短編小説17 ゴミ捨て場
ある土曜の晩、高橋みきおが玄関に置きっ放しにしていたア〇ゾンの荷物を取りに行くと、靴箱の上にゴミ捨て場掃除当番表があった。
「あっ、ヤバい! やってない」
「え、なにが?」
台所で洗い物をしていた妻のさえこが訊き返す。
「掃除当番! ゴミ捨て場の。昼にやるって言ってて忘れてた。行ってくるわ」
夜十時過ぎで、みきおは風呂上がりのスウェット姿だったが、構わずサンダルをつっかけ、当番表と鍵だけを持って家を出た。
暗くて静かな夜だった。十メートルおきに設置してある外灯の明かりくらいしかない。
スタスタという足音を響かせながら、当番表をぶら提げ、歩いて三分ほどのところにあるゴミ捨て場に向かう。
「うぇっ、なんだこれ……」
ゴミ捨て場に着くと、みきおはそう呟いた。ゴミ捨て場のベニヤ台の左端に白いシロップ状のものがぶち撒けられていて、そこに蟻や虫がたかっている。
備え付けのほうきを手に、その白いものを掃き出そうとしたが、樹液のように固まっていて取れない。
あー、もうこれは取れないなと諦め、他の部分だけおざなりに掃いて落ち葉などを台の外に落とし、みきおはゴミ捨て場を後にした。
当番表を隣の加藤家のポストに入れた時、防犯用のライトのセンサーが反応し、ひどく眩しかった。
家に戻り、さえこにシロップ状のものの件を話すと、もうそれはしょうがないんじゃない、と夫婦の意見が一致し、みきおは歯を磨いて寝た。
翌週の月曜、みきおは朝ゴミを捨てるためにゴミ袋を両手に提げてゴミ捨て場に行った。
「えっ、なんだこれ?」
横断幕のような張り紙がしてあって、そこには
ゴミ捨て場の掃除はしっかりやりましょう!
みんなのゴミ捨て場です。各自責任を持ってください!
と大書され、その横に家庭用プリンターで印刷されたあのシロップ状の液体の写真が貼られていた。
見ると、あの液体はきれいに拭き取られていて跡形もない。
カラス除けのネットを上げてゴミを置くと、スマホを取り出して写真を何枚か撮った。
みきおの心はざわざわと慄き、駅まで歩いて行く道すがら、ずっとゴミ捨て場のことを考え続けた。頭は沸騰したように様々な感情や思考が入り乱れ、気づくと駅に着いて階段を上っていた。
改札を入ると、赤羽で事故があったらしく、ダイヤが大幅に乱れてホームには人が溢れていた。
くそっ、こんな時に! っていうかやっぱりあの加藤のクソじじいだな。暇な老人が。こっちは忙しいんだっつーの。ゴミ捨て場ごときを気にしてる余裕はねえんだよ。
とりあえず上司にメールを入れ、電車が遅れている旨を伝えた。
今度会ったら思いっきり無視してやる。向こうも、うちだって分かっててやっていやがるんだろうから、覚悟くらいできてるだろう。温厚そうなじじいだと思っていたが、腹ん中では何考えてるか分かんねえな。
ホームに入場制限がかかる中、四十分遅れで超満員の電車に乗り、一時間近く遅れてみきおは職場に着いた。
「すみません。赤羽で線路に人が転落とかで、もうほんとに電車が来なくて」
仕事を始めている皆にも聞こえるよう、やや声を大にして上司の片山に頭を下げる。
「でもね、もう少し時間に余裕を持って来ればよかったんじゃない。わたしなんか、二、三本遅れても間に合うのでいつも来てるよ」
耳に指を突っ込んでほじくりながらそう言われると、もはや怒りすらわいてこない。
「すみません。明日からそうします」
「早いのは空いてていいよ。ドンピシャの時間だとキツいだろ」
都内の高級マンションに住んでいて夜も早く帰れる片山とは違って、みきおは埼玉の郊外に家があって最寄り駅までも遠く、通勤は一時間以上かかる。そのためだけに今より早く起きるのは、中年に差し掛かったみきおには体力的にキツかった。
「あ、はい。早い電車ですね。以後気をつけます。すみません」
