長編小説2 夢落ち19




 彼女と僕との出会い、正確には再会は、僕が店にいて朝の雑誌出しの残りを片付けている時のことだった。
「木崎さん」
 僕は売り場に並べ切れなかった雑誌を、ストッカーと呼ばれる下の引き出しに入れようとしていた。
「はい?」
 突然呼ばれて驚いて振り向くと、そこに彼女がいた。
「あれ、お久しぶりです。どうしました?」
 それは石沢の前の奥さん、れいだった。
「暇だから会いに来ました」
 はにかんだ笑顔をれいは見せた。彼女は相変わらず綺麗で、外見上ほとんど変わっていなかった。僕らが最後に会ったのはたしか二年くらい前。その時まだれいは石沢の奥さんだった。
「石沢さんと別れたって?」
 メールで石沢から聞いた。だが、理由までは聞いていない。
「ええ、そう。別れました」
 抑揚を欠いた声で、れいはそう答えた。懐かしい香水の匂いがした。昔も彼女はその香水をつけていた。頭の中を掻き乱すような、ひどく強い香りだった。
「どうしたんですか、急に?」
「いや、何でもないんです。会いたくなったから会いに来ただけで」
 そんなことを言うべきではないと思った。僕は既婚者で子供もいる。それは彼女も分かっているはずなのだ。
「今度、飲みに行きましょうよ。奥さんとかもご一緒に」
 言い方からして、前から用意していた台詞のようだった。
 僕はホッとして笑顔を返した。「そうですね。また連絡しますよ」
 僕はストッカーに雑誌の束を仕舞い、手で強く押して閉じた。
「ねぇ、知ってました? わたし木崎さんのことが好きだったんですよ」
 思わぬ不意打ちだったが、僕はすぐにこう答えた。
「あぁ、そうですか。でも結婚してると知って好きじゃなくなったんですよね?」
 そのようなことは、実は前にも言われたことがあった。それは、まだ彼女が石沢さんと結婚する前のことだった。石沢さんにはもちろんそのことは伝えていない。そんなこともあって、厄介払いするように石沢さんに彼女を紹介したのだ。
「っていうか、子供がいることを知って……」
 何気ないふうを装ってはいたが、頭の中は振り回されたように激しく揺れ動いていた。
「アドレス変わってないですよね?」
 僕は黙って頷いた。
「後でメールしますね」
 れいはそう言い残して、近くの自動ドアの方へと歩いていった。僕はそんな彼女の後ろ姿を見つめながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。
 その晩、約束通りれいからメールが来た。久しぶりに会えてよかったとか、どうしても会いたくて、店の中をずっと探し回ったとか書いてあった。僕の心はどうしようもなく掻き乱され、思い切ってこう返事を送ってしまった。
 僕も会えてうれしかった。今度二人で会いたいですね。
 すると、五分もしないうちに返事がかえってきた。
 私も二人で会いたいです。いま、電話してもいいですか。
 こうして僕らの関係は始まった。そして、それは行き着くあてのない地獄への一本道だった。
 
