短編文画(ぶんが)2 暗い森
1
先日、死にかけた。
夜中に四十度近くの熱が出て、寒気で身体が震え、全身の骨と関節に激しい痛みを覚えた。寝ていることすらできなくなった私は救急車を呼び、一時間後には救急病院に搬送されていた。身体がバラバラになりそうなほどの痛みと痺れ、怠さ。いくら着込んでも寒さが収まらず、私は死を覚悟した。
鎮痛剤だかなんだかよく分からない透明な液体を点滴されているうちに、身体の感覚はだいぶましになっていった。そして、CTの機械に入れられて検査を受けた結果、肺炎と診断された。
頓服の解熱剤と抗生物質を大量に出されてその日は帰された。まだ若いし、初期段階で重度ではないから入院の必要はない。一週間これを飲み続けて安静にしていてください、と。まだ若い研修医だったが、その言い様はいかにも力強かった。
タクシーで帰って来て処方された抗生物質を飲むと、その日は眠れた。そして朝起きるといくらか良くなっていて、おそらく薬が効いているものと思われた。
一週間ほどその医師の言う通り、薬を飲んで安静にしていたが完全には良くならなかった。午後になると熱が上がり、痰が絡んで咳が出てという状態がしばらく続いた。薬が切れた頃、近所の別の医者に行き、また薬を出してもらった。それを飲んでいるうちに症状は次第に良くなっていった。
*
前にも一度死にかけたことがある。十代の頃のことだ。
家の自室のドアノブにタオルを引っ掛けて首に巻き、そのままだらっと身体をもたせ掛けるというやり方だ。有名なミュージシャンがこの方法で自殺したことを知り、死を望んでいた私はその真似をした。
CDプレイヤーでビートルズの「デイトリッパー」をかけながら、タオルを硬く結び、徐々に身体をずらしていった。そうしていくとだんだんと首が締まっていって、聴こえている音が変になっていった。早回しとスローが繰り返され、鳴っている音やジョン・レノンの声がぐにゃぐにゃと伸び縮みする。
記憶が蘇るのが、自分の身体がガクガクと揺れているところからだ。見ると、首の横でタオルの結び目が解け、股間が濡れている。尻の下には便が出ていて、「デイトリッパー」は終わって別の曲が聴こえていた。
身体の痙攣で結び目が解け、私は死の淵ギリギリのところから生還したらしい。失禁もしていたし、おそらくあと数秒といった差だったと思う。三十秒もなかったはずだ。
結び目はしっかり硬くしていた。身体をずらす前に力を込めて結んだ。だが、解けた。
何故なのだろう。解けるはずのない結び目が解けた。
私は本当に死ななかったのだろうか。
*
数年前、ある有名な芸能人が死んだ。その芸能人は死ぬ前に霊能力者に未来を霊視してもらうというテレビの番組に出ていた。
わたしの三年後はどうなっていますか?