腹のうちが見透かされないよう表情に気をつかいながら頭を下げ、みきおは自分のデスクに戻った。
加藤修は十五年前に会社を定年退職し、退職金の半分以上を株に注ぎ込み、配当と売却益を得ながら生活している孤独な老人だった。
息子が一人いたが、高校生の時に自宅の自室で自殺した。ドアノブにタオルで自分の首を引っ掛けるという、その当時人気のあったミュージシャンが実際に死んだのと同じ方法で息子は死んだ。もう二十年以上前のことになる。
妻の洋子は三年前に急性心不全で突然死し、そのショックが癒えぬまま年月だけが経過していた。
加藤自身は元気そのもので、持病もなく風邪すら引かず、毎日同じ時間に起き、同じ朝食を食べ、九時になるのを待って自分の持っている会社と同業他社の株価や指標の動向、発表された企業の決算書の数字を「株価ノート」にボールペンで書きつける。お昼を挟んで午後はじっくりと時間をかけて新聞を読み、広告をチェックし、近所のスーパーと薬局に買い物に出かける。夜は夕飯を食べて晩酌をしながらテレビを観て、風呂に入って寝る。
そんな生活を三六五日送っていると、昨日と今日の区別がつかなくなり、一年前と一昨日がまるで変わらない感覚に陥る。
息子の浩輝に残すはずだった遺産も、郷里の山形にいる自分と大して年の変わらない親類たちが山分けすることになっている。
生きがいと社会との接点になっている投資活動は、それ自身が目的化している。得てしてそういうものだが、欲のない人間が利殖行為を行うと儲かる。欲をかかず数字と客観的なデータで買いや売り、買い増しや損切りができるために損をしない。
九月十六日の晩、防犯用に設置してある玄関のライトが瞬き、加藤は布団から飛び起きた。そして窓を少し開けて外を覗くと、光の中で中肉中背の男が逃げていくところだった。
強盗かもしれない。光に照らし出されて慌てて逃げていったのだ。セ〇ムに入って防犯カメラとライトを家の周りに数箇所設置していたのが功を奏した。番犬なんかよりもよほど効果がある。
時刻を見ると午後十時過ぎで、およそまともな人間の訪ねてくる時間ではない。加藤は家の電話からセ〇ムに連絡し、強盗に押し入られそうになったことを話し、自宅周辺の警備を依頼した。
およそ一時間後にインターホンが鳴り、セ〇ムの制服を着た男が玄関モニターに映し出された。中に入ってもらい、自宅周辺の捜索の結果、特には異状はなく、怪しい人物もいなかったとの報告を受けた。
「防犯カメラをちょっと見せていただけますか?」
備え付けの機器の前にしゃがみ込み、ノートパソコンに繋げて操作し始めた。
「十時かちょっと過ぎくらいです。だいたい」
加藤も後ろから覗き込み、パソコンの画面の中で時間が巻き戻っていくのを見つめる。
「あっ」
光の中に人影が現れ、灰色のスウェット姿の男がポストに何かを入れていくのが映った。
セ〇ムの警備員は男がポストにそれを入れる直前、顔が正面から映ったところで画面を停めた。
「この男に見覚えはありますか?」
どこかで見たような感じの男だった。だが、思い出せない。
「いや、……ええ」
「ポストの中を確認してきていただけますか? 何かを入れてるように見えますが」
玄関を出て、ポストの中を見るとゴミ捨て場の掃除当番表が入っていた。その表に書いてある順番表を見て、加藤は男の顔に思い当たった。隣の家の高橋だった。
当番表を玄関の靴箱の上に置き、加藤は部屋に戻る。
「何か入っていましたか?」
「いえ、……特には」
警備員はその場で報告書を書き、タッチペンで加藤のサインをもらうと要警戒地点に登録したので引き続き警戒に当たります、と約束して帰っていった。
加藤は恥ずかしさと憤りで顔を真っ赤にしていた。
あんな非常識な時間に掃除当番表を持ってくるなんて、完全にどうかしている。どうせ掃除もろくにせずに回しているんだろう。若いからって何もかもがゆるされるわけではない。今度会ったら、ちょっと今回の騒動のことを言ってやろう。強盗かと思ってセ〇ムを呼んでしまった。普通は昼か、せめて夕方くらいまでに回すのが常識だ、と。
