長編小説2 夢落ち 12



 小便から戻ると、れいは小屋の壁に背中を凭せ掛けたまま、小刻みに震えていた。
「大丈夫ですか?」
 僕は慌てて駆け寄り、彼女の傍らに跪き、後ろから両腕で肩を抱きかかえた。
「……ごめんなさい。歩いてた時はよかったんだけど、じっとしてると寒くて」
 ノースリーブのワンピースという彼女の恰好からして、確かに寒そうではあった。初夏の恰好としては全然間違ってはいないのだが、ここが山奥だからか、夜になってぐっと気温が下がってかなり冷え込んでいた。僕は普段から寒がりで長袖を着てきていたから助かったが、れいが寒がるのも無理はない冷え込みではあった。
 赤いランタンの火がれいの白い横顔を照らし出している。
「ねえ、……こうしてもいい?」
 そう言うと、れいは身体を反転させ僕の正面から腕を背中に回した。
「あぁ…あったかい。あなたの身体、あったかい」
 僕に抱きついているような格好になっていた。僕は喉の奥が引き攣り、唾を呑み込むことができなかった。
「…へ、…へいねつが高いから」
 いくらか裏返った声で、そう言うのがやっとだった。彼女の額と頬が僕の口のすぐ近くにあり、肩に湿った吐息を感じた。乳房の膨らみが胸の辺りに押し付けられていて、それを意識した途端、僕の性器は硬く勃起した。
 僕の両手がゆっくりと彼女の背中へと回っていた。そして、れいがズルズルと少しずつ腰を横にずらしていっているのに気がついた。僕の身体ごと道連れにするように、次第に身体を倒していっている。
「何も考えちゃダメ」
 二人の身体が完全に横向きに倒れると、彼女は僕の耳元でそう呟いた。
「いい? 何も考えないで」
 床に溜まった埃が髪と頬に感じられ、ぴったりとくっつけられた彼女の太腿の辺りに、僕の完全に勃起した性器が当っていた。
 彼女の肩越しに、赤い子供用のバットと、焦げ茶色の擦り切れて埃まみれのテディーベアが見えた。僕はカラカラに渇いた喉にむりやり唾を送り込み、背中に回した手にやや力をこめた。──彼女は石沢さんの奥さんで、暖をとるために、僕らはこうして床に寝転がり抱き合っているのだ。僕の性器は硬くこれ以上ないほど勃起しているが、これは身体の生理現象なのだから仕方がない。止めろと言われても止められるものでもない。大雨や地震と同じようなものだ。来る時は来る。こちらが選び取れる類いのものではない。
「ここは暗い森の中」
 詩でも詠むような口調で、彼女が囁く。
「頭の中の、記憶の森」
 記憶の森?
 ランタンの火が揺れ、それに伴って黒い影たちが大きく揺らめいた。部屋のドアは閉めてきたはずだし、窓も開いていない。どこからか、隙間風でも入ってきたのだろうか。
「あなたはずっと現われない」
 目蓋を閉じ、僕はれいの言葉にじっと耳を傾けた。
「違う男が入って来た」
 震えるような蠱惑的な声が、消えていた。気のせいだろうか。
 僕は何か言葉を発しようとした。だが、何も浮かんでこなかった。
「わたしを助けに来て」
 もはや、それはれいの声色ではなかった。だが、聞き覚えがある。
 僕は次第に溶解しつつある意識の中で、必死に記憶にしがみついた。だが、答えが得られないまま、意識の淵へとこぼれ落ちていった。


