長編小説2 夢落ち 2
本を慌てて平台に戻し、れいは僕の方に向き直った。
「お仕事中、お忙しいのにすみません。なんか無理言っちゃって」
「いえ、そうでもないですよ。大丈夫です。そんなに忙しくもないんで」
夜までにやらなければいけない仕事はたくさんあったが、今日のお客さんの入り具合はあまりよくなかった。半分嘘、半分は本当といったところだろうか。
「じゃあ、行きましょう。そこの交差点渡ったとこです」
店を出て信号が青になるまで待ち、僕らは連れ立って通りを渡った。そして狭くて急な階段を上り、二階にあるフレンズという喫茶店に入っていった。昼食や版元さんとの新刊配本の打ち合わせなどによく利用しているお店で、古いジャズが聞こえるか聞こえないかくらいの音量でいつもかかっている。
奥の窓際の席に座り、僕らはじっと顔を見合わせた。
「暑いですよね。ほんと最近」
気まずさを紛らわすように、僕はそんなことを口にしていた。だが、実際ちょっと外に出て通りを渡っただけで、早くも額からは汗が噴き出していた。店員の持ってきたおしぼりでそれを拭うと、僕はアイスコーヒーを注文した。
「私も同じので」
れいは、付け加えるようにそう店員に伝える。石沢から聞いた話によると、たしか僕より八つ年上ということだった。つまり、四十一か二。とてもそうは見えなかった。整った美しい顔立ちの中に、どこか可愛らしさのようなものが残っている。左頬に浮かぶ笑窪や目の表情、口の端をキュッと曲げるところなど、まるで十代の少女のようなあどけなさが見え隠れしている。石沢が夢中になるのも無理はない。
「ごめんなさい。ちょっといいかしら?」
そう言って、れいは隣の席に置いていたハンドバッグの中から、ルイヴィトンのロゴの入ったシガレットケースと銀色の細長いライターを取り出した。
「ええ、どうぞ」
テーブルの端にあった灰皿を取り、彼女の前へ置いた。
「医者がこんなの吸ってちゃいけないんでしょうけどね。どうしても止められなくって」
そう言いつつ彼女はシガレットケースの中からセーラムを取り出し、口にくわえると、目を細めてライターで火を点けた。
店員がアイスコーヒーを二つ、お盆に載せて運んできた。
れいは傍らにあったガムシロップを手に取ってコーヒーの中に入れると、ストローでニ、三回ゆっくりと掻き混ぜた。そして一口飲むと、また灰皿に載せていた口紅のついた煙草をくわえ、薄い煙を細く長く吐き出した。そこで僕は彼女の挙動を自分がじっと凝視し続けていることに、はじめて気づいた。
唾をゴクリと呑み下すと、僕は取り繕うように慌ててガムシロップをコーヒーの中にぶち撒けた。そして、カランカランと氷の音をさせながら勢いよく混ぜる。
「そ、そうだ。話って何ですか?」
そう切り出すと、れいは上目遣いに僕の顔を覗きこみ、小さくため息を吐いた。
「……そう、ええ。ううん」
まったく答えになっていなかった。ただ言い辛いことを口にしようとしていることだけは、しっかりと伝わってきた。
「石沢さんのことですか?」
彼女は自分の夫がきっとどういう男か確認しようとしにきたのだろうと、見当をつけていた。昔は何をやっていて、僕とはどういう付き合いをしていて、これまでいったいどういう生き方をしてきたのか。つまり、おそらくいま彼女は夫との関係に悩んでいる。石沢篤人という男が分からなくなったのだ。
「ええ」
れいは、口の端をキュッと結び、大きく頷いた。「実は、一週間前から行方が分からなくなっていて──」
「えっ! 石沢さんがですか?」
今度は下唇を嚙み締め、頷いた。目がやや赤くなってきている。
「だから、何かご存知ないかと思って……」
知るも何も、今聞いて知ったばかりだ。石沢さんが失踪?