興奮で寝れず、流しの下にあった焼酎をしこたま飲んで三時過ぎにようやく眠れた。
翌朝、二日酔いの頭痛で目が覚め、加藤は頭痛薬と胃薬を飲んでやり過ごした。
腹のうちには隣の高橋に対する怒りと恨みが渦巻いていて、サンダルを突っ掛けてゴミ捨て場を見に行くと、案の定、目を覆いたくなるような惨状が待っていた。
ゴミ捨て場のベニヤ台の左半分が白い豆乳のような液体でひどく汚れていて、そこには無数のアリや羽虫がたかっている。残りの右半分は空き缶や投げ捨てられたポ〇トチップスの袋や吐き捨てたガムやらが散乱している。髙橋が昨日掃除をしていないことは、明らかだった。
いずれにせよ明日の月曜は自分が当番なので、加藤は自宅からデジタルカメラとゴミ袋と雑巾、それに水をたっぷり入れたバケツを持ってきた。そして惨状を色々な角度から写真に撮った後、清掃に取り掛かった。外の空気に当たったことと高橋に対する怒りが二日酔いの頭痛を吹き飛ばしていて、二十分程でゴミを残らず袋に入れ、バケツの水と雑巾で白い液体もきれいに拭い去ることができた。
清掃後の写真をカメラに収めてから自宅に戻り、バケツの水を下水溝に流し、雑巾を洗面所で洗った。そして、このまま逃げ得をゆるしてなるものかという強い思いが加藤の胸のうちに芽生えてきた。
なんとか成敗してやらなければならない。順番に回ってくる当番の掃除もせずに、夜中のあんな時間に当番表だけ回してくる。そんな非常識なやからに、非常識な行為をさせたままのさばらせておくわけにはいかない。
株価を見るのに使っているパソコンを立ち上げ、デジカメのSDカードを差し込んであの清掃前の惨状を写したものをプリントアウトした。そしてメモ用紙を取ってきて、いくつか文面を考えた後、ご近所の手前もっとも控えめな表現の
ゴミ捨て場の掃除はしっかりやりましょう!
みんなのゴミ捨て場です。各自責任を持ってください!
にし、紙を何枚か連ねて裏をテープで張り合わせ、筆ペンでその文言を大きく書いた。
ガムテープと紙を持って家を出てゴミ捨て場に着くと、ちょうど目線の位置になるよう高さを調整し、張り紙をガムテープで貼り、清掃前の写真も証拠として右横に掲示した。
これであいつもいくらか肝を冷やすだろう。お灸をすえてやった形だ。
今度からはちゃんと掃除して、まともな時間に当番表を回せよ。
その日は本当に散々な日で、高橋みきおは定時を大きく過ぎた十時過ぎに帰路に就いた。
午前中の会議ではみきおの成績と営業姿勢を巡って上司や同僚から集中砲火を浴び、夕方には取引先とのトラブルが発生し、違約金の要求と契約解除が言い渡されて億単位の金が吹き飛んだ。その後処理にみきおは文字通り駆けずり回り、ある程度目途がついた頃にはそんな時間になっていた。
最寄り駅に着き、駅のコンビニで買った缶のハイボールを飲みながら歩く。
大きなオレンジ色の満月が空に浮かんでいて、ひどく不気味な凶兆のように感じられた。
ハイボールを飲み干し、空き缶を持ったまま通り道にあるあのゴミ捨て場に差し掛かる。
朝に山積みになっていたゴミ袋はきれいに片づけられ、カラス除けの緑色のネットが巻き上げられた状態になっていた。だが、その下には朝みきおが見たまんまのあの忌々しい張り紙があって、湿気を含んだ夜風に吹かれていた。
みきおは大きく振りかぶって、空き缶を写真の紙に思い切り投げつけた。パンといういい音が鳴りはしたが、みきおの期待通りに紙は破けず、少し皴が寄っただけだった。無性に腹が立って、みきおは転がった缶を踏み潰し、写真を剥がしてビリビリに破り捨てた。
俺は忙しいんだよ。お前ら暇人とは違って、こんなゴミ捨て場ごときにかかずらわってる暇はねえんだよ!
