれから四年も経過している。無理もないだろう。
 葬儀の翌日、店にアンコウから電話があり、確認したいことがあるから今から伺っても構わないかと訊かれた。僕も死亡した時の詳しい状況を訊きたかったから、構わないと答えた。すると、二十分もしないうちにまたあのアンコウと坊主頭のコンビが店に姿を見せた。
「いやぁ、お忙しいときにすみませんね。ちょっと、お訊ねしたいことができちゃいましてね」
 口元にはへらへらした笑いを浮かべていたが、目が全然笑っていなかった。
「ええ、何でしょう。あ、それから先日聞き忘れたんですが、佳奈子はどこでどう殺されたんですか。具体的なことは何も知らないんですよ」
 事務所に二人を案内しつつそう水を向けると、アンコウは「へぇ、昨日の新聞にも出てたはずですがね」と言いながら尻のポケットから黒い革の手帳を取り出し、唾をつけて捲り始めた。
「狭い場所で申し訳ない。散らかっちゃってて」
 二人を中に入れ、椅子を奥の方から引っ張り出してくる。
「ああ、すみません。適当でいいですよ」
 机の上に放り出されていた書類やら封筒やらを、とりあえず脇に退ける。そして、僕らは椅子を動かして向かい合うように三角形に座った。
「コーヒーか何か飲まれます?」
 するとアンコウは顔の前で手を振った。
「いやいや、そんなのいいです。お構いなく」
「自分もいいです」と、坊主。
 そしてアンコウはわざとらしくゴホンと咳払いをし、手帳に視線を落とした。
「じゃあまず、木崎さんのご質問のほうからいきましょうか。いわゆるギブ&テイクってことで」
 顔を上げ、汚らしい微笑みを向けてくる。
「あの日、佳奈子さんは午後六時過ぎに職場を出られた後、まっすぐ殺害現場となった赤羽プラダホテルに向かっています。タイムカードが切られていたのが六時十七分で、ホテルにチェックインしたのが六時四十二分。ホテルとの距離は歩いて二、三分といったところですから、着替えたりなんやかやしたあとそのまま向かったと考えるのが自然ですよね」
「すみません。佳奈子の職場って?」
「えっ! ご存じないんですか。本屋ですよ。あなたと同じ本屋。ブックス赤羽っていう割と大きなところですよ。東口出てちょっと行ったところにある」
 アンコウは本当に驚いているようだった。そんなことも知らないのか、と。
 あれからまた書店で働き始めていたのか。僕らが出会ったのも今と同じ市ヶ谷のお店で、アルバイトで働いていたのが佳奈子だった。僕らは店の皆に内緒で交際を始め、そして二年後に結婚した。結婚の一月ほど前に佳奈子は店を辞めている。この業界は業務内容がどこも似たり寄ったりだから、当然経験者は優遇される。現に社員でもよそのチェーンから鞍替えしてきた人や、逆に鞍替えしていく人とかもよくいる。条件さえ整えば、確かに僕も考えなくはない。
「そのプラダホテルっていうのは、まあちょっとランクが高めのビジネスホテルですね。別にいかがわしいところじゃありません。予約とかはしていなかったようです。フロントに行って、五階のシングルルームの鍵を受け取っています」
 僕は気になったことをアンコウに問い質した。
「なんでホテルになんか泊まったんだろう。佳奈子はまだ尾久の実家ですよね?」
 アンコウはしたり顔に頷く。
「誰かと待ち合わせでもしていたのかな」
「おそらくそうでしょうね。それで、いったん部屋に入った後、八時過ぎにホテルの一階にあるレストランで夕食を摂っています。ちなみにメニューは四季の彩り御膳。てんぷらとか刺身とかの入った高いやつです。一人で九時前には食事を終え、部屋へ引き上げています」
「お義母さんには何て言ってたんだろう」
 すると、アンコウは軽く鼻をフンと鳴らした。「友達と泊りがけでディズニーランドに行くと言っていたそうです。いやに具体的な嘘ですよね」
 思わず溜め息が洩れた。嘘を吐いてホテルで誰かと待ち合わせたということか。そして、僕はずっと気になっていたことを口にしてみた。
「男は? 佳奈子には誰かいわゆる交際をしていた男がいたんでしょうか?」
 アンコウは首を横に振る。
「携帯電話の履歴や関係者の聞き込みからは、そういった情報は入ってきてはいません。もちろん、本人が完璧に隠していれば話は違ってきますがね」
 隠さなければいけないような相手。妻子ある男性や職場の上司。もしくは著名人や芸能人など社会的地位のある人。
「で、話を元に戻しますと、翌朝チェックアウトの時間になっても出てこないのを不審に思って従業員が部屋に踏み込んでみると、迫田さんは殺害されていたというわけです」
 僕は喉の奥で唸った。
「じゃあ、誰かが部屋に忍び込んで殺したってことですか」
 アンコウは力強く頷く。
「それしか考えられませんね。それで、お伺いしたいのはこの男についてなんですよ」
 そう言って、ヨレヨレのスーツの内ポケットから、一枚の写真を取り出した。
「この男です。ホテルの防犯カメラに映っていたのを引き伸ばしたものです」
 僕は受け取りつつ、写真に目を走らせた。
 それは、ホテルの廊下らしきところを歩いている中年男の粗い画像だった。粗いといっても顔が識別できないほどではなくて、見る人が見れば分かる程度には写っている。
「いや、知りませんね」
 僕は静かにかぶりを振った。心臓の鼓動がこれ以上ないほど高まり、胸が強く鷲摑みにされているように鋭い痛みを覚えた。
「エレベーターを使って五階まで上がってきて、十時六分にここの廊下を通過しています。このちょっと行った先が迫田さんの泊まっていた部屋です」
 石沢だった。アンコウが差し出した写真に写っていたのは、失踪中の石沢だった。
 目の前の刑事が何か言っているのが聞こえてはいるのだが、何を言っているのかその内容までは頭に入ってこなかった。僕は手が震えないように気をつけながら、刑事に持っていた写真を返した。
「この男が別の部屋に泊まっていた形跡はありません。ホテル側の記録もそうですし、フロントを映しているカメラにも姿はありませんでした。防犯カメラの記録には他に三つばかし映ってはいたんですが、カメラの角度で顔までは映っていませんでした」
 奥歯を嚙み締め、カラカラの喉にむりやり唾を呑み込んで、顔を上げる。
「つまり、こいつが犯人ってことですか?」
「極めてその可能性が高い。指名手配まで持っていければ話は早いんですがね」
 気がつくと、坊主頭からじっと顔を見られていた。鋭い眼から射るような視線が放たれ、左頬に深く突き刺さっている。
「状況から行きずりの犯行とかじゃあないはずなんです。オートロックで部屋には鍵がかかっていましたし、すると迫田さんはこの男と待ち合わせをしていて、彼女自ら中から部屋の鍵を開けて男を招き入れたと考えざるを得ない」
 石沢と佳奈子の間にそんな関係があったとは考え辛い。しかも、石沢はその後佳奈子をレイプして首を絞め、殺害した。いや、違う。石沢はそんなことができる人間ではない。古くからの付き合いだから、すぐに分かる。
「出てった時間までは分かりません。おかしなことに、出てくところはどのカメラにも映っていないんですよ。もっとも、カメラの存在に気づいたのかもしれませんし、カモフラージュのために変装した可能性もあります」
 変装?
 アンコウは持っていた写真を内ポケットの中に仕舞った。
「ご存知ないんですよね?」
 唐突に坊主頭が横から低く張りのある声を出した。
「ええ、知りません」
 僕は即座に首を振る。こいつはなにか隠している、と気取られてしまっているような気がする。アンコウは僕らのそんなやりとりを、何を考えているのか分からない冷めた目で見つめていた。
「あぁ、それから、あと一つ」
 覗き込むように手帳に顔を寄せ、アンコウはページをパラパラとめくった。
「ああ、そう。ヘリオガバラスって、知ってますか?」
 そこで、店の電話が鳴り始めた。坊主頭が振り返ってチラッと電話の方に視線を遣り、三、四回鳴ったところで止んだ。売り場で誰かが取ったようだった。
「はい? 何ですか?」
 すると、アンコウが上げた顔をこちらに近づけてきた。
「へ・り・お・が・ば・ら・す、です」
 どこか聞き覚えがあった。
 腕組みをして考えてみると、フィリップ・K・ディックの小説でそんな名前が出てきたことに思い当たった。早川文庫の「火星のタイムスリップ」確かブリークマンと呼ばれる火星の原住民の名前だった。
「ヘリオガバラス」
 感情を込めずに、僕はアンコウの言葉を繰り返した。
「いやぁね、ホテルの机の上とかに、よくメモ帳とボールペンが置いてあるじゃないですか。でですね、迫田さんが泊まっていた部屋のメモ帳に、そんなのが書かれてたんですよ。ああ、でも実際に書かれたメモが残ってたわけじゃなくて、つまり、その書いた跡が下の紙に写って残ってたってわけですよ」
「書いた上の紙は犯人が持ち去ってる?」
 アンコウは静かに頷いた。
「ええ、おそらく。現場からは見つかりませんでしたから。あ、それからその文字、筆跡鑑定にもかけてみたんですが書いたのは迫田さん本人でした」
「じゃあ、佳奈子が書いて犯人にその紙を渡したってことですか」
「まあ、そうなりますね」
 僕は口の端をきゅっと結び、思考を巡らせた。特に隠す理由もないし、ディックの小説が石沢や事件解決に結びつくとも思えなかった。
「ヘリオガバラス。……知ってますよ」
 坊主頭とアンコウが、ガタッと音をさせて同時に椅子から腰を浮かせた。
「えっ!」
 二人のあまりの反応に、僕は戸惑いを隠せなかった。
「い、いや……、その、そんなに重要なことじゃないと思うんですけど、そういう小説があるんです。その、ヘリオガバラスってのが出てくる小説が」
 口を半開きにしたまま、二人はこちらを凝視している。



5へ続く


2023年01月26日

長編小説2 夢落ち 3



 きっと動顛し、混乱しているのだろうと思った。僕は首を曲げてゆっくりと二人のほうを振り返る。
「いったい……」
 すると、医師が腕組みをして小さく頷いた。
「ご主人。落ち着いて聞いて下さい。奥さんは首を絞められて殺されていました。死亡推定時刻は昨晩の十一時前後。……で、ですね。隠してもどうせ後で分かるでしょうから今から申し上げておきますが、奥さんはその際に、いわゆる陵辱されておったようなんですよ」
 僕は医師の顔を呆然と見つめた。
「……陵辱?」
 老人は顔を顰めてまた頷く。
「ええ。検死の結果、体内から体液が検出されました。つまり、……ええ、そういうことですよ」
 言葉を濁し、医師はコホンと渇いた咳払いをした。
「…容疑者は?」
「わたしは医者ですので、そういうことは……」
 僕は視線を移し、義母の顔を見た。だが彼女はじっと下を向き、唇を嚙み締めていた。
 暴力的に犯され、殺された。レイプされて、絞殺された。佳奈子が。
 そこで、激しいノックの音と共にドアが開き、紺色の安物のスーツを着た小太りの男が部屋に入ってきた。背が低く、くしゃくしゃに縮れた僅かな髪が海藻のように頭にへばりついている。
「赤羽署の大杉です」
 背広の内ポケットから取り出した警察章を開き、力強くそう宣言した。赤羽署?
「この度はご愁傷さまです。この度、この事件を担当するなりました。一日も早い事件解決、犯人逮捕へのご協力よろしくお願いします」
 ほとんど直角に腰を曲げ、深々と頭を下げる。
 僕と義母は思わず顔を見合わせ、横目で大杉のその禿げ上がった頭頂部を目にした。病院の霊安室にまで、刑事が踏み込んでくるとは正直思っていなかった。普通はもっとデリカシーというか、最低限のマナーのようなものはわきまえているものだろう。きっと何か明確な意図があるに違いない。
「お母様ですよね。こちらはご主人ですか?」
「いえ、元夫です。四年前に離婚しています」
 義母より先に自分でそう答えた。誤解のないようにしておきたかった。少なくとも刑事に対しては。
「ほぉ、元旦那さん。被害者の迫田さんとはいまも交流といいますか、ご関係といったものはお持ちだったんですか?」
 僕は即座にかぶりを振った。
「いえ、ありませんね。特には」
 協議離婚で、慰謝料も財産分与も何もなかった。つまり、その時点で彼女との接点は切れていたはずだった。
「じゃあ、なんで──」
「私が呼んだんです。佳奈子がこの人を呼んでいるような気がして」
 僕は元義母の顔を振り返った。初耳だった。
「その、具体的な根拠みたいなものは?」
「いえ……、ただ何となくそう思っただけで」
 すると、大杉は僕の顔をまともに見上げた。
「はぁ、第六感ってやつですか。いや、でも女性の勘は実際バカになりませんからね」
 僕の顔をじっと見ながらそう言った。だが、その返答は僕に対するものではないはずだった。──見れば見るほど不気味な顔だった。眉毛が濃く、眉間のところでもう少しで繋がりそうなのに対して、目の間がひどく離れすぎている。鼻は典型的な団子っ鼻で、下唇が分厚く、全体の印象としてはまるで深海魚のアンコウのようだった。
「ここじゃなんですから、ちょいと署までご同行いただいてお話伺えませんかね」
 その視線はずっと僕に向いたままだった。頭の髪の毛といい、そのご面相といい、なんだか可哀相に思えてきた。きっと散々苦労してきたに違いない。これだけ悪条件が重なると、ろくな人生は送れていないはずだった。
「ちょっと外で待ってて。私もまだここに着いたばっかりなんだ」
 ぞんざいな言い方をし、そう聞こえるよう声色にも気を遣った。
「あっ、そりゃ悪いことしました。じゃあ廊下出たとこで待ってますから」
 踵を返し、背中を丸めてアンコウはそそくさと部屋から出て行った。義母の顔を見ると、そこにははっきりとした戸惑いと困惑の色が浮かんでいた。無理もない。娘の遺体の傍らで、こんな会話が取り交わされるとは思ってもみなかったことだろう。
 僕は佳奈子に二、三歩近づき、右手を伸ばしてその栗色の美しい髪を撫でた。医師から何か言われるかとは思ったが、老人は押し黙ったままだった。
「佳奈子……」
 僕はベッドサイドに跪き、もっとよく見えるよう顔を寄せた。
 目を閉じた美しい穏やかな顔だった。まるで死んでいるようには見えない。心地よく眠っているようにさえ見える。顎ぎりぎりのところまで布が掛けられているのは、きっと首の扼殺痕を隠すためだろう。きっと絞められた部分が赤黒く変色しているのだ。そんなもの確かに見たくはない。
 四年前の記憶のままだった。少しも歳を取っているようには見えない。佳奈子は相変わらず佳奈子のままで、透き通るような白い肌とまるで少女のような整った幼い顔立ちが、僕の心を容赦なく締めつけた。

 四年前のあの日、僕は仕事が休みで、遅くに起きてきて二人で向かい合って朝食をとっていた。
「別れてほしいの」
 トースターで焼いたパンに、ジャムを塗っている時だったと思う。
「ん?」
 聞こえていたが、聞き間違いかもしれないと思ってそう訊き返した。
「だから、別れましょうって」
 どうやら聞き間違いでもないらしい。
「なんでや? 理由は?」
 間髪を入れず、僕はそう問い返した。
「私はあなたにふさわしい人じゃないと思うの」
 もちろん、咄嗟には意味が分からなかった。彼女の顔を呆然と見つめたまま、僕は必死に頭を回転させた。
「ふさわしいって……」
 そうとしか言い様がなかった。どう訊けばいいのかも分からない。
「わたしはあなたが考えているような人じゃないの」
 僕は手を伸ばし、冷めたコーヒーを一口飲んだ。
「それは……、浮気をしとるっちゅうことなんか?」
 すると佳奈子は静かにかぶりを振った。
「そういうことじゃない」
 僕は口の隙間から息をもらし、呼吸を整えようとした。
「だったら、どういうことや。俺がアホなんかもしれへんけど、理由がちょっと思いつかへんのや」
 テーブルに肘を着き、佳奈子は両手で頭を抱え込んだ。
「……分かってよ。…ねぇ、分かって」
 幽かな声で、そう呟いているのが聞こえた。その時、自分が彼女を失おうとしていることを初めて実感した。ここで誤った対応や返答をすれば、僕は佳奈子を永遠に失ってしまう。
 僕は必死に寝起きの頭を巡らせ、正しい解答を導こうとした。しかし、考えれば考えるほどよけい分からなくなってきただけだった。
「すまん。分からん。悪いけど、何があったんかちゃんと話してくれへんか?」
 佳奈子からの返事はなかった。テーブルの上で頭を抱え込んだまま、顔を上げなかった。
 立ち上がり、サイドボードの上から煙草とライターを取ってきて、佳奈子の前に座り直して火を点けた。呼吸を整えるように煙を吐き出すと、気分がいくらか落ち着いてきた。あまりにも唐突なことだし、きっと佳奈子は生理か何かで一時的にそういう最悪の気分になっているだけなのだろう。時間が経って落ち着けば、自分でも何であんなこと言ってしまったんだろうと後悔するに違いない。
 コーヒーを飲みながら煙草を一本吸い終わると、僕は立ち上がって彼女の肩に手を置きこう言った。
「きっと疲れてるんやろ。今度どっか旅行にでも行こう。休み取るようにするから」
 しばらく連休を取っていなかった。結婚してから旅行に出かける機会も減っていた。彼女のストレスに対して、僕の配慮が足らなかったのかもしれない。
 それでも佳奈子は顔を上げなかった。ずっと文字通り塞ぎ込んだままだった。僕はそんな彼女の背中を見て溜め息を吐き、バスルームへとシャワーを浴びに行った。
 その日はお昼から友人と会う約束をしていて、夜の十時過ぎくらいに帰ってくると、佳奈子がいなくなっていた。
 しばらく実家へ帰ります。
 リビングのテーブルの上にはそんな書き置きが残されていた。
 どうやら、対応を誤ったようだった。
 彼女が家から出て行ってしまった。きっと、僕はとんだ間違いをやらかしたのだ。
 それからずっと、佳奈子は帰ってこなかった。別居が長引くにつれ、彼女が何を考えているのかますます分からなくなっていった。もちろん彼女の実家にも何度も足を運び、義母を交えての話し合いも続けたが、僕らの間に横たわる溝を埋めることはできなかった。
 その間、何度もあの日をシュミレーションし、果たして正解が何だったのか導き出そうとした。つまりもし、あの日出かけていなかったら、もっとちゃんと話し合えていたならこんなことにはならなかったのではないか、と。しかし、今となっては言い訳にはなってしまうのだが、あの日僕が会っていたのは五年ぶりくらいに会う高校時代の友人だった。千葉の松戸に転勤になって、大阪からこっちに引っ越してきたばかりだった。学生時代には僕が夏や春に帰省した際、連絡を取って一緒に飲みに行ったりしていた。最後に会ったのはたしか三年生の九月だった。ニューヨークで世界を震撼させたあの事件のあったときだった。あの日も僕らは京橋で飲んでいて、友人の携帯に入ってきたニュースで飛行機がビルに突っ込んだらしいということを知った。──僕はそれでも、出かけるべきではなかった。前々から約束していた友人には不義理には当たるが、ちゃんと家に残って彼女と向き合っているべきだったのだ。しかし、いくらそう思ってみても時間を巻き戻すことはできない。それに、あのとき佳奈子にどう声を掛けたらよかったのかも、僕は未だに分かっていない。それとも、頭を抱え塞ぎこんでいる彼女の前に座り、顔を上げるまでじっと見守り続けるべきだったのだろうか。
 結局そのまま半年ほどが経過し、僕らは離婚に至った。三年半の短い結婚生活は失意のうちに幕を閉じた。どうしてそうなってしまったのか、本当によく分からない。要するに、きっとそこに最大の原因があるに違いない。

 義母に葬儀の日程を確認し、霊安室を出ると、廊下にはアンコウと二十代後半くらいの背の高い若者が待ち構えていた。馬のような面長の顔に、五分刈りの坊主頭。黒いペラペラのスーツに筋肉質の身体を無理やり押し込んでいて、眼光の鋭さからすぐに刑事と分かる。
「いやぁ、待ちましたよ。旦那さん」
 坊主頭とアンコウの顔を代わる代わる見比べる。間違いに気づいてはいたが、わざわざ訂正するのも面倒だった。
「さあ、行きましょう。こんな時に気が乗らないとは思いますが、わたしらもこれが仕事なんでね」
 アンコウの顔をまともに睨みつける。
「それは、疑われてるってことですかね?」
 するとアンコウは、小さく鼻をフンと鳴らした。
「いやいや、まあそういうわけ──」
「私は佳奈子の元夫ですよ。レイプして殺すわけがない」
 すると、坊主頭が割って入ってきた。
「元夫だからこそ疑われるんですよ。分かりますか。なにもやましいことがなければ、素直に聴取に応じればいい」
 威圧するように、上から低い声を浴びせかけられる。すると、アンコウが坊主の脇腹を小突いているのが見えた。
「いやいや、型通りのもんですよ。関係者全員から取るんです。あなただけが特別ってわけじゃない」
 それが口から出任せの嘘だということは分かり切ってはいたが、アンコウはどうやらそれで押し通すつもりらしかった。
「仕事を抜け出してきてるんです。すぐ職場に戻らなくちゃいけない」
「そんなもの、電話で連絡すりゃあ済むでしょう」
 坊主頭がこともなげにそう言い放つ。
「いやいや、あたしらもね、これが日本という法治国家から授けられたしがない役割なんですよ。平穏な日常生活を壊した憎い悪者を捕まえなくちゃ、夜も安心して寝られないでしょう」
 アンコウが割り込む。まるで下手な漫才でも見ているようだった。ノッポとチビの見え透いた掛け合い。オチをどこへ持っていこうとしているかなんて、端から分かり切っている。
「昨日の晩なら寝てたよ。一人で酒飲んで寝てた」
 アンコウは、尻のポケットから慌てて手帳を取り出した。
「…んと、寝始めたのは何時頃だか覚えてます?」
 手帳にペンを走らせつつ、アンコウは僕の顔を覗き込む。どうせ覚えていないと言っても、思い出せと言われるに決まっている。
「確か十時半かそこらだったと思います。休みの日は早く寝るようにしているんです」
「じゃあ、死亡推定時刻の十一時には寝ていた。それで間違いありませんか? それから、誰かそのことを証明なり証言できる人は?」
 僕はわざと大袈裟な溜め息を吐き、かぶりを振った。
「いや、だから一人で寝てたって言ってるでしょ」
 アンコウは振り返り、不満げな顔を隠そうともせず坊主と何か目配せを交わした。
「もういいですか? 本当に戻らなくちゃいけなくて」
「いやいや、こっちも亡くなられた奥さんのこととか交友関係だとか、色々お訊きしなくちゃいけない。こんな立ち話で済むような話じゃないんです」
 僕らはしばらくの間、無言で睨み合った。
「ご主人、ちなみにご職業は? どちらかにお勤めで」
「本屋。文生堂っていう書店チェーン」
 僕は即答した。
「あぁ、文生堂。知ってますよ。王子の駅前にもある。よろしければお名刺か何か頂戴できますか?」
 財布から名刺を取り出し、無造作に差し出した。
「ほぅ、木崎さん。変わった名前ですね」
 そうだろうか。それほど珍しくもないだろう。きっと、とにかく何か言わずにはいられないのだ。
「任意でご同行いただけないのなら、会社にお願いする形になるかもしれませんね」
 何を言っているんだ、こいつは。本部の部長だか専務あたりを呼び出して、僕が事情聴取に応じるよう上から圧力をかけるとでも言うのか。



4へ続く


2023年01月19日

長編小説2 夢落ち 2



 本を慌てて平台に戻し、れいは僕の方に向き直った。
「お仕事中、お忙しいのにすみません。なんか無理言っちゃって」
「いえ、そうでもないですよ。大丈夫です。そんなに忙しくもないんで」
 夜までにやらなければいけない仕事はたくさんあったが、今日のお客さんの入り具合はあまりよくなかった。半分嘘、半分は本当といったところだろうか。
「じゃあ、行きましょう。そこの交差点渡ったとこです」
 店を出て信号が青になるまで待ち、僕らは連れ立って通りを渡った。そして狭くて急な階段を上り、二階にあるフレンズという喫茶店に入っていった。昼食や版元さんとの新刊配本の打ち合わせなどによく利用しているお店で、古いジャズが聞こえるか聞こえないかくらいの音量でいつもかかっている。
 奥の窓際の席に座り、僕らはじっと顔を見合わせた。
「暑いですよね。ほんと最近」
 気まずさを紛らわすように、僕はそんなことを口にしていた。だが、実際ちょっと外に出て通りを渡っただけで、早くも額からは汗が噴き出していた。店員の持ってきたおしぼりでそれを拭うと、僕はアイスコーヒーを注文した。
「私も同じので」
 れいは、付け加えるようにそう店員に伝える。石沢から聞いた話によると、たしか僕より八つ年上ということだった。つまり、四十一か二。とてもそうは見えなかった。整った美しい顔立ちの中に、どこか可愛らしさのようなものが残っている。左頬に浮かぶ笑窪や目の表情、口の端をキュッと曲げるところなど、まるで十代の少女のようなあどけなさが見え隠れしている。石沢が夢中になるのも無理はない。
「ごめんなさい。ちょっといいかしら?」
 そう言って、れいは隣の席に置いていたハンドバッグの中から、ルイヴィトンのロゴの入ったシガレットケースと銀色の細長いライターを取り出した。
「ええ、どうぞ」
 テーブルの端にあった灰皿を取り、彼女の前へ置いた。
「医者がこんなの吸ってちゃいけないんでしょうけどね。どうしても止められなくって」
 そう言いつつ彼女はシガレットケースの中からセーラムを取り出し、口にくわえると、目を細めてライターで火を点けた。
 店員がアイスコーヒーを二つ、お盆に載せて運んできた。
 れいは傍らにあったガムシロップを手に取ってコーヒーの中に入れると、ストローでニ、三回ゆっくりと掻き混ぜた。そして一口飲むと、また灰皿に載せていた口紅のついた煙草をくわえ、薄い煙を細く長く吐き出した。そこで僕は彼女の挙動を自分がじっと凝視し続けていることに、はじめて気づいた。
 唾をゴクリと呑み下すと、僕は取り繕うように慌ててガムシロップをコーヒーの中にぶち撒けた。そして、カランカランと氷の音をさせながら勢いよく混ぜる。
「そ、そうだ。話って何ですか?」
 そう切り出すと、れいは上目遣いに僕の顔を覗きこみ、小さくため息を吐いた。
「……そう、ええ。ううん」
 まったく答えになっていなかった。ただ言い辛いことを口にしようとしていることだけは、しっかりと伝わってきた。
「石沢さんのことですか?」
 彼女は自分の夫がきっとどういう男か確認しようとしにきたのだろうと、見当をつけていた。昔は何をやっていて、僕とはどういう付き合いをしていて、これまでいったいどういう生き方をしてきたのか。つまり、おそらくいま彼女は夫との関係に悩んでいる。石沢篤人という男が分からなくなったのだ。
「ええ」
 れいは、口の端をキュッと結び、大きく頷いた。「実は、一週間前から行方が分からなくなっていて──」
「えっ! 石沢さんがですか?」
 今度は下唇を嚙み締め、頷いた。目がやや赤くなってきている。
「だから、何かご存知ないかと思って……」
 知るも何も、今聞いて知ったばかりだ。石沢さんが失踪?
「そんなん、知りませんよ。えっ、それ、どういうことですか?」
 煙草を挟んだ指先が、小刻みに揺れていた。赤く潤んだ目からは、今にも涙の粒がこぼれ落ちそうだった。
「……分からないんです。仕事から帰ったらいなくて、接待か何かで遅くなってるんだろうって思って待ってたんだけど、朝になっても帰ってこなくて……、携帯も繋がらないし会社にもいなくて、京都のお義母さんと相談して水曜日に捜索願は出したんだけど──」
「何か心当たりは?」
 れいはため息交じりにかぶりを振った。
「大型の融資が決まりそうだって張り切ってたのは知ってるけど、悩んでたりしてた様子じゃなかった」
「事故か事件に巻き込まれたのかもしれませんよ」
「その可能性の方が高いと思う。だって、そういう人じゃないでしょ?」
 そう言って、同意を求める視線を向けてきた。僕は腕組みをして考え込んだ。石沢は、自ら行方をくらますような人間だろうか。いや、よほどのことがあったとしてもそういうふうに黙って逃げたりはしないとは思う。少なくとも、僕の知る限りでは。
「そうですね。うん、確かに」
 確信があるわけではない。ただ、どちらかと言えばそう思うだけだ。
「私のことは、石沢さんから聞いてました?」
 すると、れいは煙草を灰皿の上に置き、ハンドバッグの中から名刺入れを取り出した。
「ほら、これ」
 そう言って、その中から取り出した一枚の名刺を目の前でひらひらさせた。
 僕の名刺だった。会社と所属店舗の住所と電話番号。真ん中に名前と肩書きが載っている。
「何かあったらこいつを頼れって」
 僕は小さくため息を吐き、アイスコーヒーを一口飲んだ。
「石沢さんがそう言うてたんですか?」
 れいはこくりと頷く。何かあったら?
「それを急に昨日の夜思い出して、あっ! て思って何かこの人が知ってるんじゃないかってとりあえず……」
 再び腕組みをし、僕は喉の奥で唸った。
「それ言うてたのは、いつ頃ですか?」
 テーブルの上には、逆さまになった僕の名刺がぽつりと置かれている。
「うーんと、確かプロポーズされた日の夜だったと思う。だから、よく覚えてる」
 さっき、忘れていたと言っていたはずだが。
「私の誕生日で竹芝のホテルに泊まってたんだけど、夜、地下のラウンジみたいなところでお酒を飲んでる時に、急にそんなこと言い出して」
「何かあったらってのが、気になりますよね」
 煙草をくわえ、ふぅとまた煙を吐き出す。
「今となってはね。でもその時は、そんなに深刻には取らなくて、ふぅんって感じでそのままバッグの中に入れちゃったの」
「どんな奴か聞かなかったんですか?」
 フィルターの近くまで灰になったセーラムを、れいは灰皿に擦り付けて揉み消した。
「俺の親友で、本屋だって言ってた」
 親友。そんなふうに言ってくれていたのか。でも、僕は果たして本当に石沢の親友だろうか。学生時代はともかく、今はそんなに大した付き合いでもないし、親友と呼べるほどの役割を果たしているとも思えない。
「……何かあったら、こいつを頼れ」
 れいは小さく頷いた。「そう、確かそう」
 石沢さんが結婚してから約四ヶ月ほど経っている。つまり、あの電話で言っていたプロポーズの日だから、半年くらい前ということになる。その時点でそんなことを言っていたというのは、何か覚悟があったということだろうか。
「…ねぇ、何とかしてよ! もう気が狂いそう!」
 いきなり、そんな大声が彼女の口から飛び出した。店にいた他の客たちが吃驚して、僕らのテーブルを振り返って見た。
 そんなことを言われても、自分の力でどうにかできるとは思えなかった。思い当たる節もないし、手掛かりも取っ掛かり何もない状態に等しい。そこから、どうやって石沢さんを捜し出せというのか。
「分かりました。何とかしましょう。石沢さんがそう言うてた以上、私が何とかしますよ」
 なぜ、そんな無責任な言葉が口をついて出てきたのか、よく分からない。
 れいの大きな目でまっすぐ見据えられていたからかもしれない。そこにはほとんど魔術的な力が込められていた。身体ごと吸い込まれ、夢中にならずにはいられないような強力な力。僕はきっと、それに抗うことができなかったのだ。


        2

 その電話がかかってきたのは火曜日のお昼過ぎ、僕が銀行で売上金を入金して帰ってきたときのことだった。
「木崎代理。二番に迫田さまからお電話です」
 迫田。その名前に僕は覚えがあった。前妻の佳奈子の姓だ。店に電話してくるなんて、いったい何の用だろう。何かあったのだろうか。
 しかし、電話に出るとそれは佳奈子ではなかった。
「……まもるさん。迫田です」
 聞き覚えのある声だった。
「……あぁ、お義母さん。ご無沙汰しています」
 実に四年ぶりだった。それに離婚しているのだから、もう義母ではない。だが、その呼び方以外思いつかなかった。
 すると、電話越しに、彼女が息を頻りに吸ったり吐いたりしている音が聞こえてきた。
「お元気でしたか? 佳奈子さんとも今ではほとんど連絡取っていなくて……」
 妙な沈黙を埋め合わせるように、僕は頭で思いついた言葉をそのまま垂れ流していた。嫌な予感がした。佳奈子の母親が僕の職場にわざわざ電話をかけてくるなんて、普通では考えられないことだった。
「…まもるさん。……佳奈子が死んだの」
 囁くような微かな声だった。
「え?」
「……殺されたの」
 そこで彼女の言葉は途切れ、搾り出すような嗚咽に変わった。
 佳奈子が死んだ? 殺された?
「お義母さん、それ……」
 地面がぐらぐらと揺れている感じがした。受話器を持つ左手の指先が痺れ始め、頭の中には濃い霧か靄がかかっている。
 電話口から洩れてくるのは、激しいしゃくり上げる声だけだった。
 きっと、夢なのだと思った。目が覚めるとどうしてそんな夢を見てしまったんだろうと分析せざるを得ないような、とんでもない悪夢。佳奈子が殺された夢。
 僕はとりあえず事務所の椅子を右手で引き寄せ、どっかりと腰を下ろした。そして、ぼんやりと天井の隅の方を眺めた。何年も掃除をしていないせいで、埃が溜まり黒ずんでいる。まるで亡霊でも佇んでいるかようだった。一年に一回くらい、たとえば年末にでもハタキをかけなければいけない。きっとみんな少しずつあの埃を吸い込み、それは着実に肺やら気管支に溜まっていっているに違いない。
「……お義母さん、いま、どこですか?」
 長い沈黙の後、気持ちがいくらか落ち着いてくると、僕はようやくそう問い掛けることができた。         
「…警察病院。飯田橋の」
 そういえば、どうして僕にすぐ連絡してきてくれたのだろう。義母との仲は悪くなかったとはいえ、佳奈子とはずっと前に離婚していてもう家族でも親族でもない。
「今から行きます。飯田橋ですよね」
 返事はなかった。そして、僕は電話を切った。
 受話器の上に手を載せたまま、目を閉じて唇を嚙み締めた。呼吸がひどく荒くなっていて、指先が小刻みに震えている。
 佳奈子が死んだ。殺された。
 どのようにして死んで、どのようにして殺されたのか。絞殺か刺殺か、それとも駅のホームやどこか高いところから突き落とされでもしたのか。──そんなことは想像もしたくないし聞きたくもなかったが、聞いて知っておかなくては僕はそのことをずっと考え続けてしまうだろう。
「すんません。ちょっと身内が事故に遭ったみたいなんで、今から病院に行ってきてもいいですかね」
 店長が休みの日だったから、僕は学習参考書の売場にいた下山に声をかけた。
「えっ? 身内の方って?」
 驚いた声を出して振り返り、下山は目を丸くしていた。僕より年輩の社員でキャリアも上だったが、立場だけが逆になってしまって接し方にいささか苦慮していた。
「別れた前の奥さん。いまお義母さんから電話があって……」
 口の端を曲げ、下山は考え込むような顔つきをした。
「あぁ、そう。こっちは大丈夫ですから、店長代理、行って来ても大丈夫ですよ」
 僕はエプロンを脱ぎ、頭を下げた。
「ごめんなさい。すんません。じゃあ、お言葉に甘えさせていただきます。店のほう、よろしくお願いします」
 事務所に取って返し、エプロンをハンガーラックにぶら下げると、鞄を手に文字通り店を飛び出した。そして、駅前のタクシープールまで小走りで駆け抜け、順番を待って車に乗り込むと、飯田橋の警察病院までと運転手に告げた。

 お喋りな運転手に適当に相槌を打ちながら病院に着くと、僕は受付のところで前妻の名前を伝えた。迫田佳奈子と。すると、受付にいた中年の女性は一瞬息を呑んで僕の顔を見つめ、こちらです、と自ら案内してくれた。義母が伝えておいてくれたのかもしれない。
 そして、彼女に連れて行かれたのは一般の病棟ではなく、地下の霊安室だった。
 覚悟はしていたとはいえ、その事実に歩いている途中で打ちのめされ、頭がクラクラしてくるのを禁じ得なかった。自分がどこにいて何をしようとしているのか一瞬分からなくなり、ただ前を歩いている女性の背中についていこうと機械的に前へ足を踏み出していた。
 地下に降り、線香の匂いのする長い廊下を歩く。そして、鈴の間と書かれた白いドアを女性が開けると、僕は後についてその部屋の中へと入っていった。すると、白い布で首から下を覆われた佳奈子がベッドに横たわっていた。傍らには元義理の母の咲枝と医師らしき眼鏡をかけた白衣の老人が立ち、こちらに視線を向けている。
 僕は息を止め、ゆっくりと佳奈子の方へと近づいていく。頭の上では、線香が二、三本かすかな煙を上げていた。
 目を閉じた彼女の顔は案外穏やかだった。気持ちよさそうに眠っているようにも見える。
 つるりとした白い肌は、昔、僕が毎日目にしていたものと全く同じもののようだった。
「……こちらは?」
 医師が義母に尋ねているのが聞こえた。
「この子の夫です」



3へ続く


2023年01月12日

長編小説2 夢落ち 18



「とまあ、ここまでがいわゆる現代科学の成果です。世界中に夢の研究をしている学者たちは数多くいて、明晰夢研究所なんていうものまであるんですよ。で、ここからが我々の本題なわけですが、ところで木崎さん、あなた、いま自分が現実のリアルな世界にいると思いますか?」
 僕は小さく溜め息を吐いて、菅野に問い掛けられた言葉を頭の中で反芻してみた。ここが現実のリアルな世界かどうか。たしかさっきもそんなことを言っていた。常にチェックせよ、と。その習慣を夢の中でも実行できれば、現在自分が夢を見ていることに気づくことができる。
「信じたくないけど、現実だろう。夢じゃない」
 菅野はパンと小気味良い音を立てて掌を合わせる。
「正解です。これは夢じゃありません。現実です。少なくとも今のあなたにとっては」
 含みのある、腑に落ちない言い草だった。今のあなたにとっては?
「これをご覧下さい」
 菅野はそう言って、背広の内ポケットから折り畳んだ紙を取り出した。
「これは契約書です。あなたのサインと拇印がここにある」
 紙を広げ、僕の目の前に突きつけた。
 ひどく細かい字で埋め尽くされた、A4サイズの薄い紙だった。そして、一番下の欄には確かに僕の筆跡のサインがあり、その隣に赤い拇印が押されていた。
「記憶にありませんね。そんな契約書見たこともない」
 何かの詐欺にでも巻き込まれたのかもしれない。契約書を捏造され、これからその金を払えとでも脅されるのだろうか。
 菅野は疲れてきたのか脚を崩し、胡坐を掻いた。
「無理もありません。選択的に脳が働いていますから」
 何の答えにもなっていないし、全く意味が分からなかった。
「お代は既に頂いています。あなたは土地や家屋も売って、それこそ全財産を我々に譲ってくださった」
 背中を丸め、菅野は前のめりに大きな顔を突き出す。
「私はさきほど夢の話をしました。ですが、おそらく何千回とあなたに同じ話をしているはずです」
 冗談を言っているようには見えなかった。目は充血して濁り、腕組みをした肩には力が籠もっていた。
「我々はもともと製薬会社でした。おそらくあなたもご存知の、世界的に有名な製薬会社の開発部門です」
 腕組みを解き、菅野は右手の人差し指を立てる。
「それは心臓病の薬の開発をしている時に、重大な副作用として報告されました。臨床でその薬を多量に飲んだ患者が、眠りから目覚めないという極めて致命的な副作用です。そして脳波にはさきほど私が申し上げたような、明晰夢を見ている時に特徴的な位相が現われていました。つまり、その患者はずっと明晰夢を見続けているということです」
 嫌な予感がした。この男のこれから言わんとしていることが見えてきていた。
「すでにお気づきかもしれませんが、あなたは我々の施設で眠り続けておられます。そして、あなたが眠られてから約七十年が経過しました。正確には六十八年と五ヶ月と二日。いま現在、我々は夢をコントロールする技術を、限定的にではありますが獲得しています。IEと直結させ、こうやって侵入することもできる」
 僕は渇いた喉に、むりやり唾を呑み込んだ。
「残念ながら、あなたの夢には異常が見つかりました。ヘリオガバラスというあなたの時代で言うコンピュータのバグのような存在が見つかり、あなたの夢は無限循環に陥ってしまいました。このヘリオガバラスというのが厄介で、ネットワークを介して他の被験者の夢にも出てくるようになっています。いわばウィルスのようなもので、あなたがその感染源です」
 菅野は長い溜め息を吐き、首を回した。
「我々のビジネスはいまや危機に瀕しています。ヘリオガバラスのことが空き待ちのお客様方に知れ渡り、辞退を申し出られるという事態が相次いでいます。回復不能なご病気に罹られたという理由で、感染源であるあなたを安楽死させられれば事態は収拾できるのですが、現在の法律ではそれは認められていませんし、契約上もそうなっています」
 僕は目の前に手を広げ、掌をじっと見つめてみた。壁の黒い影が僕の動きに合わせて揺らぎ、顔を上げて見るとランタンの火は今にも消えかかっているように見えた。
「ヘリオガバラスの言うことに耳を貸さないで下さい。あれは危険な存在です。あなたの夢を脅かすきわめて危険な存在なのです」
 見ると菅野の背後には、真っ黒な人影が立っていた。傍らには黄色いチェック柄の布がくしゃくしゃっと丸められている。きっと、ずっとあそこに隠れていたのだ。
 僕の視線を追い、菅野は首を曲げて後ろを振り向いた。だが、その瞬間、黒い人影は菅野を頭から丸呑みにした。影の口のあたりに、顔から首、グレーのスーツから黒い革靴まで一気に吸い込まれていった。
「心配することはありません」
 黒い影はそう言った。
 目も鼻も口もなかった。ただ顔の真ん中より少し下あたりに、小さな穴が二つ横に並んで空いていた。
「わたしは味方です。信じてください」
 信じるも何もなかった。
「ここは危険な場所です。あなたがいてはいけない」
 黒い影はゆっくりとこちらへ足を踏み出し、僕の前に片膝を立ててしゃがみ込んだ。
「欲望とは肯定されるべきものであり、結果、否定されるべきものでもあります」
 僕は金縛りにあったかように、指先一つ動かせずにいた。何の話を始めたのかも全く理解できない。
「ミスタ、あなたは『はらぺこあおむし』という話をご存知ですか?」
 はらぺこあおむし?
「その話の主人公はちっぽけなあおむしで、あるあたたかい日曜日の朝にたまごから生まれます。あおむしはお腹がぺっこぺこで、食べるものを探しはじめました」
 まるで子供に読み聞かせるように、黒い影は妙な節をつけて話し始めた。
「そして、月曜日、りんごを一つみつけて食べました。まだお腹は減ったままです。火曜日、なしをふたつ見つけて食べます。水曜日にはすももを三つ食べ、木曜日にはいちごを四つ食べます。まだまだお腹はぺっこぺこで、金曜日にはオレンジを五つ、土曜日にはチョコレートケーキとアイスクリームとピクルスとチーズとサラミとぺろぺろキャンディーとさくらんぼパイとソーセージとカップケーキと、それからすいかを食べました」
 朗々とした声が、狭い木の小屋の中に響き渡っていた。少なくとも、僕の耳にはそう聞こえた。
「その晩、あおむしはお腹が痛くて泣きました。次の日は、また日曜日。あおむしはみどりの葉っぱを食べ、それはとてもおいしくてお腹の具合もすっかり良くなりました。その後、あおむしははらぺこではなくなり、さなぎになり、そしてきれいな蝶になって羽ばたいていきます。そういった話です」
 詳しい筋は忘れていたが、たしか子供の頃に読んだことがあったような気がした。
「エリック・カールという人が書いた子供向けの寓話ですが、よく出来ています。実によく出来ている。欲望とはいかにあるべきかを端的に表しています」
 その黒い影は立ち上がり、ゆっくり僕の方へと歩いて近づいてきた。
「あなたがあおむし。そして、わたしがみどりの葉っぱです」
 黒い影はすっと手を出してきた。起き上がって逃れようとしたが、全身の筋肉が痺れ、弛緩し、悲鳴を上げることすらままならなかった。
「ミスタ、あなたにはこれから様々なことが起こります。この水神の護符をあげましょう。唾か小便をかければ蘇ります。あなたには護符のご加護があるでしょう」
 目の前に差し出された手の中には、小さなトカゲかヤモリを日干しにしたような赤茶けた物体が乗っかっていた。僕がそれをじっと見ていると、ヘリオガバラスは黒い掌を傾けてその得体の知れない物体を僕の腹の上に落とした。そして立ち上がり、振り返ってランタンに手をかけて中の火を吹き消した。
 すべてのものが闇に落ち、小屋の中はもちろん自分の手や足も完全に見えなくなった。あの黒い影も闇に溶け込んでいったような感じがした。だが、やがてギィという音がしてドアが開き、仄かな月明かりがその隙間から差し込んだ。
「私はあなたの味方です。それだけは忘れないでください」
 ドアが閉まり、周囲は再び闇に覆われた。
 あれが菅野の言っていたヘリオガバラスというやつだろうか。
 僕はゆっくりと右手を腰から腹に向かって這わせ、黒い影の置いていったものを探した。そして、ちょうどみぞおちのあたりにその乾いた小さな物体を見つけた。
 水神の護符。
 あなたにはこれから様々なことが起こります。あなたには護符のご加護があるでしょう。
 渇いた物体をそっと指先で摑み、口の前に持っていった。
 ペッと唾を吐きかける。すると、その物体は溶けてぐちゃぐちゃになり、指の間から零れ落ちた。
 なんのことはない。ただの乾いた虫の死骸のようなものだったのだ。


        7

 僕は溜め息を吐き、手を伸ばして枕の位置を下へずらした。二日酔いのせいで頭に鈍痛があり、胸がひどくムカついていた。
 閉じたカーテンの隙間から、部屋の中に朝日が差し込んできている。欠伸をして枕の左側に置いてある携帯を手に取ると、そこには六時五分と表示されていた。
 鼻から息を吐き、僕はもう一度欠伸をしてからベッドから起き出した。
 洗面所で顔を洗い、歯を磨いて髭を剃る。そして、顔全体に保湿用のローションを擦り込み、指先で眉毛の形を整えてから洗面所を出た。
 ダイニングのテーブルには、佳奈子がいた。リビングの床にはおもちゃが散乱していたが、拓真自身の姿はなかった。きっとまだ寝ているのだろう。幼稚園の時間は大丈夫なのだろうか。
 テレビを点け、トースターでカウンターの上にあった食パンを二つ並べて焼いた。そして、カップに佳奈子の分も一緒にインスタントコーヒーの粉を入れ、ポットからお湯を注ぐ。
 テレビでは朝のニュースがやっていて、マツダがここのところの円安の影響で、過去最高の営業利益を更新したと報道されていた。本屋にはまったく関係のない話だった。円安で景気が回復して人々の消費意欲が向上すれば、少しは影響は出てくるかもしれない。だが、そういった円安差益とか国際経済などはほぼ縁のない閉じた業界なので、直接的な影響は皆無だった。世界経済やグローバル化を気にしなくてもいい分、気は楽なのかもしれないが。
 僕は佳奈子の向かい側に座り、焼きあがったパンにいちごジャムを塗り、コーヒーをすすった。
「さて、次のニュースです」男性アナウンサーは軽く咳払いをした後、そう続けた。「昨日正午過ぎ、東京都北区のビジネスホテルで若い女性の遺体が発見され、通報を受けた警察が捜査を開始しています」
 そこで画面はVTRに切り替わり、ホテルの外観を見上げる映像が映し出された。
「事件のあったのは北区赤羽の赤羽プラダホテルの五階で、持っていた免許証などから殺されたのは荒川区の無職、矢島れいさん(三六)と見られ、関係者から身元の確認を急いでいます。遺体には首に刃物で切りつけられた痕があり、死因は失血死と見られています。警察は自殺と他殺、双方の可能性から慎重に捜査を進めています」
 画面は再びスタジオに切り替わる。
「さて、次はお天気です。藤村さぁん」
 心臓が激しく脈打っていた。僕は最後のパンの切れ端を口の中に放り込み、二、三回咀嚼した後、コーヒーで喉の奥に流し込んだ。
「別れてほしいの」
 見ると、佳奈子はパンにジャムを塗っていた。
「ん?」
 聞こえてはいたが、聞き間違いかもしれないと思ってそう訊き返した。
「だから、別れましょうって」
 どうやら聞き間違いでもないらしい。
「なんでや? 理由は?」
 間髪を入れず、僕はそう問い返した。バレたのかもしれない、そう思った。
「私はあなたにふさわしい人じゃないと思うの」
 咄嗟に、意味は分からなかった。彼女の顔を呆然と見つめたまま、僕は必死に頭を回転させた。
「ふさわしいって……」
 そうとしか言い様がなかった。どう訊けばいいのかも分からない。
「わたしはあなたが考えているような人じゃないの」
 僕は手を伸ばし、コーヒーを一口飲んだ。どうやら、バレたのではないらしい。
「それは……、他に男がおるっちゅうことなんか?」
 どうしてそんなことを訊けたのだろう。だが、佳奈子は静かにかぶりを振った。
「そういうことじゃない」
 僕は口の隙間から息をもらし、呼吸を整えようとした。
「だったら、どういうことや。俺がアホなんかもしれへんけど、理由がちょっと思いつかへんのや」
 テーブルに肘を着き、佳奈子は両手で頭を抱え込んだ。
「……分かってよ。…ねぇ、分かって」
 幽かな声で、そう呟いているのが聞こえた。その時、自分が彼女を失おうとしていることに気づいた。ここで誤った対応や返答をすれば、僕は佳奈子を永遠に失ってしまう。
 僕は必死に頭を巡らせ、正しい解答を導こうとした。しかし、考えれば考えるほどよけい分からなくなってきただけだった。
「すまん。分からん。悪いけど、何があったんかちゃんと話してくれへんか?」
 佳奈子からの返事はなかった。テーブルの上で頭を抱え込んだまま、顔を上げなかった。
 立ち上がり、サイドボードの上から煙草とライターを取ってきて、佳奈子の前に座って火を点けた。呼吸を整えるように煙を吐き出すと、気分がいくらか落ち着いてきた。あまりにも唐突なことだし、きっと佳奈子は生理か何かで一時的にそういう最悪の気分になっているだけなのだろう。時間が経って落ち着けば、自分でも何であんなこと言ってしまったんだろうと後悔するに違いない。
 コーヒーを飲みながら煙草を一本吸い終わると、僕は立ち上がって彼女の肩に手を置きこう言った。
「きっと疲れてるんやろ。今度三人でどっか旅行にでも行こう。休み取るようにするから」
 しばらく連休を取っていなかった。子供ができてから旅行に出かける機会も減っていた。彼女のストレスに対して、僕の配慮が足らなかったのかもしれない。
 それでも佳奈子は顔を上げなかった。ずっと文字通り塞ぎ込んだままだった。僕はそんな彼女の背中を見て溜め息を吐き、壁にかかった時計を見た。時計は六時五十六分を指していた。いつもの二十分の電車に乗るためには、かなりぎりぎりの時間だった。
 テレビを消して大急ぎで着替えを済ませ、鍵と財布を摑んで自宅を出た時には、七時を五分ほど回っていた。携帯のアラームは、なぜいつも通り六時に鳴らなかったのだろうか。設定をいじくった記憶はないのだが、不審に思って確認したら過ぎていた。それに、なぜ佳奈子は突然あんなことを言い出したのだろうか。やはりあのことを、佳奈子は知ってしまったのだろうか。



19へ続く

2023年05月04日

長編小説2 夢落ち 17



 ポケットから煙草を取り出し、くわえて火を点けると、石沢はいかにも上手そうに目を細めて煙を吐きだした。そして鞄の中から水のペットボトルを取り出す。
「のど渇いたやろ。これ、やるわ」
 ペットボトルをこちらに放り投げてくる。僕は慌ててそれを両手でキャッチした。
「すんません」
 僕は礼を言ったつもりだった。
「何がや?」
「いや、だから水いただいて」
 すると、石沢は舌打ちをして濃い煙の塊を吐き出した。
「お前はいつもそうやってすぐ謝る」
「はい?」
「心にもないのに、謝ればすべて赦されると思ってんねやろ」
 僕はとりあえずペットボトルの蓋を開け、中の水を一口飲んだ。ここは落ち着く必要がある。
「そんなこと思ってませんよ。何言うてるんですか」
 水の効果もなく、つい言い返すような口調になってしまった。
「お前なあ、自分が何したか分かってんのか?」
 いったい何の話だ。この男は何を言い出したのだろう。
「何もしてませんよ。だから、何のこと言うてるんですか」
 石沢は俯き、溜め息交じりに口と鼻から煙を吐き出す。そして、僕がその様子をじっと見ていると顔を上げて目が合った。
「あれなあ、あのホテルで殺された女、あれ俺の前の嫁はんやねん」
 えっ? と言った切り、僕は二の句が継げなかった。襲ってきた狼狽を隠すことはできなかった。そして、石沢の目にははっきりとした憎しみの感情が籠もっていた。
「お前、さっきから嘘言うてるやろ。お前、佳奈子と関係しとって、嫁さんと別れるとか別れへんとかそういう話がこじれて殺したんやろ」
 僕はあまりにも驚きすぎて、何も言葉が出てこなかった。
「カメラにも映っとったしな。あれ、お前や。誰がどう見てもお前や」
 煙草の先を床に擦り付け、石沢は立ち上がった。
「しっ……、し、知りませんよ。ほ、ほんまですって」
「嘘言うなや。あぁ?」
 こちらに急に近づいてくる。僕は咄嗟に松葉杖を持って立ち上がろうとした。だが、松葉杖は飛んできた石沢の足に蹴り飛ばされ、部屋の隅に転がった。
「けっ、警察に引き渡せばよかったじゃないですか。そんな、思ってるんなら」
 膝を曲げて前にしゃがみ込み、僕の顔を睨みつける。
「は? 警察なんて、んなもんあかんよ。有罪は確定やろうけど、そんな長くて五年もお勤めしたら終わりや。そんなもんで俺の腹は収まらへんねん」
「だから、やって──」
 最後まで言うことはできなかった。頬に強烈なストレートを叩きこまれたからだ。
 口の中を切って、血反吐交じりの涎を垂らしながら僕は床に転がった。すると、今度は背中に蹴りが飛んできた。
 暫時、息が止まり、ゴホッゴホッと咳き込みながら僕は喘ぎ声を洩らした。
「ここか! 痛いのここか!」
 右脚を足の甲で蹴り始めた。幸い患部からは外れていたが、蹴られるたびに衝撃で腰の部分にも強い痛みが走った。
 ハァハァと荒い息を洩らしながら、石沢はしばらくの間思い切り僕の身体を蹴り続けた。
「死ね! 死ねや、こらぁー!」
 最後に僕の後頭部を蹴り上げると、石沢は倒れ込むように床に転がった。途中から痛みの感覚が麻痺してきて、自分がどうなっているのかよく分からなくなってきていた。失神しかけていたのだろう。
 石沢はやがてよろよろと立ち上がり、床に置いてあった鞄の方へと近づいていく。そして、屈み込み、鞄の中から何かを取り出しているようだった。壁に映った黒い影から、僕にはそう見えた。
 足首が摑まれ、皮膚に硬いロープの縄が喰い込んでくる。
「命だけは助けたるわ。あとはお前次第や」
 肩を持って後ろ手に回され、手首にも強くロープが巻きつく。
「好きにせぇ、ボケ!」
 そう吐き捨てるように言うと、ベッ! と床に唾を散らした。
 芋虫のように転がっている僕を尻目に、石沢は鞄を摑んで小屋を出て行った。ギィィという音を立ててドアが閉まると、後は何も聞こえなくなった。
 暫くすると、全身に痛みがじわじわと襲ってきた。特に痛いのは右腰の部分だったが、蹴られた箇所全てが脳に異常を訴えるかのように劇烈に痛みだし、身体がバラバラになりそうだった。
 縛られた腕を背に仰向けに横たわっていると、天井からぶら下がったランプが微かに揺れているのに気づいた。隙間風でも入ってきているのかもしれない。
 もう右脚は使い物にならないだろう。一生松葉杖か車椅子になったとしても不思議はない。あれだけ痛んだ脚を酷使し、石沢には狙って蹴り続けられた。本来、寝ているかじっとしてなければいけないところを、長時間山歩きをしてリンチに遭ったのだ。車にはねられた人間のすることではない。でも、蹴り続けられたおかげで、もはや身体のどこが痛いのかよく分からなくなってきていた。どこも痛いから、相対的に右脚の痛みに関しては後退したように感じなくもない。
 そのまま一時間ばかし、じっと床に横たわっていた。このまま餓死するのだろうと思った。身体をエビのように動かせば、何とか床を少しずつ移動できなくもない。石沢がドアに鍵をかけた音もしなかったから、おそらく押せば開くだろう。しかし、辺りは数キロ先まで鬱蒼とした森の中だ。大声を出したところ人なんているわけがない。どこか人気の登山スポットなら通り掛かる人もいるのだろうが、道もろくに出来ていなかったし無意味な期待を抱くのはよくない。
 床には先程石沢からもらったペットボトルが転がっていた。キャップが閉まっていなかったために中の水は粗方こぼれ出ていて、底の方にちょこっと残っているだけだった。たまたま顔の近くにあったから、上半身を揺さぶって首を曲げ、白い口の部分をくわえ込んだ。そして身体を仰向けに戻して上を向くと、中の水が口に流れ込んできた。鼻から息を吐き、いくらか噎せながら僕はその水を飲んだ。桃の缶詰のような、ひどく甘い味がした。味覚もやられておかしくなっているのかもしれない。
 三時間あまりが経過すると、次第に死を意識するようになってきた。まずはじめに喉が渇き始め、一日も経てば空腹感も募ってくるだろう。夕方に食べた蕎麦が腹に残っていたからまだ実感こそ湧かなかったが、暗い想像が脳の中を侵食し始めていた。
 喉が渇き始めたらきっと、水のこと以外に考えることはできなくなるだろう。朝外に出れば、地面の草に付いた朝露でも吸うことができるかもしない。だが、地面との間に段差があったから、おそらく二度と小屋には戻って来られなくなる。外に寝転がっていれば、虫やら蛇やらも寄ってくるし、熊か野犬が襲ってくる可能性もあるだろう。それに雨が降ってきたらアウトだ。ずぶ濡れになるしかない。
 そこまで僕が考えた時、唐突に小屋のドアが開いた。
「あなた、大丈夫ですか?」
 大柄なグレーのスーツを着た男が、ドアの前に立っていた。僕ははじめ、自分が幻覚を見ているのだと思った。あまりにそんな願望を抱き過ぎたせいで、ありもしない幻を頭が勝手に作り出したのだろうと。
「あの男はわれわれが捕まえて処理しましたから」
 白のシャツに黄色のネクタイ。短い毛をムースか何かで逆立てていて、鼻と口が大きい。目と目の間がひどく離れている。
「…処理?」 
「ええ、ひどく暴れたので」
 ひどく歯切れのいい声だった。あの男とは石沢のことだろうか。
「あぁ、お怪我をなさってるのですね」
 見れば分かるだろうと思ったが、男の視線は部屋の隅、松葉杖の方を向いていた。
「……車にはねられたんだ。脚の骨を折った」
 僕は多少大袈裟に言った。説明するのが面倒だった。
「それは災難でしたね。あれ、そのロープは?」
 さっきから見ていただろうに、今気づいたかのような表情を男は作った。
「縛られてるんだ。解いてくれないか」
 僕は素直に頼んでみた。どこかおかしな男だとは思ってはいたが、善意の人である可能性も捨て切れない。
「ええ、もちろん。こいつはひどい。人の尊厳を踏み躙っている」
 男はそう言ってスーツの裾を気にしながらしゃがみ込み、手際よく手首と足首の縄を解いてくれた。いやに手馴れているように見えた。きっと気のせいだろう。
「これでよしっと。だいぶ楽になったでしょう」
 腋を下から持ち、男はまるで人形を扱うように壁に僕の背中を凭せ掛けた。柑橘系の整髪料の匂いが鼻をつき、全身の痛みも伴って僕は一瞬顔を顰めた。しかし、実に軽々とした動作だった。力が身体中に漲っているといった感じで、この男にかかれば確かに石沢などひとたまりもないかもしれない。
「こちらに来られる前、駐車場付きの白い建物をご覧になったでしょう。あれが我々の施設です」
 男は片膝を着き、僕の前にしゃがみ込んだ。
「あぁ、申し遅れました。わたくし菅野と申します」
 男は背広の内ポケットから名刺を取り出し、僕の顔の前に差し出した。
 そこには 夢の家 主幹 菅野正文 と記されていた。ただそれだけ。住所や連絡先といったものは書かれれていない。
 僕は名刺と男の顔を見比べた。すると、男の顔にはニヤニヤとした笑みが浮かんだ。
「説明が必要ですかね。いささか長い話にはなりますが」
 僕は床に転がっていた空のペットボトルに手を伸ばし、底にほんの少しだけ残っていた水を飲み干した。座っていると、いくらか楽だった。蹴られた箇所の痛みも少しずつ引いてきている。
「人は人生の三分の一を眠って過ごし、その睡眠時間の三分の一は夢を見ています」
 低いよく通る声で、菅野は前置きも何もなしにそう話し始めた。
「夢の訓練法というものがあるということをご存知でしょうか?」
 僕はかぶりを振った。「いや、知らない」
 すると、菅野は口の端を曲げて小さく微笑んだ。
「ある事柄について意図的に夢を見ようとする行為は、夢見のための籠もり、ドリーム・インキュベーションと呼ばれていて、この行為によって夢でその答えをつかむ可能性を高めることができます。インキュベーションという言葉は、古代ギリシャのアスクレピオス神殿で行われた故事を踏まえています。この神殿で、病人は病を治す方法を教えてくれる夢のお告げを得ようとしていました」
 実に流暢な語り口だったが、ほとんど頭に入ってこなかった。古代ギリシャ? いったいこの男は何の話を始めたのだろう。
「まず、問題の内容を簡潔に記したメモをベッドの脇に置いておいてください。それから何か書けるものと紙と懐中電灯もですね。そして、ベッドに入る前にその問題について二、三分おさらいします。ベッドに入ったら、その問題を明確なイメージとして視覚化するよう試みます。それから眠りに落ちる際、その問題に関する夢を見たいのだと自分に言い聞かせます」
 そこで、菅野は咳払いをして一呼吸置いた。
「目が覚めたらベッドからすぐには出ず、静かに横になっていてください。何か思い出せる夢がないかチェックし、できるだけ多くを思い出すよう努めます。そしてその内容を書き出してください」
 そして、菅野は僕の目を覗き込み、胸の前で両手を広げた。
「たったこれだけです。少し練習すれば小さな問題に関する夢を見て、しばしば解決策を得られるようになります。そして、大きな問題についても、様々な種類の謎が夢の中で解決され得ることが分かっています。なんと言っても、二つのノーベル賞が夢から生まれたことは周知の事実です」
 僕は口の中に溜まってきた唾を、ゴクリと音をたてて呑み込んだ。喉の奥に微かな痛みを感じた。
 顔に貼りついた笑みを浮かべつつ、菅野は話を続ける。
「じゃあ、夢の中で自分が夢を見ているのだと自覚している、こういう経験はありませんか?」
 僕は曖昧に頷いた。
「ええ、そうですよね。だいたい十人中八人くらいはそういう自分で夢であると自覚しながら見る、いわゆる明晰夢の経験があると言われています。覚醒した眠り、とでも言いましょうか。そして、ご存知のように、一般に睡眠には二種類のタイプがあります。レム睡眠とノンレム睡眠です。レム睡眠とはラピッド・アイ・ムーヴメントという英語の頭文字を取ったもので、すなわち脳の活性化に伴う激しい眼球運動がある浅い眠りのことで、ノンレム睡眠とは脳も休んでいるいわゆる深い眠りのことです。人はレム睡眠時に夢を見ます。レムつまり、急速眼球運動が激しい時に人を起こすと、実に九五パーセントの人が夢を見ていたという報告があります」
 ここで菅野は、やや身を乗り出し顔の前で手を組み合わせた。
「脳活動において、脳波の位相が揃うことをコヒーレンスといいます。コヒーレンスはレム睡眠時には一般にやや低下するのに対して、明晰夢の場合はそうならないことが分かっています。例えるならばレム睡眠時の脳活動は、パーティーですべての客がいっせいに話をしているような状況です。それが明晰夢の場合は、パーティーの客同士が話を交わすので背景の雑音は少なくなるというわけです。明晰夢を自分が思うままに見ることはできませんが、その頻度を高めることは可能です。つまり、その方法とは一日に何度も『自分はいま目覚めているのか』と自らに問い掛けることです。この習慣が深くしみ着いてくると、夢の中でもこの問い掛けをしていることに気づきます。その時点で夢を見ていることを自覚する度合いは急速に高まります。それから現実性の確認の手段として、鏡を覗き込んだり、短い文を繰り返し読むといったことを頻繁に行うよう努めてください。夢においては、我々の姿はしばしば変わって、書かれた言葉を読み取ることは極めて困難です。このような習慣を睡眠時に持ち込んでリアリティーをチェックすれば、自分が現在夢を見ていることに気づくことができます」
 菅野はここまでを一気に一息に話した。一言一句が頭に刻み込まれているといった感じで、微塵も詰まったり言い淀んだりしなかった。
「そういう夢を見たからといって、どうなるものでもないだろう」
 相手の話に呑み込まれないよう、僕はそう言い返した。だが、どうやらそれは想定された質問だったようだ。
「いえいえ、たとえば悪夢障害に悩む人にとって、自分の夢をコントロールすることを学ぶことが唯一の改善方法であることが分かっています。悪夢の最中に自らの認識性を高めることによって、夢の内容から感情的な距離を置けるようになるからです。明晰夢に十分熟達すれば、恐怖のシナリオを避けるよう夢の内容を自分でコントロールすることすらできるようになります。それから、そういったセラピーへの応用だけでなく、複雑な運動の学習を容易にする効果もあります。というのは、夢では通常ありえないどんな行動もとれます。空も飛べるし、壁を抜けたり、ものを消したりもできる。すなわち、運動選手は走り高跳びなどに必要とされる複雑な運動の手順を適切な明晰夢によって練習すると、より素早く習得できるというわけです」
 夢の中で走り高跳びの練習? 
 菅野は顔の前で組んでいた手を解き、掌を僕の方に向けた。



18へ続く

2023年04月27日

長編小説2 夢落ち 12



 小便から戻ると、れいは小屋の壁に背中を凭せ掛けたまま、小刻みに震えていた。
「大丈夫ですか?」
 僕は慌てて駆け寄り、彼女の傍らに跪き、後ろから両腕で肩を抱きかかえた。
「……ごめんなさい。歩いてた時はよかったんだけど、じっとしてると寒くて」
 ノースリーブのワンピースという彼女の恰好からして、確かに寒そうではあった。初夏の恰好としては全然間違ってはいないのだが、ここが山奥だからか、夜になってぐっと気温が下がってかなり冷え込んでいた。僕は普段から寒がりで長袖を着てきていたから助かったが、れいが寒がるのも無理はない冷え込みではあった。
 赤いランタンの火がれいの白い横顔を照らし出している。
「ねえ、……こうしてもいい?」
 そう言うと、れいは身体を反転させ僕の正面から腕を背中に回した。
「あぁ…あったかい。あなたの身体、あったかい」
 僕に抱きついているような格好になっていた。僕は喉の奥が引き攣り、唾を呑み込むことができなかった。
「…へ、…へいねつが高いから」
 いくらか裏返った声で、そう言うのがやっとだった。彼女の額と頬が僕の口のすぐ近くにあり、肩に湿った吐息を感じた。乳房の膨らみが胸の辺りに押し付けられていて、それを意識した途端、僕の性器は硬く勃起した。
 僕の両手がゆっくりと彼女の背中へと回っていた。そして、れいがズルズルと少しずつ腰を横にずらしていっているのに気がついた。僕の身体ごと道連れにするように、次第に身体を倒していっている。
「何も考えちゃダメ」
 二人の身体が完全に横向きに倒れると、彼女は僕の耳元でそう呟いた。
「いい? 何も考えないで」
 床に溜まった埃が髪と頬に感じられ、ぴったりとくっつけられた彼女の太腿の辺りに、僕の完全に勃起した性器が当っていた。
 彼女の肩越しに、赤い子供用のバットと、焦げ茶色の擦り切れて埃まみれのテディーベアが見えた。僕はカラカラに渇いた喉にむりやり唾を送り込み、背中に回した手にやや力をこめた。──彼女は石沢さんの奥さんで、暖をとるために、僕らはこうして床に寝転がり抱き合っているのだ。僕の性器は硬くこれ以上ないほど勃起しているが、これは身体の生理現象なのだから仕方がない。止めろと言われても止められるものでもない。大雨や地震と同じようなものだ。来る時は来る。こちらが選び取れる類いのものではない。
「ここは暗い森の中」
 詩でも詠むような口調で、彼女が囁く。
「頭の中の、記憶の森」
 記憶の森?
 ランタンの火が揺れ、それに伴って黒い影たちが大きく揺らめいた。部屋のドアは閉めてきたはずだし、窓も開いていない。どこからか、隙間風でも入ってきたのだろうか。
「あなたはずっと現われない」
 目蓋を閉じ、僕はれいの言葉にじっと耳を傾けた。
「違う男が入って来た」
 震えるような蠱惑的な声が、消えていた。気のせいだろうか。
 僕は何か言葉を発しようとした。だが、何も浮かんでこなかった。
「わたしを助けに来て」
 もはや、それはれいの声色ではなかった。だが、聞き覚えがある。
 僕は次第に溶解しつつある意識の中で、必死に記憶にしがみついた。だが、答えが得られないまま、意識の淵へとこぼれ落ちていった。


             5

 赤とオレンジ色でペイントされたATMが、薄く開けた目蓋の隙間から見えた。その隣にはアイスクリームの自販機があって、ジャイアンツの帽子をかぶった子供がボタンをでたらめに押している。
「あんた、バカっ!」
 黄色いTシャツを着た女が、後ろから駆け寄ってきて男の子の肩を強く摑む。丸々とよく太っていて、巨大な乳房のせいでTシャツの胸のあたりがはち切れんばかりに伸びきっている。
 顎から手を退け、顔を上げる。
「イェー! アホばばぁ!」
 先程の男児が僕の右足の爪先を踏みながら、目の前を駆け抜けていった。
「あんた! もう、くそっ!」
 乳房を大きく揺らしつつ、女は子供を追いかけようとしたがすぐに諦めた。そして、僕の隣にどっかりと腰掛け、荒い息を吐きながら、まだらに染まった金髪を額から払い除けた。大粒の汗が頬を伝っていて、子供が人の足を踏んだことなど微塵も気づいていない。
 首を曲げてぐるっと周りを見渡してみた。
 その入り口にある看板からここがイトーヨーカドーの出入口であることが分かった。分厚いガラスで外の通りと店内からは区切られている、風防室のような場所。いくつか並んだベンチの反対側では、靴のセール販売が行われている。その背凭れのない赤茶色のベンチに腰掛けているのは全部で十人くらいで、老人がその八割方を占めている。
 外は夕闇が迫っていて、あと十分か二十分ほどで日没といったところだった。そして、僕はなぜ自分がここにいて、いったいここがどこだか分からなかった。
 ベンチから立ち上がり、とりあえず自動ドアを抜けて外に出た。ムッとする熱気がアスファルトから立ち上っていて、ふと、饐えた生ゴミのような臭いがした。
 目の前にある交差点からポッポーという間の抜けた音がして、歩道に溜まっていた人たちが一斉に歩き始める。視線を上げると、前方に駅らしき建物が見え、高架になったホームに電車が滑り込んできているのが見えた。
 僕は人々に混じって交差点を渡り、その比較的大きな駅に向かって歩き始めた。バスとタクシーのロータリーがあり、駅の前がちょっとした広場のようになっていた。
 赤羽駅(西口)
 通り抜けできるようになっているコンコースの入り口に、緑色の看板でそう表示されていた。赤羽。確か北区。JRのいくつかの路線が乗り入れていて、埼玉から東京への玄関口のような場所として栄えている。僕が持っている知識としては、それくらいだ。ああ、それから佳奈子の事件を取り調べに来た刑事たちが、赤羽署と言っていた。あれ? そういえば佳奈子が勤めていた書店が駅前にあって、佳奈子が殺されたホテルがこのすぐ近くだったはずだ。でも、なぜ僕は赤羽なんかにいるのだろう。佳奈子の事件を調べにでも来たの──。
 僕は改札の前あたりで、ハッとして足を止めた。
 これは夢かもしれない。
 森の中をれいと歩いてきた記憶がある。そして、小屋を見つけてそこで二人で横になっていたはずだった。
 ギョッとして、辺りをぐるりと見渡す。夕暮れ時のすごい量の人たちが駅の中を行き来している。突然止まった僕に気づかず、肩や鞄をぶつけながら通り過ぎていく人たちが何人もいる。誰も気にかけたり謝ったりはしない。そんなことは、都会では日常と化してしまっているのだ。
 人々のざわめきやら、和菓子らしきものを近くで売っている売り子の甲高い声が、耳に折り重なって飛び込んでくる。ヘアトニックや香水の匂いが鼻腔をかすめ、天井から駅に滑り込んでくる電車の重低音が響いてくる。
 僕は意識してゆっくりと深呼吸をし、下唇を指先でやや強めに抓んでみた。確かな痛みがあり、指先には自分の湿った吐息が感じられた。
 だが、これは夢かもしれなかった。
 コンコースを抜け、右側に目についた交番に足を伸ばした。
「ここらへんに本屋さんってありませんかね。駅前にあるって聞いたんですけど」
 その達磨のような体型をした若い警官は、地図を見ることもなく、交番の外に出て指を差した。
「そこのマツキヨの角をまっすぐ行って、ちょっと行ったら右側にありますよ。大きい交差点の角のとこです。店の名前はブックス赤羽だったかな」
 警官に礼を言って、僕は言われた方向へと歩き始めた。
 ブックス赤羽。たしか刑事もそう言っていた気がする。もうはっきりとは覚えていないが。
 奇妙な形をしたオブジェのある広場と喫煙所の脇を抜け、マツキヨと喫茶店の角を直進した。そして、左右に大量の自転車が限界まで停められた歩道を人を避けながら進んでいくと、スクランブル交差点とその角のビルに掲げられた緑色の看板が見えてきた。
『ブックス赤羽』
 ネオンだか蛍光灯だかで派手に光っている。僕は正面の大きな入り口の自動ドアを通って、店内に足を踏み入れた。
 店の中は小さな雑音の混じった音でクラシック音楽がかかっていて、多くの人が雑誌やら本やらを立ち読みしていた。入り口のところにあった案内表示によると二階もあるようだから、市ヶ谷のうちの店よりもいくらか規模が大きいかもしれない。
 レジには人が並んでいて、僕はしばらく待って列が解消したのを見計らい、右側のレジにいた眼鏡をかけた女性の店員に声を掛けた。
「すみません。迫田さん、迫田佳奈子さんはいますか?」
「あいにく迫田は五時で退社しておりますが」
 女性は丁寧に軽く頭を下げながら、申し訳なさそうな表情でそう答えた。
 退社。つまり帰ったということか。
「ああ、すみません。じゃあ、いいです」
 僕もぺこりと頭を下げ、レジから離れた。
 ああ、やっぱり佳奈子は死んでいない。今の女性の反応からすると、公けに殺されたことにもなっていない。
 足元に靴の足跡のついたレシートが落ちていて、僕はそれを拾い上げてじっと見た。
 ブックス赤羽という店のロゴが上に入っていて、その下に小さく店の電話番号、それに「お買い上げありがとうございました。またのご来店お待ちしております」という決まり文句。領収書の表示。そして、二〇一三年七月八日(月) 十八時二一分と日時が印字されている。
 二〇一三年七月八日。
 佳奈子の命日だった。佳奈子はこの日殺されている。レジの上の壁に掛かったスヌーピーの時計を見ると、今時刻は六時五十一分あたりを指していた。はっきりとは覚えていないが、佳奈子の殺された時刻はもっと遅い時間だったはずだ。となると、佳奈子はまだ生きている。
 僕はその場で腕組みをして目を閉じ、必死に記憶を辿った。現場となったホテルの名前も部屋番号も、たしか刑事たちから聞いていたはずだった。だが、いくら思い出そうとしても出てこなかった。記憶に鍵がかかってしまったかのように、どれだけ懸命に考えても自分が覚えていないということに思い当たるだけだった。
「あのー、すみません」
 唐突に、後ろから肩を叩かれた。驚いて振り返ると、さきほどレジにいた眼鏡の店員が緊張した面持ちで立っていた。
「……これ、迫田さんから」
 二つに折り畳まれた水色の紙を手渡される。
「だれか迫田さんを訪ねてくる人がいたら、渡して欲しいって」
 その時、妙な電子音のメロディーが背後から聞こえてきた。
「あっ、すみません。それだけです」
 女性店員は、踵を返してレジの方に小走りで戻っていった。僕はその水色の紙を持ったまま、しばらく立ち尽くしていた。見るとレジには長い列が出来ていて、僕の脇をエプロンを着けた男性の従業員が駆け抜けていき、レジで眼鏡の女性の横に入った。随分と繁盛しているようだった。羨ましい限りだ。
 とりあえず店を出て、近くにあったコンビニの前で先程もらった紙をポケットから取り出した。
 赤羽プラダホテル 五〇二号室
 開けて折り目を伸ばすと、記憶の隅の方にある佳奈子の丸文字でそう書かれていた。水性のボールペンで書いたようで、やや文字が滲んでいた。
 手掛かりを残していったということだろう。そして、佳奈子は僕がここに来ることを知っていた。何故だ?
 メモ用紙を元通り折り畳んでポケットに仕舞い、コンビニの中に入った。そして、冷たい缶コーヒーを一本買って、店の外で飲んだ。右側の尻のポケットには僕がいつも使っている牛革の財布が入っていて、左側には見慣れた黒い携帯電話が差さっていた。財布の中身は二万三千円と、小銭が少し。だいたい僕がいつも持ち歩いているくらいの額だ。
 なぜ佳奈子は僕が赤羽にいて、あの店に来ることを知っていたのだろう。それとも、これは僕に当てたものではなく、不特定多数の人へ向けたメッセージのようなものなのだろうか。あの眼鏡の女性店員は、誰か佳奈子を訪ねて来る人がいたら渡して欲しいと言われていた。たしかそう言っていたはずだ。誰か訪ねて来る人がいたら。すると、来ない可能性もあったということか。だが、実際に来た。きっと彼女はびっくりしたことだろう。本当に来た、と。そして待ち合わせか何かで、行き違いにならないように手を打っておいたのだろうと想像したはずだ。今は電話やメールでも連絡が取れるはずだが、充電切れだか故障だかできっと連絡がつかない状態なのだ、と。
 缶コーヒーを飲み干して駅前の公衆便所で用を足した僕は、また交番に入り、さっきと同じ警察官に赤羽プラダホテルの場所を訊いた。
「ああ、さきほどの本屋の並びですね。こっちの大通り沿いに真っ直ぐ行って、コンビニと大きなマンションを過ぎたあたりです。この本屋のすぐ近くですよ」
 今度は机の上に広げた地図を指し示しながら、説明してくれた。確かに佳奈子の本屋のすぐ近くだった。一つ通りを隔てて三軒隣。距離にしたら十二、三メートルといったところだろうか。
 警官に礼を言って、交番を後にした。そして、道の真ん中に立つ客引きたちの呼び声を振り払い、パチンコ屋と風俗店とラーメン屋のひしめき合う狭い通りを突っ切ってホテルのある大通りへと出た。
 中央分離帯に背の高い木が等間隔に植えられていたが、その木々は大量の車とトラックやら大型トレーラーやらの吐き出す排気ガスのせいでほとんど枯れかけていた。樹皮はぼろぼろに剥け、葉っぱは網にひっかかった海藻のように所々しか残っていない。きっと土が死んでいるのだろう。養分がほとんど残っていないのだ。
 
