長編小説2 夢落ち 4



「ええ、構いませんよ、それで。それに、僕が知っているのは四年前までの佳奈子で、最近は顔を合わせたことも電話で話したこともない」
 すると、アンコウの狭い眉間に一本の深い皺が寄った。
「じゃあ、その間本当に音信不通だったってことですか?」
「ええ、言ってしまえばそうですね。だから、佳奈子のことを訊かれても、昔のことしか知らない」
 その答えで、どうやら二人の刑事は鼻白んだようだった。彼らの表情に、それがはっきりと表れていた。そして、アンコウは坊主とまた目配せを交わし、鼻から大きな溜め息を洩らした。
「分かりました。じゃあ、また何かあったら連絡しますよ」
 そんな捨てゼリフを残して、彼らはまたノックと共に霊安室へと入っていった。佳奈子の母親や医師から話を聞くのだろう。
 僕は廊下をゆっくりと端まで歩き、エレベーターのボタンを押して目を閉じた。頭では意識しているのだが、自分がどこにいて何をしているのか、ふっと分からなくなりそうだった。地面がグラグラと揺れている感じがして、チンという音とともに目蓋を開けると、それはピタリと止まった。
 エレベーターに乗り込み、一階のボタンを押す。そして、壁に背中を凭せかけた。
 佳奈子が死んだのだ。誰かにレイプされ、首を絞められて殺された。
 僕は必死に、さっき見た佳奈子のツルリとした美しい死に顔を思い出そうとした。だが、脳裡に執拗に浮かんでくるのは、先程の刑事の顔だった。丸々とした団子鼻に、分厚い下唇。濃く太い眉に、左右に不気味に離れた目。そして、藻のように頭に僅かにしがみついている縮れた髪。一度会ったら決して忘れられない顔だった。夢の中にも出てきそうだ。この男の存在が、事件全体を見事に戯画化してしまっていた。──まるで現実のことのように思えないし、涙が溢れ出てくることもない。きっと随分薄情な人間に見えたことだろう。だが、どうしても信じられなかった。遺体も目にしたし、医者から死因の説明も受けた。だが、頭の中でその事実と実際の感覚とが結びつかないのだ。
 病院を出ると、僕は通りを流していたタクシーを捉まえ、市ヶ谷のお店まで戻った。
「あれ? 早かったですね。今日はてっきり……」
 レジにいた下山に声を掛けると、そんな返事が返ってきた。
「いや、まあ、向こうのお義母さんが付き添ってたし」
 まるで答えになっていなかったが、下山はそれを別の意味に取ったようだった。
「ああ、まあじゃあしょうがないですね。大丈夫ですか?」
 僕はコクリと頷き、エプロンに着替えるため事務所へと入っていった。
 結局、前妻を亡くしたという感覚のないまま閉店時間までいつも通り業務をこなし、高田馬場にある自宅に帰り着いたのは午後十一時を回った頃だった。冷凍ご飯をチンして、インスタントの味噌汁を啜りながら食べた。これ以上ないほど粗末な夕食だったが、大してお腹も空いていなかったし、それで充分だった。
 歯を磨いて蒲団に入り、電気を消してじっと天井を見上げる。
 体内から体液が検出されました。
 あの医師は、たしかそう言っていた。それは、佳奈子が交際していた男性のものということは考えられないのだろうか。だが、医師は陵辱されたと断言していた。すると、佳奈子の身体にそのような傷なり痕があったということだろう。
 それから、あのアンコウのような顔をした刑事は赤羽から来たと言っていた。たしか赤羽署の大杉と。それはつまり、佳奈子の殺害された場所がその管内にあるということだ。彼女の実家があるのが荒川区の尾久だから、北区の赤羽とは比較的近いといえば近い。電車に乗れば十分ちょっとくらいの距離。職場でもあるのだろうか。そういえば、殺されたときの状況を聞いてくるのを忘れていた。アンコウや医師、それにお義母さんも知っていたはずだ。いったい佳奈子はどこでどう殺されたのだろう。
 そんなことを堂々巡りに考え続けているうちに、僕は眠りに落ちていた。ひどく浅い眠りだった。まどろんでいる状態に近く、覚醒と昏睡の間を行ったり来たりしていると枕元の目覚ましが鳴った。六時だった。僕は蒲団から起き出してシャワーを浴び、着替えて仕事に出掛けた。

 時間が経つごとに、佳奈子が死んだという事実が意識されるようになり、やり場のない悲しみがじわじわと僕の心を侵食し始めるようになっていった。仕事中やレジに立っている時などにハッと彼女との記憶が鮮やかに蘇る瞬間があり、病院で見たあの美しい死に顔と重なって心臓が強く絞り上げられる。すると、自分がいまどこで何をしているのか分からなくなるのだが、否応なしにお客さんなり仕事が目の前に押し寄せてくる。頭を振って意識を呼び戻し、僕はかろうじてそれをやり過ごす。そんなことを何度か繰り返した。
 葬儀は二日後に実家近くの斎場で行われた。祭壇には僕の知らない写真が飾られていた。それはどうやら最近撮られたもののようだった。はにかむような笑みを浮かべたもので、優しくこちら側に微笑みかけていた。あんな顔の写真があったら覚えているはずだ。あれから四年も経過している。無理もないだろう。
