短編小説7 わたしの育て方が悪かった
さあ、ゲームの始まりです。
どうやったら生き残れるか、それとも生き残れないか。スタートしてからだいぶ経っているが、ここらへんが第一関門、最初の難所、分かれ道のようだ。
ここ一週間高校へ行っていない。授業なんてだいぶ進んで、宿題もいっぱい出ていることだろう。もう今さら行けない。無理だ。
初日は気分が最悪でどうしても行きたくなくて、仮病を使って休んだ。頭痛と吐き気とダルさ。いずれも本人のみが分かる症状だ。熱も測るように母親から言われたが、もちろん熱はなかった。
一日中布団の中で過ごしていると、午前中はまだ眠さがあって眠れたからよかったものの、午後は眠くもなくなって不安ばかりが募った。悶々と学校で今何をやっているのか考えたり、毎日課される小テストを休んだりしたらどうなるのかとか、明日行って宿題の提出を求められたらどうしようかとかそんなことをずっと考え続けていた。
二日目になると、さらに昨日より行きたくない気持ちが募っていた。頭痛が取れないことと、少しまだ気持ちが悪い、それに熱があった。それにはトリックがあって、母親が見ていない隙に指の腹で体温計の先を擦って熱を出すのだ。三十七度くらいはいける。
昼夜違わず、不安しかない。休んだ分の遅れを取り戻すのは容易ではないし、テストも宿題も課題プリントもどんどん溜まっていっている。
三日目。昨日の夜はずっと深夜ラジオを聞いていた。寝たのは明け方の四時半頃で、朝起きると眠くて仕方がなかった。この日もまた頭痛がまだ辛いと訴え、体温計を擦って熱を出した。
週末を挟んで月曜日からは、部屋に閉じこもった。
もう今更行けない。特に心配なのは数学だった。授業もだいぶ進んでしまっているだろうし、そこが分からないと応用的な次の部分が全然分からなくなる。高速で回っているハムスターの回し車のようなものだから、一度下りてしまうと途中から乗り込むのはとても難しい。
母親のヒステリーは凄まじいものだった。部屋のドアを叩いて出てきなさいよ、行きなさいよと喚き散らし、僕は開けられないよう内側からずっとドアを押さえていた。もうどうしようもなかった。嫌なものは嫌と拒絶するしかないし、でもそれでどうするかということまでは考える余裕がなかった。とにかくこの場をやり切れば、どうにかなる。また新しい展開が待っているかもしれないと、未来に希望を託すことだけで僕は日々生き残っていた。
しかし、それはもっと大きな地獄の始まりに過ぎなかった。
大人たちの反応は様々だった。まず怒り出す人。これが最も多い。お前は何を考えてるんだ。バカじゃないか。病気でもないんだから、ちゃんと学校行けよ。アフリカには学校に行きたくても行けない子供もいるんだぞ。ちゃんとしろよ。
理解を示そうとしてくれる人もいなくもなかったが、それはほぼ上辺だけのものだった。僕に色々な質問をして、それをふんふんと全否定するでもなく肯定するでもなく聞いて、持論のようなものを時折喋る。考え方に太平洋ほどの開きがあるために、僕はそれを聞いても納得できない。大人は自分の立場という檻から出られず、個人として在ることはない。僕は立場というものから降りてしまったためにそんなものはなく、どこまでも個人でしかない。
大人は立場から降りられない。ごくまれに降りる人もいるが、そんな人は千人に一人くらいのものだ。立場を考えて守るのが大人、それをできない人はダメ人間。子供でもそう。小学生、中学生、高校生、大学生や専門学校生。その学生であり生徒であるというのが子供の立場で、そこから外れることなどゆるされない。そこから外れた人はダメ人間。こわれた人間。
普通じゃない、普通でいなさい、なんで普通にできないの、普通そんなことしないでしょ。
普通、普通、普通、普通、普通、普通。ふつう、ふつー、ふつぅ、ふっつー。ふつう。
ああぁぁ、普通に生きたい。普通に、普通に、ごく普通に。自分の立場を守って、本分から外れず、まともにちゃんとしたい。でも、それができない、耐えられない。ふつうが。そのふつうが僕にはできなかった。
ドア開けなさい。出てきなさい。顔を見て話をしなさい。
ばんばんばんばんばん!
