長編小説2 夢落ち 7



 やがて、女の冷たい指先が僕の頬に触れた。僕はその瞬間ビクッと全身を波打たせ、唾を呑み下した。
 女が斧か鉈のようなものを持っていて、このまま首を切り落とされるのではないかと一瞬思った。なぜそんな想像が働いたのかは不明だが、それにしても女の手はいやに冷たかった。
「何も考えちゃだめ。いい?」
 そう命令口調で言った後、女の手は僕のジーンズのボタンを外した。そしてチャックが開けられ、ジーンズがずり下ろされる。
 僕は大きな唸り声を上げた。だが、女は意に介する様子もなく、続けて履いていたトランクスも膝上あたりまで摺り下ろす。下半身が剥き出しになり、寒気と驚きで僕の頭はこれ以上ないほど混乱する。
 女はそっと僕の性器を握り、舌先を這わせた。
 僕はその感触に思わず手足をバタつかせる。女の舌がその衝動で離れるが、性器はしっかりと手の中に握られたままだった。具合の悪いことに、それは次第に硬く大きくなりつつあった。
「暴れないで。お願いだから」
 そう言うと、彼女は僕の性器をパクッと口にくわえ込んだ。そして、亀頭と側面に舌を這わせた。やがて、頭を上下させて激しく吸い始める。
 女の口の中で、僕の性器ははち切れんばかりに硬く勃起し、腰の奥のあたりにぞくぞくするような感覚が疼き始めた。
 ん?
 僕はその時、奇異に感じた。というのは、その舌遣いにははっきりとした記憶があったからだ。
 佳奈子。それは、先日死んだはずの佳奈子のそれだった。
 交際していた頃や結婚してからも、数限りなく彼女は僕の性器をくわえ込んでくれた。セックスの前戯であったり、あるいは彼女が生理の時にも口と舌で僕を射精へと導いてくれた。たしか交際を始めて一ヶ月くらいの頃、佳奈子が僕の自宅へはじめて来た時にもそうだった。生理中だったから、夜狭いベッドの中で佳奈子はペニスをくわえ込み、僕は彼女の口の中で射精した。
 暴れないで、お願いだから。
 先程の声を思い出してみる。佳奈子の声だろうか。そう聞こえなくもないし、そうかもしれないとは思う。だが、どうもはっきりしない。いや、だが待て。佳奈子は死んでいるだろう。それは歴然たる事実だ。死に顔も見たし、葬儀にも出席した。佳奈子がここにいるわけはないのだ。
 股間の疼きは次第にその強さを増し、間隔も狭まり、やがて僕はウッと呻いて精液を激しく放出した。女の温かい口の中でビクビクと震えながら僕はしばらく射精し続け、そして最後の一滴まで出し切ると女はそっと口を離した。──僕の耳は女が僕の精液を呑み込む、ゴクリという音を捉える。佳奈子もそうだった。僕が射精し終えると、いつも目の前でそれを呑み込んでくれたのだ。
 女の手が僕にトランクスとジーンズを元通り履かせ、最後にチャックを上げ、ボタンを留めた。そこで、僕は自分がどこでどういう状況下にあるのか思い出した。
 そういえば、彼女はどこかに隠れていたのだろうか。僕をここへ運んできた二人組は誰もついていなくていいのかというようなことを言っていた。すると、彼女の存在は彼らに認知されていなかったということだろう。部屋のどこかに隠れていて、あの二人が出ていった後、隠れていた場所から出てきた。ドアを開け閉めする音も聞こえなかったし、そう考えるのが最も筋が通る。そして、僕の性器をくわえ込み、口の中に射精させた。
 その時、遠くの方から聞こえてくるコツコツコツという足音を僕の耳は捉えた。
「あぁ、だめ。あの人が来る」
 今度はよくよく注意しながら聞いていたから、はっきりそれと分かった。やはり佳奈子の声に間違いない。
「待て、待ってくれ!」
 僕はそう聞こえるように唸った。だが、衣擦れの音をさせながら彼女は遠ざかっていった。
 足音は部屋の前で止まり、ノックもなしにドアが勢いよく開けられた。そういう大きな音がした。
「ん? なんか臭うな」
 その男はドアを開け、部屋の中へ足を踏み入れるや否や、そう言い放った。
「ああ、こいつか。お前、人の嫁はんと何しようとしとったんや」
 石沢の声だった。
「悪いな。こんなとこまで来てもらって。あいつの電話にちょっと機械つけさせてもらっとったんや。せやから、まぁ分かるわな」
 石沢は僕の傍らにしゃがみ込み、後頭部の紐の結び目をぶつぶつ文句を言いながら解いた。そして、僕は口の中から唾液でぐちょぐちょになった布の塊を吐き出す。
「ここがどこだとか、頼むから訊かんとってくれ。お前、警察にタレ込むやろ」
 石沢の口調からは、敵意というよりかは焦りや諦めといったような感情が滲み出ていた。かなり疲れているようだった。声に元気がない。石沢らしくなかった。
「…ゲッ、ゲホッ……、どういうことですか?」
 ようやくまともに喋れるようになった僕は、咳き込みながらそう問い質した。
「はじめは七田や。あいつ、知っとるやろ」
 懐かしい名前だった。七田さん。石沢さんの友達で、学生時代によく三人で遊んだ。草津へ旅行に行ったこともある。ただし、旅行といっても夜中に急に石沢さんが行きたいと言い出し、何の用意もせずに車で四、五時間あまりかけて行っただけ。当然ホテルや旅館も取らず、車の中で仮眠を取り、そこらにあった湯治場で一風呂浴びて翌日の昼過ぎあたりに帰ってきた。くたびれただけの散々な思い出。
「あいつがな、この話持ってきよったんや」
 この話?