 葬儀の翌日、店にアンコウから電話があり、確認したいことがあるから今から伺っても構わないかと訊かれた。僕も死亡した時の詳しい状況を訊きたかったから、構わないと答えた。すると、二十分もしないうちにまたあのアンコウと坊主頭のコンビが店に姿を見せた。
「いやぁ、お忙しいときにすみませんね。ちょっと、お訊ねしたいことができちゃいましてね」
 口元にはへらへらした笑いを浮かべていたが、目が全然笑っていなかった。
「ええ、何でしょう。あ、それから先日聞き忘れたんですが、佳奈子はどこでどう殺されたんですか。具体的なことは何も知らないんですよ」
 事務所に二人を案内しつつそう水を向けると、アンコウは「へぇ、昨日の新聞にも出てたはずですがね」と言いながら尻のポケットから黒い革の手帳を取り出し、唾をつけて捲り始めた。
「狭い場所で申し訳ない。散らかっちゃってて」
 二人を中に入れ、椅子を奥の方から引っ張り出してくる。
「ああ、すみません。適当でいいですよ」
 机の上に放り出されていた書類やら封筒やらを、とりあえず脇に退ける。そして、僕らは椅子を動かして向かい合うように三角形に座った。
「コーヒーか何か飲まれます?」
 するとアンコウは顔の前で手を振った。
「いやいや、そんなのいいです。お構いなく」
「自分もいいです」と、坊主。
 そしてアンコウはわざとらしくゴホンと咳払いをし、手帳に視線を落とした。
「じゃあまず、木崎さんのご質問のほうからいきましょうか。いわゆるギブ&テイクってことで」
 顔を上げ、汚らしい微笑みを向けてくる。
「あの日、佳奈子さんは午後六時過ぎに職場を出られた後、まっすぐ殺害現場となった赤羽プラダホテルに向かっています。タイムカードが切られていたのが六時十七分で、ホテルにチェックインしたのが六時四十二分。ホテルとの距離は歩いて二、三分といったところですから、着替えたりなんやかやしたあとそのまま向かったと考えるのが自然ですよね」
「すみません。佳奈子の職場って?」
「えっ! ご存じないんですか。本屋ですよ。あなたと同じ本屋。ブックス赤羽っていう割と大きなところですよ。東口出てちょっと行ったところにある」
 アンコウは本当に驚いているようだった。そんなことも知らないのか、と。
 あれからまた書店で働き始めていたのか。僕らが出会ったのも今と同じ市ヶ谷のお店で、アルバイトで働いていたのが佳奈子だった。僕らは店の皆に内緒で交際を始め、そして二年後に結婚した。結婚の一月ほど前に佳奈子は店を辞めている。この業界は業務内容がどこも似たり寄ったりだから、当然経験者は優遇される。現に社員でもよそのチェーンから鞍替えしてきた人や、逆に鞍替えしていく人とかもよくいる。条件さえ整えば、確かに僕も考えなくはない。
「そのプラダホテルっていうのは、まあちょっとランクが高めのビジネスホテルですね。別にいかがわしいところじゃありません。予約とかはしていなかったようです。フロントに行って、五階のシングルルームの鍵を受け取っています」
 僕は気になったことをアンコウに問い質した。
「なんでホテルになんか泊まったんだろう。佳奈子はまだ尾久の実家ですよね?」
 アンコウはしたり顔に頷く。
「誰かと待ち合わせでもしていたのかな」
「おそらくそうでしょうね。それで、いったん部屋に入った後、八時過ぎにホテルの一階にあるレストランで夕食を摂っています。ちなみにメニューは四季の彩り御膳。てんぷらとか刺身とかの入った高いやつです。一人で九時前には食事を終え、部屋へ引き上げています」
「お義母さんには何て言ってたんだろう」
 すると、アンコウは軽く鼻をフンと鳴らした。「友達と泊りがけでディズニーランドに行くと言っていたそうです。いやに具体的な嘘ですよね」
 思わず溜め息が洩れた。嘘を吐いてホテルで誰かと待ち合わせたということか。そして、僕はずっと気になっていたことを口にしてみた。
「男は? 佳奈子には誰かいわゆる交際をしていた男がいたんでしょうか?」
 アンコウは首を横に振る。
「携帯電話の履歴や関係者の聞き込みからは、そういった情報は入ってきてはいません。もちろん、本人が完璧に隠していれば話は違ってきますがね」
 隠さなければいけないような相手。妻子ある男性や職場の上司。もしくは著名人や芸能人など社会的地位のある人。
「で、話を元に戻しますと、翌朝チェックアウトの時間になっても出てこないのを不審に思って従業員が部屋に踏み込んでみると、迫田さんは殺害されていたというわけです」
 僕は喉の奥で唸った。
「じゃあ、誰かが部屋に忍び込んで殺したってことですか」
 アンコウは力強く頷く。
「それしか考えられませんね。それで、お伺いしたいのはこの男についてなんですよ」
 そう言って、ヨレヨレのスーツの内ポケットから、一枚の写真を取り出した。