              *

 フロントにいたオールバックの四十過ぎくらいの男に、シングルルームは空いているだろうかと訊ねた。
「今晩でございますよね。空いております」
「どこが空いてる?」
 男の表情がやや固くなる。
「…どこ、といいますと?」
「何階の何号室か」
 すると、男は額に汗を浮かべ、手許のパソコンのキーをカチャカチャと叩いた。
「ええと……、四階の四〇七号室はなんかはいかがでしょうか? 角部屋で窓か──」
「五階は空いてないかな?」
「五階ですか? ええと……」
 男はまた激しくキーボードを叩く。
「お客様、あいにく五階は満室でございます。眺望の良さでしたら、四階の角部屋でもさほど変わりはないかと」
「じゃあ、そこでいいよ」
 男は自分の苦労が報いられたと思ったのか、にっこりと微笑み、引き出しの中から四〇七と部屋番号の刻印されたキーホールダーと、それにリングで繋がれたキーを取り出した。
「かしこまりました。お荷物などはございますでしょうか」
 キーとキーホールダーを右手で受け取りながら、僕はかぶりを振った。
「いや、ない」
「失礼致しました。エレベーターはあちらでございます」
 オールバックの男は、頭を恭しく下げつつ左手を奥の突き当りに向けた。
 僕は小さく頷き、キーを片手にフロントを後にした。男の左手の薬指には、大きな宝石が光っていた。アメジストだかサファイアだか、ちょっと青みがかった紫色の大きな石が指輪に嵌まっていた。結婚指輪とかそういったものには見えない。物腰にもどこか妙な感じが拭えなかったし、ひょっとしたらホモ・セクシャルなのかもしれない。
 エレベーターで四階まで上がり、赤ワイン色の絨毯を敷き詰めた廊下を端まで歩き、四〇七号室の前に着いた。ドアの脇が廊下の突き当たりになっていて、消火器と造花の花瓶と縦長の窓ガラスがあった。窓ガラスからは隣のビルの壁面しか見えなかった。
 持っていたキーで鍵を開け、部屋の中に足を踏み入れる。ドアを閉めると、勝手にキーが回って鍵がかかった。その際、ウィーンという間の抜けた機械音がした。



13へ続く


2023年03月23日

長編小説2 夢落ち 11



 見上げると空の真ん中あたりにきれいな満月が浮かんでいて、その月明かりだけを頼りに、僕らは真っ暗な林の中をぐんぐんと突き進んでいった。
「こっちに何があるんですか?」
 僕は腕を引っ張られながら、不安になってそう訊いてみた。すると、こんな答えが返ってきた。
「まずは、隠れて見つからないようにしなきゃいけないでしょ」
 ということは、当てがあったわけではないということか。林を抜けた先に車が停めてあるとかそういった展開を期待していた僕は、いくらか拍子抜けした。
「じゃあ、でたらめに進んでるってことですか」
「うん、まあ」
 追っ手が来ていないとも限らないから、あながち間違っているとも言い難い。だが、そんなふうに進んでいたら、迷って出られなくなってしまう。GPSでも持っていれば話は別だが、れいに限ってそんな用意がいいとは思えない。
「勘よ。カン。そんなのすぐ分かっちゃうんだから」
 周りが暗すぎて表情までは読み取れなかったが、きっと彼女はいつもの魅惑的な表情で微笑んでいたのだろう。山の中を勘で進むことなど考えてみるまでもなく自殺行為に等しいが、ひょっとしたられいはそういったセレピレンティーのような能力を持っているのかもしれない。
「あそこまでどうやってきたんですか」
 僕はずっと頭の中に浮かんでいた疑問を、ここでれいにぶつけてみた。駆け足気味に歩いていたから、僕も彼女もやや息が切れ始めていた。
「ああ、そう、あなたが連れ去られるとこ、わたし見てたのよ。タクシーの中から。それで、運転手のおじさんにあの車尾けてって」
 目の前の木に顔をぶつけそうになり、肩を当てながら何とかぎりぎりで避けた。
「なんで、警察に通報してくれなかったんですか?」
「通報したわよ。タクシーの中から。でも出た女の人が全然ダメで、見たまんま伝えたんだけど、はあはあ言ってるだけで捜査員を向かわせるとは言ってたんだけどね」
「その、僕が乗せられてた車のナンバーとかは伝えたんですか?」
「いや、それがね、運転手さんがすっかり乗り気になっちゃって、間に二、三台は挟まないとダメだとか、あんまり近づくと気づかれるだとか言い出して……」
 まあ、確かに犯罪者を尾行することなど、普通の人生を送っていたらそうそう経験しないことだろう。
「遠くて見えなかった?」
「それもあるんだけど、何かスモークみたいのかかっててちょっと下向きにしてあるみたいで、ね、まあ。ああいうの道交法違反じゃないのかな。取り締まれないのかな」
 その後も、れいはそのナンバープレートに対する不満をぶつぶつ言っていた。
「で、それでここに辿り着いたってわけですか?」
「そう。国道から脇道入るとこで、そのままちょっと行ったところで停めてもらったの。そんなとこ入ってく車他にいなかったから、ついてったらバレちゃうでしょ。それで二時間くらい走ってたから料金すごいことになってたんだけど、運転手さんお金いらないって言うのよ。私もすぐ地元の警察に掛け合いますからって」
 きっと、その運転手もれいの魅力にやられたのだろう。
「それで、えっちらおっちら一時間ばかし歩いて、ここに辿り着いたんだけど、私も見つかったらどうなるか分かったもんじゃないじゃない。まあ、たぶん主人もここに連れ去られてきてるわけだし、捕まったらおしまいだなって」
 遠くで犬の遠吠えのような鳴き声が聞こえる。映画とかニュースでよく見るように、犬を使って僕らを捜しているのでなければいいのだが。
「それで、入り口から入るのはもっての他だから、その近くの森の中に隠れてじっと機会を窺ってたのよ」
「携帯は使わなかったんですか? 警察に来てもらうとか」
「はぁ? そんなの圏外に決まってるでしょ。ここ、栃木の山ん中よ」
 栃木。やはり随分遠くまで来ているのだ。
「まる一昼夜待って、それでロープを見つけたの」
「は?」
 僕は真顔で訊き返した。
「ロープよ。ロープ! 建物の屋上から地面に垂れ下がってるのが見えたの」
 僕は開いた口がふさがらなかった。ロープが屋上から垂れてた?
「近づいてみたら、三十センチ置きくらいに結び目もついてる太いやつで、これなら私でも昇れそうだなって」
 誰かが垂らしたのだろう。もちろん、勝手に垂れてくるわけはない。
「それで思い切って昇ってみたら、あなたとあの女の人がいるのが見えて、窓蹴って勢いつけて飛び込んだの。ターザンみたいに。もうホント死ぬかと思ったけど」
「そのロープは誰がつけたんだろう?」
「あなたじゃないのね?」
 僕は闇の中で頷いた。「ええ、僕じゃありません」
「じゃあ、そのあそこの中に誰か私の存在に気づいた、スパイみたいな人がいるってことじゃない。まあ、いわゆる裏切った人みたいな」
 石沢だろうか。だが、石沢は菅野の話によると、ここの教祖のような存在に祭り上げられていて、皆からは先生と呼ばれているようだ。そんな人が一人でこそこそロープを用意して垂らしたりできるものだろうか。お目付け役の信者だかSPだか見張り役だかが、しっかりと張り付いていそうな気がする。それに、れいに僕を逃げさせる理由も判然としない。
 佳奈子。
 僕の頭にその次に浮かんできたのは、その可能性だった。菅野はたしか話の中で佳奈子は本当に死んでいるのかというようなことを言っていた。そして、僕も現に自分の死亡記事を見させられた。だが、僕は死んでいない。すると、佳奈子も生きていて、この教団だか団体だかにいると考えることもできる。いわゆる、ディープスロート。内通者。
「石沢さんに会いましたよ」
 すると、れいは足を止め、こちらを振り返った。
「え、なに?」
 月明かりに、彼女のはんなりとした顔が白く照らし出される。
「だから、石沢さんに会ったって言ってるんですよ」
 そして僕は、彼女を促すように歩き始めながら、石沢に会って話したことを説明した。もちろん、その前の佳奈子とのことは除いて。
「手足を縛られてて目隠しをされた状態でしたから、たしかに石沢さんだったっていう確証はありません。でも、あの声としゃべり方は石沢さんそのものでした」
 僕らの歩みは次第にゆっくりとしたものに変わっていて、顎を引いて俯き、れいは浅い呼吸を繰り返している。
「あの人は……」
 そこで、言葉が一瞬途切れた。そして、十秒ほど経った後、また彼女の口が開いた。
「わたしを…、わたしが奥さんじゃないって言ってたの?」
 僕は低く唸った。そして、舌で唇を湿らせた後、こう言った。
「夢落ちしてきたんやって言うてました」
 れいの口から、わざとらしい大きな溜め息が洩れる。
「だから、その夢落ちって何なの?」
 怒りのこもった強い口調だった。僕はしかし、その問い掛けに明確に答えることができなかった。ただ石沢と菅野に言われたことの、断片的な記憶を繋ぎ合わせるしかなかった。
「文字通り、夢に落ちることやって言われましたけどね。僕も上手く言えないし、ほんとかどうかもよく分からないんですが、よく自分が夢の中で夢を見てるって気づくことあるじゃないですか。あれを明晰夢っていうらしいんですけど、それを固定化してしまう、つまりずっと夢の中に居続ける方法があって、石沢さんはその方法を実際にやって、その、夢落ちしたってことです」
 ひどい説明だった。言ってる本人もよく理解していないのだからしょうがない。言われたことを、ただ水で薄めて粗悪に垂れ流しているだけだった。
「夢に落ちる。……じゃあ、ここはあの人の夢の中だっていうの?」
「石沢さんと、僕と話をした教団の幹部が言うには。でも、そんなことホンマかどうかなんて知りませんし、分かりませんよ。それにもしホンマやったとしても、どうしようもないことや思うんですけどね」
 それはほとんど感想のようなものだった。どこにも行き着けないし、どこにも辿り着けない。なんの生産性も持たないガラクタのような言葉だった。
 そこから二十分ほど、僕らは無言で歩き続けた。当てはなかったが、少なくとも僕の中には、どこかで大きな道路にぶつかるかもしれないという仄かな期待はあった。実際、れいは国道から一時間でこの施設に着いたと言っている。男女のペアだったし、道路に出てヒッチハイクのようなことをすれば、東京かどこか近くの都市まで乗せていってくれる親切なドライバーが見つかるかもしれない。
 だが、ぼくらは一向に道路には行き着かず、むしろ辺りはますます山深くなってきていた。道に傾斜も加わって、いよいよ山登りといった具合になってきたところで、僕らは一軒の避難小屋のような建物を見つけた。建物といっても粗末な木造家屋で、ほとんどあばら家と言ってもいいような代物だった。
「ちょっと、あの中で休みましょうか」
 僕は次第に疲労の色を濃くしつつあるれいに、そう声を掛けた。
「……うん。そう」
 力なく彼女はそう呟き、僕らは小屋に近づいていった。落ち葉や折れた枝等にすっかり埋もれていて、その小屋は遠目にはとても粗末に見えた。だが、近くで見てみると丸木を組み合わせてロッジ風に作った、案外しっかりとした造りをしていた。長い間誰にも使われていなかったために、外見がすっかり荒んでしまったのだろう。
 れいがドアに手を掛け開けようとすると、鍵がかかっていることが分かった。小屋の側面には黒い煤で覆われた明かり取り用の窓があったが、石か何かで割り砕いたとしても、いかんせん面積が小さすぎて体が通らない。僕が困り果てて小屋の周りをぐるぐる回っていると、表かられいの声が聞こえてきた。
「ほら、あった!」
 回り込んで見ると、ドアの脇にあったプランターの下に彼女は手を突っ込んでいた。
「勘よ。カン。だから言ったでしょ。そういうの、すぐ分かっちゃうって」
 れいは自分の発見にすっかり舞い上がっていて、元気になっていた。まるで幼い少女のようだと思った。クリスマスの朝に、テーブルの下に隠してあったプレゼントをみつけた少女のような笑み。心をひどく揺さぶられなかったと言えば、嘘になる。
 れいの見つけた鍵を使って、僕らは小屋の中に足を踏み入れた。
「うわっ、これ、すっごい」
 死体やミイラがあったわけではないが、そこにはある種異様な違和感のある光景が広がっていた。
「なんだ、これ……」
 僕も思わず、そう洩らしていた。
 子供用の赤いプラスチックのバットや黄色のゴムボール。それに、青色のスーパーカーを模した子供用の乗り物。よく地方の土産物屋や動物園などに売っている、長い棒の先に小さなタイヤと蝶の羽のようなものがついている地面を転がして遊ぶ玩具。作りかけの何かのアニメのキャラクターのジグソーパズルに、縫いぐるみが数体。その他にも雑多な五、六歳児向けのおもちゃが、小屋の床いっぱいにぶち撒けられていた。
 こんな夜更けに白い月明かりの下で見る光景ではない。
 僕らはその玩具を見下ろしたまま、しばらく無言で立ち尽くしていた。れいが息を吸ったり吐いたりするやや高まった吐息と、また後方から犬の遠吠えが聞こえてきていた。
「……ライター持ってますか?」
 天井から、ランタンのようなものがぶら下がっているのに気づいた。
「…ええ」
 唾を呑み込んだ後、れいがひどく擦れた声でそう答える。そして、ポケットを探って煙草のパッケージを取り出した。
「ポケットに入れ替えといたの。念のためにね」
 ハンドバッグの中にでも入れてあったのだろう。きっと、それを捨てるかどこかでなくすかしたのだ。
 れいはおもちゃを踏まないように歩いていって、天井からぶら下がっていたランタンを手に取った。
「そこの、傘の部分を持って下のとこを回して」
 彼女は僕の指示通り、回そうと試みたがすっかり錆びついているようで全然回らないようだった。だが、しばらくうんうん唸りながら力を入れていると、キキーと不快な音を立てながら回転し、傘の部分が外れた。
「それで、そこのガラスを外して、芯のところに火を」
 昔、学生時代に登山をやっていた関係で、こういったものの扱いはよく心得ている。
 れいは煙草のパッケージからライターを取り出し、芯に火を点けた。そしてガラスを元通りに嵌め、天井からぶら下がっている傘の部分に元通り繋げる。
 部屋の中が赤く染まり、僕らやおもちゃの影が床や壁に映し出される。
「ごめん。これやっぱり取ってくれないかな」
 れいがドアを閉めたところで、僕は縛られた手首を彼女に見せながらそう言った。
「ええ、じゃあ、そこ座って」
 散らばっているおもちゃを足で払い除けながら、僕らは一畳ほどのスペースを確保し、座り込んだ。そして、れいはぶつぶつ何やら聞き取れない文句を口の中で呟きながら、五分程かかって硬く縛られた僕の縄を解いた。
 いましめから解放されると、僕は思い切り肩を回し、腕を上空へ向けて伸ばし、ぐーっと背伸びをした。
「あぁ、気持ちいいね」
 僕がれいに感謝の言葉を伝えると、彼女は小さく微笑み、壁に背中を預けて細長い煙草を吸い始めた。これで、一人で小便ができる。大きな一歩だ。実はさっきからずっと我慢し続けていたのだ。
 れいに断りを入れ、僕は立ちあがって小屋の外に出て、近くの木の根元に長い長い小便をした。素晴らしい開放感だった。飛び上がって、快哉を叫びたくなるほどのこの自由な感覚。後ろ手に手首を縛られるということが、どれほどのストレスを人体にもたらすのか、僕は痛切に感じた。手首の皮膚には縄の跡がしっかりと残っているし、破れて擦り切れ、血が滲んでいる箇所もある。緩めに縛って外れでもしたら大変なのは分かるが、こんなに人間の尊厳を踏み躙る行為もなかなかない。なにしろ、ズボンのチャックも開けられないし、下着の上げ下ろしまで人にやってもらわなければろくに小便もできないのだ。好意も何もない会ったばかりの他人に、性器を下着の裾から取り出される経験など、おそらくほとんどの人がないだろう。
 ──緊張しないでください。大丈夫です。馴れてますから。
 だが、歳を取って腰が立たなくなり、介護施設にでも預けられたらそれがきっと日常になるのだろう。僕はほんのちょっと先取りしただけなのかもしれない。



12に続く


2023年03月16日

長編小説2 夢落ち 10



 無為に時間だけが過ぎて行き、その間、僕は喉の渇きと空腹感が募ってくるのを感じ続けていた。飲まず食わずでいたせいで幸い尿意やら便意からは免れていたが、それは時間の経過と共に次第に苛烈なものへと変化していった。兵糧攻めというやつだろうか。僕がここにいることは彼らには分かっているはずで、飢え渇いていることは考えるまでもなく想像がつくだろう。思考力を奪い、生殺与奪の力をしっかりと意識させることで、ストックホルム・シンドロームのような効果を狙っているのかもしれない。
 窓の外を眺めたり、床に寝転んだり、椅子に座って考え事をしたりしているうちに、日が落ちて夜になった。天井の間引きされた蛍光灯はずっと点いたままで、そのスイッチも部屋中探してみたが見つからなかった。きっとドアの外側にあるのだろう。
 佳奈子はあの時、どこからどう入ってきてどうやって出て行ったのだろうか。足音やドアを開け閉めする音は聞こえなかった。見た限りでは、どこか隠れられるような場所もない。音もなくやってきて僕を射精に導き、そして石沢から逃れるように姿を掻き消した。 
 ──あぁ、だめ。あの人が来る。
 僕は死んだはずの幽霊と会ったのだろうか。石沢と佳奈子との間に、何か決定的なことがあったことだけは確かだ。それは性交や殺人ですらない。それらを超えた何かとてつもなく異常なことがあったのだ。そもそも佳奈子は生きているのだろうか。それとも死んでいるのか。僕も彼女と同じく死んだことになっているらしいが、それは彼らが細工をして人々を騙しているだけのことだ。菅野もそうはっきりと認めていた。きっと、僕は死んでいない。
 夢落ち。菅野と石沢がそう言っていた。確か、赤羽の本屋にある「世界残酷物語」という本を買って読めば、その夢の中にずっといられるという話だった。この夢の家とかいう教団だか団体は、その夢落ちしてきたある一人の人物によって設立された。そして現在死に瀕しているその人に代わり、後継と目されているのが石沢ということだった。教祖に祭り上げられているといった感じだろうか。
 俄かには信じ難い。そんなものを一度頭から信じてしまえば、現実など一気に吹き飛んでしまう。菅野が長々と喋り続けた夢についての講釈のようなものは、おそらく科学的根拠に基づいた事実だろう。しかし、それと夢落ちを直線で結ぶのはいかにも乱暴だ。事実と嘘を絶妙に取り合わせるというのは腕のいい詐欺師がよくやる手法で、善良な人を騙すのには欠かせない手口だ。何か裏がある。きっと、裏がある。そういった大胆な嘘の陰に真実が巧妙に隠蔽されているのだ。石沢もこいつらに騙されている。本当にその夢落ちとやらを成功させたと思っていて、強姦殺人の罪をなすりつけられているだけとはまったく気づいていないのだ。
 突然、ガチャっという音と共にドアが開き、狐目の女が入ってきた。
 僕の股間を玄関先で蹴り上げたあの女だった。今度はパンツスーツではなく、タイトスカートだったが。
「吉澤っていいます。先生からあなたの様子を見に行くようにって言われたから」
 日没から四時間余りが経過していた。そのとき床に寝転がっていた僕の前に立ち、傲然と見下ろしながら彼女はそう言った。投げ遣りでぶっきらぼうな口調だった。少なくとも、僕にはそう聞こえた。
「……腹が減ってるんだ。それに喉も渇いてる。何かくれないか」
 僕は女のスッと伸びたしなやかな脚を目で捉えつつ、そう訴えた。それは薄いストッキングに包まれ、タイトスカートの裾、膝の上辺りから始まっていた。
「あら、そう。早く言えばいいのに。すぐ持ってくるわね」
 狐目の女は、ヒールの音を響かせつつ、ドアを開けて出て行った。そして、十分後くらいに戻ってきた。吉澤はお盆を持っていて、その上にはサンドイッチと大きめのグラスに入った水が載っていた。
 僕はとりあえず床から起き上がって、椅子に腰掛けた。すると、女は僕の脇に膝を合わせてしゃがみ込んだ。
「はい、あーん」
 後ろ手に縛られている以上、そうするしかなかった。彼女は手を伸ばし、トマトとマヨネーズとハムの挟まったサンドイッチを僕の口元へと運んだ。
 嚙んで口に含んだ瞬間、脳の中がとろけそうになった。マヨネーズのまろやかさとトマトの酸味、それにハムの塩気が舌と口全体を通して脳へダイレクトに刺激を伝えた。
 僕は夢中で咀嚼し、またたく間に一つ平らげた。
「アッハハ。そんなに焦んないで」
 吉澤はグラスを持ち、僕に水を飲ませた。なぜこんな介護のようなことをさせられているのか不満に思わないでもなかったが、彼女の飲ませ方はいかにも上手かった。こういうことを日常的にしているような馴れた感じもした。
「はい、また行くわよ。あーん」
 今度はレタスと卵の挟まったものを口に近づけてきた。僕は大きく口を開け、夢中でパクついた。さっきほどではなかったが、充分に美味しかった。この調子だとサンドイッチならいくらでも食べられそうだった。
 女はしゃがみ込んでこちらを見上げ、細い目をさらに細めて終始微笑んでいた。まるで赤ちゃんに離乳食を与えている母親のような表情をしている。
「あたし、そうやって男の人がガツガツ食べてるとこ見るの、すっごい好きなの」
 一皿まるごと食べ終え、水を飲ませてもらっていると、彼女はそう洩らした。「なんか生きてるって感じがして、こっちまで元気がもらえる」
 こういう状況で言うセリフでもない。恋人同士が最初のデートででも交わす言葉だ。監禁され、縄で縛られ、餌でも与えるかのように食物を口まで持ってきてもらっている状況で、当然そんな気分にはなれない。
「いい? もうちょっといる?」
 僕は軽く頷いた。
「もうちょっと欲しいかな」
 なにしろ腹が減っていた。五切れほどのサンドイッチでは、到底満たすことのできないくらい。
「分かった。すぐ持ってくるから」
 女は飛び跳ねるように立ち上がり、パタパタとヒールの音を響かせながらまた部屋を出て行った。どうやら、そんなに悪い女ではないらしい。
 女が再び戻ってくるのを待っている間、僕はあの時の状況をもう一度思い返していた。石沢の妻のれいと三時に待ち合わせをして、駅前で僕は彼女が来るのを待っていた。だが、三十分か四十分ほど待っても彼女は現われず、代わりに携帯に電話がかかってきた。遅くなりそうだから、自宅で待っていてくれというれいからの連絡。僕は自宅の住所を彼女に教え、何か食べる物を用意して彼女が来るのを待っていた。そして、インターホンが鳴り、僕がドアを開けると先程の狐目の女、吉澤が立っていた。彼女は僕の氏名を確認した後、股間を思い切り蹴り上げた。そして、倒れ込んだ僕の側頭部にとどめの一発を蹴り込んだ。正確で迷いのない一発だった。躊躇も無駄な動きも一切ない。職業軍人か殺し屋ような完璧で見事なプロの手際。身長や体格に勝る相手に対して、どう戦うべきかの模範例。
「おまたせー」
 狐目の女は明るい屈託のない声でそう言いながら、ドアを開けた。おにぎりの載ったお皿を手に持っている。
「ごめんねー、こんなのしかなくて」
 石沢はれいの携帯に、盗聴器を仕掛けていたと言っていた。それで僕の住所を突き止め、急襲させた。僕はれいに、石沢の消息を伝えようとしていた。佳奈子が殺されたホテルの防犯カメラに、石沢の姿が映っていた、と。
「あんたらはいったい何なんだ?」
 吉澤が僕におにぎりを食べさせようとしゃがみ込むと、僕はまっすぐ顔を見下ろしながら問い質した。
「何ってなに?」
 吉澤は僕の口におにぎりを近づけてくる。
「はづきね、そういうのよく分かんないんだけど」
 はづきというのは、おそらくこの女の下の名前だろう。
「分かんないじゃない。さっきの菅野とかいう男は、夢の家とか何とか言ってた」
 僕はそう言い終わると、口を開け唇に押し当てられていたおにぎりにかぶりついた。
「じゃあ、そうよ。分かってんじゃない」
 咀嚼すると、中から梅干しが出てきた。種ごと入っている。
「あいつがそう言ってるんだから──」
 突然、窓ガラスが割れる大きな音が部屋の中に鳴り響いた。
 割れたガラスの破片が床に降り注ぎ、髪の長い女が部屋の中へと滑り込んできた。
 床に膝を着き、髪を掻きあげながら女はこちらの方を見る。
 れいだった。白いワンピースの裾が、太腿のあたりまで捲れ上っている。
 僕らは一瞬目が合う。そして、僕の足は思い切り吉澤はづきの腹を蹴り上げていた。
「ぐっ!」
 持っていた皿を取り落とし、はづきはそう低く呻いて蹲った。僕はそこへもう一発、顔のあたりへ向けて蹴りを放った。
 爪先が彼女の顎へヒットし、上半身が後方へ仰け反った。そして、後頭部を打ちつけながらそのまま床へと倒れ込んだ。
 れいはよろよろと立ち上がり、ふらつきつつこちらへ近づいてきた。
「…ねぇ、ちょっと……」
 顔面は蒼白で、喫茶店で見たあの美しい黒髪はひどく乱れていた。
「…すみません。来てくれたんですね」
 彼女は僕の前に立ち、荒い息を吐いていた。上半身をやや前屈みに傾け、焦点の合わない目でこちらをぼんやりと見ている。
「ねぇ、ちょっと……」
 れいはさっきと同じ言葉を繰り返した。今にも倒れそうだった。
「すみません。これだけ取ってください」
 僕は椅子から立ち上がり、ロープできつく縛られた手首をれいの方へ向けた。振り返って見ると、彼女は相変わらず荒い息を吐いたままその結び目をじっと見つめていた。
「切るかほどくかしてください!」
 大声を出してみた。れいは完全に放心状態にあるように見えた。
「あっ…ああ」
 曖昧に頷き、僕と一瞬目が合った。そして、慌てて気づいたように手首のロープへと手を伸ばした。
 れいはしばらくの間、ロープをいじくっていた。だが、結び目が固く手に力が入らないようで、まったく歯が立たない様子だった。
 僕は焦った。菅野だか他の連中だかが、ガラスの割れた音を聞きつけて今にも駆けつけてくるだろう。
「じゃあいいから! この女のポケットから鍵を!」
 顎をはづきの倒れている方へしゃくる。さっきこの部屋に入ってきた時に、ポケットの中に入れているのを見ていた。
「え? へっ?」
 虚ろな目でそう訊き返された。
「だから! その倒れてる女のポケットにここの鍵が入ってますから!」
 ほとんど怒鳴りつけていた。でも、そうでもしないことには、彼女の頭には届かない様子だった。
「あ、ぅん」
 相変わらずぞくっとするような声だったが、いかんせんこの場では頼りなかった。だが、れいは僕の手首から手を離し、ふらふらと倒れているはづきの元へと近づいていった。
「確か右です。スカートの右側のポケット」
「右ってどっちよ!」
 そう訊き返してきた。ようやく声に張りが出てきている。
「そっち。手前側です」
 れいはタイトスカートの腰のあたりに手を突っ込み、黄色いタグのついた鍵を引っ張り出した。
「あった! これ?」
「ええ、たぶん」
 僕はすぐにドアの方へと駆け寄った。そんな僕の様子を、れいは鍵を持ったままじっと見ている。
「早く! ここ!」
 僕は地団駄を踏みながら、彼女に向かって叫んだ。
「あ、うん」
 何度か小刻みに頷いた後立ち上がり、れいはこちらへ歩いてきた。
「ここです」
 僕はドアの下、鍵穴のあるあたりを腰を使って示した。
「あ、うん」
 れいは、覚束ない手つきで鍵を何度か鍵穴に挿そうとした。ガチャガチャと音を立ててながら手間取り、五度目のチャレンジでようやく奥まで挿さった。
「右です。たぶん」
 れいは僕の指示通り、右へ鍵を捻った。すると、カチャンと小気味いい音がしてドアの鍵が外れた。
「鍵抜いてってください」
 ドアノブに手を伸ばし、そのまま出ていこうとしていたれいに僕はそう声を掛けた。「鍵がかかってないと奴らに気づかれるかもしれないし、あの女が意識を取り戻して仲間に伝えるかもしれない」
「そういやそうね」
 れいは勢いよく鍵を引き抜くと、ドアを引き開けた。僕らは廊下へと抜け出し、外から鍵をかけて吉澤はづきを部屋の中へ閉じ込めた。

             *

 廊下はひっそりとしていて人気がなかった。
 れいと僕は足音を殺して、左の方向へと進んだ。人気がないといってもこうして天井の蛍光灯は点いているわけだし、少なくとも菅野や石沢はこの建物のどこかにいるはずだった。
 リノリウム張りの廊下の左右には、A‐4だとかB‐7だとかいったプレートのついたドアが、五、六メートル置きに並んでいる。最初の印象通り、使われなくなった大学か科学技術の研究センターのような施設に見える。はづきはいったいどこから、あのサンドイッチやらおにぎりを持ってきたのだろう。給湯室か調理場のような部屋があるのだろうか。
「あっ、あれ!」
 出し抜けにれいが大きな声を出した。廊下を曲がった前方に、階段が見えたのだ。下に降りれば外に出られるかもしれない。
 だが、その直後にその階段の下の方から、大きな足音が聞こえてきた。おそらく階下にいた何者かが、れいの声を聞きつけて階段を駆け上がってきたのだ。
 危機を察知した僕は、咄嗟に階段の方へ向かって走り出していた。そして、踊り場を曲がって階段を駆け上がってくる、小太りでスキンヘッドの男を視界に捉えた。
「うっ!」
 低い野太い声を発し、スキンヘッドは一瞬足を止めた。そこへ僕は勢いよく肩から突っ込んでいった。
 スキンヘッドと僕の身体は折り重なるようにして階段から踊り場へ向かって吹っ飛び、強い衝撃と共に着地した。
 僕の方は男の身体がちょうど上手い具合に下敷きになって、大した怪我はなかった。だが、スキンヘッドの男の方は思い切り後頭部を床に打ちつけ、そこから赤黒い血が溢れ出していた。
 れいがパタパタというパンプスの音を響かせつつ、階段を駆け下りてくる。
「ちょっと、大丈夫?」
「…こっちはいいけど、こいつはどうかな」
 れいは屈み込み、男の禿げ頭に手を遣った。
「ほっとくとマズそうね。すぐに死んだりはしないだろうけど」
 だが、僕らは男を放っておくことにした。救急車を呼ぶわけにもいかないし、きっと誰かがそのうち気がつくだろう。
 階段を降りて一階に着くと、すぐ脇に建物の非常出口のようなドアがあった。内側に鍵がついていて、れいが横になっていた鍵のツマミを縦に回すと、ドアはあっけなく開いた。
 外はかなりひんやりとしていて、やや肌寒かった。風も出ていて、中とは温度が二、三度は違うように感じられる。
「こっち!」
 れいは僕の肩を摑み、引っ張った。きっとどこか当てがあるのだろう。
 出て左側にはアスファルトで舗装された広い駐車場があり、全部で十台ほどの車がバラバラに駐車してあった。右側には背の高い木々が密集して生い茂る林が、建物を取り囲むようにして視界の果てまで続いていた。れいが僕を引っ張っていったのは、こちらの林側だった。どうやら、駐車場に車を停めているというわけではないらしい。



11へ続く


2023年03月09日

長編小説2 夢落ち 8




 くぐもった声で石沢が唸るのが聞こえた。
「は? お前まで何言うとんねん。やってない言うてるやろ。それともお前、俺が嘘言うてるとでも思っとんのか?」
「それ、僕の前の嫁なんですよ」
 ハッと息を呑み、石沢は沈黙した。
「佳奈子っていうんですけど、お義母さんから連絡もらって、葬儀にも出て刑事たちにも話聞かれました」
「……ほんまか?」
 僕は横たわったまま頷いた。
「まあ、別れてからだいぶ経ってますし、石沢さんがそう言うのなら、きっと犯して殺した奴は他にいるんでしょう」
 石沢の耳に、この言葉はどう響いているのだろうか。
「それから、この人たちは何なんですか? 僕を襲って拉致したり、電話に盗聴器を仕掛けたり、えらい穏やかじゃありませんよね」
 舌打ちが聞こえてきた。
「仕方なかったんや。これしか方法がないねん。お前と接触したかったんや」
「答えになってませんよ。ここの人たちは何者ですか?」
 すると、うーんという低い唸り声が聞こえた。おそらく腕組みでもしているのだろう。
「それは、その…、セミナーやっとった奴らや。夢落ちの方法をふれて回っとる」
「なんでそんなことしとるんですかね? 金儲けのためですか? でも実際にできたってことはあながち詐欺でもないですよね。それに、たしかここに僕を運んできた連中は、『先生』言うてましたよ。あれって、石沢さんのことなんじゃないですか?」
 頭の中で固まりだしていた考えをぶつけてみた。この男は正直に語っているようでいながら、何か重要なことを隠したり誤魔化したりしている。そんな確信があった。
 しかし、返事はなかった。しばらく待ってみたが、それは同じだった。
「あっちでは僕がいなくなったって大騒ぎしてますよ、きっと。尾行まではどうか分かりませんが、事件の関係者としてれいさんも僕もマークされてた可能性はデカいですからね」
 また煙草の煙の匂いが鼻を突いた。
 三分から五分ほど返事を待った。だが、そこで僕は石沢の気配が消えていることに気づいた。会話の途中だったはずで、去っていくような足音も聞こえなかった。
「石沢さん?」
 僕は斜め上空へ向かって呼び掛けてみた。だが、それは誰もいない空間に空しく響いただけだった。
 ここはいったいどこなのだろう。急にそんな疑問が頭を過ぎった。
 夢落ち。実際にそんなことが起こり得るのだろうか。夢の中に落ちる?
 だいたいこれは現実なのだろうか。あるいは、おかしな悪夢を見ているだけではないだろうか。
「佳奈子?」
 試しに僕はそう呼び掛けてみた。石沢がいた間、どこかに隠れていた可能性もある。しかし、やはり返事はない。
 ──あぁ、だめ。あの人が来る。
 佳奈子は確かそう言っていた。あの人が来る?
 あの人とは石沢のことで、佳奈子と石沢はホテルの部屋で会っている。あくまで石沢の話によれば、だが。佳奈子がそこに呼び出し、その本を読ませて夢落ちさせた。
 もし、石沢の話が全て本当なら、佳奈子はいったい何をしていたのだろうか。僕を拉致してきた奴らの仲間で、いわば水先案内人のような役割を担っていたのか。或いは、彼らとは別にたまたまその本と夢落ちの秘密を知り、石沢に取引を持ちかけたのか。そこで交渉が決裂し、石沢は佳奈子を殺して本を奪った。──だが果たして石沢はそんなことをする人間だろうか。いくられいを愛していたとはいえ、人を殺してまで自分の願望を満たそうとするだろうか。となると、佳奈子を殺したのはこの夢落ちの秘密を握っていた組織の連中で、佳奈子の存在が邪魔になり殺したと考えるのが最もシンプルだ。彼らは夢落ちした石沢も拉致し、監視下に置いている。筋書きとしては通っている。だが、すべては憶測の域を出ない。それに死んだはずの佳奈子が、僕を射精へと導いた説明にもなっていない。
 そもそも、僕は果たしてここから生きて帰ることができるのだろうか。

             *

 そのまま十五分ほどが経過した。汗が冷え始めていて、僕は次第に尿意が募ってくるのを感じていた。
 このままずっと放っておかれたら、いつかは洩らしてしまうしかない。要はどれだけ我慢するのかという話になってくるのだが、もって二時間、いや一時間といったところだろうか。どうせ洩らさざるを得ないのだったら、こうして我慢しているのはまったくの無駄になる。だが、一度洩らしてしまえば──
 足音が聞こえてきた。かたい革靴の立てる硬質な音。
 やがて足音が止まり、ドアがノックされる。コンコンと小さく二回。
 石沢はノックなどしなかった。それに、彼がこの部屋を出て行った音も聞いていない。
 ドアがガチャッと開く音がして、革靴の足音が近づいてくる。
「あぁー、ひどくお待たせしてしまいました。すみません」
 中年の男の低い声。声に張りがあり、声量もある。人前で喋ることに慣れた人間なのだろう。
「あぁ、こんなことして申し訳ない。まったくあいつら! ここまでやる必要なんてないし、そんな指示も出してないんですけどね」
 そう言いながら男は僕の背後に回り込んで頭の後ろの結び目を解き、目隠しに使われていた黒い帯状の布を取った。その瞬間、僕はあまりの眩しさに目に鋭い痛みを感じ、じっと目を閉じたまま首を曲げて顔を俯け、痛みが過ぎ去るのを待った。
「これも取っておきましょう。人の尊厳を踏み躙る間違ったやり方です」
 足首を縛っていた紐も、男はほどき始めた。柑橘系のヘア・トニックの匂いが漂ってくる。ひどく大柄な男だった。動作にいちいち重みがある。
「これでよしっと。だいぶ楽になったでしょう」
 だが、男は背中の後ろで縛られた手首のロープだけは解いてくれなかった。どうやら解放する気があって来たわけではなさそうだった。
 目が慣れてくると、僕は顔を上げて男の顔を見上げた。紺色のスーツを着ていて、ネクタイは艶消しの金色に近い黄色。歳はおそらく四十前後で、背は百八十くらいある。短髪にした髪を整髪料でツンツンと逆立てていて、つるっとした妙に張りのある肌。どろんとした目付きで、目と目の間が離れている。額が広く、顔の面積に比べて鼻と口が大きい。全体的にカエルやトカゲといった爬虫類を連想させる顔立ちだった。
 男は目が合うと、横向きに寝転がっている僕の傍に片膝を立ててしゃがみ込んだ。
「あぁ、申し遅れました。こちらで理事を勤めさせてもらっております菅野と申します」
 男は背広の内ポケットから名刺を取り出し、僕の顔の前に差し出した。
 そこには 夢の家 理事 菅野正文 と記されていた。ただそれだけ。住所や連絡先といったものは書かれれていない。
 僕は名刺と男の顔を見比べた。すると、男の顔にはニヤニヤとした笑みが浮かんだ。
「説明が必要ですかね。いささか長い話にはなりますが」
「…トイレに行きたいんだ。小便が洩れそうなんだよ」
 僕は擦れた声でそう正直に訴えた。すると、男はパンと掌を打ち、大袈裟に目を丸くした。
「あぁ、すみません。そんなことにも気づかずに。…ええ、いま介助者を呼びますから、もうちょっとだけ我慢してください」
 そう言って、男は尻のポケットから携帯を取り出し、どこかに電話を掛け始めた。
 介助者?
「隣の九号棟におりましたから、すぐに来るはずです」
 何か命令口調で話をした後、菅野はすぐに電話を切ってそう言った。
 僕は男が手持ち無沙汰に待っている間、その部屋の中を首を曲げてぐるりと観察した。使われなくなった大学か高校の教室のようで、実際に部屋の奥には黒板と一段高くなった教壇があった。ただ椅子や机といったものが見当たらず、代わりにそのだだっ広い空間の真ん中あたりに僕と菅野がいる。ところどころ間引きされた蛍光灯が天井から白い光を投げ掛けていて、閉められた窓の外では闇の中、木が強い風雨に揺れている。木の枝振りから、おそらく二階。それ以上ではないはずだ。エレベータではもっと上昇していたような気がしたが、目隠しをされていたから長く感じたのかもしれない。
 ドアがノックされ、病院の入院患者が着るような白の上下を着た顔色の悪い女性が入ってきた。年齢不詳で顔の三分の一くらいを、胸のあたりまで伸びた真っ直ぐな黒い髪が覆い隠している。どこかそういう場所で遭遇したりしたら、僕はきっと悲鳴をあげていたことだろう。
「名木田という者で、介護福祉士の資格を持っております」
 そう紹介されると、その女性はぺこりと小さく頭を下げた。そして、二人は協力して僕をまず寝転んだ状態から立たせた。声を掛け合い、随分苦労して僕の身体を抱き起こす。
「じゃあ、頼むよ」
 ようやく二本の足で立った状態になると菅野は手を離し、女性は僕の手を取ってドアの方へと先導していった。ずっと寝転がせられていたので、いささかフラフラした。そして、どうやらこの女性に僕の排尿を手伝わせる気らしい。
「なにかあったら呼んで!」
 女性がドアを開けると、後ろから菅野の声が聞こえてきた。きっと僕に対する警告の意味も込めたのだろう。妙な真似はするなよ、と。
 よたよたと廊下を端まで進み、男性用のトイレの中に入った。名木田という女性も一緒についてきた。そして、小便用の便器の前まで来ると、名木田はしゃがみ込んで僕のジーンズのボタンを外してチャックを下ろし、そしてそこからおもむろに手を突っ込んだ。
「緊張しないでください。大丈夫です。馴れてますから」
 トランクスの下から僕のペニスを取り出すと、彼女は小さな声でそう言った。緊張というよりかは、恥辱感のようなもので僕の頭の中は占められていた。この女性の言っている馴れているというのは、自分ひとりでは排尿できなくなった老人の世話のことを言っているのだろう。僕は老人ではないし、手首の紐さえなければ、或いは後ろ手に回されていなければ充分一人で小便くらいできる。あんたがたが意図的にそういう状況に追い込んでいるのであって、決して親切を受けているのでも何でもないのだと大声で喚きたかった。だが、僕は黙って便器の前に立ち、彼女に取り出してもらったペニスから排尿した。終わって便器の前から離れると、彼女はペニスをトランクスの中に仕舞い込み、手際よくチャックを上げて真ん中のボタンを留めた。その間、女性の顔には何の感情も浮かんでいなかった。そういうトレーニングを受けているのだろうし、きっと僕を腰の立たなくなった老人と同じように見ているのだ。

 さきほどの部屋に戻ると、椅子が用意されていた。真ん中のさっきまで転がされていたあたりに向かい合わせに二脚。ウグイス色のパイプ椅子で、店の事務所で使っているものとおそらく同じものだった。
「ちょっと座りづらいかもしれませんが、ご勘弁を」
 そう言いつつ、菅野は僕の後ろからついてきていた女性と目配せを交わした。すると、名木田という女性はすぐに踵を返し、部屋から出て行った。
「そちらへどうぞ」
 菅野は先に左の椅子に腰を下ろし、僕に反対側の椅子を勧めた。そして、小脇に抱えていた新聞を膝の上に置き直す。
 後ろ手に縛られながら座るというのは、随分窮屈なものだった。上半身をかなり反らせた状態で、肩が両脇からぎゅっと押さえつけられたような感じになる。立っているか寝転がっているかしていた方がまだ楽そうだったが、菅野はそう思ってはいないようだった。
「人は人生の三分の一を眠って過ごし、その睡眠時間の三分の一は夢を見ています」
 低いよく通る声で、菅野は前置きも何もなしにそう話し始めた。
「夢の訓練法というものがあるということをご存知でしょうか?」
 僕はかぶりを振った。「いや、知らない」
 すると、菅野は口の端を曲げて小さく微笑んだ。
「ある事柄について意図的に夢を見ようとする行為は、夢見のための籠もり、ドリーム・インキュベーションと呼ばれていて、この行為によって夢でその答えをつかむ可能性を高めることができます。インキュベーションという言葉は、古代ギリシャのアスクレピオス神殿で行われた故事を踏まえています。この神殿で、病人は病を治す方法を教えてくれる夢のお告げを得ようとしていました」
 いったい何の話が始まったのだろう。古代ギリシャ?
「まず、問題の内容を簡潔に記したメモをベッドの脇に置いておいてください。それから何か書けるものと紙と懐中電灯もですね。そして、ベッドに入る前にその問題について二、三分おさらいします。ベッドに入ったら、その問題を明確なイメージとして視覚化するよう試みます。それから眠りに落ちる際、その問題に関する夢を見たいのだと自分に言い聞かせます」
 そこで、菅野は咳払いをして一呼吸置いた。
「目が覚めたらベッドからすぐには出ず、静かに横になっていてください。何か思い出せる夢がないかチェックし、できるだけ多くを思い出すよう努めます。そしてその内容を書き出してください」
 そして、菅野は僕の目を覗き込み、胸の前で両手を広げた。
「たったこれだけです。少し練習すれば小さな問題に関する夢を見て、しばしば解決策を得られるようになります。そして、大きな問題についても、様々な種類の謎が夢の中で解決され得ることが分かっています。なんと言っても、二つのノーベル賞が夢から生まれたことは周知の事実です」
 石沢の言っていた夢落ちのセミナーとは、おそらくこういうことを聞かされるものだろう。興味をそそられなくはないが、胡散臭いことこの上ない。
 顔に貼りついた作り物の笑みを浮かべながら、菅野は話を続ける。
「じゃあ、夢の中で自分が夢を見ているのだと自覚している、こういう経験はありませんか?」
 僕は曖昧に頷いた。
「ええ、そうですよね。だいたい十人中八人くらいはそういう自分で夢であると自覚しながら見る、いわゆる明晰夢の経験があると言われています。覚醒した眠り、とでも言いましょうか。そして、ご存知のように、一般に睡眠には二種類のタイプがあります。レム睡眠とノンレム睡眠です。レム睡眠とはラピッド・アイ・ムーヴメントという英語の頭文字を取ったもので、すなわち脳の活性化に伴う激しい眼球運動がある浅い眠りのことで、ノンレム睡眠とは脳も休んでいるいわゆる深い眠りのことです。人はレム睡眠時に夢を見ます。レムつまり、急速眼球運動が激しい時に人を起こすと、実に九五パーセントの人が夢を見ていたという報告があります」
 ここで菅野は、やや身を乗り出し顔の前で手を組み合わせた。



その8へ続く


2023年02月23日

長編小説2 夢落ち 6




 ヘリオガバルス(エラガバルス)
 マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥスは、ローマ帝国第二十三代皇帝で、セウェルス朝の第三代当主。ヘリオガバルス、またはエラガバルスという渾名・通称で呼ばれることが多く、これはオリエントにおけるヘーリオス信仰より派生した太陽神エル・ガバル(「山の神」の意)を信仰したことに由来する。

 ヘリオガバルスであって、ヘリオガバラスではない。だが、放縦と奢侈に興じ、きわめて退廃的な性生活に耽溺したこのローマ史上最悪の君主が、ディックの元ネタになっていることはおそらく間違いないだろう。何故ディックがわざわざそんな人物の名前を使ったのかは不明だが、刑事がラとルを言い間違えたのかもしれないし、佳奈子がこの人物の名前を意図して書き記した可能性もある。
 だが、とにかくこの人物の行状は、ここに書かれた記述を読む限り凄まじいものがあった。
 自制心をもって慎重に生きるようにと諭した家庭教師を不愉快に思って殺害し、取り巻きたちを要職につけ、男性の愛人の奴隷を共同皇帝にしようとし、別の愛人の戦車競技の選手を執事長に任命している。最初の妻パウラと離婚すると、巫女のアクウィリア・セウェラを手篭めにして再婚して半年後に離婚し、アンニア・ファウスティナの夫を処刑して彼女と三度目の結婚をする。だが、この結婚もうまくはいかず、ほどなく離婚し、結局アクウィリアとよりを戻して四度目の結婚をしている。だがその年の内にまたも離婚し、今度は小アジア出身のカリア人奴隷で男性のヒエロクレスの妻となることを宣言。「ローマ皇帝群像」によれば、さらに同じく男性の愛人の戦車選手ゾティクスと結婚したとも伝えられている。
 元老院議員として宮廷に出入りしていたカッシウス・ディオは、「皇帝は、いつしか男を漁るために酒場に入り浸る習慣を持つようになり、化粧と金髪の鬘をつけて売春に耽溺した」と記している。
「……遂に皇帝は権威ある宮殿までも自らの退廃の現場とした。宮殿の一室に売春用の場所を用意して、そこを訪れる客に男妾として体を売ったのだ。ヘリオガバルスは売春婦がそうするように裸で部屋の前に立ち、カーテンをつかんで客を待った。そして男が通りかかると哀れを誘うような柔らかい声で甘えるのだった」
 そして即位から五年後の二二二年三月十一日、近衛兵の反乱によってヘリオガバルスは母ソエミアスとともに捕らえられ、二人は揃って処刑され、遺体は激昂した市民たちによって切り刻まれたうえテヴェレ川に捨てられたという。
 トランスジェンダー。ヘリオガバルスは、太陽神信仰の一つであるエル・ガバルを奉じる神官でもあった。そして、エル・ガバルは両性具有の神性を有していた。彼は故郷のエメサから持ち込んだ巨大な黒い隕石を神具として崇拝させ、毎朝、牛や羊が生け贄として捧げられたという。
 呼び鈴が鳴り、僕は紙の束を置いて立ち上がった。机の上の置き時計を見ると、五時五十分を指していた。確かに約束は守られたようだった。
 玄関まで小走りで行き、靴を軽く履いた。そして、一度大きく深呼吸をしてから鍵を回し、ドアを開けた。
 そこには、見知らぬ女が立っていた。
「あ、あれ?」
 てっきり、れいだとばかり思い込んでいた僕は、拍子抜けしてそんな声を発した。
 細い両目の端が吊り上がった、いわゆる狐目の女。肌が白く、真っ直ぐな黒い髪が肩の上辺りまで伸びている。ぴったりとした皺一つない薄いグレーのパンツスーツに身を包み、いずれの手にも鞄や荷物といったものは見当たらない。
「きざき・まもる?」
 抑揚を欠いた声で、女は僕の名前を問い質した。
「……ええ」
 僕は小さく頷いた。
 何の前置きもなしに、女の右脚が勢いよく振り上げられ、その黒いパンプスのつま先が僕の股間に思い切り当たった。
「うっ……」
 その瞬間、激烈な痛みが走り、僕は股間を押さえて蹲った。
 顔を上げて女を見ると、目が合った。だが、そこには何の表情も浮かんではいなかった。そして、女の足が今度は頭を狙って飛んできた。
 僕はとっさに避けようとしたが間に合わず、左耳のあたりに痺れるような痛みが襲ってきた。そして、僕は眼前に硬いコンクリートの床が迫ってくるのを感じた。鼻の先が潰れたような気がしたが、覚えているのはそこまでだ。そこから先の記憶は閉ざされている。

             3

 僕が生涯で意識を失ったのはこれで三回目だった。初めは小学四年生の頃、休み時間中、階段を駆け上がってきた時に踊り場のところでふらふらした。気づくと仰向きに寝かされていて、先生やらクラスメイトたちが上から僕の顔を覗き込んでいた。
 二回目は大学を卒業した翌年。夜中にビールを飲みながらテレビで映画を観ていると尿意を感じ、トイレに行って用を足そうとした。眠りから目覚めるように意識を取り戻すと、僕は便器を抱え込むように倒れていて、その時ぶつけたのか上唇の真ん中のところが深く切れていた。
 理不尽な体験であることは間違いない。意志とは無関係に眠らされるのだから。死ぬ時もちょうどこんな感じなのだろうか。だが、どうだろう。もっと苦しむかもしれない。意識を失う時、いずれも倒れた瞬間のことは覚えていないのだ。よって、そこに苦痛はない。
 脳を機械に例えるならば、いきなりコンセントを引き抜かれるようなものだ。電気の供給が途絶え、画面が黒く閉ざされる。よって、そこには意志が介在する余裕も隙もない。巨大な隕石が超光速で飛来し、一瞬で地球を粉砕してしまうのならば同じような感覚かもしれない。何も考える間もなく、人類やその他の動植物も絶滅してしまうのだから。人にもよるだろうが、理想的な死に方と言えなくもない。後には、誰も何も残らない。
 狐目の女にはきっと、協力者や仲間がいたのだと思う。僕を油断させるために女一人で来て、完膚なきまでにやっつけたところで仲間を呼び寄せて僕を運ぶ。おそらく、そういう手筈になっていたのだろう。
 意識がゆっくりと浮上してくると、まず自分が不自然な体勢でどこか狭い場所に押し込められているのを感じた。腰の後ろで、両方の手首が太い荒縄のようなものできつく縛り上げられている。脚は小学生の体育座りのように膝を折り曲げられ、手首と同じく足首もくるぶしのあたりでしっかりと結わえ付けられている。
 目と口も布のようなもので覆われ、後頭部でこれ以上ないくらいに頑丈に縛り付けてある。口の中には唾液でぐちょぐちょになったハンカチか布のようなものが入れられていて、猿轡をかまされているのとちょうど同じ状態だった。
 僕がいるこの空間は小刻みに振動していて、時折、停まったり進んだりしているようだった。つまり、車のトランクルームに押し込められているということが分かる。そして、僕の身柄をどこかへ移送している。
 殺されるのかもしれない、と咄嗟に思った。ああ、きっとこのようにして人は殺され、死んでいくのだ、と。すると、恐怖がどっと一気に押し寄せてきた。頭の芯のようなところがつめたく冷え、全身が痺れて瞬間手足の感覚がなくなる。
 確か僕はれいと会って話をする約束をしていて、自宅で彼女が来るのを待っていたはずだった。それで、舞い上がって油断していて、玄関のドアについている魚眼レンズを覗きもせず、不用意にドアを開けた。そして、狐目の女にあっという間に伸されてしまったのだ。きっとあの女は軍だか警察だか、そういう組織でみっちりと訓練された人間なのだと思う。動きに一切無駄も躊躇いもなく、急所を的確に狙ってきていた。石沢ももしかすると、同じようにどこかでこいつらに急襲され、姿を消したのではないだろうか。そして、今頃殺されるか、ひどい状態で監禁されている。
 だが、何故なんだろう。僕を拉致したり殺したりすることに、いったい何の意味がある?  
 石沢は仕事柄大きなお金を動かしたりしているから、恨みを買ったりすることもあるかもしれない。人の人生を変えるような額のお金を扱っていれば、そういうことがあってもおかしくはないだろう。どこかで知らないうちに虎の尾を踏み、いつのまにか復讐の標的となっている。
 だが、僕はそんなことはないはずだった。しがないサラリーマン本屋だ。一冊何百円か千円ちょっとの本を多くの人に売り、その僅かな利幅でアルバイトさんたちや自分たちの給料をむりやり捻出している。さらに光熱費や備品代もバカにはならないから、すべて差っ引くと儲けはほぼゼロかマイナスだ。そんな商売をしている人間に、いったい何を求めるというのだ。殺したところで会社と店がいくらか困るくらいで、何の意味もないだろう。
 石沢はそれに、佳奈子が殺された日の晩、同じホテル内で防犯カメラに映り込んでいる。刑事たちに気取られないように一瞬しか見なかったが、どう見ても石沢本人に間違いなかった。ある種濃いめの特徴的な顔立ちをしているからすぐ分かる。れいの言っていた石沢が失踪した日からだいぶ経っているはずだから、殺されたり監禁されたりしているのだという主張は辻褄が合わない。
 れいはいったい今頃どうしているのだろうか。
 まず初めに考えられる可能性が、僕の自宅へは来て、開け放しになっている玄関から不在を見て取り、電話で連絡を試みる。だが、携帯は部屋のどこかに置いてあったから、そこでむなしく呼出音が鳴っているのが聞こえるだけ。コンビニか近所のスーパーにちょっと買い物に行っているだけかもしれないと考え、部屋の前だか中だかでしばらく待ってみるが僕は一向に帰ってこない。そして、警察に通報するかどうか迷う。
 また他の筋書きも考えられる。僕の部屋の呼び鈴を鳴らしたところで、中からは僕ではない人物が顔を出す。そして彼女も僕と同じように縛り上げられ、目隠しをされてどこかへ連れて行かれる。
 そして、最後に頭に思い浮かんだのは、彼女が僕の自宅には来ていないというストーリーだった。そもそも向かってもいなくて、電話で狐目の女らに僕の自宅の住所を教え、急襲させた。石沢の失踪も実は狂言で、れいが殺してどこかの山中へ埋めるか海へ流すかしている。すると、この車に乗っている奴らは、れいが金で雇った殺し屋だかそういう商売の人間たちということになる。石沢の稼ぎも相当なものだろうし、彼女も開業医なのだから金に困ってはいないだろう。
 この偶然にしては出来すぎているタイミングといい、一番最後のストーリーが最もしっくりくるものではあったが、僕はそんなことを信じたくはなかった。頭を振って邪念だと振り払い、考えないようにした。喫茶店で向かい合っていた時のれいの顔を思い起こし、あの人にそんな疑いをかけることなど、邪念がもたらすよこしまな考えだと払拭しようとした。とにかく、彼女はそういうことをするような人じゃない、と。もちろん論理的な根拠はなく、まったくの直感、感覚的なものに過ぎない。だが、僕はそう信じたかった。
 蒸し暑さと不自然な体勢からくる身体の節々の痛みに耐えつつ、二時間あまりが経過した。無論、時計を見られるわけじゃないからあくまで憶測だ。長く感じただけで実は二十分だったかもしれないし、ところどころ意識が飛んでもいたから三時間以上経過していたとしてもおかしくはない。とにかく、ある時点でエンジン音と振動が止まり、車は動かなくなった。
 ザッザッザッという土を踏む足音が聞こえ、続いてトランクルームの蓋が開く音がした。目隠しの布越しに、微かに視界が明るくなるのを感じる。
「先生は?」
 女の声。
「いや、知らない」
 男の声。
「うわっ、けっこう汗かいてるな」
 同じ男の声。
「しょうがないでしょ。とにかく広間に運んどきゃいいのよ」
 女の声にはどことは知れないが、僅かに訛りが聞き取れる。
 男は舌打ちをして、鼻から溜め息を吐いた。
 縄で縛られた足首が力強く摑まれる。そして、上半身の方は脇の下から両腕が差し込まれ、僕の頭を分厚い胸板で押すようにしてぐっと上空に引き上げられた。
「そっちだ。そっち!」
 頭の方から男が怒鳴る。女は僕の膝から太腿あたりに手を移動させ、身体を何とかトランクから引き摺り出した。女の荒い息遣いがずっと聞こえている。
「せーの!」
 男が掛け声を発し、そのタイミングで僕の身体は空中に浮いた。そして、ゆっくりとした着実な足取りで頭の方へ向かって移動を始めた。細かい霧のような雨が顔に当たっていた。いくらか風も出てきているようだ。
 広間へ向かうと言っていたから、このまま海か湖に投げ込まれたり崖から放り落とされたりすることはなさそうだった。おそらく、殺す意図はない。だが、そう考えるのはまだ早いかもしれない。女はたしか「先生」と言っていた。つまり、その先生とやらの考え次第で、僕の身はどうなるとも知れないのだ。
 そんなに長い距離ではなかったと思う。肌に感じていた屋外の雨と風が途中でなくなり、どこか建物の中に入ってすぐにエレベーターに乗ったようだった。チンという懐かしい音がして下半身が一時床に投げ出され、上昇するときのあの感じがして、またチンと扉が鳴った。おそらく三階か四階。再び膝を抱え上げられ、廊下のようなところをしばらくまっすぐ進む。
「ふぅ……。おっもい…!」
 やがて半ば放り出されるようにして僕の身体から彼らの手が離れ、リノリウムのような冷たい感触の床の上に横向きに転がされた。
「ちょっと! 誰かついてなくていいの?」
「いい、いい。大丈夫だろ」
 男のほうはどうやらこういうことには慣れているようで、女のほうはそうではないようだった。
 二人の足音が遠ざかっていき、そして、ドアを閉めるバタンといういやに大きな音が聞こえた。
 静寂が訪れる。だが、よく耳を澄ますと、エアコンがたてる微かなモーター音が聞こえてきた。そして熱の籠もった身体に、人工的な冷たい空気の流れを感じる。
 視界を奪われ、手足の自由をなくすと、人はずいぶん感覚が鋭敏になるものだなと思った。状況判断の拠りどころとなるものがそれしかないために、アンテナを広げ、できるだけ多くの情報を集めようと脳が躍起になるのだろう。生き残るための本能のスイッチが入り、どうすれば生き延びることができるのか、その手掛かりを必死になって掻き集めているのだ。──暗い場所ではない。おそらく天井には蛍光灯のようなものが点いていて、それにある程度の広さがある。あくまで感覚でしかないが、自分の周りの空間がひどく開けているような感じがする。匂いは特にはしない。
 そこまで考えた時、床が揺れ始めた。ズズズっという重低音がはじめに聞こえ、初めは小さくゆっくりと、そして次第にだんだん強く大きくなってきた。
「……地震」
 近くで若い女の声が聞こえた。どうやらそこにしばらく立っていたようだった。
 地震は程なく過ぎ去り、また元通りの静寂に戻った。震度三か四といったところだろうか。
「ねぇ、……そこにいるんだろ」
 僕は声の聞こえてきた、右斜め上あたりに向かって呼びかけた。口の中には布状のものが詰め込まれていたから、実際にはそういう風に聞こえるよう唸った。
「静かにして。あいつらにバレちゃう」
 あいつら。僕を縛ってここに連れてきた奴らのことだろうか。
「……助けてくれ。頼む」
 声を低め、僕は女に懇願した。あるいはそんな感じで唸った。すると、女がこちらに近づいてくる引き摺るような足音が聞こえてきた。



7へ続く


2023年02月09日

長篇小説3 エクスフロート2



 伊理香は先生から聞いたその本の内容を龍人に語った。
 まずこれは絶対に最後まで読むことができない本だ、と。            
 読んでいるうちに意識と記憶をなくしてしまう。だから読む場所には気をつけた方がいい。わたしなんぞはうっかり夜、行きつけにしている飲み屋の席で開いてしまったもんだからいけない。ひどい目に遭ったよ。気がついたら路地裏のゴミ置き場で、寝っ転がってたんだ。もう朝になってたよ。寒さで歯がガチガチ震えてて、風邪をひいちまったみたいで三日ばかし寝込んだよ。                       
 内容のことなんか、もちろん覚えちゃいない。どんな出だしだったかも思い出せない。でも、読み始めたら止まらなくなったようなそんな感じでね。あとでその飲み屋に行った時に親父さんに聞いてみたら、取り憑かれたように読んでたらしいよ。酒をちびちびやりながら、ずっと何時間も読み続けてたみたいなんだ。
 閉店時間になって声をかけても返事がなかったから、肩に手をかけたらしいんだ。そしたらごろんと椅子から床に転げ落ちて動かなくなった。親父さんはびっくりして救急車を呼ぼうとしたみたいなんだが、おかみさんの方が気づいて、息もしてるし顔色も悪くない、こりゃ寝てるだけだよってことになった。その後のことは詳しくは教えてくれなかったけど、まあゴミと一緒に外に出したんだろうね。
 あんたは見た感じ、えらく苦労してるみたいだな。でもちっとも生活は良くならない。貧乏からは抜け出せないってところだろ。幸いわたしはもうそういう苦労はしなくなったんだ。この本のおかげだよ。
 なぜかって?
 この本を読んだからだよ。頭がよくなるんだ。ずっとずっとよくなる。
そこらへんの奴らがみんな阿呆か馬鹿にしか見えなくなる。止まって見えるってやつだよ。考えの足らない猿かゴリラかチンパンジーか、まあそんなところだろうね。人との知恵比べじゃ話にならんだろう。騙すのも出し抜くのも訳はない。
 どうだい。読む気になったか?
 もうわたしにはいらないものだから、あんたにやるよ。
え? いやいや、これ以上読む気にはなれないね。これくらいで充分。充分過ぎるくらいだ。これ以上頭が良くなっちまったら、きっと正気ではいられないね。この日本っていう狭っ苦しい国や、国同士がいがみ合って殺し合いをしているこの世界にはいられない。馬鹿が過ぎるとでも言うのかな。今でもそうなんだが。
そうやって、先生は男から本を受け取ったそうです。
 先生は夢の中で再びその男に会われたそうです。でも男の手に本はなく、ひどく落ちぶれた格好をしていたと仰られていました。                   
 男は先生を見つけると駆け寄ってきて、本を返せと言ってくるそうです。先生はその本をいつも肌身離さず持っているそうなのですが、夢の中ではいくら探してもどうしても見つからない。そこで毎回目を覚まされるそうです。
 伊理香は眼鏡のブリッジに手をかけ、そっと位置を直した。
 佐藤さんにお願いしたいのは、その男と本を探し出すこととです。
「本はないんですか?」
 ええ、と伊理香は頷いた。
「半年くらい前になくなったと先生は仰られていました。そこからだんだんとお加減が悪くなっていって床に臥され、いま死を迎えられようとしています」
 伊理香はそこで一呼吸置き、一度伏せた後、龍人の目を直視した。
「あいつが盗んだ、と仰られていました」
「もともとその男のものじゃなかったんですか?」
「もらったものはもらったものです。先生はその本の所有者です」         
 黒いストッキングに包まれた脚を組み替え、伊理香は〝他に質問は?〟といった顔をした。
「どんな男ですか? もう少し情報がほしいですね」
 すると伊理香は、手のひらを上に広げ肩をすくめた。
「ご自分でお調べになることですね。それがあなたの仕事でしょ」
 龍人は立ち上がり、期日をきいた。
「先生が亡くられるまで。明日かもしれないし、一年後かもしれない。でも、もうそんなに遠くはないでしょうね」
 傍らのベッドには骨と皮だけのチューブにつながれた老人が横たわっていた。もう死んでいるようだったが、よくよく見るとわずかに胸のあたりが上下に動いていた。
「調べるのに金がかかる」
「おいくらくらい?」
「とりあえず百万。長引けばもっと」
「それくらいご自分で用立ててください。お金は成功報酬でお支払いします」    
「いくらくらい?」
 伊理香はその金額を口にした。
「男の生死は問いません。とにかくその本を手に入れてください」
 龍人はニヤッと笑った。そして顎に手を当てて小さく頷いた後、病室を後にした。
 廊下にはよく見ると、スーツ姿の男が何人か立っていた。彼らは龍人と目が合いそうになると、視線を逸らした。重装備をした一個師団でも送り込まれない限り、ここは大丈夫そうだった。


2023年12月09日

長篇小説3 エクスフロート 1

[1,500文字]

 龍人はお腹が痛いという沙希を置いて一人家を出た。駅までの道を歩き、ロータリーでバスに乗り、指定された市民医療センターで降りる。
 七階の七〇九号室がその男がいるという病室で、龍人は受付で面会の手続きを済ませ、外来の廊下の突き当りのエレベーターから七階に上がった。
 エレベーターの扉が開いた正面にフロアの見取り図があり、七〇九号室は中央部にあるナースステーションのすぐ隣だった。
 病室の前に着くと、龍人は二回ドアをノックした。
 返事はなく、中からは物音ひとつしない。
 龍人はもう一度、今度はもっと強くドアを叩いた。
 十秒ほど待ってみたが、やはり結果は同じだった。
 諦めて立ち去ろうとしたその時、ガチャッとドアが内側から開き、秘書の松田伊理香が顔を覗かせた。
「佐藤さん、お待ちしておりました」
 高く澄んだ声は病院の廊下によく響いた。
 龍人は軽く頭を下げ、伊理香の眼鏡越しに目が合った。
「容体はどうなの?」
 伊理香は何も答えず、視線を逸らした。
 中に入ると、ベッドには死にかけの男が布団に包まっていた。頬がこけ、脂の抜け切ったシミだらけの皮膚が骨のまわりに張りつき、ホコリのような白髪が数本頭にしがみついている。
 これは時間の問題だな、と龍人は覚悟した。
 この男は死につつある。いまこうしている間にも。生と死の境を彷徨っていて、いまは体の半分以上が向こう側にいる。
 眼は閉じられ、鼻から微かな寝息がもれている。少なくとも死んではいない。この男には生きていてもらわないと困る。非常に面倒なことになる。
 龍人は伊理香に、絶対にここを離れてはいけないと言い含めた。誰が殺しに来るか分かったものではない。この病院のセキュリティはお世辞にも万全とは言い難い。
 侵入者がこの病室に辿り着いた時点で、男の命運は決している。
 いまはただ彼らが、この男がここにいることを知らない、という事実だけで守られているようなものだった。だがそれもいつかは崩れる。隠していることはすべて明るみになる。聖書にも書いてある通りだった。
 そして伊理香は龍人に妙な話をした。
「十日前に目を覚まされたとき、先生はわたしにこう仰られました」
 龍人は近くにあったパイプ椅子を二つ引き寄せ、二人はそこに斜めに向かい合うように腰を下ろした。
「へぇ、どんな?」
 恐ろしく美しい女だった。近くに寄ると柑橘系の色気を蒸したような香水の匂いが鼻を突き、まず感覚器官がやられる。
 鼻筋の通った小鹿のような顔の下は、身体のラインがくっきりと見えるベージュ色のニットに太腿を半分以上露出した黒のタイトスカート。そこから伸びるどこまでも白く長い脚はいま龍人の目の前で剥き出しに組まれている。
「絶対に最後まで見られない夢があるそうです」
 夢の話か。龍人は興味を削がれ、口の中であくびを嚙み殺した。
「先生が以前に行商をされていたことがあるのはご存じですか?」
 鈴木善市は立志伝中の人物で、その話は有名だった。
「ああ、電車で魚と盗んだ野菜を売って回ったって話だろ」
 伊理香は小さく頷き、眼鏡のブリッジを持ち上げて位置を直した。
「車掌や憲兵に見つからないかいつもびくびくしていた、と。見つかれば売り物をすべて没収されたうえで、牢屋に何日もぶち込まれるそうです」
 龍人も足を組み、身体の前で腕組みをした。
「当時の牢屋は土と漆喰と鉄格子でできていて、狭くて寒く、あんなところに何日もいるくらいなら死んだ方がマシだったと先生はよく口にされていました」
 何度逮捕されたか数えてはいないが、百は優に超えると聞いたことがある。
「その行商中にある男に会って、一冊の本を渡されたそうです」


2023年11月12日

短編文画5 偽善だよ!!