 ホテルへ行ったのは、別れ話をするためだった。
 れいとの関係が深まれば深まるほど、これが佳奈子と拓真への明確な裏切り以外の何物でもないと意識するようになっていった。そして、勝手な言い分かもしれないが、僕には佳奈子や拓真を傷つけるつもりは全くなかった。二人は僕の人生に舞い降りてきた唯一かけがえのないもので、僕はそれを失うことなど耐えられそうになかった。
 彼女が先に行ってホテルの部屋で待っていた。そして僕も八時くらいには着けるはずだったのだが、夜のアルバイトさんに休みが出た関係で閉店まで上れず、結局ホテルに着いたのは十時半過ぎだった。そしてベッドの上で、僕らはいつものように性交をした。
 僕の頭の中には、おそらくこれが最後のセックスになるだろうという思いがあった。それがひょっとしたら伝わってしまったのかもしれない。事を終えて僕がれいの身体から降りると、彼女は突然泣き出した。
「どうしたの?」
 僕はれいの肩に手を置き、そう言った。だが彼女からの答えはなかった。その白く美しい肢体をさらけだしたまま、両手で顔を覆い、しばらく泣き続けた。
 僕は溜め息を吐いて、煙草に手を伸ばした。ベッドの縁に腰掛けてゆっくりと吸いながら、彼女が泣き止むのを待った。
「……分かってる。…分かってるわよ」
「うん?」僕は訊きかえした。
「そんなの、あなたに言われなくても分かってる」
 顔から手を離し、れいは起き上がった。
「なんのこと?」
「別れてほしいって言うんでしょ」
 見ると、目を真っ赤に泣き腫らし、震える下唇を嚙み締めていた。
 一瞬息が止まり、ひどく噎せながら煙草を灰皿に押しつけて揉み消した。れいが僕の顔を見つめる視線が痛かった。
 彼女に背を向け、目を閉じて浅い呼吸を繰り返した。部屋が僕を中心として、ぐるぐる回っているような気がした。
 口の中に溜まってきた唾を呑み込み、僕は低く唸った。
「……すまない。子供と、嫁さんを…」
 そこまで言うのがやっとだった。そして、頭に右手を遣り、短い髪の毛を何度も掻きあげた。
 れいが背後で短い溜め息を吐き、ベッドから降りる音がした。
 そして、僕が二本目の煙草に手を伸ばそうとしたその時だった。部屋の方を振り返って見ると、包丁を手にれいが立っていた。
 両手で柄を握り締め、先端をこちらに向けている。
「一緒に死んで」
 彼女は僕に突進してきた。
「おいっ!」
 僕はそう叫んで、咄嗟に身体を反転させた。すると、切っ先は僕の背中を掠め、壁に突き刺さった。
「やめろって!」
 僕は立ち上がり、包丁を奪おうとした。だが、れいは壁から包丁を引き抜き、僕の顔を狙って振りかぶる。そして、僕はなんとかその手首を捉えた。
「死ねぇー!」
 大声で喚きながら、彼女は狂ったように暴れまわった。すると、揉み合いになって揺れ動いていた包丁の切っ先が、れいの首筋を切り裂いた。
「ああーっ!」
 れいはその瞬間、絶叫した。
 頚動脈を切ったようで、夥しい量の血が文字通り溢れ出てきた。だが、なおも彼女は暴れるのを止めず、僕らの足元には赤黒い血の溜まりができていった。
 やがて彼女は力尽きたかのように膝から崩れ落ち、部屋の床の上に横たわった。短く荒い呼吸が小さく開いた口から洩れていて、しばらくするとそれも止まった。
 目を覗きこむと、瞳孔が開いていた。そして、念のため手首の脈を取ろうとしたが、それはどこにも見つからなかった。
 あぁ、死んでしまったのだな、と思った。
 まるで実感が湧かなかった。まるで夢の中の出来事のように、僕の意志とは無関係に勝手に推移していったように思えた。気づいたら死んでいた。本当にそんな感じだった。
 僕は風呂場に行って、血塗れになった身体をシャワーと石鹼で洗い流した。そして性交の後でよかったと思った。お互い全裸だったから、血の付いた衣服をどうにかする必要もないし、そのまま着て帰ることもできる。
 きっとれいは最初から分かっていたのだろう。だから、あらかじめ鞄の中に包丁を忍ばせてきた。最初っから無理心中をするつもりで、このホテルへ来ていたのだ。
 風呂場から出ると、僕はテーブルの上に置きっ放しになっていたナイフやら部屋の壁やら、自分の指紋が付いているであろう箇所をハンカチで念入りに拭いて回った。煙草の吸殻も鞄の中にぶち撒け、僕のいた痕跡を残す遺留品が何もないことを確認してから部屋を出た。罪悪感がなかったと言えば嘘になるが、とにかくそれよりなにより必死だった。佳奈子と拓真のことがずっと頭に思い浮かんでいて、二人を守らなければという気持ちが僕を駆り立てていた。
 幸い、フロントには誰もいなかった。来る時もそうだった。カウンターの上に銀色の呼び鈴だけが置かれていて、用のある人はそれを鳴らすシステムになっているようだ。きっと人が足りていないのだろう。
 外に出ると、空気がすがすがしかった。アスファルトと車の排気ガスのせいでムッとする熱気が籠もってはいたが、危険な場所から抜け出すことができたという開放感が、空気の匂いすら変えていた。
 僕は間違ってはいない。いや、間違ってはいたが、それを何とか取り戻した。
 この秘密は墓場まで持っていかなくてはいけない。これからは二人の家族のために生きよう。そのために僕がどれほど苦しむことがあったとしても。
 赤羽駅へ歩いて行く道すがら、僕はそんなことを考えていた。

