短編小説14 里英子のこと



 目が覚めたときそこに里英子の姿はなく、家の中に気配もなかった。どこに行くとかは聞いていなかったから、おそらく近所のスーパーかコンビニ、ドラッグストアにでも行っているのだろうと思った。
 ソファから起き上がりダイニングの壁掛け時計を見ると七時過ぎで、ずいぶん長く眠り込んでしまったようだった。
 テレビを点けると夜のバラエティー番組が始まっていて、出演者たちの大きな笑い声やナレーターの大袈裟なセリフがテロップと共に飛び込んできた。リモコンを手にしばらくザッピングした後、NHKのニュースにチャンネルを合わせた。そして台所にビールを取りに行く。まだストックはだいぶある。この間まとめ買いをしておいたからだ。飲みたいときに常にそこにあるべきものがビールだ。しかもきちんと冷えていないと意味がない。飲みたい時になくて買いに行ったり、さらによく冷えていなかったりするとビールはその存在意義を根こそぎ失う。
 ソファに戻ってニュースを見るとはなしに見ながらビールを飲んでいると、現実感がすーっと薄れていく。魂が身体から抜け出し、テレビを見ながらビールを飲んでいる僕を天井から眺めているような気分になってくる。
 さっき冷蔵庫を開けた時、中には大したものは入っていなかった。賞味期限の切れかけた納豆とヨーグルト、牛乳と二リットルペットボトルのお~いお茶、チルド室の中にはとろけるスライスチーズと油揚げ、六個入りの卵とヤクルトが四本、しば漬けのパック、それから缶ビールが七本。──里英子は夕飯の買い物に出かけていて、何かの事情で少し遅くなっている。そう考えるのが妥当だった。
 ビールを一缶飲み干すと、僕は先に風呂に入ることにした。里英子にとってもおそらくその方が好都合だった。湯船に湯を張り、待っている間に洗い物をした。
 服を脱いで浴室に入り、湯船に身を沈めると思わず声が洩れた。湯が身に沁みてくる感じがした。年を取ったなと思った。
 もう四十になるのだ。来月で四十。人生八十年とすればちょうど折り返し地点。七十代で亡くなる人も多いから、実際はもう折り返しているのかもしれない。
 僕は下り坂を降り始めている。
 それは紛れもない事実だ。認めようが認めまいが、衰えつつあるのだ。
 里英子とは結婚して五年になる。交際を始めたのはさらにその二年程前で、僕らはまだ若かった。妻とはもともと小学四、五、六年生の時のクラスメイトで、十五年ほどの時を経て僕らは東京で再会した。それには長い経緯がある。道端や電車の中でばったりというわけではなく、ある意味必然的に再会した。
 僕が里英子とはじめて会ったのは小学四年生のときのことだ。新四年生になったばかりの四月のはじめ、僕は父親の仕事の都合で引っ越してきていて、一緒のクラスになった。
 里英子はまったく違う環境に投げ込まれ右も左も分からない僕をひどく気にかけてくれて、何かと面倒を見てくれた。五年生になってクラス替えがあっても同じクラスになり、六年生はそのまま持ち上がりだったから結局三年間同じクラスだった。六年生の最後の方は隣の席で、斜め前の里英子と仲の良かった女子(名前は忘れてしまったが)と三人でよく一緒に喋っていた。だが僕は学校というもの自体があまり好きじゃなくて、家で一人で本を読んでいることの方が好きだった。だから学校も休みがちで、仮病(体温計の先を指でこすって熱があると母親を騙していた)を使ってよく休んでいた。
 中学は二人とも同じところに行ったのだがクラスが分かれ、あの時期特有の恥ずかしさもあって学校のどこかで里英子に呼び掛けられたり会ったりしても聞こえない振り、気づかない振りをしてそのまま通り過ぎていた。入っていた運動部の部活が忙しくなってきていたし、しかも同じクラスの他の女の子を僕は好きになってしまっていた。
 中学二年の時に僕はまた父親の仕事の都合で大阪へ引っ越した。それ以来、里英子との接点は途絶えた。
 風呂から上がると、僕は寝巻き替わりにしているスウェットを着て、また冷蔵庫から缶ビールを出してきて飲んだ。
 今から考えると、様々な事情があったにせよ随分残酷なことをしたものだ。あの頃、里英子は僕のことが好きだったのだ。それはその言動からして分かり過ぎるほど分かる。わざわざ遠くから声を掛けてきたり部活の練習を見に来たりもしていたし、それこそ全力でアピールしていた。あの頃の僕も分かっていて、敢えて無視していた。同じ部活の同級生が里英子のことを好きだと言っているのを聞いたというのもある。だが、そんなものは言い訳に過ぎない。僕はとにかく里英子にひどいことしたのだ。