ばん、どん、ばんばん、どどどん!
バイーン! バイボイーン! バイバイバイーン!
わたしの育て方が悪かった。わたしが間違っていた。わたしが全部悪いんだよぉぉー!
ドア越しに母の金切り声と絶叫が耳に刺さる。それはひどく堪える。僕の胸を押してぐぐぐぐっと痛くさせる。
母はきっと僕に聞かせるために、そんなことを喚いている。それで僕が改心して、あぁ悪かった、明日から学校へ行くよ、となるよう声を限りに叫び続けている。でも、そんなことは起こらない。どんなに母親が喚こうが叫ぼうが、僕はもう学校へ行くつもりはなかった。その声は僕の胸を刺すだけで、殺せはしない。なぜなら、それが僕に聞かせるために発せられたものと気づいているからだ。母が僕の母という立場から降りて何でもない個人にならない限り、僕の芯には響かない。つまり、立場上発せられた単なる台詞でしかないからだ。
僕には父と母と二つ上の姉がいる。
姉には小さいころから酷くいじめられた。言葉の暴言は四六時中で、そんなものはまだ全然マシで、殴る蹴る突き飛ばされる包丁を突き付けられる、といった暴力でいつも半殺しにされていた。もちろん母や父の見ていないところで行われ、たまたま見てしまったとしても、母も父も見て見ぬ振りをした。今ならその理由がよく分かる。立場があるからだ。僕が姉に半殺しにされるのを止めるのは、父や母という立場の役柄に入っていないからだ。
姉の暴力やいじめは、僕が中学に上がった頃にやんだ。なぜなら、体格的に男である僕の方が優勢になってきたからだ。殴り合い蹴り合いになれば勝てないと踏んだのだろう。この時ほど僕が男だったことに感謝したことはない。もし同性同士だったとしたら、この加虐行為はずっと続いただろう。
立場から降りて個人になる。姉はごく自然にそれをやっていた。姉は二つ下に生まれた僕に憎しみしか抱けず、毎日半殺しにした。それは姉という立場にかなった行為ではない。役柄としてやったことではなく、個人的な恨みを晴らしていただけだ。
子供というのは個人が強くて、立場が弱い。年齢を重ねていくにつれて、その関係性が逆転していく。でも中にはそうならない人もいて、そういう人に「大人になれ」と言うのが昭和であり平成という時代だった。ところが、令和になって風向きが変わってきた。日本型やり過ぎ資本主義社会経済の超高速回し車から振り落とされる人が増えてきて、それが徐々に明るみになってきたからだ。日本人はとにかくやり過ぎる。血なのか国民性なのか知らないが、一度そういう方向性ができてしまうと、みんながワーッとそれにならってだんだんエスカレートしていく。この場合、極限まで個人を小さくして立場そのもの、立場の権化、立場マン、立場ウーマンになるというのが「大人」ですよ、「仕事」ですよ、「マナー」ですよ、「普通」ですよ、となった。今でもそう信じている人は大勢いるだろう。お金を稼ぐためにはそうしなければならない、となっているからだ。だってそうだろう、と。
そもそもお金を稼ぐために働いているのだろうか。
あれ? そうだっけ?
お金が目的だったっけ?
生きるために働いてるんじゃなかったっけ?
じゃあ、生きるためにはお金が必要だから働いている。
それはOKだよね。
仕事はお金を稼ぐための手段。
そこもOK?
まとめると、生きるのが目的で、仕事は手段。お金は車でいうとガソリンみたいなもの。
図にするとこうなる。
仕事→→→金
↑《手段》↓
↑ ↓
人➡➡➡➡生存
《目的》
人は仕事で金を得て生存する。
じゃあ、過労死や過労死自殺の場合は?
