短編小説12 遺産
現実はなかなかに厳しい。
親が死んで転がり込んだ遺産も、三年もしないうちに使い切ってしまった。かなりの額があったのだが、そこで慢心してしまい、あれもこれもと買い込んでいくうちにいつの間にかなくなっていた。
妻子にも逃げられ、私は文字通り路頭に迷った。夜中になるとコンビニの裏手にあるゴミ捨て場をあさり、廃棄された賞味期限切れの弁当を貪る。ついでに駐車場のところにある水道の水も拝借する。
寝場所は公園のベンチだ。雨の時は滑り台の下に移動する。ゾウさんの鼻を横に五、六メートル伸ばしたようなデザインのもので良い雨避けになる。
どうしてこんなことになってしまったのだろう、とよく考える。
まず、遺産が入ると分かった時点で仕事をする気力が失われた。しなくてもいいことをするというのは、人間には不可能なことなのだ。
親を突然亡くしたショックで立ち直れないから、しばらく休暇をもらえないかと職場に申し出た。とりあえず二週間という期間が与えられ、それが終わる頃になると、もう働く気力がどこにも残っていないことに気づいた。
精神的にも体力的にもボロボロで、仕事を続けていくことが難しいので退職します、と電話を入れ、私物も適当に処分してくれと言い残して電話を切った。嘘か本当か自分でもよく分からなかった。半分半分というのが妥当なところだ。全部が全部嘘ではない。
仕事に行かなくなると、私の生活は荒れた。好きなビールを昼間から飲むようになり、夜はだいたい明け方まで起きてパソコンや携帯でネットや動画を見続けた。
妻や子どもとの喧嘩も増えた。どうでもいいことで言い合いになったり、言葉遣いが荒くなったり、家の中はだんだんと不穏な空気が張りつめていった。
引っ越しをしようと先に言い出したのは妻の方だった。この家は家相が悪いから、別の家に引っ越して悪い気を取り払おう、と。
私も鬱屈としたものが溜まりに溜まり込んでいたところだったし、敢えて反対はしなかった。子どもも新しい家と喜んだから、その時点で引っ越しは決定した。
しかし、それが最大の失敗だった。それさえなければまだ金はあったはずなのに、何千万という金をつぎ込んで土地付きの家を買ってしまったから、遺産の額が一気に減った。それだけではない。車も新しいものに買い替え、軽井沢に別荘も買った。
新しい家は快適で、家具も家電も新調し、妻も子供も大いに喜んでいた。夏休みに入ると別荘にも遊びに行き、満ち足りた優雅な生活を満喫した。だが、一気に減った金の額に私はやや焦りを感じていて、これを増やさなければと考えた。そして、株式投資というものに飛びつき、大手証券会社のディラーに言われるがままに様々な会社に投資をした。
だが、戦績は惨憺たるもので、結果的には金の額は半額以下になり、このままではあと数年で金が底を突くという状況になった。思い悩んだ私は、何か憑き物でも憑いているのではないかと思い、評判の霊媒師にみてもらった。すると案の定で、いますぐ除霊しないと大変なことになると言われた。
高額な謝礼金と引き換えに除霊をしてもらい、大きな仏壇も買った。これで運気も上向きになると思った矢先に軽井沢の別荘が大雨による地滑りで倒壊し、修理費用でまた大金が飛んでいった。さらに私が妙な宗教にはまっていると妻が言い出し、そのことで大喧嘩になり子供を連れて家を出ていき、連絡もつかなくなった。私がそのことを話すと、霊媒師はこの前除霊した憑き物が今度は非常に大きなものを引き連れてきていると言って、さらに本格的な除霊が必要だと言い出した。このままでは不幸が雪だるま式に連鎖して最終的にはあなたは死ぬ、と。
私はまたなけなしの金をはたいてその本格的な除霊をしてもらい、軽井沢の別荘も売却したが、一度地滑りの起きた土地は二束三文にしかならず、さらに車も売ったが大した金にはならなかった。
仕事を始める必要性に駆られた私は、何年振りかにスーツを着ていくつかの企業の面接を受けた。しかし、四十過ぎで経歴的にも大いに問題のある男を採るところなどどこにもなく、次第に金はなくなっていって、仕方なく私は土地と家を売って安いアパートに引っ越した。贅沢をせず、細々と生活していけば何年かは生きられる。そう考えていた。