             *

 僕らは小学校のクラスメイトだった。席が隣同士だったこともあるような。そんな夫婦はそうそういるものではないだろう。全国を探せばいくらかは見つかるだろうが、おそらく千組に一組もいない。
 僕らは意図的に再会した。意図的にという言い方が正しいのかどうかは分からないが、同窓会とかそういうのではなく、つまり僕が卒業名簿を見て手紙を出したのだ。
 きっかけは古田という僕の友達だ。五、六年生の時のクラスメイトで、放課後によく一緒に遊んでいた。だが、中学に上がる時に家庭の事情で横浜に引っ越し、その後も年賀状のやりとりだけは細々と続けていた。上京して間もない頃、僕はその古田に連絡を取って会うことになった。
 古田の家に行って二階にある古田の部屋で飲んでいるうちにクラスの話になり、里英子のことが話題にのぼった。はっきりとは言わなかったが、古田もひそかに里英子のことは気になってはいたようだった。そして酔った勢いで卒業アルバムを引っ張り出してきて、最後のページにある住所一覧の里英子の住所に手紙を送ってみようということになった。一緒に調子よくいい加減なことを書き、最後に連名で古田と僕の住所と電話番号を書いて帰り際に駅前のポストに投函した。
 翌日、二日酔いから覚めると猛烈な後悔が襲ってきたが、もうあとの祭りだった。正確に何を書いたのかすら覚えていないし、古田の手前もあってひどくふざけたことを書いてしまった気がする。だが、僕はひそかに返事が来るのを期待していた。
 しかしいつまで経っても来ず、一ヶ月、二ヶ月と過ぎていくうちに次第に僕は手紙を出したことを忘れていった。古田ともそれ切りになっていて、あの日の記憶は日常の中に埋没していった。
 そして半年あまりが経過したある日、僕は自宅のポストの中に里英子からの手紙を発見する。心臓の鼓動が高まり、後頭部に血がドクンドクンと流れるのを感じた。自宅に入り、震える手で手紙を開封した。便箋が三枚ほどきれいに折りたたまれていて、そこには都内の文具会社に勤めていて埼玉の蕨に住んでいるという現状と、あの手紙が実家に届いていてびっくりしたとかそんなことが書かれてあって、最後に住所と携帯の電話番号とメールアドレスが書かれていた。
 僕はほとんど勢いで里英子の携帯に電話をかけた。だが電話はつながらず、僕は留守電にメッセージを吹き込んだ。
 一時間後くらいに見知らぬ番号から電話がかかってきて、出ると里英子だった。
 およそ十五年ぶりのぎこちない会話を五分ほど続け、しりすぼみに話がなくなってきて気まずくなり電話を切った。そしてこのままではマズいと思い、僕は手紙に書かれていた里英子のメールアドレス宛てに、電話のお礼と緊張し過ぎて全然上手く喋れなかったことを書いて送った。すると五分もしないうちに返事が来て、私も同じだったというようなことが書かれていた。僕は安心してまたそのメールに相応と思われる返事を書いて送り、またそのメールに丁寧な返事が来た。
 そのような感じでその日は終わったのだが、翌日の晩にまた僕は里英子にメールを送った。仕事中にあったことや昨日の感想やら、内容はともかく何か送りたいから送ったというようなものだった。返事はなかなかこなくてやきもきしたり後悔したりしたが、二時間近く待ってようやく返事が来た。中身は想像以上のもので、仕事上や日々のあれこれがとりとめもなくくだけた調子で長く書かれていた。僕も負けじとなんやかやあれこれと長文を書いて送り、それに対する返事が来てそれでその日は終わった。
 そんな調子で何日か夜のメールのやりとりが続き、僕はある日ビールの勢いも借りて、もしよろしければ今度一緒にご飯でも食べませんかと誘った。すると、やや間が空いたあと、喜んでと返事が来た。僕は思わずその場でガッツポーズをして返事を急いで書き、週末の土曜の夜六時に新宿駅の東口で待ち合わせをすることになった。