文字が書かれた紙も勢いで剥がし、両手で怒りを込めて細かく千切り、ベニヤ台の上に散乱させた。
すべて終わるとみきおはゴミ捨て場を後にして帰宅し、明日の仕事のスケジュールを考えながら風呂に入った。
妻のさえこは生理痛で痛み止めの薬を飲んでソファで寝込んでいて、中学二年生の娘のりかは自室で寝ているんだかゲームかスマホをしている。
冷凍庫にあったチャーハンを皿に持ってラップをかけてチンをし、そこに納豆をかけて食べる。テレビを点けるとスポーツニュースがやっていて、みきおの子どもの頃からひいきにしている西武〇イオンズは天敵のソフ〇バンクに十二対〇で負けていた。
明日は今日よりもっと悪い日になるだろうという予感めいたものを覚えつつ、高橋みきおは夜中の一時過ぎに眠りに就いた。
翌日の火曜日はペットボトルや缶類の回収日で、加藤修はラベルを剥がし、水でよく洗って潰したペットボトルと缶の袋を持って朝六時過ぎにゴミ捨て場に足を運んだ。
ゴミ捨て場の様子を目にして、加藤はしばし呆然とし、頭から血の気が引いて顔がスーっと白くなった。
「……あぁ、そういうつもりか」
宣戦布告というやつだった。ここまであからさまにやられると、ちょっと見過ごすわけにはいかないな。
小刻みに震える指先で時間をかけて散らばった張り紙を拾い、ポケットに入れた。
自宅に戻ってくると、加藤はゴミで出そうとしていたペットボトルと缶の袋を握りしめたままなのに気づいた。だが、もうそんなことはどうでもよかった。また来週出せばいい。
ポケットから回収した張り紙の断片を出し、テーブルの上に並べる。そして、論より証拠とそれをカメラで何枚か撮ってから捨てた。
どうも分からないやつのようだ。自分の責務を果たすということの意味が。
分からない奴には教えてやるしかない。
あのゴミ捨て場は地域住民みんなのもので、いわば共同で持っている場所だ。本当は各戸に一つずつ玄関先あたりにゴミ捨て場があればいいのだが、住宅事情的に難しいし、回収する側も効率的ではない。だから仕方なく、あそこにみんなの共有のゴミ捨て場がある。いわば自宅の玄関先の延長線上にあるもので、みんなで掃除をするのが当たり前だ。
自宅の玄関先の延長線上。
ああ、いいことを思いついた。だったら自分で味わってみればいい。あの日みんながどういう思いをしたか。
加藤は九時になるのを待って近所のホームセンターに自転車で行き、白いペンキの缶を購入した。そして、帰り道にスーパーに寄ってその日の買い物と一緒にポ〇トチップスと缶ビールを何本か買った。
帰ってきてパソコンを立ち上げ、少し遅れてしまったがいつもの株価チェックをしようとしたが数字が全然頭に入ってこなかった。
頭がゴミ捨て場と高橋のことで占領されていて、湯気が出そうなほど熱を帯びている。
諦めてパソコンを閉じ、テレビを観ながら缶ビールを飲んだ。妻の死後、酒はなるべく控えてきたのだが、気分を変えるために今はしょうがなかった。ポ〇トチップスの袋も開け、つまみにする。
息子の死後、加藤は妻、洋子の心が壊れてしまわないよう精神科に連れていき、カウンセリングも受けさせた。自分自身も生きる意味を見失い、どうにかしてしまいそうな状態だったが、洋子の方が状況はより深刻だった。
中学二年の二学期から塾に通い、熱心に勉強し、息子の浩輝は念願だった都内の進学校に合格した。そのせっかく合格した高校を五月の終わり頃から休みがちになり、六月の梅雨の時期には不登校状態になった。
担任や学校のカウンセラーと話をさせ、どうにか状況を打開しようと試みた。だが、浩輝は誰に対しても心を開かず、亀が甲羅の中に手足や頭を引っ込めてしまったかのように、まともに話もできなかった。
そして、八月下旬のある晩、浩輝は誰に知られることもなく、ひっそりと自室で死んだ。遺体を発見したのは洋子で、加藤は会社近くの定食屋で同僚と昼飯の蕎麦を食べていた。
ちょうど息子の話をしていた時で、高校の名前を口にすると、同僚たちは次々に感嘆の声をあげ、加藤も悪い気はしなかった。
携帯が鳴り、画面を見ると妻からで電話に出ながら店の外に出た。
「こんな時間になんだよ。ちょっと得意先と昼飯食ってるとこなんだよ」
電話口でもごもごと洋子が何か言っているのが聞こえた。
「聞こえない。外だから、もっと大きな声で言って!」
泣き声か叫び声か、とにかく聞き取れない大きな音が携帯を震わせ、加藤は思わず耳から離した。
「うるせぇなぁ。なんだよ、もう。忙しいから切るぞ!」
