長編小説2 夢落ち 11
見上げると空の真ん中あたりにきれいな満月が浮かんでいて、その月明かりだけを頼りに、僕らは真っ暗な林の中をぐんぐんと突き進んでいった。
「こっちに何があるんですか?」
僕は腕を引っ張られながら、不安になってそう訊いてみた。すると、こんな答えが返ってきた。
「まずは、隠れて見つからないようにしなきゃいけないでしょ」
ということは、当てがあったわけではないということか。林を抜けた先に車が停めてあるとかそういった展開を期待していた僕は、いくらか拍子抜けした。
「じゃあ、でたらめに進んでるってことですか」
「うん、まあ」
追っ手が来ていないとも限らないから、あながち間違っているとも言い難い。だが、そんなふうに進んでいたら、迷って出られなくなってしまう。GPSでも持っていれば話は別だが、れいに限ってそんな用意がいいとは思えない。
「勘よ。カン。そんなのすぐ分かっちゃうんだから」
周りが暗すぎて表情までは読み取れなかったが、きっと彼女はいつもの魅惑的な表情で微笑んでいたのだろう。山の中を勘で進むことなど考えてみるまでもなく自殺行為に等しいが、ひょっとしたられいはそういったセレピレンティーのような能力を持っているのかもしれない。
「あそこまでどうやってきたんですか」
僕はずっと頭の中に浮かんでいた疑問を、ここでれいにぶつけてみた。駆け足気味に歩いていたから、僕も彼女もやや息が切れ始めていた。
「ああ、そう、あなたが連れ去られるとこ、わたし見てたのよ。タクシーの中から。それで、運転手のおじさんにあの車尾けてって」
目の前の木に顔をぶつけそうになり、肩を当てながら何とかぎりぎりで避けた。
「なんで、警察に通報してくれなかったんですか?」
「通報したわよ。タクシーの中から。でも出た女の人が全然ダメで、見たまんま伝えたんだけど、はあはあ言ってるだけで捜査員を向かわせるとは言ってたんだけどね」
「その、僕が乗せられてた車のナンバーとかは伝えたんですか?」
「いや、それがね、運転手さんがすっかり乗り気になっちゃって、間に二、三台は挟まないとダメだとか、あんまり近づくと気づかれるだとか言い出して……」
まあ、確かに犯罪者を尾行することなど、普通の人生を送っていたらそうそう経験しないことだろう。
「遠くて見えなかった?」
「それもあるんだけど、何かスモークみたいのかかっててちょっと下向きにしてあるみたいで、ね、まあ。ああいうの道交法違反じゃないのかな。取り締まれないのかな」
その後も、れいはそのナンバープレートに対する不満をぶつぶつ言っていた。
「で、それでここに辿り着いたってわけですか?」
「そう。国道から脇道入るとこで、そのままちょっと行ったところで停めてもらったの。そんなとこ入ってく車他にいなかったから、ついてったらバレちゃうでしょ。それで二時間くらい走ってたから料金すごいことになってたんだけど、運転手さんお金いらないって言うのよ。私もすぐ地元の警察に掛け合いますからって」
きっと、その運転手もれいの魅力にやられたのだろう。
「それで、えっちらおっちら一時間ばかし歩いて、ここに辿り着いたんだけど、私も見つかったらどうなるか分かったもんじゃないじゃない。まあ、たぶん主人もここに連れ去られてきてるわけだし、捕まったらおしまいだなって」
遠くで犬の遠吠えのような鳴き声が聞こえる。映画とかニュースでよく見るように、犬を使って僕らを捜しているのでなければいいのだが。
「それで、入り口から入るのはもっての他だから、その近くの森の中に隠れてじっと機会を窺ってたのよ」
「携帯は使わなかったんですか? 警察に来てもらうとか」
「はぁ? そんなの圏外に決まってるでしょ。ここ、栃木の山ん中よ」
栃木。やはり随分遠くまで来ているのだ。
「まる一昼夜待って、それでロープを見つけたの」
「は?」
僕は真顔で訊き返した。
「ロープよ。ロープ! 建物の屋上から地面に垂れ下がってるのが見えたの」
僕は開いた口がふさがらなかった。ロープが屋上から垂れてた?