             5

 赤とオレンジ色でペイントされたATMが、薄く開けた目蓋の隙間から見えた。その隣にはアイスクリームの自販機があって、ジャイアンツの帽子をかぶった子供がボタンをでたらめに押している。
「あんた、バカっ!」
 黄色いTシャツを着た女が、後ろから駆け寄ってきて男の子の肩を強く摑む。丸々とよく太っていて、巨大な乳房のせいでTシャツの胸のあたりがはち切れんばかりに伸びきっている。
 顎から手を退け、顔を上げる。
「イェー! アホばばぁ!」
 先程の男児が僕の右足の爪先を踏みながら、目の前を駆け抜けていった。
「あんた! もう、くそっ!」
 乳房を大きく揺らしつつ、女は子供を追いかけようとしたがすぐに諦めた。そして、僕の隣にどっかりと腰掛け、荒い息を吐きながら、まだらに染まった金髪を額から払い除けた。大粒の汗が頬を伝っていて、子供が人の足を踏んだことなど微塵も気づいていない。
 首を曲げてぐるっと周りを見渡してみた。
 その入り口にある看板からここがイトーヨーカドーの出入口であることが分かった。分厚いガラスで外の通りと店内からは区切られている、風防室のような場所。いくつか並んだベンチの反対側では、靴のセール販売が行われている。その背凭れのない赤茶色のベンチに腰掛けているのは全部で十人くらいで、老人がその八割方を占めている。
 外は夕闇が迫っていて、あと十分か二十分ほどで日没といったところだった。そして、僕はなぜ自分がここにいて、いったいここがどこだか分からなかった。
 ベンチから立ち上がり、とりあえず自動ドアを抜けて外に出た。ムッとする熱気がアスファルトから立ち上っていて、ふと、饐えた生ゴミのような臭いがした。
 目の前にある交差点からポッポーという間の抜けた音がして、歩道に溜まっていた人たちが一斉に歩き始める。視線を上げると、前方に駅らしき建物が見え、高架になったホームに電車が滑り込んできているのが見えた。
 僕は人々に混じって交差点を渡り、その比較的大きな駅に向かって歩き始めた。バスとタクシーのロータリーがあり、駅の前がちょっとした広場のようになっていた。
 赤羽駅(西口)
 通り抜けできるようになっているコンコースの入り口に、緑色の看板でそう表示されていた。赤羽。確か北区。JRのいくつかの路線が乗り入れていて、埼玉から東京への玄関口のような場所として栄えている。僕が持っている知識としては、それくらいだ。ああ、それから佳奈子の事件を取り調べに来た刑事たちが、赤羽署と言っていた。あれ? そういえば佳奈子が勤めていた書店が駅前にあって、佳奈子が殺されたホテルがこのすぐ近くだったはずだ。でも、なぜ僕は赤羽なんかにいるのだろう。佳奈子の事件を調べにでも来たの──。
 僕は改札の前あたりで、ハッとして足を止めた。
 これは夢かもしれない。
 森の中をれいと歩いてきた記憶がある。そして、小屋を見つけてそこで二人で横になっていたはずだった。
 ギョッとして、辺りをぐるりと見渡す。夕暮れ時のすごい量の人たちが駅の中を行き来している。突然止まった僕に気づかず、肩や鞄をぶつけながら通り過ぎていく人たちが何人もいる。誰も気にかけたり謝ったりはしない。そんなことは、都会では日常と化してしまっているのだ。
 人々のざわめきやら、和菓子らしきものを近くで売っている売り子の甲高い声が、耳に折り重なって飛び込んでくる。ヘアトニックや香水の匂いが鼻腔をかすめ、天井から駅に滑り込んでくる電車の重低音が響いてくる。
 僕は意識してゆっくりと深呼吸をし、下唇を指先でやや強めに抓んでみた。確かな痛みがあり、指先には自分の湿った吐息が感じられた。
 だが、これは夢かもしれなかった。
 コンコースを抜け、右側に目についた交番に足を伸ばした。
「ここらへんに本屋さんってありませんかね。駅前にあるって聞いたんですけど」
 その達磨のような体型をした若い警官は、地図を見ることもなく、交番の外に出て指を差した。
「そこのマツキヨの角をまっすぐ行って、ちょっと行ったら右側にありますよ。大きい交差点の角のとこです。店の名前はブックス赤羽だったかな」
 警官に礼を言って、僕は言われた方向へと歩き始めた。
 ブックス赤羽。たしか刑事もそう言っていた気がする。もうはっきりとは覚えていないが。
 奇妙な形をしたオブジェのある広場と喫煙所の脇を抜け、マツキヨと喫茶店の角を直進した。そして、左右に大量の自転車が限界まで停められた歩道を人を避けながら進んでいくと、スクランブル交差点とその角のビルに掲げられた緑色の看板が見えてきた。
『ブックス赤羽』
 ネオンだか蛍光灯だかで派手に光っている。僕は正面の大きな入り口の自動ドアを通って、店内に足を踏み入れた。
 店の中は小さな雑音の混じった音でクラシック音楽がかかっていて、多くの人が雑誌やら本やらを立ち読みしていた。入り口のところにあった案内表示によると二階もあるようだから、市ヶ谷のうちの店よりもいくらか規模が大きいかもしれない。