その芸能人は番組の中で霊能力者に訊いた。
暗いです。真っ暗。何も見えません。
霊能力者はそう答えた。
死後、この番組と霊能力者が話題になったことは言うまでもない。
死因に関しては当初特定には至らず、様々な説や噂が飛び交った。死後一週間を経て腐乱した状態で発見され、自宅の密室の中でのことだったからそこで本当に何があったのかは憶測の域を出なかった。しかしそれからおよそ二ヶ月後、警察は「病理検査の結果、死因は肺炎」と発表した。まだ三十代と若く、死から時間が経過していたためにその公式発表は疑念を持って世間に受けとめられた。
肺炎と救急病院で医師から告げられた際、この芸能人のことを私は思い出した。この芸能人が本当に肺炎だったのかどうかは分からないが、あの状態でそのまま救急車を呼ばず、もしくは状態がさらに悪化して呼ぶことすら出来ず、自宅に寝転がっていたままだったら私も彼女のようになっていたかもしれない。遺体は死後数日してから発見され、私自身は暗い森にいた可能性がある。
人を殺してはいけない、というのは本能的に理解できる。
なぜなら、自分が殺されたくないからだ。人に殺されたくないから、自分も人を殺してはいけない。
じゃあ、自殺というのはどうだろう。あれは殺す対象が自分になっただけで、人殺しではないのか。どう分類されるのかは知らないが、もし自殺も人殺しとカウントされるのであれば、私はあの時殺人未遂を犯したことになる。
自殺という言い方が曖昧さを作り出している。つまり、もっと言えば自分殺しだ。人と自分とのあいだに明確な線引きをするか、もしくは同じ一人の人間として線引きをしないか。──どうも線引きは通用しない気がする。それは勝手に自分自身が決めたことだ。上から見ればどっちも一緒だろう。
自分も殺してはいけない。たとえ、死にたかったとしても。なぜなら人を殺してはいけないから。死にたかったら、死ぬ時を待つしかない。それはいずれ来るのだから。
人を殺す行為の対極として人を生み出す行為というものがある。出産は女にしか出来ないことで、男は子種を残すことしかできない。だが、誰にでも父と母がいる以上、子を成すという行為自体は出産に伴って男女がすることだ。そういう意味では、私はこれまで二人の子を生み出した。そして、未遂はあったが人を殺したことはない。未遂と既遂のあいだに違いはある。道徳的にはどうだか知らない。そんなものに興味はない。して出来たか、出来なかったか。自殺したか、しなかったか。いま生きているのか、死んでいるのか。
事実だけをカウントすれば、プラス2ポイントだ。そんな計算式が実際にあるのかどうかは知らないし分からない。暗いところに行くのか、明るいところに行けるのか、実際に死なない限り知ることはできない。
そもそも、私は本当に死んでいないのだろうか。
分岐式というものを考えたことがある。
たとえば十代のあの時、現実にはタオルの結び目は解けず、私は死んだのかもしれない。
だが、身体の痙攣で結び目が解けたことになって、生きていることになった。死んだが死んでいないことになっていて生き続けたことになった。現実にはあれから数時間後、おそらく朝になってから私の遺体が家族の誰かによって発見され、救急車が呼ばれて病院に搬送され、死亡が確認される。数日後に身内だけの葬儀が営まれ、私の遺体は焼かれて灰になり、骨壺に納められて墓の中に入る。
その頃の私はまだ一人の子も成していないから、自分殺しでマイナス1ポイント。だから、私自身は暗いところに入り込んでいる。
死んでも死なない。いくら死んでも死なない。自分の意識ではそうなっている。無限に分岐する。私はいつまででも生き続ける。
2
ある日、高木義人は、自宅に帰ってくるとそこに一人の女がいることに気づいた。部屋の奥、箪笥と窓のあいだのところにちょこんと座っている。
ああ、いるな。
普段からそういったものは見慣れていた。道路の真ん中に立って叫んでいるのや、駅の線路の上に座り込んでいるのをちょくちょく見かける。そんな時、義人は見ない。もしくは見えない振りをする。目が合ったりしたら厄介だし、そいつが車や電車に轢かれることはまずないからだ。