「近づいてみたら、三十センチ置きくらいに結び目もついてる太いやつで、これなら私でも昇れそうだなって」
誰かが垂らしたのだろう。もちろん、勝手に垂れてくるわけはない。
「それで思い切って昇ってみたら、あなたとあの女の人がいるのが見えて、窓蹴って勢いつけて飛び込んだの。ターザンみたいに。もうホント死ぬかと思ったけど」
「そのロープは誰がつけたんだろう?」
「あなたじゃないのね?」
僕は闇の中で頷いた。「ええ、僕じゃありません」
「じゃあ、そのあそこの中に誰か私の存在に気づいた、スパイみたいな人がいるってことじゃない。まあ、いわゆる裏切った人みたいな」
石沢だろうか。だが、石沢は菅野の話によると、ここの教祖のような存在に祭り上げられていて、皆からは先生と呼ばれているようだ。そんな人が一人でこそこそロープを用意して垂らしたりできるものだろうか。お目付け役の信者だかSPだか見張り役だかが、しっかりと張り付いていそうな気がする。それに、れいに僕を逃げさせる理由も判然としない。
佳奈子。
僕の頭にその次に浮かんできたのは、その可能性だった。菅野はたしか話の中で佳奈子は本当に死んでいるのかというようなことを言っていた。そして、僕も現に自分の死亡記事を見させられた。だが、僕は死んでいない。すると、佳奈子も生きていて、この教団だか団体だかにいると考えることもできる。いわゆる、ディープスロート。内通者。
「石沢さんに会いましたよ」
すると、れいは足を止め、こちらを振り返った。
「え、なに?」
月明かりに、彼女のはんなりとした顔が白く照らし出される。
「だから、石沢さんに会ったって言ってるんですよ」
そして僕は、彼女を促すように歩き始めながら、石沢に会って話したことを説明した。もちろん、その前の佳奈子とのことは除いて。
「手足を縛られてて目隠しをされた状態でしたから、たしかに石沢さんだったっていう確証はありません。でも、あの声としゃべり方は石沢さんそのものでした」
僕らの歩みは次第にゆっくりとしたものに変わっていて、顎を引いて俯き、れいは浅い呼吸を繰り返している。
「あの人は……」
そこで、言葉が一瞬途切れた。そして、十秒ほど経った後、また彼女の口が開いた。
「わたしを…、わたしが奥さんじゃないって言ってたの?」
僕は低く唸った。そして、舌で唇を湿らせた後、こう言った。
「夢落ちしてきたんやって言うてました」
れいの口から、わざとらしい大きな溜め息が洩れる。
「だから、その夢落ちって何なの?」
怒りのこもった強い口調だった。僕はしかし、その問い掛けに明確に答えることができなかった。ただ石沢と菅野に言われたことの、断片的な記憶を繋ぎ合わせるしかなかった。
「文字通り、夢に落ちることやって言われましたけどね。僕も上手く言えないし、ほんとかどうかもよく分からないんですが、よく自分が夢の中で夢を見てるって気づくことあるじゃないですか。あれを明晰夢っていうらしいんですけど、それを固定化してしまう、つまりずっと夢の中に居続ける方法があって、石沢さんはその方法を実際にやって、その、夢落ちしたってことです」
ひどい説明だった。言ってる本人もよく理解していないのだからしょうがない。言われたことを、ただ水で薄めて粗悪に垂れ流しているだけだった。
「夢に落ちる。……じゃあ、ここはあの人の夢の中だっていうの?」
「石沢さんと、僕と話をした教団の幹部が言うには。でも、そんなことホンマかどうかなんて知りませんし、分かりませんよ。それにもしホンマやったとしても、どうしようもないことや思うんですけどね」
それはほとんど感想のようなものだった。どこにも行き着けないし、どこにも辿り着けない。なんの生産性も持たないガラクタのような言葉だった。
そこから二十分ほど、僕らは無言で歩き続けた。当てはなかったが、少なくとも僕の中には、どこかで大きな道路にぶつかるかもしれないという仄かな期待はあった。実際、れいは国道から一時間でこの施設に着いたと言っている。男女のペアだったし、道路に出てヒッチハイクのようなことをすれば、東京かどこか近くの都市まで乗せていってくれる親切なドライバーが見つかるかもしれない。
だが、ぼくらは一向に道路には行き着かず、むしろ辺りはますます山深くなってきていた。道に傾斜も加わって、いよいよ山登りといった具合になってきたところで、僕らは一軒の避難小屋のような建物を見つけた。建物といっても粗末な木造家屋で、ほとんどあばら家と言ってもいいような代物だった。
「ちょっと、あの中で休みましょうか」
僕は次第に疲労の色を濃くしつつあるれいに、そう声を掛けた。
「……うん。そう」
力なく彼女はそう呟き、僕らは小屋に近づいていった。落ち葉や折れた枝等にすっかり埋もれていて、その小屋は遠目にはとても粗末に見えた。だが、近くで見てみると丸木を組み合わせてロッジ風に作った、案外しっかりとした造りをしていた。長い間誰にも使われていなかったために、外見がすっかり荒んでしまったのだろう。