 そしてさらに思い切って、彼氏はいないの? とメールの中で直球で訊いてみると、一ヶ月ほど前に別れたばかりで、会社はおじさんと不細工ばかりでどうしようもないと返事が来た。自分が不細工の部類に入らないか心配になったが、十五年前の面影くらいは残っているし、少なくとも嫌いなタイプの顔ではないのだろうと自分を納得させた。
 当日、僕は自分が持っている中で一番おしゃれな格好をして新宿に向かい、約束の時間の三十分くらい前に東口に着いた。これ以上ないほどドキドキしながら待ち、約束の時間の十分前に彼女は現れた。
 あまりにも変わってしまっていたために、はじめ声を掛けられても分からなかった。斜め前に若い男がいたから、その人の連れかと思った。だが目の前に来て視線が合い、彼女が自分の名前を名乗ったところでようやく僕は彼女と認識した。化粧と髪型のせいだろう。ほとんど小学生の頃の彼女しか知らないのだから仕方がない。僕はあまり変わっていなかったらしく、すぐに分かったという。
 東口から歩いて五分ほどのところにある、前に友達と行ったことのある赤龍門という店に行った。ご飯が美味しくてお酒の種類も豊富で、なおかつ店内が薄暗くて雰囲気のあるこんなときにうってつけの店だった。
 メールのやりとりを散々していたこともあって最初の電話の時のようなぎこちなさはなく、わりとスムーズに話はできた。でも僕はまだ半信半疑で、里英子の友達か知り合いあたりが頼まれて代わりに来ているのではと疑ったりもした。だが、店に着いて席で向かい合って顔を正面から見ると、たしかに昔の面影があった。話の中での記憶のつじつまも合っていた。本人でしか答えられないことも口にしていた。
 お酒が入ったこともあって話はかなり弾み、二軒目も行ってダラダラと飲んでいるうちに終電の時刻が過ぎていった。店を出て二人で夜の新宿を歩き、途中のビルの階段に並んで座ったところでそういう雰囲気になり、僕らは口づけを交わした。
 結局三時間くらいかかって四ッ谷駅まで歩き、中央線の始発に乗った。里英子は京浜に乗り換えるということだったから秋葉原で降りた。送ろうかと声を掛けたが、もう朝だし大丈夫と断られたからそこで引き下がった。あまりにも早急に関係を進めたくなかった。
 僕は東京で東海道線に乗り換えて自宅に帰った。
 それから僕らは毎日メールのやりとりをしながらデートを重ね、都庁の展望台で夜景を見ながら告白をして、無事交際をスタートさせた。一年半後にプロポーズをして一緒に住むことになり、両家の顔合わせや結納をして半年後に結婚式を挙げ、籍を入れた。結婚旅行は宮古島へ行った。有休を五日間取って現地でレンタカーを借り、島の色々なところをゆっくりと巡った。
 子ども好きな里英子は子どもを望んだが、子宝には恵まれなかった。二人で産科に行き、不妊治療を受けたりもしたが結果は出ず、そのまま五年あまりが経過した。
 ある日、里英子は僕に離婚したいと言った。
 理由を尋ねると、子どもが欲しいからだと言う。
 あなたとの間には子どもはできない。だから、離婚して、他の人と結婚してその人との子どもを産んで育てたい、と。
 不妊治療ではどちらの側に原因があるのかは、はっきりしていなかった。
 そうか、としか言いようがなかった。
 できればあなたとの子どもを産んで育てたかった。でも、それが無理でも、どうしても子どもを産んで育てたい。このまま歳をとって産めなくなるのが怖い。産めないまま一生を終えてしまうのが怖くてしょうがない。

 翌日、僕らは市役所で離婚届を書き、提出した。
 里英子は実家に帰り、そこで地元の男と二年後に結婚した。
 僕は独身で、交際している女性はいるが結婚するつもりはない。
 里英子にとって僕という存在はいったい何だったのだろう。
 いまだにそれがよく分からない。



[了]

2023年02月26日