義人はテレビをつけ、帰り道にコンビニで買ってきた缶ビールを開けた。
「ねえ」
どっかりと胡坐を掻き、ビールを口にする。声が聞こえることもあるが、これも聞こえない振りだ。
「ねえ、無視しないでよ」
つまみ代わりのスナック菓子の袋を開け、ビールと一緒に流し込む。反応しないことが重要だ。なにかそういう素振りを見せるとバレてしまう。
女は立ち上がり、義人の真横に移動した。
「ねえ、なに?」
肩をぐいぐいと押してくる。
「なんで無反応なの? あんたあたまおかしいの?」
義人は身体のバランスを崩し、飲んでいたビールが胸のところにこぼれる。
「怒ってんの? ゆうこから鍵もらったから、勝手に開けて入っちゃった」
女はそう言って、スカートのポケットからキャラクターのキーホルダーがついた鍵を取り出して見せた。チラッと視線をやると、それは見覚えのあるもので、女の言う通り以前ゆうこが持っていたものだった。
すると、この女はいわゆるあれではなく、本物ということか。
「は?」
義人はそう言って女の顔を見た。二十歳くらいのまだ若い女だ。目が大きくて割と整った顔立ちをしている。肩くらいまで伸ばしたまっすぐな栗色の髪に、灰色のパーカーとカーキ色のショートパンツ。その下からは白い素足が出ていてその先は裸足だ。
「だから、この鍵で玄関開けて入ったの!」
鍵を目の前でひらひらさせながら、女は怒鳴った。
「なんで? ゆうこになんて言ったんだ?」
「鍵返しといてあげるって。ここのアパートと部屋番号聞いて」
意味が分からない。この女とは面識がないはずだ。
「ま、嘘なんだけどね。行くとこないから、しばらく置いて」
その時の正直な気持ちを言うと、悪い気はしなかった。ゆうこともだいぶ前に別れていたし、若くてきれいな女が転がり込んでくるとなれば男なら誰しもそう思うだろう。
「わたし死んだんだ。だから、行くとこなくってさ」
「へ?」と、義人は訊き返した。
「だから、死んだんだって。わたしん中では死んでないんだけど、ここでは死んだことになっていて、仏壇に遺影も飾られてるし、身体は焼かれて灰になってお墓の下」
ああ、そういうことか。だからここに──。
「でも、幽霊とかそういうのじゃないから。生きてんの。ちゃんと。正真正銘。でも、ここでは死んだことになってるの」
冷蔵庫の中に入っていた缶チューハイを出すと、女はそれをチビチビと飲みながら話し始めた。
女は田沢みおという名前で、みおはある晩四十度の高熱を出して救急車で病院に運び込まれた。点滴を受けながら一晩過ごし、その後も投薬や治療を受けつつ一週間入院した後、回復して退院した。
「タクシーにね、病院から乗ったんだけど途中で寝ちゃって、気づいたら家に着いててお金払ってタクシーを降りたの。で、鍵開けて家に入った」
そこでみおは一呼吸置き、義人の目をじっと見た。
「わたしがただいまってリビングに入ってったら、お母さんがいて私の顔を見てあれ? って顔したの。で、どうしたの? ってわたしが訊いたら、もう顔色がサーッて変わって、もうパニくっちゃってて。奥の仏壇のところ見たら、わたしの遺影みたいなのが飾ってあって、えっ? ってわたしがなっちゃって」
「死んでることになってたってこと?」
「そう」とみおは頷く。「死んだ娘が帰ってきたって、びっくりしてるの。で、ちがうちがうっていくら言ってもお母さんはわーってなっちゃってて、どうしようもなくなったから家を飛び出してきちゃったの」
その後、駅のコンビニ前でたまたまバイト先の派遣社員のゆうこと会って、経緯を説明すると、ゆうこはそこで義人の名前を出したらしい。
「前に付き合ってた人でね、あの人ね、どうも見えるらしいのよ。死んだ人とか。そういう人なの」
みおはそういう人ならこの状況を何とかしてくれるかもしれないと思って、返しそびれていた合い鍵を代わりに返しにいくという口実の下、義人のアパートの場所と部屋番号を教えてもらった。
そして、昼間のうちにたどり着き、合い鍵で部屋の中に入って義人の帰りを待っていた、とそういうことらしい。
話を聞き終えると、義人は何度も頷き、そしてこう言った。
「それはね、おそらく分岐式というやつだと思うよ」