「そんなん、知りませんよ。えっ、それ、どういうことですか?」
煙草を挟んだ指先が、小刻みに揺れていた。赤く潤んだ目からは、今にも涙の粒がこぼれ落ちそうだった。
「……分からないんです。仕事から帰ったらいなくて、接待か何かで遅くなってるんだろうって思って待ってたんだけど、朝になっても帰ってこなくて……、携帯も繋がらないし会社にもいなくて、京都のお義母さんと相談して水曜日に捜索願は出したんだけど──」
「何か心当たりは?」
れいはため息交じりにかぶりを振った。
「大型の融資が決まりそうだって張り切ってたのは知ってるけど、悩んでたりしてた様子じゃなかった」
「事故か事件に巻き込まれたのかもしれませんよ」
「その可能性の方が高いと思う。だって、そういう人じゃないでしょ?」
そう言って、同意を求める視線を向けてきた。僕は腕組みをして考え込んだ。石沢は、自ら行方をくらますような人間だろうか。いや、よほどのことがあったとしてもそういうふうに黙って逃げたりはしないとは思う。少なくとも、僕の知る限りでは。
「そうですね。うん、確かに」
確信があるわけではない。ただ、どちらかと言えばそう思うだけだ。
「私のことは、石沢さんから聞いてました?」
すると、れいは煙草を灰皿の上に置き、ハンドバッグの中から名刺入れを取り出した。
「ほら、これ」
そう言って、その中から取り出した一枚の名刺を目の前でひらひらさせた。
僕の名刺だった。会社と所属店舗の住所と電話番号。真ん中に名前と肩書きが載っている。
「何かあったらこいつを頼れって」
僕は小さくため息を吐き、アイスコーヒーを一口飲んだ。
「石沢さんがそう言うてたんですか?」
れいはこくりと頷く。何かあったら?
「それを急に昨日の夜思い出して、あっ! て思って何かこの人が知ってるんじゃないかってとりあえず……」
再び腕組みをし、僕は喉の奥で唸った。
「それ言うてたのは、いつ頃ですか?」
テーブルの上には、逆さまになった僕の名刺がぽつりと置かれている。
「うーんと、確かプロポーズされた日の夜だったと思う。だから、よく覚えてる」
さっき、忘れていたと言っていたはずだが。
「私の誕生日で竹芝のホテルに泊まってたんだけど、夜、地下のラウンジみたいなところでお酒を飲んでる時に、急にそんなこと言い出して」
「何かあったらってのが、気になりますよね」
煙草をくわえ、ふぅとまた煙を吐き出す。
「今となってはね。でもその時は、そんなに深刻には取らなくて、ふぅんって感じでそのままバッグの中に入れちゃったの」
「どんな奴か聞かなかったんですか?」
フィルターの近くまで灰になったセーラムを、れいは灰皿に擦り付けて揉み消した。
「俺の親友で、本屋だって言ってた」
親友。そんなふうに言ってくれていたのか。でも、僕は果たして本当に石沢の親友だろうか。学生時代はともかく、今はそんなに大した付き合いでもないし、親友と呼べるほどの役割を果たしているとも思えない。
「……何かあったら、こいつを頼れ」
れいは小さく頷いた。「そう、確かそう」
石沢さんが結婚してから約四ヶ月ほど経っている。つまり、あの電話で言っていたプロポーズの日だから、半年くらい前ということになる。その時点でそんなことを言っていたというのは、何か覚悟があったということだろうか。
「…ねぇ、何とかしてよ! もう気が狂いそう!」
いきなり、そんな大声が彼女の口から飛び出した。店にいた他の客たちが吃驚して、僕らのテーブルを振り返って見た。
そんなことを言われても、自分の力でどうにかできるとは思えなかった。思い当たる節もないし、手掛かりも取っ掛かり何もない状態に等しい。そこから、どうやって石沢さんを捜し出せというのか。
「分かりました。何とかしましょう。石沢さんがそう言うてた以上、私が何とかしますよ」
なぜ、そんな無責任な言葉が口をついて出てきたのか、よく分からない。
れいの大きな目でまっすぐ見据えられていたからかもしれない。そこにはほとんど魔術的な力が込められていた。身体ごと吸い込まれ、夢中にならずにはいられないような強力な力。僕はきっと、それに抗うことができなかったのだ。
2
その電話がかかってきたのは火曜日のお昼過ぎ、僕が銀行で売上金を入金して帰ってきたときのことだった。
「木崎代理。二番に迫田さまからお電話です」
迫田。その名前に僕は覚えがあった。前妻の佳奈子の姓だ。店に電話してくるなんて、いったい何の用だろう。何かあったのだろうか。
しかし、電話に出るとそれは佳奈子ではなかった。
「……まもるさん。迫田です」
聞き覚えのある声だった。
「……あぁ、お義母さん。ご無沙汰しています」
実に四年ぶりだった。それに離婚しているのだから、もう義母ではない。だが、その呼び方以外思いつかなかった。
すると、電話越しに、彼女が息を頻りに吸ったり吐いたりしている音が聞こえてきた。
「お元気でしたか? 佳奈子さんとも今ではほとんど連絡取っていなくて……」
妙な沈黙を埋め合わせるように、僕は頭で思いついた言葉をそのまま垂れ流していた。嫌な予感がした。佳奈子の母親が僕の職場にわざわざ電話をかけてくるなんて、普通では考えられないことだった。
「…まもるさん。……佳奈子が死んだの」
囁くような微かな声だった。
「え?」
「……殺されたの」
そこで彼女の言葉は途切れ、搾り出すような嗚咽に変わった。
佳奈子が死んだ? 殺された?