その時、洋子が低い声でこう言うのがはっきりと聞こえた。
「ひろきがしんだ」
口を開けたまま携帯を握り締め、加藤は言葉をさがした。
「ひろきがしんだ」
洋子はまた同じせりふを同じ調子で繰り返した。
「ああ」と、加藤は返事をし、二人は電話越しにしばらく黙り込んだ。
「……自殺か?」
「はい」
ああ、ついにやったかというのが率直なところだった。
これまでにも煙草を飲み込んだり手首を切ったりと、自殺未遂を何度かしていることは洋子から聞いて知っていた。だが、実際に死ぬことはあるまいと高をくくっていた。
ややあって、電波が途切れたのか洋子が電話を切ったのか、あのツーツーという音が聞こえてきた。
加藤は蕎麦屋の店内に戻り、同僚と談笑を再開し、残りの蕎麦を食べた。
社に戻り、上司に家庭の事情で急遽家に帰らなければいけなくなったことを告げると、上司はあからさまに嫌な顔をした。
「なんだよ、それ。じゃあ、あの朝言ってた何とかっていうとこへ訪問するっていうのもなしってこと?」
「ええ、すみません。先方にはこの後連絡しておきますので」
上司の平澤は短い脚を組み、ぼりぼりと鼻の頭を掻いた。
「ドタキャンってことでしょ。それさ、マナー的にもうちの信用的にもよくないよ」
「ええ、もちろん。そうですね」
加藤はまた頭を下げる。
「そうですねじゃないよ。その家庭の事情って方どうにかならないの?」
「あの……、息子が死んだので」
顔を上げ、加藤は平澤の顔を直視した。
平澤の目が泳ぎ、何かもごもごと口籠った。
「失礼します」
加藤は平澤のデスクを後にし、自分の席に戻ると午後のスケジュールをキャンセルしていった。息子が死んだという事実は実感が湧かず、どこかで作られたフィクションのようにしか思えなかった。
ついでにという形で商談を挟むことになり、その際に生じた事務処理などもやっていると、午後三時を過ぎていた。
社の人間に頭を下げて回り、会社を出て駅に着くと、埼京線が線路に人立ち入りの影響で、大幅に遅れていた。
いつまで経っても来ない電車を待ち続け、ホームは人で溢れ返った。
加藤は群衆の中で息子の顔を思い出そうとしていた。だが、それはまだ浩輝が小学生の時の顔で、そこから先の顔が出てこなかった。あまり顔を合わせなくなったせいだった。
四十五分遅れで来た電車に身体を押し込み、加藤が自宅に着いたのは五時過ぎだった。
結局、もうその頃には遺体は病院から葬儀場へと運ばれていて自宅には誰もいなかった。それがなにかを象徴しているようで、加藤は自分の無力さを改めて痛感した。
洋子はその日のことを生きている間中、ずっと根に持っていたようだった。そんな妻も亡くなってもう三年が経つ。あの時もひどく唐突だった。
朝から風邪気味で怠いと寝ていた妻は昼過ぎになって起きてきて、息苦しいと言い始めた。慌てて救急車を呼ぶと、待っている間に水状のものを床に嘔吐し、到着した救急隊員に担架に乗せられた。
救急車の中で意識が途絶え、洋子は何も喋らなくなった。救急隊員が耳元で大きな声で数値を読み上げ、もう一人の隊員が心臓マッサージを始めた。
近くの総合病院に着くと、妻を載せた担架はICUに運ばれた。もうこの時点で心臓は停まっていたらしい。蘇生措置が行われたが、洋子の心臓が再び動き出すことはなかった。
六十半ばで、死ぬのはもっと先のことだと思っていた。四つ年上の自分の方が先だとばかり思っていて、まったく想定していなかった。実感が湧かず、まるで夢の中の出来事のようだった。
息子の死も妻の死も、加藤にとっては突然のことで悲しみよりも驚きの方が大きく、ただ確実に自分の中の何かが削り取られていっているという感覚だけが残った。それは息子の死で半分に削り取られ、妻の死でそのさらに半分が削り取られた。
昨日の続きを今日やり、今日の続きを明日やる。この繰り返しで毎日は延々続いていき、生きるためだけに生きているという虚しさに加藤は時折襲われた。日々の雑事はむしろ加藤にとって救いであり、今日を生きるためにはなくてはならないものだった。
夜の十二時を過ぎたところで加藤はビールの空き缶とポ〇トチップスの袋、それに白いペンキの缶を持ってそっと外に出た。そして隣の高橋家の玄関口に空き袋と空き缶を転がし、ペンキの蓋を開けて大きな白い水たまりを作った。
ちょうど道路の向かい側にある外灯に照らし出されてはいたが、監視カメラらしきものは見当たらない。
音を立てないように自宅に戻り、加藤はペンキの缶を白いレジ袋に入れ、タンスの奥に隠した。手袋はしていなかったが、まさか指紋までは採られないだろう。決定的な証拠さえなければ、大丈夫なはずだ。