れいがドアに手を掛け開けようとすると、鍵がかかっていることが分かった。小屋の側面には黒い煤で覆われた明かり取り用の窓があったが、石か何かで割り砕いたとしても、いかんせん面積が小さすぎて体が通らない。僕が困り果てて小屋の周りをぐるぐる回っていると、表かられいの声が聞こえてきた。
「ほら、あった!」
回り込んで見ると、ドアの脇にあったプランターの下に彼女は手を突っ込んでいた。
「勘よ。カン。だから言ったでしょ。そういうの、すぐ分かっちゃうって」
れいは自分の発見にすっかり舞い上がっていて、元気になっていた。まるで幼い少女のようだと思った。クリスマスの朝に、テーブルの下に隠してあったプレゼントをみつけた少女のような笑み。心をひどく揺さぶられなかったと言えば、嘘になる。
れいの見つけた鍵を使って、僕らは小屋の中に足を踏み入れた。
「うわっ、これ、すっごい」
死体やミイラがあったわけではないが、そこにはある種異様な違和感のある光景が広がっていた。
「なんだ、これ……」
僕も思わず、そう洩らしていた。
子供用の赤いプラスチックのバットや黄色のゴムボール。それに、青色のスーパーカーを模した子供用の乗り物。よく地方の土産物屋や動物園などに売っている、長い棒の先に小さなタイヤと蝶の羽のようなものがついている地面を転がして遊ぶ玩具。作りかけの何かのアニメのキャラクターのジグソーパズルに、縫いぐるみが数体。その他にも雑多な五、六歳児向けのおもちゃが、小屋の床いっぱいにぶち撒けられていた。
こんな夜更けに白い月明かりの下で見る光景ではない。
僕らはその玩具を見下ろしたまま、しばらく無言で立ち尽くしていた。れいが息を吸ったり吐いたりするやや高まった吐息と、また後方から犬の遠吠えが聞こえてきていた。
「……ライター持ってますか?」
天井から、ランタンのようなものがぶら下がっているのに気づいた。
「…ええ」
唾を呑み込んだ後、れいがひどく擦れた声でそう答える。そして、ポケットを探って煙草のパッケージを取り出した。
「ポケットに入れ替えといたの。念のためにね」
ハンドバッグの中にでも入れてあったのだろう。きっと、それを捨てるかどこかでなくすかしたのだ。
れいはおもちゃを踏まないように歩いていって、天井からぶら下がっていたランタンを手に取った。
「そこの、傘の部分を持って下のとこを回して」
彼女は僕の指示通り、回そうと試みたがすっかり錆びついているようで全然回らないようだった。だが、しばらくうんうん唸りながら力を入れていると、キキーと不快な音を立てながら回転し、傘の部分が外れた。
「それで、そこのガラスを外して、芯のところに火を」
昔、学生時代に登山をやっていた関係で、こういったものの扱いはよく心得ている。
れいは煙草のパッケージからライターを取り出し、芯に火を点けた。そしてガラスを元通りに嵌め、天井からぶら下がっている傘の部分に元通り繋げる。
部屋の中が赤く染まり、僕らやおもちゃの影が床や壁に映し出される。
「ごめん。これやっぱり取ってくれないかな」
れいがドアを閉めたところで、僕は縛られた手首を彼女に見せながらそう言った。
「ええ、じゃあ、そこ座って」
散らばっているおもちゃを足で払い除けながら、僕らは一畳ほどのスペースを確保し、座り込んだ。そして、れいはぶつぶつ何やら聞き取れない文句を口の中で呟きながら、五分程かかって硬く縛られた僕の縄を解いた。
いましめから解放されると、僕は思い切り肩を回し、腕を上空へ向けて伸ばし、ぐーっと背伸びをした。
「あぁ、気持ちいいね」
僕がれいに感謝の言葉を伝えると、彼女は小さく微笑み、壁に背中を預けて細長い煙草を吸い始めた。これで、一人で小便ができる。大きな一歩だ。実はさっきからずっと我慢し続けていたのだ。
れいに断りを入れ、僕は立ちあがって小屋の外に出て、近くの木の根元に長い長い小便をした。素晴らしい開放感だった。飛び上がって、快哉を叫びたくなるほどのこの自由な感覚。後ろ手に手首を縛られるということが、どれほどのストレスを人体にもたらすのか、僕は痛切に感じた。手首の皮膚には縄の跡がしっかりと残っているし、破れて擦り切れ、血が滲んでいる箇所もある。緩めに縛って外れでもしたら大変なのは分かるが、こんなに人間の尊厳を踏み躙る行為もなかなかない。なにしろ、ズボンのチャックも開けられないし、下着の上げ下ろしまで人にやってもらわなければろくに小便もできないのだ。好意も何もない会ったばかりの他人に、性器を下着の裾から取り出される経験など、おそらくほとんどの人がないだろう。
──緊張しないでください。大丈夫です。馴れてますから。
だが、歳を取って腰が立たなくなり、介護施設にでも預けられたらそれがきっと日常になるのだろう。僕はほんのちょっと先取りしただけなのかもしれない。
12に続く