「あー、いいよ。大丈夫。気にしないで」
 わたしはジュースをこぼしてしまった愛理にそう言って、テーブルにあったティッシュを五枚くらい引き抜き、彼女がこぼしたジュースを拭き取った。
「ごめんなさい」
 愛理はゲーム機から目を離さず、機械的にそう言った。
「ごめんなさいじゃなくて、ありがとうでしょ」
「あ、そっか。ありがと。パピー」
 ここではわたしはパピーと呼ばれている。というより呼んでもらうことにしている。みんなのお父さん的存在だからだ。
 流しでジュースを吸ったティッシュを絞り、三角コーナーに放り込むと、わたしは冷蔵庫からペットル(サンキスト100%オレンジ)を持って愛理のところに行き、こぼして減ってしまった分をきっちり注ぎ足した。

 

 愛理はゲームに夢中になっていて気づかない。
 まったくもうしょうがないなあ。

 ここでは、子どもたち(原則として二十歳以下)が日中自由に過ごせる空間を提供している。三年前に死んだ親父が遺してくれた二階建て九十平米くらいの家で、築三十年は経っているがなかなか居心地、住み心地は悪くない。平日の午前十時から夜の六時まで開けていて、お昼はお弁当を持ってくるか近所の弁当屋に注文することになっている。
 もちろん、その時間帯は本来子どもたちは学校に行っている時間なので、ここに来ている子たちは不登校の子たちということになる。下は小学校低学年から上は十九歳まで十数人の子たちがここに通っている。利用料は保護者からもらっていて、月に二千円+おやつジュース代五百円+光熱費五百円で三千円が最低料金。そこに弁当代と延長料金がかかってくる。弁当代は注文分で立て替えている分を実費でそのまま乗っけていて、延長料金は朝十時前に来るか、夜六時以降まで残っていた場合に十分二百円でもらっている。前業や残業はなるべくしたくないので多少高めに設定してある。

 

 わたし一人でやっていて、人件費も家賃もかからないから、それで十分だ。勉強部屋が二階の北側にあって、机が四台置いてあるから、そこで自由に勉強もできるし、分からなければ私に訊けば教える。学歴だけは無駄に高いから勉強に関しては、たいていのことには答えられる。
 下のリビングには真ん中にコタツが置いてあって、たいていテレビで誰かがゲームをしている。それを見るとはなしに四、五人の子たちがコタツや一続きになったダイニングのテーブルのところから見ていて、お菓子やジュースを口にしながらだらだら喋っている。
 南西側の六畳の部屋は図書室。わたしがこれまでの人生で買い溜めてきた本や漫画二千冊くらいが収納されていて、ローテーブルのまわりに座椅子が三つ置いてあるからそこで自由にいくらでも読んでていいことにしている。
 南東側の六畳半の部屋はベッドルーム。シングルベッドが二つ置いてあって、具合の悪くなった子や前日に夜更かしをしてしまって寝足りない子なんかが寝られるようにしている。
 トイレは一、二階に一つずつあって、下のリビングダイニングの北側に洗面所とお風呂があって、ここも自由に使っていいことにしている。というより、全体として特になんのしばりも制限も設けていない。全部自由だ。どこで何をしててもいい。すべて個人の意志に任せてある。
「ただし、ここは『子どもの家』である前に日本の国内なので、日本の憲法や法律は適用されます。法を犯すような行為があった場合は躊躇なく警察に通報します。子どもだからゆるされるということは一切ありません。監督責任うんぬんというようなことをおっしゃられる方は、基本的にお断りしています」
 わたしが入会時の親子面談で必ず伝えることだ。そこを飲み込んでおいてもらわないと、あとあと困ることになる。その子が他の子に暴力を振るったり、怪我をさせた場合だ。監督責任とかそういうことを言われると、子どもたちの行動をかなりしっかりと縛らなければいけなくなり、肝心かなめの〝自由〟がなくなってしまう。

         *

「パピー、ちょっといいかな」
「へい」
 まみがいつもの調子でわたしを呼び、いそいそとわたしは彼女のもとへと駆けつけた。
「今日マルホ」
 小声で囁くようにそう言い、わたしは、よっしゃ! と心の中でガッツポーズをした。
「おっけ。あけとく」
 

 

 神田まみは十八歳の元女子高生で、十六歳だった高校一年生の時に部活動内のいじめから不登校になり、半年ほど家に引きこもった後に「子どもの家」に来た。スマホでいつもゲームをやっている。定位置はダイニングテーブルの右奥の席で、メタ系ゲームアプリのプレイ時間が千時間を超えたと前に自慢していた。
 マルホというのは最後まで残って寝室で過ごすということの隠語で、言ってしまえばホテル代わりにここを利用するという意味だ。まみはもう十八歳で、このあいだ法律が変わって十八歳から成人になったから、もう問題はない。児童福祉法で守られる未成年にはあたらないし、条例にもひっかからない。
 なぜわたしが心の中でガッツポーズをしたかというと、率直にまみに好意を抱いているからだ。娘のような存在と口で言うのは簡単だが、実際の娘ではないし、若い女と中年の男という組み合わせで好意や性欲を抱かないわけはない。それは現実ではない。
 もちろん、まみの心に寄り添いたいという気持ちもある。それがだいたい五割だ。それからさっき言った好意が三割、性欲が二割といった配分になっている。石田オライザ似の可愛くてスタイルもいい子で、女子たちには嫌われるだろうといった感じがする。オナニーではよくお世話になっている。別に妄想の中で多少荒っぽく犯しているだけで、現実ではないから全然構わないだろう。ラストは中出しして、最後の一滴まで奥の奥で出し切る。まみはM字型に股を広げて太腿を抱え、獣のように喘ぎながらわたしの精子を残らず性器の底で受け止める。
 
 その日は皆の降室が遅く、最後の子にいたっては七時を回っていた。玄関のところに時計と書き込み式のカレンダーが置いてあって、六時を過ぎて帰った子はそこに名前と降室時間を書いてもらうことになっている。そして月締めの請求のときに、その延長分を請求に乗っけている。
 五年生の山下龍人くんという子がゲームをやめず、ずっとぶつぶつ言いながらコントローラーを動かしていた。
「ちょっともう切りのいいところでやめてくんないかな?」
「あ、はーい」
と返事だけして、続けている。
「きりのいいところまで来ない?」

 

 画面をのぞき込むと、一人称視点の幾何学的なウネウネが棚のようなところを昇り降りしている。
「あー、はい」
 やめる気はないようだった。
 わたしはテレビのリモコンを取って、電源ボタンを押した。
「ちょっと! 何してんだよ!」
 振り向いた龍人の顔を、無表情に見返す。
「……帰ってくんないかな」
 龍人は眉間に皴を寄せ、怒りをあらわにしている。
「途中だっただろ! 最後までやらせろよ!」
 まだあきらめていないということか。
「帰れっつってんだよ。……分かるよな?」
 低いドスのきいた声でそう言うと、龍人の目が泳いだ。
「これ以上言わせんな」
 くそガキが、と心の中で付け足した。
 龍人が帰ると玄関の外の電気を消し、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
 ダイニングテーブルの一番手前側の席に座り、ポケットからスマホを取り出す。
──ガキども帰った。いつでもOK。早い方がいいけど。
 まみにそうラインを送る。五時過ぎに帰ったことになっていて、マンガ喫茶とかで時間を潰すと言っていた。
 すぐに既読がつき、返事がかえってくる。
──おっそ。もう七時半じゃん。
──すまん。龍人がマイクラずっとしてたから。
──ウザ。死ねや。
──マヂで。それな。
 近くにいたようで、そのラインのやりとりから十分もしないうちにインターホンが鳴り、わたしはまみを中に招き入れた。
 まみはセブンイレブンの大きな袋を持っていて、その中には酒と柿ピーやスナック菓子とジャイアントコーンなどのアイス類が大量に入っていた。
「げ、つーかもう飲んでんの?」
「ああ、ちょっとアイツにムカついてたし待てなくて」
 まみは氷結のロング缶を開けてごくごく飲むと、ポテトチップスの袋をパーティー開けした。
「あー、うま。マヂで。」

 

 お酒は二十歳になってからというのは建前に過ぎず、大学生なんかも堂々と飲んでいるのだからまったく問題はない。実際の解禁年齢は日本の場合、十八歳だ。
 その時まみのスマホが鳴り、「ゲッ、親だ」と言いながら電話に出た。
「あー、ていうか、言ったじゃん。『子どもの家』で勉強してる。数学で分かんないとこあるから先生に教えてもらってるとこ。……え、ちがうって! ほんとだって。なんで信じないの! ……は? アホじゃね。……じゃあ先生に替わるね!」
 スマホを差し出されると、わたしは頭を軽く振って電話に出た。
「あ、いつもお世話になっております。……はい。…ええ。……そうなんですよ。いまちょうど微分の問題を解いてるとこでして、微分方程式っていうのがボトルネックになっているようなので、それをホワイトボードに書いて図解してというような感じで。…ええ、大丈夫だと思います。だいたい吞みこめたようなので。……はい。すみません。なるべく遅くならないようにして、……ええ。もちろんご自宅までお送りいたしますので。…はい、承知いたしました。……はい、失礼いたします」
 九官鳥のような甲高い声のよく喋る女だった。頭に響く。
 ポテチをつまみ、ビールで喉に流し込んだ。
「つーかパピー上手いよねー。あいつマヂで数学の勉強してると思ってるっしょ。ウケんだけど!」
 手を叩き、まみはきゃっきゃと笑う。マイクロミニのスカートのすそがめくれ上がり、隙間から水色のパンツがちらっと見えた。しっかりと目の奥に焼きつけ、後々オナニーで使えるようにした。
「アイスしまっとくね。溶けちゃうから」
 席を立ち、セブンイレブンの袋からスーパーカップとジャイアントコーンとモナ王を出して台所の冷凍庫に仕舞った。
「うちら用に買ってきたんだけど、ガキども勝手に食べそうじゃね?」
 たしかに置いておけばそうなるだろう。冷蔵庫は共用にしていて、あるものは勝手に飲み食いしていいことになっている。
「名前でも書いとけば。まみちゃんのだって分かれば、誰も食べないよ」
「あー、じゃあ書いといてー」
 わたしはリビングに戻り、ペン立てにあったマッキーを取って冷蔵庫の中のアイスにまみと名前を書いた。
「書いといたよ」
「分かったー。じゃあ、それパピーも食べていいよ。二人の分で」
 まみが来ていない日に食べないようにしなければならない。減っていたら誰かが気づく。それで誰が食べたんだというちょっとした騒ぎになる。立場的に自首するわけにもいかない。

 

 わたしとまみは酒の缶を持ったまま、二階のベッドルームへ移動した。そこできっちりやることをやり、わたしは最後はゴムの中に射精した。オナニーの妄想の中ではおもいきり中出しを決めているのだが、さすがに現実ではゴムをつけざるを得ない。妊娠が怖いからだ。そんなことが起きてしまえばまみは産みたいと言い出すだろうし、そうなるとここの秩序も理念も運営もなにもかもが崩壊する。
「ねえ、好きだよ」
「ああ、俺も」と、わたしは間を置かず返事をする。
「結婚できる年齢が十六歳から十八歳になったんだよ」
「うん、知ってる。ニュースでやってたよね」
「わたし十八。先生は?」
「四十三」
「結婚できる年だよね?」
 わたしはベッドの下に落ちていた下着を履き、靴下を履いた。
「まあ、でも僕は結婚してるからできない。重婚っていう罪に問われて捕まっちゃう」
 一つ歳下の妻と八歳になる娘が近くのマンションに住んでいる。そのマンションは義父の持ち物件で、ただで我々に貸してくれていて、わたしのやっている事業にも深く感銘を受け、少なくはない額の生活援助金まで出してくれている。
「知ってるよ、そんなこと。だから離婚してわたしと結婚しようよって言ってんの!」
 さすがは十八歳。遠慮も躊躇も恥じらいも何もあったもんじゃない。
「いや、子どももいるから」
「だから、知ってるって! その娘さんだったっけ? その子とは奥さんと離婚した後も仲良くしてりゃいいじゃん。別に親子の縁が切れるわけじゃないんだし」
「そういう問題じゃないんだよ」
 ゆっくりとした低い声でそう言うと、まみはまともにわたしの顔を睨みつけた。
「……へぇ、そうなんだ。大人の事情ってやつ? ああ、じゃあそれならさ、バラすよ」
「え?」
 文字通り、頭から一気に血の気が引いた。
「ここの子たち全員にわたしたちの関係バラしちゃうけどいい?」
「もうとっくにバレてるよ」
 それは嘘だった。でも、勘のいい子には気づかれているかもしれない。子どもはそういうものにはひどく敏感だ。隠し切れるものではない。
「みせつけてやる。パピーがわたしのものだってことを」

 

 そう言って軽く笑い、M字型に股を広げて両手で太ももを抱えた。
「ここにパピーは夢中で、いつもヤリまくってんだって」
 事実だったが、そんなもの無視すればいい。まみが勝手に言っていると狂人かストーカー扱いして、ここを去ってもらうしかない。
「だから離婚してよ。そしたら中出しさせてあげるよ。おもいっきり中で出しちゃっていいから」
 わたしの下半身がびくんと反応し、萎えていた性器がむくむくと充血していく。
「分かった。奥さんとは離婚する」
 靴下と下着を脱ぎ、まみを押し倒して第二回戦が始まった。
「ちょうだい。中に! 中に!」
 イキそうになるとまみはそう叫んだ。
「妊娠させて! パピーの子を妊娠させてー!」
 セックスの本来の目的は子種を宿すことなのだから、まみの求めていることは間違ってはいない。しかし、わたしは四十半ばなので、そんなことを言われて冷静にならないわけがない。
「あっ、イクッ!!」
 ペニスを引き抜き、陰毛とヘソの間らへんに精液を放った。
 そのまま抱きついて下腹部とペニスを擦りつけ、最後まで出し切るようにした。これはこれで素股のような感じで悪くない。
「ちょっと何抜いてんだよ!」
「え、だって妊娠させたくないから」
 偽らざる率直な答えだった。
「離婚すんじゃねえのかよ!」
「え? そんなこと言ったっけ」
 言ったことは覚えているが、あれは性欲に負けて口から出任せにしたものだから、関係ない。
「まぢふざけんなよ。これ録ってるし、SNSで拡散してやるからな」
 こいつのやりそうなことだった。
 わたしは部屋の中を見渡し、まみのスマホを探したが見当たらなかった。
「つーか、私だけじゃないんじゃ……」
「へえ、よく分かってんじゃん」
 過去には他にも何人か関係を持った子はいた。人間の本能なのだから仕方がないし、すべて向こうから求められてしたことだ。おまけに児童福祉法の適用年齢が十八歳未満だから、十八の誕生日になるのを待ってしている。倫理的にも法律的にも何の問題もない。
「いや、そんなことどうでもいいから、スマホどこ?」
 ベッドから出て、部屋の中を探し回った。見つけて物理的に破壊しないと、本当に拡散されてしまう。
「離婚したら教えてあげる」
 起き上がってティッシュでわたしの精液を拭い、まみはその匂いを嗅いでいる。
「しねえよ! するわけねえだろ。くそガキが」

 

 棚の奥や、天井の隅、ベッドサイドやベッドの下まで這いつくばって探してみたが見つからない。
「どこかな? 見つかるかな? さあ、脇田淳。運命の分かれ道です!」
 まみはそう煽り、手を叩いてケラケラ笑った。
 わたしは込み上げてきた怒りを抑えることができず、まみをベッドに押し倒し、馬乗りになって上から思い切り睨みつけた後に頭突きを喰らわせた。
「痛い痛い痛い!! 頭割れたよ! 虐待! 虐待!」
 大袈裟にまみはそう喚き、ぎゃあぎゃあ泣き始めた。
「うっせぇよ! うっせえんだよ!!」
 ベッド脇に落ちていたま水色のブラジャーとパンツをつかみ、まみの口の中に押し込む。これで喚き声を聞かずに済む。
 そして、わたしはまみの細い首に両手を絡ませた。
「まみちゃん、これバラしたらどうなるか分かるよね?」
 低い声でそうささやくと、まみは必死になって首を縦に振った。
「スマホっていうかカメラどこにあるか言いなよ。言わないと、死ぬよ」
 すると、まみは必死になって部屋のドアらへんを指差した。どこか分からなかったから、首を持ったまま、まみの身体ごとそっちへ引っ張っていった。
 ドアの横に書類やもう聴かなくなった昔のCDケースなどが雑然と詰め込んである棚があって、まみの右手の人差し指はそこを指している。
「どこだよ! はやく!!」
 首を握った手に力を込めると、彼女の顔が赤くなった。そしてまみは腕をピンと伸ばし、プリンターの六色入りインクパックに指の先を当てた。
 首から手を離してインクパックを持ってみると、それは必要以上に重く、よく見ると開けられた形跡があった。
 中身を開いて見てみると、黒い見慣れないスマホが入っていた。画面には赤いランプと一時間三十六分五十秒という数字が表示され、その数字はいまも増え続けている。
 録音か。録画じゃなくてよかった。
 そう思ってわたしは少しホッとした。だが、やることに変わりはない。

 

 スマホを床に置き、かかとを中心に力を込めて思い切り踏み潰した。ぐしゃっという音がして液晶の画面が割れ、それだけでは足りないので、何度も何度も力をこめて踏みつけ、スマホが二つに割れて中の基板や緑色の線が出てくるまで破壊した。
「あーあ」
 と、まみが後ろで言うのが聞こえた。
「つーか、それ誰のスマホか知ってる? 弁償じゃね?」
 完全に舐めた口調だった。
「……誰のだよ」
「龍人の。愛理と通話になってて、ハンズフリーでみんなでセブンの駐車場で聞くって」
「…みんなって?」
「愛理もまさるも伶菜もあかりもたけるも由奈ももーりーも。パピーがそんなことするわけないだろって言われた能天気なガキどもだって」
 ここのレギュラーメンバーほぼ全員じゃないか。
「これ龍人の考えたことだからね。わたしじゃない。っていうか、向こうで録音してるだろうから、ちゃんと離婚してね。しなかったら、奥さんと子供にバラすよ」
 今はそれどころじゃない。
 首絞めが気持ちよかったから今度は絞められながらヤりたいというまみを宥めすかせて何とかして帰らせ、わたしはリビングの床に大の字に寝転んだ。

 

 ああ、終わったなぁ。
 需要はあって、それに応えてたはずなんだけどなぁ。
 ちょっと応えすぎちゃったかなぁ。

 こういう時大人はお酒を飲む。
 冷蔵庫の中にあった缶ビールと流しの下にあったウィスキーを全部飲み、意識が混濁して何も分からなくなってくるとわたしは眠った。
 翌日起きると、もう夕方だったが子どもたちは誰も来ていなかった。
 


[了]

2022年12月18日

短編文画4 三大ハラスメント完全制覇(R18)



       1

 おっかしいなぁ。そんなはずないんだけどな。どうしてこうなっちゃうんだろ。いつもはうまくいくんだけどなぁ。
 でもさ、そんなこと言ってもこれ見てよ。ぜんぜんじゃん。どうすんのよ、このハゲ。

 

 ハゲじゃねえわ。ぼうずだわ。
 たみちゃんは半分くらいまで吸ったセブンスターを足元へ投げ捨て、蹴飛ばした。
 火ついてんだろ。あぶねえだろ。
 はぁ、あんなんすぐ消えるっしょ。
 いくおは気になって蹴られた先のソファの前に行き、テーブルにあったビール缶の底でぐりぐりした。
 ばかじゃん。どうせなら拾えやー。
 灰皿ないわー。
 たみちゃんはそのいくおの台詞を鼻で笑った。
 拾ってコレクションにすりゃいいじゃん。わたしの唾液つきだよ。オナニーのネタにすれやー。
 ああ、そういやそういう手があったか、といくおは素直に思った。たみちゃんの唾液を舐めたり吸ったり嗅いだりできるのならいいネタになる。
 ねぇ、パンツちょうだいよ。ボロボロのもう捨てるようなやつでいいからさ・
 は? んなもんあげるわけないっしょ。っていうか勃たないやつに言われたかねえわ。
 そうなのだ。その通り。返す言葉もなくいくおはうな垂れた。せっかくの待ちに待ったたみちゃんとのセックスなのに、肝心のあそこが勃たないという最悪の事態。オナニーでは散々お世話になってきたのに。頭の中でのセックスでは、何度も何度もたみちゃんをイカせてきた。

 


 緊張からかもしれない。あまりに現実味がない。百回以上妄想をしてシミュレーションを繰り返して射精もしてきたのに、いざ実物を目の前にすると、いやいやこれはこれはとかしこまって萎縮してしまう。
 勃たせてみろやー。女ならできんだろ。
 は? なに? インポの分際で。
 インポじゃねえわ。あー、他の女だったら勃つのになー。
 あ、それ、ムカつくわ。じゃあ、勃たせてみせてやんよ。見とけー。
 そう言ってたみちゃんはいくおの目の前にケツを突き出し、肛門とマンコを見せながら指で小陰唇、大陰唇を広げたりくちゅくちゅさせたりした。
 おぉっ、といくおは心が躍り、股間もぴくんと反応した。
 おしっこ出せやー。
 自分の性癖をたみちゃんに求める。
 あ? なにそれ?
 いいから出してよ。飲むから。
 そう言っていくおはマンコごとびらびら一帯に口をつけて吸った。
 やがて温かい液体が洩れ出てきて、いくおはそれをこぼさないようにずるずるとすすり、喉を鳴らして飲んだ。
 おいしいわー。じゃあ、こんどはうんこおねがい。
 おしっこが出切ってマンコから口を離すと、いくおはさらにそう要求した。
 は? ちょっともうなに? スカトロじゃん。キモ。
 見ると、いくおのモノは勃起して反り返っていた。
 つーか、勃ってんじゃん。それ挿れろよ。
 あっといくおも気づいて、慌ててたみちゃんのマンコに突っ込んだ。
 おっ! でっか! コリコリも気持ちいー!
 バックから突きながら、いくおは親指でたみちゃんの肛門を押し広げていた。この中から出てくるうんこを見たい舐めたいと思いながらばんばんピストン運動をしていた。
 いっくぅーーー!
 むちゃむちゃに腰を振っていると、たみちゃんはそう絶叫し、マン汁が溢れてきて尻に鳥肌が立ち、十秒ほどしてから動かなくなった。いくおはパンパンとピストン運動をし続けた。だが、次第にその勢いが弱まってきた。
 ダメだ。イケない。なんなんだ。気持ちいいちゃあいいのに、たみちゃんだけイってこっちは気配もない。
 ごめん。やっぱうんこ出してくんない?
 しばらくしてからいくおはそう伝えた。
 ……キモいっつーの。ちょっとドン引きなんだけど。
 腰を引いてたみちゃんはモノをマンコから抜き、枕の脇にあったティッシュで股間を拭いた。
 ああ、拭くなよー、と思って慌てて手を叩きながらコールした。
 うんこ! うんこ!

 

 そんなん業者に頼めや! キモいわー。
 たみちゃんはそこらへんに放り投げてあったパンツを拾って履き、黒いスカートとミッキーマウスの白いTシャツを着た。
 業者って?
 ベージュのブラを床から引っ掴んで鞄の中にねじ込む。
 スカトロ業者。そういうお店に行けやー。
 そんなんちゃうわー。たみちゃんのうんこじゃなきゃダメなんだよー!
 アホかー、死ねやー!
 そう言い捨てて、バターン! とドアを思い切り閉めて出て行った。
 ああ、もうダメだ。明日の会議でどういう顔をすればいいか分からない。たみちゃんは斜め前の席が定位置で、いつもボールペンの先でマスクをいじくっている。
 おしっこおいしかったなー。雨水で薄めたドブみたいな味だったけど、それはそれでそれなりにダシが出てる感じでよかった。
 うんこ、うんこ、マンコよりうんこ。
 ああ、前はこんなこと思わなかったのになぁ。マンコにちんこを突っ込めればいいと単純にそう考えていた。でも、現実はそんなにシンプルではなかったし、ノーマルでもなかった。
 原因は肛門を見てしまったことだ。あまりにも美しい形と皴だった。あんな完璧な肛門はいまだかつて見たことがない。それは、その奥にあるもののことを考えざるをえない存在だった。
 あれはもう、奇跡だ。

      2

 いくおはトイレにカメラを仕込むことにした。とりあえず、様子を見たいのだ。その、たみちゃんの尻の穴からうんこが出るその様子を。

 

 朝六時半に会社に出社し、女子トイレに潜入し、アマゾンで買った超小型カメラを便器の後ろの裏側に貼り付けた。女子は便器を上げることがないから、ここにつけておけばバレることなどない。
 へっへっへと笑いながらオフィスに戻り、いくおは自分のデスクに座るとパソコンを立ち上げた。まだ誰も来ていなかったから、エロサイトに繋いで音量をマックスにしてだらだら見た。誰かが来た瞬間止めればいい。仕事をしていたふりをするのだ。
 そんなことをしているうちに眠くなってきてしまい、やがて意識が途切れた。
 いくおが目が覚めたのは二時間後で、まわりがザワザワしている感じがしてゆっくりと目を開けた。パソコンの画面にはまだどこかのアダルトビデオをコピーして持ってきたような動画が爆音で流れ続けている。
 あ、おはようございます。
 ああーん、おちんぽ気持ちいぃ!
 寝てらっしゃったんで、起こすのもあれかと。
 一年後輩の柳崎が、ずれて鼻が出ていたマスクを直しつつ、そう言った。
 いっくぅー! ああーん、もっとおまんこ壊れるくらい突いてー!

 

 ああ、そうだ。こないだの平川へ出す見積書できた?
 いくおはマウスをカチッとクリックして動画を停め、右上の×ボタンでエロサイトを閉じた。
 朝からそういうの見られるんですね。
 ああ、まあ。
 お元気ですねー。俺なんか朝からそういう気にはなれないですね。
 朝でも晩でも関係ないよ。
 思春期かよ!
 いいタイミングでのツッコミで、いくおは思わず笑ってしまった。
 いいサイト教えてやるよ。
 っていうか、そういうのどっかよそでやってくれません?
 僕の隣のデスクの右村奈々が、ドスのきいた声で言い放った。
 あ、そうすね。セクハラっすよね。これモロ。
 そうかな。ある意味コミュニケーションだよ。
 マズいですって。もうやめましょう、吉枝さん。
 そっかなあ。そんなの言ってたらあの女子トークって何なの? 男入れさせないで勝手に盛り上がって。あれこそさ、逆セクハラじゃないかな。
 逆セクハラ?
 そうそう。男のセクハラの女子版。女による男への嫌がらせだよ。
 は? 吉枝さん、意味分かんないんすけど。っていうか、会社でAV大音量で観てる時点で普通ならもうアウトだと思うですけど。
 右村奈々は細く吊り上がった目をさらに細めて吊り上げ、いくおをにらみつけた。
 あれは事故だよ。見積もりの資料見ているうちに勝手にネットが立ち上がって勝手にアダルトサイトにつながっちゃったんだよ。
 いくおは堂々とそう言い切る。
 そんなパソコンありません。勝手にアダルトサイト立ち上げるパソコンなんてあるわけないでしょ。
 あー、コンピュータウィルスかもしれない。なんだったけ、あのなんとかテロみたいな。

 

 サイバー攻撃、と柳崎が助言する。
 ああ、そう、それそれ。うちのホームページがたぶんそのサイバー攻撃されて、俺のパソコンがハッキングされてアダルトサイトをむりやり開かさせられたんだよ。
 あー、分かりました。じゃあ、業者呼んどきますね。吉枝さん、それ業者に説明してくださいよ。
 ったく、めんどくせっ、と思いつつ、その業者という言葉できのうのたみちゃんとのことを思い出して、いくおはうんこプレイができる業者を調べておこうと考えた。
 あーあ、右村さん怒っちゃってますよ。こりゃ訴えられてもおかしくないっすね。
 柳崎にそう言われて、いくおは腹が立った。
 なもん、勝手に訴えりゃいいんだよ。事故なんだから、しょうがないっつーの。
 そう言えばたみちゃんはどこだろう、といくおはオフィスの中を見渡した。あの尻と完全なる肛門の持ち主の顔を明るいところでもう一度見てみたい。しかし、たみちゃんの姿はどこにも見当たらなかった。
 そいえば鷲見さんは?
 たみちゃんさんなら、押田事務所です。
 コーヒーを飲みながらスマホをいじっていた笹村たくみが横からそう答えた。
 表紙の打ち合わせっすよ。吉枝さんがエロサイト見ながら居眠りしてる間に出勤して、とっくに仕事に出て行っちゃってますよ。
 笹村はとにかく嫌味を言わずにはいられない性格で、いくおはいつもやり玉にあげられていた。
 見てたんじゃねえわ。ハッキングされてたんだっつーの。
 もういいですよ、それ。
 自分でも無理があるな、と思い始めていたのでいくおはそれ以上言うのは止めておいた。
 立ち上がって入り口のドアの脇にあるホワイトボードを見ると、押田事務所からは昼過ぎに戻ってくることになっている。

 

 あはは。たみちゃん帰ってくる。帰ってきたらトイレ行くだろうし、うんこもするだろう。女子トイレの個室は三つあって真ん中の一つに仕掛けてきたから、当たる確率は三分の一だ。一日に一回うんこをするとして、だいたい三日あればカメラに映っているというわけだ。
 これは紛れもない犯罪だったが、いくおの罪の意識は変態性欲に勝てなかった。もうたみちゃんのうんこのことで頭がいっぱいで、それどころではなかった。
 押田事務所の社長の押田、あいつヤバいっすよ。
 笹村はまた余計なことを口にする。
 ヤバいって?
 何も知らないいくおは素直にそう訊き返す。
 あいつ結婚して子供もいるのに、きれいな自分好みの女見ると片っ端から手出しているらしいっすよ。
 手を出すとは?
 だからヤリまくってるってことですよ。だから今頃たみちゃんさんもヤられてるかもしれませんね。
 たみちゃんとは昨日したばっかりだったが、まだ完全ではない。肝心の要素が抜けていたし、いくおは射精にも至っていない。不満がたまっていて、押田に取引先というパワーとあのむんむんする濃い顔の男特有の獣臭さを前面に押し出されれば、たみちゃんはあっというまにケツを突き出し、股を開くだろう。

 

 いや、鷲見さんに限ってそんなことあるわけないじゃないですか。
 柳崎は軽薄な口調でそう言った。うわさでは、鷲見多実は社内と取引先の男全員と関係を持っているということだった。そのうわさが広まって、取引先や顧客がどんどん増えていっている。
 そうだ。お前、こんど鷲見の悪口言ったら承知しないぞ。
 悪口なんか言ってないっすよ。おれはただ押田……。
 ようするにそう聞こえたってことだよ。だったらもうそれは立派な悪口だろうが!
 いくおは笹村の眼鏡ニキビ面を睨みつけながら、一喝した。すると笹村は何か言いかけたが、口籠って黙り込んだ。
 昼過ぎにたみちゃんは予定通り帰ってきて、三時から会議が始まった。
 
 その日は仕事をする振りをしながらネットサーフィンをして一日過ごし、夜の九時を過ぎるとオフィスにはいくお以外誰もいなくなった。
 したり顔でデスクを離れると、いくおはそっと女子トイレに忍び込んだ。真ん中の個室を開け、便座の裏につけたカメラを回収する。
 楽しみで楽しみでしょうがなく、すぐにカメラからSDカードを抜いてパソコンに挿入した。
 早送りで見ていくと、はじめの一時間半ほどは誰も来ず、そこから掃除のおばさんが映り込んだが、いい加減にブラシで便器をこすって流し、便座を上げることもなく出て行った。そこから三十分ほどで総務の柴田佐紀が映り、尻をむき出しにしてマンコと肛門を晒しておしっこをしてトイレットペーパーで拭いて出て行った。
 いくおのモノは反応せず、へーといった感じだった。あまりにも恥ずかしげな様子がなく堂々と突き出していて、じゃーじゃー出しているために、そこに性的な要素が入り込む余地がないのだ。
 それからも一時間に二、三人ほどがおしっこやうんこを出していったが、それはただただ排泄行為というだけのもので、いくおは興奮や歓喜など微塵も感じられず、ぼんやりと四倍速の早送りで観るだけ観た。あー、はー、そうですか、といった感想だった。

 

 お目当てのたみちゃんは出て来ず、これだけの女性の排泄行為を目にして、鷲見多実の排便を見たとしても果たして性的興奮を得られるのか自信がなくなってきた。
 あー、もうやめよう。こんなことはバカげている。
 そう思っていくおは動画の再生をやめた。そして、パソコンをシャットダウンして帰ろうとしたその時、エレベーターの開く音がして、青い制服を着た警察官が二人オフィスに入ってきた。
 あー、すみません。ビルの警備の方から通報を受けて、あなたが女子トイレに入ってそこにあるものを手にして出てくるところを、警備室のカメラで見てました。
 そう言って眼鏡をかけた長身の警察官は天井を指差した。そこにはたしかに黒い防犯カメラが備え付けられている。
 そして、いくおのデスクに近づくと、マウスの横に置かれていた黒いSDカードを取ってジップロックのようなケースに入れた。
 これに入ってるんですよね。ちょっと署まで来てもらう感じになります。
 あぁ、もう終わりだ、といくおは思ってここで舌を噛んで死んでやろうかと考えた。
 下にパトカー待たせてありますんで、すぐ行きますよ。荷物とか上着とかも持ってくださいね。
 ああ、もうこんなことならあのとき土下座をしてでもうんこをしてもらっておけばよかった。たみちゃんの顔も尻もまんこも肛門も、もう見られない。

                                  
[了]
   
2022年12月04日

短編文画3 みんなのために 回答編



        4

 あー、えー、今からみんな会議をはじめたいと思います。司会進行は、わたくし事業本部のOが勤めさせていただきます。よろしくお願いします。
 本日の議題はズバリ協同労働です。事業の運営について話し合うことも大事ですが、わたしたちは協働労働で働いているので、その働き方について話し合うこともとても大事なことです。
 どうですか? みなさん協同労働できてますか?
 僕はここですかさず口を挟んだ。

 

 いや、出来ていないと思います。建前か交通ルールを守りましょう的な感じですよね。現実というか実際は所長の独裁。異論を口にするものは潰す、というそういう感じですね。
 そんないい方しなくてもいいじゃない。そこまでじゃないでしょ。
 割と忖度なく意見を言う長老のMさんが僕をそう言ってたしなめた。
 プーチンの顔を見ると、苦虫を嚙み潰したような顔をして怒りを抑えている。
 いまKさんからこう発言がありましたが、本当にそうなんですか。みなさん、所長に意見を言えずに、まあKさんの言葉を借りると「独裁」になってるんですか?
 一同、黙り込む。
 言えるわけないじゃないですか。言ったら、わたしみたいにぼろかすに叩かれて飛ばされるんですから。四月から川口の清掃現場ですよ。普通の企業で言うと、左遷ってやつですよ。邪魔な奴は飛ばしてしまえ。みなさんの場合だと、辞めさせてしまえ、ですよね。これが独裁でなくて、なにが独裁なんですか。
 ちょっと待ってください、とO局長が口を挟んだ。
 じゃあ、いまのKさんの発言を受けて、所長はどう思いましたか。お考えをお聞かせください。
 あー、っていうかさ、とプーチンは話し始めた。

 

 Kさんってさ、最初っからそうだったんだよね。協調性がないっていうか、人の悪口をその人に向かって直接言っちゃうし。で、まあそんなことしたら、その人当然怒って、人間関係どころじゃなくなるでしょ。
 そういうとこなのよ。それ言って自分の方が頭がいいみたいなのをひけらかすっていうか、今風に言うとマウントを取るってやつ? それがしたいだけなんじゃないかなって思う。わたしはね。人間関係をうまくやろうとかそういう気がなくて、ただたんにマウントを取りたいだけ。そんなんでさ、一緒に仕事なんてできるわけないじゃない。もうやりづらくてしょうがない。
 それと協同労働は関係ないですよね?
 わたしは堪らず、そう口をはさんだ。
 関係なくないわよ。協働労働協同労働ってさ、人間関係がちゃんとできたうえでの、協同労働じゃない。その土台みたいなものができてないっていうか、Kさんはそれを崩しにかかっていて、それでそんなことわーわー言ってんだから、そんなのおかしくない?
 でも、人間関係を良くするために空気を読んで意見を言わないと、あなたの独裁になっちゃうんですよ。っていうかなってますし。それじゃ、できないんですよ。協同労働が。で、わたしはOさんの意見が聞きたい。ここで、いつもなら所長とその取り巻き連中にワーワー言われてわたしは悪者扱いされて終わりっていう流れなんですが、今日は第三者として本部からOさんが来てくれている。そこがいつもと違うところです。これはわたしがOさんに本部で相談して、じゃあどういうみんな会議になっているのか見てみるってことで来ていただいたんです。
 あー、ちょっと水掛け論的な感じになっちゃってますし、Kさんから経緯のご説明もいただいたので、わたしのまあ外の人間としての意見を言わせていただきます。
 率直に言えば、どちらも悪い。っていうのは、KさんもKさんでT所長に対して面罵というか直接悪口のようなことを仰られてますし、これはもうちょっと言葉を選んでTさんの心を傷つけないような感じですべきだと思います。Kさんみたいにわーって攻撃的に言ってこられると、だれでも防衛本能というか感情的に言い返さざるをえなくなると思うんです。これがKさんの悪い点。

 

 で、T所長はKさんに対してもそうですけど、誰でも意見が言える感じにしなくちゃいけない。まず相手の意見を否定しないということと、中立的になることです。常勤で所長でもいらっしゃいますし、この事業所が自分のものになったかのような錯覚を抱くことがあるかもしれませんが、それは協働労働の事業所ではありえないことです。みんなで出資してみんなで話し合ってみんなで運営していくのが、協同労働の現場です。
 そこでついわたしは口を挟む。
 私物化、ですよね。
 Kさん、だからそういう言い方がよくない。それは悪口です。言っちゃいけない。私はそこまで言っていないし、そういう意図もないです。
 すみません。
 みなさんはどう思われますか? 言いづらいと思いますが、せっかくこういう場ですし、どう思ったかだけでもお聞きしたいのですが。
 一同沈黙。
 ……あ、Mです。あのー、わたしこう思うんですよね。こういうのって、ようするに人間性っていうか、その人の性格の問題なんじゃないかって。世の中には貧乏でひねくれてる人もいれば、お金持ちで裕福で何の不自由もない生活を送ってきた人もいるわけじゃないですか。わたしたちはわりとその貧乏な方に入ると思うんですけど、Kさんは違うんですよ。立派な大学も出て、大きな会社にも勤めていて、まあ前はですけど。やっぱり暮らしの余裕っていうか、そういうのが違うんですよ。だから、その社会主義みたいな考え方もそういう働き方みたいなのもしたいって余裕があるんじゃないかな、って。わたしたち庶民は違うんですよ。どうにかここの時給もらって年金の足しにして、どうにかこうにか生きていくことしか考えてないんです。生活の基準っていうか、そういうのがまったく違う。そこなんですよ。
 いや、わたしだって生活とかお金に余裕があるわけじゃないですよ。
 え、でもおかしいじゃないですか。余裕がないんだったら、どうしてそんな態度が取れるんですか。そんなことしたり言ったりしたら、普通クビですよ。懲戒解雇。ここはそういうのが、まあ本部の方がいる前で言うことじゃないかもしれないですど、ちょっとユルいからまだその異動とか左遷みたいなので済むんだろうけど。
 え、でもそれMちゃんおかしくない?
 比較的私に近しいIが声を上げた。
 べつにさ、Kさんはこの事業所のために意見を言ったり考えたりしてくれてるだけでしょ。そんなむちゃくちゃなこと言ってるわけじゃないし、暴言吐いたりしてるわけじゃないと思うんだけど。
 Mが言い返す。
 だから、さっきも本部の方が言ってたじゃないですか。悪口だって。いいこと言ってるのかもしれないけど、言い方が悪いから暴言になっちゃうの。
 わたしは「すみません。気をつけます」と頭を下げた。その点については申し開きのしようがない。

 

 Oさんが口を開く。
 どなたか、他の方の意見はございますか。
 一同沈黙
 じゃあさ、Kさんには言い方を気をつけてもらって、その言い方がキツくならないようにね、わたしは意見を言いやすいようにすればいいんでしょ。はい、自由に意見言ってくださーい、って。
 いや、でもそこで出た意見をどうするかが問題なんじゃないですか?
 所長のまとめにわたしがそう口を挟んだ。
 どうするもこうするも、またその意見に対して自由に言えばいいんじゃないの?
 その出た意見に対して否定的なことは言っていいんですか?
 そりゃ、自由でしょ。意見なんだから。
 それはT所長も含めて?
 そう。だってわたしも一人一票の一票持ってんだから。
 ぐうの音も出なかった。それでは、いつものみんな会議と変わらないではないか。わたしが異論を言って、所長と取り巻きたちが一斉にわたしを袋叩きにする。
 あ、はい。まあ、じゃあ、それでいいんじゃないですか。……まあ、わたしも四月一日付で異動なので、あと一ヶ月くらいですから。ここはそれでやっていけばいいと思います。
 一同沈黙。
 O事務局長はいかがですか?
 と、わたしがきくと、こう返事がかえってきた。
 自由に意見が言える場ができれば、いいと思います。
 一同沈黙。
 協同労働バンザイですね。
 そう捨てゼリフを吐いて、わたしは席を立った。
 すみません。このあと役所に書類出しに行かなきゃいけないので。
 玄関で靴を履き、外に出た。
 細かい霧のような雨が降っていた。傘はなかったが、この程度ならバス停までは行けるだろう。
 とぼとぼ幹線道路沿いの狭い歩道を歩きながら、わたしは絶望と諦めと憤りと虚しさが四分の一ずつ混ざりあった心を噛みしめていた。

 

 やっぱ個々人のキャラだよなぁ。
 つよキャラの人がいて、よわキャラの人がいて、ふつキャラの人もいる。
 つよキャラの人の周りには腰巾着的な人とよわキャラの人が集まり、グループを形成する。数がものを言い、ふつキャラの人はじっと黙り込む。
 ママ友地獄のママ友サークルみたいなもんじゃねえか。これだったら、キャラとか関係のない、役職で上下関係がしっかりと区分されていて、結果がすべての営利目的株式会社の方がよっぽど真っ当でマシだ。仕事で成果をあげれば認められ、役職も勝手に上がっていく。つよキャラの人も結果で黙らせられる。数字さえ出せば評価も地位も上がっていく。公平で平等だ。
 なんだこれ、ダメじゃねえか。
 終わってるな。完全に。
 バス停に着くと、僕は五分後に来たM駅行きのバスに乗った。車内には誰もおらず、僕一人しか乗っていなかった。


[了]
2022年11月13日

短編文画3 みんなのために



        1

 みんなで話し合って、みんなで決めて、みんなで実行していく。それがわたしたちのやりかたです。ひとりの人の意志やきまぐれでものごとが決定していくなんてことはありません。みんな平等でみんなひとりひとりの意志や意見が尊重されます。ひとりひとりの意志が組織を動かしていくのです。
 小学校のときに歌わされた歌で、こんなのがあったでしょう。

 みんなはひとりのために
 ひとりはみんなのために
 

 

 あれとは違います。勘違いする人がよくいるのですが、あれは専制主義のための歌です。
 みんなはひとりのためにって、ひとりって誰のことでしょうか。会社で言うと社長だか会長だか専務のためにって意味でしょう。入りたての若いバイトや中途採用のおじさんのために会社のみんなは動いてはくれませんよね。
 ひとりはみんなのためにって言うと、会社のみんなのためにってことですよね。ひとりの人は会社みんなのためだったら犠牲になってかまわないってことを公然と言っちゃってるんですよね。〝良い〟社長だか専務は年がら年中こんなふうに考えてるんでしょうけど、その〝ひとり〟にとっちゃこれは堪らないことですよ。
 こんな歌を義務教育で歌わせて、潜在意識の中に刷り込もうっていうんだから、日本っていう国の教育もどうかと思います。
 それではというわけではないんですが、わたしたちのやりかたを歌にするとこうなります。

 みんなはみんなのために
 ひとりはひとりのために

 ひとりが最優先です。そんなこと考えてみるまでもないと思うのですが、これがなかなか日本や東アジアの国々では浸透しない。コロナのマスク反対デモや規制反対デモでもそうでしょ。アメリカやヨーロッパなんかでは結構行われてたらしいんですが、日本や韓国、中国であんなことしようものなら鼻つまみ者で下手すりゃ逮捕監禁ですよ。ひとりひとりの意志は尊重されないんです。一億人もいればマスク着けたくない人やコロナで制約受けたくない人なんて何千人かはいると思います。でも、少数派だから意志を表明することすらダメなんです。そんな奴らはひっ捕らえてボコボコにしてしまえというやつです。〝みんな〟のために黙ってろということです。ひとりはみんなのために精神です。

 

 みんなはみんなのために。これはひとりひとりの意志や意見の総体がみんななわけですから、ひとりひとりはひとりひとりのためにってことです。社長や会長や専務のために動く必要はないですし、会社のためになんてことも考えなくてよし。ひとりひとりが重要なんだから、ひとりひとりの意志の総体としてのみんなでなければ意味がないんです。
 ひとりはひとりのためにっていうのは、みんなのことを考え出しちゃうとひとりひとりの意志が踏み潰されちゃうわけだから、ひとりは自分ひとりのことを考えてそれを寄せ集めてみんなでできることを考えて行動していこうよってことです。
 分かりにくいですよね。
 じゃあ、具体的な実例を紹介します。
 月に一度「みんな会議」っていうのをやっていて、そこでいろいろなことを決めるんですが、そこではひとりひとりが意見を表明して、それでその意見を反映してものごとを決めていきます。
 たとえば職員が足りないから募集して集めなければならないという状況がありました。
 わたしは独自に調査をして、求人媒体としてネットは若い世代が見て、中年以上の世代は紙媒体を見るというデータを得ました。人が欲しいのは平日の午後の時間帯でしたので、学生さんや若い世代ではちと厳しいから主婦層がいいので紙媒体を使った方がいいと提案しました。ですが小さな広告でも二万円くらいかかってしまって、それがネックだと伝えました。すると、各職員からは高いからダメだ、という意見が多く出ました。その結果それはやめになりました。ですが、窓や壁の張り紙だけではやはり人は集まりません。すると、次回の会議に本部の人がやってきて、十万円かかるネット広告を出すと言ってそう決まりました。──これが現実です。はたしてひとりひとりの意見を反映しているでしょうか。みんなの意見はバラバラなのですが、強いや偉い人が主張するとみんなそれに従います。わたしなんかはあまり従わないのですが、そうすると集中砲火を浴びます。異論を口にする者は徹底的に叩かれます。結局は強い人か偉い人の意向と鶴の一声でものごとは決まっていきます。

 

 

 みんな平等でみんなで決めていくという理想は、現実には通用しません。あくまで概念としてあるだけで、そんなことはできっこないのが現実です。
 揉めなければできないのですが、みんな揉めたくない。しかも、力関係というものがあります。その力を持つ人のまわりには取り巻きのような人たちが自然発生して、その人たちは異論を決して認めてはくれません。どうやら人間という生き物はそういうふうにできているようです。
 そんな大きな矛盾やゴタゴタを抱えながら、それでもわたしたちは理想を掲げてやっていっています。
 ぜひ皆さんもわたしたちの仲間になりませんか?

         *

「なんなのこれ? どういうつもり?」
 濱口佐代子は、マスクを外して缶ビールをひとくち飲み、僕にそうたずねた。
「紹介パンフレットの原稿」
「いや、そういうことじゃなくて、これさ、後半悪口じゃん」
 僕は昼間だからノンアルコールビールにしていて、ピザを食べながら飲んだ。
「悪口じゃない。ほんとのことを書いただけだよ。やっぱりこういうのって、胡散臭いと思われがちだから、そう思われないためにわざと悪いことも書いた。コインの表裏みたいに、ものごとには必ず正負両面があるものだから」
「そんなの理想だよ」
「は?」と、僕は訊き返す。
「悪いことを書いたら、ああそんな悪いことがあるんだったら、やっぱり関わらない方がいいって思うのが普通だよ」
「そうかな。個人的にはいいことしか書いてないものは基本的に信じないけどね。そんなわけはないだろって思っちゃって信じられない」
「まあ分からんでもないけど、これ載っけたらガチで炎上するよ」
 ピザの脂でぎとぎとの唇を開け、佐代子はさらにそこに切れ端を放り込む。

 

「炎上すりゃいいじゃん。大人しくやってるより、よっぽど宣伝になる」
 ユーチューブでも、低評価のボタンは押してくれた方が再生回数は伸びると聞いたことがある。
「いやいや、下手すりゃ新興宗教と思われるよ。なんたら会とかなんとかの科学とか」
「そういうとこは悪いこと書かないでしょ。自分から矛盾点や弱点をあらかじめ出しておけば、いざ入ってがっかりっていうのがないでしょ」
 佐代子はビールをごくごくと小気味よく喉を鳴らして飲み、小さくゲップを洩らした。
「まあそうだけど、こんなん読んで入ってくる人いる?」
 たしかにそう言われると答えに窮する。
「変わった人だろうね。よっぽど」
 僕も人のことは言えない。
「まあ、いいや。みんな会議にあげてみれば。どうせ集中砲火浴びるだろうけど」
 そこで話を打ち切ってわれわれはベッドに移動し、着ているものをすべて脱いだ。佐代子の口の中に舌を入れると、ピザのチーズの味がした。
「くせー」
「あんたもビールくせえわ」
 そんなことを言いながら僕は佐代子の股間に顔を埋め、クリトリスと小陰唇をべろべろと舐めまわした。
 あんあんと声を上げたくせに「はやくいれろよ!」と怒鳴られた。
「わかっとるわー」と言いつつ、僕は斜め四十五度くらいに屹立したものをエイヤッと佐代子の佐代子に突き刺す。
「あっ、いってぇ!」
 ちょっと引っ掛かりつつズブッと入ると、佐代子はそう叫んで身をよじった。
「ごめーん。でも、これでもくらえぇ!」と、僕はアタタタタタタとものを出し入れし、佐代子をあんあんえんえん言わせた。
「あっ、やばい。出る!」
 僕がそう叫ぶと、佐代子は僕の胸のあたりを両掌でバシーン! と思い切り突っ撥ねた。
「おあっ!」とバランスを崩して僕は背中から倒れ、佐代子はそこに馬乗りになって、佐代子の佐代子に僕のものを突っ込み、股間を上下前後ろにばんばんぐりんぐりんさせてアーアーワーワーとわめいた。
「いくいくいくいくいくいっくぅー!」
 僕もいきそうになっていて、ゴムをつけていないから我慢しようとしたけど我慢できそうになかった。
「出る出るでるでるでるー!」
 佐代子は全身をびくんびくんと痙攣させ、僕は両手で佐代子の尻を抱えるように持っていたのだがそこに鳥肌が立ったのが分かったと同時に、ものから僕の汁がどくんどくんと出ていた。
「ああぁぁぁっああぁーーー」
 腰の奥のたぎる鈍い疼きによる快感と、中出ししてしまったというタブー破りの快楽と恐ろしさでものから汁が出る勢いがすごかった。
 佐代子は股間をティッシュで拭って立ち上がると、ベッドの上で何度もジャンプした。

         2

 

 あーえー、ちょっとみなさんにご相談があるんですが。
 あのー、事前にお配りしたその資料。仮にこんな感じってパンフレットのデザイン組んでみたんですけど、内容含めてなにかご意見ございますでしょうか。
 あー、ちょっといい? これさ、本気で出そうって思ってる? それともなに? 冗談?
 いや、冗談じゃないですよ。本気で出そうと思ってますが。
 あのさー、ちょっといいかな。これさ、受け取って読んだ人どう思うと思う?
 え? なにか不満でもあるんですか?
 いやいや、こんなの営業妨害よ。なに? ここ潰したいの?
 いえ、そんなこと思ってませんけど。っていうか悪いことも書かなけりゃ、いいことも伝わらないと思うんですよ。違いますかね?
 悪いことって、こんな風に書かれたら、誰だって悪く取るに決まってんじゃないの!
 いえ、これが事実だと思いますが。分かりませんかね?
 こんなふうになってないでしょ。事実ってあなたの歪んだ目から見た事実でしょ。そんなの分かるも分からないもないじゃない。
 わたしの目は歪んでませんが。歪んでいるのは先生方の目じゃありませんか。
 あのさー、あなたには分からないかもしれないけど、ずっと私たちは見てきてるの。こないだ入ってきたばっかりのあなたには見えないものも見えてるの。
 こないだって、もうすぐ二年経ちますが。
 二年なんてわたしたちに比べりゃないも同然よ。とにかくもっと考えて。っていうか、もういいわ。パソコンできるからってあんたに任せたのが間違いだった。
 それは先生が決めることじゃないと思います。
 じゃあ、誰が決めんのよ。あなたが決めるの?
 わたしじゃないですね。みんなで話し合って決めるんだと思います。
 だから、だったらここで話し合ってんじゃないの! みんなも同じ意見よね?
 〈皆、無言で頷く〉
 じゃあ、それで。
 それでいいんですか?
 なにが?

 

 これはたとえばの話なんですよ。だから、こういう決め方がもうみんなで話し合ってっていう感じじゃないでしょ。これはプーチンとやってること同じですよね。あのニュースで見たでしょ。ウクライナ侵攻を決めた時のスーパーパワハラ会議。もう少し外交交渉した方がいいんじゃ…って言った幹部にプーチンがお前は賛成か反対かどっちなんだって凄んだやつ。まさに今の状況がそうじゃないですか。プーチンと取り巻きの幹部。ウクライナに攻め込むのに反対の奴はいないよなって。
 意味分かんない。なんでここでプーチンとかウクライナが出てくるの? ちょっと大丈夫?
 プーチンに言われたくないですね。
 はあ? なにそれ? ケンカ売ってんの?
 怖いですね。ヤクザ屋さんみたい。
 もう、いいわ。えみちゃん、次の議題行って。
 えー、じゃあ、年度末の予定なんですがー。
 えっ、まだ話途中なんですけど。
 もういいって、分かったから。
 お別れ会は三月二十五日の……

          *

 翌週の月曜、本部から電話があり、川口の事業所に四月から異動と告げられた。
 ですよねー、といった感じでなんとなく予想はしていたことだった。あそこまで言ってプーチン呼ばわりまでしたのだ。はらわたは煮えくり返っていたに違いない。
 僕はすぐにプーチンの携帯に電話をした。
「事業本部の春田さんっていう方から電話があって、四月から川口の清掃現場に異動って言われました」
「あ、そう。あそこ人足りてないからねー」
「ご迷惑おかけしました」
「え? なにが?」
「みんな会議であんなこと言ってしまって」
「あー、反省してるんだ」
「反省っていうか、なんか〝正解〟を求めちゃったんですよね」
「え、なにそれ?」
「正解を求めてしまったのが間違いだったなと反省しておりまして、なんかロシアのウクライナ侵攻始まってからずっと精神的になんかおかしくて、それが何なのかってずっと考え続けてきたんですけど、先週の金曜日あたりにようやく答えが分かったんですよ」
 プーチンが軽い咳払いをして、喉の奥を鳴らす。

 

「アメリカとかヨーロッパとかウクライナは自分の方が正しくてロシアは間違ってるんだって言ってますよね。でも、ロシアは自分たちの方が正しくて西側が間違っているんだって言ってる。自分が正解で相手は間違いだってお互い言い合っているわけです。日本も西側だからウクライナや欧米がいかに正しくて、ロシアがどれだけ残虐非道で悪者かっていうのを毎日土砂降りの雨みたいに朝から晩までニュースとかで見させられているわけです。たぶんロシアの人たちもロシアがいかに正しくて、欧米がいかに卑怯な悪者かっていうのを永遠見させられてるんでしょうね」
「え、ちょっと待って。これなんの──」
「白黒つける病にいま世界中の人がかかってると思うんですよ。個人的には。自分が百パーセント正しくて、相手が百パーセント悪いっていう。でも、たぶん真実とか事実は五五か六四、良くて七三とか三七くらいだと思うんですよね。それもどっちから見るかで変わってくるし、そもそもそんな線引き自体できないことなんですよ」
「で?」
「だから、あの先週のみんな会議の時、私は自分が百パーセント正しくて先生方が百パーセント間違ってるって感じで喋ってしまったなと……」
「ああ、そうだったね」
「でも、わたしにも悪いところはあって、でも先生方の言い方とかやり方にも悪い部分があって、つまりどっちも間違っていたと思うんですよ」
「わたしが悪いっていうわけ?」
「そうじゃなくて、どっちが悪いとか正しいとかそういう会議になっちゃってるっていうその会議そのもののあり方みたいなものが、そもそものみんな会議のあり方から外れちゃてるんじゃないんですかね」
 すると、思うところがあったようで黙り込んだ。
「みんなで意見を出しあってそのみんなの意見を反映して、みんなで運営していくっていうのがこの法人の大前提ですよね。そのためにみんな会議がある。でもそれはパッとやれって言われても出来ることじゃなくて、現実に実地でやるのは本当にものすごく難しいことなんだっていうのがこの二年間で学んだことでした。だけど、あきらめずに理想を掲げてきれいごとでも建前でもなんでもいいから、その理想に喰らいつき続けるっていうのが大事なことだって私は思うんです」
「喰らいつき続ける?」

 

「端から無理だってあきらめるんじゃなくて、無理でもなんでもそれに少しでも近づけるよう知恵を出し合って工夫して努力していくってことです」
「へぇ」と鼻を鳴らした。
「たとえば、前にも言ったかもしれませんが、人の意見を否定しないってことです。否定すると意見が言えなくなるからです。意見が出てこなくなる。そうなると会議の意味もなくなっちゃう。その前段階として、否定的な意見を言わないっていうのもあります。人を否定するようなことを言わない。人を否定すると、その相手も否定し返すというのが人間の感情ってものですから」
「まあ、そうだよね」
「はい」
「で、話はそれだけ?」
 僕は絶句し、なんとか「……ええ」とだけ答えた。
「じゃあ、四月から川口でがんばって。あと二週間くらいは残ってる有休使っちゃっていいから」
 そして、電話は一方的に切られた。
            
        3

 濱口佐代子は僕との連絡を断ち、飲みに誘っても返事がかえってくることはなかった。あのグループ内での孤立は職場を失うことを意味するから、まあ当然と言えば当然のことだった。
 本部に直訴しようかとも思ったが、それで本部が何かできるわけでもないことは分かり切っていた。現場を回して運営しているのはあの先生方で、ほとんど自営みたいなものだったから、横やりを入れて現場を混乱させることにしかならないだろう。異動を取り消されたとしても、あそこで働き続けるのはもはや無理があった。
 清掃現場か、と僕は考え、暗澹たる気持ちになった。清掃業務には残念ながら興味がない。僕がやりたいのは福祉の仕事で、そのためにこの法人に入ったのだ。それは面接のときにもはっきり伝えていたし、だからこの現場に配置されたのだ。
 みんなで出資して、みんなで話し合って、みんなで運営していく。
 出資額に関係なくひとり一票で、話し合ってみんなで協力して働く。
 理想は素晴らしい。だが、それを実現するのは難しい。本部はその働き方のよい部分だけを喧伝し、まるでプロパガンダのようになっている。──とてもとても難しいのだ。口で言うほど簡単ではないし、ほとんど不可能と言ってもいいかもしれない。他の現場で働いたことがないから、よその事業所がどれほど実現できているのかは知らないが、この事業所に関してはただ一応看板として掲げてはいるが、ほぼ建前といった感じで、理想は実質踏み倒されている。
 辞めようかとも思った。こんな看板倒れの法人は見限った方がいい、と。
 でも、僕は諦め切れなかった。理想をなんとしてでも実現したかった。

         ☟


 さてこの後、理想の実現のために主人公がしたこととはいったい何だったのでしょうか? 


 回答編へ続く
2022年10月02日

短編文画 6 妻殺しのパラドックス



             1

 ある日、家に帰ると妻が死んでいた。
 私が殺したのではない。
 居間の白いソファの上で仰向けになっていて、胸のちょうど心臓のあるあたりに包丁が突き刺さっていた。傷口から滲み出た血で、着ていた黄緑色のパーカーが赤黒く濡れている。その範囲はかなり広がっていて、肩からへその下らへんまでしっかりと変色していた。
 見覚えのある包丁で、それは普段台所の流しの下、包丁入れのところに収まっているものだった。刃渡りは二十センチ程で、余計な装飾もデザイン性もなく、まっすぐな背に黒いプラスチックの柄が付いているだけのものだ。切れ味は良くも悪くもない。

 

 近づいて顔を見てみると、そこにすでに血の気はなく目はきちんと閉じていた。口はやや半開きで、手をかざしてみたが呼気は感じられなかった。念のため手首の動脈らへんに二本指を当ててみたが脈はないようだ。
 死んでいる。
 服も部屋の中も特に乱れてはいなかったから、ここで眠っていたところをぐさりとやられたのだろう。包丁は柄の三分の一程まで埋まっているから、刃先は心臓を貫き、おそらく背中側にまで達している。心臓は直ちにその機能を停止し、妻の意識はそこで途絶えたものと思われる。
 どうせ死ぬのならば、一瞬がいい。──それは誰しもが思う事だろう。苦痛にのたうち回りながら死にたくはない。
 妻とも前にそんな話をした記憶がある。
 拳銃自殺が一番良いのではないかと私は言った。
「だってそうだろ。こめかみに当てるか口にくわえてズドンと撃ったら、一瞬で脳が破壊されるだろうから痛みなんて感じる暇はないよ」
「でも、自分で撃つっていうか引き金を引かなくちゃいけないじゃない」
「そりゃそうだろ。でも、死ぬ気になってたらイケるだろ」
 すると、妻は鼻で笑って首を横に振った。
「そんなね、簡単にはいかないわよ。人間も動物だし生存本能ってものがあるから、ぎりぎりそういう状況っていうか、いざってなったら案外できないもんなのよ」
 映画やドラマではよく見る場面ではある。でも、あれはあくまでお芝居なわけだから本当のところはどうだか分からない。私はそういう状況に立ち会ったり、目撃したことはない。たいていの人がそうだろう。だから、役者たちは懸命に想像を膨らませて演技をしている。だがベテランの相当腕のある役者でも、そうしたシチュエーションにしっかりとしたリアルさを出せずにいる。画面越しというのもあるのだろうが、ある種の陳腐さが漂ってしまっている。なぜならそれは人間の想像の枠外のことで、おそらくその瞬間人は人ではなくなるのではないだろうか。

             *

 私が殺したのではない。
 となると、別に妻を殺した奴がいるということだ。
 男か女かも定かではない。女でも体格が良かったり勢いをつけてやればこれくらい出来なくもないだろう。
 警察に通報はしない。なぜなら、玄関には鍵がかかっていたからだ。窓も見て回ったが、どこも割れていないし、きちんと施錠されている。つまり、この部屋は密室だったということだ。通報すれば、私は逮捕されるだろう。
 鍵を持っていれば玄関のドアを開けられるし、閉められる。当たり前だが、この事実が意味することは鍵を持っていた人間の中に妻を殺した奴がいるということだ。

 

 この家の鍵は合いカギの作れない複雑な形をした特殊な鍵で、全部で三つある。
 まず、私の鍵。
 次に、妻自身の鍵。
 最後に、妻の実家に預けてある鍵。
 私のものは今ポケットの中にある。そして妻のものはさっき見た時、玄関の靴棚の上にあった。そこに陶製の小物入れがあって、妻はいつもそこに自分の鍵を入れていた。
 鍵はかかっていなかったと嘘を吐けばいいのかもしれないが、そんなことをすれば余計疑われてしまう気がする。何度も何度も訊かれるうちにボロが出て、嘘を見抜かれ、それこそ犯人だという証拠を与えてしまう。
 こう考え合わせていくと、妻の実家にある鍵が、文字通りカギになってくる。
 妻には母と姉がいる。父、つまり私にとっての義父は三年前に心不全で他界していて、軽い痴ほう症の腰も曲がり身体の弱った義母は、残された家で近所に住む義姉の介護を受けながら一人で暮らしている。
 私の両親はすでに他界していて実家はなく、鍵は三つあったから妻は一本は自分の実家に預けておくと言っていた。しかし、具体的にどこにあるのかまでは知らない。だが、家のどこかにあることは間違いないようだ。
 義姉は妻とはひどく仲が悪い。昔からそうだったらしい。若い頃は取っ組み合いの喧嘩をしたり、書道の文鎮や扇風機を投げ合ったことがあると聞いたことがある。
 人間の種類が違うからだろう。妻はどちらかというとお喋り好きで気の置けないタイプで一緒にいても疲れない。義姉は美人でおっとりしているのだがどことなく品があって、男にある種の緊張感を強いるタイプだ。五年くらい前に商社マンと結婚して実家の近くに建てた家に住んでいる。人としても女としても生き方自体が大きく異なる。水と油。およそ真逆の性格をしている。
 その義姉が鍵を持っていた可能性は否定できない。義母の介護を任せ切りにして手伝いに来ようともしない妻を恨んでいたのも事実だ。だが、彼女も妻を殺してはいない。なぜなら、私はついさっきまで彼女と一緒にいたからだ。
 妻の実家は割と大きな屋敷で、中に庭を挟んで母屋と小さな離れに分かれている。義母が主に居住しているのが母屋で、妻と義姉のいた子ども部屋は離れにあった。その部屋の中で私は彼女といつも仲良くしていた。
 この関係は一年程前から始まったもので、義母が腰を痛めて立てなくなったと言われ、その介護の手伝いに来たことがきっかけだった。義姉いわく妻は義母に何かの理由で深い恨みを抱いているらしく、言うだけ無駄だから私に声を掛けたのだということだった。商社マンの夫の帰りはいつも終電で、朝も早くから出掛けていってしまうから手伝いは難しいらしい。

 

 妻の実家は私の職場からは近かったから、仕事帰りや早く上がれた時に立ち寄り、義姉を手伝うということを続けているうちに親しくなっていった。脚も悪く、痴ほう症の義母が庭を横切って離れまで来る心配はなく、我々は次第にほぼ毎回その密室での秘事に耽るようになっていった。
 帰りが遅くなると、義姉は車で私を自宅近くまで送ってくれた。たいてい停めるのは家から歩いて五分ほどのところにあるコンビニの駐車場で、私はそこでビールとつまみを買って帰る。その日もそんなよくあるパターンの日だった。
 だが、帰ってきて家の玄関の鍵を開けてリビングに入ると、妻が死んでいた。
 私が殺したのではない。

             2

 私でもない。義姉でもない。痴ほう症の脚の悪い義母でもない。
 だとすると、この家の鍵を持っていたのは妻自身だけだ。
 自殺?
 いやいや、そういうタイプじゃない。十年も一緒に暮らしていれば分かる。義姉とのことを嗅ぎつけたのだとすれば、妻は容赦なく私と義姉を殺すだろう。もしくはそこまでいかなかったとしても、蹴ったり踏んだり顔の形が変わるまでボコボコに殴ったりして復讐を決行しているはずだ。間違いなくそうせずにはいられないだろう。ひっそりと人知れず自殺するような性格ではない。
 それに、状況的にも自殺ではない。妻の左手は身体の横からだらりと垂れて血に塗れているが、右手の方はソファの背に乗っていて白いままだ。つまり、自殺したのだとすれば、利き手でもない左手一本でここまで深く刺したことになる。そんなことは小柄で華奢な妻には不可能だろう。刺した瞬間に血は溢れ出て、包丁を持った手にもべっとりと付着するだろうから、右手を使っていたとしたらこんなきれいなままなわけはない。それに包丁の柄にもさほどではないが血が付いている。包丁を握っていたのだとすれば、それが掌や指にも付くはずだ。
 そもそも、妻には死ぬ動機がない。


 生前義父に買ってもらったものだが、大きな駅からもほど近いこんな便利な場所で庭付きの家に住み、父親からの遺産も私の稼ぎもあって何不自由ない生活をしている。子供は体質のせいで出来なかったが、趣味のドールハウス教室やらテニスクラブやらで毎日忙しくしていたはずだ。お喋り好きで社交的な性格のおかげで友達も大勢いる。昼間は家にいるより友達の家やどこかに出かけていることの方が多い。
 夫婦関係も良好で、ここ一、二年くらいのあいだ喧嘩をした記憶はない。よく話もしていたし、セックスも二週に一回くらいはしていた。だいたい私が休みの日の午前中。時間もそれなりにかけてする。たまに二人で出かけたりもしていたし、何も不満は感じていないはずだった
 義姉とのこともバレてはいない。少なくとも私は尻尾を出してはいない。義姉が喋っていればその限りではないが、彼女がそんなことをするわけがない。
 時計を見ると、まだ夜の十時前だった。
 私は義姉に電話をかけた。
「もしもし」
 彼女はそう言って電話に出た。
「ちょっと困ったことになったんだ」
「え? なに?」
 義姉は不満げな声でそう訊き返してきた。
「妻が死んでる」
 息を呑む音が聞こえた。
「家のソファの上で、包丁で胸を刺されて死んでる」
「は? へ?」
 苛立ちのような感情が湧き上がってきた。
「だから、包丁で刺されて死んでるんだよ!」
 私がそう怒鳴ると、義姉は黙り込んだ。
「何か知らないか? どうなってるのか」
「知るわけないでしょ。…ちょっと警察には?」
「まだ言ってない。だって鍵がかかってたんだよ」
「だったらなんなの?」
「疑われるだろ。間違いなく。だって、そいつは鍵を持ってなくちゃ閉められないわけだから」


「そいつって?」
 血の巡りの悪い女だ。
「殺した奴だよ! 殺して鍵閉めて出てったんだろ」
「え、でも鍵って……」
「ああ」と、私は頷いた。「三つしかない。ここに俺が持ってるのと、玄関の鍵入れの中にあった妻の。それから、お義母さんの家にあるのの三つ」
「ちょっと待って。でも、じゃあ二つはそこにあるわけでしょ」
「そう。だからあと一つ。実家にある鍵を持っている奴が妻を殺したことになる」
 話しているうちに私の頭の中も整理できていった。そう、要するにそういうことだ。
「いやいや、待って待って。鍵どこにあるか私知ってるけど、私じゃないよ」
「知ってる?」
「うん」と、義姉は素直に白状した。「だってそうでしょ。何かあったときのためにって、お母さんと私にだけ教えてくれたから」
「どこ?」
「妹の机の一番大きい引き出しの中。左の奥」
 離れということか。つい数時間前まで私と義姉がいた部屋の中だ。
「ちょっと見てきてくれないか。お義兄さんはまだ大丈夫だろ」
「分かった。大丈夫。早い時でも十二時過ぎだから」
「すまん。お義母さんはもう寝てるだろ。起こさないようにな」
 うん、と言い残して義姉は電話を切った。
 電話を待つ間、リビングをうろうろと歩き回りながら私は可能性についてさらに考察を進めた。
 義兄ということはないだろうか。
 何かのきっかけで私と義姉の関係を疑い始め、残業をしているふりをして我々のあとをつけ、何らかの方法で証拠をつかみ、話し合いを持つためにここに乗り込んできた。いや、違う。それだと妻を殺すことにはならない。
 激昂したのだ。義姉との不貞を知って怒りに駆られ、私を殺そうとした。鍵の場所は何か芝居を打って義母から聞き出したのだ。そして、鍵を開けてそっと家の中に忍び込み、台所にあった包丁を取ってソファで寝ていた妻をザクリと刺す。
 おかしい。どう考えてもおかしい。電気は点いていたし、私と妻を見間違えるはずもない。浮気相手の妻を殺すというのは、意味が通らない。恨みを抱く相手ではない。
 つまり、義兄は犯人ではないということだ。
 そう結論づけたところで、義姉から電話がかかってきた。
「もしもし」
「どう?」
 すると、彼女はこう答えた。
「ない。鍵がない」
 あぁ、やはりそうか。犯人が持っているからだ。
「どうしよう。警察に言う?」
「鍵がなくなっているとなると、そうだな。そいつが犯人だろうからな」
 私は少し安心して、そんなことを口にしていた。
「でも、ちょっと待って。ここに鍵あるの知ってたの、私とお母さんだけだよ」
「誰かに喋ってないのか?」
「喋るわけないじゃない。そんなこと訊かれたこともないし」
「じゃあ、お義母さんが誰かに喋ったんだろ。それしかない」
 すると、義姉は黙り込んだ。
「待って待って。でも、おかしい。そもそもこの家にその家の鍵があって、しかもその隠し場所をお母さんが知ってるって知ってた人なんている?」
 ああ、そうか。誰かが訊き出そうとすればそうなる。そうした条件をクリアした上で、しかも妻を殺す動機も持っていなくてはならない。

 

「それに、お母さん覚えてるわけないよ。さっき晩御飯何食べたかとか今日の天気すら怪しい人だよ。お医者さんにも説明されたんだけど、前向性健忘っていって新しいことを全然覚えられない病気なんだって。だから、お母さんもあの時鍵の場所聞いてたけど、絶対覚えてないと思う」
「じゃあ、誰だよ。鍵持ってったのは」
「私じゃないとしたら、妹じゃない。それしかない」
 引っ掛かりのある言い方だった。
「違うんだろ?」
 一瞬、間が空いた。
「違う違う。何言ってんの。私が殺すわけないじゃない」
 妻が殺された時、義姉は私と一緒にいた。だから、彼女が殺せるはずはないのだ。関係的も状況的にも警察は信用しないだろうが、お互いにアリバイはある。
「あっ、分かった。やっぱ妹だよ。だから、あなたの奥さん。ここから鍵出して持ってったのは」
「え、なんで?」
「必要になったから」
 私の頭は混乱した。
「だってそんなもん、自分の鍵があるだろ」
「だから、誰かに渡したんだって。その人が家に入れるように」
「誰か?」
 鼻で笑う声が聞こえた。
「人のこと言えないでしょ。妹だって昼間何やってたんだか分かんないでしょ」
 ああ、そういうことか。男をこの家に引き入れていて、そいつに鍵を渡していたということか。
「なにか知ってるのか?」
「いや、知らないけど、それしかないじゃない。鍵の場所知ってるの私と妹だけなんだからさ」
 なんだ、そういうことか。つまり、何の根拠もない憶測ということだ。
「もういいよ。どうする? 警察には言うか?」
「ちょっと待って。もうちょっと考えよ。とりあえずそっち行くから」
 義姉はそう言って、電話を切った。

            3

 義姉がこちらに着くと、私は彼女を家に招き入れた。
「一応、いつものコンビニに停めてきた。見られるとアレだし」
 たしかに路上駐車はマズい。近所の目もある。後で面倒なことにもなりかねない。
「うわっ、スゴいね。めっちゃ刺さってる」
 居間に入って妻の死体を目にするなり、義姉はそう言った。
「悲しんだりはしないのか?」
 頭に思い浮かんだことをそのまま口にしていた。
「は?」
 彼女は振り返り、眉間にしわを寄せた。

 

「あなただってそうじゃない。自分の奥さんでしょ?」
 言われてみればそうだ。驚いたり焦ったりするのに精一杯で、悲しんでいる余裕などなかった。
「この子とは仲悪かったし。ずっと、子供のころから」
「でも、だいたいそういうもんだろ。兄弟とか姉妹って」
「そうかな。え、でも、死んでくれてホッとしてるよ。正直に言うと」
 ひどい言い草だったが、これが義姉の本音なのだろう。
「あなただってそうでしょ。普通さ、奥さんの姉と不倫したりしないよ。だから、私とそういうことができるってこと自体がさ、もう奥さん死んでもいいって思ってたってことなんじゃないの?」
 私は言葉に詰まり、何も言い返せなくなった。こんな女じゃなかったはずだ。本音をズバズバ遠慮なく言うのは妻の方で、義姉はいつも優しく包み込んでくれるようなそんな感じの女性で、私はそ──。
「殺したんでしょ?」
「え?」
「邪魔になったから、殺した。そうでしょ?」
 真顔だった。まっすぐに目を見てくる。私を追い込もうとしている。
「どうすんの、これ? どっか捨ててくるの? どうせわたしも共謀にするつもりなんでしょ」
 頭に血が昇り、思わず怒鳴っていた。
「だから、俺じゃないって! 殺してない!」
「でも今さらそんなことどうでもいいでしょ! ぜったい疑われるって、この状況!」
 私はさらに絶叫した。


「どうでもよくない! 殺してない! 殺してないから!」
 義姉は両手を頭に突っ込んで掻きむしった。
「でも、ぜったいもう即逮捕! 即逮捕で有罪、懲役まちがいなし!」
 私以上の大声で義姉は怒鳴っていた。きっとこの声は近所中に響き渡っていることだろう。
「執行猶予なんてつかないから。いい? 自分の妻を身勝手な理由でぶっ殺しといて、抒情酌量とかそんなのあるわけないでしょ」
「身勝手な理由って?」
「いや、だから不倫! わたしとの不倫! 邪魔になったから殺したのー、あーなーたーはー!」
 殴りかかりたい衝動に駆られたが、荒い呼吸を繰り返し、なんとか押し留めた。
「鍵がどうとかさ、犯人とかもうホントどうでもいいと思う。警察にバレたら、百パーセントあなたが犯人で逮捕で有罪。真犯人とか冤罪とか、そんなの聞いてくれないから。日本の警察は忙しいし、それっぽかったらもうそれで決まり。ちゃんとした捜査とかそんなの刑事ドラマとか映画の中だけで、次から次にどんどん急いでやってかなきゃいけないから、いちいち細かく調べてらんないの!」
 もしそれが本当だとしたら、もう終わりということじゃないか。一生逃げ続けるか刑務所の中で暮らさなければならない。
「わたしも同じだと思うよ。一緒にいたし。共謀ってことになると思う」
「えっ?」
「だってそうでしょ。一緒にいて利害みたいなのも傍から見れば一致しているわけだから、二人で共謀してって考えるんじゃない。いわゆる立場的には同罪なわけだし」
 ああ、私だけじゃ済まないのか。義姉まで巻き込まれ、逮捕される。
「……いや、でも、おかしいだろ。考えてみろよ。そもそも俺も義姉さんも殺してないのに、なんでそんな目に遭わなくちゃいけないんだよ!」
 すると、義姉は冷めた目で呆れたようにため息を吐いた。
「またそれ? だから、そんなこと言ったって信じてくれないって。私たちお互い以外証言してくれる人はいないわけだし。そんなの共謀して口裏合わせしてるって判断されるに決まってるでしょ。状況的にわたしとあなたが限りなく怪しくて、動機もあってアリバイもないんだからしょうがないじゃない!」
 その瞬間、私は近くにあったテーブルを拳で叩き、こう怒鳴っていた。
「そんなの、犯人の思うツボじゃないか!」
 義姉は両手で私の肩を摑み、揺さぶった。
「じゃあ、犯人って誰よ? どこのどいつがわたしの妹とあなたの奥さんを殺したのよ?」
 それだ。それさえ分かれば、この窮地を脱出できる。状況は最悪で、警察は私と義姉を犯人と断定する。疑問を差し挟んだりする余地はない。誰の目にも明らかだ。だから、自分で真犯人を見つけなければならない。それしかないのだ。
 その時、私は頭の中であることを思い出した。
「そういえばさ、お義母さんと仲悪いって言ってたよね。恨みがあるとか」
「ああ、この子とね」
 死体を指差しながら義姉はダイニングの椅子に座った。
「むかし、ちょっとあったんだよね」
「ちょっとって何?」
 私もテーブルを挟んで向かい側に腰を下ろした。
「なんか、カクシツ? っていうか、親子だからちょっと虐待みたいな」
 これは怪しい。
「虐待? 義姉さんは?」
「わたしはもう中学生だったし、背も伸びてきてたし、どちらかというとお母さんには好かれてたからあんまり……」
 なるほど。依怙贔屓をされていたわけか。通りで仲が悪いわけだし、介護をまったく手伝わないわけだ。無理もない。
「合わないんだよね。あの二人。いつもぶつかって喧嘩になっちゃう」
 親子でそうだと、もうそれは悲劇でしかない。しかも姉ばかりが気に入られて好かれているとあっては、状況としてはかなり過酷だ。
「でも、それとこれとがどう関係あるの? まさかお母さんが犯人とか言い出す気じゃないよね?」
「違う違う。脚も悪くて頭もボケてるお義母さんが、わざわざここまで来て殺せるわけがない」
「じゃあ、何なのよ?」
「動機だよ。動機を整理しようとしてるだけだ」
「妹を殺す動機?」

 

 名探偵がドラマとか漫画や映画でよくやっているやつだ。殺す理由を持っているやつを絞り込んでいけば、必然的に犯人にたどり着く。
「そんなのわたしとあなたしかいないじゃない」
 義姉にそう言われた時、私の頭の中で何かがひらめいた。
「いや、逆に考えてみればどうだろう。妻を殺す動機を持っているのが我々だけだとしたら、逆に殺される理由があるのは?」
「は? ちょっと待って。意味分かんない」
「だから殺される理由があるのは?」
 テーブルに身を乗り出し、私は義姉の顔をじっと見た。
「ごめん、ちょっとトイレ」
 義姉は席を立ち、廊下のトイレに入っていった。
 私はテーブルの上で頭を抱え、思考を進めた。
 殺す理由より殺される理由を考えた方が早い。そうだ。殺されるべきなのは妻ではなく、私と義姉の方なのだ。だから、この事件はそもそもがおかしい。死ぬべき人間が死んでいなくて死ななくていい人間が死んでいる。──宮沢賢治の『注文の多い料理店』だ。何かに似ていると思っていたが、この状況は……。
 その時、ヒュンと背後で空気を割く音がして脳天に激しい衝撃を感じた。咄嗟に頭に手をやると、頭が血でべったりと濡れていた。
 振り返ろうとしたが身体のバランスを失い、椅子から落ちた。
 床に転がると、視界が暗く溶けていった。
 トイレの水を流す音が聞こえたような、聞こえなかったような──。                                    



〔了〕

2023年03月05日

短編文画(ぶんが)2 暗い森



         1 


 先日、死にかけた。
 夜中に四十度近くの熱が出て、寒気で身体が震え、全身の骨と関節に激しい痛みを覚えた。寝ていることすらできなくなった私は救急車を呼び、一時間後には救急病院に搬送されていた。身体がバラバラになりそうなほどの痛みと痺れ、怠さ。いくら着込んでも寒さが収まらず、私は死を覚悟した。

 

 鎮痛剤だかなんだかよく分からない透明な液体を点滴されているうちに、身体の感覚はだいぶましになっていった。そして、CTの機械に入れられて検査を受けた結果、肺炎と診断された。
 頓服の解熱剤と抗生物質を大量に出されてその日は帰された。まだ若いし、初期段階で重度ではないから入院の必要はない。一週間これを飲み続けて安静にしていてください、と。まだ若い研修医だったが、その言い様はいかにも力強かった。
 タクシーで帰って来て処方された抗生物質を飲むと、その日は眠れた。そして朝起きるといくらか良くなっていて、おそらく薬が効いているものと思われた。
 一週間ほどその医師の言う通り、薬を飲んで安静にしていたが完全には良くならなかった。午後になると熱が上がり、痰が絡んで咳が出てという状態がしばらく続いた。薬が切れた頃、近所の別の医者に行き、また薬を出してもらった。それを飲んでいるうちに症状は次第に良くなっていった。

 

         *


 前にも一度死にかけたことがある。十代の頃のことだ。
 家の自室のドアノブにタオルを引っ掛けて首に巻き、そのままだらっと身体をもたせ掛けるというやり方だ。有名なミュージシャンがこの方法で自殺したことを知り、死を望んでいた私はその真似をした。
 CDプレイヤーでビートルズの「デイトリッパー」をかけながら、タオルを硬く結び、徐々に身体をずらしていった。そうしていくとだんだんと首が締まっていって、聴こえている音が変になっていった。早回しとスローが繰り返され、鳴っている音やジョン・レノンの声がぐにゃぐにゃと伸び縮みする。


 記憶が蘇るのが、自分の身体がガクガクと揺れているところからだ。見ると、首の横でタオルの結び目が解け、股間が濡れている。尻の下には便が出ていて、「デイトリッパー」は終わって別の曲が聴こえていた。
 身体の痙攣で結び目が解け、私は死の淵ギリギリのところから生還したらしい。失禁もしていたし、おそらくあと数秒といった差だったと思う。三十秒もなかったはずだ。
 結び目はしっかり硬くしていた。身体をずらす前に力を込めて結んだ。だが、解けた。
 何故なのだろう。解けるはずのない結び目が解けた。
 私は本当に死ななかったのだろうか。

         *

 数年前、ある有名な芸能人が死んだ。その芸能人は死ぬ前に霊能力者に未来を霊視してもらうというテレビの番組に出ていた。
 わたしの三年後はどうなっていますか?
 その芸能人は番組の中で霊能力者に訊いた。
 暗いです。真っ暗。何も見えません。
 霊能力者はそう答えた。
 死後、この番組と霊能力者が話題になったことは言うまでもない。
 死因に関しては当初特定には至らず、様々な説や噂が飛び交った。死後一週間を経て腐乱した状態で発見され、自宅の密室の中でのことだったからそこで本当に何があったのかは憶測の域を出なかった。しかしそれからおよそ二ヶ月後、警察は「病理検査の結果、死因は肺炎」と発表した。まだ三十代と若く、死から時間が経過していたためにその公式発表は疑念を持って世間に受けとめられた。

 

 肺炎と救急病院で医師から告げられた際、この芸能人のことを私は思い出した。この芸能人が本当に肺炎だったのかどうかは分からないが、あの状態でそのまま救急車を呼ばず、もしくは状態がさらに悪化して呼ぶことすら出来ず、自宅に寝転がっていたままだったら私も彼女のようになっていたかもしれない。遺体は死後数日してから発見され、私自身は暗い森にいた可能性がある。
 
 人を殺してはいけない、というのは本能的に理解できる。
なぜなら、自分が殺されたくないからだ。人に殺されたくないから、自分も人を殺してはいけない。
 じゃあ、自殺というのはどうだろう。あれは殺す対象が自分になっただけで、人殺しではないのか。どう分類されるのかは知らないが、もし自殺も人殺しとカウントされるのであれば、私はあの時殺人未遂を犯したことになる。
 自殺という言い方が曖昧さを作り出している。つまり、もっと言えば自分殺しだ。人と自分とのあいだに明確な線引きをするか、もしくは同じ一人の人間として線引きをしないか。──どうも線引きは通用しない気がする。それは勝手に自分自身が決めたことだ。上から見ればどっちも一緒だろう。
 自分も殺してはいけない。たとえ、死にたかったとしても。なぜなら人を殺してはいけないから。死にたかったら、死ぬ時を待つしかない。それはいずれ来るのだから。
 人を殺す行為の対極として人を生み出す行為というものがある。出産は女にしか出来ないことで、男は子種を残すことしかできない。だが、誰にでも父と母がいる以上、子を成すという行為自体は出産に伴って男女がすることだ。そういう意味では、私はこれまで二人の子を生み出した。そして、未遂はあったが人を殺したことはない。未遂と既遂のあいだに違いはある。道徳的にはどうだか知らない。そんなものに興味はない。して出来たか、出来なかったか。自殺したか、しなかったか。いま生きているのか、死んでいるのか。
 事実だけをカウントすれば、プラス2ポイントだ。そんな計算式が実際にあるのかどうかは知らないし分からない。暗いところに行くのか、明るいところに行けるのか、実際に死なない限り知ることはできない。


 そもそも、私は本当に死んでいないのだろうか。
 分岐式というものを考えたことがある。
 たとえば十代のあの時、現実にはタオルの結び目は解けず、私は死んだのかもしれない。
 だが、身体の痙攣で結び目が解けたことになって、生きていることになった。死んだが死んでいないことになっていて生き続けたことになった。現実にはあれから数時間後、おそらく朝になってから私の遺体が家族の誰かによって発見され、救急車が呼ばれて病院に搬送され、死亡が確認される。数日後に身内だけの葬儀が営まれ、私の遺体は焼かれて灰になり、骨壺に納められて墓の中に入る。
 その頃の私はまだ一人の子も成していないから、自分殺しでマイナス1ポイント。だから、私自身は暗いところに入り込んでいる。
 死んでも死なない。いくら死んでも死なない。自分の意識ではそうなっている。無限に分岐する。私はいつまででも生き続ける。
 