「どうでもいいですけど、目隠し、取ってもらえませんかね?」
 石沢が立ち上がる気配がした。
「それはできへんな。見んほうがええ。お前のためや」
 ゆっくりとした足音と衣擦れの音。
「セミナー言うとった。ちょっとおもろい話があんねんけど、セミナー参加してみいへんかって」
 話が見えてこない。
「んでな、新宿にあるビルの七階か八階だかでそのセミナーっちゅうのを聞いたんや」
 さっきと声の聞こえてくる方向が違う。石沢は、どうやら僕の周りをぐるっと回っているようだった。
「驚くべき話やった。もし本当ならな。七田が入れ込むのも無理はないっちゅう話や」
 いやにもったいつけている。これも普段の石沢らしくはない。
「ゆめおち」
「はい?」
「お前、夢落ちって聞いたことないか?」
 僕は咄嗟に頭を巡らせ、こう答えた。
「夢オチって、あの、よく映画とか本とかドラマとかである、いろいろあったけど結局全部夢でした。起きたら何にも起こってませんでしたってやつですよね」
「ちゃうちゃう。そういうのやないねん」
「はあ」
「夢落ち。読んで字のごとくや。夢に落ちる。落とし穴みたいに、夢んなかにストンと落ちてくことや」
「それは、眠るっちゅうか、入眠することとは違うんですか」
「ちゃうちゃう。全然ちがう」
 夢に落ちる?
「じゃあお前、落とし穴に落ちたらどないする?」
 小さく溜め息を吐いて、僕は答えた。
「まあ、這い上がって穴から出ようとするでしょうね」
「それが、這い上がれへんような、えらい深い穴やったら」
 いったい何の話をしているんだ。
「助けを呼ぶでしょうね。大声で。誰か助けてくれって」
「誰も助けてくれへんねん、そんなもん。自分から落ちに行っとるからな」
「はい?」
「要するにやな、夢落ちっちゅうのはな、自分から夢の中に落ちてって出られへんようにしてしまうっちゅうこっちゃ。そのセミナーで聞いたんはそういう話やねん」
「でも、夢はいつか覚めますよね?」
 すると、石沢は激しく足で床を踏み鳴らした。
「そ・れ・が……! 覚めへんねん! どうやっても、覚めへんねん!」
 荒い息遣いが聞こえてきた。石沢がここまで取り乱した声を聞くのは、はじめてだった。
「えっ、でも、覚めてますやん」
 なんだか嫌な予感がしてきていた。
「覚めとらんよ。お前、れいに会うたやろ。あいつ、ほんまは俺の嫁さんでも何でもないねん」
「は? いや、でもこないだグアムで結婚式あげ──」
「夢やねん。全部夢や。ほんまはフラれとんねん。分かるか?」
 全身の皮膚が粟立った。悪い想像が頭をもたげる。
「……分かりませんよ。ぜんぜん」
「分かれや! 頼むよ……!」
 石沢の手が肩に強く置かれた。どうやらこちらに屈みこんでいるようだ。
「……そのセミナーでなに聞いたんですか?」
「せやから、夢落ちの方法や。まず、毎朝起きるたんびに、その晩見た夢の記録をつけろって言われたわ。それを続けとったら、だんだん夢が明確になってくるって言うとったな。そんで、夢落ちしたい夢見たら、赤羽駅の東口にあるブックス赤羽っちゅう本屋に行けって」
 ブックス赤羽。たしか刑事から聞いた。佳奈子が勤めていたところだ。
「その本屋で『世界の残酷物語』ってタイトルの本を買えって言われたんや。その本読めば、夢落ちできる言うとった」
「それは、夢の中でってことですか?」
 肩から手が離れる。
「せやな。んで、しばらくしてれいと結婚しとる夢見たから、そん時のこと思い出して電車乗ってその本屋へ行ってみたんや」
 石沢がゴクリと唾を呑み込む音が聞こえた。
「でも、いくら探しても見つからへんかったから、店員に訊いてみたんや。そしたら、その本はもう置いてない言うねん。その店員が自分で買うたって言うとった」
「自分で買った…?」
「きれいな姉ちゃんやったな。三十くらいの」
 石沢は佳奈子と面識がない。もちろん僕が結婚したことや離婚したことは知ってはいたが、彼女と会ったことはなかった。
