長編小説2 夢落ち 9
「脳活動において、脳波の位相が揃うことをコヒーレンスといいます。コヒーレンスはレム睡眠時には一般にやや低下するのに対して、明晰夢の場合はそうならないことが分かっています。例えるならばレム睡眠時の脳活動は、パーティーですべての客がいっせいに話をしているような状況です。それが明晰夢の場合は、パーティーの客同士が話を交わすので背景の雑音は少なくなるというわけです。明晰夢を自分が思うままに見ることはできませんが、その頻度を高めることは可能です。つまり、その方法とは一日に何度も『自分はいま目覚めているのか』と自らに問い掛けることです。この習慣が深くしみ着いてくると、夢の中でもこの問い掛けをしていることに気づきます。その時点で夢を見ていることを自覚する度合いは急速に高まります。それから現実性の確認の手段として、鏡を覗き込んだり、短い文を繰り返し読むといったことを頻繁に行うよう努めてください。夢においては、我々の姿はしばしば変わって、書かれた言葉を読み取ることは極めて困難です。このような習慣を睡眠時に持ち込んでリアリティーをチェックすれば、自分が現在夢を見ていることに気づくことができます」
菅野はここまでを一気に一息に話した。一言一句が頭に刻み込まれているといった感じで、微塵も詰まったり言い淀んだりしなかった。
「そういう夢を見たからといって、どうなるものでもないだろう」
相手の話に呑み込まれないよう、僕はそう言い返した。だが、どうやらそれは想定された質問だったようだ。
「いえいえ、たとえば悪夢障害に悩む人にとって、自分の夢をコントロールすることを学ぶことが唯一の改善方法であることが分かっています。悪夢の最中に自らの認識性を高めることによって、夢の内容から感情的な距離を置けるようになるからです。明晰夢に十分熟達すれば、恐怖のシナリオを避けるよう夢の内容を自分でコントロールすることすらできるようになります。それから、そういったセラピーへの応用だけでなく、複雑な運動の学習を容易にする効果もあります。というのは、夢では通常ありえないどんな行動もとれます。空も飛べるし、壁を抜けたり、ものを消したりもできる。すなわち、運動選手は走り高跳びなどに必要とされる複雑な運動の手順を適切な明晰夢によって練習すると、より素早く習得できるというわけです」
夢の中で走り高跳びの練習?
石沢がさきほど言っていたことを思い出す。たしか夢だと気づいて、電車に乗って赤羽に行ったと言っていた。
菅野は顔の前で組んでいた手を解き、今度は椅子の背に凭れかかって腕を組んだ。
「とまあ、ここまでがいわゆる現代科学の成果です。世界中に夢の研究をしている学者たちは数多くいて、明晰夢研究所なんていうものまであるんですよ。で、ここからが我々が独自に発展させた理論なわけですが、木崎さん、あなたいま自分が現実のリアルな世界にいると思いますか?」
僕は小さく溜め息を吐いて、菅野に問い掛けられた言葉を頭の中で反芻してみた。ここが現実のリアルな世界かどうか。たしかさっきもそんなことを言っていた。常にチェックせよ、と。その習慣を夢の中でも実行できれば、現在自分が夢を見ていることに気づくことができる。
「信じたくないけど、現実だろう。夢なんかじゃない」
腕組みを解き、菅野はパンと小気味良い音を立てて掌を合わせる。
「正解です。これは夢じゃありません。現実です。少なくともあなたにとっては」
含みのある、腑に落ちない言い草だった。あなたにとっては?