         2

 ある日、高木義人は、自宅に帰ってくるとそこに一人の女がいることに気づいた。部屋の奥、箪笥と窓のあいだのところにちょこんと座っている。

 

 ああ、いるな。
 普段からそういったものは見慣れていた。道路の真ん中に立って叫んでいるのや、駅の線路の上に座り込んでいるのをちょくちょく見かける。そんな時、義人は見ない。もしくは見えない振りをする。目が合ったりしたら厄介だし、そいつが車や電車に轢かれることはまずないからだ。
 義人はテレビをつけ、帰り道にコンビニで買ってきた缶ビールを開けた。
「ねえ」
 どっかりと胡坐を掻き、ビールを口にする。声が聞こえることもあるが、これも聞こえない振りだ。
「ねえ、無視しないでよ」
 つまみ代わりのスナック菓子の袋を開け、ビールと一緒に流し込む。反応しないことが重要だ。なにかそういう素振りを見せるとバレてしまう。
 女は立ち上がり、義人の真横に移動した。
「ねえ、なに?」
 肩をぐいぐいと押してくる。
「なんで無反応なの? あんたあたまおかしいの?」
 義人は身体のバランスを崩し、飲んでいたビールが胸のところにこぼれる。
「怒ってんの? ゆうこから鍵もらったから、勝手に開けて入っちゃった」
 女はそう言って、スカートのポケットからキャラクターのキーホルダーがついた鍵を取り出して見せた。チラッと視線をやると、それは見覚えのあるもので、女の言う通り以前ゆうこが持っていたものだった。


 すると、この女はいわゆるあれではなく、本物ということか。
「は?」
 義人はそう言って女の顔を見た。二十歳くらいのまだ若い女だ。目が大きくて割と整った顔立ちをしている。肩くらいまで伸ばしたまっすぐな栗色の髪に、灰色のパーカーとカーキ色のショートパンツ。その下からは白い素足が出ていてその先は裸足だ。
「だから、この鍵で玄関開けて入ったの!」
 鍵を目の前でひらひらさせながら、女は怒鳴った。
「なんで? ゆうこになんて言ったんだ?」
「鍵返しといてあげるって。ここのアパートと部屋番号聞いて」
 意味が分からない。この女とは面識がないはずだ。
「ま、嘘なんだけどね。行くとこないから、しばらく置いて」
 その時の正直な気持ちを言うと、悪い気はしなかった。ゆうこともだいぶ前に別れていたし、若くてきれいな女が転がり込んでくるとなれば男なら誰しもそう思うだろう。
「わたし死んだんだ。だから、行くとこなくってさ」
「へ?」と、義人は訊き返した。
「だから、死んだんだって。わたしん中では死んでないんだけど、ここでは死んだことになっていて、仏壇に遺影も飾られてるし、身体は焼かれて灰になってお墓の下」
 ああ、そういうことか。だからここに──。
「でも、幽霊とかそういうのじゃないから。生きてんの。ちゃんと。正真正銘。でも、ここでは死んだことになってるの」
 冷蔵庫の中に入っていた缶チューハイを出すと、女はそれをチビチビと飲みながら話し始めた。
 女は田沢みおという名前で、みおはある晩四十度の高熱を出して救急車で病院に運び込まれた。点滴を受けながら一晩過ごし、その後も投薬や治療を受けつつ一週間入院した後、回復して退院した。
「タクシーにね、病院から乗ったんだけど途中で寝ちゃって、気づいたら家に着いててお金払ってタクシーを降りたの。で、鍵開けて家に入った」
 そこでみおは一呼吸置き、義人の目をじっと見た。


「わたしがただいまってリビングに入ってったら、お母さんがいて私の顔を見てあれ? って顔したの。で、どうしたの? ってわたしが訊いたら、もう顔色がサーッて変わって、もうパニくっちゃってて。奥の仏壇のところ見たら、わたしの遺影みたいなのが飾ってあって、えっ? ってわたしがなっちゃって」
「死んでることになってたってこと?」
「そう」とみおは頷く。「死んだ娘が帰ってきたって、びっくりしてるの。で、ちがうちがうっていくら言ってもお母さんはわーってなっちゃってて、どうしようもなくなったから家を飛び出してきちゃったの」
 その後、駅のコンビニ前でたまたまバイト先の派遣社員のゆうこと会って、経緯を説明すると、ゆうこはそこで義人の名前を出したらしい。
「前に付き合ってた人でね、あの人ね、どうも見えるらしいのよ。死んだ人とか。そういう人なの」
 みおはそういう人ならこの状況を何とかしてくれるかもしれないと思って、返しそびれていた合い鍵を代わりに返しにいくという口実の下、義人のアパートの場所と部屋番号を教えてもらった。
 そして、昼間のうちにたどり着き、合い鍵で部屋の中に入って義人の帰りを待っていた、とそういうことらしい。
 話を聞き終えると、義人は何度も頷き、そしてこう言った。
「それはね、おそらく分岐式というやつだと思うよ」
「ぶんきしき?」
 みおは当然意味が分からず、訊き返してくる。
「そう。分岐式。人は死んでも死なないことになってるんだ。自分の中ではぎりぎり生き抜いたことになっていて、死んでいない。でも、外の世界では死んでいる。つまり、そこで世界が分岐しているんだよ」
「死んでも、死んでいないことになってるの?」
「そう。通常だと死んでいないことになっている世界が続いていく。でも、あなたの場合は分岐したのに、何かの手違いで死んでる側の世界に来ちゃったみたいだね」
 すると、みおはこう訊いてきた。
「じゃあ、どうすればいいの? 死んでいない方に戻るには」
「そんなの簡単だよ。もう一回死んでみればいい」
「え?」
「死んでみるっていっても、死なないけどね。また分岐するだけ。今度はちゃんと死んでない側に。だから、いったん死んで死んでない方にまた戻ればいいんだよ」
 我ながら名案だと思った。また分岐させれば本来の世界に戻れるはずだ。
「でも、死ぬってどうやって? 車に轢かれるとか、ビルの上から飛び降りるとか?」
 いや、と義人は首を横に振った。
「人に迷惑をかける方法はやめてといた方がいいと思う。だから、おすすめは首吊りかな」
 えっ、とみおは顔を顰めた。
「でも、それって確実に死んじゃうんじゃない?」
「そうでもないよ。最後の瞬間にロープが切れるとか、結び目が解けるとか、ぶら下がってたところが外れるとか、そういう形になると思う」


「へぇ」と答え、みおは缶チューハイを口にした。
「それで、死なないようになるんだ」
「うん」と、義人は頷き、缶の底に残っていたビールを飲み干した。
 義人とみおはしかし、そのいったん死ぬという行為を試みぬままに夜通し酒を飲み続け、明け方に性交をして眠った。
 翌日は夕方頃に起きて二日酔いの頭を迎え酒で誤魔化し、テレビなどを見ながらまた飲み続け、性交をして眠った。
 翌々日は、昼過ぎに起きるとまた性交をし、買い物に出かけ、食料やら酒やらを買い込み、帰ってきて夕飯を作って食べた。二人で風呂に入り、歯を磨いて性交をして眠った。
 そんな生活をしばらく続けていたが、やがて義人は仕事に行くようになり、みおもバイトを始めた。お互い夜帰ってくると夕飯を食べ、風呂に入って性交をして眠った。
 死ぬ死なないの話はもう出なくなっていた。死ぬ理由も分岐する理由も失われていた。
 人間は本来、食べて寝て排泄して性交をする生き物である。
 だから、二人は生きることにしたのだ。

         3

 死んでも死なないということがあり得るとしよう。
 主観的な世界がずっと続いていく。すると、何百歳、何千歳まで生きている人がいることになる。事実や現実がどうあれ、そうなってくる。自分だけは死んでいない。ずっと生き続けているのだから。だが、人には寿命というものがあって、誰しもそれを免れることはできない。
 そこで浮かび上がってくるのが、選択的分岐式という可能性だ。

            *


 ある晩、四十度の熱が出た。
 頭の中で脳細胞がプチプチと弾け、熱で溶けて何も考えられなくなった。身体中の骨と関節が軋み、後頭部と背中が痛くて居ても立ってもいられなかった。
 救急車を呼ぼうと思ったが、携帯が見つからなかった。探すのが苦痛で諦めてじっとしていたら動けなくなってきた。喉に痰が絡んで呼吸がし辛く、胸がゼイゼイした。 そのうち、息がまともにできなくなってきた。気管に何かが詰まって狭くなっていて、その少ない酸素を懸命に吸ったり吐いたりした。だが脳にまでは行き渡らず、次第に意識が曖昧になっていった。
 息をするのも億劫になり、そのまま諦めてしまうと体の痛みが消えていった。ふわふわとした気持ちのいい感じになっていって、私はどこかに横たわっていた。

 


 草と土の、便臭のようなムッとする匂いがした。外で、しかも夜だった。闇目が効くようになってくると、そこが木々や草の生い茂る森の中だと分かってきた。
 身体の怠さや熱っぽさや骨の痛みは消えていて、私は立ち上がるとそこらをウロウロした。人のいる気配はなく、空には月も雲もなかった。
 歩き疲れると、そこらの木を背に座り込んだ。
 人の姿はなく、ただただ暗い森が続いている。
 どうやら私は長く生き過ぎてしまったようだ。
 
                                  
〔了〕

2022年09月25日

短編文画(ぶんが)1 公然と異をとなえる



        1

 私が振り向いた時には、すでにその男はそこに立っていた。目が合うと、男は不服そうにこちらをにらみ付けた。私は慌てて目を逸らし、ポケットからスマホを取り出して画面ロックを解除した。
 ちょうどその時娘からラインが来て、パソコンでひらがなが打てなくなったから助けてということだった。娘はコロナによる学級閉鎖で、先週からオンライン授業を自宅の二階で受けている。

 

「もしもし、あーうーんとさ、スペースキーのとなりのとなり。カナとか書いてあるキーを押してみて」
「スペースキー?」
「真ん中の一番下にある何にも書いてない長いキー。その右の右」
「あー、これね。……押した」
「どう?」
「……ダメ。『き』って打ってみたけど、英語しか出ない」
「じゃあ、左の上の方にある全角半角とか書いてあるボタン」
「……押した」
「どう?」
「ダメだー。英語しか出ない」
「じゃあさ、いったん右上の×ボタンで消して、もう一回立ち上げ直してみて」
 オンライン授業に参加するための接続方法は前に教えてある。というか、ネットを立ち上げてホームボタンを押せば自動的につながるように設定しておいた。
「………あ、うーん、……あっ、できた! オッケー!」
「あー、よかった」
「じゃあね」
 電話は向こうから切られた。スマホをポケットにしまい、顔を上げると男はいなくなっていた。写真か動画でも撮っておけばよかった。


 自転車を駐輪場に停めてルジャースに入り、買い物リストのメモを見ながらカートのかごの中にゼリーやらみかん缶やワッフルをぼんぼん入れていく。
 牛乳の棚の前に立った時、後ろからの視線を感じて振り返ったが後ろには痩せた小柄な老人とでっぷりと太った若い女がいただけだった。
 通路の左右を見渡し、あの男の姿がないかチェックする。
 買い物リストはまだ半分も済んでいない。金は一万円しか持ってきていないが、足りるか不安になってきた。
 あの男の目が合ったときの顔が頭から離れなかった。黒い大きな不織布マスクに、深く落ち窪んだ眼。その上の漢字の一を墨で書いたような太いい眉。髪はきっちりと中分けにされていて、生え際は額の領地を押し広げるようにかなり後退している。
 ここ二週間ばかしでやたら見るようになった。ふと顔を上げたり振り返ったりすると、あの男が視界の中にいる。はじめは気のせいだと思っていたが、三回目くらいからそうは思えなくなった。
 ホイップクリームは白いのとチョコの二種類を一個ずつ欲しかったのだが、白いノーマルなものしか棚には置いていなかった。チョコホイップクリームが他にどこか別の棚に置いてあるとは考えられなかったから、私は仕方なく白いのを二つかごの中に入れた。
 ルジャースなのになんで置いてないんだよ。近くのスーパーじゃ置いてないと思ってせっかくわざわざ買いに来たのに、これじゃあ意味がない。
 ツイッターに書き込んでやろう。子供たちはチョコが好きで生クリームよりもチョコホイップの方が人気があるのに、ここの仕入れ担当者はいったい何を考えてるんだ。怠慢にもほどがある。おそらく子供のことなんて何も知らないのだろう。
 クラッカーを四箱とさくらんぼの袋とフレークときのこの山とたけのこの里をそれぞれ五つずつ、パックになったジュースを三種類六つずつかごに入れレジに行く。
 列に並び、レジに着くとレジ打ちをしていた二十代後半くらいのポニーテールの女性はかごの中身と僕の顔を見比べ、一瞬ギョッとした顔をした。どこからどう見ても中年のおじさんが、お菓子やゼリーや果物缶を大量に買い込んでいる、と。
 レジ打ちが三分ほど続き、出てきた金額は八千九百五十六円だった。一万円で足りはしたが、随分使ってしまった。あと今月の残っている現金は五千円にも満たない。月末にまとめて落ちる固定費分を除けば、もう郵貯から下ろせる余地もほぼない。
 上着のポケットの中にいっぱい詰め込んできたレジ袋を取り出し、重くて大きなものから順に入れていった。あぁ、すごい量と重さだ。これを運ばなきゃいけないと考えると、もう脚が疲れてきた。
 ルジャースを出て、両手いっぱいの荷物を自転車の前と後ろのかごになんとか詰め込んだ。鍵を開けて自転車に乗ると、荷物の重さでハンドルが取られ、ペダルはひどく重たかった。だが子供たちのためなら、こんなもの屁でもない。
 私の職業観念は常にそこにある。子供たちのためなら、どんなことでも厭わない。
 子供たちは正直で残酷だ。オブラートに包まれていない、なまのままの人。人間そのものの状態がそこにあり、彼らは賢明で非常に頭がいい。大人は知識と腕力で彼らの上に立った気でいるが、子供たちを観察していると人間の脳は年とともにどんどん退化していくということが如実に見て取れる。

 

         2

 
 重い自転車を十分ばかり漕いで職場に戻ると、私は冷蔵庫に買ってきたものをしまい込んだ。スペースが足らない分は、賞味期限切れのものや袋を開けたまま時間が経っているものをゴミ箱に処分して空けた。
 上着を脱いでエプロンを着け、伝票を書く。そして、メールをチェックした。
 あぁ、またこれか。
 中国による台湾侵攻反対デモを日曜の十三時から上野駅前でやるから、組合員は全員参加するようにというお達し。
 この前の日曜日は署名活動で半日潰れた。せっかくの休みの日なのに、なんでそんな活動予定を入れやがるんだ。せめて土曜日にしてくれよ。でも参加しないと何言われるか分かったものじゃないし、来週末のリモート会議で集中砲火を浴びるかもしれない。だったらせめて代休をくれよ、と言いたいところだが、人手が足りていないせいでそんな贅沢は言えないことも分かっている。
 参加フォームから申し込みを済ませ、スマホのスケジューラーに予定を打ち込む。
 あーあ、娘と市民の森へ行く約束をしていたのに。もういっそのこと、デモに娘も連れていくか。社会勉強になるだろうし、いい刺激にもなる。オンライン授業で鬱屈が溜まっているから、プラカードを掲げて「台湾侵攻はんたーい!」と叫び続ければストレス発散になるかもしれない。
 子供を連れてくる人は実際多い。ニュースでも子供が映っていると絵になって拡散されやすいし、悪事を糾弾している感も強まる。飽きてこないかが心配だが、逆に子供連れであることを理由にして中抜けしてくればいい。さらに事前に口裏を合わせておいてお腹が痛くなったとか言わせれば、誰も「おいおい、それはちょっと…」とは言えないだろう。
 あぁ、めんどくさい。デモをやったところで中国が侵攻をやめるとは思えないし、西側メディアの逆プロパガンダに使われるだけだ。中国国営放送も凄まじいプロパガンダを撒き散らしているが、NHKやBBC、CNNとかも人のことを言えたものじゃない。みんながみんな自分たちこそが正しいと可能な限り大きな声で言い合っている。もう何が真実か誰も分からない。おそらくそれは勝者が決めることだ。勝った方だけが真実を手にすることができる。
 お昼を食べた後、本部からメールで来ていたユーチューブのライブ配信を視聴しているバックで事務作業を続けた。金曜締め切りの、市役所に出す面倒くさい書類を日中にできれば作ってしまいたかった。ユーチューブの画面を小さくして、中で若い女性と眼鏡をかけた偉そうなおじさんが何か喋っているのを音量五ぐらいで聞いていた。何を話しているのかよく分からなかったが、とにかくおじさんの方が一方的に身振り手振りを交えながら喋っていた。

 

 
 二時になると他の職員たちが出勤してきて、トイレ掃除やら掃除機かけや拭き掃除をしてくれた。私は事務作業を切り上げ、各児童の予定を見ながらホワイトボードに出欠を書き込んでいって、それをもとにお迎え表を作成して担当職員も割り振った。
「トイレットペーパーとトイレクイックル、ストック見つかんないんだけどどっか入ってたっけ?」
 木下さんがそう訊いてくる。
「いや、なかったと思うよ。最近伝票打った記憶ないし、流しの下んとこになければないよ」
「じゃあ、明日来るときマツキヨ寄って買ってくるわ。今月予算大丈夫だっけ?」
「あ、そうだわ。あと五千円くらいしかないけど、千円ちょっとくらいでいけるでしょ?トイレットペーパーなしってわけにもいかないし」
「え、もうそんだけしかないの? こないだ一万円以上あるとか言ってなかったっけ」
 私は鼻から溜め息を洩らしながらこう答えた。
「でも、もうそれがないんだわ。だって、今日お誕生日会の材料ロジャースで買ってきて九千円くらい使っちゃったから、それでなくなっちまったのよ」
「そんなにしたの? あ、また年度末のあれ?」
「そう。それもあるし、ガチでお金がないっていうのもある」
 食費として市から支給される予算を年度内に使い切らなければならないという重圧が、毎年年度末に降りかかってる。四月から計画的に使えばそんなことにはならないのだが、現実はそんな上手くはいかない。だいたい八月か九月くらいまでは順調にいくのだが、そこからだんだんプランは崩れていく。
 来月の予算には八万円の食費を組んである。一ヶ月で八万を使い切らなければならないということは、一日三千円ずつ使っていかなければならないということだ。一日三千円もお菓子を買うのは難しい。駅地下とかに売っている贈答用の高級なのを一気に買い漁る方が現実的だ。去年の年度末は一人二万円ずつ買ってくるというミッションを与えられて、大宮の銀の鈴で一箱四千円くらいするお菓子を四箱買って一気に一万円以上使った。残りは近所のスーパーで爆買いして、きっちり二万円になるように最後はうまい棒とチロルチョコで端数を調整した。使い切らないと来年度の予算が減らされてしまうので、きっちり過不足なく使い切るというのがセオリーになっている。
 二時半になると私は大学生の学生アルバイトの対木さんと二人で学校へお迎えに行った。保育系の大学の四年生で、化粧が濃く、割とはっきりしたもの言いをする子だ。
「田中さん聞いてくださいよ。今日ここに来る途中、駅まで自転車で来るんですけど左折しようとした時に向こうから右折してきた車に当たっちゃって──」
「えっ、大丈夫だったの?」私はびっくりしてそう訊いた。
「ええ」と対木さんはあっけらかんとして頷く。「車も曲がるとこだったんで減速してて、私もケガとか倒れるとかまではいかなくて、当たっちゃったって感じだったんで」
「え、でもどうしたの? 車そのまま行っちゃったの?」
「いや、下りてきて謝られて、怪我とかないかどうか聞かれたんですけど大丈夫って言っちゃって、でも相手が会社の車みたいでドアの横のとこに会社名書いてあったんで、そればっちり覚えて、もし何かあったらそこの会社に電話してやろうと思って」

 

「へぇ、大変だったね。あっ! そこ、うんちある!」
 喋りながら歩いていたから、対木さんはあと二歩くらいのところで道端に落ちているうんちを踏みそうになっていた。
「あっ、ほんとだ!」
 ギリギリで回避して、靴がうんちとは当たらずに済んだ。
「また今日もここか。毎日あるよね」
 公園沿いの道なのだが犬の散歩コースになっていて、うんちがひどいときには十メートルおきくらいに落ちている。一匹の犬がこんなに大量のうんちを出せるはずがないから、おそらく複数の犬だ。他の人もうんち回収せずに行っているんだから、自分のところの犬もまぁいいだろうという感じで路肩がどんどん犬の公衆便所化していっている。しかも毎回違うところに毎回違う形と量のうんちが落ちているから、誰か近所の人か役所の公園管理事務所的な人が回収していて、そこに誰かが犬を連れてきてまたうんちをさせて放置していっているということだ。
「あたまどうかしてますよ。うんちして、そのまま行くって信じられない」
「バレなきゃいいだろって感じなんじゃない?」
 実際に犬を連れて歩いている人はよく見かけて、うんちを放置していっていないか見てはいるが、現場に遭遇したことはない。見たら絶対写真に撮って役所にメールに添付して通報して、ツイッターにもあげてやるのに。
 酒の缶なんかもこの道はよく落ちている。アルコール度数九パーセントくらいのストロング系かハイボールなんかが多い。アル中が歩きながら飲んで、空になったらそこらに放り投げていくのだろう。いろいろどうかしている。公園の周りの道だからかもしれない。犬もその飼い主もアル中も公園に来て、帰り道にうんちや酒の空き缶をぽいと捨てていくのだ。

 
 学校に着くと、子供たちはまだ校舎から出てきていなかった。いつもだったら、高学年の子から先にパラパラと出てきている頃なのだが。
 他の施設の職員が既に来て待っていて、挨拶をするとこんな話をされた。
「明日から学校閉鎖らしいですよ」
「えっ!」と私と対木さんは同時に大きな声をあげた。
「コロナが一気に三十人くらい出たってネットニュースにもなってますよ」
 私は校舎の中を窓から思わず覗き込んだ。職員室の中が見えていて、よくよく見てみるとただならぬ空気に満ちているような気もする。
「えっ、ちょっとヤバいんですけど。わたし帰ってもいいですか?」
 ああ、そうなるか。
「え、マジで」
「あのー、わたし先週から教習所に通ってて、仮免試験休むわけにいかないし、月末の卒業式も出たいんで」
「あー、うん、そっかー」
「ほんとすみません。お疲れ様です」
 対木さんはそう言って頭を下げ、本当に校門から出て行ってしまった。
 おいおいマジかよ。そりゃ子供たち出てきたら鼻出しマスクで喋りまくるし、飛沫もウィルスも飛びまくっているのは分かるが、帰るっていうのはどうかと思う。じゃあ、俺はどうなるんだよ。感染してもやんなきゃならないことはやんなきゃだし、選択の余地ないんだよ。それに若いからどうせ重症化しないだろ。むしろ心配しなきゃいけないのはこっちの方だ。
 そんなことを悶々と考えているうちに、子供たちが校舎の中からわらわら出てきた。
「あ、たないる!」
 二年生のひろくんが私を見つけて手を振った。
「たーなー!」
「ひろくーん、おかえりー!」
 私も手を振り返し、そう呼び掛ける。ひろくんは手提げバッグいっぱいの荷物と書道セットを両手に提げ、こっちに走ってくる。
「明日からオンライン授業だって!」
 ああ、やはりその話で遅くなったのか。ひろくんのクラスにもおそらくコロナの子はいるだろう。もうPCR検査をやるのかやらないのかという話になっている。やったら十人に一人くらいは陽性が出るだろう。子供だからどうせ無症状で、熱もない。コロナだけど元気という状態だ。だったらそれは果たして病気なのかという気もする。台湾では戦争が起こっていてアメリカが参戦するか否かで核戦争の瀬戸際という状態なのに、コロナとか言ってる場合か。戦争に比べたら、もうそんなのどうでもいいだろう。
「へー、前もやってたよね」
「あ、そうそう。すっごいつまんなかった」
 ひろくんのクラスは今月の頭に四日くらい学級閉鎖をしていた。
 他の子たちも一気に出てきて、校舎の前は渋谷の交差点みたいになり、みんなマスクがズレたり外れたりしているのもお構いなしにぎゃあぎゃあわあわあ騒いでいる。
 もうどうでもいいわ、とやけっぱちになりながら、集合場所に集まってきた子供たちの相手をし、全員揃ったのをリストをチェックして確認すると、学校を出発した。みんな夏休み前の終業式後みたいにテンションが上がりまくっていて、重いランドセルや荷物を抱えながらも高レベルの開放感に満ち満ちていた。
 施設に帰ってくると、私は残っていた木下さんに対木さんと学校閉鎖の件を伝えた。
「あ、そうそう。対木さんさっき戻ってきてお疲れ様ですって出てっちゃったから、めっちゃびっくりしたんだけど」
「知らんよ。教習所通ってて仮免試験とか卒業式とかあるからだって」
「そんなの、だったらうちらどうすんのよ」
 もうどこでも一緒だろという気もする。駅でもコンビニでもスーパーでも陽性者はそれこそそこら中にいるだろうし、検査をしなければいけない状況に追い込まれた人だけが検査を受けて、一定の割合で陽性者が出ているという状態だ。私も木下さんもコロナ陽性かもしれないし、もうみんながみんなウィルスをばら撒きまくっているだろう。
「知らんよ。でも、だから明日から岡地小の子来ないよ」
「いつまで?」
「噂だと今週いっぱい」
 たしかそんなことを言っていた気がする。言っていなかったような気もする。
 事務所に入ってパソコンのメールをチェックしたが、役所からはそれらしきメールはまだ来ていない。だが、子供たちがそう言っているのだからそうなのだろう。

 
 その日は、そんなゴタゴタのうちに過ぎていき、六時になると私は上がり、帰路に就いた。バス停でバスを待ちながらスマホをいじっていると、背後にあの男が立った。
「あっ」と、私は思わず声をあげていた。
 黒いマスクの太眉男。目が合うと、またぐっとこちらを睨みつけてきた。私はとっさに顔を逸らし、前に向き直った。
 逃げるわけにもいかないし、バスに一緒に乗るしかない。
 ルジャースの前で会った時と同様、手には何も持っておらず、太めの大柄な体を小さなグレーのスーツの中に押し込んでいる。ネクタイはしておらず、ベージュ色のシャツを着ている。
 見張られているのだろうか。それともたまたまなのか。睨み返してくるのが意味が分からない。ヤンキー気質というか、なにメンチ切っとんねん! といった感じなのかもしれない。
 しばらくするとバスが来て、私と男は続いて乗り込んだ。
 私は空いていた一番後ろの左端の席に座り、太眉男は右端の席に座った。
 男と私の距離は一・五メートルといったところ。ちらりと視線をやると、やはり男はこちらをぐっと見返してきた。見知らぬ人同士の顔の合わせ方ではない。
 いくつかのバス停に停まり、男と私の間には中年のサラリーマンとジャージ姿の男子高校生が座った。私はその間、ずっとスマホのツイッターのタイムラインを見ていて、台湾侵攻のニュースや著名人の書き込みに対して、返信や引用リツイートをしたりしていた。
 基本的には私はあれは中国包囲網の一環で、アメリカの策略だと思っている。去年の夏くらいからアメリカは中国が台湾を侵攻するぞするぞと言い続けていたし、あれはダチョウ倶楽部の押すなよ押すなよ的な振りだったのだと考えている。──コロナの時にアメリカは学んだのだ。あの時もトランプ政権は中国がウィルス兵器を開発していて、それをアメリカや西側諸国にばら撒こうとしている計画はキャッチしていた。だが、それは機密情報として取り扱われ、表には出なかった。そして、いざ年明けに計画が実行に移されてから情報を表沙汰にしても後の祭りだった。だれもそんな話は信じないし、トランプのキャラとも相まって陰謀論の類いとして扱われた。つまり中国が情報戦を制し、アメリカや西側諸国を出し抜いた。アメリカが今回はやり返し、情報戦を制して中国はロシアと北朝鮮以外の世界中の国を敵に回し、完全に孤立している。沖縄や南西諸島からは米軍の最新鋭戦略兵器が大量に台湾の前線に送り込まれ、人民解放軍は苦戦を強いられている。
 真実なんてどこにもない。日本では中国も習近平も極悪非道の戦争犯罪人だが、それは一方の側からだけ見た偏った真実だ。中国国内ではまったく逆の報道がされていて、アメリカと西側諸国が一方的に悪いとされているだろう。おそらく本当の真実はその中間あたりのどこかにある。アメリカも防ごうと思えば外交的に中国の侵攻を止めることはできただろうし、それをせずに近い将来経済的にも国力軍事力的にも抜かれていたであろう中国を国際的に孤立させ、その既定路線を台無しにしたという大き過ぎるメリットがある。
 終点の駅に着くまで、私は夢中になってツイッターへの書き込みを続けていた。

 

 バスを降りると、私は交差点で信号待ちをしていた。すると、そこに黒いタクシーが停まり、ドアが開いた。
 ん? と私は思い、周囲を振り返ろうとした。だが、そうする間もなく後ろからドンと強い力で押し出され、勢いでうつ伏せにタクシーの中に転がり込んだ。
 続いて乗り込んできた何者かに蹴り込まれ、ドアがバタンと閉まる音がした。
「おい、はやく出せ!」 
 見上げると、あの太眉の男だった。車は急発進して、スピードをぐんぐん上げながら走りだした。
 私は何か言おうとしたが、恐怖で声にならなかった。脚が男の両足で踏みつけられていて自由が利かず、シートの上に這い上がろうとしたができなかった。
「おっ、これこれ」
 そう言いながら男は私の後ろポケットに入っていたスマホを取った。そしてスマホをしばらくいじくっていた。
「あった、あった。やっぱそうだ」
 男は私の顔を睨み、鼻から息を吐く。
「こいつだ。こいつ。ギャラクシースター」
 それは私のツイッターのアカウント名だった。
「売国奴のアカ野郎だよ。間違いない」
 ああ、なるほど。右寄りのイカれた奴らか。ツイッターの書き込みから中国を擁護していると短絡的に判断して、狩りに来たのか。
 そう考えると、一気に恐怖が消えていった。
「ああ、そういうこと。なに、どうすんの? 殺す?」
 単細胞の能無しどもめ。お前らの小さな脳みそじゃ国際政治なんぞ一生分からんだろう。
「は? 急にどうした?」
 黒マスク越しに男は威圧的な声を出す。
「ここんとこずっと見張ってただろ。今朝もルジャースの前で。頭おかしいやつだと思ってたけど、こんなことしたら捕まるぞ」
 すると、男は右足を振り上げ、私の背中を嫌というほど強く蹴った。
「うるせぇ、共産党!」
 痛みで息が詰まり、ゴボゴボと咳き込んだ。
「お前みたいなのがいるから、面倒くせぇことになんだよ!」
 上体を起こそうとしたら、右耳を思い切り殴られた。
 脳の中で火花が散り、身体の芯が一瞬冷たくなった。殺されるかもしれないと悟り、脳が痛覚をシャットダウンさせたのだろう。
「死ねやぁ! この中国野郎!」
 私は共産党も中国も好きではなかったが、この男からするとそう見えたようだった。
 男は絶叫しながらなおも私の背中やら脚や腰を蹴り続け、車は止まることなく走り続けた。


[了]

2022年09月18日

短編小説9 それは本能です



 眠っても、眠っても、眠り足りない日々が続いた。
 よく分からないが、とにかく眠いのだ。脳の酸素が足りないのか、起きている時も意識がはっきりせず、気づくと舟をこいでいる。
 一度など、セックスをしている途中で眠ってしまった。正常位で、腰を前後に動かしているうちに堪らないほどの眠気に襲われ、そのまま相手の身体に覆い被さり、寝てしまった。性器を挿入したまま、僕は心地よい眠りの中に引きずり込まれていった。
 目が覚めると彼女の姿はなく、僕は裸でベッドに横たわっていた。
 テーブルの上に紙があり、そこには大きな字で「バカ」と殴り書きされていた。
 慌てて彼女の携帯に電話をかけたが、つながらなかった。呼び出し音は鳴るのだが彼女はずっと出ず、留守電にも切り替わらない。
 セックスをしていて極度の気持ちよさを感じているうちに、それが恐ろしいほど強い眠気に入れ替わっていった。コーヒーに入れたミルクのように、エクスタシーと眠気が入り混じっていった感じだ。
 僕は彼女にそう弁解をしたかったのだが、もし話が出来ていたとしても伝わっていたかどうかは非常に微妙なところだ。
 腹が減っていた。しかも、かなりひどい空腹感だった。
 とりあえず流しの下に入っていたカップラーメンを出してきて、ポットのお湯を注いで三分待ってから食べた。一気に貪るように掻き込み、スープまで飲み干したが全然腹は満たされなかった。
 近所のコンビニでお惣菜の弁当とポテチと缶ビールを買ってきた。そして帰ってくるなり弁当を食べ始め、五分もかからずに平らげたがまだ腹は減っていた。
 ポテチをつまみながらビールを飲んだ。すると、眠くなってきた。
 一缶飲み終え、トイレで長い小便をすると、僕はあまりの眠気にベッドに横になっていた。そこでひとまず記憶は途切れている。

 次に覚えているのが、起きてまた彼女に電話をしたところからだ。今度は彼女は出てくれて、僕は病気なんだ、と言った。
「ナルコプレシーってやつだと思う。もう眠くて眠くて起きていられないんだ」
「じゃあ、病院行ったら?」
「行くよ、もちろん。だからとりあえずここ来てくれないかな。ちゃんと面と向かって謝りたいし、相談したいんだ」
 すると彼女は承諾し、すぐに行くと言ってくれた。
 しかし、一時間後に彼女が来た時には、僕はまた眠っていた。合い鍵を使って部屋に入り、彼女は僕の身体を揺さぶった。
「ねえ! ちょっと起きて!」
 僕は目を覚ましたが、彼女の姿を見るなり性欲がムクムクと湧き上がってきてそのまま抱きついてベッドに押し倒した。
 裸になってセックスをして、今度は射精までしたが、それでもまだ性欲は収まらず、僕はもう一度挿入して、また射精した。だが、それでもまだ性器は硬いままで、もう一度挿入して射精までいったが、それでもまだ収まらなかった。
「いや、もう無理。あそこ痛いしもう止める」
 彼女の方がギブアップし、僕は彼女にお願いして手と口で抜いてもらった。
「どんだけ出んのよ。もう、ほんと意味わかんない」
 僕も同感だった。こんなことは今までなかったのに。
 その後、へとへとに疲れ果てていた僕と彼女は二人で眠り込んだ。そして、翌日の昼過ぎくらいに起きると、腹が減っていることに気づいた。
「お寿司屋さん行かない? 回ってる方だけど」
「回転寿司? え? なんで?」
「なんとなく。食べたい気分だから」
 これは嘘だった。本当の理由はいくらでもおかわりが出来るからだった。それくらい腹が減っていた。
 交代でシャワーを浴びた後、僕らは近所の歩いて五分くらいのところにある回転寿司店に入った。中途半端な時間のせいかさほど混んではいなくて、僕らは真ん中のレーンの前の方にあるボックス席に座った。
 機械でお茶を注いで、それを二口ほど飲むと、僕はさっそく寿司の皿を取り始めた。
 まぐろにハマチにイカにタコ、卵焼き、アナゴ、茶わん蒸し、プリン、しゃこ、赤貝、いくらに納豆巻き……。
 僕は手当たり次第に取っていき、刺身ネタは上から醤油をかけて食べまくった。
「ちょっとちょっとちょっと……ペース早くない?」
「腹減ってるんだよ。きみも食べなよ」
 彼女の名前は橋本きみという。希望の希に果実の実で希実。
「食べてるけど。普通に」
 見ると、彼女の前には三つの皿が積み重ねられている。
 炙りサーモンの皿を僕の目は捉え、通過してしまう前に右手でさっと奪い取った。
「十二皿。まだ五分も経ってないけど」
 指で僕の皿の数を数え、きみはそう指摘した。
「まだまだ足りない。腹二分目も来てない」
 正直に僕はそう言った。
「いやいや、大食いの人じゃないんだから。冗談でしょ?」
「あと、二十皿くらいはいけるね。もっとかもしれない」
 すると、きみは笑った。おそらく冗談だと取ったのだ。

 夕方の五時前くらいまで食べ続け、テーブルには皿が高層ビル群のようにうず高く積み上げられていった。
 お会計は六万五千十七円で、カードが使えないと言われたから僕は近くのコンビニのATMで七万円を下ろしてきて支払った。
 きみは途中から呆れ顔で、会話もなくなった。
 二人で自宅に帰ると、またセックスがしたくなった。僕がそう言うときみはこう答えた。
「ちょっと待って。医者行こ。病気だよ、しゅんちゃん」
 僕の名前は坂田しゅんいちという。季節の春に漢数字の一。
「脳の病気。セックスもそうだし、さっきの大食いもそう。ナルコプレシーだっけ? その異常な眠気もそう」
「脳の病気?」
「そう。満腹中枢とか眠気とか性欲とかを司るとこが、なんかの具合でやられちゃってんの。だから、もうこんな歯止めが利かなくなっちゃってんの!」
 そんなことはどうでもいいから、僕はもうきみとセックスがしたくてしょうがなくなっていた。
「でも、それってどれも本能だから、そういうもんなんじゃないの?」
 すると、きみは勢い込んでかぶりを振った。
「違う、違う。人間なんだから、他の動物と違って普通は歯止めがきいてるの! でも今のしゅんちゃんはその歯止めがどっか行っちゃってるんだって」
「分かった。分かった。分かったから、それでいいし、明日医者行くから」
 そう言いつつ、僕はきみに抱きつき、そのままベッドに押し倒していた。
 また三回セックスをし、四回目をしようとしたらきみは怒って服を着て出ていった。部屋を出る時、「バカ!」とドアを勢いよく閉めながら叫んでいた。
 でも僕はその頃には眠気のピークに達していて、もう目を開けてはいられなかった。性欲が睡眠欲にくるっとそのまま切り替わった感じだ。原理はよく分からないが。

 目を覚ましてテーブルの上にあった携帯の時計を見ると、翌日の昼過ぎだった。また随分長く眠り込んでしまったらしい。着信が朝から二時間置きくらいに入っていて、それはすべて会社からのものだった。
「あ、すみません。ちょっと起き上がれなくて、救急車呼ぼうと思ったんですけど、もう手も上がらないような状態で」
「え? 大丈夫?」
「ええ、さっき起きた時だいぶましになっていて、これから医者へ行ってきます。なんか私自身もよく分からないんですけど」
 課長はそれで納得してくれたようで、お大事にと言い残して電話は切れた。続けざまに僕はきみにもかけてみたが、当然つながらなかった。電話に出ない。怒っているのだ。
 僕は財布と携帯だけを持って、普段風邪を引いた時に行っている近所の内科に足を運んだ。
 十五分程待たされた後に名前が呼ばれて、僕は医者に症状を説明した。
「とにかくもう我慢できないんです。眠気も食欲も性欲も」
「はぁ」と言って、その初老の黒縁眼鏡をかけた女医は首をひねった。
「なにか薬ありませんかね?」
「いや、分からない。そんなの聞いたことない。はっきり言って精神科とか心療内科とか、そういうとこに行った方がいいと思う。別にどこが悪いとかの病気じゃないし」
 ああ、そうか。そう言われてみればそうだ。
 僕は医者に礼を言って診察室を後にし、千円ちょっとくらいの診察料を払ってその内科を出た。
 携帯で検索をかけて、駅の近くに精神科のクリニックがあることが分かり、僕はそこに行ってみることにした。
 ATMでまとまった額のお金を下ろし、精神科へ向かっている最中に強烈な便意を催し、僕は駅前の西友のトイレに入って大量の便を放出した。ああ、昨日食べた分が消化されたのだなと思ったが、トイレを出ると、僕はほとんど飢餓感に近い空腹を覚えた。
 西友を出て駅のロータリーのところにある牛丼屋に入り、とりあえず牛丼の大盛りを頼んだ。牛丼はすぐに出てきたが、すぐに食べてしまった。僕はまた券売機のところで生姜焼き定食ご飯大盛りを買い、カウンターの中にいた店員さんに渡した。
「お持ち帰りですか?」
「いえ、ここで食べていきます」
 その若い女性店員は一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに生姜焼き定食を作り始め、程なくして出してくれた。僕はまたそれを五分もかからずに食べ切る。
 まだまだ腹は減っていたが、これ以上頼むのも気が引けたから僕はごちそうさまでしたと大きな声で言ってその牛丼屋を出た。そして、その隣の中華屋に入った。
「ラーメン大盛りとチャーハン、それに天津飯お願いします」
 席に着くと注文を取りに来たおかみさんに僕はそう伝えた。
「そんなに食べれるの?」
「ええ、大丈夫です。腹ぺこなんで」
 まずラーメンが来て、次にチャーハン、最後に天津飯が出てきた。味は美味くも不味くもなかったが、肝心のボリュームはなかなかのものだった。
 全部食べ切ると、お会計をして店を出た。
 僕は駅前にある繁華街の中の裏路地に入り、ピンサロと看板の出ていた店に入った。
「ご指名はありますか?」
「いや、大丈夫。誰でもいい」
 背の高い受付のところにいた中年男にそう告げると、僕は奥の部屋に案内された。
 部屋の中でベッドに腰かけて携帯をいじっていたのは、だいたい三十くらいの女で、小太りでのっぺりとしたあまり美しくはない顔立ちをしていた。
 僕も女の隣に腰かけて二人切りになると、女は着ていたキャミソールを脱いだ。僕も服と下着を脱ぐと、女は下着も脱いでそのままベッドに横になった。
 女の上に覆い被さり、僕は性欲の赴くまま女の身体を貪った。そして、カチカチに硬くなった性器を女の股の間に挟んでもらった。
「オプションでプラス二万円で生の本番いけますけど、どうします?」
 僕はもちろんすると答え、女の股を広げ、ヴァギナの中に性器を挿入した。そして、そのまま腰を激しく動かして射精すると、一度抜いてからまた挿入して、激しく突き上げてまた射精をした。
「もう一回だけいいかな」
 女の性器からは精液が溢れ出てきていたが、僕はそう言って女に頭を下げた。
「いいよ、いいよ。いくらでも出して」
 僕はまた硬くなった性器を挿入して射精し、その後も二回また挿入して射精した。
「ああ、もうだめ。痛くなってきたから」
 女はきみと同じことを言って、それ以上の挿入を拒否した。僕は仕方なく諦めて、下着と服を身につけた。
 部屋を出てお会計をしようとすると、十五万だと言われた。
「え、でもオプションはプラス二万円って……」
「お客さん、一回につきプラス二万ですよ。女の子に訊いたら本番を五回したらしいじゃないですか。だから、一万プラス二万で三万円。それが五回だから三かける五で十五万。はっきりしてますよ。良心的でしょう?」
 手持ちは五万しかなかった。
「ごめんなさい。ないので、五万でいいですか?」
「はぁ? ふざけたこと言ってんじゃねえよ。払うまで帰さないよ」
 凄みのある声だった。払わないと、本当に生きては出られそうにない。
「ちょっと、電話していいですか?」
 僕は仕方なくきみにかけた。今度は出てくれて、僕は彼女に要件を伝えた。
「で、困ってるからお金ちょっと持ってきてほしいんだよね。必ずあとで返すから。十万円。ほんとごめん」
 ぼったくりバーに入ってしまったということにしておいた。さすがにピンサロとは言えなかった。
 きみがお金を持ってきてくれると、僕は男にそれと自分のお金を足して渡した。
「いやー、ごめんね。お会計の時に、急に十五万って言われちゃって、びっくりして抗議したんだけど、全然聞いてもらえなくて」
 狭い階段を降り、建物を出た。
「っていうかさ、ここバーじゃなくてピンサロだよね。ここ、看板に書いてあるし。で、よく分かんないけど、ピンサロって風俗だよね?」
 店の看板の前できみは僕を問い詰めてきた。
「風俗って言っても軽いやつだよ。女の子とお酒を飲んで、ちょっと抜いてもらうっていう……」
「抜いてもらう?」
 えらく大きな声だった。
「そうそう、……いや、手とか口とかで」
 僕の顔を睨みつけ、はあと大きくため息を吐いた。
「それが十五万?」
「そう、ぼったくり。普通は七千円くらい」
 完全にあきれ顔できみは歩き始めた。
「性欲がとまらないんだ。病気なんだよ。昼間病院も行ってきた」
「で、どうだったの?」
「病気かどうか分からないし、出せる薬もない。精神科か心療内科に行ってくれって」
「なるほどね。心の病気ってこと?」
「そういうことみたい。だから、明日行ってみるよ。駅前にあるみたいだから」
 きみは返事の代わりにまた大きなため息を吐いた。

 僕の部屋に着くと、きみは服と下着を脱いだ。
「またどうせするんでしょ。すれば。気の済むまで」
 ベッドに裸で横になり、彼女はじっとしている。僕の性器はまた硬くなってきていて、着ているものを脱ぎ捨ててきみに覆い被さる。
 挿入して動かして射精し、また挿入して射精し、もう一度挿入して射精した。
「まだまだなんでしょ。もういいよ。いくらでもすれば」
 実際すぐにまた硬さは復活してきて、僕はまたきみのヴァギナの中に性器を突っ込んだ。
「ごめん。ごめんな」
 僕は謝りながら腰を動かし、彼女の身体にしがみついて射精をした。すると今度は急激な眠気に襲われ、次の瞬間、僕は眠りに落ちていた。

 目を覚ますとそこにきみの姿はなく、ベッドでひとり裸で横たわっていた。
 テーブルの上には書き置きがあって、そこには、「起きたら病院に行ってください。あなたは病気です」と書かれていた。
 腹の痛みが襲ってきて、僕はトイレに駆け込むと、また大量の便が出た。昨日食べた分がほとんど出た感じだった。
 トイレから出て手を洗うと、また案の定急激に腹が減ってきた。
 ああ、またこの繰り返しか。
 僕はその連鎖を断つために、顔だけ洗ってから自宅を出ると、まっすぐに駅前の精神科へと向かった。
 着いて受付を済ませると、混んでいたこともあって三十分くらい待たされた後に名前を呼ばれた。
 診察室にいたのは若い眼鏡をかけた女医で、グッとくる感じの美人だった。
 僕は彼女にいまの状況を説明し、何とかならないかと助けを求めた。
「ええ、分かりました。ナルコプレシーとセックス依存症、それに過食症ですね。それぞれに効く薬を出しておきますから、それを一週間飲み続けてください」
 診察が終わると、僕は道路の向かい側にある薬局で処方箋を出して薬をもらった。
 昨日の中華屋に入り、大盛りラーメンと回鍋肉定食を頼んで料理が届くと、十分もかからずに平らげた。そして、病院で処方された薬を飲んだ。全部で五種類出ていて、脳のシナプスをどうたらこうたらという説明を受けていた。とにかく欲を抑制するのに効く薬のようだ。
 腹はまだまだ減っていたが我慢して家に帰り、パソコンを立ち上げてネットのエロ動画を見ながら自慰をして、寝た。それはひどく深い眠りで、起きた時にはかなり身体がシャキッとしていた。そして僕は冷蔵庫にあった納豆やらカニカマやパンを食べて、また薬を飲んだ。
 性欲や食欲や睡眠欲はいくらか減退したようで、さほどではなく、我慢できるくらいだった。
 きみに電話をしてそう伝えると、ひどく喜んでいた。
 時計を見ると、夜中の十時過ぎで、薬は朝昼晩と処方されていたから、次に飲む分は朝になるまで待たなければいけない。
「なんか買って持ってくよ。待ってて」
 そう言ってきみは電話を切った。
 待っている間に、また性欲がムクムクと湧いてきたが僕はそれをなんとかやり過ごした。そして、きみが玄関を開けて入ってきた瞬間抱きついて床に押し倒し、その身体にむしゃぶりついた。
「ちょっと、やめて! やめてよ!」
 きみは抵抗してやめさせようとしたが、それが僕の性欲をさらに掻き立てた。
 スカートをたくし上げて下着の隙間から硬くなった性器を突っ込み、僕はそのまま彼女の中に射精した。
「もう最悪!」
 僕が性器を抜いて身体を起こすと、きみは吐き捨てるようにそう言った。
「ごめん。我慢できなかったんだ」
 謝ってからそこらに散らばっていたコンビニの袋を部屋の中に運び入れる。
「全然治ってないじゃない」
 部屋の中に入ると、僕は彼女に頼み込んで今度はベッドの上でもう一度やらせてもらった。きっちり射精し終えると、もういいかなと気分になった。
「いい。もうやめとく」
「え? そうなんだ」
 三回戦まで覚悟をしていた彼女は拍子抜けしたらしく、驚きの声をあげた。
「そう。多分薬が効いてるんだと思う」
 そして僕らはそのままベッドで眠り込んだ。朝まで目覚めず、起きるときみが買ってきてくれたものを食べて薬を飲んだ。
「悪くないよ。そんなに眠くないし、お腹も空いてないし、やりたくもない」
 仕事に出かける直前に、彼女に手で抜いてはもらったが、それで僕は満足した。
 電車に乗って職場に着くと、もうだいぶ良くなったと僕は上司に報告をした。
「ちょっと具合がおかしくなってたんです。でも、出された薬を飲んでたら良くなってきました」
 午前中は前日のつけで溜まっていた事務仕事をこなし、お昼に外でかつ丼を食べて薬を飲み、午後は夕方までずっと会議だった。
 へとへとになって夜帰宅すると、自宅ではきみが待ってくれていた。
「どう? 具合は?」
「悪くない。変な感じにはなってないよ」
「お腹は?」
「空いてない。でも、薬飲まなくちゃ」
 とりあえず冷蔵庫の中に入っていたヨーグルトを食べ、薬を飲んだ。
「エッチは?」
 きみにそう訊かれたが、あまりそういう気分じゃなかった。
「とりあえず寝るよ。もう、なんか疲れてて」
 シャワーも浴びず、歯も磨かず、服を脱いで下着だけになってそのままベッドに潜り込んだ。
「おやすみ」
 きみはそう言って電気を消し、部屋を出ていった。
 朝の四時過ぎに目を覚まし、そこから眠れなくなった。仕方なく起き出してシャワーを浴び、歯を磨いた。
 薬を飲まなければと思って、冷凍してあったパンを焼いて食べて薬を飲んだ。
 時間になると家を出て電車に乗って会社に行った。昼は食べる気がしなかったから食べず、薬だけ飲んだ。夜の八時過ぎまで仕事をしたが、極めて快調だった。全然眠くならないし、脳はフル回転している。
 帰宅すると、途中で買ってきたつまみを口にしながらビールを飲み、そのあと夜の分の薬を飲んだ。腹は減ってはおらず、ビールだけでお腹いっぱいになったから夕飯は抜きにした。
 風呂に入って歯を磨き、寝ようと布団に入ったが、目が冴えて全然眠れなかった。結局朝までベッドの中でスマホをいじくっていて、六時過ぎに起き上がった。
 朝には朝の分の薬を飲み、会社に行って昼になるとまた薬を飲み、夜家に帰ってきてから夜の薬を飲んだ。結局、一度も食事を摂らなかった。
 その日の晩は前日と同様、まったく眠れなかった。途中で諦めて起き出し、テレビでやっていた映画を見た。
 そして、一週間そんな生活を続け、出された薬を飲み切ると僕はきみに電話をした。
「治ったよ。完全に。眠くもないし、食べたくもないし、したくもない」
「あ、そう。ぜんぜん?」
「そう、全然。火曜日あたりから寝てないし、食べてないし、抜いてもセックスもしてない」
「薬が効いたってこと?」
「効いてるね。すごく効いてる」
 すると、うーん、ときみは電話越しに唸った。
「それでいいの?」
 僕はこう答えた。
「いい。全然かまわない。あんなものはないに越したことはないんだ」
 そして、そのまま電話を切った。
 きみと会話する意味も、もうない。


                                  
 [了]

2023年01月15日

短編小説8 コロナは続くよどこまでも



 私はその時、奇妙な静謐のなかにあり、どこからともなくわき上がってくるどうしようもない焦りとたたかっていた。これは私のたたかいであり、彼女のたたかいでもあった。
 彼女というのは町田のり子のことでのり子は既婚者だが、私と関係を持ってもう二年ほどになる。かく言う私も既婚者で妻のちさとの間に二人の子供がいる。
 のり子とちさは見た目はもちろん性格もまったく違う。のり子はか細い腰と尻と薄い乳を持ち、ちさは大きな尻と乳の持ち主で、ついでに腰まわりもなかなか大きい。
 のり子はショートカットでちさは腰くらいまではあるロング。性格も対照的でのり子が本音をズバズバ言って遠慮なくキレるのに対して、ちさはあくまで温厚で決して自分の本音を明かさず、最後の最後まで相手に合わせる。
 顔ものり子がつくりのはっきりとした濃い顔立ちなのにたいして、ちさはほんわかとしたぼんやりとした顔をしている。
 のり子から電話がかかってきて、いきなりこう言われた。
「ごめん。まぢで。陽性。PCR陽性」
 濃厚接触どころかベロチューを含む濃厚なセックスを一昨日したところだ。
「分かった。大丈夫? 熱とかは?」
「ない。ちょっと喉があれかなってくらい。ほぼほぼ無症状」
「あ、そう。よかった。濃厚接触者だけど、言わなくていいよね」
「なんか症状出てない?」
「うん」と私は答えた。「いまのところは大丈夫」
 今朝から喉が少しだけ引っ掛かるような感じがしていたが、そのことは言わないでおいた。
「じゃあ、いいんじゃない。感染してないよ。たぶん」
「旦那さんとお子さんは?」
 息子さんの小学校で流行っていて、学級閉鎖や学年閉鎖が相次いでいると聞いている。
「いや、もう全員陽性。あの会った日の次の日に息子が三十八度の熱出して、小児科連れてったら抗原検査で陽性出て、一家全員PCRやんなくちゃいけなくなって」
 私はしばらく絶句した。じゃあ、おそらく私もダメだろう。
「大変だね。頑張って。お大事に?」
「だから症状ないんだって。いたって元気。陽性だけど。息子ももう熱下がってゲーム三昧。で、待期期間二週間って言われたから、来週いっぱいまで家出られない」
「へぇ、結構長いね。食事とかどうするの?」
「んなもん、スーパー行って買うに決まってるでしょ」
 あぁ、見た目じゃバレないからな。
「俺も陽性だったらどうしよ」
「検査やんなきゃいいじゃん。そしたら、陽性でも陰性でも分かんないままでしょ」
 ああ、そうか。黙っておけばいいのか。
「分かった。そうする」
「そうして。だから、一応知らせておこうと思って」
「OK。ありがと」
 電話は切れ、私はきょろきょろと周りを見渡した。みなパソコンとにらみ合って真面目に仕事をしている。
 のり子が陽性か。ああ、マズい。そう言えばあの日は安全日だからと言われたから、ゴムもつけなかった。口もあそこも似たようなものだろうから、上下二箇所でこれ以上ないくらい接触していたことになる。
 症状さえ出なければ大丈夫だ。多少の熱くらいは我慢して無視しよう。そもそも計らなければいい。そうすれば絶対にかかっていてもバレない。
「えとさぁ、これのことなんだけど」
 後ろからいきなり声を掛けられ、私は全身がビクッとなる。
「あ、はい!」
 振り返ると、小宮山部長が書類を手に立っていた。
「この数字おかしいと思うんだよね。こんなんじゃさ、ダメだよ。分かるでしょ。もっと焦んないと。電話かけて最低でも三百はいってもらわないと」
 それならまずお前がやってみろと言いたかったが、ここは会社で私は大人なので無論そんなことは言えない。
「あ。すみません。二百くらいはいけるかと思ってたんですが」
「思ってたって! そんなもん、子供じゃないんだから」
「すみません」
 書類を私のデスクの上に放り投げ、腕組みをしてこちらを睨みつける。
「謝ったってしょうがないんだって。ほら、そんなこと言ってる暇あったら電話しろよ」
 完全なるパワハラだった。この世代はこれを堂々とやる。悪いことをしているとはまったく思っていない。
「はい。かしこまりました」
 そう言って私は投げ出された書類を手に取り、電話の受話器を取った。
「あ、こちら──」
 そう言って不毛な作業を私は始める。相手にとっても迷惑でしかない電話。気の弱い人が出れば押して押して頼み込んで大きめの数字をもらう。正直、相手はあとで困るだろうと思う。でも仕事だから私はそれをやる。やり続ける。こんなことを堂々と仕事と言い始めたのはいったいどこの誰なのだろう。
 夕方あたりから喉が痛み始め、熱も上がってきている感じがした。電話口でもたびたび咳き込み、そのたび謝っていた。
「ちょっと熱っぽいんで、定時で上がります」
 かれた声でそう言いに行くと、小宮山部長はギョッとした顔をした。
「コロナじゃないよな?」
「ちょっと分かりません」
 陽性者が出ればちょっとした騒ぎになり、このオフィスにいる人たちも検査対象になるだろう。
「怖いこと言うなよ」
 そこで私は多少大袈裟に咳き込み、着けていたマスクを右手でおさえた。
「……あー、もうダメかも」
 ぜいぜい言いながらそう呟くと、小宮山は椅子を引いて私から距離を取りながらこう言った。
「じゃあ、もう帰れよ。いいから」
「あ、はい。……そうします」
 ぺこりと頭を下げ、私は自分のデスクに戻った。半分くらいは本当だった。小宮山にコロナがうつっているといいのだが。
 四時半過ぎに会社を出て、駅まで歩いた。マスクをしているのが息苦しくなってきて、信号待ちの時に外してポケットにしまった。
 こんな状況下でもマスクをしていない人は一定数いる。だいたい五十人に一人くらいの割合で、だいたい中高年の男性だ。病気など特段の事情がない限り、同調圧力に対する抵抗なのだろうと思う。コロナごときで大袈裟に騒いでんじゃねえよ、と。あとは肥満体の人ですぐに息が上がってマスクなどしていられない人か。
 駅に着いてホームに上がると、さすがに圧がすごくなった。人と人との間隔が狭く、さらにこれから電車という非常に狭い空間で密集することになるわけだからマスクしないわけないよね、とマスクの上、心の窓的な意味を持った皆の二つの大きな目がむき出しの鼻や口や頬やアゴに突き刺さる。背徳感と反発心でぞわぞわする。空気を読まないという行為が、たまらなく気持ちいい。
 電車に乗り込むと、さらに視線が厳しくなり、トラブルの気配すら漂いはじめた。皆じろじろとあからさまな非難の視線をぶつけてくる。
 さっきから我慢していたのだが、ここで咳をしたらどうなるだろう。昔の結核患者のようにゲホゲホとこのまま死ぬんじゃないかというくらい咳き込み、吐血でもしたらどういう反応が返ってくるだろうか。
 そんなことを考えていたらやらずにはいられなくなってきて、右手を口に当てると、うっと呻いてから私は、グエッホ! グエッホ! ググググェッホ! と力の限りに咳をした。
 私はその時ドアの前に立っていたのだが、周りにいた人たちが顔を引き攣らせて私から距離を取ろうと一気に散っていった。
 唾の付着した右手をそっと見て、「ち、血だ……」と小さく呟いた。実際には痰とよだれしかなかったのだが、手の中は私にしか見えない角度だった。
「おい、マスクしろよ!」
 鼻出し黒ウレタンマスクをしたオラオラ系の男にそう怒鳴られた。
「あ、はい。すみません」
 私はすぐにポケットから白い不織布マスクを出してきっちり着けた。実際にトラブルになるのは避けたかった。凄まれたり、殴られたりはしたくない。
 次の駅で降り、バスに乗った。どうしようか。不倫相手とは無論言えないから会社で陽性者が出たと言ってア〇ホテルにでも自主的に隔離生活をしようか。子供たちやちさにうつしたくはない。でも、昨日も家の中だから普通にマスクなしで接していたし、夕飯の時もしゃべりまくっていた。今更なにをやっても遅いだろうし、うつるんならもううつっている。
 家の前のバス停でバスを降り、鍵をあけて家に入った。
「帰ったぞー!」
 そう怒鳴っても、家の中は静まり返っていた。
「おい、帰ったって……」
リビングのドアを開けると、ソファにちさが横たわっていた。
「こんな時間からなに寝てんだよ」
 テーブルの上には体温計があって、まさかと思って電源を入れてみると、四一・七度という信じ難い数字が出てきた。
「おい、ちさ! 大丈夫か?」
 身体を揺さぶってみたが、反応はない。鼻の前に手を当てても呼気はなく、マフラーをぐるぐる巻きにした首筋に指を当ててみたがそこに脈は感じられなかった。
 死んでいる。
 まさか。そんな。
 子供たちはどこだろう。もう学校からは帰ってきているはずだが。
 二階へ上がると、子供部屋の二段ベッドにふたりともいてホッとした。布団にくるまってよく寝ている。熱を見ようと私はまず長男の方の額に手を当てた。ひんやりと冷えていて、熱はないようだった。おまけに生気もない。下の段の妹の額にも手を当てたが、こちらも冷たい。二人の手首を持ち、脈をはかろうとしたが脈そのものがなかった。
 何が何だか分からなくなり、救急車を呼ぼうと私はスマホを取り出した。すると、速報ニュースでコロナの変異株が首都圏複数箇所の医療施設で確認され、市中感染が起こっていると出ていた。ああ、また亜種かと思ってそのニュースをタップすると、今度のもやはり南アフリカ発祥でBAX型というもので、感染力が強く、致死率が高いというのが特徴とのことだった。都内で今日だけで約八千五百人の感染が確認され、死者は六千人を超えるとの予測が出ていた。致死率は八割超。国はエボラ出血熱並みの特定感染症一種の指定を検討中──。
 スマホをポケットに戻し、喉の渇きを感じた私は冷蔵庫を開けるとビールの缶を開けてがぶ飲みした。一缶空けても渇きは収まらず、二缶目も続けて飲み干した。
 天井と床がぐるぐる回っている感じがして、私は台所の床に尻もちを着き、そのまま寝転がった。
 寒い。なんでこんなに寒いんだ。
 手足が震え、歯の根が合わずカチカチいっていた。のり子のがあのニュースに出ていたBAなんとかという変異株なのだろう。私はこのまま死ぬのかもしれない。
 のり子と関係を持っていなければこんなことにはならなかった。私は犯した罪に対する罰を受けている。つまり、つけが回ってきたということだ。
 気づくと目の前にのり子の股間が迫ってきていた。私の顔に尻を近づけ、顔面の上にしゃがみ込もうしている。性器と肛門がよく見える。垂れ下がったおっぱいに隠れて顔が見えない。これは本当にのり子だろうか。こんなにおっぱいが大きかっただろうか。でも、下を向いていたらのり子でもこれくらいはあるかもしれない。ちさは腰回りや尻の大きさがこんなものじゃないから、このおま〇こと尻の穴はちさのものじゃな──。
 女は私の顔の上に腰を下ろし、大きな性器が鼻と口の気道をふさいだ。
 息ができなくなった。



[了]

2023年01月08日

短編小説7 わたしの育て方が悪かった



 さあ、ゲームの始まりです。
 どうやったら生き残れるか、それとも生き残れないか。スタートしてからだいぶ経っているが、ここらへんが第一関門、最初の難所、分かれ道のようだ。
 ここ一週間高校へ行っていない。授業なんてだいぶ進んで、宿題もいっぱい出ていることだろう。もう今さら行けない。無理だ。
 初日は気分が最悪でどうしても行きたくなくて、仮病を使って休んだ。頭痛と吐き気とダルさ。いずれも本人のみが分かる症状だ。熱も測るように母親から言われたが、もちろん熱はなかった。
 一日中布団の中で過ごしていると、午前中はまだ眠さがあって眠れたからよかったものの、午後は眠くもなくなって不安ばかりが募った。悶々と学校で今何をやっているのか考えたり、毎日課される小テストを休んだりしたらどうなるのかとか、明日行って宿題の提出を求められたらどうしようかとかそんなことをずっと考え続けていた。
 二日目になると、さらに昨日より行きたくない気持ちが募っていた。頭痛が取れないことと、少しまだ気持ちが悪い、それに熱があった。それにはトリックがあって、母親が見ていない隙に指の腹で体温計の先を擦って熱を出すのだ。三十七度くらいはいける。
 昼夜違わず、不安しかない。休んだ分の遅れを取り戻すのは容易ではないし、テストも宿題も課題プリントもどんどん溜まっていっている。
 三日目。昨日の夜はずっと深夜ラジオを聞いていた。寝たのは明け方の四時半頃で、朝起きると眠くて仕方がなかった。この日もまた頭痛がまだ辛いと訴え、体温計を擦って熱を出した。
 週末を挟んで月曜日からは、部屋に閉じこもった。
 もう今更行けない。特に心配なのは数学だった。授業もだいぶ進んでしまっているだろうし、そこが分からないと応用的な次の部分が全然分からなくなる。高速で回っているハムスターの回し車のようなものだから、一度下りてしまうと途中から乗り込むのはとても難しい。
 母親のヒステリーは凄まじいものだった。部屋のドアを叩いて出てきなさいよ、行きなさいよと喚き散らし、僕は開けられないよう内側からずっとドアを押さえていた。もうどうしようもなかった。嫌なものは嫌と拒絶するしかないし、でもそれでどうするかということまでは考える余裕がなかった。とにかくこの場をやり切れば、どうにかなる。また新しい展開が待っているかもしれないと、未来に希望を託すことだけで僕は日々生き残っていた。
 しかし、それはもっと大きな地獄の始まりに過ぎなかった。

 大人たちの反応は様々だった。まず怒り出す人。これが最も多い。お前は何を考えてるんだ。バカじゃないか。病気でもないんだから、ちゃんと学校行けよ。アフリカには学校に行きたくても行けない子供もいるんだぞ。ちゃんとしろよ。
 理解を示そうとしてくれる人もいなくもなかったが、それはほぼ上辺だけのものだった。僕に色々な質問をして、それをふんふんと全否定するでもなく肯定するでもなく聞いて、持論のようなものを時折喋る。考え方に太平洋ほどの開きがあるために、僕はそれを聞いても納得できない。大人は自分の立場という檻から出られず、個人として在ることはない。僕は立場というものから降りてしまったためにそんなものはなく、どこまでも個人でしかない。
 大人は立場から降りられない。ごくまれに降りる人もいるが、そんな人は千人に一人くらいのものだ。立場を考えて守るのが大人、それをできない人はダメ人間。子供でもそう。小学生、中学生、高校生、大学生や専門学校生。その学生であり生徒であるというのが子供の立場で、そこから外れることなどゆるされない。そこから外れた人はダメ人間。こわれた人間。
 普通じゃない、普通でいなさい、なんで普通にできないの、普通そんなことしないでしょ。
 普通、普通、普通、普通、普通、普通。ふつう、ふつー、ふつぅ、ふっつー。ふつう。
 ああぁぁ、普通に生きたい。普通に、普通に、ごく普通に。自分の立場を守って、本分から外れず、まともにちゃんとしたい。でも、それができない、耐えられない。ふつうが。そのふつうが僕にはできなかった。
 ドア開けなさい。出てきなさい。顔を見て話をしなさい。
 ばんばんばんばんばん!
 ばん、どん、ばんばん、どどどん!
 バイーン! バイボイーン! バイバイバイーン!
 わたしの育て方が悪かった。わたしが間違っていた。わたしが全部悪いんだよぉぉー!
 ドア越しに母の金切り声と絶叫が耳に刺さる。それはひどく堪える。僕の胸を押してぐぐぐぐっと痛くさせる。
 母はきっと僕に聞かせるために、そんなことを喚いている。それで僕が改心して、あぁ悪かった、明日から学校へ行くよ、となるよう声を限りに叫び続けている。でも、そんなことは起こらない。どんなに母親が喚こうが叫ぼうが、僕はもう学校へ行くつもりはなかった。その声は僕の胸を刺すだけで、殺せはしない。なぜなら、それが僕に聞かせるために発せられたものと気づいているからだ。母が僕の母という立場から降りて何でもない個人にならない限り、僕の芯には響かない。つまり、立場上発せられた単なる台詞でしかないからだ。

 僕には父と母と二つ上の姉がいる。
 姉には小さいころから酷くいじめられた。言葉の暴言は四六時中で、そんなものはまだ全然マシで、殴る蹴る突き飛ばされる包丁を突き付けられる、といった暴力でいつも半殺しにされていた。もちろん母や父の見ていないところで行われ、たまたま見てしまったとしても、母も父も見て見ぬ振りをした。今ならその理由がよく分かる。立場があるからだ。僕が姉に半殺しにされるのを止めるのは、父や母という立場の役柄に入っていないからだ。
 姉の暴力やいじめは、僕が中学に上がった頃にやんだ。なぜなら、体格的に男である僕の方が優勢になってきたからだ。殴り合い蹴り合いになれば勝てないと踏んだのだろう。この時ほど僕が男だったことに感謝したことはない。もし同性同士だったとしたら、この加虐行為はずっと続いただろう。
 立場から降りて個人になる。姉はごく自然にそれをやっていた。姉は二つ下に生まれた僕に憎しみしか抱けず、毎日半殺しにした。それは姉という立場にかなった行為ではない。役柄としてやったことではなく、個人的な恨みを晴らしていただけだ。
 子供というのは個人が強くて、立場が弱い。年齢を重ねていくにつれて、その関係性が逆転していく。でも中にはそうならない人もいて、そういう人に「大人になれ」と言うのが昭和であり平成という時代だった。ところが、令和になって風向きが変わってきた。日本型やり過ぎ資本主義社会経済の超高速回し車から振り落とされる人が増えてきて、それが徐々に明るみになってきたからだ。日本人はとにかくやり過ぎる。血なのか国民性なのか知らないが、一度そういう方向性ができてしまうと、みんながワーッとそれにならってだんだんエスカレートしていく。この場合、極限まで個人を小さくして立場そのもの、立場の権化、立場マン、立場ウーマンになるというのが「大人」ですよ、「仕事」ですよ、「マナー」ですよ、「普通」ですよ、となった。今でもそう信じている人は大勢いるだろう。お金を稼ぐためにはそうしなければならない、となっているからだ。だってそうだろう、と。
 そもそもお金を稼ぐために働いているのだろうか。
 あれ? そうだっけ?
 お金が目的だったっけ?
 生きるために働いてるんじゃなかったっけ?
 じゃあ、生きるためにはお金が必要だから働いている。
 それはOKだよね。
 仕事はお金を稼ぐための手段。
 そこもOK?
 まとめると、生きるのが目的で、仕事は手段。お金は車でいうとガソリンみたいなもの。
 図にするとこうなる。   
        仕事→→→金
        ↑《手段》↓
        ↑    ↓
        人➡➡➡➡生存
          《目的》
 人は仕事で金を得て生存する。
 じゃあ、過労死や過労死自殺の場合は?
 本来手段だった仕事が目的化してしまって、かといって立場から降りられる状況にもなかったから死んでしまった。
 それでは、仕事が目的化することは悪いことなのだろうか。
 たとえば僕がこうしてこの原稿を書いているのは、小説という器を通してその小説のテーマを読者と共有することが目的だ。お金を稼ぐことは目的でも重要なことでもなくて、仕事それ自体が目的化している。僕以外にもその仕事自体が目的でしたくてしているという人はたくさんいるだろう。──つまり、個人の意志で行われる分には問題ない。どうせお金を稼ぐのだから仕事それ自体が目的になる仕事をした方がいい。
 社会的意義という目的もあるだろう。コロナで注目が集まったエッセンシャル・ワーカーという言葉がある。定義としては、生活の根幹を支える医療や福祉、保育や農業、林業、漁業、行政や物流、小売業やライフラインなどで働く人々のこと。これらの仕事に従事する人たちの中には社会的意義のために働いている人が数多くいるだろう。
 だが、そうじゃない人もいる。むしろ、そうじゃない人の方が圧倒的に多いのではないだろうか。純粋にお金を稼ぐために仕事をしている。仕事それ自体が目的ではなくて、生きるのが目的で生きるためにお金を稼がなきゃいけないから仕事をしている。
 しかし、仕事は目的化を求める。会社などで集団目的化する。そして極限まで立場マン&ウーマンになることが求められる。個人的には目的ではないのだけど、立場マン&ウーマン上目的ということにしなければならなくなってしまう。

          *

 結局僕は不登校になった高校を辞めてO市内にあるフリースクールに通うようになり、そこで様々な人と出会った。これは僕の人生においてかなり貴重な体験だったと思う。
 いわゆる正規のレールから外れた人々。そこは高校を中退した人たちが集まる学校だったから、みんなどこかに浅からぬ傷を負っていて、世間に対して疎外感と恐れを抱いていた。
 即席の友達がたくさんできた。傷を負ったもの同士が身を寄せ合ってお互いの傷を舐め合うから、連帯感と慈愛に満ちた空間になる。それ自体は悪いことでも何でもないのだけれど、作られた空間といった感じは否めない。
 分からないのはそこから先にどう進むのかといったことだった。それがただただ恐怖でしかなかった。──お前は普通じゃない、お前は普通じゃない、お前は普通じゃない、と後ろ指を差され続けているようなもので、日なたを歩けないようなそんな後ろめたさがあった。
 ほとぼりが冷めれば熱さを忘れるのが人間の常のようで、僕は普通に戻りたいと強く思うようになり、年が明けて春頃になると再入学という形で元居た高校に戻ることになった。
 その時の直接の動機は手塚治虫の『きりひと讃歌』という漫画を読んで、医師になりたいと強く思うようになって、元いた高校が進学校だったから医学部に受かるために戻るという単純な図式だった。この図式に勝てる大人はいなかった。誰もが納得して、応援を受けるような形で僕は高校に戻った。
 一年遅れで再入学し、そして一年もしないうちに落ちこぼれ、医学部を諦め、東京の大学に行って家とこの関〇という因習と偽善に満ちたプライバシーもデリカシーもない超拡大版村社会のような土地を脱出することが目的に変わった。
 そのためには何とかこの進学校というジャングルを生き抜かなければならない。死にもの狂いで挑み、耐え、何度か自殺未遂も図ったが、そんなことをしているうちにありがたいことに時間だけは過ぎ去ってくれた。無事卒業もでき、東京のそこそこ有名な大学にも受かったから周りの人たちも無難に送り出してくれた。

 目的さえあれば人間は生きていけると思う。
 それがあの頃の僕の場合

 家とこの関〇という因習と偽善に満ちたプライバシーもデリカシーもない超拡大版村社会のような土地を脱出すること

 だった。脱出場所は東京じゃなくても名古屋でも北海道でも、そこそこ名のある大学がある関〇より東側の日本であればどこでもよかった。
 この家と土地に虐げられてきたという深い恨みがあった。

 動機は憎しみでも恨みでも憧れでも嫉妬でも何でも構わないと思う。エネルギーであることに違いはないから。
 目的がないと人は生きていけない。
 石器時代や縄文時代は生きることだけが目的だった。
 どうやら人間は進化の意味を間違えてしまったようだ。



[了]

2023年01月01日

短編小説6 子どもだからいいんだよー



 これはわたしが数年前、学童保育の職員していた時のことです。
 学童保育というのは共働きの親御さん子を学校の終わった放課後に預かるところです。
 全部で三十人弱くらいの子どもを預かっていたのですが、その中に気になる子が一人いました。春日ひろとくんという男の子です。
 その子はとにかく粗暴で、すぐに暴力を振るい、暴言を吐き、ものを投げ、壊し、ルールーというルールをことごとく破る子でした。
 こちらが注意すると決まって言うセリフがありました。
「子どもだからいいんだよー!」
 こどもの特権をよく分かっていて、それを遠慮容赦なく行使しているということです。
 子どもだからといって犯罪的行為が許されるわけはないというのがわたしの考え方です。
 ですが、日本の刑法は原則として二十歳未満の男女に対して少年法という特別なルールを適用しています。そして、同じ二十歳未満の少年少女でも年齢や状況によって次の三つに区別されています。

(1)犯罪少年
 14歳以上で罪を犯した少年を「犯罪少年」といいます。
 犯罪少年が起こした事件はすべて家庭裁判所へ送致され、少年の処分は審判不開始とならない限り、原則として少年審判により決定されます。14歳以上は自分の行動の是非善悪を判断し、その判断に従い行動できる能力(責任能力)があるとして、警察から逮捕されることも、刑罰を科されることもあります。

(2)触法少年
 14歳未満で犯罪にあたる行為をした少年を「触法(しょくほう)少年」といいます。
刑法第41条では、14歳未満の犯罪行為を罰しないと定めているため、触法少年が逮捕されたり刑罰を科されたりすることはありません。ただし警察による調査の対象となる場合は、少年審判による処分を受けることもあります。

(3)ぐ犯少年
 性格や環境に照らし、将来罪を犯す、または刑罰法令に触れる行為をするおそれがある20歳未満の少年を「ぐ犯(虞犯)少年」といいます。
 非行が見られる少年に適切な保護を与えることで少年の育成や犯罪の予防につながるとの観点から、いまだ犯罪行為にいたっていなくても少年審判の対象となる場合があります。

 ひろとくんは人に危害を加えたり、ものを壊したりしているので、暴行罪と器物損壊罪を犯しているのですが、まだ七歳なので逮捕はできません。触法少年というやつで、犯罪少年になるにはあと七年待たなければならないので、その間にわたしはひろとくんが人に重傷を負わせたり、殺したりしないか心配でした。
 親御さんはどうかというと、どうも気づかないふりをしたり世間(学校や学童)に対して心配してどうにかしようとしているアピールをしているだけで、実質何もしていないし、具体的な行動はしていません。医療機関か療育機関に行くべきだと思ってそう伝えはするのですが、そんなことも考えていると口で言うだけで、実行には移しません。それができていれば、こんな子には育っていないはずなのでまあ言っても仕方のないことですが。
 実際に表沙汰になるような事件が起こっても、それは続きます。おそらく一生続くでしょう。多少やんちゃな一面があるだけで、ひろとくんは普通の子です。親御さんにとってはそうなのです。何も見えないようにすれば、何も見ずに済むのです。