「この男です。ホテルの防犯カメラに映っていたのを引き伸ばしたものです」
 僕は受け取りつつ、写真に目を走らせた。
 それは、ホテルの廊下らしきところを歩いている中年男の粗い画像だった。粗いといっても顔が識別できないほどではなくて、見る人が見れば分かる程度には写っている。
「いや、知りませんね」
 僕は静かにかぶりを振った。心臓の鼓動がこれ以上ないほど高まり、胸が強く鷲摑みにされているように鋭い痛みを覚えた。
「エレベーターを使って五階まで上がってきて、十時六分にここの廊下を通過しています。このちょっと行った先が迫田さんの泊まっていた部屋です」
 石沢だった。アンコウが差し出した写真に写っていたのは、失踪中の石沢だった。
 目の前の刑事が何か言っているのが聞こえてはいるのだが、何を言っているのかその内容までは頭に入ってこなかった。僕は手が震えないように気をつけながら、刑事に持っていた写真を返した。
「この男が別の部屋に泊まっていた形跡はありません。ホテル側の記録もそうですし、フロントを映しているカメラにも姿はありませんでした。防犯カメラの記録には他に三つばかし映ってはいたんですが、カメラの角度で顔までは映っていませんでした」
 奥歯を嚙み締め、カラカラの喉にむりやり唾を呑み込んで、顔を上げる。
「つまり、こいつが犯人ってことですか?」
「極めてその可能性が高い。指名手配まで持っていければ話は早いんですがね」
 気がつくと、坊主頭からじっと顔を見られていた。鋭い眼から射るような視線が放たれ、左頬に深く突き刺さっている。
「状況から行きずりの犯行とかじゃあないはずなんです。オートロックで部屋には鍵がかかっていましたし、すると迫田さんはこの男と待ち合わせをしていて、彼女自ら中から部屋の鍵を開けて男を招き入れたと考えざるを得ない」
 石沢と佳奈子の間にそんな関係があったとは考え辛い。しかも、石沢はその後佳奈子をレイプして首を絞め、殺害した。いや、違う。石沢はそんなことができる人間ではない。古くからの付き合いだから、すぐに分かる。
「出てった時間までは分かりません。おかしなことに、出てくところはどのカメラにも映っていないんですよ。もっとも、カメラの存在に気づいたのかもしれませんし、カモフラージュのために変装した可能性もあります」
 変装?
 アンコウは持っていた写真を内ポケットの中に仕舞った。
「ご存知ないんですよね?」
 唐突に坊主頭が横から低く張りのある声を出した。
「ええ、知りません」
 僕は即座に首を振る。こいつはなにか隠している、と気取られてしまっているような気がする。アンコウは僕らのそんなやりとりを、何を考えているのか分からない冷めた目で見つめていた。
「あぁ、それから、あと一つ」
 覗き込むように手帳に顔を寄せ、アンコウはページをパラパラとめくった。
「ああ、そう。ヘリオガバラスって、知ってますか?」
 そこで、店の電話が鳴り始めた。坊主頭が振り返ってチラッと電話の方に視線を遣り、三、四回鳴ったところで止んだ。売り場で誰かが取ったようだった。
「はい? 何ですか?」
 すると、アンコウが上げた顔をこちらに近づけてきた。
「へ・り・お・が・ば・ら・す、です」
 どこか聞き覚えがあった。
 腕組みをして考えてみると、フィリップ・K・ディックの小説でそんな名前が出てきたことに思い当たった。早川文庫の「火星のタイムスリップ」確かブリークマンと呼ばれる火星の原住民の名前だった。
「ヘリオガバラス」
 感情を込めずに、僕はアンコウの言葉を繰り返した。
「いやぁね、ホテルの机の上とかに、よくメモ帳とボールペンが置いてあるじゃないですか。でですね、迫田さんが泊まっていた部屋のメモ帳に、そんなのが書かれてたんですよ。ああ、でも実際に書かれたメモが残ってたわけじゃなくて、つまり、その書いた跡が下の紙に写って残ってたってわけですよ」
「書いた上の紙は犯人が持ち去ってる?」
 アンコウは静かに頷いた。
「ええ、おそらく。現場からは見つかりませんでしたから。あ、それからその文字、筆跡鑑定にもかけてみたんですが書いたのは迫田さん本人でした」
「じゃあ、佳奈子が書いて犯人にその紙を渡したってことですか」
「まあ、そうなりますね」
 僕は口の端をきゅっと結び、思考を巡らせた。特に隠す理由もないし、ディックの小説が石沢や事件解決に結びつくとも思えなかった。
「ヘリオガバラス。……知ってますよ」
 坊主頭とアンコウが、ガタッと音をさせて同時に椅子から腰を浮かせた。
「えっ!」
 二人のあまりの反応に、僕は戸惑いを隠せなかった。
「い、いや……、その、そんなに重要なことじゃないと思うんですけど、そういう小説があるんです。その、ヘリオガバラスってのが出てくる小説が」
 口を半開きにしたまま、二人はこちらを凝視している。



5へ続く


2023年01月26日