興奮していた割には、その後風呂へ入ってからはよく眠れた。気が済んだというのもある。これであいつも懲りて、ゴミ捨て場掃除をしっかりやるようになるだろう、と。
携帯の六時のアラームで高橋みきおは目が覚め、下に降りて顔を洗い、髭を剃り、スーツに着替えた。妻と娘がまだ二階の寝室で眠る中、みきおはいつもの六時五十分の電車に間に合うよう家を出ようとした。
「うわっ、なんだよこれ!」
ビールの空き缶二本と白い液状のものが玄関の階段のところにぶち撒けられていて、みきおはとっさにこれがゴミ捨て場の張り紙を破り捨てたことへの仕返しだなと直観した。
「あの野郎!」
腹の底に火がつき、白い液体を右手でこすり取るように掬うと、隣の加藤の玄関ドアに
う ん こ
と大書し、横のポストに液体をなすりつけて手を拭った。そして、転がっている空き缶を二本続けざま庭へ投げ込んだ。
「ざまぁみろ……」
鼻で笑い、みきおは意気揚々と駅へ向かって歩き始めた。
前日に夜更かしをしてしまったせいで、加藤がその日布団から起き出したのは九時を過ぎた頃だった。
洗面所で顔を洗い、コーヒーを淹れ、日〇新聞を取りに玄関を出ると、ポストが白く汚れていた。
まさか、と血の気が引き、ポストから新聞を取り出して家の方を振り返った瞬間、それが目に飛び込んできた。
う ん こ
見ると空き缶も庭に投げ捨てられている。
これはいかん。いかんぞ。世の中にはやっていいことと悪いことがあって、これはその一線を超えてきている。
昨日のことも白状しなければならないから、警察に言う訳にもいかない。
私刑を加えるしかないな。なにか、もっとも効果的な私刑を。
家に戻り、水を入れたバケツと雑巾を持ってきてペンキをドアとポストから落とした。空き缶を拾い、袋に入れた。回収は金曜だ。
妻と息子の仏壇に線香を上げ、加藤は手を合わせた。午前八時半の習慣で、一日も欠かしたことはなかった。
さて、どうするか。
裏が白いチラシを使って、加藤は「計画書(高橋)」と銘打って作戦を練り始めた。
高橋さえこは子どものりかが生まれてから心が休まったためしがなかった。
いつも何かをやらかし、その後始末に追われ、言うことも聞かず、何度言っても同じミスを繰り返す。
子どもなどだいたいそういう存在なのだが、それがさえこには耐え難かった。苛立ちが募り、限界に達し、手をあげたことも何度かはある。夫のみきおに助けを求めても、仕事で常にそこにおらず、いても他人事のように正論を口にするだけで、何の役にも立たない。
セックスも半年に一度くらいで、みきおが酔って気が向いた時くらいしかしていない。歳を重ねるごとに旺盛になってきたさえこの性欲は、無論そんなものでは満たされない。
こんなはずじゃなかったのに。
そんな思いが年々日を追うごとに高まり、焦燥感と諦めと苛立ちがないまぜになったゴムボールのような鬱屈が身体の中で大きくなっていく。
その日の夕方、さえこはスーパーへ買い物へ出かけようと玄関を出た。すると、白いペンキのようなものが玄関先に塗られているのを目にした。
なんだろう、これ?
鳩やカラスのフンにしては大きすぎるし、匂いを嗅いでみてもあのペンキのツンとする匂いしかしない。
誰かがここでペンキを落としたのだろうか。
とりあえず駐車場にある水道にホースをつなぎ、水で洗い流した。こんなものを放置しておくわけにはいかない。りかが足を滑らせて怪我でもしたら大変だ。
ああ、そうだ。とさえこは思い出した。みきおが言っていたゴミ捨て場の白い液体。たぶんあれと一緒だ。今度はゴミ捨て場じゃなくて、うちの玄関先に撒いたのだ。
どんな意味があるのだろう。単なる嫌がらせだろうか。
さえこには恨みを買うようなことをした覚えはなかった。だが、みきおは分からない。感情的な性格で、頑固で思い込みも激しい。しょっちゅう誰かと喧嘩をしている。そんなことをしても何もいいことはないし、何の得にもならないのに。
自転車で買い物にでかけ、マツ〇ヨやヨー〇マートやツ〇ヤで日用品や食料品や漫画を買って帰ってくると、ちょうど隣の加藤が玄関から出てきた。
「こんにちは。暑いですね」
さえこが会釈と共にそう声をかけると、加藤は驚いたようにこちらを振り向いた。
「……ええ」
「あ、そうだ。今朝、うちのそこのところに白いペンキみたいなのがベターって付いてたんですけど、加藤さんのとこ大丈夫でした?」