          *

 ある日、わたしは職員が多めにいる火曜日に有給休暇をもらい、昼過ぎにひろとくんの通う用田小学校に行きました。裏門近くの路肩に車を停めて校内に入り、校舎と校舎をつなぐ渡り廊下のようなところの脇で下校時刻の二時半を待ちました。
 帰りの会をしている声が中から聞こえてきて、やがて子どもたちがわらわらと校舎から出てきて昇降口のある左側の校舎へと通過していきます。わたしの顔を見知っている子も何人かいて、エプロンを着て笑顔を浮かべているので挨拶していってくれる子たちもいました。
 十五分ほど待ったところで、黒いランドセルを背負ったひろとくんが校舎から出てきました。
「おう、ひろくん。待ってたよ」
「へ? みむなに?」
 わたしの苗字が三村というので子どもたちからはみむと呼ばれています。
「ちょっとさ、さっきお母さんから学童に連絡があって、お仕事が早めに終わったからひろくん駅まで連れてきてほしい、って言われたんだよ」
 ひろとくんはぽかんとした顔をしています。
「東小川駅。駅前のとこにダニーズあるでしょ。ファミレスの。あそこで夕ご飯食べたいからだって」
「ダニーズ! ハンバーグ食べたい!」
 顔がパッと明るくなりました。
「ちょっとそれはできないって言ったんだけど、どうしてもってお願いされちゃったから断り切れなくて。だから、他の子には絶対内緒だよ」
 わたしはそう言ってひろとくんの手を取り、裏門から学校を出て停めてあった車に乗りました。
「ハンバーグ楽しみだね」
 助手席に座ったひろとくんのシートベルトを締めます。
「うん、でも夕ご飯には早くない?」
 エンジンをかけて、車を出しました。
「いいんだよー。大人はね、こういう中途半端な時間に自分の好きなものを食べたりお酒を飲んだりして、仕事をさぼってるんだよ。子どもは知らないだろうけど」
「えー、ずっる! ひろとも早く大人になりたいなー」
「でも、大人になるとねー。いろいろ大変だよ。だってやりたくもない仕事を一日中やらされて、したくもない付き合いに付き合わされるんだよ」
「え、じゃあ大人になりたくない。そんなのしたくないもん」
 わたしはウィンカーを出してハンドルを左に切り、車は片側三車線の幹線道路に入りました。駅とはまったく違う方向です。
「それがいいよー。子どもはね、子どもの特権があるからね」
「特権って?」
「特別な権利。ほら、ひろとくんよく言うじゃん。『子どもだからいいんだよー!』あれ、めっちゃいいよねー。めちゃくちゃしてもルール守んなくても子どもだから許されるって。あれだよあれ」
 ちらっとひろとくんの顔を見ると、納得したように何度も首を縦に振っています。
「あー、あれかー。じゃあやっぱ子どもの方がいいなー。自由に遊べるってことでしょ?」
 わたしは返事をせずに、赤に替わった信号を見てギュッとブレーキペダルを踏みました。
「あ、びっくりした。あぶねぇじゃん!」
「どっちがだよ」
 小さな声でわたしはそう呟きました。

         *

 先月に七十代半ばで亡くなった親父の家が小平にあって、何度か渋滞にはまり、着いたときには四時近くになっていました。ハル〇オンをたっぷり溶かしたファ〇タグレープを飲ませていたので、着いた時にはシートベルトを限界まで引っ張るような形で左側のドアにもたれかかり眠り込んでいました。
 寝顔は悪くないんだけど、中身がね。
 エンジンを切って助手席側に回り込み、ひろとくんのシートベルトを外しました。
 お姫様抱っこをして家の中に運び込み、二階北側の和室に寝かせます。広さは六畳で大きめの押入れがあり、窓はなく、出入り口は一箇所で外から鍵がかけられるようになっています。
 押し入れの中から布団を出して敷き、ひろとくんの身体をそっとそこに移しました。
 このままずっと寝ててくれれば、かわいいだけのままななのに。
 布団を肩まで被せ、わたしは部屋を出て外から鍵を掛けました。
 下に降りて居間のテレビを点け、冷蔵庫に入っていた缶ビールを何本か持ってきてソファに寝そべり、飲み始めました。
 ひろとくんいわくお母さんは働いておらず家でスマホをしているとのことで、じゃあいつもお迎えが遅くなるのは何なのでしょう。せめて延長料金がかからない七時ぎりぎりにお迎えに来ればいいのにと思うのですが。
 ひろとくんの言っていることが本当のことかどうかは分かりませんが、そもそも働いていなければ学童保育に預けることはできません。両親ともに月十六日以上、実労働時間五時間以上でかつ終業時間が午後三時以降という条件が課されていて、その条件を満たした就労証明書が提出されなければ入室は許可されません。ひろとくんのお母さんからはその条件を余裕でクリアした就労証明書が提出されています。ひろとくんの話が本当のことだとすると、あの証明書は偽造ということになります。偽造の就労証明書を作ることは、有印私文書偽造罪という犯罪となるおそれがあり、刑事罰の対象となります。
 そこまでして、なぜお母さんはひろとくんを学童に預けたいのでしょうか。
 わたしが思うに、ひろとくんは愛されていないのではないでしょうか。きれいごとや建前を抜きにしてはっきり現実を言うと、学校でも学童でも家でも邪険にされています。いわゆる厄介者として扱われ、その存在は忌み嫌われています。いて欲しくない存在です。
 学校では普通学級ではいられず、小川市が独自に始めたチャレンジルームというところに行っています。チャレンジルームとは学校になじめない子や教室で座っていられない子、不登校になった子など一室に集め、主に養護教諭が常駐して子どもたちを見るという試みです。 
 半年ほど前から始まったのですが、無論誰も勉強などせず、パソコンでゲームをしたり、床に転がしてある大きなヨギボーというクッションで寝転んで取っ組み合いをしたり、チャレンジルームから出て行って学校の廊下や校庭、外の道路を駆け回ったりと非常に大変なことになっています。養護教諭や職員は疲弊し、児童とその保護者と管理職との板挟みになり大きなストレスと怒りと憤りを覚えています。ですが、一度始めてしまったものは簡単には終われません。やっぱりなしで、というふうにはいきません。
 つまり、小川市はチャレンジルームという名のパンドラの箱を開けてしまったのです。
 現状を客観的に見ると、家とチャレンジルームと学童、その三者が時間区切りでひろとくんを押し付け合っています。彼がいない間は自分たちはホッとできて、時間が来たら引き取らなきゃいけないから仕方なく迎えに行く。口に出さなくても、あるいは口では逆のことを言ってはいても気持ちは伝わってしまいます。だからひろとくんはやけくそになり、むちゃくちゃをする。むちゃくちゃするからさらに邪険にされ、愛されなくなります。何という状況でしょう。どこかでボタンの掛け違えが起こって、負のスパイラルが加速していっています。
 あの子が自分の子どもだったらと思うとゾッとします。ひろとくんのお母さんは、生んでしまった以上、一生彼から逃れられません。それはもう呪いのようなものではないでしょうか。
 ひろとくんが安住できる場所などこの世にはありません。どこへ行っても不満は出てくるでしょうし、むちゃくちゃしたくなる衝動を抑えることはできないでしょう。
 彼の悪行に対して、誰かが責任を取らなければならないのですが、そんなことをする人はいません。子どものうちは本来は親が取るべきなのですが、それは難しいでしょう。それが出来るのであれば、こんなことにはなっていません。彼の悪行のつけを、お互いがお互い必死に押し付け合っています。責任をなすりつけ合っているのです。自分たちが預かっている時間に事故や事件が起これば責任を問われます。だから、もうみんな必死です。
 そして、どうか他の人たちが預かっている時間に事故や事件が起こって、できれば死んでくれればいいのにと皆が皆内心思っています。言葉ではいくら何を言っても。どれだけきれいごとを並べ立てていたとしても。
 そこに救いはありません。

        *

 ビールを飲んでいるうちに眠り込んでしまったようで、すっかり暗くなっていました。
 上から物音がしたので階段をのぼっていってみると、ひろとくんは起きていました。
「あっ、みむ! ここなんだよ!!」
 相変わらず威勢だけはいいようです。
「長野県の山奥だよ」
 わたしは微塵の躊躇もなく嘘を吐きました。
「山奥ってどういうことだよ! 誘拐かよ!」
 誘拐するつもりはなかったのですが、結果的にはそうなっているかもしれません。
「うん、そうだよ」
 すると、ひろとくんはわたしに向かって突進して殴りかかってきました。
「そんなことしたら、帰れなくなるよ」
「帰れるもん! 誘拐なんてしたらみむが警察につかまって逮捕されて刑務所に入れられるから大丈夫なんだよー!」
 そう言って、いわゆるベロベロバーといった顔をしました。
「へー、そうなるといいね」
 楽しい夜になりそうでした。

 下のダイニングの椅子に座らせて後ろ手にし、ガムテープで椅子の背を巻き込むような形でぐるぐる巻きにしました。蹴られると厄介なので、両足も椅子の脚にぐるぐる巻きにし、全然動けないようにしました。
 口は止めておこうと思っていたのですが、罵詈雑言が止まらないのでやむなくガムテープでふさぎました。
 携帯をポケットから出し、昨日登録しておいたひろとくんのお母さんの番号にかけます。
 ぷぷぷという音がして、ぷるるるる、ぷるるるるる、ぷるるるる、という音を十回ほど聞いた後、「はい春日です」という聴き慣れた女性の声が聞こえてきました。
「あー、夜分遅くすみません。学童クラブ〇〇の三村です。お世話になっております。今日わたし休みだったんですが、他の職員から先程ひろとくんがいなくなったとお聞きしまして、心配でちょっとお電話させていただいた次第でござ──」
「そうなんですよ! 学校を出てったってクラスの子が言っているみたいなんですが、学童の先生は見てないって言い張っていて、わたしさっき仕事途中で切り上げてきて帰ってきたところなので、これから学校行って先生たちとも話して、警察に届け出ようとしてるとこなんですよ」
「え、まだ警察に言ってないんですか?」
「ひろとのことだからまたどっかへ勝手に行っちゃったんじゃないかって、学校の先生とか学童の先生とか近所の人とかで学校の周りをさっきまで探してくれたみたいなんですが、それでも見つからなくて」
 あんたはさっきまで仕事してたって言ってたっけ。だからだよね。親いないと始められないからだよ。
「あ、じゃあ警察にはまだ言わないでください。わたし心当たりあるので」
「えっ! 本当ですか?」
「ええ、いまちょっと出張で小平の方に来ているんですが、お母さん来られますか?」
 そこで、やや間が空きました。
「え? ……こだいら」
「ご存じありませんか? 東京の多摩の方の小平ですよ。西武新宿線が通ってます」
 メモを取っているのか、また会話が途切れる。
「ひろとくんがこっちへ来てるんですよ。実はわたしの親父の家がありましてね、先月亡くなったんですが、まだ処分してなくて、そんな話をしたら行ってみたいということになりまして」
「は…? そんな……」
「とにかく来てくださいよ。住所をショートメールで送りますから。グーグルマップか何かで見てお母さまお一人で来てください。わたしはひろとくんのことについてお母さんとじっくり話がしたいだけなんです」
 それだけ伝えると、わたしは電話を切りました。そして、隣の家の住所をショートメールでお母さんあてに送りました。
 ひろとくんの方を振り返ると、涙を流して鼻水を垂らし、ついでに小便ももらしています。お母さんというワードが出たからでしょう。この悪童もママのおっぱいが恋しいのです。
「お母さん来てくれるって。良かったね」
 すると、ひろとくんは目を真っ赤にして何度も頷きました。

         *

 二階の窓から双眼鏡で道路を眺めていたのですが、お母さんが現れたのはそれから一時間半ほど経った頃でした。
 安室奈美似の美人で、男にはひどくモテそうな派手目の明るい女性です。
 案の定、スマホを見ながら隣の家のインターホンを鳴らしています。誰が住んでいるのかよく知りませんが、まあちぐはぐなやり取りがなされていることだけは確実です。
 そして、ひろとくんのお母さんの香織さんは周りをきょろきょろし出しました。すると、近くに停まっていた黒いセダンの中から灰色のスーツの男が出てきて、お母さんと何か話し始めました。
 警察でしょう。出てきたところを捕らえる手筈になっていたのが、段取りが崩れて状況がよく分からなくなったので、やむなくまた話しているといったところでしょうか。
 男が離れたのを見計らって、わたしはお母さんに電話をかけました。
「警察に言いましたね。黒い車から出てきた灰色のスーツの男が刑事ですよね?」
 おそらくこの会話も盗聴されているに違いありません。
「撒いてください。できなかったらひろとくんは死ぬことになります。警察を撒くのに成功したら、そこらへんの人の携帯を借りるか公衆電話から、この番号に電話をかけてください。本当の居場所を教えます」
 返事を待たずにわたしは電話を切りました。
 見ていると、お母さんは電話をポケットにしまい、しばらく呆然と佇んだ後、猛ダッシュでどこかへ走り去りました。黒いセダンが慌てて後を追っていくのが見えました。

 見知らぬ番号から電話がかかってきたのは、それから約二十分後のことでした。わたしはひろとくんにヨーグルトを食べさせているところでした。
「撒きました。どこにもいません」
「本当ですか?」
「はい、本当です」
 息を切らしていたし、声色からもどうやら本当のことでした。
「じゃあ、言います。先程インターホンを鳴らした家の向かって左隣の家です。お母さんの携帯はそこに置いて行ってください。おそらくGPSがついてますから」
「左隣……、撒くためにめちゃくちゃに走ったから、今どこかも分からないんですが……」
 とことんバカな母親です。
「駅まで戻ればいいんですよ。駅からどの道を歩いてきたかくらい覚えてるでしょう」
「いや、ちょっとそれも……」
「ひろとくんが死ぬことになりますよ」
 わたしが低くそう言うと、お母さんは沈黙しました。
 あっ、来るぞ。
 わたしはそう予感してスマホをスピーカーモードに切り替え、録音アプリを起動させました。
「分からないものは分からないんです。もういいので殺しちゃってください。わたしの言う事もまったく聞いてくれませんし、交通事故とかで死んでくれないかなと思ってたところなんです。先生が殺してくれるんなら先生が捕まってわたしは悲劇の母親になれるので、ちょうどいいんです。むしろ助かります」
 わたしは大きくため息を吐き、もうこの誘拐の意味がなくなったことを悟りました。
「分かりました。ひろとくんは解放します。警察がすぐに保護してくれると思います。ただし、この会話は録音させてもらっています。そのことをお忘れなきようお願いします」
 スマホを切り、ひろとくんに巻き付けてあったガムテープをすべて取りました。
「出てっていいの?」
「いいけど、先生が犯人だってことは言わないでくれるかな。それからひろとくんもいつまでも子どもではいられないから、強くならなきゃいけないよ」
 そう言ってわたしはスマホを取りだし、さきほどの部分を音量マックスにして再生しました。

 もういいので殺しちゃってください。わたしの言う事もまったく聞いてくれませんし、交通事故とかで死んでくれないかなと思ってたところなんです。先生が殺してくれるんなら先生が捕まってわたしは悲劇の母親になれるので、ちょうどいいんです。むしろ助かります。

「先生が逮捕されるってことになったら、これがさ、SNSって分かるよね。ツイッターとかユーチューブとかティックトックとかインスタとかで拡散されてお母さんが炎上することになるんだ。お母さんは分かってるだろうけど、ひろとくんも分かっとかなきゃいけないだろうね」
 ぽかーんと口を開けて必死に考えています。
「死んでくれた方が助かるんだって。そりゃこうなるよね。口に出さなくても、気持は伝わっちゃうもんね。もう自分で生きるしかないよ。子どもって最悪だよな」
 玄関までひろとくんを連れていくと、わたしはこう言って背中を押しました。
「ほら、お母さんあっちで待ってるって。行ってきな!」
 わたしが指差した方向は適当でしたが、ひろとくんはそっちの方向へ向かって走っていきました。



[了]


引用 ベリーベスト法律事務所 弁護士コラムhttps://keiji.vbest.jp/columns/g_young/4657/


2022年12月25日

短編小説5 それはもう地獄でしかない



 わたしのことはとりあえず、いい。どうにでもなるし、どうにでもしてくれて構わない。
 死んでも誰も悲しまないし、生きている価値もない。ゴミかゴミ以下の人間だ。いつもそうやって思ってきたし、それはいまでも変わらない。死んでも変わる気がしない。

 東野七海子は、ハイボール缶を飲みながら右鼻をほじくり、ツイッターにそう書き込んで送信した。
 大きな黒いかたまりが取れて七海子はおーっ! となったが、ゴミ箱もティッシュも近くになかったから指先で丸めてデコピンでそこらへんに飛ばした。
 ツイッターアカウント名はメス猿。アイコンは並沢まさみの顔写真をネットから拾ってきて勝手に使っている。これがさみしくてモテない男たちをぐいぐいひきつける。適当に思ったことをつぶやいているだけなのに、フォロワーが勝手に一万人を突破した。
 さっそくさっきのツイートにも返信がばんばん来て、みんな「あなたは大丈夫」とか「お願いだから生きていて」とか寄り添う系の無責任なことばを全然知りもしない人たちが送ってくる。
 はっきり言ってバカじゃないかと思うんだけれど、その下心と親切心が混ざり合っている言葉を見るのが楽しい。この人は下心:親切心が7:3くらいかな、とかいや、8:2だなとかこいつは9:1だなとか。同じ人間の脳内でブレンドされているものだから、そもそも分けるのが不可能なのかもしれない。きれいな若い女を見れば、やりたくなるのは当然だろう。それをゼロにするというのは人間であることをやめるということだから、求めること自体が間違っている。

 メス猿さん、あなたにラブ注入することによって救いたいです。
 今日の午後四時に池暴露駅のフクロウのところで待っていてください。
 わたしは黒と黄色のちゃんちゃんこを着ています。

 ハイボール缶を飲み干し、七海子がトイレに行って戻ってくるとこんな返信が届いていた。
 ちゃんちゃんこ?
 なんだっけと思って検索してみると、赤いアホみたいな服を着せられたおじいちゃんの画像が出てきた。
 ああ、まあいいや。着物みたいなやつね、と思って

 誰が行くかボケ。
 バーカ、死ね。

 と返信した。
 五分もしないうちにいいねが百以上ついて、三秒おきくらいにどんどん増えていった。

 でも、やっぱ行くかも。ラブ注入してほしいし。

 ハイボールを飲み干した勢いで、完全に冗談でそう打って送信してみた。
 すると今度は一秒おきにいいねが百以上増えていって、あっという間に一万いいねを超えた。
 ああ、久しぶりにバズったね。結局エロかよ。
 七海子はバカらしくなって、外に出て煙草に火を点けた。
 ぷっはーと最初の一服目を吐き散らし、鼻から息を吸い込むと、目がチカチカした。
 クソだな、クソ。みんなヤリたいだけかよ。
 人間は性欲からできてるんだろうな。ま、結局そういうことですよね。
 腹立つなー。

         *

 今日の最高気温は十一度で、七海子はもこもこのピンクのフリースを着て池暴露のフクロウ前に立っていた。下は黒のひらひらミニスカートに生足ブーツ。
 ちゃんちゃんこを着ている男を探したが、それっぽい人は見当たらなかった。
 くそー、冷やかしかよ。
 実際の七海子は並沢まさみというより鈴川さりなをすっぴんにしてぬるま湯にたっぷり一日くらい浸けてふやかしたような顔をしていたから、無理もなかった。集まったフォロワーたちは並沢まさみ似の美女を探していて、ちゃんちゃんこを着るのは見つけてからでも構わなかった。まさか痛い恰好をした四十八のおばさんが本気モードで来ているとは誰も考えていなかったのである。

 フクロウ前着いた。ピンクのフリース。黒のミニです。
 ちゃんちゃんこどこだよー。

 堪えきれず、七海子はそうツイートし、実物を目にしていないフォロワーたちによるいいねが百以上ついた。
 そのころ、ラブ注入というツイートを発信した張本人ではないけれど、ヒマだし池暴露も近いしという理由で、完全なる興味本位でフクロウ近くに来ている男がいた。
 多田祥太、二十五歳。職業、派遣工員。今は川口のねじ工場。金はないが、顔は中の上、十点満点で言うと七点弱くらい。学歴もなく地頭も良くないが、暇な時間だけはたっぷり持て余している。
 祥太はフクロウ周りを見渡し、ピンクのフリースを見つけた。そして、五メートルほどの距離を取りつつ正面に回り込み、七海子の顔を凝視した。
 七海子はその時、口が臭くないか気になってきて、いつもポケットに入れているキシリトールガムを一つ取り出し、Lサイズの黒マスクを外して口に入れた。
 げっ、ババアじゃねえか!
 マスクを外した七海子の顔を目にし、翔太はギョッとした。
 並沢まさみとは似ても似つかない。長い髪も金髪に染めて若作りをしているが、紛れもないババアだった。おいおい、ちょっとこれは……。

 ラブ注入ツイートをした人妻斬りサムライこと田之上雅史(49)は、リュックの中にグググの苦太郎コスプレのちゃんちゃんこを仕込み、池暴露の東口を出たところだった。駅前のマツケヨで買った超薄型コンドーム(0.03mm)一箱もリュックの底の方に隠してある。
 きもデブハゲ眼鏡という四重苦を持って生まれた雅史は女性にはまったく縁がなく、生まれてこのかた実家暮らし、素人童貞ながらも懸命に生きてきた。高校は県立のトップ校に進学し、成績は上位クラスをキープし、鷲田大学の理工学部に現役合格した。大学卒業後は大手機械メーカーのペナソニックに就職し、現在半導体部門総務部第三課長として上からの熱い信頼と下から強い恨みと高い収入を得ている。
 雅史は七海子のツイートを見ていいねを押すと、フクロウ前に急いだ。そして、黒のミニスカートとピンクフリースの金髪を確認した。
 おっ、生足! やばっ!
 顔は大きな黒いマスクで覆われていて下三分の二くらいが見えなかったが、これは悪くない。行くしかない。
 雅史はリュックを降ろし、中から苦太郎のちゃんちゃんこを取り出した。
 
 おい、ババアだぞ。詐欺じゃねえか。

 多田翔太はちゃんちゃんこどこだよー、の返信ツイートとしてそう打ちこみ、送信ボタンを押そうとしていたところだった。
 ん? あれ、ひょっとして……。
 目の前にいた男がリュックを背中から降ろし、その中から黄色っぽいものを取り出そうとしていた。
 人妻斬りサムライ! うわっ、なんだこいつ。きもっ!
 田之上雅史の容姿を目にした祥太は、これはいくらあのピンク金髪ババアでも引くだろうと察した。
「ねぇ、ちょっと」
 祥太は声をかけた。
「はい?」
 雅史は手を止め、後ろを振り返った。
「人斬りサムライでしょ。ちょっと待てって」
 いきなりアカウント名をバラされ、雅史は動揺して顔と頭皮を赤くした。
「あれ、そうとうヤバいババアだよ。さっきマスク取ったとこ見たんだけど、アジの開きみたいな顔だった。年も五十はいってる」
 祥太は雅史の手からちゃんちゃんこを奪い取った。
「やめときなって。並沢まさみとは全然似てない」
 雅史は手を伸ばし、翔太の手から荒っぽくちゃんちゃんこを奪い返す。
「あんた誰ですか。僕とメス猿さんとの話なんだから、余計な口突っ込まないでくださいよ!」
 メス猿という自分のアカウント名が聞こえ、七海子はそっちを振り返った。すると、若い男と太ったハゲが黄色い服を奪い合っているのが見えた。
 あ、そういえば黄色と黒のちゃんちゃんこって言ってたっけ。
 遠目だったが、七海子は二人の顔と容姿を見比べ、若い方はアリだけどハゲデブはなしだわ、と即座に判断した。
 若い方が人妻斬りサムライであることに賭けて、七海子は二人のもとに駆け寄った。
「人斬りサムライさん?」
 きもデブの方が「はい」と振り向いた。
 うッ! こっちかよ。
「あなたは?」
 酒やけしたしゃがれ声で七海子は祥太に訊く。
「あ、ツイッター見ただけです。どんな人かなーって思って」
 こっちだな。だんぜんこっち。
「あ、じゃあさ、これから三人で飲みに行かない? オフ会ってことで」
 祥太はおいおいおいおい、とこの展開に戸惑っていた。ハゲデブとピンクバアアと飲み会かよ。それはもう地獄でしかないな。
「いや、おれ、ちょっとこれから行くとこあるんで。すみません」
 そう言って軽く頭を下げ、翔太はそそくさとその場を後にした。
「はいじゃあ、行きましょう。どういうとこがいいですか?」
 雅史はリュックにちゃんちゃんこを仕舞い、すばやく背負った。
「あ、いや、ちょっと……」
 このきもデブとサシ飲みか。それはもう地獄でしかないな。
「じゃあ、焼肉とかどうですか?」
 焼肉! それは、え?
「どうせだから高いとこ行きましょうよ。僕出しますんで、お金とか心配しないでいいですから」
 雅史は地元の駅前のATMで三十万円を下ろしてきていた。
「蛇々苑とかどうですか。芸能人とかよく行ってるみたいですよ」
 池暴露の東口とムーンシャインのところに一店舗ずつある。これもリサーチ済みだった。ホームページを見た限りでは東口店の方が雰囲気があってよさそうだった。
「あ、焼肉とかはちょっと……」
「じゃあ、イっ、イタリアンはどうですか? パスタとか」
 料理の種類の問題ではない。とにかくあんたと行くのがあり得ないだけなんだけど。
「イタリアンかぁ……」
「えっとじゃあ、和食は? 海鮮丼とか?」
 海鮮丼。わざわざ池暴露に来て食べるものでもない。
「あ、ちょっとお腹痛くなってきたから、…いったん帰ろっかな」
「トイレですか? 駅の階段下りたとこか、コンビニがたしかあっちにありますよ」
 ウンコと思われたようだ。
「でも、頭もちょっと痛いから」
「頭痛薬もってますよ。ラキソニン。あれ、よく効くんですよねー」
 雅史はリュックをおろし、中をガサゴソし始めた。
「気持ち悪いかなー」
「吐き気ですか。胃腸薬ありますよ。ペンシロン。これも効くんです。二十分くらいですーっとらく──」
「あなたが」
 七海子は雅史の言葉を遮ってそう言い放った。
「え?」
 七海子は眉間に皴を刻み込み、雅史の顔をじっと睨みつける。
「あなたが気持ち悪い」
 目が泳ぎ、雅史の手からラキソニンがリュックの中に落ちる。
「帰る」
 そう言い残して、七海子は雅史を置いてフクロウ前を後にした。
 祥太は帰りの埼京線の中で、運よく座れた優先席でスマホを取りだし、ツイッターを立ち上げていた。
 ピンクのフリースのツイートを出し、リプライにこう書き込んだ。

 ババアでした。
 サムネ詐欺。並沢まさみじゃなくて膝本まさみの劣化版。
 金髪ミニスカで若作りしてたけど、めっちゃ痛い。
 地獄でしかない。

 送信ボタンを押し、スマホをポケットに仕舞う。
 電車が駅に停まって扉が開き、足もとのおぼつかないおばあちゃんが乗ってきた。
「ああ、ここどうぞ。」
 祥太は席を立ち、おばあちゃんにそう声を掛けた。
「すみません。ありがとうございます」
 小さな声でおばあちゃんは礼を口にし、空いた席に腰を下ろした。
 スマホの通知音が鳴り、見るとツイートにいいねがついたようだった。
 ツイッターを立ち上げるといいねが五百件を超え、さらに凄まじい勢いで増えていて、リツイートも百を超えていた。
 ああ、バズったね。
 高揚感に包まれ、翔太はおもわずほくそ笑んでいた。
 でも、あの二人、あの後どうなったんだろう。
 と思って見ていると、人妻斬りサムライからさっきのツイートにリプライがつき、そこにはこう書かれていた。

 顔も性格も、すべてがう○こでした。
 もう地獄でしかない。

 数分後、メス猿のアカウントは削除された。


[了]
2022年12月11日

短編小説4 宗教施設潜入記(実話)



 これからお話しするのは、わたしが学生時代に実際に体験した出来事です。
 その頃わたしは都内の郊外にあるTという町で一人暮らしをしていて、大学が近くにあってバイト先もすぐ近くで、気ままで典型的な学生生活を送っていました。
 その日も、夜からバイトが入っていたのかいなかったのかはよく覚えていませんが、とにかく午後一人で家にいてカップラーメンか何かを食べていた気がします。
 ピンポーン! と部屋のインターホンが鳴り、出ると若い女性の声がこう言いました。
「総務省の方から来ました。世帯動向調査を行っております。簡単なアンケートにご協力いただきたいのですが……」
 断る理由もないので、わたしは玄関に行って鍵を開けました。
 ドアを開けると、若い二十代半ばくらいの女性と、四十前後くらいのおばさんがこちらに向かって満面の笑みを向けていました。
「お忙しいところご協力ありがとうございます。いえ、こういうのはどうかなと思われる方もいらっしゃるので、実はわたくしどもは聖書の教えを広めているんですよ」
「ああ、じゃあ、さっきの嘘なんですね」
 わたしは割とはっきりと物を言う性格なので、若干イラつきながらそう答えました。
「ええ、申し訳ございません」
 そう言って、二人揃って深々と頭を下げる。
 まるで不祥事を起こした会社の記者会見のようでした。わたしはちょっと気の毒になってしまいました。
「いいです。そんなに謝らなくても。ああでもしないとみんなドア開けてくれないんでしょ?」
 すると、後ろの女性が大袈裟に反応した。
「ええ、そうなんですよ。よくご存じでいらっしゃいます」
「じゃあ、立ち話もなんですから、ちょっと汚くて狭いところですが、中どうぞ」
 手前側の若い女性がモロにタイプの顔だったので、わたしは部屋の中で話を聞くことにしました。宗教とか聖書に興味がなくもありませんでしたし、どういう話をして勧誘するのか、好奇心を抑えることができませんでした。
「いいんですか?」
 おばさんがそう言うと、わたしは「どうぞどうぞ」と身振り手振りで中へ促した。
「じゃあ、すみません。お邪魔します」
 幸い部屋の中はそうじと片付けをしたばかりで、あまりひどいことにはなっていませんでした。
 ワンルームで、部屋の奥の窓際にベッド。手前右に勉強用のデスク。左側の真ん中に低い正方形のテーブルといった配置になっています。それで、そのテーブルのところに座ってもらいました。
「素敵なお部屋ですね。お一人暮らしですか?」
 おばさんの方しか喋らない。
「ええ、上京して二年目になります」
「どちらから出て来られたんですか?」
「大阪です。東京に憧れがあって」
「すごいですねー。勇気があるというか、希望と夢を抱いてという感じなんですね」
 おばさんは私の顔を目をうるませながら熟視し、熱を帯びた声を出す。
「いや、大学に受かって出てきただけですよ」
「それもすごい! なかなかできることじゃないですよ」
 ほめられていい気分のしない人はいません。わたしの鼻の穴もつい広がってしまっていました。
「ご決断というか、一生懸命勉強して、見事難関大学に合格して、故郷から遠く離れてお一人で自立して立派に生活されている。これはお母さま、お父様もさぞお喜びになっていらっしゃるんじゃないですか」
「いや、自立なんて。バイトもしてますけど、仕送りでほとんどやってますから」
 それは紛れもない事実でした。家賃光熱費に大学の学費、それに生活費もすべて親からの仕送りだけが頼りです。バイトで稼いでいるお金なんてせいぜい五、六万程度でしたから飲み会や遊ぶ金に消えていってしまっていました。
「へぇ、そうなんですねー」
 と、おばさんは返答に困ったのか話を流し、膝の上に置いていた黒い鞄の中からパンフレットのようなものを取り出しました。
「こちらが我々のことを紹介した冊子になるのですが、ご覧いただけますか」
 そう言ってA4七枚つづりくらいのパンフレットをわたしに差し出します。。
「キリスト教の主にローマカトリックですね。その教えをベースにしております。ですが、あれはヨーロッパ発祥のものですから、日本のこの土地に合うように修正したものがわたくしどもの団体ということになります」
 たしかにハルマゲドンのことを「最終地獄」と呼び変えていたり、ノアの箱舟のことを「純血船」と書いたりしています。全体として絵が多く、字が少ない印象でした。絵は昔の劇画チックというか、ご年配の方が描いていらっしゃるんだろうなという感じでした。
「そちらの方は?」
 わたしは最も興味のあった、うしろでニコニコしてしきりに頷いていた若い女性のことを訊きました。
「高橋と申します。まだまだ若輩者ですが、セイサンイのシンニョでございます」
 目をみてはきはきと答え、そして土下座のような感じで頭を下げた。
「ああ、すみません。こちらこそ。Yです。C大学文学部の二年です」
 そう言ってわたしも頭を下げたところで一気に空気が緩み、バイトはどこで何をしているんだとか、彼女はいるのかとかそういった話になり、わたしはどうせ知られても害のないものばかりだと思ったのですべて正直に答えました。
「なにかお悩みはありますか?」
「う~ん、どうですかね。ときどきふさぎ込むことはありますけど。なんか自分が必要とされていないんじゃないかって」
 二人の女性は口元に笑みをたたえ、何度もゆっくりしっかりと頷く。
「もしよろしければなんですが、われわれの談話ルームがHにありまして、ここからだとそんなに遠くないところなのですが、いらっしゃいませんか?」
「談話ルーム?」
「ええ、談話ルームって言ってもオフィスみたいなものでして、そこに『先生』がいらっしゃるんですよ。その『先生』ならYさまのお悩みを解決していただけると思うんです」
 おっと来たな、とわたしは身構えました。
「『先生』は長く厳しい修行を積まれた大変徳の高い方でして、わたしたちの些細な悩みごとなんてすぐに解決してくれるんです」
「へー、それすごいですね」
「いちどお話だけでもされていきませんか。電車に乗れば本当に近いところなので。H駅から歩いて五分もかからないです」
 ついて行ったら絶対にマズいということは分かっていました。ですが、おばさんのほうはどうでもいいのですが、高橋さんが長澤まさみ似のどストライクの美人で、だからおばさんが一緒に連れて歩いているのだろうということは想像に難くないのですが、でもやはりその魅力にはかなわないというか仲良くなれたり、それ以上の関係になれたりしたらという期待を抱かずにはいられませんでした。
「あ、はい。じゃあ」
「あ、いらっしゃいますか。ありがとうございます」
 おばさんが明るい声でそう言うや否や、二人は同時に立ち上がった。
「善は急げです。さっそく行きましょう」
 わたしと女性二人組はわたしの自宅を出て、変な距離感のまま近くの駅まで歩き、券売機で切符を買ってH行きの電車に乗りました。
「この電車、通学で乗られてるんですか?」
 高橋さんがそう訊いてきて、わたしは食い気味にこう答えた。
「いえ、普段はモノレールです。一年生の時はなかったんですけど、二年生の時にできてっていうか開通して便利だから引っ越してきたんです」
「へぇ、そうなんですね」
「高橋さんはどちらか学校とか大学通われているんですか?」
 すると、高橋さんの眉間に皴が寄り、目が怖くなった。
「……いえ、大学とかは。そんな頭良くないので」
 へぇ、ああ、そういうタイプか、とわたしは優越感を覚え、心の中で鼻で笑いました。
 まもなく電車は終点のH駅に着き、線路沿いにしばらく歩いた先の雑居ビルの三階に案内されました。一階にはフィリピンパブが入っていて二階は小汚い不動産屋、もちろんエレベーターなんてものはありません。狭くて急なコンクリートむき出し階段を三人縦一列に並んで上がりました。おばさん、わたし、高橋さんという順番です。
 パンフレットと同じ法人名が書かれたプレハブ製のドアを開け、おばさんは入っていきました。そして、パーテーションで廊下的な部分と小部屋に細かく仕切られた左奥の部屋に入るように言われました。恐る恐る中へ入ると、刑事ドラマの取調室のような感じで装飾も何も一切なく、真ん中に事務机とその手前側と後ろ側に黄緑色のパイプ椅子が二脚置かれています。
 身振りで促され、わたしは手前側の椅子に座りました。
「先生がいらっしゃいますので、こちらでしばらくお待ちください」
 おばさんは部屋を出て、ドアがばたんと閉まりました。
 ああ、あの例の〝先生〟か。たいへん徳の高い悩み事をすぐに解決するとかいう。悩み事なんてそれこそいくらでもあるから、パッとその場で解決してもらおうじゃねえか。
 たっぷり三十分以上待たされた挙句、ドアを開けて入ってきたのは三十そこそこくらいの安っぽい紺色のスーツを着た若い男でした。
「いやいやお待たせしてしまいましたね。ちょっと立て込んでまして」
 バナナマンの設楽のようなさっぱりとした顔ですらっと痩せていて、白いシャツにオレンジ色のネクタイをしています。
「ええ、もう来ないかと思いました」
 わたしが皮肉を口にするとハッハと口で笑い、男は手を組み合わせて机の上に置きました。
「こちらで導師をしております、二階堂ほういんと申します。セイハチイのゴイです」
「あ、はいYです。T大の経済学部二年です」
 このときわたしは近くにある嘘の大学の名前と学部を名乗りました。案の定男はそれを手帳にメモっていました。髙橋さんたちには本当の大学と学部を言ってしまっていましたが、彼女たちの記憶よりこの男のメモの方が信用されるでしょう。
「T大! すごいですね。あそこは経済界でも政界でも芸能界でも有名な人がいっぱい出てる超有名大学じゃないですか」
「ええ、まあ」
 実際のT大は自分の名前が漢字で書けて、繰り上がりの足し算引き算が出来れば合格できるようなところでした。ある意味、有名ではありましたが。
「さぞかし一生懸命勉強されたんでしょうね。それとももともと頭がいい──」
「すみません。悩みがあるのできいてもらえますか?」
 わたしは男の話を遮って、わりと大き目な声でそう言った。
「あ、はい。なんですか?」
「悩みです。悩みを聞いてほしいんです。っていうか、実はわたし好きな女性がいまして、でもその人に振り向いてもらえないっていうか、告白しても付き合ってもらえなくて、っていうか他の女性にも全然モテないんですよ。どうしたらモテるようになりますかね?」
 当時の正直な悩みでした。なにをしても、どんなことを言ってもダメで、本当にそれをなんとかできる方法があるのならという偽らざる気持ちでした。
「ああ、そういった悩みですか。いいですよ。うってつけの方法があります」
「えっ、本当ですか?」
「ちょっと待っててくださいね」
 そう言って男は席を立ち、部屋を出て行きました。そして、今度は五分もしないうちに戻ってきて、その手の中には宝石箱のようなものがありました。朱色と金色のまだら模様の箱で、男の手の平くらいの大きさがあります。
「こちらをご覧ください」
 向かい側の席に腰を下ろすや否や、男は箱の蓋をうやうやしく開けました。
「こちらの小さめのものがゲイオウ彫り、真ん中がキンチョウ彫り、こちらの一番大きいものがショウサンジャクです」
 箱の中は金色のシルク地の布で覆われていて、その中に三つの判子が収まっていました。
「ハンコ……ですか?」
「ええ」と男はしたり顔で頷きました。「名は体をあらわすとはよくいったもので、名前にはその人の気力や運勢といったものがすべて盛り込まれています。その名前を形あるものにしたのが印鑑です。社会的に成功された方や著名人有名人なんかは、みなきちんとした立派な印鑑を持っています」
「はぁ」
「きちんとしたエネルギーの込められた自分の印鑑を持つということは、その人の運勢を大きく変えます。弊社の印鑑を作られた方はすぐに会社で成功して出世したり、長年結婚できなかった方も一気に運気が好転して半年もしないうちにご結婚なさった方もいらっしゃいます」
「はぁ。ハンコで」
「ええ、印鑑にはその人の魂が込められているいるんです。実印とかはお持ちですか?」
「いえ、まだ学生なので」
「じゃあ、ちょうどいい。これは銀行の取引や登記簿とかにも使える実印にもなりますので、一石二鳥です」
 わたしはうーん、と低く唸り、腕組みをしました。
「いや、実印とかはそのうちいるとは思うんですけど、っていうかこれって三種類あるんですけど、効能とかってやっぱり大きい方があるんですか?」
 顔を上げると男と目が合いました。
「いや、決してそういうわけではないんですが、作る職人にもレベルというか階位がありまして、ゲイオウ彫りはサンミの者、キンチョウ彫りはヨンミツ以上の者、ショウサンジャクはこれは日本に一人しかいないのですが、ダイゴジョウという階位にあるものが作ります。実印にするのならキンチョウ以上のものがよいと思います」
「へぇ、ちなみにお値段は?」
 すると、男は顔をぴくッとさせ、軽く咳ばらいをしました。
「はい?」
「いや、だから値段ですよ」
「あぁ、…こちらのゲイオウが二十八万円で、キンチョウが五十五万、ショウサンジャクは九十九万です」
「税込みですか?」
「あ、え、いや、……税別で」
 男はわたしから目を逸らし、右手でぎゅっとネクタイの結び目をつかみました。
「めっちゃ高いですねー。ハンコが九十九万円! 税込みで百万じゃないですか! この一番小さいのでも二十八万! いやー、それはちょっとー」
 男は首を横に振ります。
「値段じゃないんですよ。一生モノの価値があるんです。もちろん大きい額なのは重々承知してますから分割払いっていうのもできます」
「いや、ま、値段とかじゃなくて」
「え、じゃあ何ですか?」
「ハンコで運勢開けるとかって、うさんくさくないですか? これもろテレビとかでやってる悪徳商法じゃないですか。いやいや、ハンコって!」
「いやいや、そんな……」
「なんかもう水晶とかまが玉とかならまだ、なんか見た目的にああ効能ありそうってなりますけど、ハンコって。買う人とかいるんですか?」
「いや、それ──」
「いや、びっくりしましたよ。こういうのには引っかからないようにしましょう的な学校とかで見るVTRそのものだったんで。こんなのやってる人いるんだーって。なんかすっごいある意味感動しましたね」
「知らない方には認知されていないんですが、印鑑には──」
「こういう方法でやられてるってことは、これで『はい、買います』って言う人がいるってことですよね。いや、その人がすごいですよね。心がよっぽどきれいな人なんだろうなーって、もうまったく疑うことを知らないようなまっすぐな心を持ってるピュアな人」
 そこまでまくし立てたところで一瞬沈黙が降り、男の顔はもう笑っていませんでした。
「帰ってくれませんかね」
「あ、はい」と、わたしは答え、席を立って部屋を出ました。ドアを閉める時に隙間から男の顔を見ると、明らかにこちらをにらみつけていて、目の中にはわたしを殺しかねないくらいの憎悪の色が浮かんでいました。
 階段を駆け下り、わたしは半ば走るようにH駅前の雑踏の中へ逃げ込みました。


[了]

2022年11月27日

短編小説3 日常との戦争



        1

 その時私は自宅で寝ていたのだが、ドガーンという大きな重いもの同士がぶつかったような音とグラグラっという震動で目を覚ました。
「えっ、今のなに?」
「地震?」
 隣で寝ていた妻と娘も飛び起きて、パニックになっていた。
「交通事故じゃないかな」
 隣か向かいの家にでも車が突っ込んだのかもしれない。
 ベッドから出て階段を駆け下り、玄関のドアを開けた。しかし、それらしい光景はなく、街灯の白い光に照らし出されているのはいつも通りの家の前の景色だった。
 ややあって隣の家のドアが開き、ご主人が顔を見せた。
「いまの何ですかね?」
 目が合うと、私はご主人にそう訊ねた。
「いや、すごい音でしたよね」
「そうそう、かなり揺れましたしね」
 地震でも事故でもないとすると、あれかもしれない。
「ここらもヤバいかもしれませんね」
「ああ、そうか」
 ご主人も合点がいったようで、はぁーと長いため息を洩らし「じゃ、失礼します」と言って家の中に引っ込んだ。
 私もドアを閉めて鍵をかけると、トイレで小便をしてから二階の寝室へ戻った。
「イロンらしいよ。宮台のイロン。ミサイルだって」
 妻はスマホを見ながらそう言った。
 ああ、やはりそうか。嫌な予感は的中していたようだ。
「ツイッターで上がってる。たてもの爆発炎上してるみたい」
 ここから車で二十分くらいのところにあるショッピングモールだった。ユニケロやブックエフやニテリが入っていて月に一度くらいの割合で行っていた。
「今月中には避難しないと」
 私はその言葉に無言で頷いた。
 仙台あたりまではすでにロシア軍の占領下にあり、ここらももう時間の問題と言われていた。この家ももう諦めなきゃならない。イロンにミサイルが撃ち込まれたとなると、もう家がどうこうとかいう話ではない。
「今週末おじさんとこに連絡してみるよ」
 大阪に父の弟のおじさんが住んでいた。頼れるあてとしてはそこくらいしか思いつかない。しかし精神病を理由に徴兵を忌避した私を、おじさんが温かく迎えてくれるとは思えなかった。
 電気を消して布団に入り、再び眠ろうとしたがそんなことは不可能だった。こうしている今にも、ミサイルが飛んでこないという保証はなかった。イロンは狙われて爆撃されたのだろうが、その流れ弾一発でも飛んでくればここら一帯を一瞬にして焦土に変えてしまうことだろう。
 アメリカ軍は核保有国であるロシア軍と衝突することになれば、それは核戦争になって人類が滅亡してしまうという理由で、国後島から知床への侵攻が始まるや否や日本から引き上げてしまった。いったい何のために何十年も駐留していたのかと日本中が唖然としたが、それはどうやらあくまで抑止効果のためだけのもののようだった。
 知床は二日で攻略され、次に釧路が戦場になった。札幌が陥落するまでには一ヶ月近くかかったが、ロシア軍の圧倒的な戦力に自衛隊は終始押しまくられ、やがて北海道全土がロシア軍の手に落ちた。
 青森から盛岡、福島から仙台をロシア軍は次々と攻略し、先月には日本全国の十六歳から六十五歳までの男子全員を対象とした徴兵制が敷かれた。しかし、足りていないのは兵士の数だけではなく武器弾薬や食糧、医薬品などの兵站も極度に輸入に頼っていた日本は制空権を奪われ海上封鎖をされると、あっという間に枯渇した。
 頼りのアメリカや西ヨーロッパ諸国も、支援をするするとは言いつつ具体的な対応は曖昧なままだった。ドイツやフランス、イギリスはウクライナからポーランドへとじわじわと侵食しつつある西側戦線へ全精力を傾けていたし、アメリカは中国に侵攻された台湾と三十八度線を越えて朝鮮戦争を再開させた北朝鮮への対応で手いっぱいだった。
 茨城や栃木の空爆をロシア軍は始め、次は埼玉だろうと言われていた。だが、こんなに早く、こんな近くにミサイルが飛んでくるとは思ってもみなかった。戦況はネットやテレビで見て知ってはいたが、どこか遠い国の出来事のようで現実味はなかった。

        2

 朝になると、ニュースでイロンのことが報じられていて、どうやら駐車場に落ちたようでドローンやヘリで空撮された大きなクレーターの映像が繰り返し映っていた。建物にも被害は及んでいて、北側のニテリの片側半分が大きな鉄球がぶつかったようにグシャッと内側に凹んでいた。専門家の解説によれば着弾時の爆風と金属片によるものらしい。しかし、南側のイロンの専門店街や直営のスーパーや売場には被害はなかったようで、今日の営業時間を十一時に遅らせ、閉店時間は夜の八時までとするとイロン側からは発表されていた。明日からは朝九時から夜十時までの通常営業へと戻れる予定とのことだった。
 電車の状況が気になったが、特に運休や遅延の情報はなく、在来線は問題なく動いているようでホッとした。
 小学校からも特にメールや連絡はなく、いつも通り授業は行われるようだった。
「あー、学校休みになるかと思ったのにー」
 娘の和美はテレビを見ながら悔しそうにそう言った。
「閉店後で良かったよねー。駐車場とか建物の中に人はいなかったって」
 私は自分で食べる分の冷凍パンをトースターへ入れ、四分のスイッチを入れた。
「ロシアもそこらへんは考えてくれたんじゃない? 人のいる土日の昼間とかだと国際社会からまた猛抗議されるだろうし」
「でも営業できなくなったじゃん。一日営業できないだけでも何百万かは飛ぶし、在庫とか建物の復旧までには相当時間かかるよ」
 上場企業だし、従業員の給与補償もしないといけないだろう。
「建物とか在庫品とかは保険掛けてあるだろうから、むしろ新しくなっていいんじゃない?」
 そう言えばそうだ。
「でも、これ保険下りるのかな?」
「ミサイルで爆撃された場合の条項が契約書に入っているかどうかだな」
 世界は半年前には信じられない状況下にあり、戦争が各地で始まるとは誰も予想していなかった。だからおそらく契約書には入っていない条項だろうが、これが天災や天変地異に該当するかが焦点となる。保険会社はロシアに損害賠償請求をしろと言うだろう。だが、そんなことをロシアがしてくれるわけはなく、この戦争が終わる見込みも立っていない。そうなると裁判をするしかない。それもこれも、東京が陥落せずに日本という国が存続すればの話にはなるが。
 私は七時に家を出ると、いつも通り七時二十一分の電車に乗って会社へ向かった。車内はいつも通り満員で、ロシアと戦争をしていることなど日本のサラリーマンたちには関係がないようだった。ミサイル攻撃や空爆が南下してきて東京へ迫ったとしても、死ぬのも厭わずみな会社へ通勤することだろう。自分の会社のオフィスが入っているビルが爆破されない限り、線路が爆撃されて電車が停まったとしても会社が休みになることはなく、タクシーやバスや車を使って何としてでも出勤する。いつになったら動き出すんだと駅員に摑みかかり、爆撃されたくらいで運休してるんじゃねえよと怒鳴り散らす人が続出する。こっちは仕事なんだぞ、どうしてくれるんだ、と。
 そう言えば、徴兵制が敷かれているはずなのに、どうしてこんなに電車が混んでいるのか不思議だ。病気ややむを得ない理由がなければ、自衛隊に入らなければいけないはずなのだが。みんな何だかんだ理由をつけて忌避しているということか。私も人のことを言えないが。
 九時前に会社に着くと、タイムカードを切り、パソコンを立ち上げてメールをチェックした。取引先からの嬉しくもないメールが何件も入っていて、それに重要な順に時間をかけて返事を書いて送った。
「お、あれ、篠塚さん、ニュースで見たよ。宮台のイロンにミサイル落ちたって。近くだったよね。大丈夫だったの?」
 小山課長が顔を見るなり、そう訊いてきた。
「ええ、夜中にドカーンって音がして家族みな飛び起きましたよ。でも、特に家には被害はなかったです。十キロ以上離れてますしね」
「へぇ、そうなんだ。いよいよ埼玉まで来たかって感じだよね」
「はい、今月中には避難しないとって家族とも話してて。大阪に叔父がいるので、そこを頼ろうかと」
 すると、みるみる小山の顔が曇った。
「えー、それちょっと困るよ。せめて三月の決算までいてもらわないと。事情は分かるけどさ、タイミングが悪いっていうか少しは会社のことも考えてよ」
 来年の三月となると、あと四ヶ月以上先になる。
「はぁ、まあそうですよね。徴兵のせいで人減ってますしね」
「そうそう。俺もさ、そりゃお国のためだから応じようとは思ったよ。でもさ、ここで俺抜けちゃったらさ、この会社どうなるのって感じじゃない。分かるでしょ」
 課長が抜けても特に害はないとは思うが、とりあえず頷いておいた。
「そういえば課長はどうやって徴兵を回避したんですか?」
「ああ、そりゃね血糖値が三年くらい前から悪かったから、かかりつけの近所の医者に重篤な糖尿病って診断書かいてもらったんだよ」
 ああ、誰でも似たようなことをしているんだな。
「戦争もいい加減にしてほしいよね。こっちも忙しいんだっつーの」
 ロシアの兵士たちは日本人たちがそんなことを考えているとは思ってもいないことだろう。
 そこでその話は終わってしまい、結局三月の決算まで残ることを約束させられてしまったような形になった。戦争が始まったからといって、仕事から逃れられるわけではなさそうだ。
 その日は夜十時過ぎまで仕事をして、頭が痛くなってきたところで上がらせてもらった。いつもカバンの中に持ち歩いているロケソニンを飲み、電車は運よく座れたから半分寝ながら帰ってきた。
 家に帰ってくるなり、妻のもとみに避難のことを会社に話したか訊かれた。
「うん、でも三月の決算までいてほしいって。まあ、たしかに俺がいないと決算乗り切れないからね」
「こっちは決算どころじゃないんですけど。イロンにミサイル落ちたってことは、ここにいつ落ちてきてもおかしくない状況じゃないですか?」
「うん、まあそうだな」
「そうだな、じゃないよね。すぐ避難しなきゃいけないと思うんですけど、違いますか?」
 私は腕組みをして、低くうなった。
「うん、でも、仕事が……」
「仕事なんて、もうどうでもいいじゃない! ミサイル落ちてきたら死ぬよ! 家も庭も車も駐車場も全部が吹っとんでバラバラの黒焦げのがれきになるってことだよ」
「ローンはどうなる?」
 三十五年ローンを組んでいて、月々の支払いが八万五千円ある。
「いや、ローンは続くんじゃない。保険下りるかどうかは……」
 そこで、もとみはトーンダウンした。
「だから結局今朝の話だろ。分かんないけど、たぶんミサイルによる全半壊は、保険の条項に入ってないよ。そんなの見たことないし」
「じゃあ、ローンだけ続いて、家はなくなるんじゃん」
「そうだよ。もう、最悪だよ」
 私はそこで意図的に一呼吸置いた。
「でも、いまのところここにミサイルは落ちてきてないし、家も壊れてないから、いままで通り仕事して、こつこつローンを返してくしかないってこと」
 ミサイルのことは実際に落ちてきてから考えればいい。宝くじを十枚くらい買って、当たったらどうしようかとあてもなく考えているようなものだ。この家が全半壊するほど近くにミサイルが落ちてくる確率なんて、万に一つもないだろう。
 ビールを飲みながら夕飯を食べ、風呂に入って一時過ぎに寝た。
 その日は変な夢を見た。大阪のおじさんが会社に来て課長に文句を言い始め、怒鳴り合いになり、さらにはつかみ合いの喧嘩になり、それを私が必死になって止めるという展開だった。課長がおじさんの顔を殴って眼鏡を吹っ飛ばし、それに逆上した私が課長の尻におもいきり蹴りを入れたところで目を覚ました。
 ウォ~ンウォ~ン! ウォ~ンウォ~ン!
「うっせーな。なにこれ?」
 隣で寝ていたもとみも目を覚まして、むくっと起き上がった。
 どこかで聞いたことがある。でも、寝起きで頭が回らない。
「空襲警報じゃない。映画とか、ほらウクライナの時ニュースでみた」
「あぁ、そっか。それだ。それにしても爆音だなー」
 窓はきっちり閉めているのに、それでもうるさい。
「あれ、でも、どうすんだったっけ?」
「いや、俺に聞かれても」
 さいてま市の広報に割と大きく載っていた気がするが、ちゃんと読んでないし、無論覚えてもいない。
「地震のときと一緒じゃない?」
「ああ、じゃあ玉小か」
 娘が通っている小学校が災害時の避難先だったから、とりあえずそこへ行くくらいしか思いつかない。
「でも、玉小に避難したからってミサイル飛んでこないとは限らなくない?」
「いや、ロシア軍もさすがに小学校は狙わないべ」
「そんなの関係ないと思う。北海道とか仙台とか、病院とか学校とかも標的になってたみたいだし。むしろ狙われるかも」
 たしかにこれまでにやってきたことを考えれば、ロシア軍にそういった手心を期待するのは間違いだろう。
「ていうか、広報に載ってた。これ鳴ったときのマニュアル。さいてま市の広報。新聞入れのとこに入ってる」
「あ、ごめん。それ先週の土曜日の新聞回収に出しちゃってる」
「おい、まじかよ。載ってるなーって思ってたのに」
「じゃあ、新聞入れの中に入れないでよ。あそこ入ってたら新聞と一緒に出すに決まってるでしょ!」
 ウォ~ン! ウォ~ン! ウォ~ン! ウォ~ン!
「あー、うっせえな。もー!」
 とりあえず我々はベッドから出て娘の和美を起こし、三人で下に降りた。
 テレビを点けてみたが、夜中の三時過ぎでどの局も放送休止になっている。
「ネットは? さいてま市のホームページ」
 スマホで見てみると、通常営業的な「市長の部屋」や「さいてま市議会レポート」などのページが並んでいるだけで、空襲警報が鳴ったときのマニュアルがどこにあるのかが分からない。
 五分ほど格闘して探してみたが、結局見つからなかった。
「ダメだ。ないよ。ない。くそー」
 ウォ~ン! ウォ~ンウォ~ンウォ~ン!!
「へんなの鳴らしやがって。明日クレーム入れてやる」
「とりあえず玉小避難する?」
「いや、もういいよ。面倒臭い。俺は明日も仕事だし、無視して寝る」
 冷蔵庫からビールを取ってきて、耳栓をして寝ることにした。今から寝れば三時間くらいは寝られる。
 そして寝室のベッドで胡坐をかき、ビールの蓋をプシュッと開けたその時、ドーンという下から突き上げるような地鳴りが聞こえ、家全体が激しく揺れた。
 階下から娘と妻の悲鳴が聞こえ、持っていたビールがベッドのシーツに盛大にこぼれた。
 私は揺れが収まるのを待って階段を駆け下り、二人に「大丈夫か?」と尋ねた。
「大丈夫だけど……」
「っていうか近いよな。めっちゃ近い」
 和美ともとみは大きく頷く。
 イロンの時よりも倍以上大きな音と揺れだった。
 よく分からないが、こんなのをくらったら、小学校だろうが自宅だろうが、被害は変わらないのではないだろうか。建物は木っ端みじんに破壊され、中にいる人は全員即死だろう。
 戦略的にこんな住宅街にミサイルを撃ち込んでも意味はない気がするのだが、ロシア軍兵士はきっとそこまでは考えていない。さいてま市が人口百三十万人の大きな市でさいてま県の県庁所在地だから、戦車の中でウォッカを飲みながらそっち方面へ向けて適当にぶっ放しているだけだ。
「どうしよう…」
 もとみが不安げにつぶやく。
「外も危ないだろうし、今更避難しても」
「そうだな。防空壕みたいのがあるわけでもないし、どこにいても──」
 空から天井が降ってきて、轟音と共にもとみも和美もわたしも部屋も白い光に包まれた。


[了]

2022年09月11日

短編小説2 自由がたまらない



        1

 すみません。終電ヤバいんで帰ります。五千円置いときますんでお釣りはいいです。
 そう言い残して僕は席を立ち、靴を履いて外へ出た。ここから駅までだいたい十分くらいだ。今が十一時半だから、四十二分の終電にはぎりぎり間に合うはずだった。
 未だ酔客のたむろしている一番街の雑踏を足早に抜け、線路沿いの道に出たところで植え込みの中に頭を突っ込んでいる髪の長い女がいた。前のめりの土下座をするように突っ込んでいて黒のマイクロミニスカートが尻の上ところまでずり上がっていて、ベージュのパンツの大部分が丸見えになっていた。
 おっ、と思ったのは本能的なものだったが、ひょっとしてこの人はマズい状態なのかもしれないという心配も同時に働いた。
 そういう時、僕の身体は自然に動く。何事も放っておけないたちなのだ。
 大丈夫ですか?
 僕はとりあえず着ていた上着を脱いで彼女の下半身にかけ、そう声をかけた。
 反応はない。
 肩をつかんで、揺さぶる。
 大丈夫ですかー? 
 大きな声で怒鳴りながら上半身を引き上げる。
 色白で小顔のなかなかの美人だった。
 おっ、とまた反射的に思ってしまったが僕は右手で背中と頭を支え、左手で頬を軽く叩いた。
 ん、んーんっ!
 パッと目が開き、眩しそうに細めた後、僕の顔をまっすぐに見た。
「んーん?」
「ああ、よかった。大丈夫?」
 その瞬間頬がぼこっと膨らみ、ゲロが彼女の口から噴出した。
「あーああーっ!」
 僕の右腕と右半身はゲロに塗れ、彼女は尚もえづきながら白濁した嘔吐物を吐き出し続ける。
 酸っぱい臭いが鼻を突き、僕もかなり飲んでいたからもらいゲロの波に襲われた。
「あー、くるっ!」
 胃がヒクつき、喉に下からぐっと圧力がかかる。だが、ここで吐いたら格好悪いという見栄が勝り、唾を何度か吞み下して呼吸を整え、なんとかやり過ごした。
 顔を横向きにして背中をさすりながら吐き尽くさせると、僕は鞄の中にあったミネラルウォーターを彼女に飲ませた。
 三分の一ほど飲んだところで彼女は口を離し、もういい、と言った。
 腕時計を見ると、十一時五十三分。終電はとっくに過ぎていた。
「家どこ?」
 そう訊くと、彼女は薄く目を開け、鼻から息を吐いた。
「志茂の方。……こっから歩いて十分くらい」
「送るよ。ほら、おんぶしてあげる」
 ゲロまみれで始発を待ちたくなかったし、下心もなかったと言えば嘘になる。
「いい。……歩いて帰るから」
 そう言って彼女は立ち上がろうとしたが、よろけて尻もちをついた。
「ほら、ヤバいよ。どうせ終電なくなっちゃったし」
 手を差し出すと、その手を握り返してきた。
「……まじ?」
「さっきまであったんだけど、こんなことしてたから逃しちゃった」
 すると、彼女は下唇を噛んで気まずそうな顔をした。
「時間潰すついでに送ってあげるよ」
「でも、うち散らかってるよ」
 僕はかぶりを振った。「いい、いい。そういうのあんま気にしないから」
 すっかりその気になった僕は意気揚々と彼女を背中に背負い、のっしのっしと歩き始めた。

        2

 メゾネット式マンションの二階部分に彼女の部屋はあって、時間も経ってだいぶ回復してきていた彼女は階段の下で僕の背中から降りた。そして階段を上ると、窓から明かりが洩れているのが見えた。
「あれ、誰かいるの? 電気ついてるけど」
「ううん、いないよ。ずっとつけっ放しにしてるんだ」
 電気をつけっ放し? 防犯上の理由だろうか。
 鍵を開け、彼女は玄関のドアを開ける。
「ほんと散らかってるんだー」
 ドアの内側に広がっていた世界は想像を絶するものだった。
「これは……」
 散らかっているというレベルではない。食べかけの弁当や酒の缶、ペットボトル、バッグ、靴、服、下着、メイク道具、汚れた皿……、ありとあらゆるものがそこら中に散らばり、足の踏み場どころかほとんど床が見えなかった。部屋の中は蒸し暑く、するめと日本酒と醤油を混ぜたような臭いが漂っていた。
「エアコン……」
 ゴーゴー音を立てて熱い空気が吐き出されている。
「あ、リモコンなくしちゃったんだー」
「いつぐらいに?」
 彼女は靴を脱ぎ、ゴミの中に躊躇なく足を踏み出していく。
「半年くらい前かな。全然見つかんないんだよね。二十五度の暖房かかってるから、夏になるまでには見つけなきゃって思ってるんだよね」
 僕も仕方なく靴を脱ぎ、汁入りカップ麺や中身の入った開けたままのスナック菓子の袋を踏みつけながら中に入った。
「これさ、どうやって寝てるの?」
 部屋の奥にあるベッドも三分の二くらいまでゴミで埋まっている。
「えー、ここらへん」
 そう言って、彼女は実際にそこらへんに寝てみせた。ああ、ゴミがクッション代わりになって布団的な感じになっていた。
「片づけないの? ベッドの上だけでもさ」
 すると彼女の目に険が籠もり、「めんどくさーい」と呟いた。
 ああ、ですよね。
 下心も九割方引っ込み、僕はもう帰りたくなった。
「シャワー浴びようよ。エッチすんでしょ?」
 もうそういう気分ではないし、物理的に不可能ではないだろうか。
「え、どこで?」
「どこでもいいじゃん」
 あ、そっか。そんなことは気にしないのか。
「臭くない? ゲロ吐いちゃったし」
 いや、もうゲロどころではない。
「シャワー借りれるの?」
「いいよ、こっち」
 ゴミを踏みつけながら部屋を横切り、摺りガラスの蛇腹戸を開けて浴室を見せてくれた。
 想像を絶する光景を予感していたのだが、それほどでもなかった。カビやらシミやらはたくさん生えていたが、うちとそう大差はない。
「へぇ、ここはきれいにしてるんだ」
「そう。身体をきれいにする場所だからね」
 思考回路がよく分からなかったが、ここがあまりにも汚くて使えないと、体面も保てなくなるからだろう。
「一緒に入る? 洗ってあげるよ」
 僕の気分とは逆に彼女はやる気満々になっているようだ。
 スカートやら着ていた芥子色のニットやら下着を脱ぎ、そこらに置いて彼女は裸になった。乳首もピンク色でおっぱいの形も大きさもよく、尻もくびれた腰も芸術的なラインを描いている。
 下半身が即座に反応し、僕も着ていたものをそそくさと脱ぐと彼女の流儀に従ってそこらへんにぽいぽいと放った。
 シャワーを浴びながら僕らは立ちバックで一発やり、浴室から出るとゴミの上で騎乗位と正常位で一発、時間を空けてもう一度騎乗位とバックで一発ずつやった。
 むろんゴムなどというものの用意はなく、生理前だから大丈夫と言われてすべて中に出した。やりすぎたせいでへとへとになり、眠くなってそこらで寝てしまった。

        3

 佐々木ほのかというのが彼女の名前で、僕はその日から彼女の家に入り浸るようになった。仕事が終わると、開放感からかついほのかの家に行きたくなり、行くと毎回ゴミの上でセックスをした。
 それがはじめは週に一度くらいだった。だがいつからか三日に一度になり、二日に一度、そして一月もしないうちに毎日になった。自分の家に帰らなくなり、仕事も遅刻しがちになり、出勤が面倒くさくなってある日を境に行かなくなった。携帯ははじめは鳴りまくっていたのだが電話には出ず、ラインも既読をつけずに無視し続けると次第に鳴らなくなり、誰からも何も言われなくなった。
 腹が減ると我々は連れ立って近所のセブンイレブンに行き、酒やらつまみやら弁当やお菓子を大量に買い込んだ。会計はすべてほのか持ちで、彼女はいつもペイペイで支払っていた。そのお金がいったいどこから来るのか訊いたことがあるが、あいまいにぼやかして答えてくれなかった。僕の予想では実家がとてつもない金持ちか、外に行ったきり二、三日帰らないことがあったから、その間に身体を売っているかAVにでも出ているのだろうと思った。
 僕は彼女がいない間にエアコンのリモコン探しをする。暑くてたまらないからだ。ゴミをかき分けて床やカーペットの下、タンスの奥まで隈なく探す。ついでに部屋の片付けもしてしまいたくなるが、そこはぐっと我慢してリモコンだけに集中する。熱気が部屋に充満していて、窓を開けるとさらにエアコンが勢いよく働き出すのだ。
 ああ、でもなんで僕はこんなところにいるんだろう。
 ときどきふとそう思う。仕事もいかなくなってだいぶ経つから、おそらくクビになっている。金も使わないし、何にも困らない。コンビニとペイペイと部屋とエアコンさえあれば、人は生きていけるのだ。結局、ここまで自堕落な生活を送るというのが、気持よくて仕方がないのだろう。食べた弁当の殻をそこらへんに置く。ビールやサワーを飲んで、空き缶をぽーいと投げる。これは純粋な快楽と言っていい。気持ちいい。たまらないのだ。
 そんな生活を送っていると、当然ゴキブリは出てくる。見かけるとほのかはぎゃあぎゃあ言うから、僕はセブンイレブンでコンバットをたくさん買ってきて、ゴミの中に仕込んだ。ゴキジェットプロも買ってきて、見かけたら即刻抹殺するようにした。あいつらと共存する気はない。とにかく気味が悪いからだ。
 ゴミの量は徐々に増えていっている。その中に埋もれるようにして僕らはいろいろな体位でセックスをする。コンドームをコンビニで買ってきて、いつも着けるようにしていた。妊娠と性病が怖いからだ。どこでどんな男とやってきているか分からないし、妊娠してしまったらこの生活がすべてパアになる。──寝て食って、やる。もう一回やって寝て食って、またやる。そして寝て食って、やる。やる。やる。食う。食う。食う。寝る。起きて、やる。その繰り返し。性欲も食欲も睡眠欲も尽きることはない。身体から汗と共にずっと噴出し続ける。

        4

 ある日、エアコンのリモコンが見つかった。それは僕がこの部屋に来て六ヶ月と十日目のことだった。
 ベッドと壁の隙間に落ちていて、ブラジャーと食べかけのランチパックとストロングゼロの間に挟まっていた。僕はそれをエアコンに向け、電源のオレンジ色のボタンを押した。
 ぷしゅーという音と共にエアコンの羽が閉じていき、十秒後に静止した。
 完璧な沈黙が部屋に訪れ、腕の表面全体に鳥肌が立った。二十四時間浴び続けていた熱気が消え、部屋の空気の臭さを感じた。
 精子くさいし、するめくさい。酒くさいし、少しうんこのような臭いもする。
 僕は耐えられなくなってゴミを蹴飛ばしながら窓を開けた。
 あぁぁぁあああーーー、僕は顔を窓の外に突き出して、思い切り吸ったり吐いたりした。
 なんていい空気なんだ。くさくないし、熱くも冷たくもない。清々しいにもほどがある。
 振り返り、部屋の中を見ると恐怖を覚えた。ゴミの堆積がひざ下くらいまでの高さに達し、まるでそれは東京湾に浮かぶ埋め立て地のようだった。
 ああ、違う。こんなのは違う。絶対に間違っている。
 僕は部屋を飛び出すと駅前のマツキヨに駆け込み、四十リットルのゴミ袋のパックを十パック買ってきた。
 全部きれいにしてやる。なにもかもすべてむちゃくちゃきれいにしてやる。
 ゴミ袋の口を広げ、そこらじゅうのものを片っ端から放り込んでいった。缶とペットボトルは中に入っていた液体をトイレに流し、分別して袋にまとめた。服やら下着もブラジャー袋、パンツ袋、ニット袋、Tシャツ袋と種類ごとにきっちり分けて袋に入れ、靴もハイヒール、スニーカー、ローファーなどぴっちり分けて玄関に備え付けの靴箱の中に収納した。その作業を延々休まずまる二日程かかってやり終えると、ゴミ袋はネットで調べた可燃物の日の朝に二十往復くらいしてゴミ捨て場に五十六袋出し、缶とペットボトルは歩いて十分ほどのところにあるスーパーのリサイクルボックスに六袋分出した。衣類や下着やタオル、ベッドのシーツはコンビニの近くにあったコインランドリーで一万円かけて洗濯、乾燥をかけて、きっちり畳んでタンスの中にしまった。
 仕上げにマツキヨで買ってきたクイックルワイパーで水拭きと乾拭きを四往復して床も磨き上げ、ちり一つなくしてやった。
 風呂場もトイレもカビキラーとマジックリンで徹底的に掃除し、黒ずみもピンク黴も黒カビも根絶やしにした。
 ひーひひひひひひ……!
 やってるうちに楽しくなってきて、笑いがとまらなくなった。
 これはたまらない。もうほとんど快楽だ。亀頭から精液が出続けているような感覚をおぼえる。
 あはあはははは! あああぁぁぁぁー!
 ついでに除菌もしてやった。高濃度アルコールの強力な除菌シートで冷蔵庫から床から玄関のドアからトイレの壁まで拭きまくり、ウィルスというウィルスを絶滅させた。
 窓拭きをしている最中に突然ガチャッとドアが開き、ほのかが帰ってきた。
「あ、部屋片づけてくれたんだー」
 そう言いながら持っていたバッグをぽーんと投げ、帰りにコンビニで買ってきたであろう袋からばしゃーっとスナック菓子と酒とパンを床に放った。
「っていうか、広っ!」
 スマホを取り出して見ながら床に寝転び、着ていた黒いチェックの上着や履いていたコンバースのスニーカーをそこらへんに置く。
 あぁあぁあぁぁぁぁ……!
 これはこれで快感だった。痺れるようなむず痒いような感覚に脳全体が揺さぶられ、もうどうかしてしまいそうだった。
 ほのかの隣にごろんと横になり、低い唸り声を発しながら身体をクネクネさせた。
「え、それなに?」
 本当に意味が分からなかったようで、あのほのかが戸惑った感じの声で訊いてきた。
「いやー、もう、ねー、自由がたまらないと思って」
「は? っていうか寒いんだけど」
 そういえば、エアコンのリモコンどこ置いたっけ? 思い出そうとしてもどうしても思い出せない。ひょっとしたらゴミと一緒に捨ててしまったかもしれない。
「寒いのたえられない。なんとかしてよ」
「いや、寒かないよ」
 掃除をずっとしていたからか、むしろ暑いくらいだ。もう五月だし、エアコンなんてなくてもいいだろう。
「そうかな。ま、いっか。それよりストロングゼロ飲もっか」
「ああ、うん」と頷きながら、床に転がっていたアセロラ味のものを取り、プシュッと音を立てて開けた。ほのかは王道のレモン味を開け、我々は缶を重ね合わせて乾杯をした。
「んー、すっぱ」
 こっちもむちゃくちゃ酸っぱかった。ただただ酸っぱいだけで美味しくはなかった。前に飲んだ時はこんなに酸っぱかった記憶はない。アルコールのむせ返るような濃さも相まって、吐きそうだった。きっとこんながらんどうのような部屋の中で飲んでいるからだろう。
「あー、もういいや。残りあげるわ」
 半分ほど残っていたが、僕はそう言ってほのかに缶を差し出した。いつもと状況とか環境が違うからだ。メンタルが内臓にきている。
「やろっか。ベッドで」
 こうなったらセックスでもするしかない。ベッドの上もきれいに片付いて、洗いたてのシーツに替えておいたから清潔そのものだ。
「だねー。ベッドでやったことなかったもんね」
 だが、僕の下半身はピクリとも反応していなかった。なぜだろうと考えてみると、欲情していないからだと気づいた。エロくないのだ。空気が。雰囲気が。
 ほのかはストロングゼロを飲み飲みするすると服や下着を文字通り脱ぎ捨てていき、素っ裸になってベッドの上にダイブした。
「ホテルみたーい。変なのー」
 僕も服とパンツを脱いだが、裸のほのかの尻やらおっぱいを見ても陰茎はふにゅふにゅのままだった。
「ちょっとさー、あそこ広げて見せてよ」
「なにそれー、AVかよー」
 ほのかはそう言いつつ仰向けになってM字開脚し、あそこのびらびらを指で押し広げてみせた。
「あー、サーモンピンクだねー」
 そう言いながら自分のちんこを指でしごいたが、全然勃起しなかった。
「え、勃ってないじゃん。オナニーしすぎじゃね」
「しとらんわー。掃除しててそれどころじゃねえわ」
 よく見ると、ほのかのあそこもカサカサだった。
「あほくさー。ダメじゃん。ふにゃチンかよ」
 ゴミがないとだめだ。こんな片付いたきれいな部屋じゃだめなんだよ。あのシチュエーションじゃないと、もう勃起しなくなっている。
 ベッドから降り、ほのかは浴室へと消えていった。僕が徹底洗浄除菌したぴかぴかの浴室へと。
「ホテルじゃん。きもー!」
 すりガラス越しにそう言っているのが聞こえた。
 キモい。たしかに。これはかなり気味の悪い空間だ。
 僕は裸のままリモコン探しを始めた。あれがないと、空気がおかしくなる。熱々の空気を送り込んでもらって意識をぼんやりさせておかないと、頭がおかしくなる。
 だが、リモコンはいくら探しても見つからなかった。あらゆる引き出しを開け、中のものをほじくり出し、床に這いつくばって隙間を隈なく見てもない。
 ああ、本当に捨ててしまったのだ。夏になったらどうしよう。
 僕はパニックになり、とりあえず服を着ると外へ出た。リモコン、リモコン、リモコンと呟きながら、大通りへ出て目についたコンビニの中へ入った。
 店内を順繰りに見て回り、ランチパックのハムマヨと缶コーヒーを買って店を出た。
 駅前の西友の脇に小さな公園があって、そこのブランコに座り、買ってきたものを飲み食いした。
 見上げると空の高い位置に満月が浮かんでいて、それは異様に明るく、まるで夜の太陽のように地表に光を降り注いでいた。
 あー、やっちまったなぁ。
 コーヒーをすすりながら、僕はそう呟いた。
 こうして満月の下でぬるい風に吹かれていると、ほのかとゴミの中で過ごしていたことが異世界での出来事のように感じられる。
 勤めていた会社も上場企業で労働条件も給料も人間関係も悪くはなく、何の問題もなかったのに。
 ほのかと一緒にいればいるほど、今持っているものを一生懸命持ち続けていることがアホらしくなってしまうのだ。何もかも捨てて何にも縛られずに自由に生きられるような気になってしまうのだ。
 住んでいた部屋は今どうなっているだろう。家賃は毎月指定の口座に振り込みという決まりだった。滞納で音信不通状態だから、今頃中のものは適当に処分されて引き払われていることだろう。
 やり直せるだろうか。ここからまたやり直しはきくだろうか。
 コーヒーの缶を自販機横のリサイクルボックスに捨て、僕は駅へと歩き始めた。

 最寄り駅で降りて自宅マンションに帰ってくると、表札はまだ僕の苗字のままだった。鍵はなくしまっていたから僕はドアの横にある呼び鈴を鳴らしてみた。
 ややあってドアが内側から開き、父親が顔を覗かせた。
「おまえ、どこいっとんたんだ?」
 僕の顔を見て驚いた後、父は低い声で唸ってからそう言った。
「分からん。なにしとったんか」
「分からんじゃねえだろ。おまえ、どんだけ心配かけとったんか分かっとんのか?」
 それは紛れもない怒声で、申し開きの余地もなかった。
「アホやった。おれ、アホやったわ」
 ゴミの中でずっと女とやりまくっていたとは言えなかった。


 [了]

2022年09月04日

短編小説17 ゴミ捨て場



 ある土曜の晩、高橋みきおが玄関に置きっ放しにしていたア〇ゾンの荷物を取りに行くと、靴箱の上にゴミ捨て場掃除当番表があった。
「あっ、ヤバい! やってない」
「え、なにが?」
 台所で洗い物をしていた妻のさえこが訊き返す。
「掃除当番! ゴミ捨て場の。昼にやるって言ってて忘れてた。行ってくるわ」
 夜十時過ぎで、みきおは風呂上がりのスウェット姿だったが、構わずサンダルをつっかけ、当番表と鍵だけを持って家を出た。
 暗くて静かな夜だった。十メートルおきに設置してある外灯の明かりくらいしかない。
スタスタという足音を響かせながら、当番表をぶら提げ、歩いて三分ほどのところにあるゴミ捨て場に向かう。
「うぇっ、なんだこれ……」
 ゴミ捨て場に着くと、みきおはそう呟いた。ゴミ捨て場のベニヤ台の左端に白いシロップ状のものがぶち撒けられていて、そこに蟻や虫がたかっている。
 備え付けのほうきを手に、その白いものを掃き出そうとしたが、樹液のように固まっていて取れない。
 あー、もうこれは取れないなと諦め、他の部分だけおざなりに掃いて落ち葉などを台の外に落とし、みきおはゴミ捨て場を後にした。
 当番表を隣の加藤家のポストに入れた時、防犯用のライトのセンサーが反応し、ひどく眩しかった。
 家に戻り、さえこにシロップ状のものの件を話すと、もうそれはしょうがないんじゃない、と夫婦の意見が一致し、みきおは歯を磨いて寝た。

 翌週の月曜、みきおは朝ゴミを捨てるためにゴミ袋を両手に提げてゴミ捨て場に行った。
「えっ、なんだこれ?」
 横断幕のような張り紙がしてあって、そこには

 ゴミ捨て場の掃除はしっかりやりましょう!
 みんなのゴミ捨て場です。各自責任を持ってください!