だが、狭いアパートで鬱屈した感情を抱えていた私は近所のパチンコ屋に通うようになり、たまに勝つと有頂天になり、その快感が忘れられずさらにお金をつぎ込んでいっては負けるというパターンに落ち込んでいった。すると、まとまった額があったはずの預金残高はみるみる減っていき、十万円を切ったあたりで、ようやく私はパチンコをやめることができた。
二ヶ月後には家賃も光熱費も払えなくなり、アパートを追い出され、私は路上生活者となった。
遺産だ。遺産さえなければこんなことにはなっていなかった。
だからといって親を怨む気にもなれない。親はよかれと思って大きな額の遺産を残し、私がいわばそれを悪用しただけのことだ。親に罪はない。それが分かっていながら、なぜ私はまともな人生を送れなかったのだろう。
仕事をする気力やモチベーションが失われた。お金を稼がなければいけないから、それまで私は仕事をしていたのであって、それ以上でもそれ以下でもなかった。
H市内に六つの店舗を持つレンタルビデオ屋の管理職だった。シフトを組んでパート・アルバイトさんにレジに入ってもらい、棚のレイアウトやランキングの棚を変え、ポスターを新しいものに変え、新作のカタログから良さそうなものや話題になったものをピックアップして発注し、回転しなくなった古いものは中古業者に買い取ってもらう。学生時代から続けてきたアルバイトの延長線上で、そのまま社員になった。
給料は安く、拘束時間は長く、ネットフリックスやプライムなど動画のサブスクの台頭で会社の業績は順調に右肩下がりという職種ではあったが、私に合ってはいたと思う。縮小しているとはいえ世間の需要はあり、私の仕事はそれに応えていた。
遺産をもらうことによって、私はその世間の輪の中から出てしまったのだと思う。求め、求められるという輪。私は欲しいもの、必要なものをお金で買って、仕事の時にはそれを売っていた。
こんな境遇に落ちたら、世間もクソもないだろう。誰の役にも立っていないし、誰からも求められない。
私は私のためだけにある。
*
「おい、おっちゃん。どないしたんや?」
甲高い男の声で、私はその声に聞き覚えはなかった。
「あ?」
上半身を起こすと、目の落ち窪んだ骸骨のような顔の男がこちらをのぞき込んでいた。
「おにぎり、いるか?」
男の右手には、湯気の立った大きなおにぎりがあり、それを差し出された。
私は昨日一日何も口にしておらず、男の手からおにぎりを奪い取ると、夢中で頬張っていた。塩気もほどよくきいていて、海苔も香ばしく、具の鮭も身が締まってプリプリで堪らなかった。
「向こうにもっとあるで。行かへんか」
うしろを親指でさし、男はそう誘ってきた。
「なんや? お前何やねん」
男の風貌は怪しく、問い質すとこう答えが返ってきた。
「ボランティアや。しのボランティア」
へえ、そういう人はたまに来るが、見ない顔だった。
「へぇ、S市もやるやんけ。税金そういうとこに使わなな」
私はそう言って立ち上がり、靴を履くと、男の後についていった。
たまにこういう人はいる。ボランティアだか偽善だかで声をかけたり、食べ物をくれたりする人。気まぐれに来て、気まぐれに去っていく。仕事ではないから、何の責任も義務もない。
男は繁華街の裏路地にある小さな雑居ビルの中に入っていった。階段を三階まで上り、篠宮興業というプレートの掲げられたプレハブ製のドアを開ける。
「お客さんや!」
中へ足を踏み入れたところで男がそう怒鳴り、するとパーテーションで仕切られた部屋の奥からこわもての男たちが三人顔を見せた。
「おにぎりとお茶! はよせえ!」
顔を見るなり怒声を発し、男たちは慌てて散り散りばらばらになった。
「どうぞ、どうぞ、こちらへ」
あまりにも怪しすぎたし、帰りたいところだったが今さら帰れる雰囲気ではなかった。
四畳か五畳ほどの狭い部屋の真ん中に机が置かれ、その前後に黒のパイプ椅子が置かれている。まるで警察の取調室のようだった。
奥側の椅子を手で示され、私は仕方なくそこに腰を下ろした。
「いまあいつらが持って来ますんで、お待ちください」