「ぶんきしき?」
みおは当然意味が分からず、訊き返してくる。
「そう。分岐式。人は死んでも死なないことになってるんだ。自分の中ではぎりぎり生き抜いたことになっていて、死んでいない。でも、外の世界では死んでいる。つまり、そこで世界が分岐しているんだよ」
「死んでも、死んでいないことになってるの?」
「そう。通常だと死んでいないことになっている世界が続いていく。でも、あなたの場合は分岐したのに、何かの手違いで死んでる側の世界に来ちゃったみたいだね」
すると、みおはこう訊いてきた。
「じゃあ、どうすればいいの? 死んでいない方に戻るには」
「そんなの簡単だよ。もう一回死んでみればいい」
「え?」
「死んでみるっていっても、死なないけどね。また分岐するだけ。今度はちゃんと死んでない側に。だから、いったん死んで死んでない方にまた戻ればいいんだよ」
我ながら名案だと思った。また分岐させれば本来の世界に戻れるはずだ。
「でも、死ぬってどうやって? 車に轢かれるとか、ビルの上から飛び降りるとか?」
いや、と義人は首を横に振った。
「人に迷惑をかける方法はやめてといた方がいいと思う。だから、おすすめは首吊りかな」
えっ、とみおは顔を顰めた。
「でも、それって確実に死んじゃうんじゃない?」
「そうでもないよ。最後の瞬間にロープが切れるとか、結び目が解けるとか、ぶら下がってたところが外れるとか、そういう形になると思う」
「へぇ」と答え、みおは缶チューハイを口にした。
「それで、死なないようになるんだ」
「うん」と、義人は頷き、缶の底に残っていたビールを飲み干した。
義人とみおはしかし、そのいったん死ぬという行為を試みぬままに夜通し酒を飲み続け、明け方に性交をして眠った。
翌日は夕方頃に起きて二日酔いの頭を迎え酒で誤魔化し、テレビなどを見ながらまた飲み続け、性交をして眠った。
翌々日は、昼過ぎに起きるとまた性交をし、買い物に出かけ、食料やら酒やらを買い込み、帰ってきて夕飯を作って食べた。二人で風呂に入り、歯を磨いて性交をして眠った。
そんな生活をしばらく続けていたが、やがて義人は仕事に行くようになり、みおもバイトを始めた。お互い夜帰ってくると夕飯を食べ、風呂に入って性交をして眠った。
死ぬ死なないの話はもう出なくなっていた。死ぬ理由も分岐する理由も失われていた。
人間は本来、食べて寝て排泄して性交をする生き物である。
だから、二人は生きることにしたのだ。
3
死んでも死なないということがあり得るとしよう。
主観的な世界がずっと続いていく。すると、何百歳、何千歳まで生きている人がいることになる。事実や現実がどうあれ、そうなってくる。自分だけは死んでいない。ずっと生き続けているのだから。だが、人には寿命というものがあって、誰しもそれを免れることはできない。
そこで浮かび上がってくるのが、選択的分岐式という可能性だ。
*
ある晩、四十度の熱が出た。
頭の中で脳細胞がプチプチと弾け、熱で溶けて何も考えられなくなった。身体中の骨と関節が軋み、後頭部と背中が痛くて居ても立ってもいられなかった。
救急車を呼ぼうと思ったが、携帯が見つからなかった。探すのが苦痛で諦めてじっとしていたら動けなくなってきた。喉に痰が絡んで呼吸がし辛く、胸がゼイゼイした。 そのうち、息がまともにできなくなってきた。気管に何かが詰まって狭くなっていて、その少ない酸素を懸命に吸ったり吐いたりした。だが脳にまでは行き渡らず、次第に意識が曖昧になっていった。
息をするのも億劫になり、そのまま諦めてしまうと体の痛みが消えていった。ふわふわとした気持ちのいい感じになっていって、私はどこかに横たわっていた。
草と土の、便臭のようなムッとする匂いがした。外で、しかも夜だった。闇目が効くようになってくると、そこが木々や草の生い茂る森の中だと分かってきた。
身体の怠さや熱っぽさや骨の痛みは消えていて、私は立ち上がるとそこらをウロウロした。人のいる気配はなく、空には月も雲もなかった。
歩き疲れると、そこらの木を背に座り込んだ。
人の姿はなく、ただただ暗い森が続いている。
どうやら私は長く生き過ぎてしまったようだ。
〔了〕