と大書され、その横に家庭用プリンターで印刷されたあのシロップ状の液体の写真が貼られていた。
 見ると、あの液体はきれいに拭き取られていて跡形もない。
 カラス除けのネットを上げてゴミを置くと、スマホを取り出して写真を何枚か撮った。
 みきおの心はざわざわと慄き、駅まで歩いて行く道すがら、ずっとゴミ捨て場のことを考え続けた。頭は沸騰したように様々な感情や思考が入り乱れ、気づくと駅に着いて階段を上っていた。
 改札を入ると、赤羽で事故があったらしく、ダイヤが大幅に乱れてホームには人が溢れていた。
 くそっ、こんな時に! っていうかやっぱりあの加藤のクソじじいだな。暇な老人が。こっちは忙しいんだっつーの。ゴミ捨て場ごときを気にしてる余裕はねえんだよ。
 とりあえず上司にメールを入れ、電車が遅れている旨を伝えた。
 今度会ったら思いっきり無視してやる。向こうも、うちだって分かっててやっていやがるんだろうから、覚悟くらいできてるだろう。温厚そうなじじいだと思っていたが、腹ん中では何考えてるか分かんねえな。
 ホームに入場制限がかかる中、四十分遅れで超満員の電車に乗り、一時間近く遅れてみきおは職場に着いた。
「すみません。赤羽で線路に人が転落とかで、もうほんとに電車が来なくて」
 仕事を始めている皆にも聞こえるよう、やや声を大にして上司の片山に頭を下げる。
「でもね、もう少し時間に余裕を持って来ればよかったんじゃない。わたしなんか、二、三本遅れても間に合うのでいつも来てるよ」
 耳に指を突っ込んでほじくりながらそう言われると、もはや怒りすらわいてこない。
「すみません。明日からそうします」
「早いのは空いてていいよ。ドンピシャの時間だとキツいだろ」
 都内の高級マンションに住んでいて夜も早く帰れる片山とは違って、みきおは埼玉の郊外に家があって最寄り駅までも遠く、通勤は一時間以上かかる。そのためだけに今より早く起きるのは、中年に差し掛かったみきおには体力的にキツかった。
「あ、はい。早い電車ですね。以後気をつけます。すみません」
 腹のうちが見透かされないよう表情に気をつかいながら頭を下げ、みきおは自分のデスクに戻った。

 加藤修は十五年前に会社を定年退職し、退職金の半分以上を株に注ぎ込み、配当と売却益を得ながら生活している孤独な老人だった。
 息子が一人いたが、高校生の時に自宅の自室で自殺した。ドアノブにタオルで自分の首を引っ掛けるという、その当時人気のあったミュージシャンが実際に死んだのと同じ方法で息子は死んだ。もう二十年以上前のことになる。
 妻の洋子は三年前に急性心不全で突然死し、そのショックが癒えぬまま年月だけが経過していた。
 加藤自身は元気そのもので、持病もなく風邪すら引かず、毎日同じ時間に起き、同じ朝食を食べ、九時になるのを待って自分の持っている会社と同業他社の株価や指標の動向、発表された企業の決算書の数字を「株価ノート」にボールペンで書きつける。お昼を挟んで午後はじっくりと時間をかけて新聞を読み、広告をチェックし、近所のスーパーと薬局に買い物に出かける。夜は夕飯を食べて晩酌をしながらテレビを観て、風呂に入って寝る。
 そんな生活を三六五日送っていると、昨日と今日の区別がつかなくなり、一年前と一昨日がまるで変わらない感覚に陥る。
 息子の浩輝に残すはずだった遺産も、郷里の山形にいる自分と大して年の変わらない親類たちが山分けすることになっている。
 生きがいと社会との接点になっている投資活動は、それ自身が目的化している。得てしてそういうものだが、欲のない人間が利殖行為を行うと儲かる。欲をかかず数字と客観的なデータで買いや売り、買い増しや損切りができるために損をしない。
 九月十六日の晩、防犯用に設置してある玄関のライトが瞬き、加藤は布団から飛び起きた。そして窓を少し開けて外を覗くと、光の中で中肉中背の男が逃げていくところだった。
 強盗かもしれない。光に照らし出されて慌てて逃げていったのだ。セ〇ムに入って防犯カメラとライトを家の周りに数箇所設置していたのが功を奏した。番犬なんかよりもよほど効果がある。
 時刻を見ると午後十時過ぎで、およそまともな人間の訪ねてくる時間ではない。加藤は家の電話からセ〇ムに連絡し、強盗に押し入られそうになったことを話し、自宅周辺の警備を依頼した。
 およそ一時間後にインターホンが鳴り、セ〇ムの制服を着た男が玄関モニターに映し出された。中に入ってもらい、自宅周辺の捜索の結果、特には異状はなく、怪しい人物もいなかったとの報告を受けた。
「防犯カメラをちょっと見せていただけますか?」
 備え付けの機器の前にしゃがみ込み、ノートパソコンに繋げて操作し始めた。
「十時かちょっと過ぎくらいです。だいたい」
 加藤も後ろから覗き込み、パソコンの画面の中で時間が巻き戻っていくのを見つめる。
「あっ」
 光の中に人影が現れ、灰色のスウェット姿の男がポストに何かを入れていくのが映った。
 セ〇ムの警備員は男がポストにそれを入れる直前、顔が正面から映ったところで画面を停めた。
「この男に見覚えはありますか?」
 どこかで見たような感じの男だった。だが、思い出せない。
「いや、……ええ」
「ポストの中を確認してきていただけますか? 何かを入れてるように見えますが」
 玄関を出て、ポストの中を見るとゴミ捨て場の掃除当番表が入っていた。その表に書いてある順番表を見て、加藤は男の顔に思い当たった。隣の家の高橋だった。
当番表を玄関の靴箱の上に置き、加藤は部屋に戻る。
「何か入っていましたか?」
「いえ、……特には」
 警備員はその場で報告書を書き、タッチペンで加藤のサインをもらうと要警戒地点に登録したので引き続き警戒に当たります、と約束して帰っていった。 
 加藤は恥ずかしさと憤りで顔を真っ赤にしていた。
 あんな非常識な時間に掃除当番表を持ってくるなんて、完全にどうかしている。どうせ掃除もろくにせずに回しているんだろう。若いからって何もかもがゆるされるわけではない。今度会ったら、ちょっと今回の騒動のことを言ってやろう。強盗かと思ってセ〇ムを呼んでしまった。普通は昼か、せめて夕方くらいまでに回すのが常識だ、と。
 興奮で寝れず、流しの下にあった焼酎をしこたま飲んで三時過ぎにようやく眠れた。
 翌朝、二日酔いの頭痛で目が覚め、加藤は頭痛薬と胃薬を飲んでやり過ごした。
 腹のうちには隣の高橋に対する怒りと恨みが渦巻いていて、サンダルを突っ掛けてゴミ捨て場を見に行くと、案の定、目を覆いたくなるような惨状が待っていた。
 ゴミ捨て場のベニヤ台の左半分が白い豆乳のような液体でひどく汚れていて、そこには無数のアリや羽虫がたかっている。残りの右半分は空き缶や投げ捨てられたポ〇トチップスの袋や吐き捨てたガムやらが散乱している。髙橋が昨日掃除をしていないことは、明らかだった。
 いずれにせよ明日の月曜は自分が当番なので、加藤は自宅からデジタルカメラとゴミ袋と雑巾、それに水をたっぷり入れたバケツを持ってきた。そして惨状を色々な角度から写真に撮った後、清掃に取り掛かった。外の空気に当たったことと高橋に対する怒りが二日酔いの頭痛を吹き飛ばしていて、二十分程でゴミを残らず袋に入れ、バケツの水と雑巾で白い液体もきれいに拭い去ることができた。
 清掃後の写真をカメラに収めてから自宅に戻り、バケツの水を下水溝に流し、雑巾を洗面所で洗った。そして、このまま逃げ得をゆるしてなるものかという強い思いが加藤の胸のうちに芽生えてきた。
 なんとか成敗してやらなければならない。順番に回ってくる当番の掃除もせずに、夜中のあんな時間に当番表だけ回してくる。そんな非常識なやからに、非常識な行為をさせたままのさばらせておくわけにはいかない。
 株価を見るのに使っているパソコンを立ち上げ、デジカメのSDカードを差し込んであの清掃前の惨状を写したものをプリントアウトした。そしてメモ用紙を取ってきて、いくつか文面を考えた後、ご近所の手前もっとも控えめな表現の

 ゴミ捨て場の掃除はしっかりやりましょう!
 みんなのゴミ捨て場です。各自責任を持ってください!

にし、紙を何枚か連ねて裏をテープで張り合わせ、筆ペンでその文言を大きく書いた。
 ガムテープと紙を持って家を出てゴミ捨て場に着くと、ちょうど目線の位置になるよう高さを調整し、張り紙をガムテープで貼り、清掃前の写真も証拠として右横に掲示した。
 これであいつもいくらか肝を冷やすだろう。お灸をすえてやった形だ。
 今度からはちゃんと掃除して、まともな時間に当番表を回せよ。

 その日は本当に散々な日で、高橋みきおは定時を大きく過ぎた十時過ぎに帰路に就いた。
 午前中の会議ではみきおの成績と営業姿勢を巡って上司や同僚から集中砲火を浴び、夕方には取引先とのトラブルが発生し、違約金の要求と契約解除が言い渡されて億単位の金が吹き飛んだ。その後処理にみきおは文字通り駆けずり回り、ある程度目途がついた頃にはそんな時間になっていた。
 最寄り駅に着き、駅のコンビニで買った缶のハイボールを飲みながら歩く。
 大きなオレンジ色の満月が空に浮かんでいて、ひどく不気味な凶兆のように感じられた。
 ハイボールを飲み干し、空き缶を持ったまま通り道にあるあのゴミ捨て場に差し掛かる。
 朝に山積みになっていたゴミ袋はきれいに片づけられ、カラス除けの緑色のネットが巻き上げられた状態になっていた。だが、その下には朝みきおが見たまんまのあの忌々しい張り紙があって、湿気を含んだ夜風に吹かれていた。
 みきおは大きく振りかぶって、空き缶を写真の紙に思い切り投げつけた。パンといういい音が鳴りはしたが、みきおの期待通りに紙は破けず、少し皴が寄っただけだった。無性に腹が立って、みきおは転がった缶を踏み潰し、写真を剥がしてビリビリに破り捨てた。
 俺は忙しいんだよ。お前ら暇人とは違って、こんなゴミ捨て場ごときにかかずらわってる暇はねえんだよ!
 文字が書かれた紙も勢いで剥がし、両手で怒りを込めて細かく千切り、ベニヤ台の上に散乱させた。
 すべて終わるとみきおはゴミ捨て場を後にして帰宅し、明日の仕事のスケジュールを考えながら風呂に入った。
 妻のさえこは生理痛で痛み止めの薬を飲んでソファで寝込んでいて、中学二年生の娘のりかは自室で寝ているんだかゲームかスマホをしている。
 冷凍庫にあったチャーハンを皿に持ってラップをかけてチンをし、そこに納豆をかけて食べる。テレビを点けるとスポーツニュースがやっていて、みきおの子どもの頃からひいきにしている西武〇イオンズは天敵のソフ〇バンクに十二対〇で負けていた。
 明日は今日よりもっと悪い日になるだろうという予感めいたものを覚えつつ、高橋みきおは夜中の一時過ぎに眠りに就いた。
  
 翌日の火曜日はペットボトルや缶類の回収日で、加藤修はラベルを剥がし、水でよく洗って潰したペットボトルと缶の袋を持って朝六時過ぎにゴミ捨て場に足を運んだ。
 ゴミ捨て場の様子を目にして、加藤はしばし呆然とし、頭から血の気が引いて顔がスーっと白くなった。
「……あぁ、そういうつもりか」
 宣戦布告というやつだった。ここまであからさまにやられると、ちょっと見過ごすわけにはいかないな。
 小刻みに震える指先で時間をかけて散らばった張り紙を拾い、ポケットに入れた。
 自宅に戻ってくると、加藤はゴミで出そうとしていたペットボトルと缶の袋を握りしめたままなのに気づいた。だが、もうそんなことはどうでもよかった。また来週出せばいい。
 ポケットから回収した張り紙の断片を出し、テーブルの上に並べる。そして、論より証拠とそれをカメラで何枚か撮ってから捨てた。
 どうも分からないやつのようだ。自分の責務を果たすということの意味が。
 分からない奴には教えてやるしかない。
 あのゴミ捨て場は地域住民みんなのもので、いわば共同で持っている場所だ。本当は各戸に一つずつ玄関先あたりにゴミ捨て場があればいいのだが、住宅事情的に難しいし、回収する側も効率的ではない。だから仕方なく、あそこにみんなの共有のゴミ捨て場がある。いわば自宅の玄関先の延長線上にあるもので、みんなで掃除をするのが当たり前だ。
 自宅の玄関先の延長線上。
 ああ、いいことを思いついた。だったら自分で味わってみればいい。あの日みんながどういう思いをしたか。
 加藤は九時になるのを待って近所のホームセンターに自転車で行き、白いペンキの缶を購入した。そして、帰り道にスーパーに寄ってその日の買い物と一緒にポ〇トチップスと缶ビールを何本か買った。
 帰ってきてパソコンを立ち上げ、少し遅れてしまったがいつもの株価チェックをしようとしたが数字が全然頭に入ってこなかった。
 頭がゴミ捨て場と高橋のことで占領されていて、湯気が出そうなほど熱を帯びている。
 諦めてパソコンを閉じ、テレビを観ながら缶ビールを飲んだ。妻の死後、酒はなるべく控えてきたのだが、気分を変えるために今はしょうがなかった。ポ〇トチップスの袋も開け、つまみにする。
 息子の死後、加藤は妻、洋子の心が壊れてしまわないよう精神科に連れていき、カウンセリングも受けさせた。自分自身も生きる意味を見失い、どうにかしてしまいそうな状態だったが、洋子の方が状況はより深刻だった。
 中学二年の二学期から塾に通い、熱心に勉強し、息子の浩輝は念願だった都内の進学校に合格した。そのせっかく合格した高校を五月の終わり頃から休みがちになり、六月の梅雨の時期には不登校状態になった。
 担任や学校のカウンセラーと話をさせ、どうにか状況を打開しようと試みた。だが、浩輝は誰に対しても心を開かず、亀が甲羅の中に手足や頭を引っ込めてしまったかのように、まともに話もできなかった。
 そして、八月下旬のある晩、浩輝は誰に知られることもなく、ひっそりと自室で死んだ。遺体を発見したのは洋子で、加藤は会社近くの定食屋で同僚と昼飯の蕎麦を食べていた。
 ちょうど息子の話をしていた時で、高校の名前を口にすると、同僚たちは次々に感嘆の声をあげ、加藤も悪い気はしなかった。
 携帯が鳴り、画面を見ると妻からで電話に出ながら店の外に出た。
「こんな時間になんだよ。ちょっと得意先と昼飯食ってるとこなんだよ」
 電話口でもごもごと洋子が何か言っているのが聞こえた。
「聞こえない。外だから、もっと大きな声で言って!」
 泣き声か叫び声か、とにかく聞き取れない大きな音が携帯を震わせ、加藤は思わず耳から離した。
「うるせぇなぁ。なんだよ、もう。忙しいから切るぞ!」
 その時、洋子が低い声でこう言うのがはっきりと聞こえた。
「ひろきがしんだ」
 口を開けたまま携帯を握り締め、加藤は言葉をさがした。
「ひろきがしんだ」
 洋子はまた同じせりふを同じ調子で繰り返した。
「ああ」と、加藤は返事をし、二人は電話越しにしばらく黙り込んだ。
「……自殺か?」
「はい」
 ああ、ついにやったかというのが率直なところだった。
 これまでにも煙草を飲み込んだり手首を切ったりと、自殺未遂を何度かしていることは洋子から聞いて知っていた。だが、実際に死ぬことはあるまいと高をくくっていた。
 ややあって、電波が途切れたのか洋子が電話を切ったのか、あのツーツーという音が聞こえてきた。
 加藤は蕎麦屋の店内に戻り、同僚と談笑を再開し、残りの蕎麦を食べた。
 社に戻り、上司に家庭の事情で急遽家に帰らなければいけなくなったことを告げると、上司はあからさまに嫌な顔をした。
「なんだよ、それ。じゃあ、あの朝言ってた何とかっていうとこへ訪問するっていうのもなしってこと?」
「ええ、すみません。先方にはこの後連絡しておきますので」
 上司の平澤は短い脚を組み、ぼりぼりと鼻の頭を掻いた。
「ドタキャンってことでしょ。それさ、マナー的にもうちの信用的にもよくないよ」
「ええ、もちろん。そうですね」
 加藤はまた頭を下げる。
「そうですねじゃないよ。その家庭の事情って方どうにかならないの?」
「あの……、息子が死んだので」
 顔を上げ、加藤は平澤の顔を直視した。
 平澤の目が泳ぎ、何かもごもごと口籠った。
「失礼します」
 加藤は平澤のデスクを後にし、自分の席に戻ると午後のスケジュールをキャンセルしていった。息子が死んだという事実は実感が湧かず、どこかで作られたフィクションのようにしか思えなかった。
 ついでにという形で商談を挟むことになり、その際に生じた事務処理などもやっていると、午後三時を過ぎていた。
 社の人間に頭を下げて回り、会社を出て駅に着くと、埼京線が線路に人立ち入りの影響で、大幅に遅れていた。
 いつまで経っても来ない電車を待ち続け、ホームは人で溢れ返った。
 加藤は群衆の中で息子の顔を思い出そうとしていた。だが、それはまだ浩輝が小学生の時の顔で、そこから先の顔が出てこなかった。あまり顔を合わせなくなったせいだった。
 四十五分遅れで来た電車に身体を押し込み、加藤が自宅に着いたのは五時過ぎだった。
 結局、もうその頃には遺体は病院から葬儀場へと運ばれていて自宅には誰もいなかった。それがなにかを象徴しているようで、加藤は自分の無力さを改めて痛感した。
 洋子はその日のことを生きている間中、ずっと根に持っていたようだった。そんな妻も亡くなってもう三年が経つ。あの時もひどく唐突だった。
 朝から風邪気味で怠いと寝ていた妻は昼過ぎになって起きてきて、息苦しいと言い始めた。慌てて救急車を呼ぶと、待っている間に水状のものを床に嘔吐し、到着した救急隊員に担架に乗せられた。
 救急車の中で意識が途絶え、洋子は何も喋らなくなった。救急隊員が耳元で大きな声で数値を読み上げ、もう一人の隊員が心臓マッサージを始めた。
 近くの総合病院に着くと、妻を載せた担架はICUに運ばれた。もうこの時点で心臓は停まっていたらしい。蘇生措置が行われたが、洋子の心臓が再び動き出すことはなかった。
 六十半ばで、死ぬのはもっと先のことだと思っていた。四つ年上の自分の方が先だとばかり思っていて、まったく想定していなかった。実感が湧かず、まるで夢の中の出来事のようだった。
 息子の死も妻の死も、加藤にとっては突然のことで悲しみよりも驚きの方が大きく、ただ確実に自分の中の何かが削り取られていっているという感覚だけが残った。それは息子の死で半分に削り取られ、妻の死でそのさらに半分が削り取られた。
 昨日の続きを今日やり、今日の続きを明日やる。この繰り返しで毎日は延々続いていき、生きるためだけに生きているという虚しさに加藤は時折襲われた。日々の雑事はむしろ加藤にとって救いであり、今日を生きるためにはなくてはならないものだった。
 夜の十二時を過ぎたところで加藤はビールの空き缶とポ〇トチップスの袋、それに白いペンキの缶を持ってそっと外に出た。そして隣の高橋家の玄関口に空き袋と空き缶を転がし、ペンキの蓋を開けて大きな白い水たまりを作った。
 ちょうど道路の向かい側にある外灯に照らし出されてはいたが、監視カメラらしきものは見当たらない。
 音を立てないように自宅に戻り、加藤はペンキの缶を白いレジ袋に入れ、タンスの奥に隠した。手袋はしていなかったが、まさか指紋までは採られないだろう。決定的な証拠さえなければ、大丈夫なはずだ。
 興奮していた割には、その後風呂へ入ってからはよく眠れた。気が済んだというのもある。これであいつも懲りて、ゴミ捨て場掃除をしっかりやるようになるだろう、と。

 携帯の六時のアラームで高橋みきおは目が覚め、下に降りて顔を洗い、髭を剃り、スーツに着替えた。妻と娘がまだ二階の寝室で眠る中、みきおはいつもの六時五十分の電車に間に合うよう家を出ようとした。
「うわっ、なんだよこれ!」
 ビールの空き缶二本と白い液状のものが玄関の階段のところにぶち撒けられていて、みきおはとっさにこれがゴミ捨て場の張り紙を破り捨てたことへの仕返しだなと直観した。
「あの野郎!」
 腹の底に火がつき、白い液体を右手でこすり取るように掬うと、隣の加藤の玄関ドアに

  う ん こ

と大書し、横のポストに液体をなすりつけて手を拭った。そして、転がっている空き缶を二本続けざま庭へ投げ込んだ。
「ざまぁみろ……」
 鼻で笑い、みきおは意気揚々と駅へ向かって歩き始めた。
 
 前日に夜更かしをしてしまったせいで、加藤がその日布団から起き出したのは九時を過ぎた頃だった。
 洗面所で顔を洗い、コーヒーを淹れ、日〇新聞を取りに玄関を出ると、ポストが白く汚れていた。
 まさか、と血の気が引き、ポストから新聞を取り出して家の方を振り返った瞬間、それが目に飛び込んできた。

  う ん こ

見ると空き缶も庭に投げ捨てられている。
 これはいかん。いかんぞ。世の中にはやっていいことと悪いことがあって、これはその一線を超えてきている。
 昨日のことも白状しなければならないから、警察に言う訳にもいかない。
 私刑を加えるしかないな。なにか、もっとも効果的な私刑を。
 家に戻り、水を入れたバケツと雑巾を持ってきてペンキをドアとポストから落とした。空き缶を拾い、袋に入れた。回収は金曜だ。
 妻と息子の仏壇に線香を上げ、加藤は手を合わせた。午前八時半の習慣で、一日も欠かしたことはなかった。
 さて、どうするか。
 裏が白いチラシを使って、加藤は「計画書(高橋)」と銘打って作戦を練り始めた。

 高橋さえこは子どものりかが生まれてから心が休まったためしがなかった。
 いつも何かをやらかし、その後始末に追われ、言うことも聞かず、何度言っても同じミスを繰り返す。
 子どもなどだいたいそういう存在なのだが、それがさえこには耐え難かった。苛立ちが募り、限界に達し、手をあげたことも何度かはある。夫のみきおに助けを求めても、仕事で常にそこにおらず、いても他人事のように正論を口にするだけで、何の役にも立たない。
 セックスも半年に一度くらいで、みきおが酔って気が向いた時くらいしかしていない。歳を重ねるごとに旺盛になってきたさえこの性欲は、無論そんなものでは満たされない。
 こんなはずじゃなかったのに。
 そんな思いが年々日を追うごとに高まり、焦燥感と諦めと苛立ちがないまぜになったゴムボールのような鬱屈が身体の中で大きくなっていく。
 その日の夕方、さえこはスーパーへ買い物へ出かけようと玄関を出た。すると、白いペンキのようなものが玄関先に塗られているのを目にした。
 なんだろう、これ?
 鳩やカラスのフンにしては大きすぎるし、匂いを嗅いでみてもあのペンキのツンとする匂いしかしない。
 誰かがここでペンキを落としたのだろうか。
 とりあえず駐車場にある水道にホースをつなぎ、水で洗い流した。こんなものを放置しておくわけにはいかない。りかが足を滑らせて怪我でもしたら大変だ。
 ああ、そうだ。とさえこは思い出した。みきおが言っていたゴミ捨て場の白い液体。たぶんあれと一緒だ。今度はゴミ捨て場じゃなくて、うちの玄関先に撒いたのだ。
 どんな意味があるのだろう。単なる嫌がらせだろうか。
 さえこには恨みを買うようなことをした覚えはなかった。だが、みきおは分からない。感情的な性格で、頑固で思い込みも激しい。しょっちゅう誰かと喧嘩をしている。そんなことをしても何もいいことはないし、何の得にもならないのに。
 自転車で買い物にでかけ、マツ〇ヨやヨー〇マートやツ〇ヤで日用品や食料品や漫画を買って帰ってくると、ちょうど隣の加藤が玄関から出てきた。
「こんにちは。暑いですね」
 さえこが会釈と共にそう声をかけると、加藤は驚いたようにこちらを振り向いた。
「……ええ」
「あ、そうだ。今朝、うちのそこのところに白いペンキみたいなのがベターって付いてたんですけど、加藤さんのとこ大丈夫でした?」
 笑みを浮かべたままそう訊いてくるさえこの真意が分からず、加藤は困惑した。知っていてわざと言ってきているのか、それとも本当に何も知らないのだろうか。
「ええ、……まあ」
「ホースで洗い流したんですけど、嫌ですよね。気持ち悪いし気味が悪い。ゴミ捨て場のとこにもそういうのあったみたいですし」
 知っていて嫌味を言ってきているのだな、と加藤は確信した。
「へー、それよりわたしのとこなんか白いうんこですよ。このドアのところにべーったり!」
 言い返さずにはいられなかった。お前のところも同罪だろ、と。
「えっ、うんこ? ペンキじゃなくて?」
 加藤はしたり顔に頷く。
「それも特大の。バケツと雑巾持ってきてもう拭きましたけどね。朝からもう一時間以上はかかりましたよ」
 さえこが本当に驚いた顔をしていたので、加藤は感心した。演技の上手い女だ。まったく顔に出さない。
「それは大変でしたね。うちはそこまでじゃなかったし、ペンキでしたから……。警察に相談した方がいいんじゃないですか。うちのことも含めて」
 ああ、そうきたか、と加藤は腹が立った。警察に言えば、ペンキを買ってきて撒いたことを白状しなければならなくなるし、こちらが逆に窮地に追い込まれる。
「いや、そこまでじゃないですよ。警察沙汰にはこっちとしてもしたくないので」
 そう言い残して加藤は苛立ちのあまり、ドアの内側に消えた。
 さえこは違和感を覚えたまま自転車に鍵をかけ、買い物袋を持って家の中に入った。
 加藤は怒っているように見えた。私に対して。まるで白いうんこを付けた犯人が私であるかのように。
 白いうんこ?
 カラスや鳩の白い糞は毎日目にしているが、ドア一面にとか特大とかは見たことはない。どれだけの鳥が一堂に会して糞をすれば、それだけの量になるのだろう。想像もつかない。
 まあ、色々とオーバーに言う人なのだろう。
 さえこはそう結論づけた。隣に暮らし始めてもう十年以上が経つが、そういう人だとは知らなかった。偶然顔を合わせれば一言二言挨拶を交わす程度の仲なので、こんなに長く話したのも初めてだった。
 たしか三年くらい前に奥さんが亡くなっていて、そこからは一人暮らしだった。いわゆる独居老人というやつで、色々と大変なのだろう。
 買ってきたものを冷蔵庫に片付けると、さえこは台所で漫画の立ち読み防止用の袋をバリバリと開けていった。
 愛読しているBL漫画の新刊で、今回もどキツい性描写が満載の最高の作品に仕上がっていた。ドン〇で二年前に購入した愛用の大人の玩具で股間に刺激を受けつつ読み進め、物語がクライマックスを迎えるのと同時にさえこもピークに達した。
 その時、ガチャッとドアが開き「ただいまー」という娘のりかの声がした。
 さえこは慌てて玩具と漫画をそこらへんのレジ袋に突っ込み、下着とスカートを引っ張り上げた。
「頭痛いから早退してきちゃった」
 鞄を床に放り出し、りかは居間のソファに身を投げる。
「大丈夫? イ〇は飲んだ?」
「保健室で飲んだ。でも、あんま効いてない」
 スマホをスカートのポケットから取り出し、横向きになって弄り始める。
「ちゃんと夜寝てないからじゃない? 睡眠不足でしょ」
「うっさいなぁ。寝てるっつーの」
 漫画はまだ一巻の半分くらいまでしか読んでいないし、もう一度くらいピークを迎えたいところだったが、こうなったら諦めるしかない。

 二階の風呂場の中で、加藤は階下から聞こえてくるそんな母娘の会話を聞いていた。
数分前、加藤は自宅の階段の窓を開け、一メートルほど先の隣家の風呂場へ侵入したところだった。
 階段を上り切ったあたりの左側に大きめの明かり取り用の窓があり、その先に高橋家の風呂場があった。その風呂場の窓がいつも昼間は換気のために開けられているのを加藤は知っていた。通りに面しているわけでもなく二階ということもあって、柵のようなものは設けられていない。
 八十センチ四方くらいの小さな窓で、開いているのは半分だけだが、小柄な加藤には入れなくもない大きさだった。
 物干し竿を伸ばして網戸を開け、決死の覚悟で飛び移った。上体を中に入れた状態で窓枠に摑まり、足を引っ掛けて中へ転がり込む。
 家の中にはウィーンというモーター音が鳴り響いていて、音を立ててしまったが幸い聞こえていないようだった。
「ただいまー」
 若い女性の声がして、ドアが開く音がした。
 同時にモーター音が止み、ガサゴソというビニールが擦れるような音がした。
 おそらく中学生か高校生くらいの娘が学校から帰ってきたのだろう。
 リビングのドアがその娘によって閉められ、そこから先の会話は聞こえなくなった。
 加藤は風呂場を出て、洗面所から北側の部屋へと移動した。
 計画書通りに事を為し、早々に退散する予定でいたのだが、肝心の便意が引っ込んでしまった。だが、計画通りに半分程までは来ているし、このまま大人しく帰るつもりはない。
 そこは娘の部屋のようで、アニメのキャラクターやメイクをこってりと施した男性アイドルのポスターで壁が占拠されていた。勉強机とベッドがあり、そのいずれも細々としたキャラクターのグッズやぬいぐるみやクッションで溢れていた。
 息子の浩輝の部屋と比べずにはいられなかった。浩輝の部屋は暗く、いつもカーテンを閉め切っていた。壁に貼られていたのはどこから手に入れたのかは知らないがゴッホやセザンヌなどの絵画のコピーで、自彊不息という自分で書いた標語のようなものもあった。
 胸が締めつけられるように痛み、加藤はその部屋を出て南側の部屋に移動した。そこは奥にあるダブルベッドが部屋の半分ほどを占めていて、夫妻の寝室のようだった。
 手前側の壁全面が備え付けのクローゼットになっていて、扉を開けて加藤はとりあえずそこに身を隠した。
 しゃがみ込み、家に入るや否やあれほどまで感じた便意が戻ってくるのを待った。しかし、一度引っ込んだものはなかなか出てこようとはしなかった。
 仕方がない。待つか。このクローゼットが開けられれば一巻の終わりだが、見た感じ掛かっているのはあの嫌味な女のよそ行きの服ばかりだった。これから出かけるとも思えないし当分の間は大丈夫だろう。

 みきおはその日、発注ミスをやらかし、得意先からものが届いていないというクレームで発覚し、その事後処理に追われて会社を出たのは夜の九時過ぎだった。
 帰りに最寄り駅のコンビニでスト〇ングゼロのロング缶を買い、まるまる一本飲みながら帰ってきた。
「ただいまー」
 玄関のドアを開けて、そう大声で怒鳴ったが反応はない。
「おい! ただいまって言ってんだろ!」
 廊下をドタドタと抜け、リビングのドアを開ける。
 誰もおらず、テレビは点けっぱなしでりかの学校鞄がソファの傍に転がっている。
 異臭を感じた。何か臭う。
 これは……。
そして、鼻を鳴らしながらそのもとを辿っていくと、カウンターの向こうの台所に行き着いた。
 流しの台の上に、黒々としたバナナ状のものが一本「つ」の字を書くように横たわっている。
 うんこだった。
 犬や猫のものではない。太さや形状からして、人間のものだった。
 みきおは思考が停止し、これはどういう意味で何なのかしばらく分からなかった。
 だが、今朝の落書きのことを思い出し、ああ、これは加藤のやったことだと確信した。
 玄関ドアにうんこと書かれたから、本物のうんこを代わりに台所に置き土産にする。
 あのイカれたじじいの考えそうなことだ。これはもう警察行きだな。俺のやったこともまあ悪いことではあるが、このうんこはどう考えてもやりすぎで度を超している。
 ティッシュを鼻に詰め、みきおはスマホをポケットから取り出す。そして、一一〇番を押そうとした時、ふと妻と娘がいないことに気づいた。
 階段を上がり、二階に行ったが見当たらず、風呂場やトイレの中まで見てもいない。
 その時、寝室のクローゼットの中から物音がして開けてみると、さえことりかが手足をストッキングで縛られ、口は中に何かを詰められたうえで猿ぐつわのように後頭部で縛られていた。
「おい! 大丈夫か!」
 結び目を解こうとしたが上手くいかず、みきおはストッキングに指を突っ込み、力任せに引き裂いていった。
「となりの人! 声で分かった。あのおじいさん……!」
 さえこの言葉にみきおは強く頷くと、震える手でスマホを取り出し、警察に通報した。
 電話を切ると、妙なことにみきおは気づいた。
 俺が帰ってきた時、玄関のドアは鍵が閉まっていた。
 ということは、加藤はまだこの家のどこかにいるのではないだろうか。みきおは、娘と妻にこのままクローゼットの中に隠れているよう言った。開かないように内側から押さえているように、と。
 クローゼットの中にあった突っ張り棒を手に、家の中を隅々まで見て回った。だが加藤の姿はなく、この家にはもういないようだった。ということは、どこからか逃げ出した後ということだ。
 そこで、ハッと思いだした。さっき見た時、風呂場の窓が開いていた。
 階段を駆け上り、風呂場に入る。そして、開いている窓越しに隣の家の窓も同じように開いているのが目に飛び込んできた。
 窓から顔を出して下を見ると、ストッキングをかぶった男が頭から血を流して倒れていた。



[了]


2023年10月30日

短編小説12 遺産




 現実はなかなかに厳しい。
 親が死んで転がり込んだ遺産も、三年もしないうちに使い切ってしまった。かなりの額があったのだが、そこで慢心してしまい、あれもこれもと買い込んでいくうちにいつの間にかなくなっていた。
 妻子にも逃げられ、私は文字通り路頭に迷った。夜中になるとコンビニの裏手にあるゴミ捨て場をあさり、廃棄された賞味期限切れの弁当を貪る。ついでに駐車場のところにある水道の水も拝借する。
 寝場所は公園のベンチだ。雨の時は滑り台の下に移動する。ゾウさんの鼻を横に五、六メートル伸ばしたようなデザインのもので良い雨避けになる。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう、とよく考える。
 まず、遺産が入ると分かった時点で仕事をする気力が失われた。しなくてもいいことをするというのは、人間には不可能なことなのだ。
 親を突然亡くしたショックで立ち直れないから、しばらく休暇をもらえないかと職場に申し出た。とりあえず二週間という期間が与えられ、それが終わる頃になると、もう働く気力がどこにも残っていないことに気づいた。
 精神的にも体力的にもボロボロで、仕事を続けていくことが難しいので退職します、と電話を入れ、私物も適当に処分してくれと言い残して電話を切った。嘘か本当か自分でもよく分からなかった。半分半分というのが妥当なところだ。全部が全部嘘ではない。
 仕事に行かなくなると、私の生活は荒れた。好きなビールを昼間から飲むようになり、夜はだいたい明け方まで起きてパソコンや携帯でネットや動画を見続けた。
 妻や子どもとの喧嘩も増えた。どうでもいいことで言い合いになったり、言葉遣いが荒くなったり、家の中はだんだんと不穏な空気が張りつめていった。
 引っ越しをしようと先に言い出したのは妻の方だった。この家は家相が悪いから、別の家に引っ越して悪い気を取り払おう、と。
 私も鬱屈としたものが溜まりに溜まり込んでいたところだったし、敢えて反対はしなかった。子どもも新しい家と喜んだから、その時点で引っ越しは決定した。
 しかし、それが最大の失敗だった。それさえなければまだ金はあったはずなのに、何千万という金をつぎ込んで土地付きの家を買ってしまったから、遺産の額が一気に減った。それだけではない。車も新しいものに買い替え、軽井沢に別荘も買った。
 新しい家は快適で、家具も家電も新調し、妻も子供も大いに喜んでいた。夏休みに入ると別荘にも遊びに行き、満ち足りた優雅な生活を満喫した。だが、一気に減った金の額に私はやや焦りを感じていて、これを増やさなければと考えた。そして、株式投資というものに飛びつき、大手証券会社のディラーに言われるがままに様々な会社に投資をした。
 だが、戦績は惨憺たるもので、結果的には金の額は半額以下になり、このままではあと数年で金が底を突くという状況になった。思い悩んだ私は、何か憑き物でも憑いているのではないかと思い、評判の霊媒師にみてもらった。すると案の定で、いますぐ除霊しないと大変なことになると言われた。
 高額な謝礼金と引き換えに除霊をしてもらい、大きな仏壇も買った。これで運気も上向きになると思った矢先に軽井沢の別荘が大雨による地滑りで倒壊し、修理費用でまた大金が飛んでいった。さらに私が妙な宗教にはまっていると妻が言い出し、そのことで大喧嘩になり子供を連れて家を出ていき、連絡もつかなくなった。私がそのことを話すと、霊媒師はこの前除霊した憑き物が今度は非常に大きなものを引き連れてきていると言って、さらに本格的な除霊が必要だと言い出した。このままでは不幸が雪だるま式に連鎖して最終的にはあなたは死ぬ、と。
 私はまたなけなしの金をはたいてその本格的な除霊をしてもらい、軽井沢の別荘も売却したが、一度地滑りの起きた土地は二束三文にしかならず、さらに車も売ったが大した金にはならなかった。
 仕事を始める必要性に駆られた私は、何年振りかにスーツを着ていくつかの企業の面接を受けた。しかし、四十過ぎで経歴的にも大いに問題のある男を採るところなどどこにもなく、次第に金はなくなっていって、仕方なく私は土地と家を売って安いアパートに引っ越した。贅沢をせず、細々と生活していけば何年かは生きられる。そう考えていた。
 だが、狭いアパートで鬱屈した感情を抱えていた私は近所のパチンコ屋に通うようになり、たまに勝つと有頂天になり、その快感が忘れられずさらにお金をつぎ込んでいっては負けるというパターンに落ち込んでいった。すると、まとまった額があったはずの預金残高はみるみる減っていき、十万円を切ったあたりで、ようやく私はパチンコをやめることができた。
 二ヶ月後には家賃も光熱費も払えなくなり、アパートを追い出され、私は路上生活者となった。
 遺産だ。遺産さえなければこんなことにはなっていなかった。
 だからといって親を怨む気にもなれない。親はよかれと思って大きな額の遺産を残し、私がいわばそれを悪用しただけのことだ。親に罪はない。それが分かっていながら、なぜ私はまともな人生を送れなかったのだろう。
 仕事をする気力やモチベーションが失われた。お金を稼がなければいけないから、それまで私は仕事をしていたのであって、それ以上でもそれ以下でもなかった。
 H市内に六つの店舗を持つレンタルビデオ屋の管理職だった。シフトを組んでパート・アルバイトさんにレジに入ってもらい、棚のレイアウトやランキングの棚を変え、ポスターを新しいものに変え、新作のカタログから良さそうなものや話題になったものをピックアップして発注し、回転しなくなった古いものは中古業者に買い取ってもらう。学生時代から続けてきたアルバイトの延長線上で、そのまま社員になった。
 給料は安く、拘束時間は長く、ネットフリックスやプライムなど動画のサブスクの台頭で会社の業績は順調に右肩下がりという職種ではあったが、私に合ってはいたと思う。縮小しているとはいえ世間の需要はあり、私の仕事はそれに応えていた。
 遺産をもらうことによって、私はその世間の輪の中から出てしまったのだと思う。求め、求められるという輪。私は欲しいもの、必要なものをお金で買って、仕事の時にはそれを売っていた。
 こんな境遇に落ちたら、世間もクソもないだろう。誰の役にも立っていないし、誰からも求められない。
 私は私のためだけにある。

             *

「おい、おっちゃん。どないしたんや?」
 甲高い男の声で、私はその声に聞き覚えはなかった。
「あ?」
 上半身を起こすと、目の落ち窪んだ骸骨のような顔の男がこちらをのぞき込んでいた。
「おにぎり、いるか?」
 男の右手には、湯気の立った大きなおにぎりがあり、それを差し出された。
 私は昨日一日何も口にしておらず、男の手からおにぎりを奪い取ると、夢中で頬張っていた。塩気もほどよくきいていて、海苔も香ばしく、具の鮭も身が締まってプリプリで堪らなかった。
「向こうにもっとあるで。行かへんか」
 うしろを親指でさし、男はそう誘ってきた。
「なんや? お前何やねん」
 男の風貌は怪しく、問い質すとこう答えが返ってきた。
「ボランティアや。しのボランティア」
 へえ、そういう人はたまに来るが、見ない顔だった。
「へぇ、S市もやるやんけ。税金そういうとこに使わなな」
 私はそう言って立ち上がり、靴を履くと、男の後についていった。
 たまにこういう人はいる。ボランティアだか偽善だかで声をかけたり、食べ物をくれたりする人。気まぐれに来て、気まぐれに去っていく。仕事ではないから、何の責任も義務もない。
 男は繁華街の裏路地にある小さな雑居ビルの中に入っていった。階段を三階まで上り、篠宮興業というプレートの掲げられたプレハブ製のドアを開ける。
「お客さんや!」
 中へ足を踏み入れたところで男がそう怒鳴り、するとパーテーションで仕切られた部屋の奥からこわもての男たちが三人顔を見せた。
「おにぎりとお茶! はよせえ!」
 顔を見るなり怒声を発し、男たちは慌てて散り散りばらばらになった。
「どうぞ、どうぞ、こちらへ」
 あまりにも怪しすぎたし、帰りたいところだったが今さら帰れる雰囲気ではなかった。
 四畳か五畳ほどの狭い部屋の真ん中に机が置かれ、その前後に黒のパイプ椅子が置かれている。まるで警察の取調室のようだった。
 奥側の椅子を手で示され、私は仕方なくそこに腰を下ろした。
「いまあいつらが持って来ますんで、お待ちください」
 妙にへりくだった口調でそう言うと、男は向かい側の席にどっかりと座る。
「あぁ、すみません。申し遅れました。ここで代表しとります篠宮、言います」
 ポケットから無造作に名刺を取り出し、私の目の前に置く。
 そこでドアがノックされ、お盆におにぎりとお茶を載せて、先程の三人の中で一番背の高い男が入ってきた。
「すんません。遅くなりました」
 三分と経っていなかったから早すぎるくらいだったが、男はそう言って頭を下げ、お盆ごと机の上に置いて行った。
「どうぞどうぞ食べてください。遠慮なく」
 私はごくりと唾を呑み下すと、まだ湯気の立っているおにぎりに喰らいついた。米が柔らかく甘く、海苔もほどよい塩気が効いていてとろけるほど美味かった。梅干しが具で入っていて、ご飯との相性が抜群で、噛むと全身の神経に血が行き渡って痺れのような感覚をおぼえた。
 喉の奥で詰まる感じがしてしゃっくりが出そうになったが、お茶を飲んで流し込んだ。
 二つ目にもすぐに手を出し、バクつくと、今度は鮭だった。身がプリプリで甘じょっぱく、ご飯との相性が抜群で、それはまさにおにぎりという器の中で二匹の子犬が元気よく駆け回っているようだった。
「どうです? 旨かったですか?」
 食べ終わってお茶をすすっていると、篠宮がニヤつきながらそう訊いてきた。
「ええ、すごく。ごちそうさまでした」
 とりあえず、一日分くらいにはなった。
「それでですね。脇田さんにとっておきのお仕事をご紹介したいんですよ」
 あれ? 名前……。
「簡単なお仕事なんですよ。脇田さん、以前ウィンドという会社にお勤めでしたよね?」
 ウィンドは遺産が入るまで勤めていた会社の名前だ。
「……ええ、まあ」
「あそこの坂巻さん、ご存知ですよね?」
 坂巻賢二郎は社長だった。今はどうなっているのか知らないが。
「ええ、社長です」
 正直気にくわない男だった。先代社長の息子で、自分が無能なことを誤魔化すために精一杯虚勢を張って、誰彼構わず威張り散らし、怒鳴り散らしていた。
「いえ、そっちじゃなくて会長の方」
「勘太郎さんの方ですか?」
 現場や会長職に退いてからかなり経っているはずで、いまご存命なのかどうかすら知らない。
「ええ、そうです。顔分かりますよね?」
「はい、まあ」
 会議の時などに何度かお話ししたことはあって見れば分かる。
「その坂巻勘太郎を誘拐してきてほしいんですよ」
「は?」
「もちろん、仕事ですからお金はお支払いいたします」
「いや、……でも誘拐って」
「脇田さんの取り分は一億」
 にわかには信じ難い金額だった。
「向こうにはいくら要求するんですか?」
「三億。それがあいつらの出せるギリギリの額」
 よく調べている。三億はあの会社の内部留保の相場だ。社長の報酬も同じくらいと噂で聞いたことがある。
「計画はもうできてる。あとはあんたが入って実行するだけだ」
 失うものはすべて失っている。もうどうなったって構わない。
「それで、私は何すれば──」

            *

 前日から降り続いた雨のせいで、未舗装の道はぬかるみ、ところどころに大きな水たまりができていた。車がその上を通るたび車体が大きく揺れ、派手な水しぶきの音がした。
 後部座席に一人で座り、わたしはバックミラー越しにチラチラとハンドルを握る若い男の顔を盗み見ていた。長谷川と呼ばれている男で、特徴的な分厚い下唇を噛んで暗い目をしていた。
 助手席では篠宮が座ってスマホをいじっている。
 世田谷の狛江市寄りにある〇城学園という高級住宅街の中に、坂巻一家の自宅は建っていた。社員への給料は少なく、ボーナスも業績悪化を理由に退職する三年くらい前から出ていなかった。豪邸や広大な敷地を売り払えば、余裕でボーナスもベースアップも実現できただろうに。
「停めろ。ここから先だとカメラに映る」
 私は篠宮と共に車を降り、五十メートルほど歩いて坂巻の家の前に着いた。
 まるで要塞のような家だった。ガレージにはベンツとポルシェが並んでいて、そのいずれもがピカピカに磨き上げられている。息子の方が車道楽だと聞いたことがある。会社の金で高級外車を買い、これみよがしに店にそれで来る。社員はみな中古の軽自動車に乗っているというのに。
 インターホンを鳴らし、カメラの正面に来るようにした。
「はい」
 しゃがれた老婆の声。
「突然すみません。以前城ヶ島インター店の店長をしておりました脇田と申します。ちょっと近くを通りかかったものですから、坂巻会長にご挨拶をと思いまして……」
「少々お待ちください」
 そのまま五分ほど待たされた後、階段の先にある玄関のドアが開き、坂巻勘太郎本人が姿を見せた。
「社長! お久しぶりです」
 かくしゃくとした姿は昔と変わらず、ギラギラとしていながら温厚な顔立ちと鋭い目つきも相変わらずだった。私の中ではやはり社長はこの人ただ一人だった。賢二郎はしょせんこの人の息子に過ぎない。それ以上でもそれ以下でもない。
 階段をひょこひょこと下りてきて、玄関口の柵を内側から開ける。
「おう、脇田君か。いやー、心配してたよ。会社辞めてからどうしてたんだ?」
 私の肩に手を載せ、ぽんぽんと優しく、それでいて力強く叩いてくれた。
「ご心配おかけしてすみません」
 深く頭を下げる。これからの計画のことを思うと、心がふさいだ。
「それでですね、実は私も独立っていうかこのすぐ近くにビデオショップを開いたんですよ。そこをぜひ社長に見ていただきたくて」
 そう言いながら私は歩き出した。篠宮は携帯で電話をかけ、車を呼び出している。
「え、独立? 近くってどこだよ?」
「駅の方です。ここから歩いて五分もかかりません」
 黒のプリウスが我々のすぐ脇に停車し、篠宮は坂巻の右腕をつかむと強引に後部座席に引きずり込んだ。私も続けて社長を押し込むように乗り込み、ドアを閉めるや否や車は急発進した。
「おい! どういうつもりだ」
「社長すみません。金のためなんです」
「誘拐だよ。あんたの息子に金を出してもらう」
 すると、坂巻は黙って天を仰いだ。
「あいつは金は出さんよ」
 落ち着いた口調だった。
「何故だ?」と篠原が尋ねると、こんな答えが返ってきた。
「あいつは俺に死んでもらいたがっている。遺産が目当てなんだ。会社も経営をあいつに任せてからもうすぐ十年が経つが、この十年であいつは会社を完全にダメにした」
「ええ。そうですよね」
 私は深く頷きつつ、相槌を入れた。
「今度の株主総会で、俺と〇販であいつの解任決議を取ろうと思ってたんだ。俺が35パーセント持ってて〇販が20パーセント持ってるから、解任は可決される。あいつにはもうそれは言ってある」
 そんな計画が……。
「いま俺が死ねば遺産が手に入るし、経営者の地位も退かずにすむ。でも、あいつはきっと何年もしないうちに遺産を食いつぶして、会社を倒産させる。間違いないね」
「解任後は誰を社長にするおつもりだったのでしょうか?」
「俺が社長に戻って、副社長を菅田にするつもりだった。それで三年以内に菅田に社長の地位を譲って俺は引退する。若い奴らに任せないとダメだからな」
 菅田さんは私が城ヶ島インター店にいた頃のエリアマネージャーだった人だ。現場を鼓舞し、必要なサポートを的確に提供してくれるズバ抜けて頭の切れる人だった。
「遺産ってのはいくらだ?」
 篠原がそう訊くと、坂巻はこう答えた。
「税金とか色んなもん差っ引くとざっと正味三億ってとこだな。この十年でほとんど無くなった。赤字の補填にずいぶん注ぎ込まされたし、持ってたうちの株も株価が三分の一以下になったからな」
 三億。私が相続した遺産とだいたい同額で、誘拐の身代金の額とも奇妙に一致していた。
「社長、遺産なんてロクなもんじゃないですよ。人間をダメにします」
 私は決意を固めると右足を振り上げ、運転していた男の左脇腹に思い切り蹴りを入れた。
 車は左に大きく曲がり、道路脇の電柱に勢いよく突っ込んだ。同時にエアバッグが作動し、運転手の顔がそこに呑み込まれていく。
 坂巻の腕をつかみ、私は車外へ出ようとした。すると篠原が中から引っ張ってきたが、同じ右足を今度は篠原の鼻柱にめり込ませると、その手が離れた。
 外に出ると人だかりができていて、スーツの男性が怒鳴るような大声で車が電柱に突っ込んだと救急の電話をかけてくれていた。
 遺産はなんてない方がいい。
 生きる意味を見失ってしまう。



[了]

2023年02月05日

短編小説10 オルタナティブ開発



 試しに応募してみただけだった。ほんの軽い気持ち。
 前の会社を辞めて二ヶ月ほどが経過していて、失業保険も来月支給分で打ち止めで、そこから先はもうどうなるか分からなかった。
 心を病んで精神科へ通っている同い年の妻と、小学一年生の娘と、一匹の雄猫。彼らを養っていく必要があったが、自己都合で数ヶ月という短い期間に仕事を二度も辞めた四十の男を雇ってくれる会社などどこにもなかった。
 職種はマーケッターとあり、身体が丈夫な方、衣食住・性に関する調査を行い、クライアントに提供するお仕事です、とある。固定給は二十二万。そこから仕事の成果に応じて歩合給がある。収入例としては入社五年目三十六歳のマーケッターの年収五百二十五万が挙げられていて、この人は歩合で相当稼ぎまくっているようだった。
 うさん臭さが半端ないなと思って昼間に見た時にはスルーしていたのだが、夜ビールを飲みながらスマホでサイトを見返しているともう興味が抑えきれず、ポチっとこの企業への応募ボタンを押していた。
 どうもブラックっぽいなと感じながら、衣食住・性に関する調査という文言の魅力に抗えなかった。衣食住は分かるのだが、性というのがわざわざ最後に付け加えられているということはつまり「性」が主な調査テーマなのだろう。
 性に関する調査。
 コンドームやおとなのおもちゃの製造・販売会社、ラブホテル業界、あるいは性風俗業界からのそういった需要があるのだろう。いまどういう雰囲気のホテルが求められているのか、コンドームの薄さや材質にはこだわるか、おとなのおもちゃは普段使うか、どういったものがほしいかなど調べてみなければ分からないことはいくらでもある。おそらくそうしたデータをクライアントに提供する仕事だ。特に性風俗産業は流行り廃りが激しそうだから、時代に乗り遅れると商売にならない。──これまで携わったことは一度もないから、すべて想像に過ぎないのだが。
 いずれにしても性には興味がある。おそらく人より性欲は強い方だ。中学二年生くらいから今まで、オナニーは一日も欠かしたことはない。休みの日は二度、三度とすることもある。一日に五回した時には、自分はオナニーをするために生きているのではないだろうかと疑ったくらいだ。
 ポチっとしたちょうど十分後に電話が来て、面接をしたいのだが、いつが都合がいいか訊かれた。無職なのでいつでもいいと答えると、じゃあ明日の二時でと言われた。今晩はよく寝て、朝食や昼食はしっかり食べてきてくださいと最後に言われた。
 若い女性の声だった。話しているうちに柑橘系の香水の匂いをふと感じた。女性にしてはやや低めのしっかりとした口調で、おそらく彼女の前にはモニターとキーボードが別になったパソコンがある。髪はショートボブの栗色。唇はやや厚ぼったくて目は黒目がちのリスか鹿のようなアーモンド型。黒のやや小さめのスーツに肉感的な身体をむりやりねじ込んでいて、ストッキングを履いた脚を組み、タイトスカートの裾がスリットと共に太腿の真ん中あたりまでずり上がっている。
 妄想が止まらなくなってきたところで、OLものの動画を検索してオナニーをした。実物が明日見られると思うと、ワクワクが止まらなかった。別に落とされてもいいから、しっかりと目に焼き付けておこう。でもあくまで想像に過ぎないわけだから、あまり期待はしない方がいいが。
 自室を出ると、リビングのソファにごろんと横になった。リビングと一続きになったダイニングには妻と娘がいて、それぞれスマホを見ている。
 わたしは床に落ちていたリモコンに手を伸ばして拾い、テレビのチャンネルをしばらくザッピングしたあと、ネットに切り替えた。ちょっと前から話題になっていて観たかった映画が、サブスク入りしていて観られるようになっていた。
「あー、そうだ。明日の二時から面接入った」
「へー、どこ場所?」
「たぶん上野。たしか台東区って書いてあった」
「何時くらいに家出んの?」
「十二時か十二時半くらいかな」
「へー、何系?」
「あー、うーんと、マーケティングって書いてあった」
「マーケティング? なにそれ?」
「市場調査」
「調査? 探偵みたいなこと?」
「うん、まあ。それの消費者版。消費者探偵」
「へぇ、大変そう」
「あー、でもたぶん落ちるよ。そういう仕事の経験ないし」
「いや、でもどうかなー。カタカナの職業ってだいたいブラックじゃん。ブラックだと常に超人手不足だから受かっちゃうよ」
「いや、それは知らんけど。でもまあ試しに面接行ってみるだけだから」
 受かることはあるまい、ともうほぼ諦めていた。すんなり決まったとしたら、それこそ妻の言う通りブラックなのだろう。入った人がどんどん辞めていくような職場。それはわたしにも無論あてはまって、わたしもすぐに辞めることになって経歴がさらにひどいことになる。
「ちょっとスマホ貸して」
「え、誰に言ってんの?」と、妻が訊いてくる。
「どっちでもいいんだけど」
 すると、妻がキッと娘を睨みつけ、スマホから顔を上げた娘がそれに気づいてわたしにスマホを差し出す。
「ごめんね。ありがと」
 スマホを失った娘はスイッチで動画を見始めた。
 オルタナティブ開発というのが会社名だった。求人サイトにそう出ていた。オルタナティブというのが、たしか二者択一とか取って代わるとかそんな意味だったから、そういうものを開発するのであればそれはそれで立派なことだ。そのためのマーケティングに携われるのであれば、ぜひその仕事をしてみたい。
 しかし、驚いたことに「オルタナティブ開発」と検索してヒットした会社はひとつもなかった。自己啓発系のサイトや学者の論文の中に出てきた文言がヒットしただけで、どうやらここはホームページを持っていないようだった。今日日そんな会社があるだろうか。どんな小さな会社でもホームページくらいは持っている。
 おかしいなぁ。おかしいぞ。
 むしろ、俄然興味がわいてきた。好奇心に火が点いて止められなくなってきた。性に関するマーケティング。これほどうさんくさい仕事があるだろうか。
 娘にわたしのスマホを返し、寝っ転がって映画を観た。ホラーパニックものの日本映画でなかなか悪くない出来だったが、明日の面接のことが頭の半分くらいを占めていて全然集中できなかった。観終わった後にわたしはいつも評価とコメントをするようにしているのだが、☆三つつけただけで、コメントは思い浮かばなくて諦めた。上手い文言が思いつかず、それなら書かない方がましだった。

          *

 お昼を軽く食べた後、駅まで歩いて電車に乗り、上野へ向かった。電車の中は中途半端な時間ということもあって空いていた。本もスマホも持ってきていたが見る気になれず、ぼーっと外を眺めながら時間を潰した。わたしの前の席にはすごく太ったおじさんが口を開けて寝ていて、一人で二人分の場所を取り、盛大ないびきを車両中に響き渡らせていた。
 上野駅に着くと、グーグルマップの案内に従って経路を歩き、十五分ほどでオルタナティブ開発の入る日神ビルに着いた。四階建ての二階で一階にはピザの宅配店が入っていて、脇は狭くて急な階段があった。そこをを上ると「オルタナティブ開発」と黄色のテプ〇で貼りつけてあるアルミ製摺りガラスのドアがあり、その脇にむかし団地でよく見た親指大ほどの呼び鈴ボタンがあった。
 ボタンを押し、しばらく待っても反応がなかったので、もう一度押してみた。
「は〜い」と、中年女性の声が聞こえ、ややあってからドアがガチャッと開いた。
 想像してたのとは違っていた。
 まるまると肉まんのように気持ちいいほど太った五十過ぎのおばさんで、たしかに肉感的ではあったが方向性が違ってた。スリットの入ったタイトスカートではなく、お花柄の膝下までのふわふわスカートで、ストッキングではなく、ももひきのようなものを履き足には便所サンダルを突っかけていた。
「脇田です。転職〇ビで応募した」
 そのまま帰ろうかとも思ったが、このタイミングではもう難しいし、奥からあの電話の女性が出てくるかもしれない。
「あ、はい。こちらへどうぞ」
 右側に事務机が五台並べて置かれていて、それぞれパソコンとキーボードがある。左手前側の席には眼鏡をかけた五十くらいのおじさんが波平型に禿げた頭を蛍光灯で光らせながら、画面とにらみ合っている。
 左側にはこげ茶色の年季の入った革張りソファの間に黒いローテーブルが置かれていて、わたしは奥側のソファに案内された。
「どうぞ、おかけください」
 わたしは座る前にカバンから履歴書を取り出し、おばさんに手渡した。
「あの、すみません。電話の女性は?」
「ああ、れいなちゃん。あの子は在宅勤務だから」
 くそ。それじゃあ、わざわざ来た意味がないじゃないか。
 ソファにどかっと腰を下ろすと、おばさんも向かい側のソファに座った。
「わたし、ここの代表をさせていただいております大河内しずかと申します。よろしくお願いします」
 おばさんは頭を下げ、わたしも礼を失しないように同じくらい頭を下げる。
「あのー、求人票でご覧になられたかと思うんですが、あのー、うちはね、マーケティングっていっても特殊なマーケティングリサーチをするところでして、あのー、うん、あのー、人間の三大欲求ってご存知ですか?」
「あ、はい。性欲、食欲、睡眠欲ですよね」
「ええ、あのー、正解です。その、あのー、それでー、食欲と睡眠欲に対しては、いろんなマーケティングがされていて、あのーみんなすごく前向きじゃないですか」
「前向き?」
「ええ」と、おばさんは頷く。「あのー、たとえば食べ物のCMとかレストランとかすごい計算して、研究してやってますよね。でもー、それが性欲になるとみんなとたんにいい加減っていうか闇業者か風俗店とかが適当に当てずっぽうでやってる感じになりますよね。それっておかしくないですか」
 まあ、たしかに。
「あのー、性欲も食欲や睡眠欲みたいにきちんと満たしておかないと、犯罪とか変質者とか変態みたいな感じになるんですよ」
「はあ」それは極論だろうと思いつつ、曖昧な返事をした。
「あのー、それで、そのマーケットリサーチをするのを思いついて起業したんです。性欲のマーケティングリサーチ会社」
「でも、性欲は満たされなくても死なないですよね」
「あのー、それはよく言われることなんですけど、死なないですが病んでいきます。心と身体が病んでいくんです。マスターベーション、あのーいわゆるオナニーですね、あれをずっと一日何回もやらなければ気が済まないとか。二十四時間、寝ても覚めてもエッチなことばかり考えているとか、もうこれは病気です。あのー、心と身体が満たされない性欲で病んでいるんですよ」
 わたしのことじゃないか。
「あのー、過食症やナルコプレシー、俗に言う居眠り病ですね。あれと一緒です。性欲の調整機能が壊れてしまっていて、あのー車でいうとずっとアクセルを踏みっ放しの状態になっているわけです」
 おばさんと目が合い、わたしの目は泳いだ。
「あのー、たとえば週に何回セックスをすれば満たされるのか。それは奥さんがいいのか、それとももっとタイプのきれいな女性がいいのか、とかいろいろあると思うんですよ。あのー、ちなみに脇田さんの場合はどうですか。ここは別にいいですから、きれいごととか抜きにしてぶっちゃけどうですか?」
「きれいごと抜きで?」
「ええ」
「じゃあ、長田まさみと有沢架純と池村エライザを一日ずつローテーションで」
「あのー、一日ずつというと毎日、毎晩ですか?」
「ええ、この三人なら毎晩でも全然。足りないくらいです」
「ご結婚されてますよね?」
「ええ、娘もいます」
「奥さんはそこに入れないんですか?」
「ええ、入れないでしょうね。ぶっちゃけ」
「あのー、それはどうしてですか?」
「あのー、それはですね。長田まさみと有沢架純と池村エライザの方がいいからです。セックスする分には。あくまでそれは、あのー下半身というか、性欲ですから」
「愛情とはべつものということですか?」
「はい。単なる性欲ですから」
 おばさんは履歴書に目を落とし、小さく鼻から息を吐いた。
「はい、分かりました。面接は以上になります。採用の場合のみ数日以内にご連絡いたします」
「あ、はい」
 これは面接だったのか。
 おばさんが立ち上がり、わたしも立ち上がらざるを得なくなる。
「お忙しい中、本日はありがとうございました」
 丁寧に腰を折ってそう言われ、わたしも軽く頭を下げた。そしてドアのところまで見送られ、わたしはオフィスを後にした。
 一週間経っても、二週間待っても連絡は来なかった。
 わたしはその理由がいまだに分からない。



[了]

2023年01月22日

短編小説1 お父さんが死にました



        1

 お父さんが死にました。会社のビルの五階から窓をぶち破って飛び降りたとのことです。
 夜中の三時過ぎのことで、お父さんはその時間まで会社で仕事をしていました。一緒に残業をしていた人たちがいて、その人たちにはちょっとトイレ行ってくると言ってオフィスを出たそうです。お父さんのパソコンの画面には作りかけの書類が残っていて、机の上には空の栄養ドリンクと缶コーヒーの空き缶が何本も並んでいたとのことです。きっとお父さんはギリギリまで仕事をしていたんだと思います。わたしはそんなお父さんをとても誇りに思います。
 お父さんは会社からすぐに殉職と認定されて、常務取締役に昇進しました。お父さんは生前課長代理だったので五階級特進というすごい昇進です。わたしたち家族は泣いて喜び、葬儀の時に会社の社長さんと専務さんに何度も何度もお礼を伝えました。遺影の中のお父さんは会社が用意してくれた立派なお花の中ですごく喜んでいるように見えました。
 葬儀には読買新聞の記者の人が来ていて、わたしとお母さんは取材をしてもらいました。

記者 お父さんの殉職を知った時、どう思いましたか?

お母さん 会社のために最後の最後まで頑張ってくれたんだな、と非常にうれしく思いました。

記者 娘さんはいかがですか?

わたし はい。お母さんと同じで、会社のために死ぬまで頑張ったお父さんはとても偉いなと思いました。

記者 そうですよね。お父さんの印象的な思い出などはありますか?

お母さん はい。いつも帰ってくるのは週末だけだったんですが、土曜の晩に終電で帰ってきて、夜中の一時過ぎに家族三人で夕飯を食べるのが恒例でした。そこで会社や仕事の話をいつも私や娘にしてくれていたことをよく覚えています。

記者 家に帰ってきてからも会社や仕事のことを考えていたんですね。とても素晴らしいことだと思います。素敵なお父さんですね。娘さんはいかがですか? お父さんとの思い出とか。

わたし はい。わたしは日曜日の夜に勉強を教えてもらったことを覚えています。わたしが分からないところをききに行くと丁寧に教えてくれて、一生懸命勉強して将来会社のために役に立つ人間になるようにと言われました。

 そんなやり取りが十五分くらいあって、二日後にそれが記事になりました。テレビ欄の裏側に載っている写真付きの大きな記事で、「栄誉の殉職! お父さんは最後まで頑張った!!」という大見出しになっていました。読買新聞の記者さんはその新聞を送ってくれました。ですが、お母さんはその日の朝、近所のコンビニを回って既にたくさんの読買新聞を買ってきていました。
 お母さんはその記事を切り抜いて、お父さんの仏壇に飾りました。
 学校でもその記事は道徳の時間に授業の題材として取り上げられ、コピーが全校生徒に配られました。担任の東堂先生はその授業中こう言っていました。
「会社のために死ぬということは、なかなかできないことだ。みんなもAのお父さんを見習って将来どんな仕事でも会社のために頑張って我慢して耐えて、耐えて頑張り抜くんだぞ。いいな。分かったか」
 記事の中に書いてあったのですが、お父さんは上司の課長や部長、専務や取締役から毎日非常に強く𠮟咤激励を受けていたそうです。みんなお父さんがもっと会社のためになれるようにと心を一つにしていたということです。なんて素晴らしい会社なんだろうとわたしは感激してしまいました。わたしも将来そんな会社に入りたいと思いました。

           2

 お父さんが亡くなってからしばらくすると、お母さんはわたしを産む前に働いていた会社で再び働き始めました。お父さんの会社は八十三万円というとても大きな額の退職金を出してくれたそうなのですが、それだけでは足りないので会社で働くということです。
 お母さんもお父さんを見習って会社のために一生懸命働く、と言って元気いっぱいで朝六時くらいに家を出ていきました。
 わたしもその後昼間学校へ行って帰ってくるとすぐに塾に行って、夜の十時前くらいに家に帰ってきたのですが、まだお母さんは帰ってきていませんでした。洗い物をしてご飯を炊いて宿題をしながら待っていると、お母さんは日付が変わった一時前くらいに帰ってきました。
 子供にご飯を食べさせなきゃいけないって無理を言って、他の人には悪いんだけど終電で上がらせてもらってきたのよ、とお母さんは言っていました。しかも帰りにスーパーで夕飯の買い物までしてきてくれていました。最近のスーパーはどこも二十四時間営業になっているのでとても便利です。昔は夜の九時とか十時に閉まっていてすごく不便だったそうなのですが、いまは社会が発達してどこも二十四時間営業が当たり前になっています。
 その日は一時半に夕ご飯を食べ、二時にお風呂に入って、三時前に寝ました。
 朝起きるとお母さんはもう会社に出ていていませんでした。シリアルに牛乳をかけたものとヨーグルトを食べて、私は七時半に学校へ行くため家を出ました。あまり寝ていないのでとても眠かったのですが、お母さんはもっと頑張っているのにそんなことは言っていられません。一生懸命勉強して、成績を上げて、良い大学を出て会社の役に立つ人間になる。わたしは頑張らなければなりません。

 うちの学校のクラスにYという変な男子生徒がいました。
 Yのお父さんは仕事をしていないという噂で、お母さんが近所のスーパーでパートをしているということです。なんでYのお父さんが仕事をしていないのかははっきりしないのですが、とにかく病気とかそういうのではないらしいです。というのも、コンビニで昼間に酒やタバコを買っているのを見ただとか、パチンコ屋が開くのを朝から並んで待っていただとか、そういう目撃情報が寄せられているからです。
 大の大人の男の人が仕事をしていないというのは、世の中の常識から外れていますし普通じゃありません。そんな人の子供なのだから、変なのも無理はありません。
 Yはある時、わたしにこう言いました。
「勉強なんかいくらしても何の役にも立たないよ」
 勉強をしていない人の言い訳に過ぎないことは分かっていましたが、正直ムッとしました。
「勉強をしないといい会社に入れないよ」
 わたしがそう言い返すと、Yはさらにこう言い返してきました。
「いい会社ってなんだよ」
 そんなのは考えてみるまでもないことです。呆れて私は空いた口がふさがりませんでした。
「おい、A。世界はもっと複雑だぞ」
「意味わかんないこと言わないでよ」
 複雑とは──。変なことを言って煙に巻こうとしているだけとは分かっていましたが少し考えてしまいました。

 家に帰ると、すぐに塾に行って、帰ってきて洗い物をしてお風呂に入って宿題をしました。お母さんは二時を過ぎても帰ってこなかったので、先に寝ました。
 布団の中に入ると、昼間学校でYに言われたことが蘇ってきました。

 おい、A。世界はもっと複雑だぞ。

 複雑とは何のことでしょう。まったく意味が分かりません。この世界のどこが複雑だというのでしょうか。
 考えれば考えるほど腹が立ってきて、わたしは眠れなくなりました。Yというのは普通じゃない男なので、言うことも普通ではなく、そこにきっと意味なんてあるわけはありません。
 そこでわたしはYのことを考えないようにしました。そんな人は存在していなくて、わたしの想像が勝手に作り出した架空の人物である、と。すると、スッと頭も身体も楽になってその勢いでわたしは眠ることができました。

           3

 それからおよそ十五年の年月が経ち、わたしは東証一部上場の大手商社に勤め始めました。
 その日もわたしは家に仕事を持ち帰って夜遅くまで仕事をしていたのですが、お腹が空いてしまい台所に行っていちごヨーグルトを食べました。そして、ふと明日の天気を見ようとテレビを点けました。
 NHKにチャンネルを合わせると、オールバックの髪に関根勤のようなこってりとした顔の男が繰り返し画面に現れ、ブルーのネクタイをしたニュースキャスターがロシアがウクライナに軍事侵攻したと緊迫した声で伝えていました。
 オールバックの男はロシアの大統領でスタールンというそうです。このあいだまで禿げ頭の違う人が大統領だったはずですが、昨年末に政変が起こってこの人になったそうです。
 ウクライナの市街地の定点カメラが映し出され、空襲警報が鳴り響いていました。そこに空から青い光が飛んできて近くのデパートのような建物に当たりました。その瞬間画面が白い光でいっぱいになり、NHKのスタジオに切り替わりました。
「たったいまロシア軍のものとみられるミサイルがキエフ中心部に着弾し、多数の死傷者が出た模様です。繰り返しお伝えします。ロシア軍によるミサイル攻撃で、首都キエフ中心部に大規模な被害が出ている模様です」
 そこからわたしは憑かれたようにテレビにくぎ付けになり、ロシアによるウクライナ侵攻のニュースを見続けました。
 なんという暴虐! なんという悪逆非道な行為!
 このスタールンという男は狂っています。東部のロシア系住民の保護という大義名分を掲げているそうですが、そんなものは嘘っぱちに決まっています。
 テレビを消した後も、怒りで仕事が手につきませんでした。きっと東京の中央区か港区か千代田区あたりにロシア大使館はあるはずですから、行ってこの悪辣きわまりない行為を糾弾し、出てきた大使館職員に卵を投げつけてやろうと思いました。
 こんなとんでもない行為をするスタールンという男を一刻も速くこの世から抹殺し、ロシアという国も地球上から消滅させなければなりません。そうしないと正義が守れないからです。
 お母さんが仕事から帰ってくると、ご飯を食べながらロシアのウクライナ侵攻の話をしました。
 NHKによると、アメリカは第三次世界大戦に発展するからと、参戦をためらっているそうです。お互い核保有国同士なので、それを使うか使わないかという話になるということです。それは裏を返せばロシアがウクライナに対して核を使った瞬間、アメリカも参戦してロシアに核を落とすということになるかと思います。そこが両国の譲れないラインとのことでした。
「それはね、銃を持っている人同士が殴り合いの喧嘩をしているようなものなの。その持っている銃を使うのはきっと自分が負けそうになった時でしょう。その時はこっちも銃を出して撃つからなって言ってるのよ」
 お母さんは牛乳を飲みながら興奮気味にそう言いました。
「そんなことをしたら二人とも死んじゃうんじゃない?」と、わたしは疑問を口にします。
「先に心臓か頭を撃ち抜いちゃえばいいのよ。相手が銃を使いそうになったら」
 なるほど、とわたしは大きく頷きました。ウクライナ侵攻という史上稀にみる大悪事を働いているのですから、その罰としていまロシアに核爆弾をどれだけ落としてもまったく問題はないはずです。むしろロシア全土に核弾頭を撃ち込みまくって一気に壊滅させてやればいいだけの話です。どうしてアメリカが今すぐそうしないのかがわたしには分かりませんでした。
「ようするにチキンレースよね。どっちが先に使うかっていう。先に手出した方は、相手が手を出してくる寸前だったからって言えばいいのよ」
 話が違ってきている気もしましたが、とにかく悪人どもを壊滅させられればそれでいいのですから、核でも何でも先行して使うべきです。
 イラク戦争の時もイラクが大量破壊兵器を持っているからと戦争をして後にそれがなかったことが判明しましたが、フセイン大統領は悪だったのでアメリカは結局良いことをしたのです。
 その日は朝まで夜通しお母さんとロシアとスタールン糾弾合戦をして、シャワーを浴びて眠気を吹き飛ばしてから仕事に行きました。
 ユンクルを飲んで自分の弱い心と戦いながら一日を懸命に仕事に励み、夜になると地下鉄の日比谷線に乗って神谷町駅で降り、近くのセブンエレブンで卵のパックを買ってロシア大使館に向かいました。
 近づくにつれて通りの人の数は増えていき、あと数十メートルというところでついに前に進めなくなりました。ロシア大使館はわたしと思いを同じくする大量の人たちが取り巻いていて、その数は何千、何万人という規模に及んでいました。
 ロシアなんてぶっ潰せー!
 スタールンあんさぁーつ!
 ウクライナ侵攻はんたーい!!
 皆口々に自分の強い思いを叫んでいます。
 石や火のようなものを投げ込んでいる人もいて、わたしも持っていた卵を一個ずつ力いっぱい大使館に向かって投げ、ロシアに対する怒りをそこに込めました。届かずに途中で人々の頭の上に落ちてちょっとした騒動になっていましたが、そんなことはロシアの悪事に比べれば些細なことです。
「スタールン死ねーっ!!」
 卵をぜんぶ投げ切ると、わたしもそう叫びました。
「ロシアぁー、地獄に落ちろー!」
 いまこうしている今も何にも悪いことをしていないウクライナの人たちは殺されていっているのです。ロシアの利己心に満ちた残忍な軍事行動によって。
「ぶちころせぇー! スタールンをぶちころせぇぇぇーー!」
 わたしもわたしの仲間も興奮のさなかにあり、ほとばしる幾多の思いが寒空の中に煮えたぎっていました。
 その時です。
 ワーッというどよめきと共に巨大な四トントラックがクラクションを鳴らしながら突っ込んできて、人々の群れはモーゼの海のようにさーっと道の両端へ割れました。
 トラックの荷台の側面には大型ビジョンがついていて、そこにハロウィーンのような仮面をかぶった何者かが映っていました。
 群衆のど真ん中にトラックは急ブレーキをかけて停止し、まずキーンというハウリング音が周囲一帯に響き渡りました。

 われわれはアベノマスである。
 われわれは真実を伝えにきた。
 諸君らは騙されている。
 ロシアはウクライナに侵攻などしていない。
 これはアメリカとNATOがしかけた戦争である。
 ウクライナは彼らの傀儡国家であって、ゼロンスキーなる人物はただの役者にすぎない。
 諸君らがメディアやSNSを通して見させられているものは、巧妙に作られた映画である。
 そこに真実など──

 誰かがトラックに石を投げつけ、画面に亀裂が入りました。すると、我先にと周りにいた人々もペットボトルや本や新聞や雑誌やスマホなどを投げ始め、そのいくつかがヒットして画面はぐちゃぐちゃになり、音も途切れてキーキーと鳴りはじめました。
 人々の怒りはもはや収まりませんでした。トラックを取り囲むように一気に押し寄せ蹴ったり押したり叩いたりしました。さらに長身の若者が運転席によじ上り、窓ガラスを石のようなものでたたき割りました。中にいた男は慌てて逃げようとしましたがドアを内側から手を突っ込んで開けられ、腕を摑まれてそのまま車外へと引きずり出されました。
 たちまち人の輪ができ、引きずり出された男を大勢でリンチし始めます。
「ころせぇぇぇ!」
「ぶっころしちまえぇぇ!」
 そこかしこからそんな声が飛び、もう歯止めがきかなくなっていました。
 こんなやりかたで嘘を喧伝するのはたしかに悪いことではありましたが、一人の人間に多くの人たちが寄ってたかってリンチを加えるのはさすがに見ていられません。
「待って、ちょっと待って!!」
 そう叫びながら人の波を掻き分け、捨てられたゴム人形のように仰向けに横たわるトラックの男に近づきました。
 その顔を見た瞬間、わたしはアッと叫んでいました。
 Yだったのです。中学の時同級生だったY。成長して背も高くなり顔つきも精悍になっていましたが、まぎれもなくそれはYでした。
「……Y」
 そうわたしが呟いた瞬間、誰かがこう叫びました。
「こいつも仲間だぞ!」
 すると、人が飛びかかってきて押し倒され、わたしの顎や脇腹やみぞおちに容赦なく殴る蹴るの暴行が加えられました。そして誰かが後頭部の髪を根元からつかみ、頭が固い道路にうちつけられ──。
 わたしが覚えているのは、そこまでです。天に召されてしまいました。

 天からはすべてのものが見えます。
 誰がどこで何をしているのかが、よく見えるのです。



[了]

2022年08月28日

短編小説16 モミの森(実話)