「これをご覧下さい」
そう言って、菅野は膝の上に置いていた新聞を軽く掲げた。そして、それを広げ、「ああ、ここだ」と呟いて紙をひっくり返し、僕の目の前に突きつけた。
「ここにあなたの死亡記事があります。今朝の朝刊です。昨晩あなたの自宅アパートで火事がありました。火はすぐに消し止められたんですが、火元と見られる二〇二号室からは男性の焼死体が見つかりました。遺体はその部屋の住人の木崎護さんと見られ、警察が身元の確認を急いでいる、とまあそんな記事です」
僕はその社会面の隅の方に載っていた小さな記事に顔を近づけ、必死に目で追っていた。だいたい今菅野が言った通りのことが書かれていて、上部の欄外を見ると、七月十五日付けの読売新聞だった。
「……あんたらがやったのか?」
「人聞きの悪いこと言っちゃいけません。私らがそんなことをする理由はありません。つまり、あなたはただ自分で灯油をかぶって自殺をした、単にそれだけのことですよ」
怒りが腹の中で芽生え、すぐにそれは大きく膨らんできた。
「…そんなもの、DNA鑑定でもすりゃすぐにバレる。あんたらの小細工なんか、日本の警察には通用しない」
すると、菅野は声を立てて笑った。
「…ハッハッハ! ああ、じゃあ、それじゃあ訊きますが、木崎さん、あなた奥さんの遺体ご覧になったでしょう。いや、失礼、前の奥さんでしたっけ? あれ、完全に死んでましたよね。それから奥さんの遺体に間違いありませんでしたよね」
ハッと僕は息を呑んだ。さきほどの射精のことを思い出したのだ。
「もちろん、DNA鑑定はしますよ。今日日捜査の基本ですからね。でも、焼死体からはあなたのDNAが検出されますよ。だって、死亡したのはあなた自身なんですから」
言っていることの意味が分からなかった。
僕は死んでいない。こうしてここにいる。後ろ手に縛られ、安物のパイプ椅子に座らされてどこだか分からないところに監禁されてはいるが、少なくとも死んではいない。つまり、生きているはずだった。
「あんた、なに言ってるんだ……」
そう言い返したが、声に力は入らなかった。
「天秤が傾いたんです。我々の方に」
菅野は新聞を床の上に置いた。そして、顔を上げると僕と目を合わせた。
「さっきも言ったでしょう。夢では通常ありえないどんな行動でもとれる、と。空も飛べるし、壁を抜けたり、ものを消したりすることもできる。ですが、それは私ができるわけじゃありません。あなたもそうですし、他の誰にしたってそうです。なぜなら、ここは夢じゃありませんからね。少なくとも我々にとっては」
ヒントが多分に含まれ過ぎているせいで、石沢の言っていたことも考え合わせると、この男が示唆していることが見えてきた。だが、その答えは到底信じ難いものだった。
「……石沢さんの夢の中だって言うのか?」
菅野はニヤリと口の端を歪めた。
「そう! すばらしい! さすが、頭がいいです。仰るとおり、ここは先生の夢の中です。言うなれば、彼が神です。この世界で万能の力を持った唯一の人間」
想像の限界を超えていた。自分が人の夢の登場人物であるなどということは。つまり、石沢が目覚めれば、この僕の存在など胡散霧消してしまうということだろうか。
「我々はそういった人物が現われるのを、ずっと待ち続けていました。各地でセミナーを開き、様々な人に夢落ちの方法を伝え、実際にその壁を越えた人が我々の前に現われるのを待っていた」
脚を組み、菅野はその膝の上に肘を突く。
「あんたらは、どうやってその夢落ちとかいうのの方法を知ったんだ?」
すると菅野は、黙って頷いた。
「ある人から聞きました。ただし、その人の名前をお教えすることはできません。ですが、聞けば誰でも知っている人物です。その人が、この夢の家というコミュニティーを設立したんです」
誰でも知っている人物?
「じゃあ、その人も、いわゆる夢落ちしてきたってことか?」
眉根をピクリと擡げ、菅野は掌をパンと打った。
「すばらしい! ご明察です。だから、彼は本来万能で、不可能なことなど何もないはずだった。しかし、その男は現在死にかかっています。立って歩いたり、まともに腕を上げることすらままならない。それはつまり、本来の彼が、彼の脳が死に瀕しているからと考えられます。まあ寿命でしょうね。あまりにも長く生き過ぎた」
僕はゴクリと唾を呑み込み、話の続きを待った。
「本当の彼は、それこそ何十年も前から病室だか息子の自宅だかに寝たきりの状態でいます。呼吸はしているが、意識はない状態。決して目覚めることのない植物人間。安月給の彼の息子や嫁に、意識のないまま介護をされているはずです」
「石沢さんはそいつの後継者ということか?」
菅野は笑みを洩らし、コクリと頷いた。
「ええ。新しい神を我々は必要としたわけです」
新しい神。いや、だがそうだとすると、矛盾が出てくる。なぜその神であるはずの石沢が、警察に追われていたりするのだ。この男の言うように万能ならば、そんなものどうにでもなるはずだろう。それに、そもそもここが石沢の夢の中というのもこの男が言っているだけであって、決して頭から信じられるものなどではない。