 レジには人が並んでいて、僕はしばらく待って列が解消したのを見計らい、右側のレジにいた眼鏡をかけた女性の店員に声を掛けた。
「すみません。迫田さん、迫田佳奈子さんはいますか?」
「あいにく迫田は五時で退社しておりますが」
 女性は丁寧に軽く頭を下げながら、申し訳なさそうな表情でそう答えた。
 退社。つまり帰ったということか。
「ああ、すみません。じゃあ、いいです」
 僕もぺこりと頭を下げ、レジから離れた。
 ああ、やっぱり佳奈子は死んでいない。今の女性の反応からすると、公けに殺されたことにもなっていない。
 足元に靴の足跡のついたレシートが落ちていて、僕はそれを拾い上げてじっと見た。
 ブックス赤羽という店のロゴが上に入っていて、その下に小さく店の電話番号、それに「お買い上げありがとうございました。またのご来店お待ちしております」という決まり文句。領収書の表示。そして、二〇一三年七月八日(月) 十八時二一分と日時が印字されている。
 二〇一三年七月八日。
 佳奈子の命日だった。佳奈子はこの日殺されている。レジの上の壁に掛かったスヌーピーの時計を見ると、今時刻は六時五十一分あたりを指していた。はっきりとは覚えていないが、佳奈子の殺された時刻はもっと遅い時間だったはずだ。となると、佳奈子はまだ生きている。
 僕はその場で腕組みをして目を閉じ、必死に記憶を辿った。現場となったホテルの名前も部屋番号も、たしか刑事たちから聞いていたはずだった。だが、いくら思い出そうとしても出てこなかった。記憶に鍵がかかってしまったかのように、どれだけ懸命に考えても自分が覚えていないということに思い当たるだけだった。
「あのー、すみません」
 唐突に、後ろから肩を叩かれた。驚いて振り返ると、さきほどレジにいた眼鏡の店員が緊張した面持ちで立っていた。
「……これ、迫田さんから」
 二つに折り畳まれた水色の紙を手渡される。
「だれか迫田さんを訪ねてくる人がいたら、渡して欲しいって」
 その時、妙な電子音のメロディーが背後から聞こえてきた。
「あっ、すみません。それだけです」
 女性店員は、踵を返してレジの方に小走りで戻っていった。僕はその水色の紙を持ったまま、しばらく立ち尽くしていた。見るとレジには長い列が出来ていて、僕の脇をエプロンを着けた男性の従業員が駆け抜けていき、レジで眼鏡の女性の横に入った。随分と繁盛しているようだった。羨ましい限りだ。
 とりあえず店を出て、近くにあったコンビニの前で先程もらった紙をポケットから取り出した。
 赤羽プラダホテル 五〇二号室
 開けて折り目を伸ばすと、記憶の隅の方にある佳奈子の丸文字でそう書かれていた。水性のボールペンで書いたようで、やや文字が滲んでいた。
 手掛かりを残していったということだろう。そして、佳奈子は僕がここに来ることを知っていた。何故だ?
 メモ用紙を元通り折り畳んでポケットに仕舞い、コンビニの中に入った。そして、冷たい缶コーヒーを一本買って、店の外で飲んだ。右側の尻のポケットには僕がいつも使っている牛革の財布が入っていて、左側には見慣れた黒い携帯電話が差さっていた。財布の中身は二万三千円と、小銭が少し。だいたい僕がいつも持ち歩いているくらいの額だ。
 なぜ佳奈子は僕が赤羽にいて、あの店に来ることを知っていたのだろう。それとも、これは僕に当てたものではなく、不特定多数の人へ向けたメッセージのようなものなのだろうか。あの眼鏡の女性店員は、誰か佳奈子を訪ねて来る人がいたら渡して欲しいと言われていた。たしかそう言っていたはずだ。誰か訪ねて来る人がいたら。すると、来ない可能性もあったということか。だが、実際に来た。きっと彼女はびっくりしたことだろう。本当に来た、と。そして待ち合わせか何かで、行き違いにならないように手を打っておいたのだろうと想像したはずだ。今は電話やメールでも連絡が取れるはずだが、充電切れだか故障だかできっと連絡がつかない状態なのだ、と。
 缶コーヒーを飲み干して駅前の公衆便所で用を足した僕は、また交番に入り、さっきと同じ警察官に赤羽プラダホテルの場所を訊いた。
「ああ、さきほどの本屋の並びですね。こっちの大通り沿いに真っ直ぐ行って、コンビニと大きなマンションを過ぎたあたりです。この本屋のすぐ近くですよ」
 今度は机の上に広げた地図を指し示しながら、説明してくれた。確かに佳奈子の本屋のすぐ近くだった。一つ通りを隔てて三軒隣。距離にしたら十二、三メートルといったところだろうか。
 警官に礼を言って、交番を後にした。そして、道の真ん中に立つ客引きたちの呼び声を振り払い、パチンコ屋と風俗店とラーメン屋のひしめき合う狭い通りを突っ切ってホテルのある大通りへと出た。
 中央分離帯に背の高い木が等間隔に植えられていたが、その木々は大量の車とトラックやら大型トレーラーやらの吐き出す排気ガスのせいでほとんど枯れかけていた。樹皮はぼろぼろに剥け、葉っぱは網にひっかかった海藻のように所々しか残っていない。きっと土が死んでいるのだろう。養分がほとんど残っていないのだ。
 