 その時、私は車で真っ暗な道を走っていた。街灯もビルの明りもない真っ暗な田舎道で、ヘッドライトの照らし出す数メートルを除いてはまさに漆黒の闇と言ってよかった。
 先程のコンビニで確認した地図によれば、そろそろ着いてもおかしくない頃だった。大きなカーブの左側にあるはずで、私はセンターラインからはみ出さないようハンドルを握り締め、前方の道路と左側の路肩を瞬きもせずじっと注視していた。
 いくつかの田舎町を抜け、途中で夕食を摂り、今夜眠る場所を探してここまで車を走らせてきた。身体の隅々にまで疲労が蓄積し、欠伸が度々漏れる。対向車もほとんどなく、カーステレオから流れ続けているレゲエが頭の中でぐるぐると回転している。
「ねぇ、あれじゃない?」
 助手席にいる同乗者が先にその看板を発見した。
 ブレーキペダルを軽く踏み、私は車の速度を落とした。そして左手前方を確認する。
 モミの森。
 そう書かれた小さな木の看板が近づいてきた。よく見ていないと見落としてしまいそうな程小さな看板。しかし、その近くにホテルの建物らしき影は見当たらない。
 取りあえず左にウィンカーを切り、さらに速度を落とす。そして看板の手前に見えた側道らしきところに車を乗り入れた。砂利と小石混じりの山道が開け、戸惑いと疑いを覚えつつも先へと車を進める。すると、十メートルほど進んだあたりで小さな平屋の建物がいくつか見えてきた。コテージやバンガローとも呼べなくもない。しかし、もっと粗末な造りで明かり一つ漏れていない。
「ちょっと、これなに?」
 彼女も私と同じく、この異様な光景に著しい違和感を覚えたようだった。
「なんかキャンプ場みたいだね。これ、どうすりゃいいんだろ?」
「知らないわよ。こんなのホテルとかじゃないでしょ」
 突き当たりの3号棟と書かれた部屋の駐車場が空いていた。私はとにかくそこへと車を入れた。フロントライトに照らし出された何軒かの部屋には、RV車やミニバンなどが停まっていた。私にはむしろそのことが驚きだった。こんな山奥の怪しげな施設に客があるとも思えなかった。
「ねえ、本気でここにするの?」
「しょうがないだろ。もう遅いし、今更他のところを探す気力も残ってない」
「やめてよ。ここ、なんかちょっと怖い」
「そりゃ俺も同じだけど、一晩泊まるだけだろ?」
 彼女は私の顔を見て、その疲れ切った表情を見て取り、ため息を吐いた。
「わかった。ここでいい。ここにする」
 フロントライトを消しエンジンを切ると、完璧な静寂が訪れた。虫の音すら聞こえない。先程までカーステレオから流れていたレゲエの音楽だけが、かすかに耳の奥に残っている。
 運転席のドアを開け、外に出る。彼女も助手席から降り、一歩、二歩とコンクリートで固められた駐車場から歩み出る。
 周囲の他の部屋からも一切物音はしない。暗い、鬱蒼とした森が頭上から覆い被さり、この場に閉塞感を与えている。残暑の厳しい九月の半ばにもかかわらす、風は冷たく凛とした山の張り詰めた空気が辺りを支配していた。
 砂利道を踏みしめ部屋の入り口まで歩を進めると、私はドアノブに手を伸ばした。鍵をフロントから貰って来なければならないとは分かっていたが、フロントらしき所は先程から一向に目に付かなかった。
 右手に力を込め、私はノブを右へと回した。
 カチャッ、という乾いた音と共に、果たしてドアは内側に開いた。
 勝手に入っていいものか判断に迷った。だが、ドアの脇にあったスイッチを押すと、蛍光灯の明りがまるで普通の民家のような玄関口に灯った。
「これ、どうなってんの?」
 そんなことを訊かれても分からない。これじゃあ、誰でも入ってこれるし、出入り自由ということになってしまう。それでは商売は成り立たない。
「朝になったら回収しに来るんじゃないのかな」
 よく分からないが、彼女を納得させるためだけに私はそう答えた。無論、彼女からの返事はない。
 正面の靴箱の上に寅の置き物があり、その右脇に半開きになったドアがある。さらに右手にはトイレと洗面所、奥の突き当りには風呂場が見えている。コテージというよりかは民宿、もしくは学生の下宿のような趣きだった。
 ドアを閉め、しっかりと鍵を掛ける。なんとも妙な感じだった。まるで勝手に空き家に入り込んでしまったかのような違和感を覚える。鍵は開いていた。そして中に人はいない。
 靴を脱いでそこにあったスリッパを履く。赤と白の極めてシンプルなスリッパ。二足きちんと並べて置いてあった。
 玄関脇のドアを開け、スイッチを押して明かりを点ける。部屋の中へ入ると、花柄の壁紙がまず目に飛び込んできた。横長の部屋の正面には擦りガラスの嵌め込まれた大きめの窓。右手の壁際には灰色の小さな冷蔵庫。そして部屋の左側の大半を、簡素な造りのダブルベッドが占めていた。
「別に普通だよ。悪くない」
 いわゆるラブホテルとはかけ離れてはいたが、たった一晩過ごす分にはさして問題はなさそうに思えた。少なくとも、私にはそう感じられた。そして、出し抜けにベッド脇にあった電話のベルが鳴り出す。
「……もしもし」
 少しためらった後に私は受話器を取り、電話に出た。
「今、3号棟に入られましたよね」
「…ええ」
「料金の方、前払いになっております。まもなく徴収に伺いますので……」
「はあ、分かりました。おいくらですか?」
「──円です。一泊ですと」
 破格の値段だった。予算よりもかなり安い。
「ええ、用意しておきます」
 受話器を置き、電話は切れる。
「なに? なんだって?」
「前払いだから、これから来るって」
 冷蔵庫を開け、彼女は中を覗いている。ドアの後ろ側、部屋の隅に飾り棚があって、そこにテレビが置いてあるのが目に入った。部屋の左側には小さなテーブルと椅子が二脚、テレビに相対するように設えられてある。
 コーラの瓶を取り出し、彼女は冷蔵庫の上に置いてあった栓抜きで開ける。私もひどく喉が渇いていた。ビールの缶を取り出し、製造年月日と賞味期限を確認してから蓋を開け、そのまま一気に喉の奥に流し込んだ。
 やがて、ドアをノックする音が聞こえてきた。玄関まで出るが、そこでドアに覗き穴がないことに気がついた。ドアの向こう側にいるのが殺人鬼なのか、ここの管理人なのか分からなかった。だが、もし殺人鬼だとしたら、たとえドアを開けなかったとしても窓ガラスを割られるだろう。
 財布を手にドアを開けると、そこにいたのは案外人の良さそうな中年の女性だった。ピンク色のウィンドブレーカーを羽織り、斧でもナイフでもなくおそらくお釣りが入っているものと思われる黒いポーチと懐中電灯を手にしている。
「──円です」
 私は言われた金額のお金を取り出し、女性に手渡す。
「明日部屋を出て行く際に、フロントの方に内線をお願いします。フロントの番号は4番になっています。チェックアウトは十時です」
 私は、ええ、分かりましたと返事をする。すると彼女はペコリと頭を下げ、懐中電灯の明かりをゆらゆらと揺らしながら闇の奥へと消えていった。
 部屋の中に戻り、テレビを点ける。
「皺くちゃの婆さんとかじゃなかったよ。案外普通のおばさんだった」
 彼女は、ふぅんと返事をする。椅子に座ってコーラを飲んでいる。私は煙草に火を点け、テレビをアダルトチャンネルに切り替えた。──それはひどく古い代物だった。画像は粗く、出ている女優は時代がかった髪型と化粧をしていた。
「こりゃ、いただけないね」
 彼女はそれでも熱心に、画面に喰い入るようにテレビを観ていた。
 テーブルの上にチャンネル表があって、時間を確認し、その今流れているビデオのタイトルを読み上げると彼女は声を上げて笑った。タイトルまでもが古くさかった。この部屋と同じように。
 ビールを一缶空けると、風呂に入ることにした。一日中運転し通しだったから、身体も感情も凝り固まっていた。湯にゆったりと浸かって解きほぐしたかった。
 風呂場へ足を向けると、案外きれいに掃除されていた。埃はどこにも見当たらず、風呂桶も湯船も曇り一つなく磨き込まれていた。
 シャワーでざっと流し、湯船の栓を締めて湯を張る。入浴剤こそなかったが、錆ついた泥水ではなくきれいで透明なお湯が蛇口から注ぎ込まれていった。
 部屋へ戻り、新しい煙草に火を点ける。はじめの内こそこのコテージの外観からもっとひどい想像を膨らませていたが、使ってみると意外なほど普通だった。おしゃれなイメージこそないが、都内のビジネスホテル並みだと思えば不満はない。彼女の方はせっかくの旅行なのにとぶつぶつと愚痴をこぼしていたが、諦めるより他ないと気づくのにさほど時間はかからなかったようだ。
 湯船にお湯が溜まると、洗面用具を持ち込んで二人で風呂に入った。格子の張ってある擦りガラスが壁の上の方についていて、そこには外の闇と間近に迫った木々の影が映っていた。さわさわと風に木の葉が揺られている様が見て取れる。
「どっかの民家みたいだね」
 彼女はシャワーを浴びながら率直な感想を口にする。私の方とて異論はない。これはラブホテルでもブティックホテルでもなく、どこかの民家だか空き家をホテル風に改装し、憐れにも迷い込んだ客を諦念に至らしめる場所なのだと。
「でも、他にも客はいたよね?」
 手の平でシャンプーを泡立て、彼女は頭を洗い始める。
「地元の人かなんかじゃないの?」
 つまり、選択の余地がないというわけか。
「車が停まってなくても、在室中の看板が立ってたとこもあったよね」
 こんなところまで歩いて来られるわけはないし、近くにバス停も見当たらなかった。
「あれはモミの森側の事情なんじゃないの。まだ掃除してないとか……」
 確かに一理ある。というか、どうやらそれが確からしい。
 いい加減湯当たりしてきたようだった。私は湯船から出て代わりに彼女が湯に浸かった。
「でも、悪くないかもな。帰ってからのいい土産話になる」
 彼女は小さく笑い、生きて帰れればね、と冗談っぽく付け加えた。

 風呂から上がると、私は冷蔵庫からもう一缶ビールを取り出し、アダルトビデオを眺めながらちびちびと飲んだ。彼女は手鏡を覗き込みながら、化粧水やら保湿液やらをつけている。何の物音もしない。アダルトビデオの音声以外は。
 改めて部屋の中を眺め渡してみる。横長の、天井の低い殺風景な部屋。ベッドの横には小さなクローゼットが付いていて、その中にはタオルが何枚かと浴衣が二着入っていた。風呂に入る際にそれらを使用し、今二人ともその浴衣を身につけている。
「ねえ、ジュースもう一本飲んでいい?」
「ああ」
 彼女は冷蔵庫を開け、オレンジジュースを取り出そうとする。
「えっ! 何これ……!」
 慌てて駆け寄り、何事かと手元を覗き込む。すると、ジュースの瓶にびっしりと埃が積もっているのが目に入った。奥の方に入っていたために、ビールを取り出す時には気づかなかったが、それは何ヶ月もこの瓶が誰の手にも触れられなかったことを意味していた。
「こりゃ、ひどい。他のはどうなんだろ」
 見ると、ビールとコーラ以外の他のものは概して同じような有様だった。掃除が行き届いていないのか、何日も客が入っていなかったのか。
「何これ、怖い」
「冷蔵庫の中まではチェックしてなかったんだろね。でもさ、部屋の中とかお風呂とかはキレイだったし……」
 しかし、妙だった。あのジュースの瓶の埃の積もり方はちょっと尋常ではなかった。しかも、冷蔵庫の中。外気とは遮断されているはずなのに。
 気を取り直すように、彼女はテーブルの上に置いてあった私のビールに手を伸ばす。
「いいよ。全部飲んじゃって。もう俺はいらない」
 テレビ画面の中では髪の長い眉毛の濃い女が、甲高い声を上げながら恍惚とした表情を浮かべている。男優は黒い鼈甲縁の眼鏡を掛けた太った男だった。男の動きはひどくぎこちなく、ハアハアと完全に息が上がっている。そして、口の中でなにやら聞き取れない言葉をもごもごと呟いていた。
「気持ち悪い。昔のAVってこんなのだったの?」
「知らないよ。女の方はともかく、男の方はどうだかね」
 やがて、男の腕がぬっと女の顔の方に伸ばされ、続いて節くれ立った両手が女の首元に巻き付いた。男は妙にバタバタと腰を突き上げながら、次第次第にその手に力を籠め始める。
「……ちょっと」
 彼女のビールの缶を持つ手が止まり、二人とも画面に釘付けになった。
 女は目を閉じ、顔を紅潮させている。気づいていないはずはないのだが、抵抗するそぶりすら見せない。そういった趣向のものなのかもしれない。二人とも程度をわきまえて、敢えて楽しんでいるだけなのかもしれない。
 ビクビクと痙攣を始め、白目を剥き、女の口からはやがて泡が吹き出し始める。その時点で彼女がリモコンを取ってテレビを消した。こういった類いのビデオの存在は聞いたことがある。しかし実際に目にしてみると、悪趣味というより他なかった。そして、さらに追い討ちをかけるように、彼女が不気味なことを口にした。
「……ねぇ、似てなかった?」
「なにが?」
「あの中、…だから撮影場所ってことなるんだろうけど、ここと似てなかった?」
 こことはつまり、この場所、この部屋の中ということを意味しているのだろう。
「変なこと言うなよ。気のせいだろ」
 もう一度画面を点けて確認する気にはなれなかった。なにせ我々は、これからこの部屋の中で一晩明かすより他ないのだから。──あの女優はあの後どうなったのだろう。無論、実際に殺されたわけではあるまい。あれはあくまでああいったプレイであって、ギリギリの状態を享楽するためにそうしているだけであって……。
「もう寝よ。わたし疲れちゃったから」
 ベッドの上の布団にごろんと身を投げ出し、いかにも疲れ切った声色で彼女はそう呟いた。同感だった。目を閉じればすぐにでも眠ることが出来る。おそらく数秒とかからないはずだ。
「そうだね。明日もいろいろ回りたいし、早く寝なくちゃね」
 飲み干したビールの缶をテーブルの上に置くと、私は椅子から立ち上がり、電気を消して布団の中へと潜り込んだ。彼女も私に続いて布団の中へと身を滑り込ませ、大きな欠伸を洩らした。
「今日はいろいろあったね。昨日まで東京にいたのが嘘みたい」
 こんな山奥の怪しげなホテルにいると、確かにそんな感じはする。我々は昨日の晩までは、深夜まで喧騒の止まない東京のマンションにいたのだ。あまりの環境の違いに唖然としないでもない。
 朝早くに自宅を出て、東京駅まで電車を乗り継ぎ、新幹線に乗ってお昼過ぎに盛岡に着いた。昼食に冷麺を食べ、レンタカーを借りてカーブの激しい山道をぐるぐると走り回り、途中で鍾乳洞を見学し、お土産物を買って日が暮れる頃に太平洋側へと抜けた。海岸沿いを南下し途上のちょっとした港町の居酒屋で夕食を食べ、付近のラブホテルを携帯で検索した結果、もっとも距離的に近いこのホテルに三十分ほどかかってようやく辿り着いた。
 ベッドサイドの引き出しにはコンドームが入っていた。しかし、あまりその気にはなれなかった。だが、せっかくの旅行で曲がりなりにもラブホテルに泊まったのだから、するべきだとは思った。──どちらからともなく我々は互いの身体に触れ合い、浴衣を剥ぎ取り、その風呂上りのつるつるとした身体をまさぐり合った。私はコンドームを性器に装着し、我々は性交した。性交が終わると我々は眠りに落ちた。ぐっすりと熟睡し、朝まで目が覚めることはなかった。

 翌朝、私は鳥の声と窓から差し込む陽光とで自然に目を覚ました。
 ベッドから這い出してトイレに行き、小便をした。そして、部屋に戻って窓を開けると山の朝の匂いがした。空は抜けるように青く、天気は快晴だった。実際、爽やかというより他に言葉が思いつかない。
 洗面所で顔を洗い、歯を磨いた。彼女はまだベッドの中で寝ている。
 外に出て、タバコを吸った。鳥の声と湿った木と葉の薫り。キャンプ場の朝を連想させる。実に清々しく、周りは光に満ち溢れていた。
 他のコテージからは車の姿は消え失せていた。皆、いつの間に出て行ったのだろうか。
 部屋に戻って、彼女を起こす。時計を見ると、チェックアウトの時刻まであと四十分程だった。私がそう伝えると、彼女は大急ぎで身支度を始めた。
 十時ギリギリに準備を済ませ、フロントに内線をかけた。冷蔵庫の中の物の精算はちょうど千円だったので、そのままテーブルの上に置いて行ってくれとのことだった。
 かくして我々はその奇妙なホテルを後にし、幅の広く交通量の少ないワインディングロードを悠然と北上した。海岸線の道は穏やかな太平洋が水平線の彼方まで続き、窓を開けると潮の香りが鼻をくすぐった。……だが、私は気づいていた。ホテルの駐車場から車を乗り出した時点から、それはずっと続いていた。つまり、背後に気配を感じ、その視線を意識しないわけにはいかなかった。
 女だった。色白の髪の長い女。部屋の中にはいなかった。どうやら、あの駐車場にいてついて来てしまったようだ。
 彼女には黙っていることにした。取り乱し、ひどく怯えるかもしれない。それに、そんな悪意を持った感じではない。ただ、寂しそうだった。たまらなく寂しそうだった。
 左斜め後ろにその女の気配を感じながら、私と彼女は車を走らせ、著名な観光地となっている海岸へと足を伸ばした。海岸にはカモメや海猫が多数群れていて、デジタルカメラで何枚も写真を撮った。靴を脱いで膝まで海水に浸かった後、お土産に天然塩とカモメの置き物を買い、我々はそこをあとにした。
 近くの軽食屋で昼食を摂り、盛岡へと戻るべく元来た道を引き返す。三、四時間は掛かる計算で、夜までには東京に辿り着けるはずだった。
 険しい山道を速度を落として慎重に運転する。前日からずっと流れ続けているレゲエにも嫌気が差し、CDのスイッチを切って地元のラジオ局に替える。しかし、雑音塗れでまるでタクシー無線のような具合だった。そして、やがて眠気が襲ってきた。助手席にいる彼女との会話が続いているうちはいいが、途切れると緩慢な空気が流れ、目蓋が重くなる。
 その間にも斜め後ろ後方、後部座席の真ん中辺りに線の細い女の存在を感じ続けていた。バックミラーにも何度か映り込み、見る度必ず視線が合い、ひどく哀しげな目つきをしていた。
 サービスエリアに車を乗り入れ、二人ともトイレに行った。そして自動販売機で缶コーヒーを買い、喫煙所でコーヒーを飲みながら一服する。そしてその場で私は彼女に髪の長い痩せた女のことを話した。あのコテージからずっとついて来ている、と。すると彼女は別に驚いたり慌てたりする様子もなく、それは何故なのかと私に問い返してきた。
「あの部屋の窓から雑草がたくさん生えていた山の斜面が見えてただろ。きっとあそこに埋められているんだと思う」
 私は女の視線から察したことをそのまま口にした。
「殺されて、埋められたんだよ」
 沈黙が流れ、我々は前方に広がる鬱蒼とした山の景色をじっと見つめた。
「どうすればいいと思う?」
「どうしようもない」
「でも、ついて来てるんでしょ」
「あぁ」と、頷くしかなかった。
 缶コーヒーを飲み終え、我々は車へ戻った。
 窓から覗き込むと、後部座席にあの女の姿はなかった。
 ドアを開けて中に入る。
 気配も消えていた。視線も感じない。
 いなくなっている。
 きっと別の車に移ったのだろう。たとえば長距離トラックとか。
 エンジンをかけ、サービスエリアを後にした。
 もしくは彼女はこの場所に縛りつけられているのかもしれない。
 ここからずっと出られない。
 車は山道を盛岡へ向けて疾走し続けた。



〔了〕
2023年04月20日

短編小説15 ワキがかゆい



 どうでもいいことなのだが、今私は猛烈にワキがかゆい。さっきのワキ舐め男の唾液が残っていて、それが乾いてきて、どうにも我慢ならない搔痒感がもたらされている。
 でも、ここで掻くわけにはいかない。なぜなら、私はいまその次の男から挿入されている最中で、そいつはまさにこの瞬間にでも射精を迎えようとしているからだ。射精されるのは嫌いではないが、もう少し待ってほしかった。この男の場合、あまりにも早過ぎる。中に出してもいいと言ったら、もう我慢が出来なくなったようだ。
 あぁ、出た。どくんどくんと大量に出ている。私は体質的に妊娠しないから、いくら中に出されても構わない。薬も飲む必要はないし、まあ便利と言えば便利な身体だ。
 中に出された瞬間、私の時間は止まる。いわゆるタイムストップ的なものではなく、射精の時間と比例して自分の時間がのびる。割合にすると、だいたい一秒が十分。九秒が平均的なタイムと言われているから、九十分。約一時間半が私に与えられた時間ということになる。
 その間に私はペニスを抜いて着替えを済ませ、男の財布から札をすべて抜き取ってホテルの部屋を出る。エレベーターで一階に降り、フロントの前を通過してホテルを後にする。
 今回の男の持ち金は三万五千円。さっきの男の四万二千円と合わせて七万七千円。悪くない金額だった。
 タクシーで赤羽の自室へ戻ると、私はベッドの上でオナニーをした。巨根の横にクリトリス刺激用の触角のようなものがついたかなり本格的なバイブを使用する。アマゾンで五万ちょっとくらいした。仕事の後はいつも性欲が溜まっている。中途半端に終わった性交の代償的な行為だ。イクとこまでイキたいのだが、それができない。
 私の時間にしてみれば、男は永遠とも思える時間射精し続ける。男にとってもわずか九秒ほどの出来事なのか、それとも私とおなじく感覚的時間が引き延ばされているのか、訊いてみたことがないから分からない。とにかく私は自分の仕事を済ませるだけだ。 男たちから快楽を得た分の対価を頂戴して、その場から立ち去る。私が部屋を出る時、たいてい男たちはまだほぼ同じ体勢のままペニスの先から精液を出し続けている。ゆっくりとごく少量ずつ。こっちを振り返っているのもいる。私の消失に気づいた男だ。──ホテルの部屋を出ると、すべてが滞りなく推移している。私の中に射精した男の時間だけが引き延ばされている。
 性器の奥から汁が何度か噴出し、私はイキ果てる。上半身と尻がぶるぶるッと痙攣し、快楽がゆっくりと後退していく。ティッシュで股間を拭き、バスルームでシャワーを浴びた。
 最初に気づいたのは、私がまだ高校三年生の時のことだった。当時交際していた一つ年上の浪人生とカラオケに行って、そこで押し倒されて犯されそうになった。スカートを捲り上げられて下着の隙間からペニスをねじ込まれ、あまりの痛みに泣き出した私の中に彼は射精した。その瞬間、彼の動きが停まり、顔が硬直した。何が起こったのか分からず、一瞬私は彼が死んだのかと思った。一言も発せず、視線は前方の一点を見つめたまま動かない。
 おそるおそるペニスを引き抜き、置物と化した彼の身体の下から這い出した。ペニスの先からは白濁した液体がよだれのように垂れている。テーブルの上にあったおしぼりで性器を拭い、パンツとスカートを元通りの位置に戻すと鞄を持って部屋を出た。そして、駆け抜けるようにカラオケ屋を飛び出すと停めてあった自転車に乗ってうちに帰った。
 彼から連絡が来たのは、二時間くらい後のことだった。電話が何度か鳴り、画面を見て出ないでいるとメールが送られてきた。
──なんだよ。急にいなくなって。
 返事をしないでいると、また五分後くらいに送ってきた。
──気持ち悪ぃな。幽霊みたいに消えんなよ。生きてんだよな?
 レイプしておきながら心配している。よく言えたものだ。
──生きてるし、気持ち悪いのはそっちでしょ。急に電池切れたロボットみたいに固まって。
 すると、数分後に彼はこう返事を寄越した。
──こわっ! なに言ってんの? いや、もう別れよ。
 分かった的な返事をして、彼とはそれきりになった。
 私の中でその体験は大きな謎として残り、その一年半後にまた同じようなことが起こって、こんどはむりやりとかじゃなかったから下着やら服を着て、相手が動き出すのをじっと待った。すると、一時間後くらいから徐々に動き始め、ペニスの先から何も出て来なくなると完全に元に戻った。
 ああ、これは前と同じなんだと私は思い当たり、相手に話を聞くと射精した瞬間、私の姿が搔き消えたということだった。それで気づくと服を着て目の前にいた、と。
 私の性器にはどうやらそういう能力が備わっているらしい。射精した男の時間を引き延ばし、その時間を相対性な時間から孤立させる。たとえば、電車に乗っていて、同じ方向に進んでいる別の電車を窓から眺めているとする。速度が同じときは止まって見える。しかし、自分の乗っている電車だけが急停車したとすれば、相手側の電車は一瞬で急加速して目の前から消えたように見える。
 男の時間が遅くなったのか、私の時間が速くなったのか、それとも男の時間が速くなったのか、私の時間が遅くなったのかよく分からなかった。
 時計を見ればその答えが見つかるかもしれないと思って、実際、男がゆっくりと射精し続ける間、私はちらちらと時計を見ていた。そのようにして、私は男が動き始めるまでの約一時間という時間を計った。しかし、そこで妙なことに気づいた。
 いやに、時計の時間が進むのが遅いな、と。
 私の部屋のベッドでその時はセックスをしていたのだが、そこには壁掛け時計とテーブルの上のデジタル時計がある。壁掛け時計の方は秒針がないからよく分からないが、デジタル時計の方の秒の進み方がいやにゆっくりしている気がした。もちろん感覚的なものだから絶対というわけではない。でも、それでも一秒ってこんなに長かったっけというような明らかに遅々とした進み方だった。
 もし私の感覚的なものが正しいのならば、男の時間が加速したのではなく、私の時間の進み方が遅くなって、ものすごく俊敏に動けるようになったということになる。
 自分でもよく分からなくなってきた。
 でも、たぶんこういうことだ。
 時間というものは相対的なものだから、どこかに基準を定めなければならない。ここだと時計時間だ。仮にそれを十秒とする。
時計時間 十秒
男時間   一秒
私時間  百秒(一分四十秒)
 でも一秒で射精が終わる男は稀で、実際にはだいたい五秒から十五秒の間くらいだ。となると、男時間で平均の十秒だと、
時計時間 百秒(一分四十秒)
男時間 十秒
私時間 千秒(十六分四十秒)
まとめるとこうなる。

 時間の経過が男は速まり、私は遅くなっている。
 男からしてみれば、時計は十倍速でぐるぐる回り、私は百倍速で目にもとまらぬ速さで動いている。
 私からすると時計の針はゆっくりと進み、男は時間を停められたかのように見える。
 私と男以外の人から見ると、男はゆっくりと緩慢に動き、私はかなり素早い動きで行動している。
 おそらくこれが私の膣に男が射精したときに起きる現象だと考えられる。ちなみに男がコンドームをつけたときどうなるか試しにやってみたことがあったのだが、その時は何も起こらなかった。生で中出しをしないことには起こらないということらしい。男の精子と私の卵子が直に接したときに、何らかの原因でこの現象は引き起こされる。

             ☟

 私は機会をうかがっていた。ある人物と接触する機会を。
 その人物はXという。名前はまだ知らない。だが、男であることは分かっていて、この人物に殺された人を私は少なくとも三人知っている。これを読んでいる皆さんも知っている。なぜなら、三人とも有名な芸能人だからだ。Mという俳優とTとAという女優。公けには自殺したことになっているが、これは事実ではない。Xに殺されたのだ。理由は簡単だ。Aが知っていることをMに伝え、さらにMがTに伝えたからだ。彼らは社会的にも認知度の高い人たちだったから、それを世の中に公表すれば大きな反応が返ってきていただろう。しかし、その前に口封じのために殺された。自宅での自殺という形で。
 Xの話はゆうきから聞いた。ゆうきというのは私の年の離れた弟で高校を一年で中退してフリーターになり、いま一緒に住んでいる。三日に一度くらいは帰ってきて、たまに女を連れてくることもある。
 ゆうきの話によると、まず発端となったAが入っていた宗教団体がとにかくヤバいらしい。聖奴イグナチオロヨラ教会というキリスト教カトリック系の団体らしいのだが、教祖のヨハン福澤という百五十キロ以上はあるデブ禿げ眼鏡が信徒の女性たちとやりまくっているとのことだった。閉鎖的な宗教団体にありがちなことで、幹部たちもそのおこぼれに預かり、もうほとんどその目的で入信してくる者が後を絶たないそうだ。そうなると、女性信者が慢性的に不足し、その解決策として慈善事業と称して家出少女たちの保護活動を始めた。家出少女たちは寝起きする場所とフリーWi-Fi、スマホの充電設備、温かい食事と飲み放題のジュースやコーラを与えられ、とりあえず安心する。にこやかな顔で接してくる信者たちに対して、はじめはスマホをいじり続けていた少女たちも次第に心を開き始める。
 Aは教団の広告塔になり、聖書の言葉の研究と祈りの実践という耳当たりのいい言葉を撒き散らして、芸能活動の傍ら日々信者の獲得に励んでいた。
 ゆうきの連れてきた女というのがその教団から抜け出してきた人で、教祖他幹部数名や他の信者からセックスを強要され、拒絶することができずにやられまくってしまったそうだ。もし逆らえば、何時間も部屋に閉じ込められ、聖書の実践教習というのをやらさせられる。これはとにかく聖書をノートに書き写すという作業だ。聖書というのはとにかく長い本で細かい字でびっしりと書かれているから、何日もかかって数ページしか進まない。祈祷という名の拷問も課せられる。イスラム圏の人のように床に額を擦りつけて、何度も何度も聖書のお題目を唱えさせられる。
「え、それやらなかったらどうなるの?」
「むりむり。もう否定とか口答えできる雰囲気じゃないんだって! もうやらざるを得ない空気になる」
 たいていの人はそれらの仕打ちの波状攻撃で、精神を病み、弱くなって選択肢が頭の中から消え、セックス地獄へと戻っていくそうだ。信者や幹部の男たちが入れ代わり立ち代わり彼女の身体を貪る。
 ゆうきはSNSを通じて彼女と知り合い、話を聞いて、抜け出したいという彼女の言葉を信じて文字通り強奪してきた。それは大きな危険を伴う行為だったが、ゆうきはそれをやってのけ、バイクの後部座席に彼女を乗せてここまで帰ってきた。
「で、ちなみにさ、あんたはこの子とセックスするの? しないの?」
 ゆうきは軽く首を横に振った。
「今後の関係性によるだろうね。いまはしない。だって、俺はこの子の恋人じゃないから」
 優等生然とした答えで、私としては面白くなかった。
「恋人じゃなかったらセックスしないの?」
「そんなこたぁないけど、お互いにしたいって思ったらじゃない?」
「じゃあ、したくてしてたらOKなんだ?」
「そりゃそうだろ。まあ不倫とか生徒と教師とか倫理的にダメなパターンもあるけど」
 セックスは倫理的な行為ではない。私と男たちもセックスはするが、相手が既婚や子どもがいるパターンもあるだろうが、そこまでは聞かない。そんなことには興味がないからだ。
 そう考えると、様々な段階のセックスがあることが分かる。

①私と男たちのようなどこの誰かも分からない状態でセックスをする。
②知り合いや友人などある程度相手のことが分かっている状態で性欲と流れでセックスをする。
③恋人や夫婦ではないが、恋愛感情や情愛を持った人同士がセックスをする。
④恋人や夫婦だが、情愛はない状態でセックスをする。
⑤恋人や夫婦が情愛がある状態でセックスをする。

ここで問題になってくるのが、性欲と愛情と関係性の問題だ。
①は性欲10。(私からするとお金10)
②は性欲8愛情2。
③は性欲5愛情5。
④は性欲2関係性8。
⑤は性欲3愛情4関係性3。
だいたいこんなもんだろう。
 しかし彼女が教団の中でさせられていたセックスは、このいずれでもない。強いて言えば、④が一番近いだろう。関係性の中でのセックス。教団の論理がその関係性を作り上げている。

 さて、皆さんはどんなセックスをしていますか?


皆さんは

[了]

2023年03月12日

短編小説14 里英子のこと



 目が覚めたときそこに里英子の姿はなく、家の中に気配もなかった。どこに行くとかは聞いていなかったから、おそらく近所のスーパーかコンビニ、ドラッグストアにでも行っているのだろうと思った。
 ソファから起き上がりダイニングの壁掛け時計を見ると七時過ぎで、ずいぶん長く眠り込んでしまったようだった。
 テレビを点けると夜のバラエティー番組が始まっていて、出演者たちの大きな笑い声やナレーターの大袈裟なセリフがテロップと共に飛び込んできた。リモコンを手にしばらくザッピングした後、NHKのニュースにチャンネルを合わせた。そして台所にビールを取りに行く。まだストックはだいぶある。この間まとめ買いをしておいたからだ。飲みたいときに常にそこにあるべきものがビールだ。しかもきちんと冷えていないと意味がない。飲みたい時になくて買いに行ったり、さらによく冷えていなかったりするとビールはその存在意義を根こそぎ失う。
 ソファに戻ってニュースを見るとはなしに見ながらビールを飲んでいると、現実感がすーっと薄れていく。魂が身体から抜け出し、テレビを見ながらビールを飲んでいる僕を天井から眺めているような気分になってくる。
 さっき冷蔵庫を開けた時、中には大したものは入っていなかった。賞味期限の切れかけた納豆とヨーグルト、牛乳と二リットルペットボトルのお~いお茶、チルド室の中にはとろけるスライスチーズと油揚げ、六個入りの卵とヤクルトが四本、しば漬けのパック、それから缶ビールが七本。──里英子は夕飯の買い物に出かけていて、何かの事情で少し遅くなっている。そう考えるのが妥当だった。
 ビールを一缶飲み干すと、僕は先に風呂に入ることにした。里英子にとってもおそらくその方が好都合だった。湯船に湯を張り、待っている間に洗い物をした。
 服を脱いで浴室に入り、湯船に身を沈めると思わず声が洩れた。湯が身に沁みてくる感じがした。年を取ったなと思った。
 もう四十になるのだ。来月で四十。人生八十年とすればちょうど折り返し地点。七十代で亡くなる人も多いから、実際はもう折り返しているのかもしれない。
 僕は下り坂を降り始めている。
 それは紛れもない事実だ。認めようが認めまいが、衰えつつあるのだ。
 里英子とは結婚して五年になる。交際を始めたのはさらにその二年程前で、僕らはまだ若かった。妻とはもともと小学四、五、六年生の時のクラスメイトで、十五年ほどの時を経て僕らは東京で再会した。それには長い経緯がある。道端や電車の中でばったりというわけではなく、ある意味必然的に再会した。
 僕が里英子とはじめて会ったのは小学四年生のときのことだ。新四年生になったばかりの四月のはじめ、僕は父親の仕事の都合で引っ越してきていて、一緒のクラスになった。
 里英子はまったく違う環境に投げ込まれ右も左も分からない僕をひどく気にかけてくれて、何かと面倒を見てくれた。五年生になってクラス替えがあっても同じクラスになり、六年生はそのまま持ち上がりだったから結局三年間同じクラスだった。六年生の最後の方は隣の席で、斜め前の里英子と仲の良かった女子(名前は忘れてしまったが)と三人でよく一緒に喋っていた。だが僕は学校というもの自体があまり好きじゃなくて、家で一人で本を読んでいることの方が好きだった。だから学校も休みがちで、仮病(体温計の先を指でこすって熱があると母親を騙していた)を使ってよく休んでいた。
 中学は二人とも同じところに行ったのだがクラスが分かれ、あの時期特有の恥ずかしさもあって学校のどこかで里英子に呼び掛けられたり会ったりしても聞こえない振り、気づかない振りをしてそのまま通り過ぎていた。入っていた運動部の部活が忙しくなってきていたし、しかも同じクラスの他の女の子を僕は好きになってしまっていた。
 中学二年の時に僕はまた父親の仕事の都合で大阪へ引っ越した。それ以来、里英子との接点は途絶えた。
 風呂から上がると、僕は寝巻き替わりにしているスウェットを着て、また冷蔵庫から缶ビールを出してきて飲んだ。
 今から考えると、様々な事情があったにせよ随分残酷なことをしたものだ。あの頃、里英子は僕のことが好きだったのだ。それはその言動からして分かり過ぎるほど分かる。わざわざ遠くから声を掛けてきたり部活の練習を見に来たりもしていたし、それこそ全力でアピールしていた。あの頃の僕も分かっていて、敢えて無視していた。同じ部活の同級生が里英子のことを好きだと言っているのを聞いたというのもある。だが、そんなものは言い訳に過ぎない。僕はとにかく里英子にひどいことしたのだ。

             *

 僕らは小学校のクラスメイトだった。席が隣同士だったこともあるような。そんな夫婦はそうそういるものではないだろう。全国を探せばいくらかは見つかるだろうが、おそらく千組に一組もいない。
 僕らは意図的に再会した。意図的にという言い方が正しいのかどうかは分からないが、同窓会とかそういうのではなく、つまり僕が卒業名簿を見て手紙を出したのだ。
 きっかけは古田という僕の友達だ。五、六年生の時のクラスメイトで、放課後によく一緒に遊んでいた。だが、中学に上がる時に家庭の事情で横浜に引っ越し、その後も年賀状のやりとりだけは細々と続けていた。上京して間もない頃、僕はその古田に連絡を取って会うことになった。
 古田の家に行って二階にある古田の部屋で飲んでいるうちにクラスの話になり、里英子のことが話題にのぼった。はっきりとは言わなかったが、古田もひそかに里英子のことは気になってはいたようだった。そして酔った勢いで卒業アルバムを引っ張り出してきて、最後のページにある住所一覧の里英子の住所に手紙を送ってみようということになった。一緒に調子よくいい加減なことを書き、最後に連名で古田と僕の住所と電話番号を書いて帰り際に駅前のポストに投函した。
 翌日、二日酔いから覚めると猛烈な後悔が襲ってきたが、もうあとの祭りだった。正確に何を書いたのかすら覚えていないし、古田の手前もあってひどくふざけたことを書いてしまった気がする。だが、僕はひそかに返事が来るのを期待していた。
 しかしいつまで経っても来ず、一ヶ月、二ヶ月と過ぎていくうちに次第に僕は手紙を出したことを忘れていった。古田ともそれ切りになっていて、あの日の記憶は日常の中に埋没していった。
 そして半年あまりが経過したある日、僕は自宅のポストの中に里英子からの手紙を発見する。心臓の鼓動が高まり、後頭部に血がドクンドクンと流れるのを感じた。自宅に入り、震える手で手紙を開封した。便箋が三枚ほどきれいに折りたたまれていて、そこには都内の文具会社に勤めていて埼玉の蕨に住んでいるという現状と、あの手紙が実家に届いていてびっくりしたとかそんなことが書かれてあって、最後に住所と携帯の電話番号とメールアドレスが書かれていた。
 僕はほとんど勢いで里英子の携帯に電話をかけた。だが電話はつながらず、僕は留守電にメッセージを吹き込んだ。
 一時間後くらいに見知らぬ番号から電話がかかってきて、出ると里英子だった。
 およそ十五年ぶりのぎこちない会話を五分ほど続け、しりすぼみに話がなくなってきて気まずくなり電話を切った。そしてこのままではマズいと思い、僕は手紙に書かれていた里英子のメールアドレス宛てに、電話のお礼と緊張し過ぎて全然上手く喋れなかったことを書いて送った。すると五分もしないうちに返事が来て、私も同じだったというようなことが書かれていた。僕は安心してまたそのメールに相応と思われる返事を書いて送り、またそのメールに丁寧な返事が来た。
 そのような感じでその日は終わったのだが、翌日の晩にまた僕は里英子にメールを送った。仕事中にあったことや昨日の感想やら、内容はともかく何か送りたいから送ったというようなものだった。返事はなかなかこなくてやきもきしたり後悔したりしたが、二時間近く待ってようやく返事が来た。中身は想像以上のもので、仕事上や日々のあれこれがとりとめもなくくだけた調子で長く書かれていた。僕も負けじとなんやかやあれこれと長文を書いて送り、それに対する返事が来てそれでその日は終わった。
 そんな調子で何日か夜のメールのやりとりが続き、僕はある日ビールの勢いも借りて、もしよろしければ今度一緒にご飯でも食べませんかと誘った。すると、やや間が空いたあと、喜んでと返事が来た。僕は思わずその場でガッツポーズをして返事を急いで書き、週末の土曜の夜六時に新宿駅の東口で待ち合わせをすることになった。
 そしてさらに思い切って、彼氏はいないの? とメールの中で直球で訊いてみると、一ヶ月ほど前に別れたばかりで、会社はおじさんと不細工ばかりでどうしようもないと返事が来た。自分が不細工の部類に入らないか心配になったが、十五年前の面影くらいは残っているし、少なくとも嫌いなタイプの顔ではないのだろうと自分を納得させた。
 当日、僕は自分が持っている中で一番おしゃれな格好をして新宿に向かい、約束の時間の三十分くらい前に東口に着いた。これ以上ないほどドキドキしながら待ち、約束の時間の十分前に彼女は現れた。
 あまりにも変わってしまっていたために、はじめ声を掛けられても分からなかった。斜め前に若い男がいたから、その人の連れかと思った。だが目の前に来て視線が合い、彼女が自分の名前を名乗ったところでようやく僕は彼女と認識した。化粧と髪型のせいだろう。ほとんど小学生の頃の彼女しか知らないのだから仕方がない。僕はあまり変わっていなかったらしく、すぐに分かったという。
 東口から歩いて五分ほどのところにある、前に友達と行ったことのある赤龍門という店に行った。ご飯が美味しくてお酒の種類も豊富で、なおかつ店内が薄暗くて雰囲気のあるこんなときにうってつけの店だった。
 メールのやりとりを散々していたこともあって最初の電話の時のようなぎこちなさはなく、わりとスムーズに話はできた。でも僕はまだ半信半疑で、里英子の友達か知り合いあたりが頼まれて代わりに来ているのではと疑ったりもした。だが、店に着いて席で向かい合って顔を正面から見ると、たしかに昔の面影があった。話の中での記憶のつじつまも合っていた。本人でしか答えられないことも口にしていた。
 お酒が入ったこともあって話はかなり弾み、二軒目も行ってダラダラと飲んでいるうちに終電の時刻が過ぎていった。店を出て二人で夜の新宿を歩き、途中のビルの階段に並んで座ったところでそういう雰囲気になり、僕らは口づけを交わした。
 結局三時間くらいかかって四ッ谷駅まで歩き、中央線の始発に乗った。里英子は京浜に乗り換えるということだったから秋葉原で降りた。送ろうかと声を掛けたが、もう朝だし大丈夫と断られたからそこで引き下がった。あまりにも早急に関係を進めたくなかった。
 僕は東京で東海道線に乗り換えて自宅に帰った。
 それから僕らは毎日メールのやりとりをしながらデートを重ね、都庁の展望台で夜景を見ながら告白をして、無事交際をスタートさせた。一年半後にプロポーズをして一緒に住むことになり、両家の顔合わせや結納をして半年後に結婚式を挙げ、籍を入れた。結婚旅行は宮古島へ行った。有休を五日間取って現地でレンタカーを借り、島の色々なところをゆっくりと巡った。
 子ども好きな里英子は子どもを望んだが、子宝には恵まれなかった。二人で産科に行き、不妊治療を受けたりもしたが結果は出ず、そのまま五年あまりが経過した。
 ある日、里英子は僕に離婚したいと言った。
 理由を尋ねると、子どもが欲しいからだと言う。
 あなたとの間には子どもはできない。だから、離婚して、他の人と結婚してその人との子どもを産んで育てたい、と。
 不妊治療ではどちらの側に原因があるのかは、はっきりしていなかった。
 そうか、としか言いようがなかった。
 できればあなたとの子どもを産んで育てたかった。でも、それが無理でも、どうしても子どもを産んで育てたい。このまま歳をとって産めなくなるのが怖い。産めないまま一生を終えてしまうのが怖くてしょうがない。

 翌日、僕らは市役所で離婚届を書き、提出した。
 里英子は実家に帰り、そこで地元の男と二年後に結婚した。
 僕は独身で、交際している女性はいるが結婚するつもりはない。
 里英子にとって僕という存在はいったい何だったのだろう。
 いまだにそれがよく分からない。



[了]

2023年02月26日

短編小説13 園子の叫び



 岡田園子は不織布マスクを二枚重ねに着け、さらにフェイスシールドも装着し、雨合羽に医療用のゴム手袋という万全と思われる態勢で外に出た。買い物に行くのは週に二日。買い物客の少ない月曜と木曜の夜八時過ぎと決めていて、それ以外の日は外に出ず家に引き籠っている。
 都内にある会社もコロナ対策として出勤を拒否し、完全なリモートワークに切り替えてもらった。その代償として会社側が出してきたのは給与の半額カットという厳しい条件だったが、感染者が何万人といるウィルスの巣窟のような都内に危険を冒して行くよりかは全然ましだった。しかも、その通勤途上には満員電車という悪夢のような状況が待ち構えている。ウィルスを保持している人が何十、何百人もいると思われる電車の中で、それらの人たちと長時間密着するなどという行為は自殺行為に他ならなかった。電車はさながらカクテルのシェイカーのようなもので、ウィルスを蔓延させるために多くの人を中に詰め込んで日々振られているのである。
 黒い雨合羽のフードを被ると、フェイスシールドと額のあたりでぶつかり、顔はほとんど見えなくなる。船外活動をしている宇宙飛行士か原発の除染作業員のような感じになり、性別も分からなくなる。道を歩いていると、夜の散歩に出てきていた近所の犬が吠え、リードを引いていた飼い主はギョッとする。その異様ななりは、まるで亡霊か怪人のようで、夢にでも出てきそうだった。
 スーパーに入るとあらかじめ書いてきておいたメモをもとに素早くカートの中に商品を投げ入れていく。他の買い物客と最低でも四メートル以上の距離を取り、通路にいた場合は迂回して回り込み、欲しいものの棚の前にいた場合はその人間がいなくなるまで遠くから注視して待つ。
 もし咳かくしゃみでもしている人が居ようものなら、急いで逃げる。飛沫が何メートルもの距離を軽々と跨ぎ越えて飛んでくる。手やら顔やら服やらに付着し、それが目や鼻や口に入ったり吸い込んだりすればもれなく感染する。恐ろしい。実に恐ろしい。もはや外は弾丸の飛び交う戦場となんら変わりはない。
 レジでお会計をする時にも注意が必要だ。店員はマスクかフェイスシールドをしているが、至近距離で向き合う形になり、もしその男性なり女性店員がコロナ陽性者であれば、感染リスクは免れない。小銭や紙幣にもウィルスが付いているかもしれないから、いつもカードでお会計をする。
 袋詰めをするところではまず大きめの除菌シートを敷き、使ったカードを念入りに消毒し、持参した透明ビニール袋の中に買ったものを入れていく。可能な限り素早く。そこらへんにウィルスが無数に飛散していて、それがどんどんどんどん自分の着ているものや靴や買ったものに付着してく。
 そんな園子を親類縁者や会社の同僚たちは過剰だとあざ笑ったが、身近に感染者や重症者が出はじめると彼らの陰口もトーンダウンしていった。

          *

 ダイヤモンドプリン号から始まった日本のコロナパンデミックも約三年半が経過し、2023年5月7日(日)を園子は迎えた。
 新型コロナウィルス感染症が、感染症法の二類感染症から五類感染症へと変わる前日である。
 二類から五類へ変わるからといって、コロナが死滅するわけでもない、と園子は考えていた。おそらくコロナはインフルエンザ同様、毎年のように流行し、収束し、流行しといった波を繰り返しながら、何十年、何百年と生き続けていく。
 国内で四十人感染!! と新聞の一面にでかでかと載っていた頃よりかは今の方が流行っている。しかし、国は、日本政府はインフルエンザ並みの五類に落とすと決め、明日からもうそれが施行されようとしている。
 MHKは夜の11時を回った渋谷の様子を中継していて、スクランブル交差点には多くの人とDJポリスとマスコミが集まり始めていた。皆マスクをつけ、中には二重三重にしている人もいる。フェイスシールドに防護服といった園子のような恰好をした若者もいて、多くの報道陣に囲まれていた。
 大阪の道頓堀や福岡の博多にも中継がつながり、多くの若者が詰めかけて渋谷と同じような興奮状態で時計の針が午前0時を回るのを待ちわびていた。
 東京郊外にあるキャンプ場ではキャンプファイヤーが用意され、大きな火柱を上げていた。0時になった瞬間、ここにいる百人ほどの人たちが一斉に自分が着けているマスクやフェイスシールドを外し、火の中に投げ入れるとのことです、とリポーターが解説していた。
 そんなのを見ていたら、園子の気持ちは揺らぎ始めた。
 コロナは終わらない。
 でも、コロナ騒動は終わる?
 インフルエンザと一緒?
 子どものころからインフルエンザは冬になると流行っていた。でも、マスクをつけている人なんてほとんどいなかった。マスクを着けているのは、風邪かインフルエンザにかかった当の本人だった。他の人にうつさないためか、単なる習慣か、喉が潤うからか理由はよく分からないが、数少ないマスクを着ける人の理由はそんなところだった。
 口元や鼻にコンプレックスがある人が着けるようになってきたのは、ここ数年のことだ。特に女性でそういう人たちが一定数いた。マスクを着けているとそのコンプレックスが解消され、美人に見えるのだ。それは一度始めたらやめられない麻薬のようなものだった。
 園子も正直そういった部類に入る。風邪をひいた時にマスクを着けていると、男性の態度や顔があからさまに違った。目や口元が小躍りしていて親切にしてくれたりする。ああ、自分はいま美人に見えているのだろうな、というのが相手から伝わってくる。
 これはやめられない。
 でも、やめるなら今しかない。
 このタイミングを逃したら、この先もずっとこの引きこもりのような在宅人生を続けることになるだろう。
 まだ三十代だし、結婚もしたいし、子どもも欲しい。
 園子がこんなにもコロナを恐れたのは、死にたくなかったからだ。佐村けんが死に、岡尾久美子が死に、千葉真二が死んだ時点で、そのおそれは恐怖に変わった。
 もともと気管支が弱くて、子どものころは喘息持ちだった。大学生の時に風邪をこじらせて肺炎にかかり一週間ほど入院した。インフルエンザ予防接種を受けて死にかかったとこもある。打った日の夜に四十度の熱が出て救急車を呼んだ。白血球の値が異常に上昇していて、血液に炎症反応があった。その時医者から免疫機能が過剰に働く体質なのだと言われた。今後は予防接種の類いは受けない方がいい、と。
 コロナは終わっていない。
 でもインフルエンザは子どものころからあったし、これからも続く。コロナも続く。今の子どもたちが大人になる頃には「コロナがはじめて流行って、世界中大パニックになったんだって」「え? コロナで? それまじウケんだけど」的な会話がなされることだろう。
 テレビの右隅に表示されている時計が午後11時59分になり、渋谷や博多、道頓堀ではカウントダウンが始まった。

 十! 九! 八! 七……!

 園子はコタツの中でじっと自分の手を見た。

 四! 三……!

 両手を堅く組み、祈るように目を閉じる。

 ……一!

 夜空にマスクが舞い、花火が派手に上がり、キャンプファイヤーの火が躍り、大阪では何人かの若者が川に飛び込んだ。

 園子は
ヺぉぉぉぉー!!
 と叫んで立ち上がり、家から飛び出しましたとさ。



[了]

2023年02月12日

短編小説11 悪い子




 わたしには二つ下の妹がいる。というより、いた。
 なぜ過去形なのかというと、もう死んでしまったからだ。
 わたしとわたしの家族が寄ってたかって殺した。
 これはその妹の話になる。どうか警察には言わないでほしい。警察が動いて調べられると、とても困ったことになる。だからそれだけは守ってほしい。

 妹はかおるという名前で、利発でとても頭のいい子だった。近所の公〇式に通って幼稚園の年長さんの時には小学校二年生までの漢字と掛け算割り算までマスターしていて、俗に言う神童、天才少女と呼ばれていた。顔もなかなか整っていて、テレビで子役でもしたら人気が出ていたのでないだろうか。
 口もうまく、わたしなどは口喧嘩でよく言い負かされていた。相手の弱いところを確実に突いてくる。たとえばわたしは箸を使うのが苦手で、よく食べ物を落としていたから、「あなた外人さんですか? 日本のお・は・し・使えますか?」と落すたびに言われた。
 そんなことを言うもんじゃない、と父などはたしなめていたが、本気ではなかった。かわいい顔と声で言われるとつい笑ってしまって、公平ではいられなくなるのだ。
 かおるが小学校へ上がると、たちまち学校中の人気者になった。口がうまく、顔もいい子はどこにでもいるわけではない。勉強の先取り具合はさらにエスカレートしていて、六年生までの漢字や算数にいたっては小学校の学習する分はとっくに終わって方程式の計算まで進んでいた。
 同学年はおろか中学年や高学年の子ですらかおるの頭にはついていけず、「ガキの遊びには付き合い切れない」とかおるは彼らを見放して勉強にいそしみ、休日には公〇式で仲良くなった中学生の友達と渋谷へ遊びにでかけたりしていた。
 妹に一度尋ねてみたことがある。
「なあ、お前さあ、俺のことどう思ってんの?」
「バカ。単なるバカ。二年ばかし先に生まれただけでいばってるかわいそうな男」
 ムカついたわたしは、かおるの肩を殴った。
「いって! 暴力男。あたまが弱いから、そうやって暴力をふるうしかないって、とことんかわいそうな男だねぇ。今のだって暴行罪が成立するから、バレたら少年院行きだよ」
「しょうねんいん?」
 かおるはしきりにわたしに殴られた肩を擦りながらニヤっと笑った。
「少年院っていうのはね、あんたみたいな子どもが行く刑務所のことだよ。そこでは鬼のような大男の教官がまいにち怒鳴って暴力をふるって、あんたみたいな子どもたちをちゃんとした人になおすようにしてるんだよ」
 わたしは恐怖に震えおののいた。妹に殴ったことをバラされれば、その少年院とやらに行かなければいけなくなる。
「ごめんなさい。もうしないのでゆるしてください」
「は? それだけ? 普通さ、もうちょっと謝り方っていうのがあるんじゃないの?」
 言われていることの意味が分からず、わたしはぽかんと口を開けた。
「土下座だよ! ど・げ・ざ!!」
 テレビドラマで見たことがあった。あれをすればゆるしてくれるのかとわたしは気づき、すぐに膝をついて身体を折り曲げて額を床に擦り付け、「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」と三度お祈りのように唱えました。
「いいよ。分かればいい」
 顔を上げると、妹は笑っていて、その時はまるで神様のように見えた。

              *

 妹は四年生になると、中学二年生の男と付き合い始めた。開〇中学に通っている背の高いハンサムな男で、東〇大学の医学部を目指しているとのことだった。
「あんたたちみたいなバカどもと違って、先の先まで計算してんのよ。人づきあいが苦手だから、臨床医じゃなくて研究医を目指すってさ」
 当時小学校六年生だったわたしは何のことを言っているのか分からず、ただ「へぇ、すごいねー」と返すしかなかった。
「わたしも東〇大学を目指すんだ。まあ、いまのあたしの成績だと余裕だろうけど、まあ日本中から天才たちが集まってて、そこで埋もれちゃうわけにはいかないから、もっともっと勉強してトップで受からないと意味ないってわけ」
「へぇ、そうなんだ」
 わたしにはどうでもいいことばかりだった。いまハマっているゲームと今日の宿題と友達との遊ぶ約束くらいしか頭の中にはなかった。
「ま、あんたに言ってもしょうがないし、まあ時間の無駄ってことは分かってるんだけどね。でも、一応言うだけ言ってみた。なんでか知らないけど、あんたはわたしの兄貴なわけだし」
 こっちが教えてほしいくらいだった。なんでかおるはわたしの妹なのか。どこをどうとっても似ても似つかないじゃないか。
「犯罪とか事件だけは起こさないでよね。あと自殺もね。犯罪者や自殺者の妹って知られたら、結婚とか就職とかに影響してきちゃうから。迷惑だからやめて」
 小学校六年生というのは、そういうことが分かるギリギリの年齢だった。妹がそう考えていると分かって、わたしはショックだった。わたしが犯罪者になったり死んだりしても、妹には〝迷惑〟なだけなのだ。
「お前こそやめろよ。その東大野郎と変なことするなよ」
 わたしは普段はそういうことは言わない大人しい性格なのだが、ショックのあまりそう口走ってしまった。
「変なことってなに?」
 そこまで考えてはいなかった。
「……変なことって、……エロいことだよ。セックス! セックス!」
 セックスというものがどういうことなのか、当時のわたしには具体的には分かっていなかった。だが、言葉だけ聞きかじってはいて、エロいことの頂点みたいなものだというただそれだけの認識だった。
 妹は顔を真っ赤にして絶句し、何か口ごもって言いかけたあと止めて、立ち上がってどこかへ行こうとした。
「赤ちゃんつくるなよ。セックスすると、赤ちゃんできちゃうぞ!」
 セックスという男女がはだかで抱き合ったりキスをしたりすることによって、女の人のお腹の中に赤ちゃんができるということが、当時の保健体育の教科書には載ってた。
 早熟だった妹は、開〇中学の彼とまさにそれをやろうとしていたか、やったあとだったのだろう。肩と上唇を小刻みに震わせ、赤くなった顔が今度は白く青ざめていた。
「ばぶー! ばぶばぶばぶー!」
 あの憎たらしい妹をはじめてやりこめたという快感が、わたしの行動をエスカレートさせた。
「おっぱい出ますかねー? かおるのおっぱい飲めまちゅか?」
 左頬に強烈な平手打ちが飛んできた。耳がキーンとするほどクリーンヒットし、わたしは頬を抑えて妹を睨みつけた。
「てっめぇ! ぶっ殺すぞ」
 怒りに燃えたわたしは、妹の脇腹に渾身のグーパンチを見舞わせた。
「いったぃ! 痛いよぉ!」
 妹はそう絶叫し、耳をつんざくような高い声で泣き始めた。口ではかなわないが、体格では男女差もあって私の方がはるかに勝っていた。
 すぐに泣き声を聞きつけた母親が部屋に飛び込んできた。
「お兄ちゃんに殴られたぁー!!」
「違うわー! お前が先に手出してきたんだろーがー!」
 言い返したわたしが母の顔を見上げると、その両目はこれ以上ないくらい怒りに燃えていた。
「なにやってんのー! このバカがー!」
 母は基本的に妹の言う事を信じる。後頭部を母に叩かれ、わたしはその残酷な現実を思い出した。
「お腹、お腹! 骨折れたー!」
 わたしの左耳もキーンという音が続いていて聞こえないままだったが、苦悶の表情を浮かべ、腹をさする妹の姿を見て、わたしはとんでもないことをしてしまった気になった。
「大丈夫? 救急車呼ぼうか?」
 母はかおるの背中を擦り、屈み込んでそう訊く。
「……もう、ダメかもしれない…」
 消えそうな声でそう呟くと、妹は床へごろんと転がった。
「かおる!」
 母は立ち上がると、居間のドアの下にある電話に飛びついた。
「……もしもし、……救急です。……十歳の子なんですが、兄に腹を強く殴られて……もう死にそうな感じで……ええ、ええ……すぐに、……骨とか内臓まで……おそらく……ええ…」
 続けてうちの住所を母は連呼し、しきりに頭を下げながら電話を切った。
「かおちゃん! 救急車来てくれるって! だから、もう大丈夫! 大丈夫だからね!」
 そして、わたしに憎悪の視線を向け、こう言い放った。
「あんた、こんなことしたら少年院行きだよ!」
 少年院! またしてもあの恐怖の言葉が出てきた。
 救急車が来て、警察も一緒に来て、わたしはそのまま逮捕されて刑事ドラマのように取り調べを受け、少年院へ収容される。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
 涙が出てきて、わたしは母と妹に何度も頭を下げた。
「今さら言っても、もう遅い! あんたはもうおしまいなの!」
 床に転がったままの妹の口から、そんな威勢のいい言葉が飛び出した。
「ゆるしてください! もうしないから!」
 わたしは涙ながらに妹にゆるしを請うた。
「遅いっつーの、バカ!! 死んでからあやまれ!!」
 上半身を起こし、かおるはわたしを罵った。
 これにはさすがに母もギョッとして、視線はかおると私の間を行ったり来たりした。
「……かおちゃん、お腹の、骨は?」
 ハッとして母の顔を見て、「痛い! 折れてる! 折れてる!」と、再び床にころがります。
 程なくして救急車が家に到着し、床に倒れ込んでぐったりとしたかおるが救急隊員に脚と肩を持たれて運ばれていった。母も一緒についていき、そしてわたしは一人家に取り残された。
 ちょっと待てよ。これはいくらなんでもおかしいな。わたしを罵るとき、あいつは腹を押さえていなかったし、普通に起き上がっていた。
 たぶん骨も折れていないし、死にそうでもなかった。
 あいつは嘘を吐いてる。ずっと嘘を吐き続けてみんなを騙している。
 
              *

 かおるたちが病院から帰ってくると、案の定包帯もしておらず、聞くと軽い打撲で湿布を貼ってもらっただけとのことだった。
「お前、嘘吐いただろ」
 母がその場からいなくなると、さっそくわたしは妹にそう言った。
「は? なんのこと?」
 ここでひるんだら負けだ。こいつは勢いだけで誤魔化そうとしている。
「いや、骨とか折れてなかっただろ。嘘吐きやがって!」
「開き直ってんじゃないよ! 折れてはいなかったけど、ひび入ってたんだからね!」
 一喝され、わたしはそうだったのかとショックを受けた。たしかにあの時渾身の力を込めていたし、ひびくらい入っていたとしてもおかしくはない。
「まぢか。ごめんなさい」
「あんた、自分のしたこと分かってんの? バカじゃないの?」
「ひびなんてお医者さんから言われなかったけど」
 いつのまにか、わたしと妹の背後に母が立っていた。
「えっ、そうなの?」
「そう。軽い打撲って言ったでしょ。いやね。この子嘘吐いてんのよ」
 母はうすうす感づいていたのだと思う。嘘吐きのかおるに。
「ええーっ! 嘘吐きじゃん! 嘘吐き! きもっ、こいつ嘘吐き!」
 かおるは何か言い返そうと口ごもり、顔が真っ赤になっていた。
「……このアホ親子! あんたらは東大も入れなければ、高卒かどっかの変な大学出て一生貧乏のまま暮らせばいい。社会のゴミどもめ!」
 普段から思っていたことなのだろう。追い込まれて感情的になって、思わず口から飛び出したのだ。
「ちょっとそれは言い過ぎじゃない、かおちゃん」
 母はそう言ってたしなめましたが、聞く耳なんて持っていない。
「言い過ぎどころか、言い足らなさすぎ! お父さんも含めて、あんたがたアホ三人分の何倍も何倍もわたしには価値があるの! アホどもに嘘吐き呼ばわれされたって、痛くもかゆくもないんだけど」
 母の平手打ちが、妹の頬に炸裂しました。
「あんた! わたしとかのことはどうでもいいけど、お父さんのことをそんな風に言うのは絶対にゆるしませんよ!」
 息子のことはいいのかい、と心の中でツッコミを入れた。
「いった! いたいたいった! アホにアホって言っただけじゃない! 暴力振るってんじゃないよ。親子そろって。これ虐待だからね!」
 母はかおるの両わきをつかんで身体を持ち上げ、風呂場へと突進していった。わたしもうしろからついていって、母がかおるを浴槽に投げ入れ、風呂場のドアを閉めるのを見ていた。
「ごめんなさいって言うまで、出さないからね!!」
 そう叫んで、タオルがかかっていた突っ張り棒をもぎ取ると、ジャバラ式になっているドアの持ち手のところに斜めに突っ込み、中から開けられないようにした。
「誰が言うかアホ!」
 くぐもった声が中から聞こえてくる。
「っていうか、お風呂入りたかったところだからちょうどよかったー!」
 お湯張りを開始します、というあの女性の声が聞こえ、かおるはボタンを押したようだった。
「勝手にしなさい! 言うまで絶対出さないからね!!」
 母は洗面所から出て行き、わたしは中にいる妹に話しかけた。
「はやく言っちゃいなよ。お母さん怒ってるよ」
 返事はなかった。

 父が帰ってくると、母は事情と経緯を詳しく説明し、父もそれで納得したようだった。
「それはちょっとひどいな。ま、腹も減ってくるだろうし、そのうち謝るだろ」
 わたしはかおるの性格をよく知っていたから、これは長引くだろうなと思った。〝ごめんなさい〟とか〝ありがとう〟という言葉がこれまで妹の口から出てきたことはなかった。
 父と母は何度も風呂場の前に行き、かおるに話しかけた。
「謝りなさい。いい加減にしなさい!」
「いい加減にするのは、そっちの方でしょ! これもろ虐待っていうか犯罪だから、ここから出たら警察とかマスコミに言ってあんたがた逮捕されるよ!」
「一言謝ってくれればいいのよ!」
「アホをアホって言ってなんで謝んなきゃいけないのか、意味がわかりませーん」
 ずっとこんな調子だった。わたしはバカらしくなって寝た。
 翌朝起きると、父と母の姿はなく、風呂場のドアは開いていて中はからっぽだった。
 土曜日だったし、わたしはテレビをつけ、冷蔵庫から適当なものを出して食べた。
 父と母が帰ってきたのは昼過ぎで、わたしは居間のソファに横になってゲームをしていた。
「あれ、おかえり。どこ行ってたの?」
 二人とも白い顔をしていて、目だけが異様に血走っていた。
「ああ、ちょっとね」
「かおる──」
「親戚のところに預けてきたよ。ちょっとしばらく預かってくれるみたいなんだ」
「親戚?」
「長野に俺の遠縁のおじさんがいて、そこがちょうど子ども欲しがってたところだから」
 そんな親戚の話は聞いたことがなかった。
「かおるは……」
 わたしは言葉を失い、父と母の顔を交互に見て事情を察した。
 沈黙のまま半日が過ぎて夜になった。
 わたしたち家族三人は飯も食わず、風呂も入らず、布団に入ると長く深い眠りに落ちた。



[了]
 
2023年01月29日

動画(YouTube)


YouTubeに上げている小説×動画です。(1~6まであります)

増える可能性はありますが、あまり期待しないでください。

ZAZYのやっていたデジタル紙芝居的なのの小説版がやれればいいのですが……。

決め手に欠けるので、もっといい形がないか模索中です。

 

2022年08月28日

中編文画4 言葉は嘘を吐き、行動は真実を語る(完全版)



        1

 ああ、またやってしまった。
 ヴァギナから伝う白い粘液を右手の指先で伸ばしながら、わたしはひどく後悔していた。
 そもそもどこから間違ってしまったのだろう。よく覚えていない。何となく声をかけられて、面白そう人だなと思って一緒に飲んで帰ってきて、やって寝て起きたらその人はいなくなっていた。しかも昨日は危険日だったのに中出しされてしまった。連絡先も交換していないからどこの誰だかも分からない。

 

 わたしには結婚を約束した彼がいる。わたしより十個上の三十三歳で既婚者、三歳になる息子さんと奥さんがいて、離婚に向けて話し合いをしているところだ。大学卒業と同時に結婚する予定だから就職活動とかはしていない。結婚したら家庭に入って専業主婦になるか、どこかパートにでも出るつもりだ。
 冷蔵庫に入っていたミネラルウォーターを飲み、わたしは昨日寝た男の顔を思い出そうとする。でもそれは曖昧なイメージが浮かぶだけで像を結ばず、声だけが記憶の端の方に残っている。
「それってさあ、ヤバくない?」
 おそらく口癖なのだろうがこの言葉を何度かわたしは耳にしていて、その軽薄な口調が男の頭の悪さを物語っていた。
 外に出すと言っていたはずなのだが、結局男はペニスを最後まで抜かず、残らず中に出し切った。ああ、やられたとわたしは思ったのだが、頭が快感で麻痺していてうまく働かなかった。
「ああ、気持ちよかった」
 男は勢いよくペニスを引き抜き、感想を口にした。
「ちょっと中に出さないって言ったじゃん」
「あぁ、ミスった。ごめん」
 絶対に嘘だった。抜く気なんてさらさらなかったのだ。中で全部出し切ってやろうという強い意志が、男が股間を押しつけてくるその力に込められていた。
「まじ最悪なんだけど、これ妊娠してたらどうするよ?」
「よーく洗っときゃ大丈夫。精子なんて流れるって」
 そんな会話をしてるうちに眠くなってきて、いつの間にか寝落ちしていた。で、起きたら一人。男の痕跡は消されていて、わたしのびらびらの中の白い精液だけが唯一の残留物ってわけ。
──おはよう。来月ほほちゃんの誕生日だと思うんだけど、なんかほしいものある?

 

 スマホが鳴って、見ると藤島正直からそんなラインが届いていた。正直と書いて「まさなお」と読む。ほほというのはわたしの名前で、「帆々」と書く。帆船のように風に乗ってまっすぐに突き進んでいくという意味を込めたらしい。お母さんが言っていた。まっすぐかどうかは知らないが、とにかく突き進んでいってはいる。
──ちょっと寝起きで思いつかない。考えてまたラインするね。
 左手でティッシュを取ってびらびらを拭いながら、右手でそう打ち込んで送った。
 すぐに既読がつき、よく見るクマの陽気なスタンプが送られてくる。
 ティッシュの繊維がびらびらにくっつき、白いこよりのようなものがいくつかできる。ああ、面倒くさいな。時間が経って精液が乾いてねちゃねちゃになってこびりついてて、取れなくなってる。
 来週の土曜日に高崎に住んでいる向こうのご両親に挨拶をすることになっている。こっちの両親にはまだ言えていない。既婚者だの子供がいるだのと言えば、絶対反対するに決まっている。お母さんは泣くだろうし、お父さんは顔を真っ赤にして酒を飲んで怒鳴る。だから言いたくないし、言えない。
 あぁ、もう死にたい。生きていてもいいことなんて何もない。
 トイレに行って最終的にビデで洗い流し、うんこをする。三日ぶりくらいだ。こんなにすっきり出たのは。バナナ二本分くらいが、ずるずると出た。昨日バックでかなり激しく長く突かれたからだろう。そこで尻だか腸の中の固まっていたうんこがほぐれて出やすくなったのだ。そう考えると悪くない。便秘の時はバックで突きまくってもらえばいいのだ。そうすれば便秘も解消するし一石二鳥だが、あまりにも効き過ぎると、イったときに出てしまう気がする。そんな場合、男はどうなのだろうか。イきながらうんこを漏らさせたら、とにかく大変なことになってしまうことだけは確実だ。おしっこくらいだったらいいだろうが、うんこだとどうなるのだろうか。どこまでが興奮してどこからドン引きするのか、そのギリギリラインがどこにあるのかがちょっとよく分からない。

 

 そういえば、よく正直とするのが、おむつプレイだ。これはセックスの時に赤ちゃんごっこをするわけではなくて、大人の介護用のおむつを買ってきてそれをわたしが履いて、コンビニでレジのお会計中に漏らすというものだ。漏らすタイミングは正直から指示が来る。ちょっと離れた場所から見守っていて、ラインに「うんこ」とか「おしっこやや多め」とか指示が来て、スイカでとかペイペイでとか店員さんに言っている最中に指示通り漏らすのだ。でもわたしは便秘気味なので、おしっこの方は大丈夫なのだが、うんこが指示通り出せずにいつもイキんで終わりか、出たか出てないかくらいしか出せない。最悪の場合、長めの屁が出て終わりというパターンもある。それを見ながら正直はニヤニヤして股間をモッコリさせている。わたしも背徳感と公衆の面前で漏らしている恥ずかしさで頭がトロトロになって、乳首が固くなり、子宮がキューッとなる。皆の視線が密かに現在進行形でお漏らし中のわたしに突き刺さり、子供たちの甲高い声が店の中に響いている。
 まあ、そんなことを二人でよくしている。いい年こいた大人が、恥ずかしげもなく。
 うんこがすっきり出ると死にたいという気持ちもけっこうすっきり晴れていて、あぁ、ただの便秘だったのだなと思い知らされる。生きていてもいいんだなと感じる。

         2

 正直からラインが来て、高崎行きが延期になったという。理由はお父さんの血圧が上がったから。それが嘘だということはわたしでなくても誰にでも分かっていたことだけれど、とにかくOKと返事をしておいた。
 離婚もしてないのに、挨拶なんてできるわけがねえだろ。
 そんなことはもう分かって分かって分かり切っていたのだけれど、正直がそんなことを言い出すからわたしはそれに付き合ってあげなければいけなかった。で、どうするのかと思えば案の定延期。いったい何がしたいのかさっぱり分からないのだけれど、正直なりの何だかよく知らない理由があったのだと思う。わたしが喜ぶとか、離婚が実際は成立していないのだけれど既成事実化するとか考えたのではないだろうか。

 

「もうすぐ離婚するから結婚しよう」
「じゃあ、わたしももうすぐ卒業するからそのタイミングで」
 ラインでそんなやりとりをしてから数ヶ月が経つ。
 お互い嘘ばかりだ。大学なんて一生懸命勉強して二浪して入ったはいいけど、バカらしくなって途中から全然行かなくなり、単位も取れていないから卒業なんてできるわけがない。一緒の年に入った子たちはこの春で卒業だけど、わたしは五年生になることが決まっているばかりか六年生で卒業できるかもあやしい。七年生とか八年生まではいけるらしいが、そこで自動的に除籍になるらしい。おばさん大学生っていうのも悪くはないが、ますますバカらしさが募り、授業もレポートもゼミも茶番でしかなくなるだろう。親からもいい加減にしろと怒られ、仕送りも止められ、わたしは生きるために風俗で働くしかなくなる。正直の息子さんも大きくなり、高校生になって正直の言うことを全然聞かなくなり、家庭内暴力を振るうようになり、家の中がめちゃくちゃになって離婚なんて空気ではなくなる。もう終わりだね。君が小さく見える。正直がそんなことを言い出し、そのまま自然消滅してわたしは金なし風俗オババになる。
 大学の中に議論をするサークルっていうのがあって、大学生たちが何の責任もなく、ああでもないこうでもないとまるで現実的でないことを言い合うことに時間を費している。言い合った後はいつも飲み会があって、酒を飲んで飲んで酔って酔って酔っ払って、なにもかも分からなくなってその中の一人と寝てしまうこともある。この場合寝るというのは眠るという意味ではなく、セックスするということで、居酒屋の堀炬燵の中でことに及んだり、わたしの家のベッドでしたりする。性欲を掻き立てられた男とは、基本的にする。もちろん正直との関係もある。しかし、抗えないパターンが多い。流れができて、そういうモードになって、する。男たちはたいてい中出しをしたがって、わたしもいざその時になると中に出してもらいたくなるからそのまま受け入れちゃって、いつ妊娠するか分からなくてもうそれは恐怖でしかない。

 いったいわたしは何をしているのだろう?