妙にへりくだった口調でそう言うと、男は向かい側の席にどっかりと座る。
「あぁ、すみません。申し遅れました。ここで代表しとります篠宮、言います」
ポケットから無造作に名刺を取り出し、私の目の前に置く。
そこでドアがノックされ、お盆におにぎりとお茶を載せて、先程の三人の中で一番背の高い男が入ってきた。
「すんません。遅くなりました」
三分と経っていなかったから早すぎるくらいだったが、男はそう言って頭を下げ、お盆ごと机の上に置いて行った。
「どうぞどうぞ食べてください。遠慮なく」
私はごくりと唾を呑み下すと、まだ湯気の立っているおにぎりに喰らいついた。米が柔らかく甘く、海苔もほどよい塩気が効いていてとろけるほど美味かった。梅干しが具で入っていて、ご飯との相性が抜群で、噛むと全身の神経に血が行き渡って痺れのような感覚をおぼえた。
喉の奥で詰まる感じがしてしゃっくりが出そうになったが、お茶を飲んで流し込んだ。
二つ目にもすぐに手を出し、バクつくと、今度は鮭だった。身がプリプリで甘じょっぱく、ご飯との相性が抜群で、それはまさにおにぎりという器の中で二匹の子犬が元気よく駆け回っているようだった。
「どうです? 旨かったですか?」
食べ終わってお茶をすすっていると、篠宮がニヤつきながらそう訊いてきた。
「ええ、すごく。ごちそうさまでした」
とりあえず、一日分くらいにはなった。
「それでですね。脇田さんにとっておきのお仕事をご紹介したいんですよ」
あれ? 名前……。
「簡単なお仕事なんですよ。脇田さん、以前ウィンドという会社にお勤めでしたよね?」
ウィンドは遺産が入るまで勤めていた会社の名前だ。
「……ええ、まあ」
「あそこの坂巻さん、ご存知ですよね?」
坂巻賢二郎は社長だった。今はどうなっているのか知らないが。
「ええ、社長です」
正直気にくわない男だった。先代社長の息子で、自分が無能なことを誤魔化すために精一杯虚勢を張って、誰彼構わず威張り散らし、怒鳴り散らしていた。
「いえ、そっちじゃなくて会長の方」
「勘太郎さんの方ですか?」
現場や会長職に退いてからかなり経っているはずで、いまご存命なのかどうかすら知らない。
「ええ、そうです。顔分かりますよね?」
「はい、まあ」
会議の時などに何度かお話ししたことはあって見れば分かる。
「その坂巻勘太郎を誘拐してきてほしいんですよ」
「は?」
「もちろん、仕事ですからお金はお支払いいたします」
「いや、……でも誘拐って」
「脇田さんの取り分は一億」
にわかには信じ難い金額だった。
「向こうにはいくら要求するんですか?」
「三億。それがあいつらの出せるギリギリの額」
よく調べている。三億はあの会社の内部留保の相場だ。社長の報酬も同じくらいと噂で聞いたことがある。
「計画はもうできてる。あとはあんたが入って実行するだけだ」
失うものはすべて失っている。もうどうなったって構わない。
「それで、私は何すれば──」
*
前日から降り続いた雨のせいで、未舗装の道はぬかるみ、ところどころに大きな水たまりができていた。車がその上を通るたび車体が大きく揺れ、派手な水しぶきの音がした。
後部座席に一人で座り、わたしはバックミラー越しにチラチラとハンドルを握る若い男の顔を盗み見ていた。長谷川と呼ばれている男で、特徴的な分厚い下唇を噛んで暗い目をしていた。
助手席では篠宮が座ってスマホをいじっている。
世田谷の狛江市寄りにある〇城学園という高級住宅街の中に、坂巻一家の自宅は建っていた。社員への給料は少なく、ボーナスも業績悪化を理由に退職する三年くらい前から出ていなかった。豪邸や広大な敷地を売り払えば、余裕でボーナスもベースアップも実現できただろうに。
「停めろ。ここから先だとカメラに映る」
私は篠宮と共に車を降り、五十メートルほど歩いて坂巻の家の前に着いた。
まるで要塞のような家だった。ガレージにはベンツとポルシェが並んでいて、そのいずれもがピカピカに磨き上げられている。息子の方が車道楽だと聞いたことがある。会社の金で高級外車を買い、これみよがしに店にそれで来る。社員はみな中古の軽自動車に乗っているというのに。