「ですが、先生はまだご自分の力に、つまり夢の操縦法に充分に熟達されているわけではありません。それはしばしばかなり困難なことでもあるからです。そこで、我々の手助けが必要になってくるとそういうわけです」
まるで僕の心を読んだかのように、菅野はそう言葉を続けた。
「あなた自身の経験とも照らし合わせてみてください。たとえそれが、自分が夢を見ていると意識している明晰夢であっても、その夢の内容をコントロールすることなんてできやしなかったでしょう」
確かに。そもそも夢が思い通りになったりした経験自体がない。この男の言う明晰夢はまあ数えるほどだが、何度か見たことはある。それでも大きな波か渦に巻き込まれたように、自分の意思とは無関係に目まぐるしく変わる展開に翻弄され続けただけだ。
「彼には我々の神になっていただきます。しかし、先生は条件を出されました。それが、つまりあなたです」
そう言って、僕の鼻先に指を突きつける。
「あなたをここに連れてくるようにとのことでした。それも半永久的に。よって、我々はあなたに死んでいただく必要があった。この死亡記事で見たように」
「佳奈子のことはどうなんだ? 本当に死んだのか?」
すると菅野は前に身を乗り出し、膝の上で手と手を組み合わせた。
「いや、どうなんでしょうね。実はその件に関して、我々は関知していないんですよ。先生の夢落ちに際して、彼女が重要な役割を果たしたことはおそらく間違いありません。しかし、なぜあのような経緯を辿ったのか、我々にも実際分からないんです」
嘘だ、きっと。さっきは思わせぶりなことを言っておいて、今度は分からないと言う。はぐらかされているのだ。つまり、それは僕が核心を突いたことを意味しているのかもしれない。
そして、菅野は腕時計に目を遣り、勢いよく立ち上がった。それは銀色に輝くロレックスで、時計の針は五時五分を指していた。おそらく午前五時五分と考えられる。
「ああ、もう行かなくては! すっかり遅くなってしまいました。あ、それから覚えておいてください。これは善意ですよ。私の個人的な善意。あなたに説明する義務などなかったんです。ですが、何も分からずに連れてこられてお困りになっているだろうと思って、勝手に私がお節介を焼いただけです」
どう答えていいのか分からなかった。そして、顔を見上げたまま黙っていると、菅野は踵を返し部屋から出て行こうとした。
「俺はどうなるんだ! 教えてくれ!」
後ろ姿に向かって叫んでいた。すると、菅野は首だけ曲げてこちらを振り返り、ニヤリと気味の悪い笑みを洩らした。
「我々が教え、導きます」
歯切れの良い声でそう言い残し、菅野はドアを開けて部屋から出て行った。そしてその後、鍵をかけるガチャッという音が鳴り響いた。
4
あれから丸一日が過ぎ、再び夜が訪れようとしていた。その間、僕は手首を後ろ手で縛られた状態のまま、外に出ようと何度も試みていた。
まずシンプルにドアから廊下へ出ようとして、後ろ向きになってドアをガチャガチャさせてみたが、無駄だった。やはり外から鍵をかけられているようだった。本来部屋の内側、ドアノブの下についているはずの鍵のツマミも見当たらず、そこには鍵穴が空いているだけ。つまり、内側からも鍵がないと開けられない作りになっているようだった。
窓の外も見てみたが、そこからは曇った空と鬱蒼と生い茂る広葉樹の木々しか見えなかった。どうやらかなり深い森か山の中のようで、道路も車も人の姿も一切見当たらなかった。赤茶色の地面には枯れ葉がちらほらと落ちていて、木々の間を飛び回る鳥の姿が時折視界に入ってきた。
見た限りでは、窓は開けようと思えば開けられる。腕を後ろに思い切り引っ張り上げて鍵を開ければ、そのまま開くように見えた。実際に一つ試しに開けてみたが、ギシギシと軋みながらも、普通に窓は開いた。外の空気が清々しく、窓から身を乗り出して下を覗いてみると、やはりこの部屋は二階部分のようだった。そして、左右や上も見渡してみると、この建物が四階建てで、かなり大きな建物であることが分かった。やはり最初思った通り、大学かリハビリ施設のような感じがする。経営難にでも陥って、居抜きで建物ごとこの宗教団体だか結社だかに売り渡したのではないだろうか。
地面までの距離は、五、六メートルといったところ。飛び降りようと思えばできなくもない。ただし、それは身体が完全に自由ならばという条件でだが。だが、実際には後ろ手に縛られていて、真っ直ぐに飛び降りることすら不可能だった。窓枠に右足を掛けることはギリギリ何とかできたが、そこから片脚だけの力で全身を持ち上げ、窓の外にジャンプすることなど不可能だった。よって、頭からか横向きに胴体から飛び降りるしかない。しかし、そんなことをすれば地面に頭を打って死んでしまう。捻挫か骨折は覚悟で足から着地できれば命は安全なのだが、そのためには空中で体勢を変えなければならない。体操選手でもない僕に、そんなことができるとはまず思えない。おそらくそのままの体勢で地面まで落ち続けるだけだろう。おそらく一秒とかからない。〇・五秒くらいで身体を捻らなければいけないのだ。
10へ続く