 ふと我に返って、わけが分からなくなってそう思って死にたくなる時がある。正直は結局離婚も結婚もしてくれないだろうし、わたしはどんどん年を取って、そのうち仕送りも止められる。バイトなんてどれも長続きしなかったし、お金がないと生きていけないからもう死ぬしかない。でもわたしに死ぬ勇気なんてない。何度か試したけどダメだった。だから生きているしかない。生きているしかないのだが、生活は仕送りに頼っているからそれをずっと継続してもらうしかない。でもこんな暮らしがずっと続けば、わたしの頭はどうかしてしまう。脳がふやけ切って白子みたいになってその水分が抜け出て鼻をかんだ後のティッシュを丸めたものみたいになって、何も考えられなくなり、そこらじゅうの男たちに見境なくやらせまくって性病になってその毒が脳にまで回り、頭がおかしくなって死んでしまうだろう。

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 コンビニでビールを買った帰りにポストを覗いてみると、こんなチラシが入っていた。

 NPO法人ワーキングコーポレーション 学童クラブりく
 職員急募! 子供たちの宿題をみたり、遊びの相手をしたりする簡単なお仕事です。

 その他に時給やらシフト制で週二日からとか連絡先など書かれていた。一見した感じでは条件的には悪くない。

 

 へぇ、学童か。聞いたことはあるけど、実態はよく知らない。共働きの親が放課後の子供を預けておくところ、くらいの知識しかない。
 バイトでもしてみるかと思っていたところだったし、本当に子供たちの宿題をみたり遊びの相手をするだけだったら、わたしでもやれるかもしれない。わたし自身が性格的に子供なためか、昔から子供を相手にするのは嫌いじゃなかった。子供より、体面ばかり取り繕って嘘ばかり吐いている大人の方がよほど信用ならない。きっとわたしはいわゆる〝大人〟が嫌いなのだろう。大人的なものの拒絶の上に今のわたしが成り立っている。
 ビールを飲みながらそのチラシを五分くらい眺めていたが、なんだか自信がなくなるというか、現実的に考えられなくなってやっぱりやめておくことにした。
 NPOっていうのも最近やたら聞くけど、なんだかうさん臭い。営利目的じゃないってことだけど、だったら何を目的にしてるんだろう。とにかくよく分からないし、あまり関わりたくない。宗教とか絡んでるかもしれないし。
 でも、とりあえずバイトでも始めてみるか。半年くらい前にコンビニのバイトを辞めて以来働いていない。あそこはひどかった。オーナーが加齢臭キツめのデブおやじでわたしのことをずっとエロい目で見てたし、従業員になにかと難癖をつけてきてやたらと威張り散らしていてキモくなって一週間で辞めた。その前が牛丼家。入って四日目くらいに、熱々のお茶を運んでる最中に後ろから注文を受けて、振り返った拍子に手が滑って座って牛丼食べていたハゲのお客さんに頭からお茶をぶっかけてしまった。その人には謝り倒したが、でも心が完全に折れていて、具合が悪いからと早退してそれっきり。バイト経験はだいたいそれくらいで、もう働くこと自体が嫌になった。お金をもらうためにやりたくもないことを我慢して頑張る。それが働くということ。すなわち労働。なぜなら人間はお金がないと生きていけないから。働かないわたしが生きていけているのは、お父さんとお母さんが働いて得たお金を毎月仕送りしてもらっていて、携帯代も学費もここの家賃も光熱費も全部払ってくれているからだ。正直と結婚すれば、正直が働いて得たお金でそれらを払うことになる。わたしも働かなければそうなる。
 お金、お金、お金、お金。
 あぁ、お金さえこの世になければ、みんな幸せになれるのに。お金がみんなを苦しめている。お金がみんなを不幸にしている。諸悪の根源。世界中の人たちがこれに振り回されていて、みんながみんな不幸になっていく。

 
 そんなことを考えていると絶望的な気持ちになってきて、わたしは誰かと話したくなって目の前にあった学童クラブ職員急募の番号に電話をしていた。
「はい、学童クラブりくでございます」
 ほぼワンコールで男の声がそうこたえた。
「あのー、ちょっと働きたいっていうか、もう人生に絶望しちゃってて」
「はい? 絶望っていいますと」
「どの仕事してもぜんぜんうまくできなくて、彼氏ともウソだらけの関係で」
 電話口の男はしばらく絶句した後、こう言った。
「たいへんご苦労なさってきたんですね。一度、その、面接がてらお話を聞かせていただけませんか。うちの事業所というかワーキングコーポレーションというNPO法人は、職員でそういう方もたくさんいらっしゃるというか、むしろそういう方ばかりでして」
「え、そうなんですか?」
「ええ」と男は答えた。「実はわたしもその一人で、いろいろとワケありでして」
「って言いますと?」
「いやいや、長い話です」
 と言って男は軽く笑い、詳しくは面接の時に、ということになった。明日の十一時に面接を受けることになり、男は最後に広田と名乗った。
 あぁ、宗教だな、と直感した。
 宗教団体のフロント企業というやつだ。職員募集というテイを装って、行ったら宗教の勧誘をされまくる。集会へ来いだの偉い先生の講演会があるだの言われて、サクラだらけの密室へ連れていかれ、入信を迫られて入会書に署名捺印するまで帰れなくなる。
 わたしは、学童クラブりく、でスマホで検索をかけてみた。
 グーグルマップとホームページがヒットした。ホームページの方に行ってみると、子供たちが楽しそうに遊んでいる写真のバックに、学童クラブりく、というロゴが浮かび上がっている。入室説明会のお知らせやら学童保育の方針やら無難なお題目が並んでいて、その下にブログのページがあったから覗いてみた。
 クリスマス会や新年会、芋掘りなど楽しそうに職員と子供たちが戯れている写真が短いコメントと共に掲載されている。
 あれ? と拍子抜けした。普通じゃないか。
 おかしいな。変な儀式の様子とか偉い先生のデカい顔写真とか長ったらしい肩書きとか講話なんかが載っているかと思ったのに。
 いやいやいやいや、これはこれ。
 今度はワーキングコーポレーションで検索してみた。
 パステルカラーがまぶしいトップページが表われ、沿革やら運営方針やら、協同労働とか協同組合とかなんかよく分からない小難しい文言がだらだらと書いてあった。
 宗教っぽくはないが、そういう予防線を張っているだけかもしれない。いや、よく分からない。なんだかとにかくよく分からない。
 ためしに面接だけ行ってみようかな、と思った。さっき伝えた電話番号もデタラメだし、履歴書を持ってこいと言っていたが、そんなものを提出したら個人情報だだもれで、ばんばん電話がかかってきて出なかったら家まで押しかけて来られそうだから、書いたんだけど家にうっかり忘れてきちゃった的な感じにしよう。なんとかの集いとかなんたら先生の講演会とかに誘われても行かなければいい。行きます、行きます、絶対に行きます、と約束して行かない。興味を持ったふりをして、前のめりを装って安心させ、行かない。

 

 広田は慌ててわたしがさっき伝えた番号に電話をかけるが、適当に思いついた番号を言っただけだから、その番号は現在使われておりません、になるか、どこかの誰かにつながって、その人に開口一番もう集いは始まってるんですが、いまどこですか? もう時間過ぎてるんですけど、となじるが、あのー、どちら様ですか? と訊かれ、ようやく広田はその電話口の相手がわたしではないことに気づく。あの、すみません、失礼ですがお名前……? と聞いたところで児島だよ! と怒鳴られて電話は切られる。
 いける、いける。それで大丈夫だ。名前は伝えたが苗字だけだし、吉田という苗字は全国ランキングでだいたい十位前後で、八十万人くらいいるらしいからほぼ匿名に近い。
 あー、いいね。おもしろい。おちょくってやろう。新興宗教って、あんなバカげた話やら教義を信じ込ませるためにどう話を持っていくのか興味あるし。駅前とかで変なパンフレットみたいな新聞配ってたり、なんとか聖人がどうたらこうたらだのぶつくさ唱えているのを見てて、あの人たちの頭の中どうなってて、なにがどうしてああなったのだろうといつも思っていたからちょうどいい。

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 ジーパンにミッ〇ーのTシャツ、髪は後ろで黒ゴムでまとめてポニーテール、化粧は目元だけという自分史上もっともラフな格好でスマホのグーグルマップを見ながら行ったら、相手もジーパンに黒Tにジーンズ地のエプロン、つんつん立った伸びかけの坊主頭という負けず劣らずのラフな感じだった。ひどく痩せていて、目が大きく背が高い。年はだいたい四十くらいといったところだろうか。
「じゃ、ちょっとそちらへ」

 

 部屋はだいたい二十から二十五畳くらいで、壁際の棚におもちゃとかレゴブロックなんかが置いてあって真ん中ら辺に低いテーブルがいくつかとテレビが置いてある。
 左奥のテーブルに案内され、わたしは広田と向かいあって座った。
「こちらの責任者をさせていただいております広田と申します」
 エプロンについた名札をつまんでわたしに見せながらそう言った。
「吉田です。よろしくお願いします」
 わたしはそう頭を下げた。
「じゃ、すみません。履歴書を」
「はい」と私は頷き、自分のトートバッグの中を漁った。
「あれ? あれあれあれ?」
「どうされましたか?」
「ない。え?」
 さらに焦ったふりをしてがさごそまたバッグを漁る。
「書いたのに。昨日の夜書いたのにー!」
「あ、忘れてきちゃったんですかね?」
「あっ、もう! あそこだ。テーブルの上!」
 そう言ってわたしは頭を掻きむしり、目を閉じて長いため息を吐いた。
「あ、じゃあ今度でいいです。履歴書はまあ、しょせん履歴書なので」
「すみません。取りに帰るとか……」
「あ、いいですいいです」と広田はかぶりを振った。「お話を聞ければあれなので。でも事務的なのでいるので、まあ、今度で。ご縁があればというまあ、そういうあれですが」
 わたしは「すみませぇん」と言って、広田の顔をじっと見る、イケメンでもブサメンでもない。マスクで顔の下半分が隠れているから微妙だ。
「じゃあ、どうしましょうか。一応面接ってことなので、まずはこちらからここのお仕事のざっとしたことをお伝えしましょうか」
 広田はあしを崩しかけてやめて、背筋をピンと伸ばしながらそう言った。
「あ、はい」と、わたしは頷く。

 

「まあ、ホームページとかもご覧になっているか知りませんが、まあいわゆる学童です。子供のことを見るのが仕事の九割です。見るっていうのは、怪我や喧嘩をしないように見守ったり、宿題の分からないところを教えてあげたり、遊びの相手をしてあげたりという感じです。あと、掃除とかお迎えとか事務的なこともありますが、まずは子供を見るということですね。それが主な仕事内容になります」
「見る……、ですか」
「ええ。話を聞いてあげるっていうのもあります。相手をすることですね。ここは家と学校の中間的なところですので、親御さんたちが迎えに来るまでお父さんお母さんや学校の先生の代わりに子供たちを『見る』んです」
 分かったような分からないような説明だ。
「まあ、やってみりゃ分かります。っていうか、やってみないと分かりません。習うより慣れよってやつですね。以上です」
「はあ」とわたしは答え、マスクの上の広田の目を見た。
「じゃあ、次は吉田さんの番です。絶望したとかそういうことをお電話では仰られていたかと思うんですが」
 ああ、そんなこと言ったかな。
「え、まあ、っていうかわたしもうすぐ結婚するんです」
 すると、広田は頭をのけぞらして大袈裟に驚いた。
「えっ、あっ、おめでとうございます」
「あっ、は、ありがとうございます」
 わたしは小さく頭を下げる。
「え、じゃあなんで絶望なんですか? ご結婚とか幸せじゃないんですか?」
「あー、まあちょっとワケがあって、っていうのはその彼には奥さんと息子さんがいて、でもその奥さんとはだいぶ前からうまくいってなくて、もうすぐ離婚して、わたしも大学卒業するからそのタイミングで結婚しようってことになってるんです」
「えっ、ああ、大学生なんだ」
 フリーターかなにかと思っていたようだ。
「そう、でも離婚してくれるかどうか微妙で、わたしも大学ぜんぜん行ってないから、五年生になるの確定で、五年生で卒業できるかどうかも微妙で六年生になっちゃうかもしれなくて」
「離婚するか微妙ってことは、嘘吐いてるかもしれないってこと?」
「はい」と私は正直に頷いた。

 

「お互い嘘吐きあってるんです。ひどいですよね。なんなんですかね、人間って」
 すると、広田は笑った。
「じゃあ、嘘吐かなきゃいいじゃん。少なくとも吉田さんはさ」
「好きで吐いてるわけじゃないですよ。吐かざるをえないから吐いてるんです」
「そうなんだ。相手が望む答えを言っちゃってるってこと?」
 ああ、そういうことか。
「まあ、好きだし、嫌われたくないから」
 こいつは何にも分かってないなと思いながら、わたしはそう答えた。
「え、でもずっと嘘吐き続けるわけにはいかないでしょ。いつかは本当のことというか地を出さなきゃいけなくなる」
 んなことは、あんたに言われなくても分かっている。
「できないから悩んでるんです。できたら、とっくにやってますよ」
 すると、広田はぴくりと眉毛を動かし、眉間の間に皴を作った。
「それもそうですね。失礼しました」
 結局その場で採用ということになり、とりあえず週三日、人の足りない月、水、金の二時から六時の勤務とシフトまで決まった。
 大学の方は大丈夫なのと訊かれたが、行ってないから大丈夫と答えた。
「でも、卒業するんでしょ?」
「分からないです。もう、心が折れちゃってるんで」
 すると、フッと鼻で笑われた。
「じゃあ、辞めちゃえばいいじゃない」
「いえ、そうすると仕送り止められちゃうんで」
「あ、そっか。じゃあ続けなきゃだね」
 案外、ものわかりのいい人のようだ。
 詳しくは来週の月曜で、と話に片がつき、わたしは「りく」を後にした。
 コンビニでツナマヨおにぎりとレタスサンドを買って帰り、それらで腹を満たしつつ、履歴書はどうしようか、そもそも来週の月曜からお願いしますと言っちゃったが、本当に行くのかどうかとかをぐるぐる考えた。

 

 あの広田という男が信用できるかどうかは微妙なところだった。面接中もわたしの胸元を幾度となく見ていたし、帰り際靴を履くときには突き出した尻を超ガン見していた。きっと頭の中はエロいことでいっぱいで、さっそくわたしも今晩のオナニーのおかずにされることだろう。
 でも、エロいからといって悪い人なわけではないし、エロいかエロくないかというより、隠すのが上手いか上手くないかの問題な気もする。広田は、上手くないを通り越して下手だ。あれでは大抵の女が気づく。あ、こいつ見てるぞ、と。あれでもうちょっと不細工かキモデブとかだったら、女は絶対に近づかないだろう。顔とスタイルがそこそこだから、まあいっかということでそれで生きてこられた。そう考えると外見というのはやはり重要なんだなと思う。同じことをしても、OKかNGかは外見で決まる。
 まあ、いっか。履歴書はずっと忘れ続ければいいし、行くか行かないかは当日の気分で決めよう。
──バイトすることになったよー。来週の月曜から。
 わたしはさっそく正直にラインを送った。十五分後に既読がつき、返事がかえってきた。
──え、ほほちゃんが? なに? どこ?
 バカにされているような気もしたが、そんなことは気にしない。
──近所の学童。「りく」ってとこ。
──学童? なにそれ?
 世代的に知らないのだろう。
──放課後の小学生預かるところだよ。共働きの家の。
──へー、よく知らないけど。っていうか大学もう大丈夫なの?
 わたしは間を置かずこう打ち込んだ。
──うん。もう単位取り切ってるから大丈夫。今年は微妙だけど、来年は卒業できると思う。
 既読がなかなかつかず、それは通知だけを見て既読をわざとつけずに考えているのだなと分かる間だった。その隙にわたしはトイレに行き、やけに黄色い小便が出てすっきりしたところで返事がかえってきた。
──じゃあさ、ほほちゃんが卒業したら離婚するよ。そしたら晴れて結婚すりゃいいじゃん。

 

 返事を打てずに呆然としていると、続けざまこう送られてきた。
──それでみんなハッピーだよ。
 わたしが卒業できないことを見越して、面倒なことを一気に片付けにかかっているのだ。いまの性生活と危ないゲームを続ける関係を保ちつつ、自分は実害を受けないところまで避難する。
──そうだね。ウィンウィンだね。
 と、わたしは送った。
──じゃあ、それで。 来週からのバイトがんばってね。
──うん、ありがとう。
 バイトどころではない。卒業しないと離婚も結婚もなくなってしまった。その結構重大な約束をいまラインでしてしまった。
 バカなんだよな。わたしってほんとバカなんだよ。死にたくなる。
 入学できたんだから卒業もできるだろうと思うのだが、ぜんぜん行ってなくていま何がどうなっているのか分からないし、もう全部むちゃくちゃに踏み倒しちゃっているから、どうしようもないのだ。
 わたしが卒業して、正直が離婚して、わたしたちが結婚する。
 これは前々から正直が企んでいて、言い出すタイミングを見計らっていたのだ。オムツごっことかそんなことをやっている時点で、本気とか恋愛とか愛情とかそんなんじゃないことは分かり切っていたし、でもそんな変態的感覚を共有してるっていうのはやっぱりゾクゾクするし、それはどこまでいっても性欲でしかないのかもしれないけれど、それはそれで何が悪いのだろう。

        5

 前日に昼から飲み過ぎて、しかもその酔っ払った状態で近所の公園で会ったおじさんとヤリまくったおかげで夜八時には寝て、翌日の朝七時にぱっちりと目が覚めた。
 おじさんの姿はもちろんなく、おそらく介護施設で働く奥さんと近所の保育園に通う娘さんの待つ家へ帰っていた。

 

 冷蔵庫にあった牛乳をがぶ飲みし、歯を磨いてテレビを漫然と観た。ニュースが流れていて誰かがどこかで殺されたり、世界の遠い国で相変わらず内戦だか戦争が続いていたりした。知っていても知らなくてもどっちでもいいことばかりで、わたしにはまったく興味が持てなかった。どこで誰が死のうが殺されていようが、うちの冷蔵庫にある牛乳の賞味期限の方がはるかに重要だった。それが悪いことだというのならば、そもそも人間という生物の成り立ちそのものに問題があるのだ。
 十二時くらいまでスマホで動画を見ながらテレビも見ていて、一時にバイトの初シフトが入っていたことに気づいた。ああ、ダルいし面倒くさいな、と思ってブチってやろうかと考えた。でも、あの広田という男のエロい視線を思い出して行きたくなった。おっぱいも尻も半分出ているような恰好で行ってやったら、あいつはきっと仕事どころではなくなる。とても面白そうだ。
 クローゼットから公道を歩くのはどうかと思われるほどのほぼ下着に近い恰好の服と、お辞儀をしたらパンツが見えてしまうスカートを出してきて着替え、黒いロングコートを羽織って家を出た。
 一時五分にりくに着き、「遅れてすみませぇん」と息を切らしている振りをして駆け込むと、広田は時計をちらっと見て、「ああ、大丈夫です」と不満そうに言った。
「すみません。上着と荷物どこ置いたらいいですか?」
「あぁ、じゃあこっちの倉庫の方で」
 天井の低い荷物置き場のようなところに小ぶりの冷蔵庫が置かれていて、奥のカーテンで仕切られた先に黒いリュックサックが置かれていた。
「コートとか上着はここにかけてください」
 突っ張り棒が横の棚と奥の段ボールの間に渡してあって、そこにハンガーでファーのたくさんついたダウンジャケットが引っ掛かっていた。
 わたしはカーテンの奥でコートを脱いでハンガーに吊るし、持ってきたハンドバッグの中から柑橘系の香水をわきの下に吹きかけた。
「お待たせしました」

 

 カーテンを開けて出て行くと、倉庫の入り口のところに広田は立っていて、ごくりと唾を呑み込む音がはっきりと聞こえた。
「え……、え、エプロンは?」
「エプロン?」
「あ、すみません。エプロンってお伝えしてませんでしたっけ?」
 聞いたような気もしたが、よく覚えていない。
「聞いてません。いるんですか?」
「あ、はい。仕事中は基本つけてる感じなので」
 広田のエロ熱い視線がむき出しの胸の谷間や肩や脚に注がれる。
「……予備わたし持ってるんで、今日はそれをお貸しします。…で、ちょっとっていうかもうちょっと大人しめな恰好で来ていただけると助かります。三、四年生とか高学年の男の子とかもいるんで」
 それよりあなたですよね、という気もしたが、あ、はいと無難な返事をしておいた。
 カーキ色のカフェ店員のようなエプロンを広田は倉庫から引っ張り出してきて、わたしに手渡した。名札は別のところで作るので、頼んでおきますと言われた。
 上からかぶる方式のエプロンで、着ると下着のような服やマイクロミニのスカートが完全に見えなくなり、裸エプロンのような感じになった。
「おっ、うーむ!」
 わたしの裸エプロンを見た瞬間、広田はそう言って唸った。
「なんかめっちゃエロいっすね。……ヤバ」
 何でも正直に言う人のようだ。本当に困っている様子だったから少し気の毒になった。
「AVみたいですよね。ごめんなさい」
「あ、うん。今度からお願いします」
 広田もエプロンをつけているせいで、股間がどうなっているのかは見えない。だが、腰が引けているところを見ると反応はしているのだろう。
「じゃあ、はじめましょうか」
「はい、よろしくお願いします」
 わたしは元気よくそう答えた。

         6

「で、ここにその変な消毒液みたいなのを薄めたやつが入ってるので、それを加湿器のここへ入れてください。一本分入れても足りないんですけど、まああとは水を水道からこうじゃーっと入れてここらへんまで」

 

 広田は実際にやってみせながら、そう話をして、白い蓋をかぶせた。
「で、こっちの透明な窓がある方を前にしてスチャッと入れて、こぼさないようにこっちに持ってって、ピッと電源を入れます。コースは自動で。これでOKです」
 すぐに蒸気が吹き出し口から出始めた。
「夏もこれやるんですか?」
「ええ、私的にはいらないと思うんですが、所長からやれって言われるので」
 なんでも出水所長というのが絶対権力者として君臨していて、広田もその人には逆らえないらしい。
「意味分かんないですよね。冬とか湿度低い時はまあガンガン炊けばいいと思うんですけど、高温多湿な時に加湿器って私もちょっと理解できないんですよね」
 そんなことをわたしに言われても。
「それでも、やるんですよね?」
「ええ、まあそういうことになってるので」
 広田は顔を顰めながらそう答えた。
 納得してなければやらなければいいのに。この人は自分の意志がないのだろうか。
 トイレ掃除のやり方や掃除機のかけ方、業務日誌のつけ方などを教わっていると二時を回り、他のパートのおばさん、おばあさんたちが出勤してきた。
「ちょっと、そのエプロンヤバいよね。りひとくんとかがなんか言いそう」
 太った落ち武者みたいな顔の高木というおばさんがわたしの身体を頭から下まで舐めるようにじろじろ見た後、そう言った。
「脱いどいた方がいいですか?」
「いやいや、脱いだらもっとヤバいっしょ。わたしのパーカー貸すから、とりあえずそれ着といたら」

 

 荷物置き場のハンガーに掛かっていたくすんだ灰色のパーカーを、わたしに手渡す。汗臭くて着たくなかったが、たしかにこんな格好で子供に接すれば、親からクレームが来るだろう。
「下はしょうがないよね。タオルでも巻いとく?」
「いや、風呂上がりみたいになって、よけいヤバいっす」
 広田が実感のこもったツッコミを入れた。
「りひとくん気をつけてね。あの子、男の子っていうか、男だから」
「男ですか?」
「そうそう。ボーイじゃなくてマン。身体も大きくて性欲はバリバリあるんだけど、子供だからってセクハラ的なことが許されてるってすごい状況なんだよね。まあ、こっちは許さないんだけど、親御さんの手前言い出しにくくって」
 たしかにすごい状況だ。
「ま、とにかく気をつけて。脚とかどっか触ってきたら言って。注意するから。膝とか乗ってくるかもしれないし」
 もう、むちゃくちゃだな。歌舞伎町のお触りパブかよ。

         8

 落ち武者高木と一緒に、歩いて五分くらいのところにある小学校へ子どもたちを迎えに行った。
「そういう格好好きなの?」
「あ、はい。見られてるっていうのが快感で」

 

「それな。承認欲求ってやつだよね。自己評価が低い人ほどそうなるんだって」
 なに言ってるんだろう。この人は。
「へー。そうなんですね」
「あたしなんか、それ以前に女として見られないから最悪だよ。あたしがそんな恰好したら、もうみんなから笑いものだよ」
 たしかに、想像もしたくない。
「まあ、無難な恰好しといたほうがいいよ。親御さんも子供も色んな人いるし。変な噂たてられたりしたら、吉田さんも嫌でしょ」
「ジーパンとかですか?」
 すると、高木は振り返って小刻みに頷いた。
「そうそう。夏はジーパンにTシャツ。冬はセーターかタートルネック。みんなGUかユニクロかしまむら。安いし」
「それだとつまんなくないですか。個性が出せないっていうか……」
「そんなの、個性なんか出さなくていいの。そういうのはおうちの中か休みの日に原宿か渋谷行ってやって。ま、仕事っていうか学童だからね」
 釈然としないものが残ったが、とりあえ頷いておいた。

 学校に着くと、子どもたちがすでに集合場所とされるところで待っていて、さんざん遅いー、とかなにやってんの! とか好き放題言われた。
「学校から貰った表には二時四十分って書いてあったんだって! 今三十七分でしょ。遅れてないっつーの!」
 聞くと、よくあることのようだ。帰りの会が早く終わって予定時間より早く出て来たり、逆に長引いて待ってても全然出て来なかったり。
「あー、なにこの人! 新しいせんせい?」
 二年生くらいの小鹿のような目をした男の子がきいてきた。

 

「そうです。よしだです。よろしくね」
 わたしは男の子の前にしゃがみ込んで、そう答えた。
「下の名前はなんていうの? おれ、たいち」
「ほほです。よしだほほ。たいちくんの上の名前は?」
 つい本名を言ってしまった。
「…えんどー」
 それだけ小さな声で言い残し、もうこの会話に耐え切れなくなったのか、そっぽを向いて他の子のところへ行ってしまった。
「へー、ほほっていうんだ。ひらがな?」
 横で聞いていた高木がきいてくる。
「いえ、船の帆の帆にカタカナのノマって繰り返すマークです」
 立ち上がりながらそう答えると、一、二年生くらいの肌の浅黒い、割と背の高い女の子が「ほほちゃん、ほほちゃん」と連呼した。
「こら、ほほちゃん先生でしょ」
 と、高木がたしなめたところでわたしの呼び名が決まった。
 ほほちゃん先生。
 語呂も響きもいい。先生なんて今まで呼ばれたことがなかったから、虚栄心と承認欲求がくすぐられて何だか気持ちもいい。
「あなたはなんて言うの?」
「よしか。さいきよしかです」
 またしゃがみ込み、よしかちゃんの目をまっすぐ見る。
「よしかちゃんか。みんなからは何て呼ばれてるの?」
「よっちゃんとか、よっしーとか」
「よろしくね。よっしーちゃん。わたしほほちゃん」
 すると、よしかちゃんは笑って「よっしーちゃんって!」とツッコんだ。
 高木が持ってきていたお迎えリストで全員いることを確認し、二列に並んで小学校を出発した。高木が先頭。わたしが一番後ろ。

 

 後ろの方には三、四年生がいて、その中に話にも出ていたりひとくんも混じっていた。背が高くて小太りで、マリオのTシャツを着ている。
「え? っていうか、それ下なんも履いてないの?」
 さすが子供。どストレートな質問が飛んできた。
 パーカーとエプロンを捲って、黒のミニスカートを見せる。
「履いてます。ちょっと短いけど」
「え? っつーか、短か! ちょっともう一回見せて」
 これはもう子供じゃなかったら立派なセクハラだ。
「いやです。服間違えちゃったの!」
 変に気をつかったりすると舐められる。で、それがだんだんエスカレートしていく。今まで散々学んできたことだ。
「見せてよー。ほほちゃーん」
 ウザ絡みだ。こんなもの相手が小学四年生じゃなかったら、即現行犯逮捕だ。このやろーが。完全にエロい目で見てるし、自分の立場を利用してやがる。
「は? キモいんですけど」
 冷ややかな低い声でそう答えた。すると、りひとくんは一瞬目を泳がせたが、その目をじっと睨みつけてやった。
「女の人にそういうこと言っちゃだめでしょ。りっくん」
 そばにいた顔立ちの整った美少女がそう言ってまとめてくれた。
「ありがとう。えーっと…」
「れいらです。剣持れいら。みんなからはれいちゃんって呼ばれてます」
「ありがとう、れいちゃん」
 りひとくんはれいらちゃんを憎々しげに睨みつけていた。さすが子供。あからさまだった。
「しねっ」
 そう呟き、鼻であざ笑うのをわたしは見逃さなかった。

 学童に着くと、わあわあ騒ぎながらみんな宿題をして、その後おやつを食べ、遊びに巻き込まれていった。

 

 妖怪ボードゲームとかいうのが流行っていて、わたしはぬらりひょん役をやらされ、手下の妖怪カードを集めたり取られたりしながら、三番目にゴールした。ちなみに四人でやっていたからビリだった猫娘役のちかちゃんという一年生の女の子は、テーブルに突っ伏してこの世の終わりのように泣きだした。わたしが集めたぬりかべやかまいたちをのカードあげて機嫌を取ろうとしたが、無駄だった。顔を上げようともしない。
 高木に経緯を話すと「先生とちょっとお話しよ」と事務所に連れていき、そこで何か話をしばらくしていた。そして、高木と一緒に出てきたときにはちかちゃんはなにかが吹っ切れたような顔をしていた。
「すみません。気をつけます」
 わたしがビリにならなければならなかったのだと反省し、高木にそう言った。
「ううん。先生はいいの。負けることができるようにならなきゃねってそういう話をしたから」
 それで子供は納得したのだろうか。
「いいんですか? 勝っちゃって」
「わたしはいいと思う。負けを受け入れるってすごく大事なことだと思うから」
 負けを受け入れる。
「よく誤魔化したりズルしたりして勝とうしたり、負けそうになったらやーめたってどっか行っちゃったりする子いるの。あれ、良くないんだよね。負ける時はしっかり負けないと」
 しっかり負ける?
「へぇ、そうなんですか」
「そうそう。負けてその負けをいったん受け入れないと、次進めないで──」
「ね、先生。ほほちゃん! パズルやろーよ」
 さっきまで泣いていたちかちゃんがそう言ってわたしの袖を引っ張った。
「こら、ほほちゃん先生でしょ!」

 

 高木がすかさずそう注意した。ちかちゃんの顔を見ると、そこにはもうさっきまでのこの世の終わり的な表情はなく、楽しくて仕方がないといった顔になっていた。さすが子供。
 スペインファミリーという今人気が出てきているというアニメのジグゾーパズルをまあさちゃんという三年生の大人しそうな子も交えてやっていると六時になり、出していたおもちゃを子供たちと一緒に片付けているところで、広田に声を掛けられた。
「お疲れ様です。定時なので上がってください」
「あ、はい」
 広田の顔には疲労が色濃く滲んでいた。
「どうでしたか?」
「いやぁ」とわたしは首をひねりながら答えた。「よく分からないですね。子どもっていうのがまだよく分からないです。今日もうまくやれたんだが、どうなんでしょ」
「けっこううまくやれてたと思いますよ。ちょっと見てましたけど」
「そうですか。でもちかちゃん泣いちゃったし」
「ああ」と、広田は訳知り顔にうなづいた。「あれはあれでいいんですよ。高木先生がフォローしてたし。感情がストレートに出せてるってことだからいいんじゃないかな」
 何を言っているのかよく分からない。
「あ、はい。ありがとうございます」
 とりあえずそう礼を言って頭を下げておいた。
 倉庫のカーテンの奥でエプロンを脱ぎ、残っている職員と子供に挨拶をして黒いコートを羽織って外に出た。
 

 

 星がとてもきれいな空で、ちょうど半分に欠けた月が低い位置に浮かんでいた。
 自分の家に向かって歩いていたら、数分前まで自分がしていたことの感覚がすーっと薄くなっていった。異世界にワープしていたような感じで、コンビニに入ってストロングゼロと鮭おにぎりとポテチを買ったらいつもの現実にしっかり戻ってこられた。
 帰り際、広田には次は水曜でと言われていたから、つまり明後日ということになる。明後日にまたあそこに行けば、異世界転生することになる。
 あぁ、面倒くさいな。しんどいし。泣いたりわめいたりセクハラされたりするし。
 子供ってああいうものか。かわいいとか天使とか言っちゃったりする人多いけど、しんどくて面倒くさい部分の方が大きい。
 でも、あれみんな本音だよな。本音隠していい子演じる子もいるだろうけど、泣いたりわめいたりワガママ言ってる子たちはみんなあれ本音が炸裂してるだけなんだろうな。大人も普段生きていて同じようなこと思ったり考えたりしてるんだろうけど、プライドとか体面とかがあるから本音を炸裂させてないだけなんだよね。そういう意味では分かりやすい。大人より分かりやすい。だって、まんま出てるし。見りゃ分かるから。
 大人はオブラートに包んで隠してるけど、子どもはむき出し。むき出しの人間。
 料理でいうと刺身だ。切って盛って出すだけ。新鮮なうちは美味しいけど、時間が経つとマズくなって、そのうち腐って食べられなくなる。
 自宅マンションに帰ってポテチを食べながらストロングゼロを飲みつつそんなことをつらつらと考えていると、なんだか子どももそんな悪くないような気がしてきた。わたしとよく似ている。天ぷら粉や揚げたパン粉や味噌や溶いた卵に包まれたりせずに、刺身で生きている。

 むき出しのまま生きる。
 はだかエプロン。
 セクハラにはブチ切れる。
 泣きわめいたら、うっせえわ!

 ほほちゃんはそう誓い、ストロングゼロを飲み干しましたとさ。


[了]
2022年11月10日

中編文画1-5 言葉は噓吐き、行動は真実を語るの続きの続きの続きの続き



         8

 落ち武者高木と一緒に、歩いて五分くらいのところにある小学校へ子どもたちを迎えに行った。
「そういう格好好きなの?」
「あ、はい。見られてるっていうのが快感で」


「それな。承認欲求ってやつだよね。自己評価が低い人ほどそうなるんだって」
 なに言ってるんだろう。この人は。
「へー。そうなんですね」
「あたしなんか、それ以前に女として見られないから最悪だよ。あたしがそんな恰好したら、もうみんなから笑いものだよ」
 たしかに、想像もしたくない。
「まあ、無難な恰好しといたほうがいいよ。親御さんも子供も色んな人いるし。変な噂たてられたりしたら、吉田さんも嫌でしょ」
「ジーパンとかですか?」
 すると、高木は振り返って小刻みに頷いた。
「そうそう。夏はジーパンにTシャツ。冬はセーターかタートルネック。みんなGUかユニクロかしまむら。安いし」
「それだとつまんなくないですか。個性が出せないっていうか……」
「そんなの、個性なんか出さなくていいの。そういうのはおうちの中か休みの日に原宿か渋谷行ってやって。ま、仕事っていうか学童だからね」
 釈然としないものが残ったが、とりあえ頷いておいた。

 学校に着くと、子どもたちがすでに集合場所とされるところで待っていて、さんざん遅いー、とかなにやってんの! とか好き放題言われた。
「学校から貰った表には二時四十分って書いてあったんだって! 今三十七分でしょ。遅れてないっつーの!」
 聞くと、よくあることのようだ。帰りの会が早く終わって予定時間より早く出て来たり、逆に長引いて待ってても全然出て来なかったり。
「あー、なにこの人! 新しいせんせい?」
 二年生くらいの目のクリクリした男の子がきいてきた。

 

「そうです。よしだです。よろしくね」
 わたしは男の子の前にしゃがみ込んで、そう答えた。
「下の名前はなんていうの? おれ、たいち」
「ほほです。よしだほほ。たいちくんの上の名前は?」
 つい本名を言ってしまった。
「…えんどー」
 それだけ小さな声で言い残し、もうこの会話に耐え切れなくなったのか、そっぽを向いて他の子のところへ行ってしまった。
「へー、ほほっていうんだ。ひらがな?」
 横で聞いていた高木がきいてくる。
「いえ、船の帆の帆にカタカナのノマって繰り返すマークです」
 立ち上がりながらそう答えると、一、二年生くらいの肌の浅黒い、割と背の高い女の子が「ほほちゃん、ほほちゃん」と連呼した。
「こら、ほほちゃん先生でしょ」
 と、高木がたしなめたところでわたしの呼び名が決まった。
 ほほちゃん先生。
 語呂も響きもいい。先生なんて今まで呼ばれたことがなかったから、虚栄心と承認欲求がくすぐられて何だか気持ちもいい。
「あなたはなんて言うの?」
「よしか。さいきよしかです」
 またしゃがみ込み、よしかちゃんの目をまっすぐ見る。
「よしかちゃんか。みんなからは何て呼ばれてるの?」
「よっちゃんとか、よっしーとか」
「よろしくね。よっしーちゃん。わたしほほちゃん」
 すると、よしかちゃんは笑って「よっしーちゃんって!」とツッコんだ。
 高木が持ってきていたお迎えリストで全員いることを確認し、二列に並んで小学校を出発した。高木が先頭。わたしが一番後ろ。


 後ろの方には三、四年生がいて、その中に話にも出ていたりひとくんも混じっていた。背が高くて小太りで、マリオのTシャツを着ている。
「え? っていうか、それ下なんも履いてないの?」
 さすが子供。どストレートな質問が飛んできた。
 パーカーとエプロンを捲って、黒のミニスカートを見せる。
「履いてます。ちょっと短いけど」
「え? っつーか、短か! ちょっともう一回見せて」
 これはもう子供じゃなかったら立派なセクハラだ。
「いやです。服間違えちゃったの!」
 変に気をつかったりすると舐められる。で、それがだんだんエスカレートしていく。今まで散々学んできたことだ。
「見せてよー。ほほちゃーん」
 ウザ絡みだ。こんなもの相手が小学四年生じゃなかったら、即現行犯逮捕だ。このやろーが。完全にエロい目で見てるし、自分の立場を利用してやがる。
「は? キモいんですけど」
 冷ややかな低い声でそう答えた。すると、りひとくんは一瞬目を泳がせたが、その目をじっと睨みつけてやった。
「女の人にそういうこと言っちゃだめでしょ。りっくん」
 そばにいた顔立ちの整った美少女がそう言ってまとめてくれた。
「ありがとう。えーっと…」
「れいらです。剣持れいら。みんなからはれいちゃんって呼ばれてます」
「ありがとう、れいちゃん」
 りひとくんはれいらちゃんを憎々しげに睨みつけていた。さすが子供。あからさまだった。
「しねっ」
 そう呟き、鼻であざ笑うのをわたしは見逃さなかった。

 学童に着くと、わあわあ騒ぎながらみんな宿題をして、その後おやつを食べ、遊びに巻き込まれていった。

 

 妖怪ボードゲームとかいうのが流行っていて、わたしはぬらりひょん役をやらされ、手下の妖怪カードを集めたり取られたりしながら、三番目にゴールした。ちなみに四人でやっていたからビリだった猫娘役のちかちゃんという一年生の女の子は、テーブルに突っ伏してこの世の終わりのように泣きだした。わたしが集めたぬりかべやかまいたちをのカードあげて機嫌を取ろうとしたが、無駄だった。顔を上げようともしない。
 高木に経緯を話すと「先生とちょっとお話しよ」と事務所に連れていき、そこで何か話をしばらくしていた。そして、高木と一緒に出てきたときにはちかちゃんはなにかが吹っ切れたような顔をしていた。
「すみません。気をつけます」
 わたしがビリにならなければならなかったのだと反省し、高木にそう言った。
「ううん。先生はいいの。負けることができるようにならなきゃねってそういう話をしたから」
 それで子供は納得したのだろうか。
「いいんですか? 勝っちゃって」
「わたしはいいと思う。負けを受け入れるってすごく大事なことだと思うから」
 負けを受け入れる。
「よく誤魔化したりズルしたりして勝とうしたり、負けそうになったらやーめたってどっか行っちゃったりする子いるの。あれ、良くないんだよね。負ける時はしっかり負けないと」
 しっかり負ける?
「へぇ、そうなんですか」
「そうそう。負けてその負けをいったん受け入れないと、次進めないで──」
「ね、先生。ほほちゃん! パズルやろーよ」
 さっきまで泣いていたちかちゃんがそう言ってわたしの袖を引っ張った。
「こら、ほほちゃん先生でしょ!」


 高木がすかさずそう注意した。ちかちゃんの顔を見ると、そこにはもうさっきまでのこの世の終わり的な表情はなく、楽しくて仕方がないといった顔になっていた。さすが子供。
 スペインファミリーという今人気が出てきているというアニメのジグゾーパズルをまあさちゃんという三年生の大人しそうな子も交えてやっていると六時になり、出していたおもちゃを子供たちと一緒に片付けているところで、広田に声を掛けられた。
「お疲れ様です。定時なので上がってください」
「あ、はい」
 広田の顔には疲労が色濃く滲んでいた。
「どうでしたか?」
「いやぁ」とわたしは首をひねりながら答えた。「よく分からないですね。子どもっていうのがまだよく分からないです。今日もうまくやれたんだが、どうなんでしょ」
「けっこううまくやれてたと思いますよ。ちょっと見てましたけど」
「そうですか。でもちかちゃん泣いちゃったし」
「ああ」と、広田は訳知り顔にうなづいた。「あれはあれでいいんですよ。高木先生がフォローしてたし。感情がストレートに出せてるってことだからいいんじゃないかな」
 何を言っているのかよく分からない。
「あ、はい。ありがとうございます」
 とりあえずそう礼を言って頭を下げておいた。
 倉庫のカーテンの奥でエプロンを脱ぎ、残っている職員と子供に挨拶をして黒いコートを羽織って外に出た。
 

 

 星がとてもきれいな空で、ちょうど半分に欠けた月が低い位置に浮かんでいた。
 自分の家に向かって歩いていたら、数分前まで自分がしていたことの感覚がすーっと薄くなっていった。異世界にワープしていたような感じで、コンビニに入ってストロングゼロと鮭おにぎりとポテチを買ったらいつもの現実にしっかり戻ってこられた。
 帰り際、広田には次は水曜でと言われていたから、つまり明後日ということになる。明後日にまたあそこに行けば、異世界転生することになる。
 あぁ、面倒くさいな。しんどいし。泣いたりわめいたりセクハラされたりするし。
 子供ってああいうものか。かわいいとか天使とか言っちゃったりする人多いけど、しんどくて面倒くさい部分の方が大きい。
 でも、あれみんな本音だよな。本音隠していい子演じる子もいるだろうけど、泣いたりわめいたりワガママ言ってる子たちはみんなあれ本音が炸裂してるだけなんだろうな。大人も普段生きていて同じようなこと思ったり考えたりしてるんだろうけど、プライドとか体面とかがあるから本音を炸裂させてないだけなんだよね。そういう意味では分かりやすい。大人より分かりやすい。だって、まんま出てるし。見りゃ分かるから。
 大人はオブラートに包んで隠してるけど、子どもはむき出し。むき出しの人間。
 料理でいうと刺身だ。切って盛って出すだけ。新鮮なうちは美味しいけど、時間が経つとマズくなって、そのうち腐って食べられなくなる。
 自宅マンションに帰ってポテチを食べながらストロングゼロを飲みつつそんなことをつらつらと考えていると、なんだか子どももそんな悪くないような気がしてきた。わたしとよく似ている。天ぷら粉や揚げたパン粉や味噌や溶いた卵に包まれたりせずに、刺身で生きている。

 むき出しのまま生きる。
 はだかエプロン。
 セクハラにはブチ切れる。
 泣きわめいたら、うっせえわ。

 ほほちゃんはそう誓い、ストロングゼロを飲み干しましたとさ。



[了]

※正直とのことやりくや広田とのことがあるので、そのうちまた別に書くかもです。
2022年11月06日

中編文画1-4 言葉は噓を吐き、行動は真実を語るの続きの続きの続き

   
         5

 前日に昼から飲み過ぎて、しかもその酔っ払った状態で近所の公園で会ったおじさんとヤリまくったおかげで夜八時には寝て、翌日の朝七時にぱっちりと目が覚めた。
 おじさんの姿はもちろんなく、おそらく介護施設で働く奥さんと近所の保育園に通う娘さんの待つ家へ帰っていた。

 

 冷蔵庫にあった牛乳をがぶ飲みし、歯を磨いてテレビを漫然と観た。ニュースが流れていて誰かがどこかで殺されたり、世界の遠い国で相変わらず内戦だか戦争が続いていたりした。知っていても知らなくてもどっちでもいいことばかりで、わたしにはまったく興味が持てなかった。どこで誰が死のうが殺されていようが、うちの冷蔵庫にある牛乳の賞味期限の方がはるかに重要だった。それが悪いことだというのならば、そもそも人間という生物の成り立ちそのものに問題があるのだ。
 十二時くらいまでスマホで動画を見ながらテレビも見ていて、一時にバイトの初シフトが入っていたことに気づいた。ああ、ダルいし面倒くさいな、と思ってブチってやろうかと考えた。でも、あの広田という男のエロい視線を思い出して行きたくなった。おっぱいも尻も半分出ているような恰好で行ってやったら、あいつはきっと仕事どころではなくなる。とても面白そうだ。
 クローゼットから公道を歩くのはどうかと思われるほどのほぼ下着に近い恰好の服と、お辞儀をしたらパンツが見えてしまうスカートを出してきて着替え、黒いロングコートを羽織って家を出た。
 一時五分にりくに着き、「遅れてすみませぇん」と息を切らしている振りをして駆け込むと、広田は時計をちらっと見て、「ああ、大丈夫です」と不満そうに言った。
「すみません。上着と荷物どこ置いたらいいですか?」
「あぁ、じゃあこっちの倉庫の方で」
 天井の低い荷物置き場のようなところに小ぶりの冷蔵庫が置かれていて、奥のカーテンで仕切られた先に黒いリュックサックが置かれていた。
「コートとか上着はここにかけてください」
 突っ張り棒が横の棚と奥の段ボールの間に渡してあって、そこにハンガーでファーのたくさんついたダウンジャケットが引っ掛かっていた。
 わたしはカーテンの奥でコートを脱いでハンガーに吊るし、持ってきたハンドバッグの中から柑橘系の香水をわきの下に吹きかけた。
「お待たせしました」

 

 カーテンを開けて出て行くと、倉庫の入り口のところに広田は立っていて、ごくりと唾を呑み込む音がはっきりと聞こえた。
「え……、え、エプロンは?」
「エプロン?」
「あ、すみません。エプロンってお伝えしてませんでしたっけ?」
 聞いたような気もしたが、よく覚えていない。
「聞いてません。いるんですか?」
「あ、はい。仕事中は基本つけてる感じなので」
 広田のエロ熱い視線がむき出しの胸の谷間や肩や脚に注がれる。
「……予備わたし持ってるんで、今日はそれをお貸しします。…で、ちょっとっていうかもうちょっと大人しめな恰好で来ていただけると助かります。三、四年生とか高学年の男の子とかもいるんで」
 それよりあなたですよね、という気もしたが、あ、はいと無難な返事をしておいた。
 カーキ色のカフェ店員のようなエプロンを広田は倉庫から引っ張り出してきて、わたしに手渡した。名札は別のところで作るので、頼んでおきますと言われた。
 上からかぶる方式のエプロンで、着ると下着のような服やマイクロミニのスカートが完全に見えなくなり、裸エプロンのような感じになった。
「おっ、うーむ!」
 わたしの裸エプロンを見た瞬間、広田はそう言って唸った。
「なんかめっちゃエロいっすね。……ヤバ」
 何でも正直に言う人のようだ。本当に困っている様子だったから少し気の毒になった。
「AVみたいですよね。ごめんなさい」
「あ、うん。今度からお願いします」
 広田もエプロンをつけているせいで、股間がどうなっているのかは見えない。だが、腰が引けているところを見ると反応はしているのだろう。
「じゃあ、はじめましょうか」
「はい、よろしくお願いします」
 わたしは元気よくそう答えた。

         6

「で、ここにその変な消毒液みたいなのを薄めたやつが入ってるので、それを加湿器のここへ入れてください。一本分入れても足りないんですけど、まああとは水を水道からこうじゃーっと入れてここらへんまで」

 

 広田は実際にやってみせながら、そう話をして、白い蓋をかぶせた。
「で、こっちの透明な窓がある方を前にしてスチャッと入れて、こぼさないようにこっちに持ってって、ピッと電源を入れます。コースは自動で。これでOKです」
 すぐに蒸気が吹き出し口から出始めた。
「夏もこれやるんですか?」
「ええ、私的にはいらないと思うんですが、所長からやれって言われるので」
 なんでも出水所長というのが絶対権力者として君臨していて、広田もその人には逆らえないらしい。
「意味分かんないですよね。冬とか湿度低い時はまあガンガン炊けばいいと思うんですけど、高温多湿な時に加湿器って私もちょっと理解できないんですよね」
 そんなことをわたしに言われても。
「それでも、やるんですよね?」
「ええ、まあそういうことになってるので」
 広田は顔を顰めながらそう答えた。
 納得してなければやらなければいいのに。この人は自分の意志がないのだろうか。
 トイレ掃除のやり方や掃除機のかけ方、業務日誌のつけ方などを教わっていると二時を回り、他のパートのおばさん、おばあさんたちが出勤してきた。
「ちょっと、そのエプロンヤバいよね。りひとくんとかがなんか言いそう」
 太った落ち武者みたいな顔の高木というおばさんがわたしの身体を頭から下まで舐めるようにじろじろ見た後、そう言った。
「脱いどいた方がいいですか?」
「いやいや、脱いだらもっとヤバいっしょ。わたしのパーカー貸すから、とりあえずそれ着といたら」

 

 荷物置き場のハンガーに掛かっていたくすんだ灰色のパーカーを、わたしに手渡す。汗臭くて着たくなかったが、たしかにこんな格好で子供に接すれば、親からクレームが来るだろう。
「下はしょうがないよね。タオルでも巻いとく?」
「いや、風呂上がりみたいになって、よけいヤバいっす」
 広田が実感のこもったツッコミを入れた。
「りひとくん気をつけてね。あの子、男の子っていうか、男だから」
「男ですか?」
「そうそう。ボーイじゃなくてマン。身体も大きくて性欲はバリバリあるんだけど、子供だからってセクハラ的なことが許されてるってすごい状況なんだよね。まあ、こっちは許さないんだけど、親御さんの手前言い出しにくくって」
 たしかにすごい状況だ。
「ま、とにかく気をつけて。脚とかどっか触ってきたら言って。注意するから。膝とか乗ってくるかもしれないし」
 もう、むちゃくちゃだな。歌舞伎町のお触りパブかよ。



つづく(予定)

2022年10月30日

中編文画1-3 言葉は噓を吐き、行動は真実を語るの続きの続き


           4

 ジーパンにミッ〇ーのTシャツ、髪は後ろで黒ゴムでまとめてポニーテール、化粧は目元だけという自分史上もっともラフな格好でスマホのグーグルマップを見ながら行ったら、相手もジーパンに黒Tにジーンズ地のエプロン、つんつん立った伸びかけの坊主頭という負けず劣らずのラフな感じだった。ひどく痩せていて、目が大きく背が高い。年はだいたい四十くらいといったところだろうか。
「じゃ、ちょっとそちらへ」

 

 部屋はだいたい二十から二十五畳くらいで、壁際の棚におもちゃとかレゴブロックなんかが置いてあって真ん中ら辺に低いテーブルがいくつかとテレビが置いてある。
 左奥のテーブルに案内され、わたしは広田と向かいあって座った。
「こちらの責任者をさせていただいております広田と申します」
 エプロンについた名札をつまんでわたしに見せながらそう言った。
「吉田です。よろしくお願いします」
 わたしはそう頭を下げた。
「じゃ、すみません。履歴書を」
「はい」と私は頷き、自分のトートバッグの中を漁った。
「あれ? あれあれあれ?」
「どうされましたか?」
「ない。え?」
 さらに焦ったふりをしてがさごそまたバッグを漁る。
「書いたのに。昨日の夜書いたのにー!」
「あ、忘れてきちゃったんですかね?」
「あっ、もう! あそこだ。テーブルの上!」
 そう言ってわたしは頭を掻きむしり、目を閉じて長いため息を吐いた。
「あ、じゃあ今度でいいです。履歴書はまあ、しょせん履歴書なので」
「すみません。取りに帰るとか……」
「あ、いいですいいです」と広田はかぶりを振った。「お話を聞ければあれなので。でも事務的なのでいるので、まあ、今度で。ご縁があればというまあ、そういうあれですが」
 わたしは「すみませぇん」と言って、広田の顔をじっと見る、イケメンでもブサメンでもない。マスクで顔の下半分が隠れているから微妙だ。
「じゃあ、どうしましょうか。一応面接ってことなので、まずはこちらからここのお仕事のざっとしたことをお伝えしましょうか」
 広田はあしを崩しかけてやめて、背筋をピンと伸ばしながらそう言った。
「あ、はい」と、わたしは頷く。

 

「まあ、ホームページとかもご覧になっているか知りませんが、まあいわゆる学童です。子供のことを見るのが仕事の九割です。見るっていうのは、怪我や喧嘩をしないように見守ったり、宿題の分からないところを教えてあげたり、遊びの相手をしてあげたりという感じです。あと、掃除とかお迎えとか事務的なこともありますが、まずは子供を見るということですね。それが主な仕事内容になります」
「見る……、ですか」
「ええ。話を聞いてあげるっていうのもあります。相手をすることですね。ここは家と学校の中間的なところですので、親御さんたちが迎えに来るまでお父さんお母さんや学校の先生の代わりに子供たちを『見る』んです」
 分かったような分からないような説明だ。
「まあ、やってみりゃ分かります。っていうか、やってみないと分かりません。習うより慣れよってやつですね。以上です」
「はあ」とわたしは答え、マスクの上の広田の目を見た。
「じゃあ、次は吉田さんの番です。絶望したとかそういうことをお電話では仰られていたかと思うんですが」
 ああ、そんなこと言ったかな。
「え、まあ、っていうかわたしもうすぐ結婚するんです」
 すると、広田は頭をのけぞらして大袈裟に驚いた。
「えっ、あっ、おめでとうございます」
「あっ、は、ありがとうございます」
 わたしは小さく頭を下げる。
「え、じゃあなんで絶望なんですか? ご結婚とか幸せじゃないんですか?」
「あー、まあちょっとワケがあって、っていうのはその彼には奥さんと娘さんがいて、でもその奥さんとはだいぶ前からうまくいってなくて、もうすぐ離婚して、わたしも大学卒業するからそのタイミングで結婚しようってことになってるんです」
「えっ、ああ、大学生なんだ」
 フリーターかなにかと思っていたようだ。
「そう、でも離婚してくれるかどうか微妙で、わたしも大学ぜんぜん行ってないから、五年生になるの確定で、五年生で卒業できるかどうかも微妙で六年生になっちゃうかもしれなくて」
「離婚するか微妙ってことは、嘘吐いてるかもしれないってこと?」
「はい」と私は正直に頷いた。

 

「お互い嘘吐きあってるんです。ひどいですよね。なんなんですかね、人間って」
 すると、広田は笑った。
「じゃあ、嘘吐かなきゃいいじゃん。少なくとも吉田さんはさ」
「好きで吐いてるわけじゃないですよ。吐かざるをえないから吐いてるんです」
「そうなんだ。相手が望む答えを言っちゃってるってこと?」
 ああ、そういうことか。
「まあ、好きだし、嫌われたくないから」
 こいつは何にも分かってないなと思いながら、わたしはそう答えた。
「え、でもずっと嘘吐き続けるわけにはいかないでしょ。いつかは本当のことというか地を出さなきゃいけなくなる」
 んなことは、あんたに言われなくても分かっている。
「できないから悩んでるんです。できたら、とっくにやってますよ」
 すると、広田はぴくりと眉毛を動かし、眉間の間に皴を作った。
「それもそうですね。失礼しました」
 結局その場で採用ということになり、とりあえず週三日、人の足りない月、水、金の二時から六時の勤務とシフトまで決まった。
 大学の方は大丈夫なのと訊かれたが、行ってないから大丈夫と答えた。
「でも、卒業するんでしょ?」
「分からないです。もう、心が折れちゃってるんで」
 すると、フッと鼻で笑われた。
「じゃあ、辞めちゃえばいいじゃない」
「いえ、そうすると仕送り止められちゃうんで」
「あ、そっか。じゃあ続けなきゃだね」
 案外、ものわかりのいい人のようだ。
 詳しくは来週の月曜で、と話に片がつき、わたしは「りく」を後にした。
 コンビニでツナマヨおにぎりとレタスサンドを買って帰り、それらで腹を満たしつつ、履歴書はどうしようか、そもそも来週の月曜からお願いしますと言っちゃったが、本当に行くのかどうかとかをぐるぐる考えた。

 

 あの広田という男が信用できるかどうかは微妙なところだった。面接中もわたしの胸元を幾度となく見ていたし、帰り際靴を履くときには突き出した尻を超ガン見していた。きっと頭の中はエロいことでいっぱいで、さっそくわたしも今晩のオナニーのおかずにされることだろう。
 でも、エロいからといって悪い人なわけではないし、エロいかエロくないかというより、隠すのが上手いか上手くないかの問題な気もする。広田は、上手くないを通り越して下手だ。あれでは大抵の女が気づく。あ、こいつ見てるぞ、と。あれでもうちょっと不細工かキモデブとかだったら、女は絶対に近づかないだろう。顔とスタイルがそこそこだから、まあいっかということでそれで生きてこられた。そう考えると外見というのはやはり重要なんだなと思う。同じことをしても、OKかNGかは外見で決まる。
 まあ、いっか。履歴書はずっと忘れ続ければいいし、行くか行かないかは当日の気分で決めよう。
──バイトすることになったよー。来週の月曜から。
 わたしはさっそく正直にラインを送った。十五分後に既読がつき、返事がかえってきた。
──え、ほほちゃんが? なに? どこ?
 バカにされているような気もしたが、そんなことは気にしない。
──近所の学童。「りく」ってとこ。
──学童? なにそれ?
 世代的に知らないのだろう。
──放課後の小学生預かるところだよ。共働きの家の。
──へー、よく知らないけど。っていうか大学もう大丈夫なの?
 わたしは間を置かずこう打ち込んだ。
──うん。もう単位取り切ってるから大丈夫。今年は微妙だけど、来年は卒業できると思う。
 既読がなかなかつかず、それは通知だけを見て既読をわざとつけずに考えているのだなと分かる間だった。その隙にわたしはトイレに行き、やけに黄色い小便が出てすっきりしたところで返事がかえってきた。
──じゃあさ、ほほちゃんが卒業したら離婚するよ。そしたら晴れて結婚すりゃいいじゃん。

 

 返事を打てずに呆然としていると、続けざまこう送られてきた。
──それでみんなハッピーだよ。
 わたしが卒業できないことを見越して、面倒なことを一気に片付けにかかっているのだ。いまの性生活と危ないゲームを続ける関係を保ちつつ、自分は実害を受けないところまで避難する。
──そうだね。ウィンウィンだね。
 と、わたしは送った。
──じゃあ、それで。 来週からのバイトがんばってね。
──うん、ありがとう。
 バイトどころではない。卒業しないと離婚も結婚もなくなってしまった。その結構重大な約束をいまラインでしてしまった。
 バカなんだよな。わたしってほんとバカなんだよ。死にたくなる。
 入学できたんだから卒業もできるだろうと思うのだが、ぜんぜん行ってなくていま何がどうなっているのか分からないし、もう全部むちゃくちゃに踏み倒しちゃっているから、どうしようもないのだ。
 わたしが卒業して、正直が離婚して、わたしたちが結婚する。
 これは前々から正直が企んでいて、言い出すタイミングを見計らっていたのだ。オムツごっことかそんなことをやっている時点で、本気とか恋愛とか愛情とかそんなんじゃないことは分かり切っていたし、でもそんな変態的感覚を共有してるっていうのはやっぱりゾクゾクするし、それはどこまでいっても性欲でしかないのかもしれないけれど、それはそれで何が悪いのだろう。
 
 

つづく(予定)

2022年10月23日

中編文画1-2 言葉は噓を吐き、行動は真実を語る の続き



         3

 コンビニでビールを買った帰りにポストを覗いてみると、こんなチラシが入っていた。

 NPO法人ワーキングコーポレーション 学童クラブりく
 職員急募! 子供たちの宿題をみたり、遊びの相手をしたりする簡単なお仕事です。

 その他に時給やらシフト制で週二日からとか連絡先など書かれていた。一見した感じでは条件的には悪くない。


 へぇ、学童か。聞いたことはあるけど、実態はよく知らない。共働きの親が放課後の子供を預けておくところ、くらいの知識しかない。
 バイトでもしてみるかと思っていたところだったし、本当に子供たちの宿題をみたり遊びの相手をするだけだったら、わたしでもやれるかもしれない。わたし自身が性格的に子供なためか、昔から子供を相手にするのは嫌いじゃなかった。子供より、体面ばかり取り繕って嘘ばかり吐いている大人の方がよほど信用ならない。きっとわたしはいわゆる〝大人〟が嫌いなのだろう。大人的なものの拒絶の上に今のわたしが成り立っている。
 ビールを飲みながらそのチラシを五分くらい眺めていたが、なんだか自信がなくなるというか、現実的に考えられなくなってやっぱりやめておくことにした。
 NPOっていうのも最近やたら聞くけど、なんだかうさん臭い。営利目的じゃないってことだけど、だったら何を目的にしてるんだろう。とにかくよく分からないし、あまり関わりたくない。宗教とか絡んでるかもしれないし。
 でも、とりあえずバイトでも始めてみるか。半年くらい前にコンビニのバイトを辞めて以来働いていない。あそこはひどかった。オーナーが加齢臭キツめのデブおやじでわたしのことをずっとエロい目で見てたし、従業員になにかと難癖をつけてきてやたらと威張り散らしていてキモくなって一週間で辞めた。その前が牛丼家。入って四日目くらいに、熱々のお茶を運んでる最中に後ろから注文を受けて、振り返った拍子に手が滑って座って牛丼食べていたハゲのお客さんに頭からお茶をぶっかけてしまった。その人には謝り倒したが、でも心が完全に折れていて、具合が悪いからと早退してそれっきり。バイト経験はだいたいそれくらいで、もう働くこと自体が嫌になった。お金をもらうためにやりたくもないことを我慢して頑張る。それが働くということ。すなわち労働。なぜなら人間はお金がないと生きていけないから。働かないわたしが生きていけているのは、お父さんとお母さんが働いて得たお金を毎月仕送りしてもらっていて、携帯代も学費もここの家賃も光熱費も全部払ってくれているからだ。正直と結婚すれば、正直が働いて得たお金でそれらを払うことになる。わたしも働かなければそうなる。
 お金、お金、お金、お金。
 あぁ、お金さえこの世になければ、みんな幸せになれるのに。お金がみんなを苦しめている。お金がみんなを不幸にしている。諸悪の根源。世界中の人たちがこれに振り回されていて、みんながみんな不幸になっていく。


 そんなことを考えていると絶望的な気持ちになってきて、わたしは誰かと話したくなって目の前にあった学童クラブ職員急募の番号に電話をしていた。
「はい、学童クラブりくでございます」
 ほぼワンコールで男の声がそうこたえた。
「あのー、ちょっと働きたいっていうか、もう人生に絶望しちゃってて」
「はい? 絶望っていいますと」
「どの仕事してもぜんぜんうまくできなくて、彼氏ともウソだらけの関係で」
 電話口の男はしばらく絶句した後、こう言った。
「たいへんご苦労なさってきたんですね。一度、その、面接がてらお話を聞かせていただけませんか。うちの事業所というかワーキングコーポレーションというNPO法人は、職員でそういう方もたくさんいらっしゃるというか、むしろそういう方ばかりでして」
「え、そうなんですか?」
「ええ」と男は答えた。「実はわたしもその一人で、いろいろとワケありでして」
「って言いますと?」
「いやいや、長い話です」
 と言って男は軽く笑い、詳しくは面接の時に、ということになった。明日の十一時に面接を受けることになり、男は最後に広田と名乗った。
 あぁ、宗教だな、と直感した。
 宗教団体のフロント企業というやつだ。職員募集というテイを装って、行ったら宗教の勧誘をされまくる。集会へ来いだの偉い先生の講演会があるだの言われて、サクラだらけの密室へ連れていかれ、入信を迫られて入会書に署名捺印するまで帰れなくなる。
 わたしは、学童クラブりく、でスマホで検索をかけてみた。
 グーグルマップとホームページがヒットした。ホームページの方に行ってみると、子供たちが楽しそうに遊んでいる写真のバックに、学童クラブりく、というロゴが浮かび上がっている。入室説明会のお知らせやら学童保育の方針やら無難なお題目が並んでいて、その下にブログのページがあったから覗いてみた。
 クリスマス会や新年会、芋掘りなど楽しそうに職員と子供たちが戯れている写真が短いコメントと共に掲載されている。
 あれ? と拍子抜けした。普通じゃないか。
 おかしいな。変な儀式の様子とか偉い先生のデカい顔写真とか長ったらしい肩書きとか講話なんかが載っているかと思ったのに。
 いやいやいやいや、これはこれ。
 今度はワーキングコーポレーションで検索してみた。
 パステルカラーがまぶしいトップページが表われ、沿革やら運営方針やら、協同労働とか協同組合とかなんかよく分からない小難しい文言がだらだらと書いてあった。
 宗教っぽくはないが、そういう予防線を張っているだけかもしれない。いや、よく分からない。なんだかとにかくよく分からない。
 ためしに面接だけ行ってみようかな、と思った。さっき伝えた電話番号もデタラメだし、履歴書を持ってこいと言っていたが、そんなものを提出したら個人情報だだもれで、ばんばん電話がかかってきて出なかったら家まで押しかけて来られそうだから、書いたんだけど家にうっかり忘れてきちゃった的な感じにしよう。なんとかの集いとかなんたら先生の講演会とかに誘われても行かなければいい。行きます、行きます、絶対に行きます、と約束して行かない。興味を持ったふりをして、前のめりを装って安心させ、行かない。


 広田は慌ててわたしがさっき伝えた番号に電話をかけるが、適当に思いついた番号を言っただけだから、その番号は現在使われておりません、になるか、どこかの誰かにつながって、その人に開口一番もう集いは始まってるんですが、いまどこですか? と訊く。は? なんですか? と訊き返され、広田はだからもう時間過ぎてるんですけど、となじるが、あのー、どちら様ですか? と訊かれ、ようやく広田はその電話口の相手がわたしではないことに気づく。あの、すみません、失礼ですがお名前……? と聞いたところで児島だよ! と怒鳴られて電話は切られる。
 いける、いける。それで大丈夫だ。名前は伝えたが苗字だけだし、吉田という苗字は全国ランキングでだいたい十位前後で、八十万人くらいいるらしいからほぼ匿名に近い。
 あー、いいね。おもしろい。おちょくってやろう。新興宗教って、あんなバカげた話やら教義を信じ込ませるためにどう話を持っていくのか興味あるし。駅前とかで変なパンフレットみたいな新聞配ってたり、なんとか聖人がどうたらこうたらだのぶつくさ唱えているのを見てて、あの人たちの頭の中どうなってて、なにがどうしてああなったのだろうといつも思っていたからちょうどいい。


つづく(予定)

2022年10月16日

中編文画1-1 言葉は噓を吐き、行動は真実を語る



        1

 ああ、またやってしまった。
 ヴァギナから伝う白い粘液を右手の指先で伸ばしながら、わたしはひどく後悔していた。
 そもそもどこから間違ってしまったのだろう。よく覚えていない。何となく声をかけられて、面白そう人だなと思って一緒に飲んで帰ってきて、やって寝て起きたらその人はいなくなっていた。しかも昨日は危険日だったのに中出しされてしまった。連絡先も交換していないからどこの誰だかも分からない。

 


 わたしには結婚を約束した彼がいる。わたしより十個上の三十三歳で既婚者、三歳になる息子さんと奥さんがいて、離婚に向けて話し合いをしているところだ。大学卒業と同時に結婚する予定だから就職活動とかはしていない。結婚したら家庭に入って専業主婦になるか、どこかパートにでも出るつもりだ。
 冷蔵庫に入っていたミネラルウォーターを飲み、わたしは昨日寝た男の顔を思い出そうとする。でもそれは曖昧なイメージが浮かぶだけで像を結ばず、声だけが記憶の端の方に残っている。
「それってさあ、ヤバくない?」
 おそらく口癖なのだろうがこの言葉を何度かわたしは耳にしていて、その軽薄な口調が男の頭の悪さを物語っていた。
 外に出すと言っていたはずなのだが、結局男はペニスを最後まで抜かず、残らず中に出し切った。ああ、やられたとわたしは思ったのだが、頭が快感で麻痺していてうまく働かなかった。
「ああ、気持ちよかった」
 男は勢いよくペニスを引き抜き、感想を口にした。
「ちょっと中に出さないって言ったじゃん」
「あぁ、ミスった。ごめん」
 絶対に嘘だった。抜く気なんてさらさらなかったのだ。中で全部出し切ってやろうという強い意志が、男が股間を押しつけてくるその力に込められていた。
「まじ最悪なんだけど、これ妊娠してたらどうするよ?」
「よーく洗っときゃ大丈夫。精子なんて流れるって」
 そんな会話をしてるうちに眠くなってきて、いつの間にか寝落ちしていた。で、起きたら一人。男の痕跡は消されていて、わたしのびらびらの中の白い精液だけが唯一の残留物ってわけ。
──おはよう。来月ほほちゃんの誕生日だと思うんだけど、なんかほしいものある?


 スマホが鳴って、見ると藤島正直からそんなラインが届いていた。正直と書いて「まさなお」と読む。ほほというのはわたしの名前で、「帆々」と書く。帆船のように風に乗ってまっすぐに突き進んでいくという意味を込めたらしい。お母さんが言っていた。まっすぐかどうかは知らないが、とにかく突き進んでいってはいる。
──ちょっと寝起きで思いつかない。考えてまたラインするね。
 左手でティッシュを取ってびらびらを拭いながら、右手でそう打ち込んで送った。
 すぐに既読がつき、よく見るクマの陽気なスタンプが送られてくる。
 ティッシュの繊維がびらびらにくっつき、白いこよりのようなものがいくつかできる。ああ、面倒くさいな。時間が経って精液が乾いてねちゃねちゃになってこびりついてて、取れなくなってる。
 来週の土曜日に高崎に住んでいる向こうのご両親に挨拶をすることになっている。こっちの両親にはまだ言えていない。既婚者だの子供がいるだのと言えば、絶対反対するに決まっている。お母さんは泣くだろうし、お父さんは顔を真っ赤にして酒を飲んで怒鳴る。だから言いたくないし、言えない。
 あぁ、もう死にたい。生きていてもいいことなんて何もない。
 トイレに行って最終的にビデで洗い流し、うんこをする。三日ぶりくらいだ。こんなにすっきり出たのは。バナナ二本分くらいが、ずるずると出た。昨日バックでかなり激しく長く突かれたからだろう。そこで尻だか腸の中の固まっていたうんこがほぐれて出やすくなったのだ。そう考えると悪くない。便秘の時はバックで突きまくってもらえばいいのだ。そうすれば便秘も解消するし一石二鳥だが、あまりにも効き過ぎると、イったときに出てしまう気がする。そんな場合、男はどうなのだろうか。イきながらうんこを漏らさせたら、とにかく大変なことになってしまうことだけは確実だ。おしっこくらいだったらいいだろうが、うんこだとどうなるのだろうか。どこまでが興奮してどこからドン引きするのか、そのギリギリラインがどこにあるのかがちょっとよく分からない。


 そういえば、よく正直とするのが、おむつプレイだ。これはセックスの時に赤ちゃんごっこをするわけではなくて、大人の介護用のおむつを買ってきてそれをわたしが履いて、コンビニでレジのお会計中に漏らすというものだ。漏らすタイミングは正直から指示が来る。ちょっと離れた場所から見守っていて、ラインに「うんこ」とか「おしっこやや多め」とか指示が来て、スイカでとかペイペイでとか店員さんに言っている最中に指示通り漏らすのだ。でもわたしは便秘気味なので、おしっこの方は大丈夫なのだが、うんこが指示通り出せずにいつもイキんで終わりか、出たか出てないかくらいしか出せない。最悪の場合、長めの屁が出て終わりというパターンもある。それを見ながら正直はニヤニヤして股間をモッコリさせている。わたしも背徳感と公衆の面前で漏らしている恥ずかしさで頭がトロトロになって、乳首が固くなり、子宮がキューッとなる。皆の視線が密かに現在進行形でお漏らし中のわたしに突き刺さり、子供たちの甲高い声が店の中に響いている。
 まあ、そんなことを二人でよくしている。いい年こいた大人が、恥ずかしげもなく。
 うんこがすっきり出ると死にたいという気持ちもけっこうすっきり晴れていて、あぁ、ただの便秘だったのだなと思い知らされる。生きていてもいいんだなと感じる。

         2

 正直からラインが来て、高崎行きが延期になったという。理由はお父さんの血圧が上がったから。それが嘘だということはわたしでなくても誰にでも分かっていたことだけれど、とにかくOKと返事をしておいた。
 離婚もしてないのに、挨拶なんてできるわけがねえだろ。
 そんなことはもう分かって分かって分かり切っていたのだけれど、正直がそんなことを言い出すからわたしはそれに付き合ってあげなければいけなかった。で、どうするのかと思えば案の定延期。いったい何がしたいのかさっぱり分からないのだけれど、正直なりの何だかよく知らない理由があったのだと思う。わたしが喜ぶとか、離婚が実際は成立していないのだけれど既成事実化するとか考えたのではないだろうか。


「もうすぐ離婚するから結婚しよう」
「じゃあ、わたしももうすぐ卒業するからそのタイミングで」
 ラインでそんなやりとりをしてから数ヶ月が経つ。
 お互い嘘ばかりだ。大学なんて一生懸命勉強して二浪して入ったはいいけど、バカらしくなって途中から全然行かなくなり、単位も取れていないから卒業なんてできるわけがない。一緒の年に入った子たちはこの春で卒業だけど、わたしは五年生になることが決まっているばかりか六年生で卒業できるかもあやしい。七年生とか八年生まではいけるらしいが、そこで自動的に除籍になるらしい。おばさん大学生っていうのも悪くはないが、ますますバカらしさが募り、授業もレポートもゼミも茶番でしかなくなるだろう。親からもいい加減にしろと怒られ、仕送りも止められ、わたしは生きるために風俗で働くしかなくなる。正直の息子さんも大きくなり、高校生になって正直の言うことを全然聞かなくなり、家庭内暴力を振るうようになり、家の中がめちゃくちゃになって離婚なんて空気ではなくなる。もう終わりだね。君が小さく見える。正直がそんなことを言い出し、そのまま自然消滅してわたしは金なし風俗オババになる。
 大学の中に議論をするサークルっていうのがあって、大学生たちが何の責任もなく、ああでもないこうでもないとまるで現実的でないことを言い合うことに時間を費している。言い合った後はいつも飲み会があって、酒を飲んで飲んで酔って酔って酔っ払って、なにもかも分からなくなってその中の一人と寝てしまうこともある。この場合寝るというのは眠るという意味ではなく、セックスするということで、居酒屋の堀炬燵の中でことに及んだり、わたしの家のベッドでしたりする。性欲を掻き立てられた男とは、基本的にする。もちろん正直との関係もある。しかし、抗えないパターンが多い。流れができて、そういうモードになって、する。男たちはたいてい中出しをしたがって、わたしもいざその時になると中に出してもらいたくなるからそのまま受け入れちゃって、いつ妊娠するか分からなくてもうそれは恐怖でしかない。

 いったいわたしは何をしているのだろう?

 ふと我に返って、わけが分からなくなってそう思って死にたくなる時がある。正直は結局離婚も結婚もしてくれないだろうし、わたしはどんどん年を取って、そのうち仕送りも止められる。バイトなんてどれも長続きしなかったし、お金がないと生きていけないからもう死ぬしかない。でもわたしに死ぬ勇気なんてない。何度か試したけどダメだった。だから生きているしかない。生きているしかないのだが、生活は仕送りに頼っているからそれをずっと継続してもらうしかない。でもこんな暮らしがずっと続けば、わたしの頭はどうかしてしまう。脳がふやけ切って白子みたいになってその水分が抜け出て鼻をかんだ後のティッシュを丸めたものみたいになって、何も考えられなくなり、そこらじゅうの男たちに見境なくやらせまくって性病になってその毒が脳にまで回り、頭がおかしくなって死んでしまうだろう。

 

 

つづく(予定)
2022年10月09日

PC用 縦書き短編小説1 トラウマを思い出せ




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2022年11月20日

MHKスペシャル クローズアップ現在 「共に生き、分かち合う〜ダブル夫婦という生き方~」



MHKスペシャル クローズアップ現在 2029年5月10日(月)放送回分
「共に生き、分かち合う〜ダブル夫婦という生き方~」


桑田舞キャスター:幅広い年代から注目され、今や社会現象となっているダブル夫婦。二組の男女がお互いそれぞれを夫婦と認め合い、同じ家に住み、子どもを産み育て共に生活する。
その圧倒的な支持と広がりから「現実社会のゆがみを解消する切り札」との専門家の見方も出てきています。また、民法改正の動きも社連党を中心とした野党から始まりました。
なぜ今、ダブル夫婦は多くの人に支持されるのか。今回、埼王県のご自宅で今年で三年目というダブル夫婦が、テレビのインタビューに応じてくれました。
インタビューから見えてきたのは、ダブル夫婦という生き方、そしてその生き方に通じる信念でした。


桑田:今回はお忙しい中取材にご協力いただき、ありがとうございます。MHKの桑田と申します。よろしくお願いいたします。

一同:よろしくお願いします。

桑田:先に法律上の夫婦関係からおうかがいいたします。まず、こちらの女性のご主人は?

小林圭介:はい、私です。

桑田:ということは、残るこちらとこちらのカップルがご夫婦ということですね。では小林さんから簡単な自己紹介をお願いいたします。

圭介:はい。小林圭介と申します。年は三十八歳で、都内のプロダクションで映像制作の仕事をしています。

桑田:ありがとうございます。では、次は奥様お願いします。

小林智里:はい。小林智里です。年は夫の一つ下で、専業主婦です。週に四日マツケヨでパートをしています。

桑田:ありがとうございます。では、次はそちらの男性の方。

安川祥太郎:はい。安川祥太郎と申します。年は三十五です。去年まで電機メーカーの営業をやってたんですが、リストラにあって今は一応無職です。副業でやっていたWebライターの仕事は続けてるので、もうそっちが本業になってちゃってるんですが……。

安川優紀:妻の優紀です。年はご想像にお任せします。Webデザイナーをしています。新宿にオフィスがあって、一応代表をしてます。

桑田:みなさま自己紹介ありがとうございました。次にご夫婦同士のご関係をおうかがいしてもよろしいでしょうか?

優紀:智里とわたしが高校時代からの親友で、祥太郎と圭介は大学の先輩後輩。たしか演劇サークルだったっけ?

祥太郎:そうそう。圭ちゃんが役者で俺が脚本と音響。ま、思いっきり素人芝居ですけど。

圭介:そんなん言うなよ。お客さんも結構来てたやんけ。

智里:そうそう。そこでお客さんというか、お芝居観に行ってわたしがすごい面白いって思って、友達の優紀も誘ったのがきっかけです。

祥太郎:で、役者が客に手を出した、と。

圭介:おいおい、ちゃうわ。なに言うてんねん。

桑田:そのような経緯で四人はお知り合いになられたということですね。それで、ダブル夫婦という話が出たのはいつ頃ですか?

祥太郎:いつだったかなー。ちーちゃん(*編注 智里)と圭ちゃんが結婚したあたりじゃなかったかな。

優紀:そうそう。そこでうちらも結婚しよっかって話になったんだけど、どうせだからダブル夫婦がよくない? って思って。

桑田:祥太郎さんはそのダブル夫婦という話には賛成だったんですか?

祥太郎:いやいや、そんなわけないでしょう。はじめは何だそれ? って思いました。圭ちゃんもちーちゃんも仲のいい先輩だし友達だったけど、えっ、ちょっとってなりましたよ。

桑田:智里さんに対して恋愛感情はない、と。

祥太郎:ないって言ったら嘘になりますかね、あるっちゃありましたよ。じゃないとダブル夫婦になってないですしね。でも、それは、……そういう感情は持っちゃいけないものだと思ってましたから。

優紀:わたしも圭ちゃんに対しておんなじような好きっていう気持ちがあったし、それと同じくらい祥ちゃんのことも好きでした。で、お互いがそう思ってるんだったら、とりあえずうちらが結婚して、ちーちゃんとことダブル夫婦になればいいんじゃない? って考えました。

桑田:小林さんご夫婦はそれに対してどういうお気持ちだったんでしょうか?

智里:わたしは反対でしたね。正直、何言ってんの? ってはじめは思いました。

圭介:いや、俺も。ダブル夫婦ってなに? って感じでしたよ。

優紀:そうそう。すごい拒否反応だった。もう、縁切られるかと思うくらい。でも智里が祥ちゃんのことを悪く思ってないっていうか、すごい気が合うってことは分かってたし、だったらもうダブル夫婦でよくない? って二人を説得したんです。

圭介:まあ、俺も優ちゃんのこと嫌いじゃなかったし、まあ、魅かれる気持ちはあったっていうか……。

桑田:嫉妬とかそういうお気持ちは?

優紀:わたしはありません。祥ちゃんと圭ちゃんが智里と仲良くしてても別に何とも思わないです。

祥太郎:わたしもないですね。まあ、っていうかどっちもどっちですから。

圭介:俺はどうかなー。ちょっともやもやはするけど。

祥太郎:え、ほんまですか? それはいつ? たとえば。

圭介:いや、そりゃ、俺が仕事行ってる時にお前が智里とその、……とか思う時はあるよ。

祥太郎:で、もやもやするんすか?

圭介:そりゃするだろ。智里とだけじゃなくて、優ちゃんともしてると思うと、男としてはそりゃ、まあ……。

桑田:智里さんはどうですか?

智里:わたしは特には。優紀はなんていうか魅力的な女性だし、可愛くてスタイルもいいから圭ちゃんがひかれるのもよく分かるし。

祥太郎:俺はちーちゃんのそういう控えめなところが好きなんだよね。

優紀:控えめじゃなくてすみませんね。

桑田:では、智里さんは嫉妬心があるということですか?

智里:いえ、特にないです。もうそれが当たり前というか、そういうものだっていうふうに思ってるので。

桑田:当たり前?

優紀:ダブル夫婦ですから。お互いに仲良くするのは当たり前です。

祥太郎:嫉妬とか言ってたらやってらんないよね。

桑田:そのいわゆる夫婦関係とかはどのようになさっているのでしょうか?

優紀:セックスのことですか?

桑田:はい。

優紀:基本的には自由です。お互いどちらとしてもいいことになっています。避妊はしていません。わたしは子どもが欲しいと思っていますし、それは祥ちゃんの子でも圭ちゃんの子でも構わないと考えています。

智里:わたしも同じです。というより、それがダブル夫婦をしている一番の理由です。子どもが欲しいんです。でも、ずっと出来なくて、祥太郎さんの子どもだったら圭ちゃんの子じゃなかったとしてもいいかな、って。

桑田:じゃあ、男性陣は、その、お二人とされるということですか?

祥太郎:ええ、そうっすね。

圭介:いや、俺はほとんどしてへんで。忙しいし。そのなんか、罪悪感っていうか…。

優紀:前はしてたじゃん。

圭介:いっぺんな。もうでも、俺そういうのええかなって。

智里:そうなん? もっとしてんのかと思ってた。

桑田:祥太郎さんはどうですか?

祥太郎:してますね。昼間ちーちゃんとして、夜に優ちゃんが帰ってきたら優ちゃんとまたしてみたいな感じです。

圭介:まぢか? ほんまに? むちゃむちゃやな。

優紀:いいじゃん、別に。ダブル夫婦なんだし。

桑田:そのあたりのところは智里さんはいかがですか?

智里:わたしは子どもが欲しいからしてるだけです。

桑田:では、子どもが出来たらこの関係は終わらせるということですか?

優紀:一緒に育てていくことになるでしょうね。ダブル夫婦ですから。

智里:わたしは出来てみないと分からないです。子どもにとっていい環境かどうかというのもあるので。

桑田:男性陣はいかがですか?

祥太郎:四人で育てていければって思ってます。手が空いてる人が家事とか育児とか、たとえば赤ちゃんのおむつ替えとミルクとか四人いれば、誰かしら手が空いてると思うんでワンオペとかそういうのとは真逆の最強の子育てになるかな、と。

圭介:いや、俺は子どもが出来たらちょっと……。

桑田:現場からは以上です。



[了]

2023年02月19日