「んで、どうしてもその本見せてくれ言うたら、今晩プラダホテルの五〇二号室に来てくれって言われたんや。そこで本を用意して待っとるっちゅうことやった」
 話が繋がってきていた。
「夜になってそのホテルの部屋に行くと、女は確かに分厚い本持ってきとって、部屋ん中でその本見せてくれた」
「……ヘリオガバラス」
 僕がそう呟くと、石沢がハッと息を呑むのが聞こえた。
「なんでお前知っとんねん。それ、女が言うとったその本の作者やで」
「刑事から聞いたんですよ。その人、紙に書いてくれたんちゃいますか。石沢さんが訊き返すか何かして」
 パンと手を打つ音。
「あぁ! そう言えばそうやったわ。そこらへんにあるメモに書いて渡してくれた。そのアレか、跡とかが下の紙に残っとったっちゅうやつやな」
 僕は頷いた。相変わらず後ろ手に縛り上げられ、横向きに寝かされたままだったが。
「ほんで、その部屋で椅子に座って女から渡された本読み始めたんや。でも、読んどるうちに死ぬほど眠くなってきて、そのまま寝てもうたんや」
「夢の中でですか?」
「ああ、もともと寝とるんやから、まぁおかしな話やけどな。んで、パッて起きたら自分の部屋のベッドん中や。ああ、嘘やったんやなって思ったわ。うん十万も払って、上手いことつかまされてもうたわって」
「夢落ちできへんかったってことですよね?」
 すると、そこでライターを点けるカチカチっという音が聞こえ、すぐに煙草の煙の匂いが漂ってきた。
「ああ、そう。そう思った。はじめはな。でも、だんだんちょっとおかしいことに気づきだしたんや」
「おかしいこと?」
 僕がそう訊き返すと、石沢は口を窄めて煙を吐き出した。そんな音と匂いがした。
「俺の記憶がや」そこで、いったん一呼吸置く。「ようするに、記憶が塗り変わってんねん。れいとグアムで式挙げた記憶やら、高崎で一緒に住んどった記憶やらが頭ん中にしっかり残っとるんや」
「……現実になったってことですか?」
「まあ、平たく言えばな。ほんで、そん時俺がおった部屋も急に見知らぬ他人の家やっちゅうことに気づいて、慌てて外に出たんやな。携帯はもうどっかいっとって、財布だけはポケットに入っとったからよかったけど、着のみ着のままっちゅうやつやな。で、電信柱の地番表示とかからそこがどうやら赤羽やっちゅうことが分かって、近くのコンビニの兄ちゃんに道聞いて、駅まで歩いて行ったんや。ほんで駅前まで出たらあの本屋があって、ああ、そうやあの女と話してみよって思って寄ったら、なんか店ん中警察がワラワラおって騒然としとったんや」
 石沢はまた煙草の煙を吐き出す。
「まさかって思って、本屋出てあのホテルにも足伸ばしてみたら、そこも案の定や。立入禁止のテープみたいなの張られてて、警察だらけ。何かあったんやなって嫌でも気づくわな。警官に訊くのもアレやから、近くのネットカフェ行ってちょっと調べてみたら、あの事件や。あの女がホテルの部屋で殺されとったっちゅう話やった」
 舌打ちし、石沢の口から溜め息が洩れる。
「まず、疑われるのは間違いないって思ったわな。俺は実際にあのホテルの殺害現場に行っとるわけやし、たぶん防犯カメラか何かにも映ってるやろうって。捕まったら終わりやなって。状況証拠はばっちり残ってるわけやから、後は吐くまで絞り上げられて物証でも何でも捏造しよるぞと」
 警察を端から信用していない。石沢らしい。
「ほんまはれいのおる高崎の家に帰りたいんやけど、そんなもん自宅なんかに行ったら警察が待ち構えとるのは目に見えとるしな。わざわざ捕まりに行くようなもんや。こうなったら、れいとせっかく結婚しとる意味もないわな」
 そこで一旦、石沢は口を噤んだ。僕は大きく息を吐いて、こう訊いた。
「……石沢さん、あなたその本屋の女性を犯して絞め殺してませんか?」



8へ続く。


2023年02月16日