 石沢から電話があったのは翌日のことだった。
 僕は仕事が休みの日で、ベッドでぐっすりと眠り込んでいた。
「お前、今日暇か?」
 枕元に置いてあった携帯に出ると、石沢はいきなりそう訊いてきた。
「えっ…、ええ、はい」
 昨日の今日ということもあって、僕の心臓はひどく高鳴った。
「ちょっと付き合ってくれへんか。行きたいとこがあんねん」
 石沢の声に緊張感はなかった。それで、僕はいくらか安心した。
「どこですか? それ」
 すると石沢は電話口で軽く咳払いをした。
「ちょっと栃木の方やねんけどな」
「は? 栃木ですか」
 僕は面喰った。そして、額に汗が滲むのを感じた。
「んなもん、高速使えば車で二、三時間の距離や。お前ん家迎えに行けばええか?」
 前に遊んだ時、深夜になり家の近所まで送ってもらっていた。石沢の自宅はたしか武蔵浦和と言っていたから、三十分もあれば来られるだろう。
「ええ、じゃあ、すんません」
「よっしゃ、じゃあ十時くらいでええかな。あの前停めたコンビニんとこで待っとくわ」
 僕は分かりましたと答えて電話を切り、ベッドから出た。
「すまん、今日ちょっと遊びに行くことになった」
 居間で拓真に朝ごはんを食べさせていた佳奈子に、そう伝えた。
「誰と?」
「石沢さん。十時にそこのセブンで待ち合わせ」
「あっ、そう。忙しいわね」
 僕はその皮肉を聞き流し、洗面所に行って顔を洗った。そして冷凍のごはんをチンしてふりかけをかけて食べ、煙草を吸いながらコーヒーを飲んでいると九時五十分になっていた。
「ちょっと行ってくるわ。そんなに遅くならないようにする」
 着替えをして玄関を出るときに、家の中に向かってそう声を張ったが返事はなかった。そして、歩いて三分くらいのところにあるコンビニに行くと、既に石沢のボルボが駐車場に停まっていた。
「おぅ、すまんな。せっかくの休みに」
「いえ、こちらこそすんません。わざわざ迎えに来ていただいて」
 コンビニで缶コーヒーを買い、入り口前の灰皿のあるところで一服すると、僕らは車へと乗り込んだ。
「あれ、こんなん付けてましたっけ?」
 助手席側のサンバイザーのところに、黒い小さな人形がぶら下がっていた。
「ああ、それか」
 サイドブレーキを外しながら、石沢は答える。
「トルコだかどこだかのお土産や。うちの会社の部長がこないだの休みの時に行ってきてもらったんや」
 シフトレバーを引き、車を発進させる。
「名前はなんて言うんですか?」
「あー、なんやったかな。聞いたんやけどな」
 僕は一つ思い出した。
「ボージョボー人形」
「ちゃうちゃう。それ、バリかインドネシアや」
 狭い道を左折し、国道に出る。
「ヘルラダル…いや、ちゃうな。ヘリバジル……」
「ヘリオガバルスじゃないですか」
 そんな名前を、どこかで聞いた覚えがあった。
「いや、そんなヨーロッパ風ちゃうよ。もっと、あの、オリエント風っちゅうんやったっけ……」
 結局、石沢は最後までその名前を思い出すことができなかった。そして、浦和から高速に乗り、物凄いスピードを出しながら石沢のボルボは東北道をひた走った。その間、僕は主に石沢の会社や仕事の話をずっと聞かされていた。上司や部下の悪口やら、取引先で会った変な医者のことやらちょっとした事件の類い。時折相槌を打ちながら、僕はずっと昨日の出来事のことを考え続けていた。僕が悪いのではない。れいが勝手に暴れ出し、自分で自分の首を切って死んだのだと言い聞かせていた。そして、無論、石沢はまだれいが死んだことを知らない。そればかりか、僕らが隠れて会っていたことすら知らない。
「ところで、これどこ向かってるんですかね?」
 佐野藤岡インターを過ぎたあたりで、僕はずっと気になっていたことを口にした。
「あぁ、鹿沼っちゅうとこで降りるよ」
 聞いたことはない。
「そこに何があるんですか?」
「会社や会社。特殊な法人。俺一人で行くのは心配やったから、お前にもついてきてもらったんや」
「意味分からないですよ」
「後ろに鞄あるやろ。そん中にクリーム色のパンフレット入っとる」
 僕はシートベルトを引っ張りながら身体を後ろに捻り、後部座席にあった石沢の茶色い革鞄を取った。前に向き直り、開けて中を見ると白いパンフレットが入っていた。
「ドリーム・インク」
 表に大きく書かれていたアルファベットを、僕は読み上げた。



20へ続く


2023年05月11日