笑みを浮かべたままそう訊いてくるさえこの真意が分からず、加藤は困惑した。知っていてわざと言ってきているのか、それとも本当に何も知らないのだろうか。
「ええ、……まあ」
「ホースで洗い流したんですけど、嫌ですよね。気持ち悪いし気味が悪い。ゴミ捨て場のとこにもそういうのあったみたいですし」
知っていて嫌味を言ってきているのだな、と加藤は確信した。
「へー、それよりわたしのとこなんか白いうんこですよ。このドアのところにべーったり!」
言い返さずにはいられなかった。お前のところも同罪だろ、と。
「えっ、うんこ? ペンキじゃなくて?」
加藤はしたり顔に頷く。
「それも特大の。バケツと雑巾持ってきてもう拭きましたけどね。朝からもう一時間以上はかかりましたよ」
さえこが本当に驚いた顔をしていたので、加藤は感心した。演技の上手い女だ。まったく顔に出さない。
「それは大変でしたね。うちはそこまでじゃなかったし、ペンキでしたから……。警察に相談した方がいいんじゃないですか。うちのことも含めて」
ああ、そうきたか、と加藤は腹が立った。警察に言えば、ペンキを買ってきて撒いたことを白状しなければならなくなるし、こちらが逆に窮地に追い込まれる。
「いや、そこまでじゃないですよ。警察沙汰にはこっちとしてもしたくないので」
そう言い残して加藤は苛立ちのあまり、ドアの内側に消えた。
さえこは違和感を覚えたまま自転車に鍵をかけ、買い物袋を持って家の中に入った。
加藤は怒っているように見えた。私に対して。まるで白いうんこを付けた犯人が私であるかのように。
白いうんこ?
カラスや鳩の白い糞は毎日目にしているが、ドア一面にとか特大とかは見たことはない。どれだけの鳥が一堂に会して糞をすれば、それだけの量になるのだろう。想像もつかない。
まあ、色々とオーバーに言う人なのだろう。
さえこはそう結論づけた。隣に暮らし始めてもう十年以上が経つが、そういう人だとは知らなかった。偶然顔を合わせれば一言二言挨拶を交わす程度の仲なので、こんなに長く話したのも初めてだった。
たしか三年くらい前に奥さんが亡くなっていて、そこからは一人暮らしだった。いわゆる独居老人というやつで、色々と大変なのだろう。
買ってきたものを冷蔵庫に片付けると、さえこは台所で漫画の立ち読み防止用の袋をバリバリと開けていった。
愛読しているBL漫画の新刊で、今回もどキツい性描写が満載の最高の作品に仕上がっていた。ドン〇で二年前に購入した愛用の大人の玩具で股間に刺激を受けつつ読み進め、物語がクライマックスを迎えるのと同時にさえこもピークに達した。
その時、ガチャッとドアが開き「ただいまー」という娘のりかの声がした。
さえこは慌てて玩具と漫画をそこらへんのレジ袋に突っ込み、下着とスカートを引っ張り上げた。
「頭痛いから早退してきちゃった」
鞄を床に放り出し、りかは居間のソファに身を投げる。
「大丈夫? イ〇は飲んだ?」
「保健室で飲んだ。でも、あんま効いてない」
スマホをスカートのポケットから取り出し、横向きになって弄り始める。
「ちゃんと夜寝てないからじゃない? 睡眠不足でしょ」
「うっさいなぁ。寝てるっつーの」
漫画はまだ一巻の半分くらいまでしか読んでいないし、もう一度くらいピークを迎えたいところだったが、こうなったら諦めるしかない。
二階の風呂場の中で、加藤は階下から聞こえてくるそんな母娘の会話を聞いていた。
数分前、加藤は自宅の階段の窓を開け、一メートルほど先の隣家の風呂場へ侵入したところだった。
階段を上り切ったあたりの左側に大きめの明かり取り用の窓があり、その先に高橋家の風呂場があった。その風呂場の窓がいつも昼間は換気のために開けられているのを加藤は知っていた。通りに面しているわけでもなく二階ということもあって、柵のようなものは設けられていない。
八十センチ四方くらいの小さな窓で、開いているのは半分だけだが、小柄な加藤には入れなくもない大きさだった。
物干し竿を伸ばして網戸を開け、決死の覚悟で飛び移った。上体を中に入れた状態で窓枠に摑まり、足を引っ掛けて中へ転がり込む。
家の中にはウィーンというモーター音が鳴り響いていて、音を立ててしまったが幸い聞こえていないようだった。
「ただいまー」
若い女性の声がして、ドアが開く音がした。
同時にモーター音が止み、ガサゴソというビニールが擦れるような音がした。
おそらく中学生か高校生くらいの娘が学校から帰ってきたのだろう。
リビングのドアがその娘によって閉められ、そこから先の会話は聞こえなくなった。