「お義母さん、それ……」
地面がぐらぐらと揺れている感じがした。受話器を持つ左手の指先が痺れ始め、頭の中には濃い霧か靄がかかっている。
電話口から洩れてくるのは、激しいしゃくり上げる声だけだった。
きっと、夢なのだと思った。目が覚めるとどうしてそんな夢を見てしまったんだろうと分析せざるを得ないような、とんでもない悪夢。佳奈子が殺された夢。
僕はとりあえず事務所の椅子を右手で引き寄せ、どっかりと腰を下ろした。そして、ぼんやりと天井の隅の方を眺めた。何年も掃除をしていないせいで、埃が溜まり黒ずんでいる。まるで亡霊でも佇んでいるかようだった。一年に一回くらい、たとえば年末にでもハタキをかけなければいけない。きっとみんな少しずつあの埃を吸い込み、それは着実に肺やら気管支に溜まっていっているに違いない。
「……お義母さん、いま、どこですか?」
長い沈黙の後、気持ちがいくらか落ち着いてくると、僕はようやくそう問い掛けることができた。
「…警察病院。飯田橋の」
そういえば、どうして僕にすぐ連絡してきてくれたのだろう。義母との仲は悪くなかったとはいえ、佳奈子とはずっと前に離婚していてもう家族でも親族でもない。
「今から行きます。飯田橋ですよね」
返事はなかった。そして、僕は電話を切った。
受話器の上に手を載せたまま、目を閉じて唇を嚙み締めた。呼吸がひどく荒くなっていて、指先が小刻みに震えている。
佳奈子が死んだ。殺された。
どのようにして死んで、どのようにして殺されたのか。絞殺か刺殺か、それとも駅のホームやどこか高いところから突き落とされでもしたのか。──そんなことは想像もしたくないし聞きたくもなかったが、聞いて知っておかなくては僕はそのことをずっと考え続けてしまうだろう。
「すんません。ちょっと身内が事故に遭ったみたいなんで、今から病院に行ってきてもいいですかね」
店長が休みの日だったから、僕は学習参考書の売場にいた下山に声をかけた。
「えっ? 身内の方って?」
驚いた声を出して振り返り、下山は目を丸くしていた。僕より年輩の社員でキャリアも上だったが、立場だけが逆になってしまって接し方にいささか苦慮していた。
「別れた前の奥さん。いまお義母さんから電話があって……」
口の端を曲げ、下山は考え込むような顔つきをした。
「あぁ、そう。こっちは大丈夫ですから、店長代理、行って来ても大丈夫ですよ」
僕はエプロンを脱ぎ、頭を下げた。
「ごめんなさい。すんません。じゃあ、お言葉に甘えさせていただきます。店のほう、よろしくお願いします」
事務所に取って返し、エプロンをハンガーラックにぶら下げると、鞄を手に文字通り店を飛び出した。そして、駅前のタクシープールまで小走りで駆け抜け、順番を待って車に乗り込むと、飯田橋の警察病院までと運転手に告げた。
お喋りな運転手に適当に相槌を打ちながら病院に着くと、僕は受付のところで前妻の名前を伝えた。迫田佳奈子と。すると、受付にいた中年の女性は一瞬息を呑んで僕の顔を見つめ、こちらです、と自ら案内してくれた。義母が伝えておいてくれたのかもしれない。
そして、彼女に連れて行かれたのは一般の病棟ではなく、地下の霊安室だった。
覚悟はしていたとはいえ、その事実に歩いている途中で打ちのめされ、頭がクラクラしてくるのを禁じ得なかった。自分がどこにいて何をしようとしているのか一瞬分からなくなり、ただ前を歩いている女性の背中についていこうと機械的に前へ足を踏み出していた。
地下に降り、線香の匂いのする長い廊下を歩く。そして、鈴の間と書かれた白いドアを女性が開けると、僕は後についてその部屋の中へと入っていった。すると、白い布で首から下を覆われた佳奈子がベッドに横たわっていた。傍らには元義理の母の咲枝と医師らしき眼鏡をかけた白衣の老人が立ち、こちらに視線を向けている。
僕は息を止め、ゆっくりと佳奈子の方へと近づいていく。頭の上では、線香が二、三本かすかな煙を上げていた。
目を閉じた彼女の顔は案外穏やかだった。気持ちよさそうに眠っているようにも見える。
つるりとした白い肌は、昔、僕が毎日目にしていたものと全く同じもののようだった。
「……こちらは?」
医師が義母に尋ねているのが聞こえた。
「この子の夫です」
3へ続く