インターホンを鳴らし、カメラの正面に来るようにした。
「はい」
しゃがれた老婆の声。
「突然すみません。以前城ヶ島インター店の店長をしておりました脇田と申します。ちょっと近くを通りかかったものですから、坂巻会長にご挨拶をと思いまして……」
「少々お待ちください」
そのまま五分ほど待たされた後、階段の先にある玄関のドアが開き、坂巻勘太郎本人が姿を見せた。
「社長! お久しぶりです」
かくしゃくとした姿は昔と変わらず、ギラギラとしていながら温厚な顔立ちと鋭い目つきも相変わらずだった。私の中ではやはり社長はこの人ただ一人だった。賢二郎はしょせんこの人の息子に過ぎない。それ以上でもそれ以下でもない。
階段をひょこひょこと下りてきて、玄関口の柵を内側から開ける。
「おう、脇田君か。いやー、心配してたよ。会社辞めてからどうしてたんだ?」
私の肩に手を載せ、ぽんぽんと優しく、それでいて力強く叩いてくれた。
「ご心配おかけしてすみません」
深く頭を下げる。これからの計画のことを思うと、心がふさいだ。
「それでですね、実は私も独立っていうかこのすぐ近くにビデオショップを開いたんですよ。そこをぜひ社長に見ていただきたくて」
そう言いながら私は歩き出した。篠宮は携帯で電話をかけ、車を呼び出している。
「え、独立? 近くってどこだよ?」
「駅の方です。ここから歩いて五分もかかりません」
黒のプリウスが我々のすぐ脇に停車し、篠宮は坂巻の右腕をつかむと強引に後部座席に引きずり込んだ。私も続けて社長を押し込むように乗り込み、ドアを閉めるや否や車は急発進した。
「おい! どういうつもりだ」
「社長すみません。金のためなんです」
「誘拐だよ。あんたの息子に金を出してもらう」
すると、坂巻は黙って天を仰いだ。
「あいつは金は出さんよ」
落ち着いた口調だった。
「何故だ?」と篠原が尋ねると、こんな答えが返ってきた。
「あいつは俺に死んでもらいたがっている。遺産が目当てなんだ。会社も経営をあいつに任せてからもうすぐ十年が経つが、この十年であいつは会社を完全にダメにした」
「ええ。そうですよね」
私は深く頷きつつ、相槌を入れた。
「今度の株主総会で、俺と〇販であいつの解任決議を取ろうと思ってたんだ。俺が35パーセント持ってて〇販が20パーセント持ってるから、解任は可決される。あいつにはもうそれは言ってある」
そんな計画が……。
「いま俺が死ねば遺産が手に入るし、経営者の地位も退かずにすむ。でも、あいつはきっと何年もしないうちに遺産を食いつぶして、会社を倒産させる。間違いないね」
「解任後は誰を社長にするおつもりだったのでしょうか?」
「俺が社長に戻って、副社長を菅田にするつもりだった。それで三年以内に菅田に社長の地位を譲って俺は引退する。若い奴らに任せないとダメだからな」
菅田さんは私が城ヶ島インター店にいた頃のエリアマネージャーだった人だ。現場を鼓舞し、必要なサポートを的確に提供してくれるズバ抜けて頭の切れる人だった。
「遺産ってのはいくらだ?」
篠原がそう訊くと、坂巻はこう答えた。
「税金とか色んなもん差っ引くとざっと正味三億ってとこだな。この十年でほとんど無くなった。赤字の補填にずいぶん注ぎ込まされたし、持ってたうちの株も株価が三分の一以下になったからな」
三億。私が相続した遺産とだいたい同額で、誘拐の身代金の額とも奇妙に一致していた。
「社長、遺産なんてロクなもんじゃないですよ。人間をダメにします」
私は決意を固めると右足を振り上げ、運転していた男の左脇腹に思い切り蹴りを入れた。
車は左に大きく曲がり、道路脇の電柱に勢いよく突っ込んだ。同時にエアバッグが作動し、運転手の顔がそこに呑み込まれていく。
坂巻の腕をつかみ、私は車外へ出ようとした。すると篠原が中から引っ張ってきたが、同じ右足を今度は篠原の鼻柱にめり込ませると、その手が離れた。
外に出ると人だかりができていて、スーツの男性が怒鳴るような大声で車が電柱に突っ込んだと救急の電話をかけてくれていた。
遺産はなんてない方がいい。
生きる意味を見失ってしまう。
[了]