本来手段だった仕事が目的化してしまって、かといって立場から降りられる状況にもなかったから死んでしまった。
それでは、仕事が目的化することは悪いことなのだろうか。
たとえば僕がこうしてこの原稿を書いているのは、小説という器を通してその小説のテーマを読者と共有することが目的だ。お金を稼ぐことは目的でも重要なことでもなくて、仕事それ自体が目的化している。僕以外にもその仕事自体が目的でしたくてしているという人はたくさんいるだろう。──つまり、個人の意志で行われる分には問題ない。どうせお金を稼ぐのだから仕事それ自体が目的になる仕事をした方がいい。
社会的意義という目的もあるだろう。コロナで注目が集まったエッセンシャル・ワーカーという言葉がある。定義としては、生活の根幹を支える医療や福祉、保育や農業、林業、漁業、行政や物流、小売業やライフラインなどで働く人々のこと。これらの仕事に従事する人たちの中には社会的意義のために働いている人が数多くいるだろう。
だが、そうじゃない人もいる。むしろ、そうじゃない人の方が圧倒的に多いのではないだろうか。純粋にお金を稼ぐために仕事をしている。仕事それ自体が目的ではなくて、生きるのが目的で生きるためにお金を稼がなきゃいけないから仕事をしている。
しかし、仕事は目的化を求める。会社などで集団目的化する。そして極限まで立場マン&ウーマンになることが求められる。個人的には目的ではないのだけど、立場マン&ウーマン上目的ということにしなければならなくなってしまう。
*
結局僕は不登校になった高校を辞めてO市内にあるフリースクールに通うようになり、そこで様々な人と出会った。これは僕の人生においてかなり貴重な体験だったと思う。
いわゆる正規のレールから外れた人々。そこは高校を中退した人たちが集まる学校だったから、みんなどこかに浅からぬ傷を負っていて、世間に対して疎外感と恐れを抱いていた。
即席の友達がたくさんできた。傷を負ったもの同士が身を寄せ合ってお互いの傷を舐め合うから、連帯感と慈愛に満ちた空間になる。それ自体は悪いことでも何でもないのだけれど、作られた空間といった感じは否めない。
分からないのはそこから先にどう進むのかといったことだった。それがただただ恐怖でしかなかった。──お前は普通じゃない、お前は普通じゃない、お前は普通じゃない、と後ろ指を差され続けているようなもので、日なたを歩けないようなそんな後ろめたさがあった。
ほとぼりが冷めれば熱さを忘れるのが人間の常のようで、僕は普通に戻りたいと強く思うようになり、年が明けて春頃になると再入学という形で元居た高校に戻ることになった。
その時の直接の動機は手塚治虫の『きりひと讃歌』という漫画を読んで、医師になりたいと強く思うようになって、元いた高校が進学校だったから医学部に受かるために戻るという単純な図式だった。この図式に勝てる大人はいなかった。誰もが納得して、応援を受けるような形で僕は高校に戻った。
一年遅れで再入学し、そして一年もしないうちに落ちこぼれ、医学部を諦め、東京の大学に行って家とこの関〇という因習と偽善に満ちたプライバシーもデリカシーもない超拡大版村社会のような土地を脱出することが目的に変わった。
そのためには何とかこの進学校というジャングルを生き抜かなければならない。死にもの狂いで挑み、耐え、何度か自殺未遂も図ったが、そんなことをしているうちにありがたいことに時間だけは過ぎ去ってくれた。無事卒業もでき、東京のそこそこ有名な大学にも受かったから周りの人たちも無難に送り出してくれた。
目的さえあれば人間は生きていけると思う。
それがあの頃の僕の場合
家とこの関〇という因習と偽善に満ちたプライバシーもデリカシーもない超拡大版村社会のような土地を脱出すること
だった。脱出場所は東京じゃなくても名古屋でも北海道でも、そこそこ名のある大学がある関〇より東側の日本であればどこでもよかった。
この家と土地に虐げられてきたという深い恨みがあった。
動機は憎しみでも恨みでも憧れでも嫉妬でも何でも構わないと思う。エネルギーであることに違いはないから。
目的がないと人は生きていけない。
石器時代や縄文時代は生きることだけが目的だった。
どうやら人間は進化の意味を間違えてしまったようだ。
[了]