加藤は風呂場を出て、洗面所から北側の部屋へと移動した。
計画書通りに事を為し、早々に退散する予定でいたのだが、肝心の便意が引っ込んでしまった。だが、計画通りに半分程までは来ているし、このまま大人しく帰るつもりはない。
そこは娘の部屋のようで、アニメのキャラクターやメイクをこってりと施した男性アイドルのポスターで壁が占拠されていた。勉強机とベッドがあり、そのいずれも細々としたキャラクターのグッズやぬいぐるみやクッションで溢れていた。
息子の浩輝の部屋と比べずにはいられなかった。浩輝の部屋は暗く、いつもカーテンを閉め切っていた。壁に貼られていたのはどこから手に入れたのかは知らないがゴッホやセザンヌなどの絵画のコピーで、自彊不息という自分で書いた標語のようなものもあった。
胸が締めつけられるように痛み、加藤はその部屋を出て南側の部屋に移動した。そこは奥にあるダブルベッドが部屋の半分ほどを占めていて、夫妻の寝室のようだった。
手前側の壁全面が備え付けのクローゼットになっていて、扉を開けて加藤はとりあえずそこに身を隠した。
しゃがみ込み、家に入るや否やあれほどまで感じた便意が戻ってくるのを待った。しかし、一度引っ込んだものはなかなか出てこようとはしなかった。
仕方がない。待つか。このクローゼットが開けられれば一巻の終わりだが、見た感じ掛かっているのはあの嫌味な女のよそ行きの服ばかりだった。これから出かけるとも思えないし当分の間は大丈夫だろう。
みきおはその日、発注ミスをやらかし、得意先からものが届いていないというクレームで発覚し、その事後処理に追われて会社を出たのは夜の九時過ぎだった。
帰りに最寄り駅のコンビニでスト〇ングゼロのロング缶を買い、まるまる一本飲みながら帰ってきた。
「ただいまー」
玄関のドアを開けて、そう大声で怒鳴ったが反応はない。
「おい! ただいまって言ってんだろ!」
廊下をドタドタと抜け、リビングのドアを開ける。
誰もおらず、テレビは点けっぱなしでりかの学校鞄がソファの傍に転がっている。
異臭を感じた。何か臭う。
これは……。
そして、鼻を鳴らしながらそのもとを辿っていくと、カウンターの向こうの台所に行き着いた。
流しの台の上に、黒々としたバナナ状のものが一本「つ」の字を書くように横たわっている。
うんこだった。
犬や猫のものではない。太さや形状からして、人間のものだった。
みきおは思考が停止し、これはどういう意味で何なのかしばらく分からなかった。
だが、今朝の落書きのことを思い出し、ああ、これは加藤のやったことだと確信した。
玄関ドアにうんこと書かれたから、本物のうんこを代わりに台所に置き土産にする。
あのイカれたじじいの考えそうなことだ。これはもう警察行きだな。俺のやったこともまあ悪いことではあるが、このうんこはどう考えてもやりすぎで度を超している。
ティッシュを鼻に詰め、みきおはスマホをポケットから取り出す。そして、一一〇番を押そうとした時、ふと妻と娘がいないことに気づいた。
階段を上がり、二階に行ったが見当たらず、風呂場やトイレの中まで見てもいない。
その時、寝室のクローゼットの中から物音がして開けてみると、さえことりかが手足をストッキングで縛られ、口は中に何かを詰められたうえで猿ぐつわのように後頭部で縛られていた。
「おい! 大丈夫か!」
結び目を解こうとしたが上手くいかず、みきおはストッキングに指を突っ込み、力任せに引き裂いていった。
「となりの人! 声で分かった。あのおじいさん……!」
さえこの言葉にみきおは強く頷くと、震える手でスマホを取り出し、警察に通報した。
電話を切ると、妙なことにみきおは気づいた。
俺が帰ってきた時、玄関のドアは鍵が閉まっていた。
ということは、加藤はまだこの家のどこかにいるのではないだろうか。みきおは、娘と妻にこのままクローゼットの中に隠れているよう言った。開かないように内側から押さえているように、と。
クローゼットの中にあった突っ張り棒を手に、家の中を隅々まで見て回った。だが加藤の姿はなく、この家にはもういないようだった。ということは、どこからか逃げ出した後ということだ。
そこで、ハッと思いだした。さっき見た時、風呂場の窓が開いていた。
階段を駆け上り、風呂場に入る。そして、開いている窓越しに隣の家の窓も同じように開いているのが目に飛び込んできた。
窓から顔を出して下を見ると、ストッキングをかぶった男が頭から血を流して倒れていた。
[了]