              *

 フロントにいたオールバックの四十過ぎくらいの男に、シングルルームは空いているだろうかと訊ねた。
「今晩でございますよね。空いております」
「どこが空いてる?」
 男の表情がやや固くなる。
「…どこ、といいますと?」
「何階の何号室か」
 すると、男は額に汗を浮かべ、手許のパソコンのキーをカチャカチャと叩いた。
「ええと……、四階の四〇七号室はなんかはいかがでしょうか? 角部屋で窓か──」
「五階は空いてないかな?」
「五階ですか? ええと……」
 男はまた激しくキーボードを叩く。
「お客様、あいにく五階は満室でございます。眺望の良さでしたら、四階の角部屋でもさほど変わりはないかと」
「じゃあ、そこでいいよ」
 男は自分の苦労が報いられたと思ったのか、にっこりと微笑み、引き出しの中から四〇七と部屋番号の刻印されたキーホールダーと、それにリングで繋がれたキーを取り出した。
「かしこまりました。お荷物などはございますでしょうか」
 キーとキーホールダーを右手で受け取りながら、僕はかぶりを振った。
「いや、ない」
「失礼致しました。エレベーターはあちらでございます」
 オールバックの男は、頭を恭しく下げつつ左手を奥の突き当りに向けた。
 僕は小さく頷き、キーを片手にフロントを後にした。男の左手の薬指には、大きな宝石が光っていた。アメジストだかサファイアだか、ちょっと青みがかった紫色の大きな石が指輪に嵌まっていた。結婚指輪とかそういったものには見えない。物腰にもどこか妙な感じが拭えなかったし、ひょっとしたらホモ・セクシャルなのかもしれない。
 エレベーターで四階まで上がり、赤ワイン色の絨毯を敷き詰めた廊下を端まで歩き、四〇七号室の前に着いた。ドアの脇が廊下の突き当たりになっていて、消火器と造花の花瓶と縦長の窓ガラスがあった。窓ガラスからは隣のビルの壁面しか見えなかった。
 持っていたキーで鍵を開け、部屋の中に足を踏み入れる。ドアを閉めると、勝手にキーが回って鍵がかかった。その際、ウィーンという間の抜けた機械音がした。



13へ続く


2023年03月23日